Chapter.23




 島が動き出してから、数日が過ぎた。
 外界へ向けて巨大な大地がゆっくりと進んでいるというのに、島の上は驚くほど平穏だった。

 傭兵団の仲間たちは、それぞれの時間を思い思いに過ごしている。
 クォークは相変わらず伯爵のもとへ出入りし、エルザはいつの間にかトリスタ将軍に弟子入りして、城の『試練の塔』に籠もりきりだという。
 セイレンとジャッカルは闘技場に通い詰め――もっとも、ジャッカルは半ば巻き込まれただけのようだが――マナミアは城の図書室に入り浸り、ユーリスも日中はそこで魔導師見習いの子どもたちと過ごすことが多いらしい。
 ナマエはといえば、セイレンに誘われて闘技場で小遣い稼ぎをしつつ、街に出ては市民からの細々とした依頼を受けていた。失せ物探し、ならず者の追い払い、荷物の配達、さらには不義密通の証拠押さえまで――内容は実に多岐にわたる。
 最初は軽い気持ちで受けていたが、話を聞くほど依頼は転がるように増えていき、気づけば毎日が慌ただしい。
 対価はきちんと受け取っているものの、少し安請け合いしすぎたかもしれないと、ナマエは夕焼けに染まる街を急ぎながら反省した。向かう先は、アリエルの酒場だ。
 ちなみに数日前にクォークから「城にも寝床が用意できた」と知らせがあったものの、どうやら兵士と同じ雑魚寝部屋らしく、誰も利用していない。食事も寝床も、アリエルの酒場の方がよほど快適だ。わざわざ城に戻る理由はない。



「お帰りなさい!」
 酒場の扉を開けると、テーブルの準備をしていたアリエルが明るく声をかけてきた。まだ客入りが少ないようだが、陽が落ちてからが本番の酒場はこの後徐々に混み合うのだろう。
 テーブルに灯りを用意し終えたアリエルは、エプロンで手を拭きながら、ポケットに差し込んであった封筒を引き抜いてナマエに差し出した。
「はい。ナマエ宛てに手紙、預かってたわよ」
「また手紙? 誰から?」
 面を食らいながらそれを受け取る。繊細な装飾の施された封筒は、それだけでも値が張りそうだ。裏を見ると、力強く、それでいて流麗な筆致の文字が踊っている。
「タシャって人からよ。ね、この前来てた騎士様でしょ? あの人素敵ね!」
「え? うん……まあ」
 アリエルの言葉に、ナマエは曖昧に頷いた。背中に嫌な汗が伝った。
 確かに素敵といえば素敵だろう。それはもう、完璧すぎるほどに。
 だが、彼は一つだけ致命的な勘違いをしている。ナマエは字が読めないのだ。
 もちろんそれを責めることなどできない。その事実をタシャに黙っているナマエに非があるのは、明白だ。
 手紙は先日の花に添えられたメッセージと比べ、随分厚みがある。この前のように、たった数行、とはいかない厚さだろう。
 思わず苦い顔になる。読まないという選択肢も頭をよぎったが、そんな勇気はなかった。
 ェラがその手紙の内容を知るには、目の前の人の手助けが必要だった。またアリエルの手間を増やしてしまうことに内心申し訳なく思いながら、遠慮気に口を開いた、が。
「アリエル、悪いけど――」
「あら、お客さんだわ。いらっしゃい!」
 からん、とベルが鳴り、酒とアリエルの料理目当ての男達がどやどやと踏み込んできて、一気に酒場が賑やかになった。アリエルはすっかり客の対応に追われ、ナマエは声をかける機会を失ってしまった。

 ナマエは仕方なしに、カウンターに腰を下ろして例の手紙をしてみた。とはいえそんなことをしても中身が透けて見えるわけではない。そんなナマエの様子を、カウンターの奥から酒場の店主がおかしげに眺めていたが、彼女は全く気づかない。
 暫し後、恐る恐る封を開けて、中を覗き込んだ。二枚綴りの上質な紙に、隙間なく整然と並ぶ文字。書き手の性格がそのまま表れているようだった。
 指で文字の形をなぞってみる。上から下までじっくり見つめてみても、何が書かれているか、悲しいかなさっぱり分からなかった。
 深いため息が漏れ、ナマエはカウンターに突っ伏した。
 改めて立場の違いというものを否が応にも思い出された。自分は記憶喪失で正体不明の人間だ。彼にとって自分の存在は、リスクがありすぎる。それに文字すら読めない人間が、あの完璧な騎士の隣に立ってものか。いいはずがない。


