Chapter.22





 あれから逃げるユーリスを捕まえたナマエは、みっちりと説教を食らわせた。
 少年は反省しているのかいないのか、終始むっすりとした顔で黙りこくっていたが、そんなことはお構いなしに、ナマエは満足するまで言いたいことをぶつけた。
 ようやく気が済んだ頃には、腹がぐうと抗議の声を上げていたので、説教を切り上げ、ユーリスを解放する。
 結局、せっかく用意した食事には一口も手をつけられなかった。どうせ戻っても食事が無事に残っている可能性は低いだろうし、今さら作り直すのも面倒なため、マルシェで買い食いをすることにしたのだが、なぜかそれにユーリスも同行してきたので、意趣返しもかねて遠慮なく少年にたかることにした。大人気ないとは思うが、この際気にしない。

 アリエルの酒場に戻る頃には、ナマエの気分はすっかり晴れていた。
 それもそのはず。買い食いにとどまらず、出店を冷やかし、雑貨を買い、大道芸人におひねりを投げ――そのすべてにユーリスを財布係として引き連れたのだから。
「はー、今日は久々に楽しかったー!」
 帰り道、ナマエは満足げに伸びをしながら笑った。
 その隣で、ユーリスはどんよりとした顔で、自分の財布の軽さを確かめている。
「……よかったね。おかげで僕の財布はだいぶ軽くなったけど」
 その言葉に、ぎくりと肩をすくめた。
「えーと……細かいことは気にするなよ?」
「それ、君が言う?」
 じとりとした目で睨まれ、ナマエは思わず目を逸らす。いくら腹いせとはいえ、さすがにやりすぎたかもしれない。年下相手にたかるなんて、冷静に考えれば大人気なさすぎる。
 内心で反省しかけたその時、ユーリスがふっと息をつき、微笑んだ。
「……まあ、楽しかったんなら、いいけどさ」
 そう言って、財布を懐にしまい込む。鴨にされたにしては、ずいぶんと穏やかな表情だった。
 ――なんだろう。なんだか、これじゃまるで……。
 ナマエはユーリスの背中を見つめながら、胸の奥にもやもやとしたものを感じていた。腹いせとばかりに連れまわしたが、相手にとってはさほど意趣返しとはならなかったようだ。どころか、彼はそれすらも楽しんでいた様子だ。
 そんな少年の様子に、急にナマエは自らの行為を恥ずかしく思った。

 角を曲がれば、アリエルの酒場はすぐそこだ。しばし足を止めていたナマエは、はっと我に返って懐から自分の財布を取り出した。中から数枚の金貨を取り出し、「ユーリス!」と呼びかけた。
 酒場の扉に手をかけかけていたユーリスが、振り返る。駆け寄ったナマエは、無言で手を差し出した。掌には、金貨が数枚乗っている。
「……なに、これ?」
 訝しげに眉をひそめるユーリスに、ナマエは少しばつが悪そうに言った。
「いや、今さらだけど、ちょっと良心が咎めてさ。今日の分、返すよ」
 その言葉に、ユーリスの眉間がぴくりと寄る。
「いいよ、別に。いらない」
 差し出された手を押し返し、踵を返す。
「でも……」
「いいってば」
 若干刺々しい声に、ナマエはしぶしぶ手を引っ込めた。
 なぜそこまで拒まれるのか分からず、首をかしげながら、彼の後を追って酒場の扉をくぐった。
 ――金なんて、あって困るもんでもないのに。


 中に入ると、クォークが剣の手入れをしていた。アリエルたちも戻ってきており、開店準備に忙しそうに動いている。
 ジャッカルは椅子にもたれて、いつものようにだらけていた。
 だが、もう一人の姿が見当たらない。
「あれ、エルザは?」
 ナマエの問いに答えたのは、クォークだった。
「伯爵のところだ」
 伯爵のところ、つまり。
「……もしかして、例の申し出の?」
「ああ」


 
 ――翌日。
 ルリ城の大広間に集められた騎士たちを前に、アルガナン伯爵はグルグ大陸への遠征を正式に発表した。
 このルリ島に眠る“力”が、その遠征の鍵となること。そして、その力を目覚めさせる“異邦の印”を持つ者――すなわち、エルザの存在。単なる傭兵に過ぎなかった青年が、突如として“救世主”として持ち上げられる展開に、一部の騎士たちはざわめきを隠せなかった。
 さらに、先のグルグ族基地殲滅の功績を称え、エルザとクォークの両名を騎士見習いとして召し抱えることが発表されると、今度は後方から歓声が上がった。
 その光景を、ナマエはホールの後方から静かに見つめていた。
「騎士見習い、か……」
 ぽつりと漏らした言葉に、隣のジャッカルが肩をすくめる。
「大将、めずらしく緊張してやがるな」
 壇上で棒立ちになっているクォークの姿に、思わず笑みがこぼれる。
 発表の場には、傭兵団の面々も招かれていたが、彼らの立ち位置はあくまで後方。壇上に立つエルザたちの姿は、遠く小さく見える。アルガナン伯爵に雇われている傭兵は、クォークたちだけではない。後方には他の傭兵団の姿もあり、伯爵の発表に口笛を鳴らす者もいた。
「カナンさん、なんだか元気がなさそうですね……」
 マナミアの言葉に、ナマエは視線を壇上へと移す。
 そこには伯爵、クォーク、エルザの他に、トリスタ、カナン、そして例のいけ好かない婚約者の姿が並んでいた。
 マナミアの言うとおり、久々に見るカナンの表情は、どこか沈んでいるように見えた。だが、今の彼女に気軽に声をかけられるような距離ではない。
 小さく息を吐き、視線を流す。
 最前列に、見覚えのある白銀の髪が目に入った。
 ――タシャ。
 声には出さず、心の中で名を呼ぶ。
 最前列には、磨き抜かれた鎧と甲冑がずらりと並び、まるで別世界のように眩しかった。同じ空間にいるはずなのに、そこだけが遠く感じられる。
 ふと視線を感じて振り返ると、蒼穹の瞳と目が合った。だが、すぐに逸らされる。
「――いまこそ我らの悲願が成就するとき! グルグ族を滅ぼし、帝国に平和をもたらすのだ!」
 伯爵の声がホールに響き渡る。
 それに呼応するように、騎士たちが一斉に鬨の声を上げた。



 その夜。
 アリエルの酒場では、クォークとエルザの昇進を祝う宴が開かれていた。
 クォークは珍しく上機嫌で、すっかり泥酔していた。だが、もう一人の主役であるエルザは、どこか浮かない顔をしている。仲間たちと軽く言葉を交わした後、彼はふらりと席を立ち、酒場の扉を抜けて外へ出ていった。
 その背中を見送ったナマエは、気になって後を追った。
 扉を開けると、すぐそばの軒下に、夜風に吹かれるエルザの姿があった。
 彼の横顔は、思案に沈んでいる。その表情はまるで迷子のようだ。
「ようやく決断したのに、まだ迷ってるの?」
 背中に声をかけると、エルザが振り返る。ナマエの姿を見て、彼は少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
 ナマエは彼の隣に立ち、静かに道行く人々を眺めた。夜の喧騒が、どこか遠くに感じられる。
「俺、本当に優柔不断だな……」
 ぽつりとエルザが呟く。
「ようやく騎士への道が見えたってのに、まだ迷ってる」
 ナマエは隣の青年を見つめた。その横顔は、どこか不安げで、頼りなさすら感じさせた。
「本当に、これで良かったんだろうかって、ずっと思ってるんだ」
 彼の視線が、自らの手の甲に刻まれた“印”へと落ちる。エルザが騎士見習いに選ばれたのは、その力の証があったからだ。
「でも、決断しなきゃ前に進めない」
「内省することは悪いことじゃないよ。間違ってると思えば、変えていけばいい」
 ナマエの言葉に、エルザは苦笑を浮かべた。
「でも、これからはそれも難しくなる」
「忠誠を誓ったら、伯爵の命令は絶対って?」
 返答の代わりに、彼は目を伏せた。
 沈むエルザの様子にナマエはため息をついた。一介の傭兵だった彼がいきなり大きな決断を迫られ、戸惑うのも無理もない。
「あの男がエルザに何を期待してるのかは知らないけど、いいように利用されないように気をつけろよ。主従関係っていっても、心まで服従する必要はどこにもない。嫌なことは嫌だって、突っぱねてしまえばいいんだ」
 不遜な言葉に、エルザがぎょっとして振り返る。ナマエはいたずらっぽく笑った。
「……ってのは、まあ、私があんたの立場だったら言えないけどね」
 あはは、と笑うと、エルザもようやく肩の力を抜いて、苦笑を漏らした。ナマエは彼の背をぽんと叩く。
「エルザが大変な立場にいるのは分かってる。だから、限界になる前に、ちゃんと周りを頼れ」
 その言葉に、エルザは静かに頷いた。
「――ああ」



