Chapter.21





 あの後、なんだか微妙な空気になってしまったので、結局ナマエはタシャに暇を告げて、そそくさと酒場に戻ることにした。
 当然のように、ユーリスがその後をついてくる。手には数冊の本が抱えられていた。きっと貸本屋で借りてきたのだろう。魔導関係の専門書だろうか。相変わらず勉強熱心なことだ。
 そんなことをぼんやり考えていると、不意にユーリスが口を開いた。
「……僕、船の上で忠告したよね」
 足が止まる。
 忘れていた。そういえば船の上で、彼にタシャとのことを咎められたのだった。
 ナマエは顔をしかめ、振り返る。
 後ろを歩いていたユーリスの表情は、明らかに怒っていた。
「仕方ないだろ。あいつから誘ってきたんだ」
 言い訳にもならない言葉を肩をすくめて返し、ナマエは再び前を向いて歩き出す。後ろから、ついてくる足音。
「断ればよかったじゃないか」
 むっすりとした声が背中に刺さる。
「……あいつに迷惑かけた手前、断りづらかったんだよ」
 まるで小姑のようだ、と内心で毒づきながら、手をひらひらと振って投げやりに言い放つ。恐らく心配してくれての発言なのだろうが、それにしたって個人的な問題にまで顔を突っ込みたがるのは、さすがに鬱陶しい。
 その苛立ちが声に滲んでいたのかもしれない。ふと、後ろからの足音が止まっていることに気づき、振り返る。
 そこにあったのは、怒りではなく――寂しげな表情だった。
「……なんだよ、ユーリスに迷惑はかけてないだろ」
 たじろぎながらも、そう言葉を返す。「関係ないじゃないか」と続けようとして、なぜか言葉が喉で止まった。自分でも理由は分からない。
「……大丈夫だよ。私だって、身の程知らずじゃない。その辺はちゃんと弁えてるつもりだ。だから、心配しなくていい」
 考えあぐねた末に、ナマエは一歩譲るように言った。
 ユーリスはしばらく黙り込んだ後、ようやく小さく頷いた。
「わかったよ。……いまいち信用できないけどね」
「一言多いぞ」
 苦笑しながら、ナマエは彼の額をこつんと軽く小突いた。「いたいよ」と口を尖らせるユーリスが、ようやく笑顔を見せた。



「――そういえば、エルザのこと聞いた?」
 機嫌を直したらしいユーリスが、ふいに話題を変える。
 曰く、アルガナン伯爵から、エルザたち傭兵団を騎士に取り立てるという申し出があったらしい。条件は、伯爵に忠誠を誓うこと。エルザの異邦の力を利用すれば、グルグ族に対抗できると踏んでのことらしい。おまけに、カナンとの婚約も再考してくれるという。
「へえ、それなら悪くない話じゃない?」
 ナマエは感心したように頷いた。悪くはない。むしろ良いことずくめで、裏があるんじゃないかと疑ってしまうほどだ。野心家と噂のアルガナン伯爵の申し出が、果たして信頼に足るかどうかは分からない。
 それにしても、騎士か。エルザにとっては夢だったはずだ。願ってもない話だろう。
 だが、ナマエ自身はどうだろう。
 自分が騎士になる姿を想像してみるが、どうしてもピンとこない。
「……あのさ」
「ん?」
「その“取り立てられる連中”の中に、私も入ってるんだよな?」
「当然でしょ。何言ってるのさ」
 ユーリスが怪訝そうに眉をひそめる。
「……だよな」
 納得しつつも、ナマエは眉間にしわを寄せた。誰かに仕えるということに、どうしても抵抗がある。そんな感想が浮かぶのは、もしかしたら自分が根っからの自由人だったから……だろうか。
 そんなことを考えているうちに、いつの間にかアリエルの酒場の前にたどり着いていた。
 扉に手をかけたとき、ふと悪戯心が湧いて、ナマエは口角を吊り上げた。
「……あれ? でもさ、私が騎士になったら、ユーリスの言う“身分差”って、当面気にしなくていいってことになるんじゃない?」
 その一言に、ユーリスは墓穴を掘ったことに気づいてハッとし、慌てて言い返す。
「よっ、傭兵上がりの騎士と、元からの騎士様は違うだろ! それに、まだ決まったわけじゃないし!」
「まったく、減らず口だな」
 ナマエが苦笑しながら扉を開けた、その瞬間――。
「わっ!?」
 目の前に、いきなり大きな影が現れた。
「――っと、すまない」
「いや、こっちこそ……って、クォーク?」
 ぶつかりかけて謝りかけ、相手の顔を見てナマエは目を丸くした。
「おっ、ナマエにユーリスじゃねえか。おかえりー!」
 クォークの背後には、血気盛んなセイレンの姿もあった。二人とも武装している。どうやら、ただの外出ではなさそうだ。
「セイレンまで……もしかして急な任務でも入ったのか?」
 問いかけに、クォークがにやりと口元を吊り上げた。
「二人とも、いいタイミングで帰ってきたな。今から――殴り込みに行くぞ!」
「――え、ええっ!?」