ナマエ? どうしたの、突っ伏して。お腹空いたなら何か持ってくるけど」
 アリエルが両手に空のジョッキを抱えたまま声をかけてきた。
「あ、いや」
 気を遣わせてしまったらしい。慌てて顔を上げ、なんでもないと伝えようとしたその時。
「あ! そうだ、思い出した。あなたに渡したいものがあったの!」
 アリエルはジョッキをカウンター奥の流し台に置くと、ぱたぱたと二階へ駆け上がっていった。
「アリエル?」
 戻ってきた彼女の手には、一冊の薄い本があった。
「はい、これ!」
 満面の笑みで差し出され、ナマエは戸惑いながら受け取った。
「……なに?」
 革の装丁に可憐な花の模様。表紙をめくると、やけに大きな文字が並んでいた。
「それね、私が昔、文字を勉強してた時に使ったものなの。あなたの相手の人って、身分ある人なんでしょう? だったら字くらい自分で書けなきゃ!」
 ナマエは弾かれるように顔を上げ、しばし言葉を失った。
 アリエルの明るい言葉の端に、優しい気遣いが垣間見えた。要するに彼女のこの唐突なプレゼントは、まったくの善意からだった。
 だが、それを素直に受け取るには、今のナマエには少し重かった。
「……でも」
 ためらうナマエに、アリエルはさらに明るく笑った。
「難しくないわよ! コツさえ掴めば簡単。大丈夫、誰だって最初はできないものよ」
 励まされてしまえば、「余計なお世話だ」と突き返すことなどできない。
「けどアリエル……」
「アリエル! 上でお客が呼んでるぞ!」
 言いかけた言葉は、酔客の騒ぎ声と店主の言葉によって遮られた。アリエルが飛びあがるように、声を上げた。
「はーい、今行くわ!」
 飛び出しかけた彼女は、言い忘れたと振り返り、慌てて付け加えた。
「とにかくその本、あなたにあげるから。役に立ててくれたら嬉しいわ。あ、手紙も後で読んであげるから、もうちょっと店が落ち着くまで待っててね」
「あ、」
 ――とは言ってくれたものの。その後もアリエルは客の相手に追われ、さらに帰ってきたセイレンとマナミアがいつものごとく暴走したため、ようやく店が落ち着く頃には手紙のことなどすっかり彼女の頭の中から忘れ去られていたのだった。


 
 翌朝。
 朝食を終えたナマエは、カウンター席に腰を下ろしたまま、昨日アリエルから渡された薄い本を手に持て余していた。ページをぱらぱらと捲ってみるが、内容などさっぱり分からない。「役に立ててね」とは言われたものの、教えてくれる人がいなければ、無用の長物以外の何物でもない。
 結局昨日は、疲れ切ったアリエルに手紙の件を切り出せず、封筒は手荷物の底にしまったままだ。仲間の誰かに読んでもらうという手もあったが、例によってまたからかわれる羽目になるだろうから、その手はなるべく選びたくなかった。
 ……タシャには悪いが、このまま“届かなかったこと”にしてしまおうか。
 それとも、いっそ字が読めないと正直に言うべきか。
 手荷物からそっと手紙を取り出し、意味の分からない文字の羅列を指でなぞる。深いため息が漏れた。
 きっとタシャなら、字が読めないことを馬鹿にしたりはしないだろう。事実を告げれば、あっさり受け入れて終わるはずだ。
 ――それでも、なんとなく。
 胸の奥に、言葉にできない抵抗感があった。


「それ、本? 珍しいね」
 不意に背後から声がして、ナマエはびくりと肩を震わせた。反射的に手紙を手荷物へ押し込み、慌てて振り返る。
「ユーリス」
 眼帯の少年は、今朝は遅めの起床らしい。ナマエは平静を装いながら、彼が自分の挙動に不審を抱いていないか、目線で探った。
 ユーリスは欠伸を噛み殺しながら「おはよう」と言い、特に何も気づいた様子もない。ちなみに先日の腕の怪我も、マナミアの治癒で完全に治っているようだ。
「おはよう。今日はゆっくりなんだな」
「ちょっとね」
 気だるげに答えた少年は、ナマエの隣に腰を下ろし、カウンターに置いてあった本を興味深げに眺めた。
「子供向けの童話だね。これ、どうしたの?」
「アリエルに……貰ったというか、押し付けられたというか」
 ナマエの言葉にユーリスは、ふうん、と鼻を鳴らして、おもむろに本を手に取り、パラパラとページを捲る。
「懐かしいな。僕も昔読んだことあるよ」
「どういう内容なんだ?」
 問いかけると、ユーリスは一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに納得したように頷いた。
「ああ、そっか。君は文字が読めないんだっけ。……これはね、人魚のお姫様と人間の王子の、報われない恋の話だよ。人魚は王子に恋して、魔女に人間にしてもらうんだけど、代わりに声を失うんだ。でも結局、想いを伝えられないまま、魔女の呪いで泡になって消える」
「泡に?」
 ナマエの体がぎくりと強張った。理由は分からない。ただ、胸の奥にざわりとした不快な緊張が走った。
「じゃあその人魚のお姫様は、結局なんのために人間になったんだ?」
 情緒を理解しない人間による、野暮な質問だとは分かっていた。が、さっきのざわめきを振り払いたくて、つい口を挟んでしまう。
「さあ、作者に聞いてよ。……まあ、もう墓の中だけど」
 尤も、作者はもうとっくに墓の中だけど。ユーリスはさして馬鹿にする様子は見せず、ナマエの質問を淡々と受け流した。
 が、納得しきれない彼女は、さらに食いつく。
「異種間の恋愛は無理だって伝えたかったとか?」
「さあ」
「それとも高望みせず、手の届く範囲で満足しとけってこと?」
「いや、それも違うと思うけど。……っていうかナマエ、これ子供向けだからね。そんな深読みする話じゃないよ。まあ、解釈は人それぞれだけど」
 流石に呆れたように言われ、ナマエは口を噤んだ。