 
 翌朝、さっそくアルガナン伯爵から召集がかかった。
 執務室に集められた一行を前に、伯爵は今日グルグ大陸に向けて出発する事を告げた。遠征を発表したのが昨日で、今日がその翌日だ。さすがに戸惑うエルザらに、伯爵はクォークに説明を命じた。
「――このルリ島には、『大洋を駆ける要塞』という伝承が残っているんだ」
「大洋を駆ける要塞……?」
 マナミアが小首をかしげる。
「そうだ。意のままに洋上を移動し、砲撃を行う要塞だ」
 ナマエが眉をひそめ、疑問を口にする。
「移動要塞って……まさか、この島ごと動くってこと?」
「その可能性もある。だが、現時点では要塞の全容は不明だ」
 ――大洋を駆ける要塞。
 それこそが、かつての大戦で帝国がグルグ族を短期間で駆逐できた理由だとされている。だが、それを実際に目にした者はおらず、すべては謎に包まれている。
 そして、異邦の印を持つ者――エルザこそが、その要塞を再び目覚めさせる鍵だという。
 クォークたちは、今からその要塞を目覚めさせるため、操りの領域と呼ばれる場所へ向かうことになる。
 エルザは複雑な表情で、自らの右手に刻まれた印を見つめていた。その迷いを見抜いたように、伯爵が彼の名を呼ぶ。
「忠誠の誓い、果たしてもらうぞ。いいな?」
 その言葉に、エルザは静かに頷くしかなかった。


 と、その時。
 ナマエが手を上げた。
「伯爵、ひとつ質問よろしいですか?」
 クォークが眉をひそめる。
ナマエ、後にしろ。今は時間が――」
「よい、聞こう」
 伯爵がクォークを制し、発言を許す。ナマエは一歩前に出て、遠慮なく問いを投げかけた。
「もしその要塞が、このルリ島そのものだった場合、市民はどうなるんですか?」
「無論、戦闘が始まれば避難させる」
「では、遠征には同行が前提と? もし同行を拒否する市民がいた場合は、どうされるつもりですか」
 ナマエが知りたかったのは、伯爵がこの戦争に市民を巻き込むつもりなのかどうかということだ。島ごと動くというのなら、それは彼らの生活そのものに関わる問題だ。
 伯爵は一瞬、ナマエの真意を見極めるように目を細めた。
「心配せずとも、私は領民を傷つけたりはせぬ。良いように取り計らう」
「……そうですか。それを聞いて安心しました」
 一拍の間の後に返されたその答えは、ナマエが本当に望んでいたものではなかった。
 だが、これ以上追及すれば、伯爵の機嫌を損ねると判断し、彼女はそれ以上口を閉ざした。


 執務室を退出した後、エルザが意外そうな顔でこちらを見ていた。
「なに?」
ナマエ、敬語使えたんだ」
 その一言に、ナマエは無言でエルザの頭をぺしりと叩いた。
 乾いた音が、廊下に響いた。





 操りの領域と呼ばれる場所は、城の地下深くにあった。
 先日中庭で見かけた地下牢への階段を降り、さらにリフトで下層へと潜る。
 そこには、巨大な門がそびえていた。
 門の前に立った伯爵は、領域へ入るには“闇の意識”を倒さねばならないと告げた。しかも、それは異邦の者の力を使わなければ目に映らないという。
 つまり、異邦の印を持つ者――エルザにしか挑めない試練というわけだ。
 試練に挑むのは、エルザとクォーク、志願したマナミア。そして、記憶に関する手がかりが得られるかもしれないと、ナマエも同行を申し出た。
 それ以外の仲間たちは、門の前で待機するよう命じられた。人質、というわけだ。

 エルザが門に近づくと、青白い光が放たれ、魔方陣が浮かび上がる。扉が開かれると、その奥には深い闇が広がっていた。
 門をくぐると、そこは異空間だった。肌に触れる空気は、どことなくピリピリとして邪気を感じる。奥へと続く道は不可思議な空間に浮かぶ廃墟のようで、下を見れば底なし、上を見れば暗闇が続く。遠くを見れば、巨大な建物が、ぽっかりと浮かんでいる。まるで城の中の空間とは思えない。
「なんだ、ここは……」
「城の中なのに、奇妙な場所ですわ」
 マナミアが不安げに呟く。
「頭がどうにかなりそうだ」
「不思議な空間だな……幻惑魔法で構成されているのか?」
「全部、幻ってこと?」
 ナマエの言葉にエルザが口を開く。頷いて、彼女は道の端へと身を乗り出し、下を覗き込んだ。やはり底がまったく見えない。
「落ちたら、死ぬかな」
「試してみるか?」
 クォークの冗談に、ナマエは肩をすくめた。
「冗談。……にしてもこの空間、初代アルガナンが作ったのかな。それとも異邦のものか。どちらにせよ、これだけの空間を作るには、相当な魔力が必要だ」
 自然にできたとは、とても思えない。
「これが人の手によって作られたものだとしたら……正直、恐ろしいですわね」
 マナミアが身震いしながら、空を漂う瘴気の塊を見つめていた。正直なところ、果たして誰がこの異空間を作り出したのかは定かではない。この空間を作り出すための、なんらかの巨大な力が働いていることだけは確かだ。



「にしても、重責だな、エルザ」
 ナマエの言葉に、エルザがきょとんとした顔で振り返る。その反応に、彼女は苦笑を浮かべながら続けた。
「異邦の力を操れるのはあんただけだ。つまり、言い換えれば、この遠征討伐の決定権を持ってるのは、あんたってこと」
 その意味を理解した瞬間、エルザの表情に戸惑いが浮かぶ。
「……そんな、大げさだよ。俺に決定権なんて……」
「あるさ。命令を下すのは伯爵でも、それに従うかどうかを決めるのは、あんただ」
 不思議な空間に気を取られがちだが、冷静に考えれば、、今から遠征のための大事な下準備に向かっているのだ。そして、その鍵を握るのは他でもない、エルザ自身。
 今歩む道の続く先は、戦なのだ。
「考えてもみなよ。移動要塞って言っても、前みたいに空から数で攻められたら対応しきれるのかってのが、まず第一の懸念材料だ。おまけにルリ城の騎士はほとんど腑抜けばかりだ。戦闘になったら、戦力になるかどうか。伯爵は勝利を確信してるみたいだけど、実際はどうだか……」
ナマエ、あまり余計なことを吹き込むな」
 横からクォークが苛立ったように口を挟む。その表情は静かに怒りを含んでいた。
「クォーク、でもこれは、当事者として考えておくべきことだよ」
「頭を使うのは俺の役目だ。エルザ、お前は目の前のことだけに集中していろ」
 ナマエの言葉を遮るようにクォークが言い放つ。だが、エルザは静かに首を振った。
「クォーク……俺だって、自分がこれから何をしようとしてるのか、考えてないわけじゃない。ナマエの言う通り、このまま伯爵の命令に従えば――いずれ、たくさんの血が流れる」
「……戦争だからな。仕方がない。それに、もしお前がここで伯爵の命令を拒否したとしても、グルグ族殲滅は帝国の悲願だ。いずれは全面戦争に突入するだろうよ」
 今まで黙っていたマナミアが、そっと口を開いた。
「その前に、このまま大地が枯れ続ければ、資源が尽きて、双方共倒れになるかもしれませんわ」
 クォークが顔を上げ、マナミアに向かって深く頷いた。
「……そうだな。あるいは、それが争いの火種になるか」


 いずれにせよ、戦争は善悪で割り切れるような単純なものではない。この異空間でどれだけ議論を重ねても明確な答えが出るわけでもなし、ナマエは飽きたようにため息をついた。道はまだまだ続いている。歩けども一向に進んだ気がしない。
「そもそもさあ、ルリ島に眠る巨大な力ってなんなんだ?」
「それを今から確認しに行くんだろうが」
 クォークの返答に、ナマエは肩をすくめた。
「馬鹿らしいと思わない? 昔の偉業だの、偉大な力だのって、誰も実際に見たわけじゃないのに、それを頼りに戦争を始めるなんて……正気の沙汰じゃないよ。未知の力を戦力に数えるなんて、普通はしない」
「異邦の力については、古文書に詳細な記述がある。そこから精度の高い推測は可能だ」
「でもそれって、何百年も前の話だろ? 常識的に考えて、現代の方が文明は進んでるはずだよ。ふたを開けたら、実はすっごいしょぼい力だった――なんてこと、ないよね?」
 伝説なんて、所詮は過去のもの。だが、クォークの考えは違った。
「分かってないな、ナマエ。未知の力ってのは、今の物差しで測るべきじゃない」
「だから、それが――」
 その時、先を歩いていたマナミアがぴたりと足を止めた。険しい表情で振り返り、低く告げる。
「皆さん、お喋りはここまでにしてください」
「マナミア?」
 彼女が目線で示した先には、真っ黒なローブを纏った魔道師風の男が、道の中央に座り込んでいた。こんな場所に人がいるはずがない。周囲には、禍々しい気配が満ちていた。
 ふいに、ローブの男が顔を上げ、にやりと笑った――かと思うと、次の瞬間、姿をかき消した。
 試練の始まりだった。




