Chapter.20
昼過ぎまでカフェで過ごしたナマエは、そろそろ頃合いだとアリエルの酒場へ戻ることにした。
道中、衛兵とすれ違ったが、特に怪しまれる様子もなく、どうやら追っ手はかかっていないらしい。
胸をなでおろしつつ、足取り軽く扉をくぐる。
中に入ると、闘技場から戻ったばかりらしいセイレンが、先日手に入れた幻の銘柄酒を一人でぐいぐいと煽っていた。その隣ではジャッカルが、呆れ顔でその様子を眺めている。セイレンの自棄酒のような飲み方からするに、どうやら闘技場では散々だったらしい。
他の仲間たちは、まだ外出中のようだ。
ナマエは遅めの昼食を取り終えると、ジャッカルに謝礼として報酬の二割を手渡した。
残りの半分は、後ほどクォークに渡すつもりだ。
セイレンがテーブルに突っ伏して眠り込んでしまってから間もなく、ユーリスが帰ってきた。「おかえり」と声をかけたものの、少年はじろりと睨みつけてきただけで、返事もなくカウンター席へと向かっていった。
「……どうしたんだ?」
「別に」
素っ気ない返答。
その背中を見送りながら、ナマエは首をひねった。何かあったのだろうか。
ふと、嫌な予感が胸をよぎる。
ちらりと、テーブルに突っ伏しているセイレンに目をやる。
――まさか、あの時のことをバラしたんじゃ……?
ユーリスのことを「見守ってやらなきゃ」などと語った件だ。流石に自分が半人前扱いされたと知れたら機嫌を悪くするのも無理はない。
いや、でもセイレンに限ってそれはない……はず。彼女は破天荒に見えて、大人の気遣いもできる人間だ。
「何を一人で百面相してるんだ?」
いやいやいや、と首を振っていると、ちょうど帰ってきたクォークが不審げな顔でこちらを見ていた。
「べ、別に。なんでもないよ」
慌てて表情を取り繕い、話題を逸らす。
クォークに報酬の半分を渡すと、流れで伯爵の申し出についての話題になった。
クォークはその提案を概ね好意的に受け止めているようで、エルザがそれを受け入れることに賛成の立場だった。
だが、肝心の本人はどうにも乗り気ではないらしい。その様子に、クォークは少し焦れているようだった。
「俺があの異邦の力を、エルザの代わりに引き受けてやれればいいんだがな……こればっかりはどうしようもない」
「まあ、エルザも頑固そうだしな。権力者に素直に従うほど、考えなしじゃないってことさ」
二階から戻ってきたジャッカルが会話に加わり、ナマエの言葉に頷いた。
「俺もエルザの迷いは分かる気がするがな。あの伯爵は帝国の忠実なる僕というわけでもなさそうだし、腹では何考えているか分からねぇところがある」
クォークは腕を組み、難しい顔で唸った。
「確かに、駆け引きが苦手なエルザにとっては、やりづらい相手だろうな。だが折角の滅多にないチャンスだぞ。エルザが申し出を受けてくれりゃ、俺たち皆が安泰になる。そうすれば、もう二度と――使い捨てられずに済む」
静かな口調だったが、その言葉には確かな決意が滲んでいた。
「クォーク……」
ジャッカルは目を伏せ、しばし感慨深げに沈黙したあと、ふっと表情を緩めて明るく言った。
「いやぁ、大将にはいつも気苦労かけてねえ」
ぽんぽんとクォークの肩を叩き、ぐいっと腕を回す。
「でもよ、そんなに気負わなくてもいいんじゃねぇか? 俺たちは今の暮らしに案外満足してるぜ」
「そうそう。あんたはもうちょっと肩の力抜いた方がいい」
ナマエも笑いながら言うと、クォークは迷惑そうに顔をしかめた。
だが、その表情はどこか照れくさそうでもあった。
「馬鹿野郎。俺まで力抜いたら、誰がこの傭兵団を支えるんだよ」
「ごもっとも」
ナマエとジャッカルは顔を見合わせた後、声を上げて笑った。
「――貴族の館に忍び込む、だぁ?」
日が暮れ、ようやくエルザが帰ってきたかと思えば、開口一番とんでもないことを言い出した。
話を聞けば、牢屋で出会ったというロッタという男の頼みで、行方不明になった彼の妻を探すため、街の奥にある貴族の館に潜入することになったらしい。
「うん。そういうわけで、付き合ってくれると嬉しいな」
仲間たちの微妙な反応にも気づかぬふりで、エルザはけろりと笑ってみせる。同席していたユーリスが、こめかみを押さえながらため息をついた。
「……エルザ、ちょっとさ。なんでもかんでも引き受けすぎじゃない?」
「そうかな? 困ってる人を見ると、放っておけなくてさ」
「はぁ……」
クォークが深いため息をつく。
「そこはお前の美徳だがな。けど、嫌なことを後回しにしてるだけなら、感心しないぞ」
伯爵の申し出のことだろう。
エルザは一瞬だけ目を伏せ、小さく頷いた。
「……分かってるよ」
伯爵への返答はひとまず保留として、今の問題は潜入任務の同行メンバーだ。一度引き受けた以上、今さら断るわけにもいかない。
話によれば、その貴族の館にはなぜか魔物が出没するらしい。となれば、それなりの戦力が必要だ。
まず、エルザ、ジャッカル、クォークの三人が確定。
ちょうど目を覚ましたセイレンが階段をふらつきながら降りてきたが、顔色は青白く、明らかに二日酔いの真っ只中だった。
「わりぃ……あたし、ちょっと無理だわ……」
頭を押さえながら、セイレンが申し訳なさそうに言う。
「いいよ。無理しないで、ゆっくり休んでて」
エルザの優しい声に、セイレンは深く頭を下げた。
「ほんっと悪い……」
「これに懲りて、少しは酒を控えてくれるといいんだがな」
クォークの皮肉に、セイレンは珍しく素直に頷いた。
「ああ……そうだな……」
「おいおい、明日は槍でも降るんじゃねぇか?」
ジャッカルの冗談にも反応する余裕はないらしく、セイレンはふらふらと二階へ戻っていった。どうやら、かなりの重症のようだ。
「私はここに残るよ。セイレンの様子がちょっと心配だし」
ナマエの申し出に、クォークが頷いた。
「そうだな。頼んだ」
「そういえば、マナミアは?」
「城の書庫にこもりきりだよ。古文書の解読に夢中みたいだ。たぶん、夜まで戻らないんじゃないかな」
「そっか……ヒーラーがいないのはちょっと痛いな」
エルザがそう呟きながら、ふとユーリスの方を見やった。
「で、ユーリスは――」
「面倒。僕はパス」
にべもない返答に、エルザの眉尻が情けなく下がる。
「え、ユーリス……来ないのか?」
「そ、そんな顔してもダメだからね。僕は行かないよ」
頑なな態度に、ナマエは肩をすくめてため息をついた。
「じゃあ、私が行くよ。三人じゃちょっと手薄だろ」
その言葉に、今度はユーリスが慌てたように顔を上げた。
「え……ちょ、ちょっと待って。君が行ったら、セイレンのことは誰が看るのさ」
「当然、ユーリスだろ?」
少年は一瞬言葉を失い、視線を落とす。
どうやら、どちらが面倒かを真剣に天秤にかけているらしい。
そして、しぶしぶと結論を出した。
「……やっぱり僕も行く」
この上なく渋い顔で、そう呟いた。
