Chapter.24
タシャの姿が闇に溶けて見えなくなっても、ナマエはしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥に残る熱とざわめきが、なかなか引いてくれない。ようやく踵を返し、酒場へ戻ろうと歩き出した――その足が、すぐに止まった。
アリエルの酒場の軒下に、誰かが立っている。薄暗くて顔は見えないが、こちらを向いている気配だけがはっきりと伝わってきた。
距離はそう遠くない。もしかすると、タシャとのやり取りを見られていたのかもしれない。
数歩近づいた瞬間、その人物の輪郭がはっきりし、ナマエは目を見開いた。
「なんだ、ユーリスか。ただいま。……外で何してるんだ?」
名を呼ばれた少年は、どこか思いつめたような表情をしていた。何気なく問いかけたナマエに対し、ユーリスは視線を逸らし、押し殺した声で答えた。
「別に」
その声音に、ナマエは眉をひそめる。明らかに様子がおかしい。
「……もしかして、見られてた?」
数拍の沈黙。
「――なにを?」
「何をって、ええと……」
タシャとのやり取りを――。
そう言いかけたが、喉が詰まって言葉にならない。そんなナマエを遮るように、ユーリスが冷たく言い捨てた。
「別に何も見てないし、見たくもない」
刺すような声音だった。不機嫌なのは明らかだ。
そういえば酒場を出る前、彼は「用事がある」と言っていた気がする。それを後回しにされたことに怒っているのだろうか。
「ユーリス、そういえばさっき言ってた用事って――」
問い終える前に、少年は身を翻し、酒場の中へ消えていった。
「ユーリス!?」
慌てて追いかけたが、彼はすでに部屋に閉じこもった後だった。
その日は結局、ユーリスが部屋から出てくることはなかった。
不機嫌の理由が分からないまま放置するのは落ち着かず、ナマエはジャッカルにさりげなく探りを入れてみたが――返ってきたのは曖昧な答えばかりだった。
――うーん、そうだなぁ、俺の口からはちょっと言えないなぁ。
え? いやいや、別になーんも深刻なことじゃないぜ。
でも本人がいない前で言うべきことじゃねぇし……。
ま、とりあえず気にするなよ! ほらそこ座って呑め呑め!
気を逸らすように酌をされ、気づけばすっかりジャッカルのペースに巻き込まれていた。
そして――翌朝。
「っ、いって……」
起き上がった瞬間、頭に鋭い痛みが走り、ナマエは呻いた。二日酔い特有の重さが頭蓋の内側で響く。
頭を押さえながら昨日の記憶を辿る。ジャッカルの口のうまさに乗せられ、つい飲みすぎたらしい。
ふらふらになりながらも自力でベッドに倒れ込んだことだけは覚えているが、会話の内容はほとんど記憶にない。
まったく、恐ろしい男だ。もう二度とジャッカルとサシでは飲むまい。そう固く誓いながら、ナマエはよろよろとベッドを抜け出した。
なんとか支度を終えて部屋を出ると、一階から賑やかな声が響いてきた。
ところどころ、ヒステリックな悲鳴まで混じっている。
「……なんだよ! そうだよ悪いかよ!」
「いやいや悪いってことはないけどな。でも驚いたぜ。まさかあのユーリスがなぁ。お兄さんびっくり」
どうやらユーリスが話題の中心らしい。
しかし何の話題なのか、さっぱり分からない。
「ホント意外だよなぁ。まあでも応援するよ。頑張れユーリス!」
「あんたら他人事だと思いやがって……」
階段を下りると、仲間たちはテーブルを囲んで盛り上がっており、ナマエの存在に気づいていない。
その時、セイレンが手にしたナイフをユーリスに向けて突きつけた。
「おいユーリス、もたもたしてっとあの野郎に掻っ攫われちまうぞ! そうなる前に男らしくさっさと一発かましちまえ!」
「ちょっ……!」
物騒な発言に、ユーリスは固まってしまった。
ジャッカルが苦笑する。
「セイレン、それ私情混じってんぞ」
彼らの背後から近づいたナマエが、ぽつりと声をかけた。
「何の話?」
「――ぎゃあっ!!」
ユーリスが椅子を蹴倒して飛び上がった。悲鳴が二日酔いの頭に響き、ナマエは思わず眉をひそめる。
振り返った少年は、顔を真っ赤にさせてはくはくと空気を飲んでいる。挙動不審な様子に首を傾げていると、セイレンが明るく声をかけてきた。
「よおナマエ、おっはよー」
「おはよう。……なんの話をしてたんだ?」
ナマエの問いに、エルザがにこりと笑った。どうやら昨夜は酒場に泊まったらしい。
「別になんでもないよ。ご飯食べる? ほら、こっちの席おいでよ」
促され、ジャッカルとエルザの間の空いた席に腰を下ろす。テーブルには朝から豪勢な料理が並んでいた。
しかし食欲はわいてこず、ぐったりと椅子に背を預けて瞼を覆った。
「どうしたの?」
「二日酔い。あんまり食欲ないかも」
ジャッカルが豪快に笑う。
「あっはっは、ちょいと呑ませすぎちまったかな」
「こっちはちょっとどころじゃないんだけど……」
じろりと睨むと、元凶は悪びれもせず肩をすくめた。
「悪い悪い」
視界の端で、ユーリスが椅子を直して座り直すのが見えた。