 どうやら、あのローブの男こそが伯爵の言っていた“闇の意識”だったらしい。
 苦戦しながらも、エルザの力によってなんとか撃破し、リフトを作動させて宙に浮かぶ次の建物へと移動する。
 天地が逆さまになったような構造に若干混乱しながらも、先へと進んだ。
 闇の意識との戦いを何度か繰り返し、リフトの回転にも慣れてきた頃、ようやく最後の門へと辿り着いた。
 門をくぐると、またしても長い道が続いていた。
「うえ……なんか酔った……」
 リフトの回転にやられたナマエは、ふらりとよろめく。
「大丈夫か? ナマエ
 少し休むか、とクォークが告げ、一行はその場で少し休憩を取ることにした。
「……にしても、まだまだ続くのか。先は長いな」
「この先も気をつけていきましょう。何が起こるか予測がつきませんわ」
 マナミアが凛とした声で言った、その直後――。
 ぐうぅぅぅ……。
 彼女の腹が、盛大に鳴った。
「……あ、あら。いやですわ」
「おい! ……緊張感のないやつだな」
 うふふ、と誤魔化すように笑うマナミアに、クォークは呆れたようにため息をついた。
「仕方ないですわ。生理現象ですもの。……それに、そんなにお腹が減ったわけではありませんし」
 さらりと続けられた言葉に、一同がぎくりとする。マナミアの食欲魔人が目覚めてしまえば、試練どころではない。
 ナマエは慌てて立ち上がり、先を促した。
「あーっと、大分気分よくなったから先急ごうか、先!」
 他の仲間もすぐにそれに同意する。マナミアだけが、小首をかしげていた。

 

 その後も闇の意識を倒しながら進み、ようやくたどり着いた最後の門で一行の前に現れたのは、かつてサルマンドルで遭遇した闇の魔物にそっくりな存在だった。
「こいつ……サルマンドルの!」
「ああ! たしか、こいつには剣が通じない! マナミア、ナマエ、魔法を頼む!」
 エルザの声に、マナミアが力強く頷く。
「了解しましたわ!」
「アレと同じなら、意識も奪ってくるはずだから気をつけろよ、クォーク!」
 ナマエの忠告に、クォークが鬼のような形相で振り返る。
「おい、なんで俺にだけ言うんだ!?」
 だって、とナマエがにやりと笑う。
「あんたが一番引っかかりやすいだろ?」
 その瞬間、マナミアの魔法が魔物に命中し、闇の靄が晴れて正体を現す。
「今ですわ! 攻撃を!」
「くそっ、後で覚えてろよナマエ!」
 捨て台詞を残し、クォークは剣を構えて突撃していった。

 ――結論から言えば、クォークが意識を乗っ取られたのは二回だった。傭兵団のリーダーとしては、ぐうの音も出ない結果である。
 だが、からかう暇もなく、一行の注意は突如現れた石碑へと向けられた。漆黒の石碑の中央には、不思議な模様が刻まれている。
「なんだ、あれ……」
 ナマエの呟きに、エルザが恐る恐る近づく。
「クォーク、これはどうしたら――」
 その時だった。
 エルザが石碑の正面に立った瞬間、空間が揺れた。
「地震……?」
 否、揺れは規則的に続いている。
「鼓動……? 何かが動き始めているわ」
 マナミアが呟いた直後、石碑が青白く光を放ち始めた。


 ――エルザが光に包まれるのを見た瞬間、伸びてきた光の線がナマエの胸を貫いた。瞬間、意識が闇に落ちるのを感じた。
「え――」
 声を上げようとしたが、音にならない。闇へとどんどん落ちていく中、記憶が退行するのを感じた。
(なん、で――)
 暗闇を辿る。この闇には、覚えがあった。初めてエルザと出会う前、ずっと閉じ込められていた、あの闇だ。
(……いやだ。ここは、)
 怖い。何もない。誰もいない。
 無明の闇に落ちる恐怖を、体が覚えていた。呼吸が乱れ、冷や汗が噴き出す。
(苦しい、誰か……。誰か……? 誰かって、誰だ?)
 ここには、自分以外、誰もいない。
(帰りたい、帰せ……ああ、耐えられない。これ以上――)
 ふいに、見覚えのある集落の風景が目の前に広がった。足元には、村人と思しき無残な遺体が転がっている。鼻を突く、ひどい匂い。
(これは……記憶を失う前の、私の――)
 ナマエは、唐突に確信した。
『嘘だ……そんな……。私が……私が、殺したのか!?』
 ぐわん、と頭の中に悲鳴が響く。
 足元が崩れ、意識はさらに深い闇へと落ちていく――。


「――ナマエ!」
 その時、光が再び彼女を包み込んだ。伸びてきた光が彼女を救い上げる。
ナマエナマエ……! どうしたんだ、大丈夫か!?」
 呼びかけに何とか意識を戻したナマエは、目を見開き声の主を見た。
「エル、ザ……」
 彼の右手が、神々しいほどの光を放っている。眩しくて、目を開けていられない。
 体がひどく重い。鉛のように、動かない。
「試練、は……」
「大丈夫、終わった」
 その言葉にナマエは安堵し、再び意識を手放した。





 目を開けた瞬間、そこにあったのは、カナンの心配そうな顔だった。ナマエが目を覚ましたことに気づき、彼女は小さく息を呑む。
ナマエ! ……よかった、気がついたのね」
「カ、カナン……?」
 喜ぶカナンの傍らで、ナマエは混乱しながら周囲を見回した。あの異空間からの記憶が曖昧で、どれほどの時間が経ったのかも分からない。
 それにしても、なぜカナンがここに?
 そして、ここはどこなのか。
 見上げる天井は高く、寝かされているベッドもやけに豪奢だ。この瀟洒な部屋は、どう見てもアリエルの酒場の部屋ではない。
 ナマエはベッドの傍らに座るカナンに、改めて問いかけた。
「ええと、ここは一体……というか、どうしてカナンが――」
 言いかけたところで、部屋の仕切り戸が開き、マナミアが現れた。どうやら奥には水回りの小部屋があるらしい。彼女はナマエの目覚めに気づき、表情を緩めた。
「あら、ナマエさん。目が覚めたんですの?」
「マナミア……」
「気分はどうですか? ナマエさんってば、随分お寝坊さんですね。あれから丸一日、眠っていたのよ」
「そんなに!?」
 告げられた事実に愕然とする。彼女にとっては、ほんの一瞬の感覚だったのに。


 マナミアは、ナマエが意識を失ってから今に至るまでの出来事を簡潔に説明した。なぜカナンがここにいるのかも含めて。
 試練を終えたエルザたちは、気を失ったナマエを背負って伯爵のもとへ戻った。伯爵は労う間もなく、エルザに命じた。伝説の要塞復活を、と。
 エルザが異邦のものに命じると、大地が激しく揺れて、割れ――。そして島の一部だったものが、驚いた事に大洋に向かってするりと滑り出したという。やはり要塞とは、ルリ島そのものだったらしい。
 現在は遠征への準備と貴族達の避難を待ち、しばし海洋上で待機中だという。
 ナマエ自身は、現在ルリ城の賓客室の一室を借り受けている状態だ。アリエルの酒場まで運ぶのは手間だろうと、伯爵の厚意で部屋が用意されたのだ。そして、それを聞きつけたカナンが見舞いに訪れていた、というわけだった。
 ちなみに、見習いとなったエルザとクォークはすでに城内に自室を与えられていたが、他の仲間たちは変わらずアリエルの酒場に仮住まいが続いている。
 説明を聞き終え、なるほどと得心したナマエは、カナンに見舞いの礼を述べた。
「にしても、なんだか久しぶりだな。元気?」
 彼女の美貌は相変わらずだったが、どこか表情に翳りがある。
「え、ええ」
 カナンは誤魔化すように微笑んだ。
 その様子に、ナマエは苦笑を浮かべる。相変わらず、カナンの顔は雄弁だ。
「別に気を遣わなくてもいいよ」
 そう言うと、カナンは気恥ずかしそうに頬を押さえた。