 物騒なことを言い放ったクォークは、道すがら訳も分からず同行する羽目になったナマエとユーリスに、事の顛末を語って聞かせた。
 最近、ルリの街では子どもの失踪事件が相次いでいるらしい。調査の末、町外れの酒場にその犯人が潜伏しているという情報を掴んだのだという。
「悪趣味な話だな。子どもなんか誘拐して、何が目的なんだか」
 ナマエが眉をひそめて呟くと、クォークも顔をしかめた。
「さあな。考えたくもねぇよ」
 その横で、セイレンが拳を振り上げて吠える。
「とにかくロリコン野郎どもは、ぶっ飛ばーす!!」
「……セイレン、もう酔ってる?」
 ユーリスが半眼で問いかけると、セイレンは「素面だっつーの!」と元気よく返した。
 そうこうしているうちに、目的の酒場へとたどり着いた。
 薄暗い路地の一角にひっそりと佇むその店――サルマンドル。ナマエはその外観を見て、かつて拠点探しの途中に立ち寄ったことを思い出した。あの時も、柄の悪い連中が出入りしていた記憶がある。
「……なんだ? 中が騒がしいな」
 クォークが扉に手をかけた瞬間、内側から怒号とともに酔客が飛び出してきた。
「うおっ」
「殴り込みだ!」

「えっ……」
 思わず顔を見合わせるナマエとユーリス。まさか、もうこちらの動きがバレたのか?
「俺たちのことじゃない」
 クォークが鼻を鳴らす。
「……どうやら、先を越されたみたいだな」
 視線の先、酒場のホールのど真ん中で、怪しげな装束の男たちを次々と締め上げているのは――エルザだった。こちらに気づくと、彼は満面の笑みで手を振った。
「クォーク! みんな! 来てくれたんだな!」


 どうやらエルザは、アリエルの酒場で誘拐事件の話を聞きつけ、そのまま単身で殴り込みに来たらしい。無茶な真似を……と思いつつも、悪党を相手に生き生きと立ち回る彼の姿は、どこか楽しげですらあった。困っている人を見かけると、どうやら助けずにはいられない性分のようだ。
 襲いかかってきた男たちは、あっさりと撃退。エルザたちはそのまま、誘拐された子どもたちを探して二階へと上がっていった。
 先ほどの相手の手応えからして、黒幕も大したことはなさそうだ。ナマエはそう踏んで、ユーリスとともに一階で待機することにした。
 とはいえ、ただ待っているのも退屈だ。ナマエは誰もいなくなったカウンターの奥へと忍び込み、酒棚を物色し始めた。
 戸棚の奥に、琥珀色の液体が詰まった瓶を見つける。ラベルには、蜂のイラスト。
「お、ミードだ。ラッキー」
 思わず顔が綻ぶ。
「……ちょっと、ナマエ。何してるのさ」
 カウンター越しに、ユーリスが呆れ顔で覗き込んできた。ナマエは得意げに瓶を掲げて見せる。
「見ての通り、発掘中だ」
「呆れた……セイレンじゃあるまいし」
「失礼な。私はあれほど節操なしじゃないぞ。……でも、ミードだけは別だ」
 特別酒好きというわけではないが、蜂蜜酒には目がない。
 嬉しげな様子を隠そうともしないナマエを、ユーリスは白い目で見ていた。

 その時、不意に二階のバルコニーから男が二人、勢いよく吹っ飛んできた。
「うわっ、びっくりした!」
 どすん、という重い音にユーリスが慌てて振り返る。
 バルコニーにはエルザの姿があり、手振りで「ごめん」と謝っているようだった。
「もう……なんなの」
 落ちてきた男たちは、完全に気絶している。どうやら、誘拐犯の一味らしい。
「まだ時間かかるのかなぁ……」
 ナマエはぽつりと呟いた。
 いや、正確には“待ちくたびれた”というより、“早くこの瓶を開けたい”という気持ちの方が強かった。


 上の階から、ドタバタと騒がしい音が響いてくる。どうやら、最後の抵抗を片付けている最中らしい。やがて音は静まり、再びバルコニーにエルザが姿を現した。
「お待たせ! 終わったよ。今そっちに――って、ナマエ、それ何持ってるの?」
「お疲れ様。早く降りてきてよ。これ、開けるの我慢してるんだから」
「おいおい、ナマエー! いいもん見つけたじゃねーの。あたしにも味見させろよ」
 セイレンが言うなり、階段を駆け下りてくる。
 その様子を見たユーリスが、頭を抱えてぼそりと呟いた。
「ほんっと、駄目な大人たち……」
 

 賑やかに階段を降りてきた一団の中には、誘拐されていたという少女の姿もあった。少し疲れた様子ではあったが、幸いにも怪我はないようだ。
 ユーリスが安堵の息をつき、少女のもとへ歩み寄ろうとした、その時だった。
「えっ……」
 酒場の床に、突如として赤黒く光る魔方陣が浮かび上がった。次の瞬間、そこから禍々しい闇が噴き出す。
「な、なんだこれ……!」
 闇に飲まれまいと、ナマエは咄嗟に後退する。黒い霧のようなそれは、瞬く間に天井へと届くほどに膨れ上がった。
「くそっ……まさか、あいつらの言ってた“儀式”って、これを呼び出すことだったのか!」
 クォークが舌打ちし、剣を抜く。
「クォーク! こいつ、剣が当たらねぇ!」
 無謀にもセイレンが闇の中へ突っ込んだものの、手応えがないらしく、苛立った声を上げた。
「闇の中に実体が隠れているはずだ。それを何とか引きずり出せれば……!」
 エルザの言葉に、ユーリスが声を張る。
「闇なら、炎で照らせば吹き飛ぶさ! 僕に任せて!」
 その頼もしい宣言に、仲間たちは一斉に頷いた。
 すると少女が一歩前に出て、気丈にも詠唱を始める。
「私もお手伝いします。回復魔法くらいなら、私にだって!」
「頼もしいね」
 ナマエが弓を構えながら、口笛を鳴らす。
 ユーリスは炎の魔法を闇の塊に叩き込み、振り返って少女に声をかけた。
「君! なるべく僕のそばから離れないで」
「はい!」
 素直に頷いた少女に、ユーリスは満面の笑みを向けた。
「いい子だね。君のこと、必ずお父さんのもとに帰してあげる」
「は、はい……!」
 少女の頬がぱっと赤く染まる。
 ――まさか計算して言ったわけではないだろうが、その笑顔がどれほど幼い心を揺さぶったか、本人は気づいていないに違いない。