アリエルからレモン水をもらって飲み干すと、少しだけ気分が軽くなる。お代わりを頼みながら、ナマエはこの場にいない仲間の所在が気になって尋ねた。
「そういえば、マナミアは?」
「朝早く出て行ったよ。多分また城の書架に篭るんじゃないかな」
エルザの答えに、ふうん、と鼻を鳴らした。
「この頃、忙しそうだな」
ふいにエルザが思い出したように口を開いた。
「そういえば昨日、タシャとどうだった?」
ナマエは危うくレモン水を吹き出すところだった。ごほごほと咳き込み、ようやく呼吸を整えてから答える。
「ど、どうって……別になにもないよ」
まさか昨日の出来事を突っ込まれるとは思わず、不意打ちの質問に動揺した。しかし仲間たちにとっては格好の話題だったらしく、セイレンがすかさず食いついた。
「おいナマエ、おまえほんとにあんな石みてぇに融通きかねぇ堅物がいいわけ? 人の好みには口出さねぇけどよ、あいつだけはやめとけって。マジで苦労するぞ」
「ち、違うってば……!」
ナマエは慌てて否定するが、頬が熱くなるのを止められない。
隣から、エルザがずいと身を乗り出してきた。
「あの花、タシャからの見舞いなんだって? いつの間にそんな仲良くなったんだ?」
「だから仲良くなんてなってない。……もう勘弁してよ」
しつこい追及に、ナマエはとうとう頭を抱えた。
だが仲間たちは容赦なく、「なあなあ」と頭上から声をかけてくる。
見かねたのか、黙っていたジャッカルが口を挟んだ。
「あー、探り入れようとしても無駄だぜ。こいつ、昨日さんざん酔わせて白状させようとしても、あの騎士のことは一言も吐かなかったからな」
「……ジャッカル、あんた確信犯だったの?」
恨めしげに睨むと、ジャッカルは悪びれもせず、あははと笑った。
とはいえ、余計なことを喋っていないと分かり、胸を撫で下ろす。
だが、その安堵はすぐに打ち砕かれた。
「ああでも、一つ気になることは言ってたなぁ」
ジャッカルの呟きに、ぎくり、と体を強張らせる。
「え、何それ」
興味を失いかけていたエルザとセイレンが、再び目を輝かせて身を乗り出す。ナマエは内心で舌打ちしたい気分だった。余計なことを言ってくれた、とジャッカルを恨めしく思いながらも、自分の発言が気になるのも事実だ。
「な、なんて言ってたの?」
ぎこちなく尋ねると、ジャッカルは胡散臭いほど爽やかな笑みを浮かべた。
「うん? はは、覚えてないのか。それはだな――」
と、その瞬間。
「――あーもう、いい加減にしろよ!」
突然の怒声が酒場に響き渡り、二日酔いの頭にダメージを食らったナマエは耳を押さえて硬直した。
声の主をそろりと見ると、ユーリスが立ち上がり、こちらを睨みつけていた。なんだか怒っているようだ。
しかし不機嫌の理由を問うより先に、ナマエには訴えたいことがあった。
「ユ、ユーリス……頭に響くから、もう少し声を――」
「朝っぱらからくだらない話題で盛り上がって、こっちはうんざりなんだよ!」
言いかけた言葉は、再び怒声にかき消された。
隣でジャッカルが「あちゃあ」という顔をしている。
ユーリスは肩を怒らせながら、こちらを見ている。少年の視線はエルザでもなくジャッカルでもなく、自分を捉えていた。
少年の主張にきょとんとしていたナマエは耳を押さえながら、驚いたように瞬いた。彼の怒りの矛先が、自分に向いている事に気づいたのだ。
「……えっ? 私に言ってるのか?」
びっくりしながら尋ねると、ユーリスが冷たい視線を向けてきた。
「君以外に誰がいるのさ。まったく、ちょっとちやほやされたくらいでのぼせ上がって……ほんと見てられないね。みっともない!」
ナマエは眉をひそめた。その言葉には、いつも以上に棘があった。
不穏な空気を感じてか、「おいユーリス」、とジャッカルが咎めるように名前を呼ぶ。
「……みっともない? どうしてそんなことを言うんだ」
静かに問いかけると、ユーリスはさらに激しく腕を振った。
「だってそうだろ!? あんたはタシャといい感じのつもりかもしれないけど、向こうはどうだかね。あいつ、城では貴族令嬢のお相手してたけど?」
その言葉は、まるで意図的に傷つけるために選ばれたようだった。
そんな言い方をする少年ではなかったはずなのに――、一体どうしてしまったのか。
「それは……私も知ってる」
慎重に答えると、ユーリスは嘲るように笑った。
「へえ、知ってたんだ。でもずいぶん余裕だね。そんなに自分に自信があるの? ああ、そういえば君って自信家だったよね。自信家っていうより……自惚れって言うのかもしれないけど」
その瞬間、ナマエの中で何かが静かに切れた。
「もうやめろ、ユーリス」
低く抑えた声に、少年は一瞬だけ怯んだように口を噤む。
「いくら私でも、傷つくことはあるんだぞ」
蒼い瞳をまっすぐに見据えて告げると、ユーリスは弾かれたように視線を逸らし、ぎゅっと瞼を閉じた。
「……君が悪いんだろ!」
なおも責め立てる姿に、ナマエは深く息を吐いた。
このままでは埒が明かないし、これ以上彼に暴言を吐かせたくなかった。
「分かった、私が悪かった。だから心にもないことを言うのはやめろ。あんたには似合わない」