 どうやらカナンは、自室を自由に出歩くことを制限されているらしい。しばらくして迎えに来たメイドに連れられ、名残惜しそうに別れを告げて部屋を後にした。
「なんか可哀想だな。……こんなことなら、ほんとに彼女を仲間に引き込んで、攫ってきちゃえばよかったかも」
 冗談めかして言うと、マナミアが「まあ」と肩をすくめた。
 ナマエはベッドの中で大きく伸びをし、おもむろに起き上がった。賓客用のふかふかのベッドに寝ていたはずなのに、体はこわばっている。丸一日眠っていたのだから仕方ないが、あまりに柔らかすぎる寝具も、体には合わなかったのかもしれない。
 立ち上がっても、眩暈はなかった。体調も悪くない。
「もう起き上がって平気なんですか?」
「うん、大丈夫。なんともないよ」
 そう答えながら、ベッドサイドの水差しからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。
 椅子の上に畳まれていた装備に手を伸ばし、借り物の上等なリネンの部屋着を脱いで手早く着替えた。
 マナミアは、ナマエが着替え終わるのを待ってから、窓際のカーテンを引いた。外は快晴。風が少し強いようだ。時刻は昼過ぎといったところか。
「きっと、闇の瘴気に当てられてしまったんですわね。うん、顔色も悪くないようですし、安心しましたわ」
 明るい日差しの下、マナミアはじっとナマエの顔を覗き込み、納得したように頷いた。ナマエはそんな彼女の言葉に苦笑する。
「心配かけて、ごめん」


 その時、扉がノックされ、来客を告げる音が響いた。
「マナミア、ナマエの様子どう? そろそろ付き添い交代するよ……」
 返事を待たずに扉が開き、顔を覗かせたのは――。
「ユーリス?」
「……ナマエ! 目が覚めたんだ、よかった」
 眼帯の少年は、ナマエの姿を見て驚いたように声を上げ、足早に近づいてきた。まじまじと彼女の顔を覗き込み、ようやく安堵したように息をつく。
「もしかして、ユーリスも付き添ってくれてたのか?」
「ん、まあね、暇だったし。――はい、マナミア。これ、頼まれてた本」
 そう言って、ユーリスは胸に抱えていた古びた書物をマナミアに手渡した。おそらく、書架から借りてきたものだろう。
「今朝までは、セイレンも付き添ってくれていたのですよ」
 マナミアはユーリスに礼を言いながら、さらりと補足する。セイレンは今朝、マナミアと交代でアリエルの酒場に戻ったらしい。
「ええ? セイレンも? ……そんなに付き添いが必要なほど、ヤバい状態だった?」
 三人も付き添いがいたと知り、ナマエは純粋に驚いた。自分ではそこまで重篤だったという自覚がなかったのだ。
 その懸念を察したのか、マナミアがにっこりと笑った。
「そういうわけではありませんけど、ユーリスが――」
「ねえ、そんなこと話してないで、歩けるんならさっさとアリエルの酒場に帰ろうよ」
 それまで黙っていたユーリスが、唐突に口を挟んできた。ナマエがきょとんとして振り返ると、少年はどこか不機嫌そうな顔をしていた。
「なんだよ、早く帰りたいのか?」
「うん」
 めずらしく素直に頷いたユーリスに、ナマエは少し面食らった。だが、確かにここに長居する理由もない。
「分かったよ。でも、その前に一応、伯爵に部屋を貸してもらったお礼を言わなきゃ」
「あら、それなら私から伝えておきますわ。エルザさんたちにも報告しておきますから、ナマエさんはユーリスと一緒に先に帰ってください」
「え、でも……」
「ほら、マナミアもそう言ってるんだから、早く」
 戸惑う間もなく、ユーリスにぐいっと手を引かれる。
「なんだよ、引っ張るなってば」
 よろめきながら抗議すると、ユーリスは手を離したが、不機嫌そうな表情は変わらない。
「もう、早くしてよ」
「なんでそんなに機嫌悪いんだ?」
 訳が分からず首を傾げると、マナミアがまたにっこりと笑って言った。
「ユーリスは、一晩中付き添いをされて、お疲れですものね」
「え……」
 呆気に取られる。ユーリスがぎょっとして、爆弾を落とした張本人を振り返る。
「ちょっと、マナミア!?」
「あらあら、いけない。では私はお先に、伯爵のもとへ行ってまいりますわ」
 飛び火を恐れてか、マナミアはユーリスが二言目を発する前に、そそくさと部屋を後にした。

 
 
 部屋を後にし、廊下を進む間、二人の間に言葉はなかった。黙々と足を動かし、大広間を抜け、城門をくぐる。
 広場に出て、ようやくナマエは頭の中をぐるぐると駆け回っていた疑問を、ぽつりと口にした。
「なあ、ユーリス」
「なに?」
「……ほんとに、一晩中付き添ってくれてたのか?」
 問いかけに、ユーリスは振り返り、少し顔をしかめた。
「なにその顔。別に悪いことしたわけじゃないんだし、いいだろ」
 乱暴な言い方の中に、どこか照れが混じっている。だが、それに気づかないナマエは、彼の言葉に納得しきれず、首をかしげた。
「でも……」
 よほど心配させるような何かがあったのだろうか。だとすれば、彼に悪い事をした気がする。
「図書室から自由に本借りられたし、少なくとも僕は有意義に過ごせたから。気にしないで」
 たいしたことではないとでも言うように、ユーリスはさらりと告げた。それ以上の追及は、どうやら難しそうだった。

 広場を抜け、アリエルの酒場へと続く角を曲がる。街の様子が、どこか落ち着かない。商人や作業着姿の人々が目につき、潮風が強く吹きつけてくる。
「なんか、あわただしいな。戦の準備に追われてるのか?」
「それもあるけど、島が動き出すときにひどく揺れてさ。古い建物とか、結構被害出てるみたい」
 ユーリスの言葉に、ふうん、と頷いた。なるほど島が分断されるくらいの力となれば、相当の揺れだったのだろう。建物の一つや二つ、倒壊してもおかしくはない。
「ところでさ」
「ん?」
「私、寝言とか……言ってた?」
 おもむろに口にしたもう一つの疑問に、ユーリスがぴたりと足を止めた。俯いたままの様子に、まさかと不安がよぎる。
「……寝言というより、うなされてた」
 ぎくり、と体が強張る。
『――私が、殺したのか!?』
 脳裏に、操りの領域で見たあの光景がよみがえる。
 それがフラッシュバックを起こし、とたんにナマエは呼吸が乱れるのを感じた。心臓がバクバクと音を立てている。そうだ、どうして今まで忘れていたのだろう。あれは夢でも幻でもなく、確かに“見た”記憶だった。
 ユーリスが不安そうにこちらを振り返る。だが、その表情もどこか遠く感じられた。
「起こしても全然起きないし、さすがに少し心配になったよ。……一体どんな夢を見てたのさ?」
「……さあ」
 わからない、と呟くのが精一杯だった。




 アリエルの酒場に着くと、一階で待機していたセイレンとジャッカルがナマエを出迎えた。心配をかけたことを詫びると、二人は気にするなと笑ってくれた。
 事情を聞いていたのか、アリエルもキッチンから顔を出し、声をかけてきた。それに応じてようやく椅子に腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せた。丸一日眠っていたはずなのに、体の芯が重い。
 慣れ親しんだ酒場の喧騒が、妙に耳につく。
 次第にその場に居ることが苦痛になり、ナマエは立ち上がって階段へと向かった。
ナマエ
 背後から呼び止める声。ユーリスだった。
「やっぱり、あんまり体調よくない?」
 ナマエは答えに少し迷った。
「……そんなことはないけど」
 言いかけて、でも、と首を振る。
「やっぱりちょっと疲れたから、部屋で横になってるよ」
「後で、飲み物でも持っていこうか?」
 思いがけない気遣いに、ナマエは目を丸くした。どうやらユーリスは、本気で自分を心配しているらしい。ふっと、微笑みがこぼれる。
「ありがとう。でもいいよ、大丈夫」
 その言葉に、ユーリスは眉をひそめた。”大丈夫”という彼女の言葉を、訝っているようだった。

 ナマエはそれ以上言葉を交わす余裕もなく、階段を上がり、自室へと飛び込んだ。衣服を脱ぎ捨てベッドへと身を投げ出すと、全身から力が抜けたように体が一気に重くなる。
 あれだけ眠ったのに、まだ眠り足りないのか。
 操りの領域で気を失う直前に見た映像が、脳裏に浮かぶ。あれは本当に、自分の過去なのだろうか。
 手のひらを目の前にかざす。この手は、何度血で汚されたのだろう。
「……誰なんだ」
 ぎゅっと拳を握りしめる。
 過去の自分は、善良な市民を平然と手にかけるような、そんな人間だったのか。
 怖かった。
 自分が何者なのかを知るのが、怖かった。
 ずっと追い求めてきた記憶は、残酷な真実だったのかもしれない。
 記憶が戻ればいいと、呑気に願っていたあの頃の自分が今は恨めしい。自分が何者か分からないということが、これほどまでに恐ろしいとは思わなかった。
「誰なんだよ、あんたは……私は――」