 カウンターに戻された本の表紙を指でなぞりながら、ぽつりと呟く。
「文字が読めないのが……残念だ」
「――じゃあ、覚えれば? この本くらいなら、勉強を始めるのにちょうどいいと思うし」
 隣からの提案に、ナマエはうんざりしたように顔を上げた。
「……覚えろって、簡単に言うけどさ」
「でも、ずっとここで暮らすなら、覚えた方がいいんじゃない?」
 その言葉に、ナマエははっと目を見開いた。
 その考え方には、ナマエだけでは絶対に到らなかっただろう。至ってシンプルで、かつ単純明快な動機付けだった。そうだ、生きていくためには読み書きが出来た方が、断然良いに決まっている。ただ特定の人物の手紙を読むためだけのものでもない。
 が、そうは言っても。
「……でも、勉強は苦手なんだよなぁ」
 思わず漏れた愚痴に、ユーリスがくすりと笑う。
「じゃあ、特別に僕が教えてあげる」
 少年の言葉に、ぱちりと瞬く。
「ユーリスが?」
 これ以上ない破格の提案に、ナマエは暫し戸惑った。
「いいのか?」
「もちろん」
 自信満々に頷く少年に、ナマエは思わず微笑んだ。
「――お手柔らかに頼むよ、先生」


 ……とは言ったものの、実際は“お手柔らか”とは程遠かった。
 ユーリスの指導は的確で分かりやすいが、容赦がない。だが、彼が優秀な教師であることは疑いようがなかった。
 その日のうちに、ナマエはアリエルから貰った本を読み終えてしまったのだから。
 この調子なら、自分で文字を書けるようになる日も、そう遠くないかもしれない。



 そして――タシャからの手紙は相変わらず読まれないまま、さらに数日が過ぎた。
 その日の午後、傭兵団に召集がかかり、一行は城へ向かった。
 配属部隊が正式に決まったらしく、各部隊ごとに集められ、部隊長との顔合わせが行われる。編制はトリスタを総大将とし、伯爵も最終的には彼の意向を尊重したようだ。
 傭兵団の仲間たちはそれぞれ別々の部隊に組み込まれ、ナマエはジャッカル、ユーリスと共に最前線部隊へ。エルザとセイレンは中軍、マナミアとクォークは後方支援部隊に配属された。

 顔合わせが終わり、解散となったあと、ナマエはアリエルの酒場へ戻ろうと、城内の静かな回廊を一人歩いていた。人影はなく、石畳に響く自分の足音だけがやけに大きい。
 角を曲がろうとした時だった。
「待て、ナマエ
 不意に声が掛かると同時に、後ろから腕を掴まれ、強く引き寄せられた。
「なっ――」
 完全な不意打ちだった。何者かによる狼藉に慌ててナマエが抵抗しようとするも、相手も腕が立つらしく、敢えなく彼女は壁際に追い詰められて曲者の両腕に閉じ込められた。
 顔を上げ、相手の正体を見た瞬間、ナマエは息を呑んだ。
「タシャ!? どう――」
「教えてくれ。私の想いは迷惑だったのか?」
 曲者――タシャは、ナマエの言葉を遮って、責めるような口調で性急に告げた。あまりに唐突な展開に、ナマエの思考は一瞬で凍りつく。開口一番の言葉の意味が理解できず、口がうまく動かない。
「な、なんだよ急に……どうし――」
 言い終える前に、タシャの鋭い眼光に射抜かれ、言葉が喉で止まった。
「憎からず……お前も私を好ましく思ってくれていると、そう信じていた。だが――それは私の愚かな思い込みだったのか? 答えてくれ、ナマエ。お前の口から聞きたい」
 眉間に深い皺を刻み、タシャは苛立ちを隠そうともしない。なぜ彼がここまで怒っているのか、ナマエにはまったく心当たりがなかった。
「いや、その前に……一体何の話? なんで怒ってるんだ?」
 純粋な疑問をぶつけたつもりだった。
「何故、だと――?」
 その一言が、タシャの怒りに火を注いだらしい。彼は荒く息を吐き、壁際のナマエのすぐ横で拳を握りしめる。革手袋が軋む音がやけに大きく響いて、ナマエは内心息を呑んだ。本気で怒っているようだ。

 タシャはしばらく目を伏せ、呼吸を整えるように沈黙した。
 その沈黙が、逆に恐ろしい。
「……ナマエ
 低く抑えた声で名を呼ばれ、ナマエはびくりと肩を震わせた。
「な、なに……?」
「……手紙は届いたか?」
 今度は理解できる質問だった。だが、タシャの瞳は静かでありながら、どこか底知れない光を宿している。
「て、手紙? ああ……うん、届いてたけど……」
 そこで、ようやく気づく。
 もしかしてタシャが怒っている理由は、手紙の内容のことなのだろうか。
「あ、その……ごめん。まだ読めてなくて。もしかして、手紙のこと? 返事が必要な内容だった……?」
 しどろもどろに告げると、タシャは目を見開いた。

 しばし黙した後、ふっと急に肩から力が抜けたようだった。
「――いや」
 脱力したように首を振る。
「……そうか。なら、いい」
 安堵とも落胆ともつかない声だった。
「だが、……手紙を読む暇もないほど、忙しかったのか?」
 ぎくり、とナマエの胸が跳ねた。
 ――そうだ、と言ってしまえば楽だった。
 だが。
「……そうじゃない、けど」
「では、なぜだ」
 畳み掛けるように問われ、ぐっと言葉に詰まる。
 今こそ真実を告げるべきだと分かっている。“文字が読めない”――ただそれだけのこと。
 簡単に言えると思っていた。だが、口は重く閉ざされ、どうしても開かない。自分でも驚くほど、心が強張っていた。
「なぜ黙っている」
 タシャが訝しげに眉を寄せる。
 ナマエは唇を噛み、ようやく絞り出した。
「……文字が、読めないんだ」
 消え入りそうな声だった。
「――それは」
 タシャは一瞬、言葉を失った。
 その反応が、ナマエの胸に鋭く突き刺さる。彼の瞳に映る自分の顔が、怯えで歪んでいるのが分かった。
 次に彼が見せる表情は……侮蔑か、失望か。それを想像しただけで、逃げ出したい衝動に駆られた。
(もう、イヤだ)
 そして、心底うんざりした。どうしてこんな思いをしなければならないのか。どうして、こんなふうに追い詰められなければならないのか。
 ――全部、この男がナマエに執着するからいけないのだ。
 
