Chapter.21.5





 貴族の館からアリエルの酒場へ戻ったのは、すっかり夜が明けた頃だった。疲労困憊のままベッドに潜り込み、次に目を覚ました時には、すでに昼を過ぎていた。
 うっすらと開いたカーテンの隙間から、柔らかな陽光が差し込んでいる。
 ナマエはぼんやりとした頭のまま身を起こし、大きなあくびを噛み殺した。寝ぼけ眼で部屋を見渡すと、マナミアとセイレンのベッドはすでにもぬけの殻だった。
 ――セイレン、大丈夫だったのかな。
 ベッドにいないということは、回復したのだろう。
 そう自分に言い聞かせながらも、思考はまとまらず、再びベッドに沈みかける。が、うつらうつらとしかけたところで、意を決して布団を蹴飛ばし、ようやく体を起こした。

 浴室で熱い湯を浴びると、ようやく頭が冴えてきた。着替えを済ませて部屋を出ると、いつもなら昼間から賑わっているはずの酒場が、妙に静まり返っていた。
 二階のバルコニーにも、客の姿はない。
 首を傾げながら手すりに寄り、一階を覗き込んだその瞬間――。
「げっ」
 思わず声が漏れた。
 銀糸の髪が視界に飛び込んできたのだ。
 しかも、ちょうどこちらを見上げたその少年と、ばっちり目が合ってしまった。
「……人の顔見て“げっ”て、ご挨拶だね」
 ユーリスが苦い顔で言う。
 ナマエは口元を押さえ、その場で脱力した。
 まさか、起きて早々この少年と顔を合わせる羽目になるとは。
「なに? 僕のこと、無視?」
 座り込んで頭を抱えていると、少し苛立った声が飛んできた。無視したつもりはなかったが、そう言われては、いつまでも二階でぐずぐずしているわけにもいかない。ナマエは観念して、ゆっくりと階段を降りた。

 ユーリスは腕を組んだまま、やや不機嫌そうにナマエを見やった。
「おはよう」
「……おはよう」
 距離を取りつつ、警戒心を隠さずに返すと、ユーリスは探るような視線を向けてきた。
「……なに?」
「もしかして、昨日のこと気にしてるの?」
 その一言に、ナマエは言葉を詰まらせた。昨日――正確には今日未明の出来事だが、あまり思い出したくない出来事が脳裏に去来する。とともに、肌に触れられた熱い感触がありありと甦ってきて、思わず顔が熱くなった。気にしているかと問われれば、もちろん気にしてない、わけがない。
「……するだろ、普通」
 顔を逸らしながら、ようやく絞り出すように答えると、ユーリスはふうん、と鼻を鳴らした。あの後、結局ユーリスには逃げられてしまった。だから、あの件は曖昧なまま、宙ぶらりんになっている。
 いたたまれなくなったナマエは、ユーリスの横をすり抜け、カウンターへと向かった。その背中に、からかうような声が飛んでくる。
「意識してくれるのは結構だけど、心配しなくても、こんなところで無理矢理手出しなんかしないよ」
 揶揄に思わず振り返ると、ユーリスが小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。ナマエは動揺を隠すように声を荒げる。
「っ、言われなくても分かってるよ!」
 昨日のあれは恐怖に煽られてのもので、普通の精神状態じゃありえないことはナマエも理解している。あんな特殊な環境下でないと、普通ああはならないだろう。
 が、体があの無遠慮に肌を探られる恐怖を覚えているがため、目の前の少年に対して警戒を解くことが、難しい。
 その様子を見て、ユーリスはまたふうんと鼻を鳴らした。どこか余裕を感じさせる態度が、また癪に障る。

 と、ユーリスが一歩、こちらへと足を踏み出した。そのままこちらへと向かってくる少年に、ナマエはぎょっとして反射的に後退する。
「な、なんだよ、こっち来るな」
 ユーリスは一瞬立ち止まり、呆れたように眉をひそめた。
「ちょっと自意識過剰なんじゃないの? 別に君が目的で近寄ってるわけじゃないんだけど」
「だ、だったらなんでこっち来るんだよ!」
 じりじりと後退し、ついには背中が壁にぶつかる。ユーリスは無表情のまま、ナマエの目の前まで歩み寄った。
「……あのさ」
「な、なんだよ」
 内心の動揺を隠しきれず、声が上ずる。
 ユーリスの手がすっと動いた瞬間、ナマエはびくりと肩を跳ねさせた。が、少年の手は進路を変え、彼女の腰元あたりを指し示した。