とはいえ、体調不良のセイレンを放っておくわけにもいかない。
やはりナマエが残るべきか――と話し合っていたところ、ちょうどお腹を空かせたマナミアが思いのほか早く帰ってきたので、これ幸いとセイレンの看病を任せ、一行は酒場を後にした。
その頃には、すでに夜の帳が街を包み込んでいた。
ルリの街は静かに闇に沈み、灯りのともる路地を抜けて、彼らは依頼主との合流地点へと向かう。
「――あ、そうだ。エルザ」
移動中、ふいにナマエは思い出したように声をかけた。伯爵から預かった伝言のことだ。
「ん? なに?」
振り返ったエルザの顔は、きょとんとしていて、どこか無防備だった。
その表情を見た瞬間、ナマエは言葉に詰まる。
――伯爵の申し出を受けるべきかまだ迷っている彼に、今このタイミングで催促の言葉を伝えるべきだろうか。
少しだけ迷って、結論を出す。
「……ごめん、忘れちゃった。なんでもない」
「やだなぁ、ナマエ。まだ若いのに物忘れ?」
へらりと笑うエルザに、ナマエはわざとらしく眉をひそめた。
「コラ、どういう意味だ。……まあ、思い出したらまた言うよ」
冗談めかして返しながら、結局その伝言は、ナマエの胸の中にそっとしまわれた。
依頼主のロッタと合流した一行は、そのまま目的地である貴族の館へと向かった。
ロッタは小柄で、話好きの男だった。そういえば以前、マナミアが珍しく毒を吐いていた相手がいたな――と、ナマエはふと思い出す。
館に近づくにつれ、空模様が怪しくなっていく。
分厚い雲が空を覆い、雷が雲間を走るたびに、空気がぴりぴりと震えた。
「うわ……これは……」
目的地に到着すると、そこには不気味な館が闇の中に沈むように佇んでいた。
雷光がそのシルエットを照らすたび、まるで巨大な魔物が口を開けて待ち構えているように見える。
門を抜け、ひっそりと前庭へと足を踏み入れる。荒れ果てた庭には雑草が伸び放題で、門番の姿も見当たらない。
――お化け屋敷。
誰も口には出さなかったが、全員の脳裏にその言葉が浮かんでいたに違いない。
「――で、なんでわざわざ夜に来るのさ! 昼間に来ようよ昼間に!」
館を目の前にした途端、妙に落ち着きを失ったユーリスが声を震わせながらエルザに詰め寄った。
「昼間でもよかったけどね。衛兵に見つかったら牢屋に逆戻りになっちゃうだろ」
さらりと返すエルザに、ユーリスはぐっと言葉を詰まらせる。
確かに、堂々と昼間に侵入するのはリスクが高すぎる。
「い、いくら人助けだからって……こんな泥棒まがいのこと、気が進まないね」
「そう言うなって。人という字はな……えー」
ジャッカルが妙な説教を始めかけたところで、ユーリスが手を振って遮った。
「ああ、もういいって! 手伝えばいいんだろ」
「いやはや、本当にありがとうございます」
すかさずロッタが、心底ほっとしたように頭を下げた。
階段を上り、玄関へと向かう。
建物の正面に並ぶ窓からは、灯りも人影も見えない。
ロッタが手際よく鍵を開け、一行は慎重にエントランスホールへと足を踏み入れた。
そこには、無数の首なし鎧が整然と並んでいた。
薄暗い空間には、侵入者以外の気配はまるでない。
「人の気配すらないな……」
てっきり盗賊か何かが関わっていると思っていたナマエは、館の様子に首を傾げた。
全員がホールに入ったその瞬間、背後で扉がバタンと乱暴に閉まる音が響いた。
「おい、勝手に扉を閉めるな!」
先頭を歩いていたクォークが、振り返りざまに声を荒げる。
扉の方を見ていたユーリスの顔色が、みるみる青ざめていく。
「い、いま、勝手に扉が閉まったような……」
「いやいや……風か何かだろ」
ナマエが言いながら扉に近づくと、ジャッカルが無言でドアノブを回した。ガチャガチャと音を立てた後、彼は肩をすくめて振り返る。
「どうやら、閉じ込められちまったようだぜ」
「は? そんな馬鹿な」
ナマエは眉をひそめ、手持ちのロックピックを取り出して鍵をこじ開けようとした。だが、何本試しても、鍵はびくともしない。次々と折れていくピックに、苛立ちが募る。
「くそっ、なんなんだよ……なんで開かないんだ……!」
「無駄だ、ナマエ。諦めろ」
ジャッカルの静かな声に、ナマエは立ち上がり、怒りをぶつけるように扉を思いきり蹴りつけた。
その瞬間――。
「嘘だろ!? ユーリス!」
エルザの悲鳴じみた声と同時に重たいものが落下する派手な音が響き、全員が振り返る。
そこには、床に倒れ込んだユーリスとエルザ、そして彼らのすぐ横に、粉々に砕けたシャンデリアの残骸が散らばっていた。天井から落下したそれは、老朽化によるものか、箍が外れて真下に落ちてきたらしい。
間一髪で避けたものの、あと一歩遅れていれば、命に関わる事故だった。
「ユーリス、大丈夫か!?」
「うん……ちょっとしたかすり傷で済んだよ。ありがとう、エルザ」
差し伸べられた手を取りながら、ユーリスが礼を言う。
「歓迎にしてはぞっとしないな。慎重に行くぞ」
クォークが鼻を鳴らし、緊張感を帯びた声で一同に注意を促した。
館の中に漂う空気が、じわりと不穏さを増していく。
クォークは扉脇の柱に背を預け、警戒を怠らぬよう周囲を見渡していた。
「この先を当たってみるか……」
そう呟いた、その瞬間だった。
彼の背後――柱の表面に、ぼんやりと靄が立ちのぼる。次の瞬間、そこから白骨化した無数の手が、まるで獲物を狩るように飛び出してきた。
「なッ……うわっ!?」
完全に死角だった。
クォークは反応する間もなく、その手に絡め取られ、靄の中へと引きずり込まれていった。
「クォークッ!」
エルザが叫び、すぐさま柱へと駆け寄る。だが、クォークを飲み込んだはずの靄は跡形もなく消え、柱はただの石材に戻っていた。
「おいクォーク! 返事をしてくれ! クォーク!」
拳で柱を叩きながら叫ぶエルザに、ジャッカルが声をかける。
「落ち着けエルザ。ただのトラップだ」
「落ち着いてなんて――!」
「あいつが、あっさりやられるわけがねぇだろ。そうだろ? 先に進むぞ」
その言葉に、エルザは唇を噛みしめながらも、ようやく冷静さを取り戻した。
「慎重になんて言ってて一番にやられちゃ、わけないよ」
ユーリスがぼやきながらも、顔色はさらに悪くなっていた。
「クォークさん……」
ロッタの声も、どこか心細げだ。
「……薄気味悪ぃ。狂ってるな、ここは」
ジャッカルが舌打ちしながら呟く。
「というより、建物そのものが罠の塊みたいだな」
ナマエは眉をひそめ、周囲を見渡す。
まるで誰かの掌の上で踊らされているような、得体の知れない不快感が背筋を這い上がってくる。
この不可思議な罠を仕組んだ奴がいるはずなのに、その気配すら感じられない――それが、何よりも不気味だった。
「ぅわあっ!?」
次の間の扉を開けた途端、飛び出してきた蝙蝠にユーリスが上擦ったような悲鳴を上げた。
「蝙蝠!? なんなんだ、ここは!」