 ユーリスの魔法で姿を現した魔物に、仲間たちは一斉に攻撃を仕掛けた。斬撃、矢、魔法――怒涛の連携で畳みかける。
 だが、魔法の効果が切れると、魔物は再び闇の塊へと姿を変えてしまう。
 その時だった。
 魔物が全身を震わせたかと思うと、突如として闇が爆ぜ、酒場全体を覆い尽くした。
「なっ……!」
「意識が……!」
 頭を揺さぶられるような感覚に襲われ、意識が遠のきかける。慌てて闇を払ったナマエは必死に踏みとどまり、周囲を見渡すと、エルザと少女は何とか無事のようだった。
「一体、何が……」
 言いかけたその瞬間、右後方の闇から何かが飛び出してきた。
 殺気がなかったせいで、反応が一瞬遅れる。
 振り返ったナマエの視界に飛び込んできたのは――。
「ユーリスっ!?」
 瞳から光を失ったユーリスが、無表情のまま短剣を振りかざしていた。
 不味い事に、彼女の右側はがら空きだった。左手には弓。剣を引き抜くには遅く、魔法をぶつけるには躊躇する相手だ。短剣までの距離は殆どない。鋭い切っ先は、真っ直ぐにナマエの首を狙っている。
 ――間に合わない。
 咄嗟に、ナマエは素手で短剣を受け止めた。
 燃えるような熱い痛みにナマエは奥歯をかみ締めた。剣の刃が手の平の肉を撫でていく感触は、正直不愉快だ。それでも、彼女は力を込めて刃を握り締めた。
「くっ……!」
「うわっクォーク!?」
 エルザの叫びが聞こえる。彼もまた、別の仲間の暴走に手を焼いているようだった。
「先ほどのは、どうやら意識を奪う攻撃だったようです! 待っていてください、私の回復魔法で……!」
 少女が慌てて詠唱を始め、癒しの光がユーリスを包む。
 やがて、少年の瞳に光が戻った。我に返ったユーリスは、己の置かれている状況に今度はひどく取り乱した。
「え……? な、ナマエ!? うそだ、どうして……!」
 短剣を押し込む力が緩み、ナマエはようやく手を離すことができた。刃には、べっとりと血がついている。どれほどの傷か確認するのは少々怖いが、目の前の少年に傷口を見せるわけにもいかず、ナマエはそのまま手を握り締めて傷口を隠した。
 ユーリスが蒼白な顔をして、その手を掴む。
ナマエ、ごめん、僕……! 傷、見せて!」

「ってて……っ、だ、大丈夫。そんなに深手じゃない。それより、アレに魔法をもう一発頼む!」
 酒場の中央では、再び魔物が闇に包まれ、エルザたちが苦戦している。
「でも……!」
「戦闘中だぞ! プロなら、状況を見て動け!」
 取り縋ろうとするユーリスの手を、ナマエは強く振り払った。あえて、厳しい口調で突き放す。
「っ……!」
 ユーリスは言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。
「くそっ……さっさと倒すよ!」
 一拍ののち、少年は魔物へと向き直った。その瞳からは、迷いが消えていた。
 ナマエはその背中を見つめながら、そっと息をつく。
 傷口にひとまずの治癒魔法をかけ、自らも再び戦場へと身を投じた。