ひゅ、と息を呑む音がした。
顔を上げると、ユーリスの顔は怒りと羞恥で真っ赤に染まり、拳が震えていた。
どうやら地雷を踏んだらしい。
「……ユーリス?」
名を呼んだ瞬間、少年の怒りが爆発した。
「っ、そうやっていつもいつも……! 君の説教を聞くのはうんざりだ!!」
「……っ」
甲高い怒声が響き、ナマエは思わず頭を押さえた。
その隙に、ユーリスは椅子に足を引っ掛けながらも勢いよく酒場を飛び出していった。
「ユーリス!?」
慌てて呼びかけるも、少年の背はすでに扉の向こうへ消えていた。
カラカラと扉のベルが、空しげに鳴っている。
「……ねえ、喧嘩?」
呆気に取られたまま扉を眺めていると、カウンターの奥からこちらを窺っていたアリエルがそっと声をかけてきた。
ジャッカルが振り返り、肩を竦める。
「あー……なんだあれ。どうすりゃいいんだ」
放心から戻ってきたナマエは、途方に暮れて呟いた。ユーリスを怒らせたことは分かる。だが、どうしてあそこまで怒りを買ったのかが分からない。
「放っとけよ、あんなお子さま」
隣のジャッカルが冷静に言い放つ。
意外なほど突き放した言い方にナマエが目を向けると、彼は呆れたように眉をひそめていた。
セイレンも同調する。
「ほんっと、泣いて癇癪起こせば何でも手に入る年でもねぇのにさ。あいつ、まだまだ甘ちゃんだよ」
大人組の意見は、どこまでも冷静だった。
だが、テーブルの反対側にいたエルザが突然立ち上がり、拳を掲げて力説した。
「いや、俺は追いかけるべきだと思う!」
ナマエはきょとんとする。
「追いかけるって……誰が?」
「そりゃ誰って――」
言いかけたエルザの代わりに、セイレンが先ほどユーリスに突きつけていたナイフを、今度はナマエへ向けた。
「……私が? なんで」
「ユーリスがああなったのは、ナマエのせいだよ」
「ええっ!? 身に覚えがない!」
理不尽な言い分に、ナマエは思わず声を上げた。
「ほら、早く行ってやれよ」
セイレンがにやりと笑い、ナイフの切っ先で扉を指す。
「未成年は見守ってやらなきゃ、って前に自分で言ってたじゃねえか。傷ついた少年を放り出すなんて、そんな薄情な真似はしねぇよな? ナマエ」
思わず言葉を失う。そう言われてしまえば、反論の余地がない。
「一体なんなんだよ……」
一拍後、ナマエは悪態をつきながら、ユーリスを追って酒場を後にした。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。きょろきょろと辺りを見回し、少年の姿を探す。
だが、すでに彼が飛び出してから少し時間が経っている。見つけるのは難しいかもしれない――そう思った矢先。
広場のモニュメントの前で、うずくまる小さな背中が目に入った。
よく見ると、脛を押さえて悶絶している。
どうやら酒場を飛び出すときに椅子にぶつけたらしい。こみ上げる笑いを必死に噛み殺しながら、ナマエは駆け寄った。
だが、気配を察したユーリスが振り返り、ぎょっと目を見開くと、慌てて立ち上がり反対方向へ走り出した。
「ユーリス!?」
まさか逃げられるとは思わず、ナマエは慌ててその背を追った。
人通りの多い通りへ飛び込んだユーリスを、ナマエは人々を掻き分けながら追いかける。
人混みのせいで少年は走るのを諦め、早足で人の間を縫うように進んでいた。ナマエは名前を呼び続けながら追いかけ、少し先でユーリスが誰かとぶつかって立ち止まった瞬間を逃さず、一気に距離を詰めた。
「ユーリスっ!」
腕をがっしり掴むと、少年はしまったという顔で振り向いた。
「やっと追いついた」
息を弾ませながら告げると、ユーリスは拘束された腕を振り払おうとする。
「離せよ!」
強い口調に思わず手を離すと、少年はまた踵を返した。
「ユーリス!」
今度こそ逃がすまいと、ナマエはぴったりと後ろにつきながら問いかける。
「ねえ、何怒ってるんだ?」
「ついてくるなってば」
乱暴な言葉で振り払われても、ナマエは引き下がらなかった。
「理由を言ってよ。私の何が気に食わないんだ? 言わなきゃわからないだろ」
銀糸の髪が風になびいて、形の良い耳がちらちらと見え隠れしている。一向にこちらを振り向かない横顔を見つめながら、ナマエは内心の懸念を口にした。
「……もしかして、また気づかないうちに子供扱いしちゃった?」
すると、ぴたりと歩みを止めたユーリスが急にこちらを振り返った。踏み留まれず踏鞴を踏んだナマエの顔をきっと睨みつけながら、少年は半ばやけくそのように喚いた。
「あーもう、ついてこないで! 君なんかあの騎士様とデートでもしてくりゃいいじゃないか!」
「え」
思わず動揺する。やはり昨日のやり取りを見られていたのだろうか。羞恥が一気に込み上げ、頬が熱くなる。
その反応が気に食わなかったのか、ユーリスは顔を歪め、ぱっと身を翻して駆け出した。
「あ、ちょっと待っ……!」
完全に不意をつかれたナマエは慌てて少年を追おうとして、しかし人波に阻まれてそれは叶わなかった。
完全に少年の姿を見失ってしまった。