 目が覚めると、もう翌朝になっていた。どうやら昨日眠りについてから、一度も目を覚まさなかったらしい。
 部屋にはセイレンもマナミアの姿もない。すでに起きて出かけてしまったのだろうか。
 傍らのエンドテーブルには、ティーセットと焼き菓子が置かれていた。もしかして、ユーリスが運んできたのかもしれない。
 カップに紅茶を注ぎ、すっかり冷めたそれを一口含む。口内に広がる苦味に思わず顔をしかめたが、そのまま一気に飲み干し、ベッドから抜け出した。
 さすがに二日も食事を取っていなかったせいか、軽く眩暈が襲う。だが、気分は昨日よりずっといい。眩暈をやり過ごし、ナマエは浴室へと向かった。

ナマエ、おはよう。体調はどう?」
 寝汗を流し終えて一階に下りると、アリエルが声をかけてきた。他の仲間の姿が見えないところを見ると、どうやら寝過ごしたらしい。
「おはよう、アリエル。調子はいいよ。他のみんなはもう出かけた?」
「そうみたいね。それよりも、そこ座って座って!」
「え、なに?」
 促されるまま椅子に腰を下ろすと、アリエルが皿を手ににこにこ顔で近づいてきた。
「食欲ないのかと思って、ミルク粥を作ってみたの。これなら食べられそう?」
 ことり、と目の前に置かれた皿を見て、ナマエの顔が引きつる。
「これって……?」
 皿の中には、湯気を立てる白いどろどろとした液体。
「オートミールをミルクで煮たものよ。食べたことない?」
「ない。……気遣いありがとう」
「んん? なんでそんな微妙そうな顔してるの?」
「だって、見た目が……」
 一瞬吐しゃ物に見えた……なんて言えるわけもなく、それ以上は口をつぐむ。
 オーツ麦を煮込んだそれは、手軽で栄養価も高く、朝食としても病人食としてもよく食べられる。だが、見た目がどうにも食欲をそそらない。
 明らかに引き気味なナマエを、アリエルがぴしゃりと叱る。
「文句言わないの! 栄養たっぷりなのよ。ちゃんと食べて、体力回復させなきゃ!」
「別に病み上がりってわけじゃないんだけどなぁ……」
 スプーンですくうと、どろりとした白い液体の中に麦の断片が浮かんでいる。口に含むと、ほのかに甘い。見た目に反して優しい味だった。
「……ん」
 美味しい、と言おうとしたその時、酒場の入り口のベルが鳴り、アリエルがふと顔を上げた。
「あら? こんな朝から誰かしら」
 酒場の扉の方を見やり、ぱたぱたと駆けていく。どうやら客ではないらしい。戻ってきたアリエルの手には、なぜか花束が抱えられていた。
ナマエ、あなた宛にお花が届いたわよ」
「へっ?」
 思わず声が漏れる。
「誰から?」
「ごめん、聞かなかったわ。カードがついてるから、そこに書かれてないかしら?」
 事も無げに言われ、ナマエは一瞬言葉に詰まった。
「……字、読めないんだ。悪いけど、読んでくれない?」
「えー?」
 アリエルが若干不満そうな声を上げるが、すぐに「しょうがないわね」と笑ってカードを手に取った。傭兵の身分で字が読めない者は珍しくないのか、特に驚いた様子はない。
 アリエルは花束をテーブルに置き、添えられていたカードを開いた。さっと目を走らせた彼女が、ぱちぱちと瞬きをする。
「あら、これって……。『この花が、あなたの心を慰めてくれますように。あなたを想っている』……恋文、なのかしら?」
 その言葉に、ナマエは眉をひそめた。確かに単なる見舞いの言葉にしては意味深だが、しかし恋文としてとらえるのも微妙すぎる。恋文にしては、言葉が足りなさ過ぎる。
 こんな妙なメッセージを送りつけたのは、一体誰か。
「で、贈り主は?」
「んー……」
 アリエルはカードをひっくり返し、また戻し――首をかしげた。
「書いてないわね」
 思わずテーブルに突っ伏しそうになる。
「よっぽど慌ててたのかしら? 一体誰が贈ったのかしらね」
 アリエルのくすくすと笑う声を聞きながら、ナマエは花束に視線を落とした。
「……」
 真っ白な、大輪の花。名前は分からない。
 白い花弁に、なぜかあの白騎士の横顔が浮かんだ。
 ――あいつの仕業かもしれない。
 脳裏にタシャの顔が浮かぶと、急にじっとしていられなくなった。
 そうだ。直接会って聞けばいい。
 この間抜けなカードの贈り主は、あんたか、と。
「アリエル。この花、店に飾ってくれ」
 残ったオートミールを平らげ、ナマエはそう告げながらカードを手に取って立ち上がった。
 すぐさま出かけようとする彼女に、アリエルが慌てて声をかける。
「えっ、ちょっと! もう出歩いても大丈夫なの!?」
「平気。オートミール、ご馳走様。美味しかった」
 振り返ったナマエは、にっこりと礼を告げて、ルリの街へと飛び出していった。


 
 ルリの街は、相変わらず海風が強かった。けれど、ナマエの足取りは迷いなくルリ城を目指していた。
 花など贈られて、心が浮ついているのだと、自分でもわかっていた。逸る気持ちを抑えながら、城門をくぐる。
 タシャが本当にカードの送り主かどうかは分からない。けれど、ナマエの中には確信めいたものがあった。彼以外に、思い当たる人物はいなかった。

 大広間を抜け、中庭へと足を運ぶ。
 陽光が差し込み、水面に浮かぶ花々がきらきらと反射している。その眩しさに目を細めた瞬間、視界に飛び込んできた後ろ姿があった。
「タシャ――」
 名を呼びかけたその声は、しかし途中で喉に詰まった。彼の傍らに立つ人物を目にした瞬間、言葉が出なくなった。
 白騎士の側に立って、男の横顔を懸命に見上げるのは、可憐なドレスを纏った妙齢の美しい令嬢だった。令嬢の表情は、それと分かるほどはっきりと隣の男に焦がれている。
 おずおずと差し出されたその手を、タシャはためらいもなく取り、その甲に唇を落とした。見惚れるほどに、完璧な所作だった。

 完璧な美男美女の組み合わせに、ナマエは茫然と立ち尽くした。
 ――なんて、眩しいんだろう。
 ふいに浮かんだその思いに、まるで剣を突き立てられたように胸の奥がどくりと痛んだ。
(……痛い)
 嫉妬などではない。現実という名の鋭い刃が、惚けた思い上がりを断ち切った痛みだった。
 あの美しい光景を目にして、ようやく思い知らされたのだ。自分が、どれほど身の程知らずだったのかを。
 脳裏に、操りの領域で見た凄惨な記憶がよみがえる。
 自分は、人殺しの過去を持つかもしれない。記憶を失い、日銭を稼ぐ傭兵で、文字も読めない。
 対してタシャは、帝国の筆頭騎士として将来を嘱望される存在だ。
 その違いは、あまりにも明白だった。
 ふと足元に目を落とす。
 建物の陰に立つ自分の足元には濃い影が落ちている。その一歩先には、陽光が溢れていた。
 だが、その一歩を踏み出す気にはなれなかった。
 皮肉なことに、今の自分の立ち位置が、二人の関係を如実に物語っているようだった。
 ナマエは影の世界の人間。
 タシャは、光の中にいる人間。
「あぁ……」
 ため息まじりに、声が漏れる。
 ――わかったよ、ユーリス。
 唐突に、彼が言っていた言葉の意味が胸に落ちた。
『価値観なんて絶対に合わない』
 見ているものが違う。
 生きている世界が、違うのだ。
 どう足掻こうと、あちら側には行けない。
 その一歩先には、越えられない深い溝があるだけ。
 瞼を伏せ、そっと踵を返す。
 視界が、滲んだ。