「そこ、どいてくれない? キッチンに入りたいんだけど。昼ごはん、まだだし」
「き、キッチン!?」
 叫んだあとで、我に返ってようやく周囲を見渡す。気付くのが遅れたが、一階のホールにも二人以外誰もいない。
「……そういえば、他のやつは? アリエルたちもいないみたいだけど」
「エルザたちはまだ寝てる。アリエルたちは出かけてる。今日は安息日で客も少ないから、店は夕方から開けるんだって」
「……そうなのか」
 なるほど店を閉めていては、客がいないのも当然だ。拍子抜けしたナマエは、いらせていた肩をがくりと落とした。
 しかしよりによって今日、ユーリスと二人きりにしてくれなくともいいじゃないか。
 静かにため息をつき、心の中で天を仰ぐ。
 ――誰か、早く起きてきてくれないだろうか。


「で、早くどいてくれない? 君が邪魔でキッチンに入れないんだけど」
 ユーリスの再三の催促に、ナマエはようやく我に返った。
「あ、ああ、悪い」
 慌ててその場を離れる。丁度ナマエがキッチンへの入り口を阻んでいたようだ。
 障害がなくなったことで、ユーリスは遠慮なく仕切りを開けてキッチンへと入っていった。その背中を見送りながら、ナマエはようやく先ほどのやり取りの意味を理解し、今さらながら自分の過剰な反応に顔を覆った。
 ――なにを一人で動揺してるんだ、私は。
 ユーリスはそんな彼女を気にも留めず、棚を物色している。
「……というか、勝手に漁っていいのか?」
「アリエルが、自由に使っていいって言ってたからね」
 そう言いながら、ユーリスはライ麦パンの塊を取り出し、適当な大きさにカットする。ミルクを注いだカップと、パンを盛った皿を手にキッチンから出てくると、そのままカウンター席に腰を下ろした。
 その様子に、ナマエは思わず声をかける。
「ユーリス、まさかそれだけで食事を済ませるつもりか?」
「そうだけど?」
 振り返った少年は、当然のように答える。
「足りないだろ、どう考えても」
「だって、作るのめんどくさいし」
 あっけらかんとした返答に、ナマエは呆れてため息をついた。
「あのなぁ……」
 もっとちゃんと食べなきゃ、と言いかけて、言葉を飲み込む。下手に口を挟めば、また機嫌を損ねかねない。
 しばし考えた末、ナマエは諦めたように言った。
「分かった。適当に作るから、ユーリスはコーヒー煎れてくれ」
「うん」
 ユーリスはその言葉を待っていたかのように、ぱっと身を翻した。



 小ぶりのポテトを洗って水を張った鍋に放り込み、火にかける。その間にベーコンをカリカリに焼き、湯を沸かしてポーチドエッグを作る。
 作り置きのひよこ豆のスープを温め、器に盛りつける。
 厚切りのパンにはスライスしたナチュラルチーズを乗せ、フライパンでチーズが溶けるまで温めた。そこにベーコン、ちぎったレタス、卵を重ね、岩塩と胡椒で味を整える。最後に茹で上がったポテトを半分に割り、塩と香草、たっぷりのバターで味付けする。
 朝昼兼用の食事のため、やや多めの量だったが、育ち盛りの少年にはちょうどいいかもしれない。
 食事をテーブルへと運び終えると、ユーリスがコーヒーポットを持ってきた。香ばしい香りが辺りを漂う。
 一緒に席に着くと、ユーリスは早速オープンサンドへと手を伸ばした。その横顔が、どことなく綻んでいる。やはりパンだけの味気ないものより、湯気が立っている食事の方が当然嬉しいのだろう。

 食事が始まると、しばし無言の時間が流れた。カタカタと食器が触れ合う音だけが、静かな空間に響く。
 ユーリスの淹れたコーヒーは、少し濃い目だ。ミルクが欲しいな、と思ったその瞬間、横からピッチャーが差し出された。
「ミルクいる?」
 驚いて顔を上げると、ユーリスが真っ直ぐにこちらを見ていた。そのタイミングの良さに、ナマエは一瞬たじろぐ。無意識に顔をしかめたところを、見られでもしたか。とすれば、こちらを窺っていたということになる。
 ――馬鹿馬鹿しい。意識しすぎだ。
 ナマエは自分の考えに内心呆れ、差し出されたピッチャーを受け取った。
「うん、貰うよ」