 仲間の意識を奪うというやっかいな攻撃をなんとか凌ぎながら、闇の魔物を打ち倒すことが出来た一行は、すっかり疲れて眠ってしまった少女をエルザが背負い、サルマンドルを後にした。
 セイレンは幻の銘柄を手に入れたことにご満悦で、手にした瓶を大事そうに抱えている。
 ルリの街は、すでにとっぷりと日が暮れていた。
 ちなみにナマエの手のひらの傷は、優秀な少女の回復魔法によってすっかり癒えていた。傷跡ひとつ残らず、痛みもまるでない。何ひとつ気にすることなどないはずだった。
 ――なのに。
 隣を歩く少年が放つ無言の圧に、ナマエは内心ため息をつきたくなっていた。
「なあ、ユーリス。さっきのことなら、もう気にすんな」
「……うん」
 返ってきたのは、覇気のない声。
 よほど自分が仲間を傷つけたことを悔いているのだろう。
 ナマエの言葉が届いているのかどうかも怪しい。ユーリスは、どんよりとした顔でただ頷いた。
「こういう稼業なんだしさ。武器振り回してんだからたまの間違いもあるって。今までだって、こういうことあっただろ?」
「……うん。でも……」
 戦いが終わってから、ずっとこの調子だった。
 落ち込んだ子どもの扱いなど知らないナマエにとって、これは完全に想定外だった。
 他の仲間たちは、気づいていながらも見て見ぬふりを決め込んでいる。誰も助け舟を出す気はなさそうだった。
 次第にナマエの中に、じわじわと疲労と苛立ちが募っていく。
「……ほら」
 堪えきれず、ナマエはユーリスの目の前に手のひらを突き出した。
 不意を突かれたユーリスが、ぱちくりと瞬く。
「見て。綺麗に治ってるだろ? 傷跡ひとつない。もう何も残ってないんだよ」
「……うん。よかったよ」
 その言葉に、少しだけ表情が和らいだかと思えば、すぐにまた沈んでしまう。
「ユーリス、いい加減にしろ。いつまで引きずってんだよ」
「……ごめん」
 とうとうナマエの堪忍袋の緒が切れた。ここまで落ち込まれると、まるで自分が悪者になったような気分になる。
 彼女は少年の肩を掴み、やや強引にこちらへ向かせた。
「あーもう! 本人が気にしてないって言ってんだから、もういいだろ! いつまでも暗い顔すんな」
 ユーリスは目を見開き、驚いたように口を開きかけたが、すぐに視線を落とした。
「……でも、よりによって君を傷つけるなんて……」
 ぽつりと呟くその声は、どこまでも沈んでいた。
 どうやら、傷ついたのはナマエの手よりも、彼の心の方だったらしい。
 一体どうしたらいいのか。困り果てたナマエは、思わずため息をついた。すると、目の前の少年の肩がびくりと震える。
 ――あ、そういうことか。
 まるで叱られた子どものような反応に、ナマエはようやく気づいた。彼は、彼女の機嫌を気にしているのだ。そう思うと、さっきまでの苛立ちが少しだけ和らいだ。
 ……頭、撫でたら怒るかな。
 そんなことを思いながら、そっとユーリスの頭に手を置いた。
 ゆっくりと撫でる。反応はない。
 もう一歩近づくと、自然と距離がなくなった。
 撫でていた手をそのまま首筋に添え、ナマエは彼を自分の肩口へと引き寄せた。
 思ったよりも、ユーリスの背は高かった。
 意外と大きいのだ、と思う間もなく、大人しくナマエの首元に顔を埋めていた少年が、くぐもった声で呟いた。
「子ども扱いするなって、何回言えば分かるんだよ……」
 その声は、まだ少しだけ拗ねた響きを残していた。
 ナマエは苦笑しながら、ぽんぽんと彼の背中を軽く叩いた。
「……しょうがないだろ。落ち込んでるやつを慰める方法なんて、これくらいしか知らないんだから」
「……べつに、慰めてほしいなんて言ってないし……はぁ」
「なにそのため息。納得してないなら、ちゃんと言えよ」
「もういいよ。仕方ないから、慰められて“あげる”ことにする」
「……その上から目線、なんなの」
 と、その時。
「あーらら、ユーリスちゃんってば、お姉さんの胸でなぐさめてもらってるの~?」
 やっぱりまだまだお子さまだね、とからかうように声をかけてきたのはセイレンだった。ナマエが彼女の方に視線を向けた瞬間、それまで大人しくしていたユーリスが、ぱしんと彼女の手を跳ね除けた。
「あ……」
 一瞬だけ、ユーリスの顔が夜目にもわかるほど赤く染まっていたのが、目に飛び込んでくる。彼は目にも留まらぬ速さで踵を返すと、一目散でアリエルの酒場へと駆け込んでいった。
 残されたナマエは、呆気に取られたまま立ち尽くす。
 ――怒った、のか?
 子ども扱いされたのが、そんなに嫌だったのだろうか。
 おもむろに近づいてきたセイレンが、呆れたように言った。
「……あんまり甘やかすと、いくらアイツでもつけ上がるぞ」
「は? つけ上がるって、何を?」
 ナマエが首を傾げると、セイレンは肩をすくめて言った。
「いつまでも子ども扱いしてると、いつかしっぺ返し食らうぞって意味。あいつ、体格だけ見ればもう大人と変わらないしな。……まあ、あたしから見りゃ、二人とも大して変わんないけど」
「でも、未成年だろ? 不安定なとこもあるし、まだ見守ってやらなきゃ」
 真面目な顔でそう言ったナマエに、セイレンはなぜかがっくりと肩を落とした。
「……あー、そういう風に見てるのね……」


 

 ――それで、この宝石箱はどうすればいいのか。
 翌朝、ナマエは例の盗賊の蔵で手に入れた宝石箱を前に、頭を悩ませていた。
 昨夜の蜂蜜酒が少々過ぎたのか、余計な頭痛が混ざっているようだがきっと気のせいだ。
 この宝石箱、盗賊の手にあった時点で盗品であることは確定だ。だが、中身の首飾りはあまりにも高価すぎて、下手に売りさばけば足がつく可能性が高い。
 ――となれば、持ち主を探して返す方が得策か。
 謝礼の一つや二つ、期待できるかもしれない。
 そう結論づけたナマエは、さっそく行動に移すことにした。
 手がかりは、箱の中にあった一通の書類。だが。
「……読めないんだよな、これが」
 ナマエはため息をつき、酒場で暇そうにしていたジャッカルを見つけて声をかけた。
「ジャッカル、ちょっと頼みがあるんだけど」
 呼ばれた瞬間、ジャッカルはだらけきっていた姿勢をシャキッと正し、爽やかな笑みを浮かべる。その切り替えの早さは、さすがと言うべきか。
「おっ、どうしたナマエ? 俺にできることなら、なんでも言ってくれ」
「これ、読んでくれない?」
 ナマエが差し出した書類を見た瞬間、ジャッカルの顔に露骨な落胆の色が浮かんだ。
「……なんだ、そんなことか。てっきりデートの誘いかと……まあいいや。どれどれ」
 文句を言いつつも、彼は書類を受け取り、目を通し始める。数行読み進めたところで、眉間に皺が寄った。
「……こりゃ借金の借用書だな。しかも、額がえげつない。ナマエ、これどこで拾ったんだ?」
 興味津々といった様子で、彼女を見やる。
 なるほど、盗賊たちは金貸しか何かを襲って、これと首飾りを奪ったのだろう。ナマエは納得し、意味ありげに微笑んだ。
「ちょっとね。で、この持ち主について調べてほしいんだけど。できれば住所も」
「お安いご用だ。ちょっと待ってな」
 ジャッカルはウィンクを一つ飛ばすと、軽やかに酒場の外へと飛び出していった。