「すまない……。そこに思い至らなかったのは、完全に私の落ち度だ。ならば、改めて――」
 タシャが言葉を続けようとした瞬間、ナマエは視線を逸らしたまま、食い気味に遮った。
「タシャ、やっぱり……こんなの、もうやめよう。私じゃ、あんたに釣り合わない。あんたの隣に似合うのは、あの貴族のお嬢様みたいな人だよ」
 だから――と続けようとするより早く、タシャの声が遮った。
「知って……いたのか!? いや、違うんだ。あれはただ、ルリ騎士団の大隊長に頼まれて、彼の姪をエスコートしただけだ。誓って、やましいことなど何もない!」
 口調に焦りが見えた。タシャは必死に言葉を重ねる。
「だがそれを知りながら、なぜ黙っていた? ……まさか、この前会いに行った時に様子がおかしかったのは、そのせいか?」
 訝しむような声音に、ナマエの肩がびくりと跳ねた。その反応だけで、タシャは確信したらしい。
「……なぜ、あの時に聞いてくれなかった? 聞いてくれれば、正直に答えた」
「なんで、わざわざ聞かなきゃいけないんだよ」
 素っ気ない返しに、タシャがぐっと歯噛みする。
「誤解されたままでは困る。説明くらいさせてくれ。……私を、卑怯者にしないでほしい」
「誤解も何も……あんたにも都合があることくらい分かってるよ。それをいちいち説明されても、こっちが困る」
 冷たく言い捨てると、タシャは一瞬言葉を失ったようだった。
「それはつまり……私が、誰と何をしようと……気にならない、ということか?」
 静かに、しかし逃がさぬように問われる。
 今度はナマエが言葉に詰まる番だった。気にならないわけがない。だが、それを素直に言えるほど強くもなかった。
「……別に」
「それは本心か?」
「しつこいな。そんなのどうだっていいだろ。私が気にしたって、一体何になる……っ」
 言葉が途切れた。
 タシャが目を逸らし続ける彼女の顎に指を添え、強引に顔をこちらへ向けさせたからだ。
「はぐらかさないでくれ」
 切れ目の涼やかな若草色の瞳が、至近距離でナマエを射抜く。
 その瞳の中に、ナマエはいた。己の奥底の感情を暴こうとする狼藉者に、すっかりおびえて縮こまっている。そんな自分を認めるのが嫌で、彼女は目線を逸らした。
 だが、タシャは許さない。
「私の目を見ろ、ナマエ
 執念深い追及に、とうとう彼女は耐えきれなくなった。顎に触れる手を振り払い、首を振る。
「やめてくれ。……お貴族様の恋愛ごっこはごめんだ」
「ごっこ? 私は最初から本気だ」
 タシャの声がわずかに荒れる。言い逃れは許さないとばかりにどこか怒ったような声色に、思わず動揺した。
「っ……なおさら悪い」
 ひゅ、とタシャが息を呑む。
 次の瞬間、拳が壁に叩きつけられ、乾いた音が響いた。
「――いい加減にしてくれ……っ。これ以上焦らされるのは、もう耐えられない。私のことをなんとも思っていないなら、思わせぶりな態度を取らず……はっきり迷惑だと言ってくれ!」
 それは怒鳴り声ではなく、今にも溢れそうな激情を必死に押しとどめるような、震えを帯びた声だった。抑えきれない想いが滲み出るその気迫に、ナマエの体がびくりと震える。
 口より先に、体が動いた。
 どん、と咄嗟に突き出した両手で、男の体を覆う硬質な鎧を押し返す。
 だが、びくともしない。
 ――これが、男女の体格の差か。
 思わず顔を伏せると、額が冷たい鎧に触れた。おかしくもないのに、ふっと笑いが漏れる。
「……ナマエ?」
 訝しむ声に、ナマエは顔を上げた。
 そして、目の前の男を睨みつけ、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出した。
「――なんとも思ってなかったら! こんなに悩まずに済んだんだよ!」
 それは、心の底からの叫びだった。
 タシャが呆気に取られる。“なんとも思っていなければ悩まない”――つまり、それは。

「……なんて愚かな人だ。そんなことを言われて、平静でいられると思うか?」
 呆れと甘さが混じった声が、耳をくすぐる。
 両頬を包むように手が添えられ、顔がさらに近づく。まつげの一本一本が見える距離。ナマエは瞠目した。
「っ、タシャ……」
 名を口にした瞬間、互いの吐息が混ざった。


 触れて、離れて、触れて。恐る恐るといったように、その動作を何度か繰り返し、そして深く触れてきた。
 タシャの唇は乾いて冷たかった。反対に、口の中は熱い。
 口の中の熱が唇に触れると、ナマエは一瞬我に返り、目の前の体を押し返そうとした。が、逆に更に距離を詰められ、体が密着した。
「んん、ん」
 顔を振って口付けから逃れようとするナマエの鼻先を、甘い香油の匂いがかすめた。
 ――あの時と同じ香りだ。
 グルグ基地からの帰りの船で起きた、忌まわしくも懐かしい出来事が思い浮かぶ。あの時、無遠慮に唇を奪った狼藉者に、さしたる抵抗をしなかったのは何故だろう。
 いつしか思考が沈んでしまい、抵抗は忘れてしまっていた。ぼんやりとしながら目の前の長いまつげを眺めていると、唇を食んでいたタシャがふっと顔を離し、ナマエの表情を探るようにじっと見つめた。