エルザが驚きの表情で飛び去る蝙蝠の影を見送る。
その横で、ジャッカルがニヤニヤとユーリスの横顔を眺めていた。
「おいユーリス、まさか……怖いのか?」
ぎくり、とユーリスの肩が跳ねる。
「え? な、なんの話だい? 冗談もほどほどにしてくれるかな」
「もしやユーリスさんはお化けが苦手とか?」
「え? なに? なんの話か分からないな。ははは……」
青ざめた顔で空とぼけて見せようとはしているが、怖がっているのはもはや明確だった。
ジャッカルは明らかにユーリスの反応を楽しんでいるようだ。
「ジャッカル、ほどほどにしておけ」
ナマエがたしなめるように言い、ユーリスに向き直る。
「大丈夫だよ、ユーリス。どんなに不可解な現象でも、原因が分かれば恐れる必要はない。理屈が分かれば、恐怖は消えるはずだ」
励ますつもりで言ったその言葉に、ユーリスは思わず声を荒げた。
「だから、怖がってなんかないってば!」
次の部屋は書斎だった。
クォークの姿は、やはり見当たらない。
「クォーク! ……誰もいないのか」
エルザがため息をつきながら、手がかりを求めて部屋の中を探り始める。
ジャッカルは、部屋の隅に置かれた姿見に興味を惹かれたようで、そちらへと向かった。
「一体どうなってるんだ、ここは……」
「まさか、ほんとにこんなことが……」
「ロッタ、あんたもっと何か知ってるんじゃないのか? この館のこと」
ロッタとユーリスが言葉を交わす中、ナマエは部屋の隅で何かを読んでいるエルザに声をかけた。
「エルザ、何か見つけたのか?」
「使用人の日記みたいだ」
「へえ、何が書いて――」
「どわっ!」
不意に背後から声が上がった。振り返ると、姿見を調べていたはずのジャッカルが、骸骨に足を取られて鏡の中へと引きずり込まれようとしている。
「ジャッカル!」
「ま、待て待て! 俺なんかよりムチムチの骸骨の方が――!」
慌てて駆け寄ったが、間に合わず、ジャッカルは鏡の中へと吸い込まれるように姿を消した。
「くそっ……ジャッカル……!」
エルザが悔しげに唇を噛む。
ナマエはふと足元に目をやり、鏡の前に残された爪痕に気づいた。ジャッカルは、これを調べていたのか。
「また一人、居なくなった……」
「みなさん、どこに消えてしまったのでしょうか……」
ロッタの声が、ますます心細くなる。
「ありえないよ! だから僕はやめようって言ったんだ!」
ユーリスの声が、半ば逆ギレ気味に響く。
その声を聞きながら、ナマエは姿見に手を伸ばし、指先で表面をそっとなぞった。硬質な感触――だが、そこに自分の姿は映っていない。鏡の向こうには、まるで異空間が広がっているようだった。
先ほどジャッカルを連れ去った骸骨から考えるに、この館は魔物に占拠されていると見て間違いない。おそらく魔法か何かで、この鏡を異空間と繋げているのだろう。だが一体どうやって。
「ナマエ!? あんたなにやってるんだよ!」
「え?」
不意に、ユーリスの怒声が背後から響く。
その声に振り返った瞬間、エルザが叫んだ。
「ナマエ、下がれ!」
瞬時に危険を察知し、ナマエは横っ飛びに転がった。直後、ブンッと空を切る音が耳をかすめる。
体勢を立て直して顔を上げると、鏡から這い出てきたアンデッドが錆びた剣を振り回していた。
「ほ、ほね、骨骨、骨ですよ皆さん!」
「何度も言うなよ! そんなの分かってるって! さっさと倒そう!」
ロッタの取り乱した叫びに、ユーリスが上擦った声で怒鳴り返した。
正体を現したアンデッドに畳みかけるように斬撃を浴びせると、あっけなく崩れ落ち、靄のように消えていった。
だが安堵する間もなく、少年の怒りの矛先がナマエに向けられる。
「あんた、馬鹿だろ!? 危うくジャッカルの二の舞になるところだったじゃないか!」
ユーリスが顔を真っ赤にして怒鳴る。その剣幕にナマエは思わずたじろぎ、素直に頭を下げた。
「ご、ごめん……。この鏡が転移装置になってるんじゃないかと思って、調べてたんだ」
「転移装置!? そんなのどうでもいいよ!」
鏡に視線を向けながら説明を続けようとしたが、ユーリスは聞く耳を持たず、吐き捨てるように言ってナマエの手首をがっちりと掴んだ。
「ほら、早く行くよ! くそっ、こんなとこ来るんじゃなかった……!」
「ユ、ユーリス……引っ張るなって……!」
悪態をつきながらも、彼はナマエの手を強く引いた。
その手は微かに震えていた。
人さらいの正体は魔物だと分かっても、恐怖は消えていないのだろう。
書斎を出ると、回廊が奥へと続いていた。
その薄暗い通路を進みながら、ユーリスは苛立ちを隠しきれず、ロッタに詰め寄った。
「おい言えよ! この館は一体なんなんだよ!」
ロッタは、何か後ろめたいことでもあるのか、視線を落としたまま口を開いた。
「……街の人間は、この館は呪われてるって言ってます。中に入って、出てこなかった人間が、何人もいるって……」
ぎゅ、とナマエの手首を握る手に力が入る。痛みに思わず顔をしかめた。
しかしユーリスはそんな彼女の様子に気づかず、真っ青な顔でわなわなと肩を震わせ、怒鳴り声を上げた。
「あ、あんたそんなこと一言も言ってなかったじゃないか!」
「す、すみません! 私も、ただの噂だと思ってたんです……」
ロッタが怯えたように顔を上げる。
その目は、何かを見てしまった者のように揺れていた。
「――“人喰いの館”なんて、冗談だろうって……」
その言葉と同時に、外で雷鳴が轟いた。
カッと閃光が走り、館の壁を照らす。
ぶらり、とユーリスの手がナマエの手首から外れる。
力が抜けたように、彼は呆然と呟いた。
「人喰いの……館だって……?」
その顔は、完全に冷静さを失っていた。
「……ユーリス」
エルザがそっと声をかける。
「今は、クォークとジャッカルを探そう」
確かにここで立ち止まっていても、なにも変わらない。それはユーリスも承知しているらしく、なかばやけっぱちで頷いた。
「……くそっ! さっさと探して、さっさと帰る!」
そう言って歩き出しかけた彼は、ふと足を止め、ナマエを振り返った。
「ナマエ、なに手を離してるのさ! ほら、早く手! 怖いんでしょ!?」
――あんたが怖いんだろうが。
喉まで出かかった言葉を、ナマエは飲み込んだ。
「あ、ああ……ごめん」
あまりに必死な顔に、逆らわない方がいいと本能が告げていた。
ナマエはおとなしく手を差し出し、再び彼の手を握った。
それにしても――。
ユーリスがここまで怖がりだったとは、思ってもみなかった。
前を歩く彼の肩は、小刻みに震えている。ここまで恐がりなら、最初に館に入る前に言えばよかったものを。とはいえ、ユーリスのような多感な年頃の青少年が、実は恐がりでしたなんてカミングアウト、できるはずもないか。
仕方ない。ここは、体を張ってでも守ってやるか。
そう心に決めた、その時だった。
――ガシャンッ!