 戻ってきたのは、それからそう時間も経たないうちだった。
「お待たせ。借用書の主は、ブラン・ジェイ・レイクフォード。ルリ島在住の貴族様で、城の執政補佐をやってるらしい。屋敷の場所は……地図あるか? 印つけてやるよ」
「さすがジャッカル、仕事が早いな」
 ナマエは感心しながら礼を言い、地図を差し出す。
 ジャッカルは慣れた手つきで印をつけながら、ふと顔を近づけてきた。
「お礼なら、熱いキス一つでいいぜ?」
「……は?」
 ナマエが瞬きをしたその時、セイレンの怒号が飛んでくるかと思ったが、今日は闘技場に出かけていたのを思い出す。
 つまり、あの鉄拳制裁は期待できない。
 その時、カウンターの奥から、じゅうじゅうと香ばしい音と匂いが漂ってきた。
 アリエルが鉄板でソーセージを焼いているようだ。
 ふと、ナマエの脳裏にある悪戯が閃いた。彼女はジャッカルに視線を戻し、にっこりと微笑んだ。
「……分かった。じゃあ、目、閉じて」
「おっ、本当に? やりぃ」
 ジャッカルは期待に満ちた笑みを浮かべ、素直に目を閉じる。
 ナマエは笑いを噛み殺しながら、アリエルに目配せを送った。
 すぐにアリエルは、悪戯を察してニヤリと笑い、フォークに刺した熱々のソーセージをそっと手渡してくれた。
 ナマエはそれを受け取り、そっとジャッカルの唇に――。
「……ん? あっ……ぢぃいいい!? な、なんだこれ、ソーセージ!?」
 文字通りあまりの熱さに飛び上がったジャッカルは、涙目で騙した相手をにらみつけた。
「おい、おいおいおい、ナマエ、ひどいじゃねえか! 俺の純情をもてあそびやがって!」
「あははっ、ごめんごめん。でも情報ありがとね!」
 ナマエは笑いながら、ジャッカルの怒声を背に受けつつ軽やかに酒場を飛び出していった。



 
 印のつけられた場所へ向かうと、そこには大層立派な屋敷が構えていた。門番に屋敷の主について尋ねると、最初は門前払いされかけたが、粘り強く食い下がった末にようやく情報を引き出すことができた。曰く、屋敷の主は現在、城で執務中とのこと。
 その足でルリ城へと向かい、何人かに道を尋ねながら回廊を進んでいくと、ちょうど一人の男が執務室に入ろうとしているところだった。
 その背中に、なぜか既視感がある。
 ナマエは首を傾げながら声をかけた。
「ブラン・ジェイ・レイクフォードって、あんたか?」
 振り返った男はナマエを認めて、あっと声を上げた。
「君はいつぞやの!」
「……あ?」
「いやあ、また会えて嬉しいよ。もしかして約束を思い出して僕に会いに来てくれたのかい?」
「……誰?」
 どうやら相手はナマエに見覚えがあるらしいが、こちらにはまったく記憶がない。
「えっ、ひどいなあ。覚えてないの? 大広間の階段で、運命的な出会いを果たしたじゃないか!」
 そこまで言われて、ようやくナマエの記憶が繋がった。
「……ああ、舞踏会の時の」
 ナンパ野郎か。
 とは声に出さずに、納得する。
「悪いけど、約束のことはすっかり忘れてた。ただ、あんたの大事な荷物を預かってたから、それを返しに来ただけ」
 そう言って、ナマエは宝石箱と書類を取り出した。ブラン・ジェイの顔が、見る間に驚愕に染まる。
「これは……! なぜ君がこれを?」
 ナマエが簡潔に経緯を説明すると、彼は何度も頷きながら感激した様子を見せた。
「そうか、わざわざ届けに来てくれたのか……! 本当に感謝してもしきれないよ。これで借金を踏み倒せる……おっと」
 物騒な発言は、慌てて取り繕われた。
「立ち話もなんだし、中で話そうか」
 促されるまま、ナマエは彼の執務室へと足を踏み入れた。
 宝石箱を手渡すと、ブラン・ジェイは中身を確認し、深く安堵の息をついた。
「ああ、この首飾りも無事でよかった。実はこれ、城の財宝庫から“拝借”したものでね」
 拝借とは言うが、恐らく無断なのだろうことは間違いない。売ると厄介になりそうだ、との彼女の勘は、やはり間違っていなかったのだ。
「……あんた、見かけによらず、なかなかの悪党だな」
 呆れたように言うと、ブラン・ジェイは照れ笑いを浮かべた。
「なにが“湖のほとりの可愛い別荘をあげるよ”だ。危うく借金で首が回らなくなるところだったんじゃないか」
「いやあ、はは……返す言葉もないな」
 頭を掻く姿は、どこか憎めない。
「で、謝礼は?」
「ふむ……謝礼なんて味気ないものより、僕の愛を受け取ってくれないか?」
「いらない。いいから、さっさと謝礼よこせ」
 しっしと手で追い払うようにすると、ブラン・ジェイは肩をすくめて唸った。
「意外とがめついなあ」
「うるさい」