 ミルクを注ぐと、コーヒーは柔らかなカフェオレ色に変わった。一口飲むと、先ほどよりもずっと優しい味がした。
「今日はどこか出かけるの?」
 唐突な問いに、ナマエは隣の少年を見やる。ユーリスはオープンサンドの卵を潰しながら、ちらりと視線を寄越した。
「……いや、今日はここでゆっくりするよ」
「じゃあ、僕もここで本を読んで過ごそうかな」
 ――じゃあ、ってなんだ、じゃあって。
 カップをテーブルに置き、ナマエがその言葉の真意を問いただそうとした時。
「そういえば、二人きりで食事するの、初めてだね」
「えっ……」
 不意に飛び出した“二人きり”という言葉に、ナマエは思わず動揺した。ユーリスは気づいていないのか、何気ない口調で続ける。
「静かだし、たまにはこういうのもいいね」
 そう言って、がぶりとオープンサンドにかぶりつく。卵の黄身がとろりと垂れ、口元に付いたそれを、ユーリスは何気なく舌でぺろりと舐め取った。
「っ……」
 その仕草を目にした瞬間、あの艶かしい赤い舌で舐められた事が途端に脳裏によみがえり、ナマエは思わず舐められた方の頬を押さえた。手の平に押し付けた頬は熱い。顔はきっと赤くなっている。
 ――ユーリスに見られたら、また何か言われる。
 ナマエは不自然にならぬよう、頬杖をつくような仕草で、顔を伏せた。


 ――落ち着け。平常心、平常心……。
ナマエの料理って、なんというか……素朴な感じだよね」
 ――まったくなんてザマだ。昨日のことは、不可抗力だった。そう、頭では分かっているのに。
「凝った酒場の料理も美味しいけど、たまにこういうのもホッとして、いいよね」
 ――動揺しすぎていることは、自分でも良く分かっている。ユーリスですら全く気にしてない様子なのに、自分ひとり意識しまくって情けないったらない。
「よかったら……その、また作ってくれると嬉しいな」
 ――いや、そもそも。あれだけのことをしておいて、まったく気にしないってのもどうなんだ?
「……ナマエ?」
 ――ああいうことに興味なさそうな顔をしておきながら、実は手が早いとか……? うわ、怖い。年下怖い。


「――ナマエ!」
 耳元で呼びかけられ、はっとする。
 我に返ると、ユーリスがこちらを睨んでいた。ぎょっとして身を引こうとした瞬間、自分の手首が掴まれていることに気づき、ナマエは動転した。
「わ、わああっ! なっ、何? 何してんだ!?」
「目が覚めた?」
 思わず混乱して悲鳴を上げると、ユーリスがじとりと半目を向けてきた。
「とっくに覚めてるよ! な、なにしてんだ、手を離せ!」
 ぐいっと腕を引こうとするが、思った以上に力が強くて振りほどけない。
「じゃあ、僕のこと無視するのやめてくれない?」
 低く抑えた声が、耳の奥に響く。ぞわりと背筋を撫でるような感覚に、ナマエは思わず身をすくめた。
 どうやら少年の機嫌を損ねてしまったようだが、いつの間に。ますます困惑しながら、ナマエは声を荒げた。
「してないってば! 早く手を離せ!」
 何度も腕を引くものだから、テーブルの上の食器がカチャカチャと揺れて音を立てる。食事に被害が及ぶ前に、ユーリスはようやく手を放した。
「嘘。無視してた」
 蒼い瞳が、じっと責めるようにこちらを見てくる。
「嘘じゃない」
 なぜこんなことで責められなきゃならないのか。ナマエは訳も分からず、内心泣きたい気分に駆られた。
 しつこく絡んでくるユーリスにも、そして彼の前で平静を保てない自分にもうんざりだ。
「ぼんやりしてて、話が耳に入ってなかっただけだよ。……悪かった」
 釈明に、ユーリスは目を細めた。
「ふぅん、本当? 嘘ついてたら……皆にバラしちゃおうかな? 蜘蛛にビビって、べそべそ泣いてたこと」
「おまっ、性格悪いな! 確かに泣き言は言ったけど、泣いてはない!」
 カッとなって言い返す。負けず嫌いな性格が、黙っていられなかった。
「それに、ずっと青くなって震えてたユーリスに言われたくない!」
「なっ……!」
 図星を突かれたユーリスの頬が、さっと赤く染まる。
「誰が! 僕は別に青くもなってないし、震えてもいないからな!」
 憤慨したように言い返しながら、ぐっと顔を近づけてくる。
 互いの鼻がぶつかるほどの距離で睨みつけられて、息が詰まる。ユーリスの整った顔立ちがすぐ目の前に迫り、きらきらと輝く蒼い瞳がこちらをまっすぐ捕らえていた。
「っ……」
 先に動揺したのは、ナマエの方だった。
「――うわっ」
「えっ、ナマエ!?」
 ユーリスの慌てた声とともに、どすん、と鈍い音がホールに響いた。反射的に仰け反ったナマエが、バランスを崩して椅子ごとひっくり返ったのだ。
 幸い、ユーリスはすでに手を離していたし、テーブルの上の食事にも被害はなかった。