 ――数刻後。
 アリエルの酒場には、珍しい客が訪れていた。
「騎士様が、こんな庶民の集う酒場に何の用だよ。来るところ間違ってねぇか? 貴族街なら運河の向こう側だぞ」
 不機嫌さを隠そうともしない口調で、静かに威圧するのはセイレンだった。彼女は突然現れた来訪者を通すまいと、入口で腕を組んで仁王立ちしている。
 だが、対峙する男はひるむ様子もなく、冷静に口を開いた。
「いや、間違えてはいない。ナマエに用があって訪ねたのだ。……すまないが、中に入らせてもらってもいいだろうか」
 そう言って中へ入ろうとするタシャを、セイレンは反射的に遮った。
「――む」
「ちょっと待て。ナマエに用って……一体何の用だよ。まさか、またあたしの時みたくイチャモンつけに来たんじゃないだろうな」
「そうではない。見舞いだ。……これで満足か?」
 気色ばむセイレンに、タシャはうんざりしたように手短に答えた。だが、それで納得するセイレンではなかった。むしろ疑念は深まったようだった。
「見舞いぃ? あんたが? あいつを? 一体なんで」
 無遠慮な追及に、タシャが一瞬だけ言葉を選ぶような間を置く。
「それは……彼女と親交があるからだ」
「は?」
 驚いたのはセイレンだった。ナマエからそんな話は一度も聞いていない。まさに寝耳に水だ。
「なんだって……親交? ハッ、冗談だろ。あいつ、何考えてんだ」
 思わず小声で悪態をつく。
 しかも、目の前の男はセイレンにとって因縁の相手でもある。冤罪で投獄されたエルザたちの件で尽力してくれたとは聞いているが、個人的な感情ではどうにも好きになれそうにない。
「……まあいいや。悪いけど、あいつなら今はいねぇよ。分かったんなら、とっとと帰った帰った」
 すげなく追い返そうとするセイレンだったが、その試みは失敗に終わる。
「いない……? いや、しかし倒れたと聞いた。……本当は二階で休養しているのではないのか? 一目でもいい、彼女の顔を――」
「しつけーな……嘘は言ってねえよ! いないっつったらいないんだよ!」
 自分の言葉を端から疑ってかかる態度に、ついにセイレンの堪忍袋の緒は切れた。怒声が酒場のホールに響き渡り、喧噪が一瞬しんと静まり返る。
 ぽとり、とテーブルに飾られた白い花の花弁が、ひとひら零れ落ちた。


 タシャがアリエルの酒場を訪れたのは、つい先ほどのことだった。
 場違いな騎士の登場に、一階にいたジャッカルとユーリスの間に沈黙が落ちる。ちょうど食事に来ていたエルザもその場にいたが、すでに同席していたセイレンによって半ば潰されかけていた。
 タシャの姿に即座に反応したのは、入り口近くのテーブルに座っていたセイレンだった。彼女のタシャに対する印象は、初対面で絡まれて以来、一ミリも改善されていない。つまり、心象は最悪のままだ。
 ゆっくりと椅子を引いて立ち上がったセイレンが、警戒心を隠さず「よお」と声をかけ――。
 そして、今に至る。
 予想通り一触即発の空気が漂い始め、さすがにまずいと判断したジャッカルが、慌ててセイレンの首根っこを掴んで引き離そうとした。
「こらこらセイレン、落ち着けよ。ひと様の恋路を邪魔しちゃいけねぇぜ」
 タシャの用件が本当に色恋沙汰かどうかは分からない。だが、男が女に用があるなら、理由は一つ――あくまでジャッカルの中では、だが。
 しかし、相手は忠告を素直に聞き入れるような性格ではない。セイレンはジャッカルの手を振り払おうと暴れ出した。
「は? おいジャッカルふざけんな。冗談でも笑えねぇぜ! なんでナマエがこいつなんかと――」
「はいはい、どうどう。ここは俺に任せて、お前は奥で大好きな酒でも飲んでな。――で、タシャ、だっけ? せっかく来てくれたところ悪いんだが、ナマエは出かけていてまだ戻ってきてねぇんだ。いつ帰るかも分からねぇし、忙しいあんたを待たせるのも悪いから、また日を改めてくれねぇか?」
 セイレンを奥へと押しやりながら、ジャッカルが愛想笑いを浮かべて取りなす。
 タシャは「そうなのか……」と呟き、しばし思案するように口をつぐんだ。若草色の瞳が、迷うように揺れる。
「では、ここで待たせてもらう」
 数拍の沈黙の後、そう宣言して手近な椅子に腰を下ろす。だが彼の存在は、酒場のざらついた空気の中で明らかに浮いていた。
 セイレンはというと、「ちっ、相変わらずいけ好かねえ奴だぜ!」と悪態をつきながら、足音も荒くカウンターの奥へと消えていった。

 タシャは無表情のまま、腕を組んでじっと座っている。
 彼とはほぼ初対面に近いジャッカルは、話題に困って頭を掻いた。微妙な空気が、酒場の一角に漂っていた。
「ええと、せっかくだから、何か飲んでいくか?」
「気遣いは不要だ。……いや、だが、ただで居座るわけにもいかんな。紅茶をもらおうか」
 アリエルに注文を通すタシャの横で、ジャッカルは内心で突っ込む。
(酒場で頼むもんがそれかよ……)
 堅苦しい奴だ、と浮かんだ感想は心の中でとどめておく。
 だが、ふとタシャの横顔を盗み見る。先ほどの軽口を否定しなかったあたり、あながち邪推でもないのかもしれない。つまり、タシャとナマエの関係が、男女のそれである可能性――すでにそういう仲なのか、それとも片想いなのかは分からないが。
 それにしても、隣に座るユーリスが先ほどから一言も発していないことが少し気になった。その視線は、冷ややかにタシャを射抜いていた。

 隣のテーブルで突っ伏していたエルザが、ふいにぴくりと身を震わせる。
「んん……」
 ややしてむくりと起き上がったエルザは、まだ酒が抜けきっていない様子だった。
「おっ、起きたのか、エルザ」
 ジャッカルの声に、エルザはとろんとした目を開ける。その視線がタシャを捉え、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「あれ、タシャだ。ここで何してんだ」
「愛しのナマエに会いに来たんだと」
「――ジャッカル殿」
 タシャが鋭く睨みつけるが、ジャッカルはどこ吹く風。その軽口は、しっかりと酔っ払いの耳にも届いていた。
「いとしの……?」
 エルザはぼんやりと首を傾げ、一拍遅れてから、わざとらしく仰け反った。
「えっ、タシャってナマエが好きなのか?」
 タシャはエルザを睨みつけた。だが、所詮酔っ払いに威圧は通じない。彼は諦めたように目を伏せ、静かに言った。
「だとしたら、どうする」
 やはり、否定はしない。
「うわ、そうなの……」
 エルザは頭を抱え、再びテーブルに突っ伏した。が、すぐに何かを思い出したように、はたと顔を上げる。
「あれ? そうなると……。あ、だめだめ、ダメだよタシャ、ナマエはダメだ。なあ、ユーリス」
「な、なんで僕に振るのさ」
 突然話を振られ、ユーリスは明らかに動揺した。
 解せないのはタシャだった。まさか駄目出しを食らうとは思っていなかった彼は、盛大に眉をひそめる。
「エルザ、よもや貴殿、邪魔をするつもりか」
「……だってさあ、タシャはずるいよ。強くて、かっこよくて、なんでも出来て……その上、ナマエまで攫っていくなんて……。ああもう、俺が何したってんだよ、ちくしょう……あいつら一体なんなんだ……」
 エルザの言葉に、タシャの眉間の皺がさらに深くなる。今度は、理解不能な酔っ払いの言動に対する混乱だった。特に後半は、もはや支離滅裂だ。
 ぶつぶつと呟きながらテーブルに突っ伏すエルザの様子に、タシャはジャッカルを振り返って問うた。
「この男は一体どうしたのだ」
 ジャッカルは肩をすくめる。
「いや、城で正体不明の奴らに襲撃されたらしくてな。それで落ち込んでるみたいだ」
「それしきのことで軟弱な……。相当酔っているな。――おい、こら、近寄るな。ええい、酔っ払いめ、離れろ!」
 のそりとした動きでエルザが絡んできたので、タシャは逃れようと腰を浮かす。
 だが、エルザは気にする様子もなく、へらりと笑ってタシャの腕をがっしりと掴んだ。
「いいじゃないか〜。タシャも呑もうよ〜」
「断る!」
「あ、ひどい……。うっ、もうだめ、俺、げんかい……」
「おい待て……エルザ!」
 タシャの悲鳴じみた声が、酒場の中に響き渡った。



「あんな人のどこがいいんだろ。ガサツだし、適当だし、無謀だし……」
 エルザとタシャの賑やかなやり取りを眺めていたユーリスが、ふいにぽつりと呟いた。
「騎士様は騎士様らしく、貴族令嬢の相手でもしてりゃいいのに」
 ジャッカルは軽く目を見開いた。
 皮肉の中に、確かな悪意が滲んでいる。ユーリスにしては珍しい言い方だった。
「おいおい、いやに辛らつだな」
 少年はちらりと視線を寄こし、けだるそうにため息をついた。





 逃げるようにルリ城を後にして、ふらふらと街をさまよっていたら、いつの間にか夕刻になっていた。落ち込んだ気分のまま酒場に戻る気にはなれず、かといって行くあてもない。ナマエはルリの街をあてもなく歩き続けた。
 おかげで頭はだいぶ冷え、気分も落ち着いてきた。
 だが、外を歩き回っていたせいで、体はすっかり冷えてしまっている。ぶるりと身震いをしながら、ナマエはようやく酒場の扉に手をかけた。
 途端に扉の奥から喧騒が響く。
 まさか、喧嘩でも起きているのか?