「大人しいな。……嫌ではないのだな?」
「え、あ……」
 返事をしようとした瞬間、また言葉を奪われるように口を塞がれた。
 開いた唇から、ぬるりと熱い質量を持ったものが侵入した。不快感に似た何かが背筋を走り、ビクリと体が震える。それは無遠慮に中を探り、奥に縮こまった彼女の舌を見つけて絡み付いてきた。瞬間、ナマエは不可解な未知の感覚に戦いた。
 びく、と肩がわざとらしいほどに揺れた。本能的に危険を感じて顔を背けようとすると、反対に噛み付くように深く食われる。息が上がっていた。また舌が絡んで、互いの歯がぶつかってカチリと音を立てる。時折聞こえる水音が、いやに耳障りだった。
「ん、ふぅっ」
 ぬるぬるとした熱い他人の舌が、己の咥内を蹂躙している。タシャの舌が自分のものと絡む度ごとに、ナマエは体が熱くなると同時に脱力するのが分かった。膝が笑っている。目の前の男にしがみ付かなければ、立っていられない。ぞくぞくと背筋を走るこの感覚は、不快感ではなく果たして快感と呼ばれるものだったろうか。頭の中はとうに真っ白で、目の前の事以外は何も考えられない。いつしか、崩れ落ちそうになっていたナマエをタシャは片腕一つで支えている。
 生理的な涙が浮かんで、片方の目じりから流れ落ちた。タシャは唇を開放し、頬を伝う涙にそっとキスをした。
「……ナマエ
 荒い呼吸を繰り返し、放心していたナマエは、緩慢な動きで男を見上げた。
「私の部屋に来ないか」

「……へ?」
 ぽかんとしたナマエに、タシャは真剣な表情のまま続けた。
「急かすつもりはないといったが、今ここで撤回する。お前と……一夜を共にしたい」
 え? とナマエは我が耳を疑った。
「……え?」
 一拍あって、タシャの言葉を理解した彼女は耳まで真っ赤にさせ、うろたえた。
「そ、それは……どういう……」
 タシャはわずかに眉を寄せ、もどかしさを声に滲ませた。
「鈍いふりをするな。……つまり、”そういうお誘い”、だ」
 あ――、とナマエは目を見開いた。それは随分前、誘拐犯として手配されたナマエを匿おうとするタシャに告げた言葉だった。彼はあの時、その言葉を明確に否定をしなかったことに今更ながら思い至る。
 茫然と立ち尽くしていると、タシャは沈黙を肯定と取ったのか、無言でナマエの手を引いてどこかへ向かおうとする。その動作にハッと我に返ったナマエは、その場にとどまろうとして脚に力が入らず、敢えなく失敗した。
「い、いやだ、タシャ。断る」
 ずるずると半ば引き摺られるように連れられながら、ナマエは勝手にどんどん進む男に必死に訴えた。
「聞かん」
「お、女に慣れてないって言ったくせに! やっぱりあんたは嘘つきだ……!」
「慣れているものか。そもそもこういった時のスマートな誘い方すら知らんのだ。私とて、これが強引だということも、性急すぎることも理解している。だが――お前を逃したくない。立場の違いに引け目を感じているのなら、なおさらだ。お前のペースにあわせてゆっくり関係を進めるつもりだったが……、どうやらそれが逆効果になってしまっているようだからな」
「タシャ……無理だ」
 喉がひきつって、声が震えた。
「ならば手を振り払えばいい」
「あ、あんたが手を掴んでいるから無理なんだよ!」
 タシャが立ち止まって、振り返る。
「本気で振り払おうとすればできるはずだ。……それほど強くは握っていない」
 嘘だ、とナマエは思った。彼女の手首は男の大きな手でがっちりと握られており、容易に抜け出せそうにない。逃す気など、さらさらないのだ。
 男の異常な熱に当てられ、立ち止まっていた足が震えた。
 怖かった。この男に、自分のすべてをさらけ出すのが――怖い。
 たかがキスひとつで理性が吹き飛びそうになっているのに、ここから先を体験するのは身も心も持たない。
 そもそも記憶喪失のナマエにとっては、男女間のアレコレについてすら、うすらぼんやりとした知識しか持っていない。そんな体たらくだというのに、目の前のあまりに性急な展開に、心も体も完全に怖じ気付いてしまっていた。
 ナマエは己の心を縛ろうとする男を必死に見上げ、震える声で言った。
「タシャ……お願い。怖いんだ……」
 その言葉に、タシャの瞳が揺れた。虚ろに陰り、深い迷いが滲む。
 そっと伸ばされた手が、ナマエの頬を撫でる。その指先は、先ほどまでの熱とは違い、どこか怯えたように震えていた。
 そして、耳元に落とされた低い声。
「……そんな顔をされたら、余計に……抑えられなくなる」
 乾いた囁きが、ナマエの鼓膜を掠めた。



 ――張り詰めた空気を破ったのは、妙に間延びした声だった。
「おーいナマエー」
 はっとして声の方へと顔を向けると、回廊の奥から褪せた金髪の持ち主が、のんきに手を振りながら歩いてくるのが見えた。
「ジャッカル……」
 名を呼ぶと、彼がばちりと片目を瞑る。突然現れた仲間の存在に、無意識に安堵のため息が漏れた。