ナマエは途方に暮れながらも、これで何度目かの路地を曲がった。あれから四半刻ほど、少年の影を追ってルリの街をさ迷っている。
行けども行けども、一向にユーリスの姿が見つからない。
「どこに行ったんだ……」
ため息をついて空を仰ぐ。どうしようか、もう諦めて酒場に戻ろうか。そう思いかけたとき、ふいに路地裏の奥から、複数の動物の鳴き声が聞こえた。
にゃあにゃあと甘えるような声が重なり合っている。不思議に思い覗き込むと、木箱の上で片膝を抱えて蹲る少年の姿があった。投げ出された片方の足元には複数の猫がうろついており、餌をねだるように切なげに鳴いている。
ナマエは無事に目的の人物を見つけられたことに、胸を撫で下ろした。
今度は警戒されないようゆっくりと近づく。ナマエに気づいた一匹の猫が、近寄ってきて彼女の足元へと擦り寄ってきた。ごろごろと喉を鳴らしている。
「猫、かわいいな」
ぽつりと呟くと、ユーリスの肩がぴくりと動いた。だが、蹲ったまま顔を上げない。
どうやらまだ不機嫌なご様子だ。
ナマエは小さくため息をついた。
「なあユーリス、まだ怒ってるのか?」
声をかけると、少年は顔を伏せたまま、ふるふると首を振った。
返ってきた反応が意外だったナマエは、続けて問いかけた。
「騎士って、タシャのこと?」
ユーリスが弾かれたように顔を上げた。その表情には、何を今さら、とでも言いたげな非難めいた色が浮かんでいる。
「ほかに誰がいるのさ?」
「あー……そうだね」
答えなど分かりきっていた。ナマエは肩を竦め、困ったように頬を掻きながら少年を見つめる。
「あんた、タシャのことになると辛口だよな。あいつのこと、嫌いなのか?」
視線が合った瞬間、ユーリスはすぐに逸らした。数拍の沈黙ののち、ぽつりと。
「…………嫌いじゃないけど」
意外な返答だった。語尾の曖昧さが気になったが、嘘をついているようには見えない。
「じゃあ、私のことが嫌いなのか」
「嫌い」
「えっ」
今度は即答だった。
胸に衝撃が走る。
少年の態度が心配からではなく、嫌悪から来ていたのだとしたら――、そんな考えがよぎり、ナマエの声は震えた。
「……そ、そう、なのか」
まさか嫌われていたとは。
ショックで視界が揺らぐ。
「――じゃない」
めまいを堪えていると、ぼそりとした声が落ちてきた。ナマエは慌てて顔を上げる。
今、なんと言った?
嫌い……じゃない?
「は? え、なに? どっち?」
混乱しながら問い返すと、ユーリスは睨むように顔を上げ。
その険しさが、ふっと緩んだ。
「だから、嫌いじゃない」
虚を突かれ、ナマエは目を見開いた。
――嫌いじゃない。
その言葉を理解した瞬間、胸の奥の緊張がほどけ、深い息が漏れた。
「な、なんだよ……ビックリした。紛らわしい言い方するなよ」
本当に、心臓に悪い。
にゃあ、と黒猫が木箱に飛び乗り、ユーリスに体を寄せた。少年はその背を撫で、そっと抱き寄せる。
その仕草には、どこか元気のない影が差していた。
ナマエはゆっくりと近づき、そっと声をかけた。
「隣、座っていい?」
「……好きにすれば」
猫の毛並みに顔を埋めたままの返事。ナマエは肩を竦め、彼の隣に腰を下ろした。
俯いた少年のうなじには、柔らかな銀色の産毛が光っている。
「落ち込んでるのって、私のせいか?」
「落ち込んでない」
何気ない問いかけに、ぴしゃりと打つような冷たい声色が返ってきた。
「ごめん」
また地雷を踏んだか。咄嗟に謝ると、ユーリスがぴくりと肩を震わせ、ゆっくり顔を上げた。
「そうやってすぐ謝るの、やめて」
怒っているような、困っているような、複雑な表情。そして、ぽつりと。
「僕がわがままなのが原因なんだから」
ナマエは戸惑った。どうやら彼は反省しているようだが、どういう心境の変化なのか掴めない。
先ほどまで、少年はナマエに対して腹を立てていたんじゃなかったのだろうか。そもそものきっかけは、ナマエがユーリスの警告を聞かずにふらふらしているから……いや、様子がおかしかったのは、昨日の夜からだ。つまり、タシャとのやりとりを見られてから。
そう気づいた瞬間、ナマエは内心で納得した。他人の色恋沙汰など、見せられて気分のいいものではない。
「あー……でも、他人のそういう……ええと、生々しいところを見せられて、うんざりする気持ちは分かるよ」
ストレートに言うには恥ずかしく、曖昧な言い方になった。
ユーリスが顔をあげ、理解不能だと言いたげに眉を顰める。
「……うんざり? なに急に?」
「違うのか? 昨日の夜の、私とあいつのあれを見て、苛立ってたんじゃないのか」
そういうことか、と漸く理解したように、ユーリスがため息をついて瞼を伏せた。
「違わない。たしかにうんざりだ」
自分から誘導しておいて今更だが、容赦のない一言にうっと言葉に詰まる。
「……今度から気をつけるよ」
ユーリスの前では、タシャと鉢合わせしないようにしよう……と心の中でそう決めた。
黒猫が飽きたようにユーリスの腕からするりと抜け出し、去っていく。少年は引き止めず、去っていくその小さな背をぼんやり眺めている。
ナマエもつられて猫を見ていると、ふいに隣から声が落ちた。
「あいつと付き合うの?」