「なんだよ、騒がしいな……」
 呟きながら扉を押し開き、一歩中へ足を踏み入れた瞬間、ナマエの表情が、凍りついた。
 なぜ、ここにタシャがいるのか。
 ちょうどエルザの頭を押さえつけていたタシャが振り返り、ナマエの姿を見て目を見開いた。
ナマエ
 名を呼ばれ、ビクリと体が反応する。こみ上げてきた感情を、ナマエは無理やり飲み込んだ。
「……タシャ、来てたのか」
「倒れたと聞いたが、もう歩き回って大丈夫なのか?」
 心配げな色を浮かべて、タシャが彼女に近づき顔を覗き込む。感情を悟られまいと、ナマエは顔を逸らし、そのまま彼の横を素通りした。
「ああ、平気だ」
 そう言って、さっと酒場の中を見渡す。ジャッカルとユーリスが様子を窺うようにこちらを見ていた。エルザはへらへらと笑いながら「おかえり」と手を振っている。どうやら酔っているらしい。
 ナマエは再び背後の男へと振り返った。
「で、帝国の筆頭騎士様がこんなところで何してるんだ? 流石に場違いなんじゃないのか」
「見舞いに来たんだ。……あなたのことを」
 真面目な表情で告げられ、ナマエは耐えきれず視線を逸らした。
「それはどうも。おかげ様でぴんぴんしてるよ、見舞いなんて必要ないくらいにな」
 感情を抑えようとするあまり、言葉の端々に棘が混じってしまう。思わず唇を噛む。
 挙動不審な彼女の態度に、タシャが眉をひそめた。
ナマエ?」
 訝しげに名を呼ばれる。
 ナマエは顔を上げなかった。
 ふいに、手の甲に何かが触れた。驚いて視線をやると、無意識に強く握りしめていた拳にタシャの手が触れている。
 思わず顔を上げる。若草色の瞳と、視線がぶつかった。
ナマエ、二人で話がしたい」
 先ほどよりも強い口調で告げられ、一瞬、言葉に詰まる。
「私には話なんてない」
「……ナマエ
 次の言葉が見つからないのか、タシャは視線をさ迷わせ、癖のある髪を掻き上げた。彼女の拒絶に困惑しながらも、なおも食い下がる。
「……では、倒れた理由を聞かせてくれ。今はもう大丈夫なのか? 治癒師には診てもらったのか」
 ナマエは思わず顔をしかめた。
 これじゃまるで保護者だ。
「別に大丈夫だってば」
「そうやって、また無茶をしているのではないか」
「してない」
「嘘ではないだろうな」
「嘘なんかじゃ――」
 言いかけて、思い直し、ため息をつく。めげずに食い下がってくるタシャに、これ以上しらを切るのは難しいと判断したのだ。
「……分かった、もういい。二階で話そ――」
 酒場の奥を振り返ると、五つの瞳がこちらを興味津々で覗いていた。思わず固まる。
「やっぱりやめた、外に行こう」
 顔を振って思い直し、ナマエは再び扉の方へと足を向けた。こんな仲間たちの前で話をしたら、絶対に盗み聞きされるに決まっている。
 一歩踏み出した途端、背中に焦ったような声がかかった。
「ちょっと、帰ってきたばかりなのにまた出かけるの!?」
 振り返ると、ユーリスが立ち上がってこちらを睨んでいた。
 ナマエは首を傾げる。
「……別にいいだろ、外出くらい。それとも、私になにか用事でもあった?」
 問いかけに、少年はぎくりとした表情を浮かべ、ぎくしゃくと腕を振り回した。
「用事!? ええ、と、ほら、あれだよ、アレ」
 だが、待てども明確な用件は出てこない。
「……悪いけど、思い出してからにしてくれないか? タシャ、行こう」
 痺れを切らしたナマエは踵を返す。
「ちょっと!」
 背中に少年の声がぶつかった。


 
 向かった先は、先日騒動のあったサルマンドルの酒場だった。あれからまた普段どおりの営業を再開したらしく、店内は客でごった返している。ここなら、仲間に会話を盗み聞きされる心配もない。
「それで、どうして倒れたんだ」
 タシャは注文した飲み物に一切手をつけず、単刀直入に切り込んできた。ナマエは蜂蜜酒を一口飲み込み、喉を潤してから答えた。
「よく分からない。マナミアは、闇の瘴気にあたったのかもって言ってた」
「そうか。何もなかったのなら良かったが」
 タシャは静かに頷く。
 どうやらナマエの説明に、あっさり納得したらしい。拍子抜けしていると、ふいに彼は微苦笑を浮かべた。
ナマエが倒れたと聞いて見舞いに行ったのだが、ユーリス殿に門前払いを食らってしまった」
「え?」
 意外な言葉に、ナマエは思わず目を見開いた。ユーリスはそんなこと、一言も言っていなかった。
「いや、私も悪かったのだ。夜中に見舞いに行くなど非常識だからな。彼が怒るのも当然だ」
「夜中?」
「ああ。本当はすぐにでも見舞いたかったのだが、立て込んでいてな」
 戦争準備で、恐らく今が最も忙しい時期なのだろう。
「それで日を改めて伺ったら、既に退室した後だった。……全く驚かされる」
 苦笑まじりに言われ、ナマエはそっと瞼を伏せた。

「……今日届いてた花とカード、あんたの仕業?」
 今日一番、彼に聞きたかった問いだった。タシャはあっさりと頷く。
「ああ、無事届いたか。そうだ、私が贈った」
 肯定の言葉に、ナマエは内心で力が抜ける思いだった。
「カードに名前、書いてなかったぞ」
 タシャが一瞬言葉を失う。己の失態にようやく気づいたらしく、頬に朱を浮かべて謝罪した。
「……それは、失礼した」

 からん、とグラスの中の氷が溶けて音を立てる。ナマエは手元のグラスを見つめたまま、静かに尋ねた。
「『あなたを想ってる』って言葉の意味……そういう解釈で捉えていいの?」
 数拍、沈黙があった。
「……ああ、構わない」
 しっかりとした声で、肯定が返ってきた。
 ナマエは思わず目を閉じた。落ち着いたはずの胸がざわめく。それを飲み込むように眉を寄せ、口を開く。
「あんたさ、いくらなんでも物好きすぎるだろ。お淑やかな方が好みなんじゃなかったのか」
 以前、ルリ艦隊で交わした会話を引き合いに出す。
「……あれは、あくまで一般論と言ったはずだ」
「そういうことされると困るんだ。どうしていいか分からなくなるから、やめてくれ」
「気にすることはない。私が好きでやっているだけだ」
 延々と同じやり取りが続きそうで、ナマエは耐えきれず顔を上げ、隣の男を睨みつけた。
「だからそれが困るって言ってるんだ」
 だがタシャは、ひどく落ち着いた様子で、まっすぐにナマエを見つめていた。
「あなたを困らせるつもりはない」
 ぐ、と言葉に詰まる。動揺を誤魔化すように、ナマエはわざとらしくため息をついた。
「……あんた、私に何を期待してるんだ。要求を言ってくれ。応えられることなら応えるから」
「要求など何もない。ただ、あなたを幸せにしたいだけだ」
「……寝たいってこと?」
 ぶしつけで下卑た問いに、さすがのタシャも動揺した。
「違う! い、いや、完全には否定できないが……だが、そういう意味ではなく……っ」
 それ以上は言葉が続かない。
 顔を赤くし狼狽するタシャに、ナマエは感情をぶつけるように言い放った。
「なんで私なんだ? その熱意をもっと他の奴に向けなよ。あんた騎士様なんだろ? 傭兵なんか相手にしてないで、貴族のお嬢様でもエスコートしたら? その方が似合う」
 深いため息が、ナマエの言葉を遮った。
「……残念だが、そのつもりはない」
 若草色の瞳が、ひたとナマエを捉える。
「私が守りたいと思うのは、ただ一人だ」