 ジャッカルは二人のもとへ来るなり、ナマエの腕が掴まれているのを一瞥し、さりげなく彼女の肩に手を置いて間に割り込んだ。
「すまないね騎士様。ちょいと急ぎでコイツに用があるんだわ。借りてくぜ」
 当然、タシャが素直に引き下がるはずもない。彼は闖入者を威嚇するように鋭い視線を向けた。
「用? 何の用事だ。緊急なのか?」
「そいつはちょっと言えねぇな。仲間以外には他言無用の内容でね」
 ジャッカルがわざとらしく肩を竦める。
 明らかに嘘とわかる言い分だった。タシャは目を眇め、ジャッカルを睨みつけた。
 状況は明らかにタシャに不利だった。
 このまま強引に押し通しても、ナマエは抵抗するだろう。ちらりと彼女の顔を見ると、ナマエはタシャではなくジャッカルを縋るように見つめていた。
 舌打ちは、かろうじて飲み込んだ。代わりに、深いため息を吐く。
「……行け」
 短くもない逡巡の後、手首を解放してやると、ナマエは戸惑った表情を浮かべていた。せっかく解放してやったというのに、その場で立ち尽くして動かない困ったナマエの様子に、また未練がましく手が伸びる。
 が、それを察知したように、忌々しくも彼女の仲間の男に、ぐい、とナマエの手を奪われる。
「悪いね」
 そう言い残し、男はナマエを連れ去った。




 回廊を抜け、大広間に出たところで、ようやくナマエの全身から緊張が抜け落ちた。
「ジャッカル、助かった」
 声はまだ震えていた。
 ジャッカルは振り返って、ようやく掴んでいた手を放す。
「まったく、危なっかしいったらねぇな」
 盛大にため息をついて、乱暴にナマエの頭を撫でる。髪はぐしゃぐしゃになったが、その重みが妙に安心をもたらし、彼女は抵抗しなかった。
「お前なぁ、男にほいほい付いていこうとすんじゃないよ。いやだったら悲鳴でもなんでもあげなさい」
「……見ていたのか」
 ナマエは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。いつから見られていたのかは知らないが、それを責めるつもりはなかった。こうして危機を助けてくれたのだから。
 ナマエは、拘束されていた手に視線を落とした。手が、まだ微かに震えている。
 ――振り払えなかった。
「そんなに怖かったのか」
「いや……」
 気遣うように声をかけられて、ゆるく首を振る。だが、怖くなかった、といつものように啖呵を切る気力は残っていない。
「無理しなくてもいい。ナマエだって女の子なんだ。そりゃあんな不躾に迫られりゃ、怯えもするだろうよ」
 ジャッカルの同情めいた言葉に、ナマエはぎょっとした。
「お、女の子? それはちょっと無理があるんじゃ……」
 さすがにその形容は似つかわしくないことは、ナマエ自身理解していた。
 だがジャッカルは、ナマエの反応におかしそうに笑った。いつもの気障ったらしい笑みではなく、彼の素に近いほうの柔らかな笑みだった。
「なに言ってんだ。俺から見りゃ十分可愛い女の子だぜ」

 だが、その言葉はナマエにとって何の慰めにもならない。
 再び手元に視線を落とし、自問するように呟いた。
「どうして……抵抗できなかったんだろう」
 ジャッカルが驚いたように瞠目したが、ナマエは気づかなかった。
「そりゃ――」
「体が……言う事を聞かなかった」
 タシャに迫られたあの時、まるで自分が自分でなくなるような感覚に陥った。体の自由が奪われたようだった。

 しばし後、隣から深いため息が聞こえた。
ナマエ
 呼ばれて顔を上げた瞬間、ぎょっとした。
 ジャッカルの顔が、すぐ目の前に迫っていた。鼻先が触れそうなほど近い。
 反射的に拳を握りしめ、思い切り振りかぶる。
「いってぇ。……せめて平手にしてくれよ」
 ごきり、と鈍い音を立てて派手に転がったジャッカルが、頬を押さえて呻いた。
 大広間にいた人々が一斉にこちらを振り返るが、男女の組み合わせを見て、痴話喧嘩かと納得したのか、すぐに興味を失ったようだった。
「わ、悪いジャッカル。でも、いきなり顔近づけるから……」
 我に返ったナマエは慌てて手を差し出し、ジャッカルを起こそうとする。彼は頬を押さえながら立ち上がり、苦笑いを浮かべた。
「……あいつにも、今みたいに一発くれてやりゃよかったんじゃねぇか」
 まさか、それを言うためにわざと殴られたのか。ナマエはジャッカルの頬に手をかざして治癒魔法を掛けながらも、彼の尤もな言葉にためいがちな表情を浮かべた。
「……でも」
「それができなかったのはどうしてなのか、ナマエ自身が一番よく分かってるだろ?」
 ぐ、と言葉に詰まり、ナマエは押し黙った。それ以上は何も言わず、ナマエは無言で自分の不始末の片付けに専念した。
 