思わず振り返る。蒼い瞳が、まっすぐにぶつかった。
「……タシャと?」
少年は瞼を伏せて肯定する。
付き合う。
その言葉に、ナマエは戸惑いを覚えた。なぜそんなことを聞くのか。それがありえないことは、彼が一番分かっているはずなのに。
「……それはないよ」
「どうして?」
「どうしてって――」
純粋な問いに、言葉が詰まる。
「あいつ、勘違いしてるんだよ。都合のいいところにたまたま私がいただけで……でも、それは私じゃない誰かでもよかったはずなんだ」
半ば、自分に言い聞かせるように告げた。住む世界が違うことに変わりはない。“付き合う”という言葉自体、まだうまく飲み込めない自分には、とうてい無理な話だ。
ユーリスの肩から、ふっと力が抜けた。
「タシャ、報われないな」
「あいつの趣味が悪いのがいけないんだ」
苦笑まじりの言葉に、ナマエは少しむきになって言い返した。
「だいたい、私はドレスも花も似合わないんだよ。騎士に守られるお姫様役なんか柄じゃない」
「そうだね。君は剣振り回してる方が似合うよ」
あまりに率直な言い様に、ひどいな、とナマエは少し傷ついた表情を浮かべた。
「私は弓の方が得意なんだけど」
「……そう?」
悔し紛れの一言に、ユーリスは微苦笑を浮かべ、木箱から腰を上げた。
「というか、散々“住む世界が違う”って煩かったのは、どこの誰だったっけ」
ナマエが嫌味を込めて呟くと、振り返ったユーリスは小首を傾げ、目線を落とした。
返答に迷っているようなそぶりだった。
ふいに、ぽつりと。
「――タシャとは、もう会わないほうがいいんじゃない?」
「え」
瞠目する。
なぜそんなことを。
問い返す前に、ユーリスはくるりと背を向けた。
「……なんでもない」
「ユーリス?」
「怒鳴って悪かったよ。ひどいことも言って、ごめん。……反省してる」
ちらりと向けられた横顔からは、何も読み取れない。
「うん。……じゃあ、これで色々おあいこな」
ナマエは謝罪を受け入れつつ、少年の横顔を見つめた。
この少年の感情は複雑すぎて、ナマエにはまだよく分からない。
心配性なのか、優しいのか、お節介なのか。それとも、年上のくせに頼りない彼女に苛立っているのか。
だが――ひとつだけ、はっきり分かった。
この少年に嫌われるのだけは、どうしても耐えられない。「嫌い」と言われた瞬間の衝撃は、胸の奥にまだ残っていた。
「そろそろみんなのところに戻らない? きっと心配してる」
そう言って差し出されたナマエの手を見た瞬間、ユーリスは思わず息を呑んだ。
手を繋ごうとしているのか――そんな考えが胸をよぎり、同時に、また子ども扱いかという重たい気分が押し寄せる。
癇癪を起こすわけにはいかない。彼女に“子ども”ではなく、“一人の男”として見てもらいたいのなら、なおさら。
「あ、ごめん。こういうのも嫌なんだっけ」
黙り込んだ彼の戸惑いを察したのか、ナマエは慌てて手を引っ込めた。
二人は路地裏を抜け、人通りの多い通りへと並んで歩き出す。
風に混じって、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた――と思った矢先。ぐぅ、と隣から控えめな音がした。
「あはは……。さすがに少しお腹すいたな」
ナマエは恥ずかしそうに腹を押さえ、照れたように笑った。時刻は昼にほど近い。そういえば、彼女は朝食すら取らずに自分を追いかけてきたのだろう。
彼女の飾らない笑顔に、ユーリスの胸がきゅうと甘く痛む。
――タシャは、この人のこんな顔を見たことがあるのだろうか。
ふと、最初に出会った日のことを思い出す。あの日も彼女は腹を空かせていて、ユーリスが差し出したビスケットを、名残惜しそうに大事に食べていた。
懐かしい。あれからまだそれほど時間は経っていないのに、ずいぶん遠い日のように感じる。
初めて会ったときは、怪しい奴だと警戒して、近づきたくもなかったはずなのに――。
「ねえ」
感傷に沈みかけたところで、ユーリスは思い切って声をかけた。
「どうした?」
「よかったらさ、マルシェでなんか食べてから戻ろうよ。お詫びに僕がおごるよ」
「マルシェ? いいけど……。でもそれなら、私が出すよ。この前さんざんユーリスにたかっちゃったしさ」
その言葉に、ユーリスの胸がちくりと痛んだ。これは、彼にとっては“デート”のつもりの誘いだったのだ。それをそんな風に言われてしまうと、むしろムキにならざるを得ない。
「それはそれ、これはこれだろ」
「でも、続けて年下に財布出させるのは、流石に気が引けるというか……」
ぐちぐちと続く言葉に、ユーリスは思わずため息をついた。
「はぁー……もうグダグダ言ってないで黙ってついてこいよ。好きなだけ奢ってあげるからさ。がめつい君らしく、どんどん僕にたかればいいじゃん」
そう言いながら、先ほど掴み損ねたナマエの手を今度こそしっかりと握り、マルシェの方向へと引っ張っていく。
「ぐっ、ユーリスにがめついって言われるの、なんか心が抉られるな……」
ナマエは苦い顔をしながらも、大人しくついてきた。