 結局、ナマエはずっしりと重みのある金貨の袋を受け取った。
 中身はなかなかの額だったが、これが市民から巻き上げた税金だと思うと、少しばかり後味が悪い。
 とはいえ、腹は空くし、金は必要だ。
 用事を終えたナマエが暇を告げると、ブラン・ジェイは「せめて見送りを」と言って、回廊までついてきた。

 ふと、向こう側から複数の人影が近づいてくるのが見えた。
 甲冑を身にまとった騎士たちに混じって、二人の貴族風の男がいる。
 一人は杖をつき、顔の半分を眼帯で覆っていた。
 もう一人は若く、亜麻色の長髪を一つに束ねている。
 その若い男が、眼帯の男に何かを訴えるように取り縋っていた。
「おやおや、またか」
「……誰?」
 ナマエの問いに、ブラン・ジェイは眉をひそめた。
「誰って……伯爵だよ。君、城に出入りしてるのに、城主の顔も知らないのか?」
 ナマエはその言葉で納得した。城主、つまり。
「……雇い主か」
 なるほど、確かに野心家らしい風貌だ。カナンの“優しい伯父”というイメージとは、程遠い。
「隣の若い男は?」
「本当に何も知らないんだな。ジル殿だよ。カナン姫の婚約者」
「……あれが?」
 ナマエは目を細めて、男の顔を見つめた。
 神経質そうな表情。どこか陰のある目元。
 ――こいつが、仲間を陥れた張本人か。
「……なんか、ムカつく顔してるな」
「はは……」
 恐れ知らずのナマエの感想に、ブラン・ジェイは空笑いを浮かべた。




 ふと、伯爵と目が合った。彼はジルの訴えを片手で制し、なぜかナマエの方へと歩みを進めてくる。
 進路を妨げぬよう、ナマエは回廊の端に身を寄せた。
 だが、まっすぐに自分へ向かってくる伯爵の姿に、内心首を傾げる。
 コツ、コツ、と杖の先が石畳を叩く音が、やけに耳に残った。
 目の前に立った伯爵は、遠慮という言葉を知らぬように、ナマエの頭の先からつま先までをじろじろと眺め回した。
 あまり気分の良いものではないが、顔には出さないよう努める。
「お前は傭兵か」
「そうです」
「……クォークの部下か?」
 頷くと、伯爵は顎に手をやり、何やら思案するような素振りを見せた。
「名は?」
ナマエと申します」
「ふむ……」
 数拍の沈黙ののち、伯爵はふと何かを思い出したように口を開いた。
「帰ったらエルザに、“色よい返事を待っている”と伝えてくれ」
「承知しました、閣下」
 迷いのない返答に、伯爵は満足げに頷いた。
「中々礼儀をわきまえているな。気に入ったぞ」
「恐縮です」
 目線を下げて礼を述べるが、頭を下げる気にはなれなかった。
 何が目的だったのかは分からないが、伯爵はそれで満足したらしく、再びジルのもとへと戻っていった。

 彼の背が遠ざかるのを見届けてから、ナマエは大きく息を吐いた。
「あー……肩こった」
「態度が変わりすぎじゃないか」
 隣で見守っていたブラン・ジェイが、苦笑混じりに呟く。
 ナマエはにやりと笑って肩をすくめた。
「保身は大事だろ?」
「そうだね、まったくもって」
 しかし、間近で見た伯爵は、野心家であると同時に、為政者としてはそれなりに優秀なのかもしれないと漠然と感じたのも確かだった。