 ユーリスは倒れこんだまま起き上がらないナマエを覗き込んで、やや呆れを滲ませながら声をかけた。
「……何やってんだよ。大丈夫?」
「…………大丈夫じゃない」
 受身は取れたため痛みはなかったが、情けなさと羞恥から腕で顔を覆ったまま、ナマエはしばらく動けずにいた。
 つい昨日まで、ユーリスは子供という認識でしかなかった。守るべき存在で、それ以上でも以下でもなかったはずだ。
 ――それが、今はどうだ。
 彼の一挙一動に振り回され、動揺してばかりいる。正直、どう接していいのか分からない。
 目の前の少年は、本当に“子供”だったのか。
 それとも、もう“大人の男”として見るべきなのか。
 ……いや、それ以前に、私は今までどう接してきたんだっけ。
ナマエ、どこか痛むの? 頭、打った?」
 起き上がる気配のないナマエを心配してか、ユーリスが傍らに膝をついて覗き込んできたので、顔を見られる前にむくりと起き上がった。
「ほら、掴まって」
「……いや、平気だ」
 立ち上がるのに手を貸そうとしてきたユーリスの腕を押しやり、立ち上がってひっくり返った椅子を元に戻す。背もたれの部分が、少し傷ついてしまっていた。


「……ユーリス、あのさ」
 椅子の背もたれにできた小さな傷を指先でなぞりながら、ナマエはため息混じりに少年の名を呼んだ。
「頼むから、あまり……びっくりするようなことはしないでくれ」
「びっくりするようなことって?」
 小首をかしげるユーリスに、ナマエは言葉を選びあぐねた。
「その……いきなり顔を寄せたり、手を握ったり、びっくりするようなことを言った、り……」
 言いながら、自分の言葉の拙さに顔が熱くなる。椅子の背に突っ伏し、思わず頭を抱えた。これでは、どちらが年上か分からない。
 案の定、ユーリスが戸惑った声を上げる。
「え? そんなのもダメなの? キスもハグもしてないのに」
「そ、それでもいきなりはびっくりするんだ」
 顔を上げると、ユーリスが眉をひそめてこちらを見ていた。
「じゃあ、いきなりじゃなきゃいいの?」
「いきなりじゃなくてもダメだ」
 きっぱりと言い切ると、ユーリスはむっとしたように黙り込み、じっとナマエを見つめてくる。
「……今まで、散々自分からはベタベタ触ってきたくせに?」
「そ、そんなに? 触ってたっけ……?」
 思わず目を泳がせると、ユーリスが「へえ……」と意味深に微笑んだ。
「都合のいいことは忘れるんだ。じゃあ、思い出させてあげるよ。まず、父さんの船で僕が毒を受けた時でしょ。あと、やめろって言っても何度も頭撫でてきたし……。君から何回抱きついてきたっけ? 昨日のも含めたら、ええと……」
 容赦のない追及に、ナマエはとうとう両手を上げて降参の意を示した。確かに今までのことを振り返ると、相当考えなしだったかもしれない。それに、抱き着かれる方も相当なストレスだっただろう。
「わ、わかった! 悪かったよ、ほんとに。もうそんなことはしない、誓って」
 しどろもどろになりながらも謝ると、ユーリスはため息をついて肩をすくめた。その様子は、最初から信じていないとでも言いたげだった。
「……どうだろうね。君、無自覚で煽るの得意そうだし」
 煽る――。
 貴族の館からの帰り道でも、聞いた言葉だった。まるで、自分のあの行動が原因だったとでも言いたげに。
 そのことを思い出し、蘇ってきたむかつきを抑えきれず、ナマエは食事を再開していたユーリスに向かって指を突きつけた。
「――ユーリス、昨日のことでこれだけは言っておきたいことがある」
「なに?」
 面倒くさそうに振り返る少年に、一瞬たじろぐ。けれど、意を決して言葉を続けた。
「過ぎたことを責めるのは趣味じゃないし、別に怒ってもいない。けどな、私は絶対にあんたを煽ってなんかないからな! 私のせいで正気を失ったような言い方だけは、納得いかない」