 頑なな彼女の横顔を見つめながら、ジャッカルは腫れ始めた頬に顔をしかめながら、口の中で呟いた。
「……まったく、この様子じゃ我らが弟の勝ち目は当分なさそうだな」




 酒場に戻ると、ナマエは真っ先に浴室に向かった。
 熱い湯に身を沈め、ようやく心と体がほぐれていく。
 肉迫した感触が、唇にまだ残っている。タシャは確実にこちらを捕えようとしていた。物分かりのいい紳士の面をかなぐり捨てて、全身全霊でナマエを求めてきた。
 ぶるり、と体が震える。
 ……愛や恋というものは、もっと軽やかで楽しいものだと思っていた。
 ジャッカルのように、気ままに笑って、誰とでも軽口を叩いて、時に甘く、時に軽やかに。
 けれど、現実は違った。こんなにも苦しくて、迷って、悩んで、心が擦り減るものだなんて。
 もし最初からこうなると分かっていたら、もっと早く距離を置いていたかもしれない。ここまで深く関わる前に、引き返していれば――。
 けれど、それができなかったのは。どこかで、ほんの少しだけ、期待していたからだろうか。
 ぱしゃり、と湯面を指先で弾き、手のひらを湯に沈める。くゆるように掬い上げた湯が、指の隙間から零れ落ちていく。
 文字の勉強だって、半ばタシャのために始めたようなものだった。そう考えると、急にすべてが馬鹿馬鹿しく思えてくる。考えることすら、今は億劫だった。
 とはいえ、今夜もユーリスに勉強を見てもらう約束をしている。
(……いっそ、やめたって言ってしまおうか)


 風呂から上がり、着替えを済ませると、ナマエは部屋を出た。
 二階から一階を見下ろすと、セイレンとジャッカルが酒盛りを、マナミアが大皿を綺麗に片付けていた。ユーリスがいないところを見ると、部屋にいるんだろうか。
 男部屋の扉をノックすると、中から「どうぞ」と声が返ってきた。
 扉を開けて中を覗くと、ベッドの縁に腰掛けた人物が、バスタオルで頭を覆っていた。上半身は裸で、顔が見えない。だが、その華奢な肩のラインを見れば、誰かはすぐに分かる。
「ユーリス?」
 顔を上げたその人物は、右目に埋まった魔石をナマエに向けた。濡れた銀髪から、ぽたぽたと雫が滴っている。慌てたナマエは踵を返そうとした。
「あっ、ごめん。風呂上がりだったのか」
 ナマエ、と少年が呼び止めた。
「別にいいよ。もう上がったし。文字の勉強だよね? ちょっと待ってて、髪だけ乾かすから」
「ユーリス、そのことなんだけど……」
 言いかけたが、ユーリスがお構いなしにタオルでガシガシと頭を拭き始めたため、ひとまず口を噤んだ。
 ……しかし、そんな乱暴に拭いて、髪が痛まないのだろうか。余計なお世話だとは思いつつ、ナマエは口を挟まずにいられなかった。
「いつも、そんな風に乾かしてるのか?」
「そうだけど」
 ユーリスが手を止め、ナマエに視線を投げかける。
「そんなに乱暴にしたら、髪が痛むぞ。せっかく綺麗な髪なのに」
 少年は多少むっとしたように、顔をしかめた。
「髪なんて、別に気にしてないよ」
 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。ナマエは苦笑した。
「そんなこと言うなよ。……そうだ、私が乾かしてやる」
「は? いいってば」
「いいから。ほら、そっち向け」
 強引にタオルを取り上げると、ユーリスは観念したように渋々背を向けた。

 ユーリスの髪は、見た目よりも固い。くるりと指に巻きつけても、またもとの真っ直ぐな髪に戻ってしまう。まるで本人の性格みたいだ。内心で思いながら、手櫛で整えた髪からタオルで丁寧に水気をふき取っていく。あらかた取り終えると、調整した炎魔法を唱えた。
 完全に乾いた髪を掬い上げると、さらさらと流れるように掌から落ちていく。
 ユーリスはこちらに背を向けたまま、じっと動かない。その静けさに甘えて、ナマエはふと少年の背中へ視線を落とした。
 すらりと伸びた背筋の両側に、思いのほかしっかりと筋肉がついていた。首から肩にかけてのラインは、華奢な印象とは裏腹に、どこか男らしい強さを帯びていた。肌は雪のように白いのに、それでも確かに“男の背中”だった。
ナマエ?」
 盛り上がった僧帽筋をつい指先でつついてしまった瞬間、訝しむ声が返ってきた。
「あ、ごめん。……ユーリス、ちゃんと鍛えてるんだなって思って」
 言った途端、視界がぐるりと回った。
 気づけばナマエはベッドに押し倒され、上からユーリスが覆いかぶさるように覗き込んでいた。乱れた銀糸の髪の隙間から、どこか獣じみた目つきをしたユーリスの瞳がこちらを捉えていた。
「あのさぁ……ほんっと君って、タチ悪いよね」
 心底呆れた声で告げられ、ナマエは茫然と少年の名を口にした。
「ユーリス……?」
「男にそんなこと言ったら、誘ってると思われるよ」
 心外な言葉に、息を呑む。
「そんなつもりは――」
 ない、と言い切れるだろうか。確かに考えなしではある。
 無意識に唇を押さえる。
 今日の出来事だって、自分が余計な事を口走ったからああなってしまった気がする。

 不意に、鼻先に痛みが走った。
「いてっ」
 物思いから我に返ると、痛みの犯人を見やって抗議した。
「なにすんだよ」
「隙だらけだよ」
 ユーリスはナマエの鼻を己の歯から開放し、ふんと鼻を鳴らした。
 気が済んだのか、ユーリスは体を起こし、近くに掛けてあった上着を羽織る。続いてベッドに置いていた眼帯を手に取った。
 ナマエは噛まれた鼻を擦りながら体を起こし、少年が眼帯をつける様子を眺め、ぽつりと呟いた。
「……ユーリス、」
「なに?」
「そんなに……タチ悪いかな、私」
 振り返った少年の瞳が、咎めるように細められる。
「自分で自覚ないの?」
「……わからない」
 また無意識に唇へ触れてしまう。
「口、どうかしたの?」
「いや、別に」
 ユーリスは、ふうん、と鼻を鳴らしただけだった。