 ようやくブラン・ジェイと別れ、回廊の角を曲がろうとしたその時。
 背後から、やけに騒がしい足音が迫ってくる。
「……げっ」
 振り返ったナマエの目に飛び込んできたのは、ジル・ランバルト。
 思わず顔をしかめる。
 目が合った瞬間、なぜ振り返ってしまったのかと後悔したが、もう遅い。
「おい、お前! あの卑しい罪人の仲間だな!」
 踵を返して立ち去ろうとしたナマエだったが、背後からの声に足を止めざるを得なかった。
「……何か用か?」
 腕を組み、ジルを見上げる。
 雇い主でもなんでもない相手に、へりくだる理由などない。
 間近で見るジルは、顔立ちこそ整っていたが、纏う空気は高貴とは程遠い。
「用? 用だって? この僕に声をかけられて、それが最初の言葉か? やはり下賤の者は礼儀も知らない」
 どうやら、怒らせてしまったらしい。
 が、ナマエにとっては、快く思っていない相手の機嫌など知った事ではない。
「ああ、悪かった。で、何の用なんだ。用がないならもう行くけど?」
「なんだその態度は! 傭兵なら傭兵らしく遜ってみせれば、少しは可愛げもあるというものを」
 ジルの口元が歪む。
 この男が近づいてきた目的は良く分からないままであったが、なにやら権力を笠に着て居丈高である。
 その態度に、ナマエは鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。なんでお前ごときに遜らなきゃならない?」
「ふん、口の利き方がなってないな。知らないようだったら教えてやるが、僕はランバルト公爵家の跡取りだぞ!」
 その言葉に、ナマエの眉がぴくりと動いた。
 おとがいに伸びてきた手を、鋭く払う。
「――それがどうした」
 低く、殺気を帯びた声に、ジルの顔が一瞬引きつる。
 家名など、記憶がないナマエにとっては無意味なものでしかない。ふつふつと胸の奥から湧き上がる怒りが、抑えきれずに溢れ出す。
 権力を振りかざす人間は、いつでも傲慢だ。足元で救いを求めている人々の存在など、これっぽっちも目に入っていない。
「己の身分に慢心して、持てる者の義務を履き違えてる奴ほど、見苦しいものはないな」
 真っ直ぐにジルの目を射抜くように言い放つ。
 言葉を失ったジルは、しかし虚勢を張るようにナマエの胸倉を掴み上げた。
「き、貴様……! 僕にそんな口を利いて、ただで済むと思うなよ!」
 ナマエは口の端を歪めた。
 怒りで、頭が沸騰していた。
 伸びかけた手を、自分で止めることができなかった。
 ぐい、と顔を近づけ、ジルの顔を覗き込み、そして耳元で毒をたっぷりとこめて囁く。
「お前こそ、今度私の仲間に手を出したら――生きてることを、死ぬほど後悔させてやる」
 ジルの瞳が見開かれた、その瞬間。
「ぐっ……!」
 バチリ、とジルの首元にふれたナマエの指先から、火花が散った。ジルの体がびくんと震え、彼女にもたれかかるように崩れ落ちる。
 そのまま小刻みに震え続けるジルの瞳は焦点を失い、唇は何かを呟いていた。
 精神錯乱と軽い電撃を伴う、幻惑魔法。
 数分で効果は切れ、記憶も曖昧になる。実害はない。
 ナマエは一歩下がり、もたれかかっていたジルの体をそっと受け流す。
 彼はそのまま、床に崩れ落ちた。
 その音を聞きつけ、騎士が駆け寄ってくる。
「ジル様!? どうなされたのですか!」
「具合が悪いみたい。悪いけど、部屋まで運んでやってくれない?」
 ナマエはにっこりと微笑み、何食わぬ顔で騎士に後始末を押しつけた。





 回廊から大広間へ戻る途中、ようやく頭が冷えてきたナマエは、自分のしでかしたことを思い返し、思わず頭を抱えたくなった。
 ――やってしまった。
 思わず怒りで頭に血が上って、手を出してしまった。しかも相手はこの上なく面倒な相手だ。
 錯乱の呪文はうまく効いていたようなので、術が解けた後は記憶も曖昧になっているはずだが、万が一覚えていたら……。
 今さら不安になって、つい背後を振り返る。衛兵が追ってくる気配は、まだない。
 ナマエは早足で城門を目指した。

 そそくさと城門を抜け、広場へ出たその瞬間、不意に後ろから肩を叩かれてナマエは飛び上がった。
「うわっ!」
 一歩後ずさりして振り返ると、そこには驚いた顔のタシャが立っていた。手は中途半端に上がったまま、困惑している。
「す、すまない。そんなに驚かせるつもりはなかった」
 相手がタシャだと分かり、ナマエは胸をなでおろす。
「あ、ああ……タシャか。偶然だな。じゃあ、また」
 背後が気になって仕方ない彼女は、そそくさと立ち去ろうとする。
 だが、タシャに手首を掴まれ、足を止めざるを得なかった。
「な、なんだよ」
「何をそんなに急いでいる? さっき大広間で見かけて声をかけたのに、気づかなかったようだが」
 ナマエは目を瞬かせた。後ろばかり気にしていて、タシャの存在にまったく気づいていなかった。
「えっ、そうだったの? ごめん」
 素直に謝ると、タシャは「別に気にしていない」と言いながらも、視線を逸らした。
「っと」
 その時、城門から衛兵が姿を現した。
 ナマエは反射的にタシャの影に身を隠す。
「なにを――」
「しぃっ」
 タシャが問いかけるのを制し、衛兵の動向を見守る。
 どうやら巡回のようで、こちらには気づかずに通り過ぎていった。
「……一体、何をやらかした?」
 衛兵が遠ざかるのを見届けたタシャが、胡乱げな目でナマエを見下ろす。
 ナマエはそらとぼけて肩をすくめた。
「別に何も。ちょっと急いでるだけ。じゃあ、行くね」
「どこへ?」
 予想外の質問に、ナマエは言葉に詰まった。
「……ええと」
 アリエルの酒場に戻るのも気が引ける。また追及が及んだら、迷惑をかけかねない。
 そんな彼女の逡巡を見て、タシャは軽く頭を押さえ、ため息をついた。そして、ふっと微苦笑を浮かべる。
「――まったく。こちらだ、ついてこい」



 連れてこられたのは、路地裏にひっそりと佇む小さなレストランだった。一見しただけでは見落としてしまいそうな、目立たない佇まい。
「ここは?」
「二階に個室がある。衛兵の目もここまでは届かないだろう」
 その言葉に、ナマエは目を瞬かせた。次いで、むくれたように唇を尖らせる。
「別に、追われてるわけじゃないんだけど……」
「だが、何があったか話す気はないんだろう?」
「うん」
 当然のように頷くと、タシャは苦笑を浮かべた。