 カタン、と食器がテーブルに置かれる音がした。ユーリスが妙な顔で黙り込み、やがて肘をついてテーブルに突っ伏すようにしながら、盛大にため息をついた。
「いや、大体君のせいだから。だって、あんな蜘蛛ごときでバカみたいに取り乱すし、抱きつくし、押し付けるし」
「お……っ! あの狭さじゃあ仕方ないだろ! 取り乱したのは悪かったって思ってるよ! っていうか、それを言うなら、あんただって……おし、押しつけただろっ」
 何を、とは皆まで言えず、ナマエは顔を赤らめながら言葉を濁す。ユーリスはちらりと流し目を寄越し、艶めいた笑みを浮かべた。
「そりゃあね、それはわざとだもん」
「ひっ、開き直った!?」
「仕方ないだろ。僕だって健全な男だし」
 そう言って、ユーリスが急にナマエの肩を掴み、ぐいと引き寄せた。
「わっ」
 咄嗟にテーブルに手をついて、なんとか彼の胸元に倒れ込むのを防ぐ。カップの中の液体が揺れて、少しだけテーブルにこぼれたが、それを気にする余裕は最早なかった。
 至近距離でユーリスの蒼い瞳が揺らめいていて、息が詰まった。綺麗なアーモンドの形をした目が、挑発するように眇められる。
「何度も言ったよね? 子供扱いするなって」
「ユーリス、近い……」
 抗議をしようと口を開けば、蚊の鳴くような情けない声しか出てこない。くすり、とユーリスが笑った。
「顔、真っ赤」
「……っ!」
 指摘され、さらに動揺する。
 ユーリスの手が彼女の首筋にそっと触れ、トンと指先でつついた。ぞわり、と背筋を這うような感覚に、思わずナマエは少年の手を容赦なく打ち払った。
「痛いな……」
 ユーリスはそう呟いたが、どこか楽しげだった。払われた手をひらひらと振りながら、自嘲気味に笑う。
「意外だよね。普段は年上ぶってるくせに、君って本当に男に慣れてないんだ。……それって、記憶喪失のせい? 警戒心丸出しだし、分かりやすすぎるから、もっと気をつけた方がいいよ」
「それは、あんたが――」
 言いかけて、言葉に詰まる。
 怖いのだ。
 ユーリスに対してだけ、警戒の取り方がわからない。頭の隅で子供だという意識がまだ残っている分だけ、余計に混乱するのだ。どうでもいい奴なら、うまくあしらえばいいだけだ。けどユーリスは仲間で、年下で、仲間思いで、優しくて、でも――男だ。子ども扱いをすれば自尊心を傷付ける。かといって適当にあしらえるのかといえば、絶対にそれはできない。

 

「……ああもう、イラつくなぁ」
 言葉に詰まったまま立ち尽くすナマエの前で、ユーリスが苛立ちを隠そうともせずに呟いた。盛大にため息をつき、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱す。
 その様子に戸惑っていると、ふいに少年の視線がこちらを向いた。
「昨日の午後、城でタシャに会ったんだけどさ」
「え……」
 思いがけない名前に、ナマエは思わず狼狽する。
「出会い頭に、『弟の立場に甘んじねばならんのは不服だろう』とか、意味わかんないこと言われたんだけど。……ナマエ、なんのことか、心当たりある?」
 はっと息を呑む。思い当たる節がありすぎて、顔が引きつった。
「……い、いや。何のことだか――」
「まあ、だいたい見当つくからいいけど」
 ナマエの反応を見て、ユーリスは再びため息をついた。
 その横で、ナマエは頭を抱える。昨日、酒場に戻ってきたユーリスの機嫌が悪かった理由が、ようやく腑に落ちた。犯人はタシャか。彼は、ナマエがユーリスのことを子供だなんだなどと語ったことに、同情でもしたのだろうか。
 だが、なぜわざわざそんなことを? あの男も余計な事を言わなくてもいいものを。