 結局、勉強をやめるとは言い出せず、ナマエはそのままユーリスのスパルタ式講義を受けることになった。内容は昨日の童話の復習だ。
 しかし二度読んでも、やはり腑に落ちない。
「愛を告げられたら、幸せになったのかな」
 ぽつりと呟くと、ユーリスが顔を上げた。
「なにが?」
「人魚と人間の話」
「……さあね、当人次第じゃない?」
 少年が肩を竦める。至極尤もな回答に、それもそうだな、とナマエは微苦笑を浮べた。

 ユーリスと過ごすひとときは、張り詰めていた心をゆっくりと落ち着かせてくれた。少なくとも、あの白騎士と向き合っていた時よりは、ずっと穏やかだった。
 勉強が終わる頃には、すっかりお腹が空いていた。他の仲間はまだ一階で酒盛りをしているのだろうか。
 紙やペンを片付けながら、ナマエはユーリスへ礼を述べた。
「手間をとらせて悪かったな」
「いいよ、別に」
 素気無い態度に苦笑を浮べる。
「そうだ、今度お礼しなきゃな。何がいい? ユーリス、欲しいものあるか?」
「お礼?」
「勉強を見てもらってるお礼だよ。何が良い?」
 その瞬間、ユーリスの肩がぴくりと揺れた。ゆっくりと視線を上げ、ナマエを真っ直ぐに見つめる。
 しばし、沈黙が落ちる。

 ――先に動いたのは、ユーリスだった。
「……じゃあ」
 少年の体が、ゆらりとナマエへ傾いた。驚いた彼女は反射的に手をかざし、その手の平に顔を寄せてきたユーリスのそれがぱふっと収まった。手の平の中央に、柔らかな唇が押し付けられる。
 こいつは一体何をしているのか。ナマエはしばし固まったまま、少年を見つめた。ユーリスもまた、真っ直ぐに彼女を見返してくる。視線が交差した。
「……。なにしてんだ」
「手、どけてよ」
 もごもご、と塞がれたユーリスの口元から、不鮮明な声が漏れる。ナマエは眉をひそめ、問いただした。
「どけたら何するつもりだった?」
 蒼穹の瞳が、泳ぐ。そして、可愛らしく小首を傾げ。
「……キス?」
 あざとさすら感じる仕草に、ナマエは我慢できず声を荒げた。
「ませガキめっ」
「うぃででで!」
 ぎゅっと力をこめてユーリスの口元を挟んでやると、少年は痛みに声を上げた。しかし綺麗な形の顔が崩れて、唇が突き出たような、とんでもない表情になっている。
 思わず手をぱっと離すと、ユーリスは頬を押さえながら憤慨した。
「ひどいよ、ナマエが言ったんだじゃないか」
「もっとマシな選択肢があるだろうが!」
 そう反論し、ふいに脱力感に襲われて額を押さえた。ため息が漏れる。
「まったく……。そういうことに興味があるのはわかるけど、手近な相手で済まそうとしないで、ちゃんと相手を選べ」
「選んでるよ」
 尖った声が響いた。視線をあげて声の主を見ると、ぎょっとした。彼はどうして、そんなやりきれないような表情を浮べているのか。
「相手にしてくれないのはナマエのほうだろ。いい加減僕の――」
「馬鹿言うなよ! 未成年を相手にできる訳ないだろ。あんた私を牢屋送りにしたいのか?」
 皆まで言わせず、ナマエは口早にユーリスの言葉を遮った。
「……ん?」
 少年は一瞬、ぽかんとした。次いで、混乱したように頭を抱える。
「は? ええと、どうしてそういう話になるの?」
「未成年に手を出すのは、大人としてどう考えてもまずいだろ。クォークにも合わせる顔がない」
 大真面目に言うナマエに、ユーリスはがくりとうなだれた。
「……手を出されるのは君のほうだと思うけど」
 何言ってんだ、とナマエはかぶりを振った。
「出される出されないは問題じゃない。とにかく、駄目なものはダメだ。ユーリス、あんた貴族の館から少しおかしいぞ」
「……おかしい、って」
 ユーリスの顔が、怒りに歪んだ。
「おかしいのはナマエのほうだよ! 未成年だからダメ? はっ、なんだよそれ! 普段適当なくせに、こんな時だけ真面目ぶって……本当馬鹿じゃないの」
「ユーリス」
 戸惑って、宥めるように少年の名を呼ぶ。名を呼ばれた少年は、ぎろりとナマエを睨みつけた。
「だから君はタチ悪いって言うんだよ!」
「あ――」

 飛び出していったユーリスの背中を、追いかける事が出来なかった。
(まさか。ありえない、……ありえない!)
 ただ単純に、欲求不満をぶつけられているだけかと思っていた。だが、もしかしたら――そうではないのかもしれない。
『知っている人とも言えるし、知らないとも言える』
 ユーリスの好きな相手というのは、まさか自分なのだろうか。
 その可能性が胸をかすめ、ナマエは慌てて首を振った。
 馬鹿な、一時の気の迷いだ。きっと突然現れた正体不明の女に、少し気を奪われているだけだ。そういうことに興味のある年頃だし、その分すぐに熱も冷める――はずだ。
 たぶん。きっと。恐らく。
 
 放心しながらも、少年の一連の不可解な行動になんとか自分を納得させる。
 深い脱力感に襲われ、ナマエは背後のベッドへと身を沈めて、天を仰いだ。
 ――本当に、散々な一日だ。



2026/2/5改稿