――きっと彼女は、“ユーリスのわがままに付き合ってやるか”くらいの気持ちなのだろう。
ユーリスは、彼女に対等に接してほしいのに、どうしても“年下扱い”の壁を越えられない。そのことが悔しくて、胸の奥がじりじりと焼けるようだった。
(せめて、成人していたら……彼女は僕を、もう少し男として意識してくれただろうか)
だが、あいにく成人するのは来年だ。
越えられない壁が、目の前に立ちはだかっている。
彼女が無意識に作った、厚くて、どうあがいても壊せない壁。
――怖くて聞けなかった。
あいつのことが好きなのか、と。
翌日。ついに島がグルグ大陸へ向けて動き始めた。
街を吹き抜ける潮風は昨日よりも強く、通りのあちこちに兵士たちの姿が増えている。城では討伐隊の編成が最終段階に入り、そろそろ傭兵にも召集がかかる頃合いだろう。
とはいえ、呼び出されるまでは手持ち無沙汰だ。ナマエは街をぶらついたのち、ふと思い立って港へ向かった。そこでも兵士たちが慌ただしく動き回っている。
大海原を見渡せる岬の先端に、群青色のコートを風にはためかせながら立つ男がいた。
見覚えのある背中に、ナマエは声をかける。
「将軍」
振り返った男――トリスタは、ナマエを認めると目尻を下げて笑った。
「久しぶりだな。船で話をして以来か?」
「その節はどうも」
軽く頭を下げると、トリスタは豪快に笑った。
どうやら港の視察に来ているらしい。タシャの姿は近くに見当たらない。
ナマエはトリスタの隣に並び、彼が眺めていた景色へ視線を向けた。潮風が強く、崖下では波が岩にぶつかって白く砕けている。
ゆっくりとではあるが、島は確かに動いていた。
れほど巨大な島を動かせる力というものを想像して、すこし恐ろしささえ覚える。
ふと周囲を見渡すと、数十隻の艦隊が島と並走するように進んでいた。優美な船体はルリの艦隊だ。
「ルリの艦隊も一緒に移動してるんだな」
「この島と違って、艦隊は動かさねば置いていかれるからな」
「どうせなら異邦の力で引っ張ってくれればいいのに」
「まあ、それができれば楽ではあるな」
トリスタが苦笑する。
しかし、島の進行速度はゆったりとしている。これが全力なのだろうか。
「それにしても、本当に島ごと動いてるんだ。どれくらいのスピードなんだ?」
「少なくともルリの艦隊よりは遅いな」
その答えに、ナマエは思わず顔をしかめた。
「なにが“大洋を駆ける要塞”だよ。くそ遅いじゃないか」
「ははは、言うな」
随分正直な感想に、トリスタが呵呵と笑う。
だが、島が動くという事実そのものは、やはり驚異的だ。クォークの語った伝承を半信半疑で聞いていたが、こうして目の当たりにすると信じざるを得ない。
――島ひとつ動かす異邦の力。
確かに、凄まじい。
このままグルグの基地まで進み、大砲を打ち込んで基地ごと叩き壊せれば、最小限の被害で勝利できる可能性もある。
だが、グルグ族には空を飛ぶ騎獣がいる。結局は直接戦闘を避けられないかもしれない。
そんな思案に沈んでいたとき、トリスタがふいに口を開いた。
「そういえば、タシャが世話になっているそうじゃないか」
思考が止まった。
「へっ」
ナマエは素っ頓狂な声を上げ、トリスタを見た。
「いや、別に、そんな……」
なぜその話題が出るのか。まさかあの男、師匠に逐一余計なことまで報告しているのか。
うろたえて言葉に詰まっていると、トリスタは顎を撫でながら悪戯げな笑みを浮べた。
「お主が倒れたと聞いた時のあやつの姿は見ものだったぞ。普段なら絶対にやらぬような失態ばかり犯しておったわ」
「……あいつ、私のこと将軍に話したの?」
「ん? いやいや。普段のタシャを見ていれば、すぐに分かることだ」
その言葉に、ナマエはタシャへの疑惑が晴れて安堵した。いくら敬愛する師匠でも、ぺらぺらと何でもかんでも喋るような男ではない。
だが――。
胸の奥に、暗い影が差した。後ろめたさ、と言った方が近いかもしれない。
「あやつはこうと決めたら一直線だからな。お主に迷惑をかけることもあるだろうが――」
「心配じゃないのか」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど暗かった。
トリスタは目を瞬かせる。
「心配? なにがだ」
「だって、大事な弟子を……どこの馬の骨とも知れない女が誑かしてるんだぞ」
ナマエの言葉に、トリスタは目を見開き、次いで難しげに眉を寄せた。
「わしはあやつの親ではないぞ。弟子の私事に口を出す気はない。それに――お主が馬の骨にも見えぬしな」
そこで一度言葉を切り、ナマエを頭からつま先までじっくりと眺める。その瞳に宿る懊悩の影を読み取ったのか、壮年の将軍は苦笑を漏らした。
「なるほど。あやつが苦労するわけだ」
くつくつと喉を鳴らして笑う。どうやら何かを悟ったらしいが、ナマエには理解できず、眉をひそめた。
「ナマエ殿、一つ忠告をやろう」
トリスタは片目をつむり、悪戯っぽく言った。
「忠告?」
「恋愛は人生を豊かにする。しておいて損はない」
忠告というには慈愛に満ちた言葉に、ナマエはしばし言葉を失う。
恋愛は人生を豊かにする?