「ねえ、君さ」
 頭を押さえていると、沈んだ声が落ちてきた。顔を上げると、苛立ちを湛えたユーリスの瞳とぶつかる。
「あの騎士様と何かあったかは知らないけど、どうせまた君が無意識に挑発して、墓穴掘ったんじゃないの?」
 思いがけない言葉に、ナマエは目を見開いた。
「……そんなこと、」
「ないって? じゃあ、帰りの船で何があったか、言える?」
 言葉に詰まり、ナマエは口を閉ざすしかなかった。
「ほら、黙るってことは、何かあったんだよね」
 確かに、何もなかったとは言えない。けれど、なぜここまで詮索されなければならないのか。委細を伝える義理もないのに。
「おかしいよね。ほとんど初対面の人間同士が、どうして人目を忍ぶように早朝に会ってるの?」
 その問いに、ナマエは答えられなかった。
 だが、ユーリスの言葉は止まらない。
「記憶喪失だから理解できていないのかもしれないけど、あいつは貴族社会の人間なんだ。君とは価値観なんて絶対に合わない。……痛い目を見るのは、君だよ」
 その言葉に、ふと胸の奥にわだかまっていたものが、言葉になってこぼれ落ちた。
「……ユーリスには関係ないだろ」
 無言。
 しばらくして、カチャン、と音が響いた。少年の手から投げ出されたスプーンが、スープボウルの縁に当たって跳ねた音だった。
「……あっそ。じゃあせいぜい一人で舞い上がって、痛い目見ないように気をつけるんだね。あいつが悪い男じゃないことを祈るよ」
 これ以上は付き合いきれないとでも言いたげに、投げ出すように冷たく告げて、ユーリスはすっかり冷めた食事に再び手を伸ばした。


 一方のナマエはぼんやりと、呆然とその言葉を反芻した。
「舞い上がる……か」
 確かに、そうだったかもしれない。キスをされて、心が浮ついた。デートのように共に街を歩き、あるいは淑女のように扱われて戸惑った。だが、心の隅では悪い気はしなかった。意識が、確かにタシャの方へ向いていた。
 けれど、もし相手が別の誰かだったら? 同じように、舞い上がっただろうか?
 ……わからない。


 考え込むナマエの様子を、ユーリスは食事の手を止めて複雑な表情で見つめていた。だが、彼女はその視線に気づくことなく、思考の海に沈んでいた。
 その時。
「おはよー……二人とも早いね」
「エルザ」
 ぎしぎしと階段を踏みしめながら降りてきたのは、盛大に寝癖をつけたエルザだった。ふああ、と大きなあくびをしながら目をこすり、テーブルの食事を見て「うまそう」と呟く。
 ふと、寝ぼけ眼のエルザの視線がナマエの首筋で止まった。
「……あれ? ナマエ、首のところ、青くなってるよ」
「え? どこ?」
 ぎょっとして尋ねると、エルザは指先で「ここ」と示した。隣のユーリスが、ごほっと咳き込む。
「内出血になってるよ。どこかにぶつけたの?」
「いや、別に痛くはないけど……」
 首をかしげる。ぶつけた覚えはない――が。
 ふと、思い出す。さっき、ユーリスが指でつついた場所と、同じだ。
「じゃあ……」
 首筋に、覚えのない鬱血。ナマエが答えにたどり着くより早く、エルザの口が先に動いた。
「昨日、誰かさんに悪戯された?」
「――ユーリスッ!!」
 バッと隣を振り向く。
 だが、すでにユーリスは裏口の方へと、そろりそろりと退避を始めていた。
 ナマエの中の少年に対する葛藤は、その瞬間綺麗に吹き飛んだ。散々生意気な口を利いて、不利になったら逃げ出すとは。
「こら、逃げるな!」
 逃げる銀色の頭を追いかけると、少年はぎょっとして振り返った。
「うわっ、エルザのバカ! 黙っておいてよ!」
「黙るのはあんただ! 散々人を馬鹿にして……!」
「いや、別にそんなつもりないし! てかナマエ、顔が怖いよ!」
「うるさい黙れ! 誰のせいだ!」
 どたばたと、二人は言い合いながら街へと飛び出していった。

「いってらっしゃ~い」
 一人残されたエルザは二人をのんびりと見送り、テーブルに残された食事に目をやる。思わぬ漁夫の利に、にんまりと笑った。

 


2026/1/22改稿