 うろたえたナマエは、咄嗟に視線を逸らした。
 困った。どうしてこの男は、こんなにも真っ直ぐで、しつこいのだろう。もうこれ以上惑わせないでほしいのに、たやすく壁を破って心の奥へ踏み込んでくる。
 脳裏に、ルリ艦隊の船内で交わした会話が浮かぶ。
「……まさか責任取れって言ったこと、律儀に守ってるわけじゃないよな」
「違う」
 即座に否定される。
 タシャの声には、わずかに苛立ちが混じっていた。
ナマエ
 咎めるように名を呼ばれる。
「一体今日はどうしたんだ? らしくないぞ」
 らしくない――?
 その言葉に、ナマエは違和感を覚えた。
「……らしくないって、そもそも私らしいって何だ? 記憶喪失の人間が、らしくないっておかしいと思わないか」
 無意識に、苛立ちが口調に滲んでいた。
 タシャが、落ち着け、と宥めるように言う。
「少し自暴自棄になっていないか? なにか、あったのか」
 はっとして、ナマエは自嘲気味に笑った。
「……悪い。ちょっとイライラしてて。八つ当たりだな、ごめん」
「何に苛立っているのだ?」
「それは……言えない。自分の中でもまだ整理がついてなくて。ごめん」
「そうか」
 タシャはそれ以上追及しなかった。
 ナマエは静かに息をつき、椅子から立ち上がった。
 彼女の中で、この話はもう終わっていた。


 カウンターの上に置いていた手が、そっと押さえられた。振り返ると、タシャが焦ったような表情でこちらを見ていた。
「もう帰るのか?」
「ごめん、今日は疲れてるんだ」
 素っ気なく答えると、タシャは言葉を失い、短くため息をついた。
「……それなら仕方あるまい」
 渋々といった様子で立ち上がったタシャは、掴んでいた手を名残惜しそうに離した。

 酒場を出ると、辺りはすっかり闇に沈んでいた。陽が落ちると、ルリの街は驚くほど早く暗くなる。タシャは一度星空を仰ぎ、それからナマエへと視線を戻した。
「宿まで送ろう」
 突然の申し出に、ナマエはぎょっとした。
「いや、いいって。遠回りになるだろ」
「気にするな。ほとんど通り道だ。それに――私がそうしたいのだ」
 どうやら言い出したら聞かない性質らしい。アリエルの酒場へ向かう道中、ナマエが何度断っても、タシャは頑として引き下がらなかった。
 陽が沈んだルリの街は、珍しく人影もまばらだった。

 やがて、アリエルの酒場の看板が視界に入る。
 ナマエは歩みを止め、タシャを振り返った。
「ほら、もうここでいいから」
 これ以上ついて来させるつもりはない。その意図を察したのか、タシャは困ったように微苦笑を浮かべた。
「素っ気ない人だ。最後まで騎士ナイトの役目を果たさせてくれないのか」
「なに言ってんだ。もう十分立派な騎士だろ。ほら、早く帰れ」
 男の背後に回り、強制的に回れ右をさせる。
 その背を押そうとした瞬間――手を取られ、ぐいと引き寄せられた。
 バランスを崩したナマエは、あやうくタシャの胸元に倒れ込みそうになる。慌てて胸元に手をつき、なんとか踏みとどまったが、背に回された腕がそっと彼女を支えた。
ナマエ
 真摯な声が、彼女の名を紡ぐ。
 顔を上げると、熱を帯びた視線が絡みついた。
 息が苦しくなる。
「私は、一人の男としてあなたを慕っている。それを、忘れないでくれ」
「タシャ……」
 囁くように名を呼び、ナマエは俯いた。
 こんな自分に真剣に向き合おうとしてくれる彼に対し、逃げてばかりの自分に嫌気がさす。

 無言のまま俯いていると、ふいに伸びてきた指先が、そっと顎を持ち上げた。
 視界いっぱいに、タシャの瞳が映る。
「……っ」
 反射的に顔を伏せたせいで、額に温かな唇が触れた。
 タシャが苦笑する。
「っ、ごめん」
 ナマエは思わず額を押さえ、謝った。
 何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。キスを避けたことか、それとも彼への一連の態度か。
 タシャは静かに「良い」と首を振った。


 ふいに、タシャがじっとナマエの顔を見つめ、おもむろに口を開く。
「私のことが怖いか?」
「は……?」
 予想外の問いに、ナマエは一瞬きょとんとした。
「怯えているように見える」
「馬鹿なこと言うな。怖いわけないだろ」
 自尊心をくすぐられ、若干虚勢混じりに言い返す。
「そうか」
 タシャは苦笑し、背に回していた手をそっと離した。
「私は関係を急ぐつもりはないし、お前に負担をかける気もない。ただ、私の想いを受け入れる余地がお前の中にわずかでもあるのなら、私はその時を静かに待とう。……だから、どうか私から目を逸らさないでくれ」
 図星を刺され、ナマエは言葉を失った。
 素直に受け取れたら、どれほど楽か。
 けれど――。

 ぐ、と耐えるように瞼を閉じる。
「――タシャ、忘れてるようだけど、私は記憶喪失の人間なんだ」
「忘れてなどいない」
 きっぱりと返され、ナマエは目を開いた。
 真面目で、実直で、誤魔化しのない瞳。
 この男なら、どんな突拍子もない質問にも真剣に答えてくれる――そんな確信があった。
 ふと胸に浮かんだ思いを、ナマエは静かに口にした。
「もし、記憶が戻って……私が実は犯罪者とか、悪党だったって分かったらどうする?」
「……は?」
 タシャの瞳が大きく見開かれる。
 しばしの沈黙。そして。
「くっ、ははっ」
「……笑うなよ。これでも真剣に悩んでるんだから」
 肩を震わせて笑いを堪えるタシャを、ナマエは睨みつけた。大真面目に尋ねた結果がこれとは、さすがに腹が立つ。
「悪い」
 タシャはすぐに謝り、すっかり不機嫌になったナマエを宥めるように続けた。
「まさかそんなことで悩んでいたのか。そもそも、悪人はそんなことを気にしない。……大丈夫だ。お前はそんな人間ではない」
 優しく言い聞かせるように、微笑みながら断言する。
 ――どうしてこの男は、こんなにもたやすく不安を拭ってしまうのか。
 否定してほしくて尋ねたわけではない。けれど、その言葉は確かにナマエの胸に響いた。
 
 言葉を失ったままタシャを見つめていると、彼は何か勘違いしたのか、不安げに眉を寄せた。
「……笑って、気を悪くしたか?」
 首を横に振り、ナマエは小さく俯いた。
「そうか。なら、体を冷やす前に早く酒場へ戻れ」
 こくりと頷いたものの、しかし去りがたい思いから足が動かない。
 タシャが咎めるように「ナマエ」と呼ぶ。ナマエは観念したようにため息をついた。
「わかった、戻るよ。……でも、あんたの見送りくらいさせてくれ」
 タシャは一瞬ぽかんとした後、はっと我に返り、慌てたように身じろぎした。
「あ、ああ、それはもちろん……いや、待て。何か企んでいるんじゃないだろうな?」
「失礼だな。別に何も企んでないよ」
 疑い深いタシャの言葉にむっとしつつも、普段の自分の行動を思えば、疑われても仕方ないのかもしれない。
 悄然と俯いたその頭に、ぽん、と大きな手が置かれた。
「悪かった。……お前がそんなことを言ってくれるとは思わなかったから、驚いたんだ」
 さらりと頭から滑り落ちたタシャの手が、頬をかすめ、髪を梳くようにして離れていく。ナマエはその動きを、思わず目で追った。

 ふと、胸に浮かんだ思いが口をついて出る。
「……ねえ」
「なんだ?」
「やっぱり……呼び方、その方が落ち着く」
 タシャは一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。
「そうか」
 呼び方が、いつの間にか出会った頃のものに戻っている――
 そのことに、ナマエは気づいていた。
 意図的なのかどうかは分からない。
 けれど、“あなた”よりも、ずっと自然で、ずっと居心地がいい。
「まったく……」
 ぽつりと零れたタシャの呟きは、どこか残念そうで、どこか名残惜しげだった。
 その先に続くはずだった言葉が、喉の奥で飲み込まれていく。
 何を言おうとしたのか――気になったが、ナマエは問いただすこともせず、ただ黙って彼の横顔を見つめていた。



「――おやすみ」

 そう別れの挨拶を告げて踵を返した男の背中が、夜の雑踏の中へとゆっくりと溶け込んでいった。
 遠ざかっていく、広い背。
「……タシャ」
 ふいに胸の奥がきゅっと締めつけられ、思わず名を呼んでいた。
 理由は分からない。ただ、あの背に縋りつきたい衝動が、どうしようもなく込み上げた。
 だが、返ってくるのは静寂だけ。
 夜風が、ナマエの頬をそっと撫でて通り過ぎていった。



2026/1/28改稿