その響きを心の中で繰り返し、彼女は戸惑いながら瞼を伏せる。
「そう、かな」
トリスタには悪いが、とてもそうは思えない。
「わずらわしいばかりで、損ばかりな気がするけど」
「はっはっは。なるほど、若いな!」
トリスタは豪快に笑った。
トリスタと別れて酒場に戻ると、仲間の姿は一人もなかった。皆、それぞれ思い思いに時間を過ごしているのだろう――そう思うと、胸の奥にほんの少しだけ寂しさが滲んだ。
夜になってようやくマナミアが戻ってきたが、彼女はひどく疲れた様子で、ほとんど言葉も交わさず自室へ引きこもってしまった。
ジャッカルもセイレンもユーリスも帰ってこない。
そのまま夜が明けた。
朝。
部屋の外の気配で目を覚ましたナマエは、寝息を立てるマナミアを起こさぬよう静かに支度を済ませ、部屋を出た。
バルコニーから一階を覗くと、そこには――ぼろぼろになった仲間たちの姿があった。クォークまで揃っている。珍しく全員集合……と思いきや、ユーリスだけが見当たらない。
「お帰り。みんなでどこ行ってたんだ」
一階に降りると、テーブルに突っ伏していたエルザが顔だけ上げて「おはよう」と返した。
「ロッタの依頼で、地下探索だよ」
「依頼? そんなの聞いてないんだけど」
初耳だったナマエは、軽く憤慨する。
「私も体動かしたかったのに、なんで誘ってくれなかったんだ」
「ごめん。だってナマエ、酒場にいなかったし」
エルザが困ったように笑うと、椅子に伸びていたジャッカルが手をだらんと振った。
「いやいやー……来なくて正解だ。もう散々だったぜ」
確かに、全員が疲労困憊の顔をしている。
「そんなに大変だったのか?」
「ああ、うん、まあ。主に、階段が……」
「階段?」
階段の何がそんなに大変なのか。ナマエが首を傾げると、徹夜明けのテンションなのか、セイレンが妙に楽しげに耳打ちしてきた。
「でもよーナマエ、すごかったぜ! 地下にリザードたちのお宝がたんまりと……」
「なんだって!?」
“お宝”の一言に、ナマエは勢いよく食いついた。
しかしすぐにジャッカルが冷や水を浴びせる。
「あるにはあったが、厳重に鍵がかかってて手出しできなかったけどな」
「か、鍵なんてピッキングすればいいのに……」
「一番手先の器用な奴がいなかったからなー。なあ、ナマエ」
ジャッカルの含み笑いに、頭を抱えた。
それにしたって、鍵をこじ開けるという発想はなかったのか。せっかくのお宝を一つも持ち帰らないなんて、なんてもったいない。
ふと横を見ると、傭兵団のリーダーであるクォークが腰を押さえながらテーブルに突っ伏し、うんうん唸っている。正直、少し不気味だ。
「クォーク、大丈夫か?」
「俺ももう、歳か……」
なるほどよく分からないが、いろいろお疲れのようだ。そっとしておこう。
「そういえば、マナミアは?」
尋ねながら、エルザが二階を見上げた。
「まだ寝てるよ。かなり疲れてるみたいだ」
「そっか……じゃあ起こすのは可哀相か」
「……どうしたんだ?」
問い返すと、エルザはナマエを見返し、あ、と思い出したように声を上げた。
「ナマエも治癒魔法使えたよな? ちょっと頼みがあるんだけど」
慌てて階段を駆け上がり、ノックも忘れて男部屋へ飛び込んだ。
ベッドに座っていたユーリスが驚いてこちらに振り返り、突然の侵入者の姿を認めて抗議した。
「ナマエ!? 驚かすなよ、というかノックくらいしろよ!」
少年の右目を覆う眼帯は、今は外れてエンドテーブルの上に置かれている。が、眼帯の下を見ることは叶わなかった。ユーリスが彼女の視界から隠すように、掌で覆っていたからだ。
元気そうな様子にナマエはひとまず安堵し、彼のもとへ歩み寄る。
「ごめん。でもユーリスが怪我したってエルザに聞いたから」
「ああ……エルザも大げさだな。たいしたことないよ」
そう言う割に、二の腕には包帯が巻かれ、随分と血が滲んでいる。
「マナミアはまだ寝てるから、とりあえず私でできるところまで治療する。そのあと彼女に診てもらえ」
「別にいいよ、平気だし。……っ!」
言い終える前に、傷が痛んだのか、ユーリスは顔を歪めて悶絶した。
「ほら、痛むんじゃないか。早く腕を出せ」
だが少年は頑なに、怪我をした方の手で顔半分を覆ったまま動こうとしない。ナマエはため息をついた。
「それともマナミアの方がいいんなら、起こしてくるけど」
「い、いいよ! 君でいい!」
「私“で”? ……ふーん?」
その慌てぶりに、ナマエは察した。
――マナミアには恰好悪いところを見られたくないのだろう。
まったく、そんなに慌てて引き止めるくらいなら、さっさと治療を受ければいいものを。
それでもユーリスは、怪我をした腕を差し出さない。眼帯の下を見られたくないのか、それとも痛みで押さえているのか。
焦れたナマエは、ついに手を伸ばした。
「というか、さっきから目を押さえてどうしたんだ。目の奥でも痛むのか? 見せてみろ」
ユーリスはぎょっとして、慌ててナマエの魔の手から逃れようとした。
「わ、やめろってば! ちょっと待って、これは気持ち悪いから見ないほうが――わっ!」
「えっ……」
無理やり暴いた眼帯の下の秘密に、ナマエは息を呑んだ。そこにあったのは、想像とはまるで違う“異物”だった。
「ユーリス……。どうしたんだ、これ」
茫然と呟きながら、ナマエは少年の顎を掴んでぐいと持ち上げる。
無理な角度まで首を上げられ、少年が抗議の声を上げる。
「いててっ、ちょっと首痛いんだけど!」
はっと我に返ったナマエは、「悪い」と短く謝って手を離した。
――少年の右目には、瞳の代わりに、模様の入った黒く不気味な石が嵌め込まれていた。
ナマエの動揺を察したのか、ユーリスは顔を伏せ、どこか自嘲めいた笑みを浮かべた。
「だから止めたのに。……気持ち悪いだろ」
その言葉に、ナマエは胸の奥がきゅっと痛んだ。もしかして自分は少年の隠しておきたかった秘密を、最悪の形で暴いてしまったのかもしれない。
「……私こそ悪い。無神経だった」