けたたましい音を立てて、回廊に面した窓ガラスが一斉に割れた。
外から何かが飛び込んでくる。
「ウギャーーーーッ!!」
「いだっ……!」
正体不明の何かに襲われたユーリスが奇声を上げて飛び上がり、その後頭部がナマエの額を直撃した。思いのほかダメージが大きく、額を押さえ無言で悶絶する。
「また蝙蝠か……!」
エルザが呆れたように言うと、ユーリスはようやく我に返った。
「お、脅かしやがって……はは……」
「……全くだよ」
憮然とした表情で額をさすりながら、ナマエがため息をついて一歩踏み出した。
――ズブリ。
足元に、異様な感触が走った。
「……ん?」
まるで沼地に足を踏み入れた感覚に驚いて、足元を見る。思わず目を見開いた。
「わ、なんだこれ!?」
ユーリスも異変に気づき、声を上げる。
二人の足下には、クォークやジャッカルを飲み込んだ時と同じように、黒い靄が渦巻いていた。すでに膝下まで沈み込んでおり、靄の中からは白骨化した手が、二人の足に絡みついている。
「まずい……っ!」
ナマエはとっさにユーリスに抱きついた。
「ユーリス、離れるな!」
「ナマエ!」
彼の胴に腕を回し、力いっぱい抱きしめる。だが、それはほとんど意味をなさなかった。
靄は容赦なく二人の身体を飲み込み、足元から闇へと引きずり込んでいく。沼に沈むような不快な感覚に、ナマエはぎゅっと目を閉じた。
「ユーリス、ナマエ!」
エルザの悲痛な叫びが、遠ざかる意識の中で、かすかに響いた。
意識を取り戻した瞬間、ナマエは真っ暗な空間に包まれていることに気づいた。視界が利かず、一瞬どこにいるのか分からず混乱する。
だがすぐに、体の下に全身に密着するように熱を持った何かが息づいているのに気づいた。距離を取ろうとして慌てて身を起こした瞬間――ごつん、と後頭部を何か硬いものにぶつけ、呻き声を漏らした。
「っ、いって……」
「その声……ナマエ、だよね……?」
耳元で聞き慣れた声がして、まさかと目を見開いた。
「ユーリスか?」
「うん。どうやら二人で閉じ込められたみたいだね」
「……そう、だな」
それにしてもここはどこなのか。暗闇の中で、互いの顔すら見えない。どうやらナマエはユーリスの上に乗るような体勢になってしまっているらしい。
手足は多少動かせるが、天井との距離はほとんどなく、身動きはかなり制限されていた。
なるべくユーリスに体重がかからないように床に手をつき、体を浮かせようとするものの、ずっとこの体勢を維持するのは流石に厳しい。
顔が見えないのがせめてもの救いだが、それでもこの距離は……近すぎる。
互いの呼吸が、肌に触れるほどの距離。息づかいすら、はっきりと感じ取れる。
――気まずいな……。
思わずため息をつくと、ユーリスがびくりと体を震わせた。
「っ、ど、どうしたの?」
「いや……ごめん。重いだろ」
「……だ、大丈夫。ぜんぜん平気」
少し間を置いて返ってきた声は、どこか上擦っていた。ナマエは眉をひそめる。
「ユーリス、怖いのか?」
「だから怖くないって言ってるだろ!」
即座に返ってきた声は、やはりどこか必死だった。「ごめんごめん」と軽く謝りながら、ナマエは内心で天を仰ぎたくなった。
「にしても、なんで二人一緒に詰め込まれたんだか……。狭いし、真っ暗だし、頭ぶつけるし」
「文句ならあいつらに言ってよ。……ん? なんかここにある。なんだろ?」
ごそり、とユーリスが身をよじる音がした。 何かを見つけたようだが、暗くて確認できない。
「明かりをつけるか」
ナマエは呪文を唱え、手のひらに小さな光を灯した。
ふわりと柔らかな光が生まれ、目を細めながら視界を慣らしていく。
そして、光が照らし出したものに、二人同時に息を呑んだ。
「っ……」
ユーリスが小さく呻き、体を強張らせる。
崩れた頭蓋骨の落ち窪んだ眼窩が、こちらを見ていた。他にも白骨が散乱しているところを見ると、どうやらここは棺の中らしい。となれば、この頭蓋骨は前の犠牲者だろうか。
ナマエが眉をひそめたその時――。
眼窩の奥で、カサリと何かが動いた。
「……ヒッ」
その正体に気づいた瞬間、ナマエの顔から血の気が引いた。
眼窩の奥に潜んでいたのは、彼女にとってこの世で最も忌まわしい存在だった。
「――ぎゃあああ!」
悲鳴と同時に、ナマエは再び頭を壁にぶつけ、ユーリスの首にしがみついた。
理性など、とうに吹き飛んでいた。
「うわっ、なに!?」
驚いたユーリスが声を上げるが、ナマエはふるふると首を振り、さらにぎゅっと抱きついた。
「ちょっ、苦しいんだけど!」
「く、く、蜘蛛……! 蜘蛛が……!」
情けないほど震えた声で、なんとかそれだけを伝える。ユーリスは怪訝な顔で頭蓋骨を覗き込み、すぐに顔をしかめた。
「うわっ、でか……」
「言うなぁぁぁ!」
ぎゅうっ、とさらに首を絞められ、ユーリスは「ぐえっ」と呻いた。
「ゆっ、ユーリス、お願い! なんとかして! ホント無理、無理無理無理!」
密閉された空間に、死ぬほど苦手な蜘蛛がいる。しかも自分は身動きが取れない。考えるだけで鳥肌が立ち、もし這い寄ってきたら――確実に発狂する。
ナマエの異常な様子に、ユーリスは逆に冷静さを取り戻したのか、必死に宥めにかかる。
「わ、分かったから! そんなに抱きつかないで! というか首絞めないで!」
「嫌だ!」
「んぐっ……!」
再び首に力が込められ、ユーリスがむせ返る。
少年は窒息死させようとしてくる腕を何とか押し返し、震えて縮こまるナマエをあえて叱りつけた。
「こら、言うこと聞く! じゃないと、お願い聞いてあげないよ!」
ただし、子供に言い聞かせるように。
それが功を奏したのか、ナマエはハッと我に返り、ようやく腕の力を緩めて、囁くように謝った。