 店内に入り、二階の個室へと案内される。
 部屋に入ると、タシャが椅子を引いてナマエに座るよう促す。少し面食らいながらも、ナマエは腰を下ろした。
 だが、目の前にタシャが座ると、なぜか落ち着かなくなり、思わず立ち上がる。
 すると、タシャもつられるように立ち上がった。
 ナマエがぎょっとし、タシャはきょとんとして彼女を見ている。
「どうした?」
「……なんで一緒に立つの?」
ナマエが立ったからだ」
 不思議そうに言うタシャに、ナマエは訳が分からず顔をしかめた。
「私が立ったら、一緒に立たなきゃいけないルールでもあるの?」
「礼儀だ。女性が席を立つ時、男が座ったままでは無作法だろう」
「……マジで言ってる?」
「当然だ。そういうものだ」
 真顔で言うタシャに、ナマエは頭を抱えた。
「あのな、ここは貴族の晩餐会じゃないんだぞ」
「それくらい分かっている」
「じゃあ、なんでそんな面倒なこと……」
「言わなければ分からないか?」
 ふいにタシャの表情が真剣になる。
「――っ」
 昨日の記憶が脳裏をよぎり、ナマエは言葉を失い、顔を伏せた。
 頬がじんわりと熱を帯びる。
「それで、座るのか? 座らないのか?」
「……座る」
 気まずさを隠しきれず、そろそろと椅子に腰を下ろす。タシャも静かに続いた。
 店員に注文を伝え、二人きりになると、急にどっと疲れが押し寄せてきた。そのままテーブルに突っ伏す。
ナマエ?」
 頭上からかかる声に、顔を上げる。
 タシャの表情は、どこか心配そうだった。
「……タシャ、私を淑女みたいに扱うの、やめてくれない?」
「なぜ?」
「落ち着かない」
 理由を告げると、タシャはふっと笑った。
「そうか」
「いや、“そうか”じゃなくてさ……」
 なぜか満更でもなさそうなタシャの表情に、ナマエは困惑する。
 その穏やかな眼差しに見つめられると、どうにも調子が狂う。
「今まで通りでいいんだけどな。そっちの方が、気が楽だし」
「……善処しよう」
 その返事に、ナマエは小さくため息をついた。
 ――どうやら、あまり期待はできそうにない。


 頼んだ飲み物が運ばれ、喉を潤していたところで、ふいにタシャが口を開いた。
「……ユーリス殿は、今日はどうしている?」
 唐突な問いに、ナマエは首をかしげる。
「ユーリス? さあ、酒場で本でも読んでるんじゃないか?」
「そうか」
 タシャは軽く頷いたあと、少し間を置いて続けた。
「……ナマエは、彼のことをどう思っている?」
 その質問の意図が読めず、ナマエは思いきり眉をひそめた。
「は? どうって……なんでそんなこと聞くんだ?」
 問い返しても、タシャは答えず、ただ静かに続きを促すように視線を向けてくる。
「うーん……気にはかけてるよ。なんだかんだ言っても、まだ子どもだし」
 それは、先日セイレンに言ったのと同じ言葉だった。
 けれど、ナマエにとってユーリスは、ただの庇護対象ではない。大切な仲間であり、時に自分よりも冷静で、頼りになる存在だ。
 付け加えて言うならば。
「たまに生意気だけどさ、可愛いと思ってるよ」
 顔立ちの話ではない。素直じゃないくせに、誰よりも仲間思いで、優しいところがある。そういう一面が、ふとした瞬間に愛おしく思えることがある。
「……そう、か」
 タシャはそう言ったきり、頬杖をついて目線を逸らした。その表情はどこか複雑で、言葉を飲み込んでいるようだった。
「どうしたの?」
 変なことを言っただろうか。
 ナマエが訝しげに尋ねると、タシャは瞼を伏せ、低く呟いた。
「……少し、気の毒になってな」
「え?」
 意味が分からず、ナマエは首を傾げる。
 だが、ふと気づいて、慌てて言葉を足す。
「いや、違う。そういう意味じゃなくて……もちろん、実戦じゃ頼りになる奴だよ。子どもって言っても、頼りないって意味じゃないからな」
 そうか、とタシャが曖昧な表情で頷いた。



 それにしても、この店は居心地がいい。
 静かな空気と落ち着いた内装、柔らかな椅子の感触に、つい長居してしまいそうになる。
「ここ、落ち着くな」
 ナマエがぽつりと呟くと、タシャが穏やかに微笑んだ。
「そうか、良かった。ほとぼりが冷めるまで、ここにいるといい」
「タシャは?」
「残念ながら、私はそろそろ城に戻らねばならない」
 手元のグラスを飲み干し、タシャは静かに立ち上がる。
 やっぱり、宮仕えは大変そうだ。ナマエは軽く手を振って見送った。
「お勤めご苦労さま」
「まったく、他人事のように。気楽で結構なことだ」
 タシャが苦笑する。
「なんなら傭兵になる? 堅苦しい騎士より、ずっと気楽だぞ」
 にやにやとからかうように言うと、タシャの表情がふっと引き締まった。
「それこそ冗談だな。苦しいからと逃げていては、何も成し遂げられない」
 相変わらずの堅物ぶりに、ナマエは思わず笑みをこぼした。


「……タシャ」
 踵を返した彼の背中に、ナマエはふいに声をかけた。
「なんだ?」
 振り返ったタシャの顔を、じっと見つめる。
「……あんたも、貴族の出なんだよな?」
「そう、だが。それが、何か問題が……?」
 怪訝そうに問い返され、ナマエはふと視線を逸らした。
 ――結局、この人もジルと同じ。持つ側の人間だ。
 そして、ナマエとは住む世界が違う。
「――いや、なんでもない」
 



2026/1/12改稿