「別にいいよ」
乾いた声に顔を上げる。ユーリスは不自由な腕で眼帯をつけ直そうとするが、うまくいかずに指先がもつれている。
「手伝うよ」
ナマエは慌てて手を伸ばし、眼帯の紐を結び直してやった。
「それにしても……義眼か何か? にしては、あまり出来が良くないような」
無神経な問いだと分かっていたが、もう秘密は知ってしまったのだ。遠慮して触れない方が、かえって不自然に思えた。
少しの沈黙のあと、ユーリスがぽつりと答えた。
「……グルグの太陽石だよ」
そして語られたのは、あまりに過酷な過去だった。
幼くして天涯孤独となり、生きるために魔導師の人体実験に身を差し出したこと。
魔石を埋め込まれたことで、今の強大な魔力を得たこと。
初めて出会った時、彼から原始の炎のような力を感じた理由が、ようやく腑に落ちた。
「魔力を補うため? ……わざわざ目にはめ込まなきゃいけないのか。身につけるだけじゃダメなのか」
ユーリスは首を横に振る。
「体に取り込んだ方が、何倍も強くなるからね」
ナマエは眼帯の下に隠されたものを思い、胸が締めつけられた。本来なら、そこには蒼い瞳が輝いていたはずなのに。
「もったいない。……綺麗な瞳なのに。わざわざ取り出したのか」
ふん、とユーリスは鼻を鳴らす。
「綺麗なんて言われても嬉しくないね」
「どうして? あ、綺麗より“カッコいい”って言われた方が嬉しいってこと?」
からかうつもりはなかったが、少年はむっとしたように顔をしかめた。
ナマエは苦笑しつつ、眼帯の上からそっと目元に触れた。拒絶はなかった。
「……痛かったか」
自分でも驚くほど、優しい声が出た。
「別に。もう忘れた」
視線を逸らして答えるその態度が、強がりだということくらい、ナマエには分かる。
「そうか」
微笑みながら、彼の横顔を見つめた。
――親を早くに亡くし、独りで生きてきた子供。
生きるために瞳すら差し出した。
それでも、優しさを失っていない。
守りたい、と強く思った。
この少年が傷つく姿は、もう見たくない。
「――ユーリスは」
頬に触れていた手を離し、ナマエは本来の目的である治療に戻りながら尋ねた。
「父親が行方不明になってなかったら、故郷で戦士になってたのかな」
淡い光がふわりと弾ける。
ナマエの治癒魔法はマナミアほど強くないため、何度も重ねて掛ける必要があった。
「そうだろうね、多分。……どうして?」
「いや、立派な戦士になってたんだろうなって」
もしもの話に意味はない。
それでも、想像せずにはいられなかった。
両親が生きていたら、彼は傭兵になることも、瞳を犠牲にすることもなかったはずだ。
「ナマエってさ――」
不意にユーリスが口を開く。
「脳筋っぽいから、やっぱり好みのタイプもそういう……鍛えてる奴が好きだったりするの?」
……誰が脳筋だって? ナマエは思わず治療の手を止め、不名誉な評価に抗議した。
「ちょっと待て。今、聞き捨てならないことを聞いたような……。私はこう見えて意外と慎重派なんだぞ?」
「いやそうじゃなくて。異性の好みの話だよ。あと君は明らかに脳筋だろ。しれっと嘘つくなよ」
「辛辣……。じゃなくて、い、異性の好み? 私の?」
「そう。恋愛的な意味で」
「なんで急にそんな話……」
「いいじゃん、暇つぶし。治療終わるまでの間くらい、ちょっとくらい話してくれてもいいでしょ? 適当でいいから、好みのタイプ教えてよ」
ナマエは困惑した。
記憶がない自分に、そんなものが分かるはずもない。
「適当って言われても……考えたことないし、よく分かんないよ」
「なんかあるだろ。頭のいい人が好きとか、顔のタイプとか」
唸りながら考え、ようやく口を開いた。
「んー……。あえて言うなら――私より頑丈で、殺しても死ななさそうな……隣にいると安心できる人、かな」
「……」
しばらく沈黙が落ちたあと、か細い声が返ってきた。
「なにそれ……。いつ死ぬかなんて、神様にだって分かんないだろ」
眼帯に触れながら呟く。
「だね」
ナマエも苦笑して同意した。
ユーリスはそのまま黙り込み、俯いた。
治療を続けながら、先ほどの意趣返しとばかりに今度はナマエが切り返す。
「じゃあさ……今度は私が聞く番。ユーリスって、好きな子いる?」
「へっ!? ぼ、ぼくの……す、好きな子!? なんだい藪から棒に……!」
少年は飛び上がらんばかりに狼狽し、ナマエは半目でため息をついた。
「何言ってんだ、ユーリスから始めたんだろ。恋バナ。……その慌てっぷり、つまりいるんだな? 好きな子。もしかして傭兵団の中にいるのか?」
にやにやと追及すると、ユーリスの顔はみるみる赤くなる。
ナマエは確信した。
――少年の意中の人はきっと、さっき治療を拒んだ相手。つまりマナミアだ。
「んがっ!? ち、ちがっ……! い、いや、仮にいたとしても、き、君に関係ある?」
「ないけど、気にはなる」
追い詰められたユーリスは、うぐ、と声を詰まらせた。
ナマエは容赦なく続ける。
「で、もしかしてそれって……」
「う」
「――マナミア、だったりする?」
その瞬間、ユーリスの動きがぴたりと止まった。
「……はぁ〜っ」
深々と吐き出された特大のため息。
「残念、不正解」
投げやりな声だった。
「え、違うの? じゃあ誰? 私も知ってる子? 城で出会った子とか?」
「ハッ! 君に教えるわけないだろ」
「そんなこと言わないでさ、ヒントだけでも!」
ナマエが身を乗り出すと、ユーリスはしばし視線を落として考え込むような素振りを見せ――、ふいに、まっすぐナマエを見つめた。
その真剣な眼差しに、ナマエは思わずたじろぐ。
「……な、なんだよ」
呟いた瞬間、ユーリスはふっと視線を逸らした。
「君が……知っている人とも言えるし、知らないとも言える」
「それどっちだよ」
「さあ。……秘密」
――秘密、ねえ。
むっつりと横を向く少年の表情を見ながら、ナマエは胸の奥に、説明のつかないざわめきを覚えた。
2026/1/31改稿