「……ごめん。お、お願い、します……」
が、顔はまだ頭蓋骨の方を見ようとせず、身を縮こませたまま。
とはいえ、どうしたものか。
ユーリスは深くため息をつきながら、目の前の“脅威”――頭蓋骨の奥に潜む巨大な蜘蛛――の対処法を考えあぐねていた。
「なんとかしろって言われてもさ、こんな狭いところじゃ魔法なんて使えないし……」
腰に差している短剣に手を伸ばそうとするが、上に乗っかっているナマエのせいで、うまく手が届かない。
「ナマエ、武器持ってない?」
「……背中に短剣があるから、勝手に使ってくれ」
「了解」
短く返事をして、ユーリスは手探りでナマエの背中に手を伸ばす。
もぞもぞと這い回る指先に、ナマエの体がビクリと震えた。
一瞬、ユーリスの手が止まる。だが、すぐに気を取り直して探索を続け、ようやく短剣の柄を探り当てた。
片腕を器用に伸ばし、慎重に抜き取る。
ナマエはユーリスの首元に顔を伏せたまま、息を殺してじっとしていた。
カサカサと、あの嫌な音がまた耳に届く。思わず彼の服をぎゅっと握りしめる。
やがて――ドン、と鈍い音が響いた。
短剣が壁に突き立てられた音だった。
「ほら、蜘蛛はもう死んだよ」
「……ホントに?」
恐る恐る顔を上げると、視界いっぱいに、どこか得意げなユーリスの顔が飛び込んできた。
近い。鼻が触れそうな距離だ。
「うん、見る? そこに死骸が――」
「いや、それは見たくない」
即答するナマエに、ユーリスは肩をすくめた。
ようやく危機が去り、ナマエはどっと疲れが押し寄せてきて、再びユーリスの胸にぐったりと身を預けた。
「なんか……すごい疲れた……」
「それ、僕のセリフじゃない? 怖がりの誰かさんのために、虫退治してあげたんだし」
「それは……大変お手数をおかけしました。助かったよ、ほんと。ユーリスは命の恩人だ」
手をひらひらと振りながら、投げやり気味に感謝を伝える。
その様子に、ユーリスはくすりと笑い、ぽんぽんとナマエの頭を撫でた。
なんだか、いつもと立場が逆転している気がする。
「へぇ、命の恩人? じゃあ……お礼が欲しいな。いいよね? 僕、君の命救ったんだし」
ふいに、妙に甘えた声音が耳元をくすぐる。
ナマエは驚いて顔を上げた。ユーリスが、物欲しそうな目でこちらを見ている。
「お礼? そりゃもちろんするけど……何か欲しいものがあるの? 私の手持ちで足りればいいけど」
「ううん、物じゃなくて、もっと別のものが欲しいんだけど」
その言葉に、ナマエは眉をひそめた。
「別のもの? じゃあ、なにが――」
その時だった。
カサリ、と首の後ろを何かが掠めた。
「ひっ!」
反射的に悲鳴を上げ、再びユーリスにしがみつく。
「く、首にもなんかいるっ! 取って、お願いユーリス!」
「……それ、君の髪の毛が当たってるだけだから」
呆れたような声が返ってくる。
だが、ナマエは信じられず、ぶんぶんと頭を振った。
「ううう、嘘っ! だって、なんか動いてるし!」
「嘘言ってどうするのさ。ほら、これでどう?」
ユーリスの手がそっと首の後ろに触れ、撫でるように動く。
すると、確かに違和感は消えた。
どうやら本当に、髪が擽っていただけだったらしい。
「……ナマエ?」
だが、度重なる恐怖に、ナマエの心はとうとう限界を迎えていた。
彼女はユーリスの首にしがみついたまま、情けない声を漏らす。
「ううう……もうやだ、帰りたい。さもなくば今すぐ意識を失いたい。じゃないと、今すぐ発狂する……」
「ちょっと、それは僕が困るからやめて。帰りたいのは僕も同じだから!」
ユーリスの声も、どこか必死だった。
だが、ナマエにはもう届いていない。
「ユーリスぅ……ごめんな。私みたいなのと一緒に最期を迎えるなんて……」
「ちょっ、なに死亡確定みたいな話になってんのさ! 大丈夫だよ、きっとエルザが助けに来てくれるから」
「でも、もしあいつもやられてたら……どうする?」
「……」
思わず顔を見合わせる。確かに全員やられて閉じこめられているならば、万事窮すだ。
ユーリスが無言で、バン、と両手を天井に突き出し、棺の蓋をこじ開けようと全力を込めた。
「うぐぐぐぐ……!」
ナマエも慌てて手伝い、二人で力を合わせて押し上げる。
だが、蓋はびくともしない。
数秒後、二人は肩で息をしながら、諦めたように手を下ろした。
「く、くそっ……堅いし重たい……! 外からじゃないと無理そうだ」
「と、とりあえず大人しくしておこう。これ以上空気を消費するのも、得策じゃないし」
「……そうだね」
その時、ふっと灯明の光が消えた。
再び、闇が二人を包み込む。
静寂と暗闇の中、ぴたりと寄り添う二人の呼吸だけが、かすかに響いていた。
しばし無言が続いた。先ほど暴れたせいか、息はまだ落ち着つかない。
はあ、はあ、と少年のものだか自分のものだか分からない息づかいが耳をくすぐり、次第になんだか妙な気分になった。
静まり返った途端、密着している体が妙に気になって、ごそりと体を動かす。
なにか、お腹に硬いものが当たっている。ユーリスの短剣だろうか。いや、位置的に違う。
当たっているものの正体が分からず、また体を動かす。
「っ……!」
すると、体の下の少年が何かを耐えるように息を詰めた。
その反応に全てを察し、ナマエはギョッとした。
まさか、これは。男特有の生理現象か!? ……この状況で? そんなことある?
(……私が不用意に身動きしたせいで、刺激されちゃった!?)
うわあ、と内心で頭を抱える。まったくもってうかつだった。相手は少年だと思って完全に油断していた。
しかも、もしこの硬いものがユーリスのアレだとしても、ちょっと大きすぎ……。大き――ハッ、クォークの言っていたムルーがお仲間ってまさかそういう意味か!?
『ユーリス! こいつお前のお仲間だろ。何とかしろ!』
いつかのグルグ船でのクォークの言葉を思いだし、頭が真っ白になる。今度は別の意味でピンチに陥ったナマエは、冷や汗をかいた。
顔に似合わずご立派なブツをお持ちのようだが、他の男ならいざ知らず、相手はユーリスだ。繊細な少年だけに、安易に指摘して傷つけでもしたら一大事だ。というかエルザはいつ助けに来てくれるんだはやくしてくれ。
(気まずすぎて、いっそ気を失いたい……)
と、半ば意識を飛ばしかけていると、ねえ、と耳元で熱い吐息が掛かって、ナマエはぎくりと体を強ばらせた。
「お願いだから、そんなにもぞもぞ動かないでくれる? 擦れて、キツイ……」
少年の恥ずかしそうな懇願の声に、ナマエは耐えきれず突っ伏した。顔が火照って、熱い。
「ご、ごめん……。だって、……当たる、から、気になって」
恥ずかしさで消え入りそうな声を、なんとか絞り出す。それしか言えなかった。気の利いた言葉のひとつすら思い浮かばない貧相な語彙力を呪いたい。本当にどうすればいいんだこの状況。
「……。ごめん」
「い、いやこっちこそっ! まあ、でもこれって生理現象なんだろ? むしろ押しつぶしちゃってごめん。い、痛くない……のかコレ?」
ユーリスの心底申し訳なさそうな声に慌てて顔を上げ、否定した。
今が真っ暗闇でよかった、と頭の隅で思う。まともに顔を合わせていたら、羞恥心で死んでしまうところだった。
「このくらいなら……ぜんぜん、大丈夫」
「そ、そうなのか……。結構頑丈なんだな」
「……」
「って、何言ってんだろ……はは……、っ!?」
テンパり過ぎて訳が分からないことを口走っている自覚はあった。ユーリスの反応がないことに冷や汗をかきながら空笑いを浮かべたナマエの表情が、不意に強ばる。
――口の端に、何か生暖かい湿ったものが当たった。
混乱する間もなく、ユーリスのせわしない息が耳を掠める。両手が背中に回ってきて、ぎゅうと抱きしめられる。
「えっ、なに、なになに!? なんで急に抱きついて……んっ」
また柔らかなものが押し付けられた。今度は頬に。ようやく気付く。
頬に、唇を押し付けられている。
「ナマエ、悪いんだけど……。もう、僕……無理だ!」
「えっ、な、何が? 何が無理なんだ!?」
パニックになりながら聞き返すと、はは、とユーリスが掠れた声で力なく笑った。
「そういう……男慣れしてないとこ、見せつけられたらもう我慢できないよ」
「はっ!? ちょ」
抵抗する隙もなく頬に幾度もキスを落とされ、ナマエは焦った。
「ちょっとユーリス! く、くすぐった、い……っ」
執拗なキスから逃げるように少年の胸元に顔を伏せれば、耳たぶを甘咬みされた。
「ヒッ……!」
官能的な刺激に背筋にぞくりと電流が走る。ぺろりと耳裏を舐められ、さらには湿った舌で耳をまさぐられれば、押し殺した悲鳴が漏れた。
少年は完全に理性を失ったのか、ナマエの首筋に吸い付いて本能の暴走するまま手が体の線をあちこちまさぐり、腰がかくかくと動いている。
(うわ、うわ〜〜!? だ、誰か、誰か~~~っ!)
拙い動きだったが、それが逆に煽られる。体の芯が熱くなりかけていることに気づき、ナマエは愕然とした。
「こ、こら! なに発情してんだ! 正気に戻れ!」
散りそうになる自尊心を集めてなんとか叱咤するが、ユーリスは完全に浮ついた状態で聞き入れる様子はなかった。
「だって、もう無理だよ! 我慢できるわけない……。こんなの拷問だよ! これも全部君のせいだ!」
「はぁ!? 私のせいって……なんで!?」
挙句の果てに人のせいにされ、聞き捨てならないとばかりに噛みつく。
「だってそもそも君が抱き着いてこなければ一緒に閉じ込められることもなかったし。たかが蜘蛛ごときでパニクって泣き顔見せつけてくるし、普段大人ぶってるくせにこんなことでバカみたいにテンパってるし、ほんと……かわいすぎだろ。あー……君ってなんでこんないい匂いするの? それに、どこもかしこもすごく柔らかい……」
「う、うわ……ちょっ」
ユーリスがうわ言のように早口で呟きながら、頬を頭に押し付けてスリスリしてくる。少年の胸元に伏せた顔の耳殻から、ユーリスの心臓がバクバクと早鐘を打つ鼓動が響いてきた。早すぎて少し心配になるほどだ。少年の上半身は発熱しているのかと思うほど熱く、シャツがしっとり汗ばんでいる。
「ね、僕、キスしてみたいんだ。君と……」
一向に顔をあげないナマエに焦れたのか、ユーリスが耳元で甘く囁いてくる。
「いいだろ? お礼してくれるって、言ったし」
「こ、こういうお礼の仕方はよくないと思う!」
「そんなの僕が良いって言ったからいいんだよ。ねえ、それよりこっち向いてよ、ナマエ……」
ユーリスの手がナマエの太股を掴んで、腰をぐっと突き上げた。ひっ、と思わず悲鳴が漏れかけ、あわてて彼女は少年の手をガッシリと掴んだ。危ない、これ以上ぼんやりしていると”食われる”。
「いや、いやいやいや。そもそもこんな事をしている場合じゃないだろ! こんな状況で、何考えてんだ……!」
だって、とユーリスの吐息がかった声がナマエの体の奥を震わせる。この馬鹿げた行為を留め立てしようとするには、あまりにも少年の色気が強烈すぎた。
「仕方ないじゃないか、僕だってどうにもできない。生存本能が働いて、種を保存しようとしての行為だよ」
あまりの言い分に、ナマエは一瞬言葉を失った。
「っ、だ、だからってこんな……っ。というか、もっともらしい蘊蓄垂れて、自分の行為の正当化を図ろうとするな馬鹿!」
馬鹿? 無邪気な声で聞き返したユーリスが、ふふ、と笑みをこぼした。
「馬鹿だよ僕、だって男だもん」
「いや、言ってることがわからない!」
ナマエは混乱し、首をふるふる振った。
ユーリスの手は一層大胆にナマエの体を探り、彼女の制止はもはや無意味なものと化した。それでも何とか服の下に入り込もうとする手はギリギリ防ぐ。
どうしてこうなったのか。ナマエは混乱する頭で考えた。
女の子のような顔をしておきながら、ユーリスもやはり男だったということだ。日頃の子供扱いに不満げな顔をしていた少年を思い出す。可愛い少年だと思っていた男から生々しい欲をぶつけられて、初めてナマエは己の愚かしさを呪った。
(なにが”見守ってやらなきゃ”だ! 馬鹿か私は!)
多感な年頃の少年のことを舐めていたのは、ナマエの方だ。
淫らな動きで触れようとしてくるユーリスの手を掴み、振り払い、それでもめげずに伸びてくる手をつねって叩く。そんな意味のないむなしい攻防がしばし続いた。
「ま、待て待てユーリス! これ以上続けたら、あとで絶対後悔するぞ! こんな適当な相手とするキスより、好きな相手と――」
「適当な相手じゃないし、キスした経験もないまま死ぬ方が後悔すると思う」
「死なないって! 絶対エルザが助けに来てくれる……はず」
「君が先に言ったんだろ? エルザが助けに来てくれるとは限らないって」
「いや言ったけど……。頼む! あんたとこんなことしてたって知られたら、傭兵団に居づらくなっちゃう……。だからやけっぱちになるなってば……!」
ユーリスになんとか思いとどまってもらおうと声を張り上げる。未成年とみだらなことをしたと知られたら、絶対に仲間に白い目で見られる。それだけは避けたい。
「君に無理やり迫ってるのは僕だよ? 知られても僕がクォークに殴られるだけの話だ。まあ、追い出される可能性も……なくはないけど」
「だからそうなるのが嫌なんだって……!」
仲間を引き合いにした奥の手の説得もサラリと流され、ナマエは愕然とした。これ以上止める手だては思いつかない。後は実力行使で止め立てするしかない。
首筋や頬に執拗にキスが落ち、舌がなぞる。俯いているナマエの頬にユーリスの手が添えられた。なんとかして顔を上げさせようとしているようだった。
「ねえ……こっち向いて」
「い、いやだ!」
「ナマエ、お願いだよ」
誘惑するような吐息まじりの懇願に、ナマエは体を震わせ奥歯を噛みしめた。頭がくらくらとする。
この少年の言う『お願い』は、魔力を持っているとしか思えない。抗いがたい響きがある。
まるで操られているかのように、ナマエは伏せていた顔をゆっくりと上げた――。
ゴゴ……と、不意に頭上から鈍い振動が伝わってきた。
ビクリとナマエとユーリスの体が同時に跳ねる。
「な、なに!? この音……!」
ズズ……ズズ……と、振動は続き、やがて隙間から新鮮な空気が流れ込んできた。
棺の蓋が、ゆっくりと開いていく。
助かった――そう思った瞬間、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
「ナマエ! 大丈夫か……って、ユーリスも一緒なのか!?」
エルザだった。
まさに今、一番聞きたかった声だ。
「ちっ……」
体の下で、ユーリスが舌打ちする。
その凶悪な表情を横目に、ナマエは腰を抜かしながらも必死に棺から這い出し、エルザにしがみついた。
「え、え、エルザぁ……!」
「な、なに? どうしたの、大丈夫?」
まさか、怖かったの? とエルザが尋ねると、ナマエはぶんぶんと首を振った。
いや、確かに怖かった。だが、それは幽霊や魔物ではなく――もっと別の意味で。
「あ、あいつ……ユーリス、あいつ……」
おびえた声で訴えるナマエに、エルザは首を傾げながら棺の中を覗き込む。
そこには、妙に不機嫌そうな顔で座り込むユーリスの姿があった。
「――ムルーだ」
その一言に、エルザが爆笑した。
「ユーリス、大丈夫か?」
棺の縁に腰を下ろし、エルザが声をかける。
「っ……大丈夫だよ!」
とは言うものの、ユーリスは一向に動かない。少年の状況を察したエルザは、哀れみの混じった表情でうんうん頷いた。
「……あー、なんというか、同情するよ」
じとり、と恨めしい視線がエルザに突き刺さった。
とんでもないハプニングはあったものの、ひとまず棺の中に閉じこめられていた仲間たちは無事に棺から救出され、再びロッタの妻を助け出すべく探索を再開した。
どうやらナマエ達は、墓地と化した中庭に並べられた棺の中に閉じ込められていたらしい。
不気味な雰囲気の中庭を抜け、再び館内へ戻ろうとしたその時、突如として巨大なグールが姿を現した。
だが、グールを目にした瞬間、クォークの顔がさらに険しくなる。
「チッ……こいつのせいで」
その不機嫌さをぶつけるように、クォークは容赦なくグールを叩き潰した。
どうやら、先日ゾラと対峙した際にマナミアと交わした約束とやらを律儀に守った結果、彼女に二百十四杯も奢らされる羽目になったらしい。マナミアの胃袋はまったくもって神秘だ。
館に戻ってからも探索は続いたが、先ほどのとんでもない事件のせいで、ナマエは未だにユーリスを警戒していた。
とはいえユーリスの方も、あの時の勢いはどこへやら、周囲を気にしてビクビクしている。
その青ざめた顔を一目見ただけで、思わず手を差し伸べたくなる自分の性分が恨めしい。
だが一歩踏み出したところで、ナマエは我に返り、そっと足を引っ込めた。
やがて、一行は残された最後の扉をくぐった。
そこは、これまでの部屋とは一線を画す、重厚な装飾が施された寝室だった。
「……壁の向こうからうめき声のような……」
不意に、本棚の奥から不気味なうなり声が聞こえ、ロッタが飛び上がる。
「もしやここにイルミナが!」
だが、声の主が隠れているらしい本棚は、隠し扉になっているようで、開くには鍵が必要だった。
鍵を探すため、館をぐるりと一周し、再びエントランスホールへと戻る。
床には、先ほど落下したシャンデリアの残骸が、今も無惨に散らばっていた。
その中で、何かがエルザの目に留まった。
「残骸の下でなにか光った……」
しゃがみ込んだエルザが拾い上げたのは、紋章のついた古びた鍵。
どうやら、あの本棚の隠し扉を開けるための鍵らしい。
急いで寝室へ戻ろうとしたその時――。
「……っ、なんだ!?」
ホールの壁際に並んでいた首なしの鎧が、ギギ……と音を立てて動き出した。
「やっぱりこいつらも動き出した!」
「エルザ、前にもこんな経験があるのか?」
クォークの問いに、エルザが険しい顔で頷く。
「さっきは、壁飾りの剣が襲ってきたんだ」
「やれやれ……お試しの次はフルコースっでいかがってか? 笑えねぇ」
「なんなんだよここは! いったい!」
ジャッカルが顔を引きつらせ、ユーリスは混乱したように叫んだ。
なんとか一体の鎧を撃破したその時、壊れた鎧の中から青白い光の玉が飛び出した。
「うわっ!? なんだこの光の玉は!」
エルザが驚きの声を上げる。
その光は素早く別の鎧の中に飛び込み、次の瞬間、鎧が再び動き出した。
「他の鎧に取り憑いた……!」
「ってことは、本体はあの光の玉か」
ナマエの言葉に、クォークが頷く。
「くそっ、あれじゃ動きが早すぎて、魔法じゃ狙えねぇ」
「先に鎧を壊せば、あの光の玉は行き場をなくす筈だ」
「了解! 上の段の鎧は任せろ!」
ナマエはすぐに念動の術を発動し、壁際に並ぶ鎧を次々と引き寄せては地面に叩きつけ、破壊していった。
すべての鎧を破壊し終えると、青白い光は最後の足掻きのように爆発して消滅した。最後まで厭らしい奴だ。
一行は鍵を手に、先ほどの寝室へと急ぐ。
不器用なエルザに代わり、ロッタが鍵を差し込むと、重々しい音を立てて本棚が地面に沈み、奥に隠し部屋が現れた。
「イルミナ!」
ロッタが妻の名を叫び、真っ先に部屋へと駆け込んでいく。その背中を、傭兵たちは疲れた表情で見送った。
ようやく、これでこの悪夢のような館から解放される――。ナマエは胸をなでおろし、ロッタが戻ってくるのを待った。
「ナマエ、あのさ――」
不意に背後からかけられた声に、ナマエの体がぎくりと強ばる。
振り返ると、ユーリスが気まずそうにこちらを窺っていた。
「……なんの用だ」
口をついて出た声は、思いのほか冷たかった。
まだ警戒心はが抜けきっていないせいだ。その響きに、ユーリスはびくりと肩をすくめた。
「その、さっきのこと……」
「気にしてない。不可抗力だ」
言葉を遮るように、ナマエは淡々と告げた。明らかな嘘だったが、これ以上あの件を蒸し返されたくなかった。
だが、ユーリスは納得していない様子で、何かを言いかけた――その時。
ドンッ!
隠し部屋の奥から、鈍い衝撃音が響いた。
振り返ると、ロッタが吹き飛ばされたように地に伏していた。
「ロッタ! どうした!」
エルザが駆け寄ろうとしたが、足が止まる。
彼の視線の先には、異形の存在が立ちはだかっていた。
黄金に輝く棺。
その上に据えられた頭蓋骨が、落ち窪んだ眼窩でじっとエルザを見下ろしている。
「なんだこいつは……!」
「は、はこ……? がいこつ……?」
ユーリスが混乱したように呟く。
「これは……ヴァンパイア、ネビロス……まさか、そんなはずは……」
這いずるように戻ってきたロッタが、ずれた眼鏡を直しながら青ざめた顔で言った。
「これがヴァンパイア!? 冗談だろ!」
「いえ、本当です。でも、こいつは何百年も前に滅んだはず……」
「どういうこと!?」
ユーリスの叫びに、ロッタは震える声で答える。
「考古学の図鑑で見たことがあります。ヴァンパイアの中でも、ネビロスは“悪魔”とまで呼ばれた、いわば亜種ヴァンパイアです。ネビロスは不死身との言い伝えがありますが……、滅ぼす手立はあったはずです」
「いいからその方法は?」
「はい! 忘れちゃいました!」
場違いなほど明るい声に、場の空気が一瞬で凍りついた。
「――来るぞ!」
エルザの叫びと同時に、ナマエは反射的にユーリスを背に庇った。
ネビロスの一撃が、空気を裂いて襲いかかる。手がしびれるほどの、半端なく重い攻撃。
「……ぐっ!」
「ナマエ!」
一撃を何とか受け流すと、ネビロスの背後からクォークが斬りかかる。
続けざまに二撃目を叩き込むが、刃はまるで手応えなく弾かれた。クォークの顔に焦りの色が浮かぶ。
「全く剣が通じない? エルザ、ひとまず引くぞ!」
「攻撃が効かないなんて、反則だろーよ!」
ジャッカルの叫びに、誰もが同意した。
このままでは埒が明かない。
クォークの指示で、一行はネビロスから一斉に撤退を開始する。
だが、黄金の棺は信じられない速度で追いすがってくる。
「うわっ、移動早いよあいつ!」
「追いつかれそうだ!」
「うーん、どうする? ロッタを差し出して、奥さんだけ返してもらおっか?」
ジャッカルが冗談めかして言うが、誰も笑わない。
「冗談言ってる場合じゃないぞ、ジャッカル! こんなのが街に出たら大惨事だ!」
「もちろん、そんなことにはさせないがな」
ナマエの叱咤に、クォークが静かに応じた。
その時、ネビロスの一撃を受けた箇所が痛み、ナマエの足が鈍る。
書斎の椅子に足を取られ、バランスを崩した瞬間、背後から迫る気配に身を強張らせる。
「ナマエっ!」
ジャッカルが飛び込み、彼女を庇うように前に出た。
次の瞬間、ネビロスの一撃が彼を直撃し、ジャッカルは床に叩きつけられた。
「ジャッカル!」
ナマエが駆け寄り、彼を支えようとするが、ジャッカルは苦悶の表情で呻いた。
「くっそ……剣も効かない魔法も効かないなんて……一体どうすりゃいいんだ!? ヴァンパイアって何が弱点なんだよ!? いい加減思い出せロッタ!」
その叫びに、ロッタがハッと目を見開いた。
「あ、そう! 銀、銀ですよ! シルバー!!」
「シルバー!」
エルザが叫び、クロスボウを構える。
いつの間にか手にしていた銀の矢を、ネビロスに向けて放った。
矢が命中した瞬間、ネビロスの体が激しく痙攣し、苦悶の声を上げて後退する。
「効いてる……!」
一瞬の静寂。
だが、すぐに皆が動き出した。
「今だ、畳みかけろ!」
クォークの号令とともに、一行は怒涛の反撃に転じた。
銀の武器を手に、次々と攻撃を叩き込む。
何度も、何度も。
ようやく、ネビロスは断末魔の咆哮を上げ、黄金の棺ごと崩れ落ちて消滅した。
「倒した……これで帰れる……いよっしゃーーッ!!」
ユーリスが我を忘れて歓声を上げる。
その様子に、ジャッカルが呆れて笑った
「ユーリス、お前分かりやすい奴だな」
ロッタの妻、イルミナも無事に保護され、二人は涙ながらに再会を喜び合っていた。
その光景を見届けた一行は、ようやく館を後にする。
外に出ると、空は夜明け前の静けさに包まれていた。
東の空がほんのりと朱に染まり、夜の帳が少しずつ引いていく。
冷たい空気の中に、確かな解放の気配が漂っていた。
「――ナマエ、さっきのことだけど」
アリエルの酒場へ戻る道すがら、ユーリスがぽつりと声をかけてきた。その声音はどこかしおらしく、先ほどの一件を反省しているようにも見える。
ナマエは一瞬だけ迷ったが、あまり突き放し続けるのも大人気ないと思い、少しだけ歩み寄ることにした。
「なに? どうしたんだ」
促すと、ユーリスは決意を固めたように顔を上げた。
そして、真っ直ぐな目で言い放つ。
「僕、さっきのこと――謝らないから」
一拍、間が空いた。
「……はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
聞き間違いかと思ったが、ユーリスはけろりとした顔で続けた。
「謝らないよ。だいたいナマエだって悪いじゃん。人のこと、あんなに煽ったんだから。あれは……当然のお仕置きだよ」
「なっ……なんだと、この……っ!」
言い逃げるように、ユーリスはくるりと背を向けて走り出した。
ナマエは反射的に追いかける。
「待て、ユーリス!」
周囲の人々が何事かと振り返るが、そんな視線に構っている余裕はなかった。
数歩先を駆けるユーリスとの距離は、一向に縮まらない。
銀糸のような髪が、夜明けの光を受けてきらきらと輝いている。
その背中に、思わず手を伸ばしたくなる。
けれど、届かない。
「こら、待てってば!」
「やだよ! 悔しかったら追いついてみなよ!」
少年の軽やかな足取りに、疲労困憊のナマエには到底追いつけそうにない。
息を切らしながら、思わず悪態をついた。
「ほんっと、可愛くないな!」
「可愛くなくて結構だよ、バーカ!」
振り返ったユーリスが、舌を出してみせる。生意気そうな表情には、必死に押さえ込もうとしている感傷が見え隠れしていた。
思わず足を止めた。
――セイレン、しっぺ返しって、こういうことだったのか。
ようやく、先日セイレンが言っていた言葉の意味を理解した気がして、ナマエはそっと天を仰いだ。
2026/1/17改稿