Chapter.19
結局その夜、ナマエは先日忍び込んだ郊外の盗賊団の蔵で一夜を明かすことにした。
とはいえ到着してみると、すでにそこに数名のガラの悪い先客がいた。
彼らはナマエの姿を見るなり無言で剣を抜いたため、こちらも一切の躊躇なく応じる。数合も交えることなく、彼らは床に沈んだ。
どうやら、先日までこの蔵に巣食っていたゾラ一味とは別の盗賊らしい。まったく、どこから湧いてくるのか。この手の連中は、まるで雑草のように後を絶たない。
奥の部屋には、彼らの戦利品らしきものが雑多に詰め込まれていたので、ありがたく頂戴することにする。
その中に、一つだけ鍵のかかった小さな宝石箱があった。ピッキングで開けてみると、中には見事な細工の首飾りが収められていた。明らかに高価な品だ。一緒に入っていた書類には、立派な家紋が蝋で封印されている。恐らくどこか貴族の邸宅から盗み出したものなのだろう。
売れば大金になるが、売ったが最後、厄介な火種になるのは目に見えている。
しばし考えた末、ナマエはとりあえず宝石箱ごと持ち帰ることにした。
夜が明け、翌日。
まずは街の様子を探るべく、ナマエは酒場へと向かった。
物陰から様子を窺っていると、ちょうど扉が開き、タシャとアリエルが連れ立って出てきた。アリエルの元気そうな姿に、ナマエは胸を撫で下ろす。
一方で、タシャの姿には一瞬だけ動揺を覚えた。
だがすぐに、昨夜の会話を思い出して納得する。恐らく彼は宣言通り、衛兵の追求の手が酒場に行かないように対処してくれたのだろう。
アリエルがタシャに微笑みかけ、彼も礼儀正しく頷く。その所作に、改めて彼が“騎士”であることを思い出す。
ふと、視線を上げたその先に――。
「あ、やばっ」
道の向こうに衛兵の姿を見つけ、ナマエは反射的に身を翻した。
昼を過ぎても、仲間たちが解放された様子はなかった。
焦りと苛立ちが募る。
――もう、行くしかないか。
腹を括り、ナマエはルリ城の城門へと向かった。
仲間を助ける手立ては依然として見つからない。だが、脱獄を考えるにしても、まずは合流しなければ話にならない。
城門の前に立つと、両脇に控えていた門番がちらりと視線を寄越したが、それだけだった。
拍子抜けする。緊張していた分、逆に腹が立ってきて、ナマエは門番に詰め寄った。
「ちょっと、私のこと無視か?」
「は? ええと……入城されるのであれば、通行証の提示をお願いします」
形式通りの返答に、ナマエは呆れ果てた。
「おいおい、街を守る衛兵が手配犯の顔も知らないでどうするんだよ。私はお姫様の誘拐を企てた“大悪党”の一味なんだろ? わざわざこっちから出向いてやったのに、どういうことだよ」
「て、手配犯……だと?」
門番の顔がみるみる青ざめていく。
「ああ、それなら――」
隣にいたもう一人の門番が、のんびりとした口調で口を開いた。ナマエがそちらに目を向けると、彼はニヤニヤと人の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「無事に容疑が晴れて、お前の仲間はついさっき釈放されたよ。一足、来るのが遅かったようだな」
「……え?」
予想外の言葉に、ナマエはぽかんと口を開けた。
酒場へと続く道を、ナマエは駆け足で引き返した。角を曲がった先、見慣れた背中がいくつも見えた瞬間、思わず声が出た。
「待って!」
その声に、一行が足を止めて振り返る。
「ナマエ!」
誰かが名を呼ぶ。
息を切らせながら駆け寄ったナマエは、顔を上げて仲間たちの無事を確かめた。マナミア、ユーリス、セイレン、ジャッカル。皆、少し疲れた様子ではあったが、しっかりと立っている。その姿に、胸の奥から安堵の息が漏れた。
「みんな……よかった。無事で……」
「よお、ナマエ! ひっさしぶりだなー!」
セイレンが大きく手を振って迎えてくる。その底抜けに明るい声に、ナマエは思わず苦笑した。
「セイレン、元気そうで何よりだよ」
だが、その言葉にはセイレンなりの異論があったらしい。
「元気じゃねーよ! 酒! さけ! 酒が足りねー! あと肉ー!」
「そんだけ元気ありゃ十分じゃねーか」
隣でぼやいたジャッカルは、牢生活の名残か、無精ひげが伸び放題だった。
「ジャッカルも無事でよかった」
「おや、心配してくれたのか。美しい女性に憂い顔をさせるとは、俺も罪な男だぜ」
気障な口ぶりは相変わらずで、ナマエは呆れたようにため息をついた。
「まったく、変わらないな……ん?」
ふと鼻先を掠めた異臭に、ナマエは眉をひそめた。どこからか、甘ったるく、胃がむかつくようなひどく不快な臭いがする。
「……なに、この匂い」
思わず漏れた言葉に、ユーリスが顔を真っ赤にして反応した。
「し、失礼だな! しょうがないだろ、君と違ってろくに風呂も入れなかったんだから!」
だが、ナマエは首を振る。
「違う、体臭じゃなくて……。分かった。これ、腐った死体の臭いだ。……でもなんで? 牢屋にいたんだよね?」
ユーリスは一瞬きょとんとした後、何かを思い出したように顔をしかめた。
「うわ……まさか、ネクロマンサーの臭いのこと? まだ残ってんのかよ、最悪……」
「ネクロマンサー?」
ナマエが聞き返すと、マナミアがずいと前に出て、彼女の手を取った。
「そうなんです、ナマエさん聞いてください! いろいろ大変だったんですよ」
勢いよくまくし立てる。
「地下墓地に危険なネクロマンサーが住み着いてるのに、ロッタさんってば勝手に先に進もうとするんですもの! 私、よっぽどロッタさんを地下墓地に置いていこうかとも思いましたけど、かわいそうなのでそれはやめておきましたわ」
マナミアの訴えからは、どうやら相当な苦労があったことだけは伝わってきた。だが、話の要点はつかみにくく、しかも聞き慣れない名前まで飛び出してきた。困惑したナマエは、助けを求めるようにユーリスへ視線を向けた。
「ええと、よく分からないんだけど、地下墓地って、牢屋に捕まっていたんじゃなかったのか? それにロッタって誰?」
「胡散臭い考古学者だよ。牢で出会ったんだ。そいつの脱獄を手伝うために掘った穴から地下に降りたら、墓地に出ちゃってさ。やっかいなネクロマンサーは住み着いてるし、死者どもには襲われるし、オマケに結局脱獄なんて無理だったし、散々だったよ」
なるほど、そんなことが――。
ユーリスの説明でようやく全体像が見えてきたナマエは、苦笑しながら仲間たちを労った。
「……まあ、何はともあれ、無事に釈放されてよかったよ。お疲れさま」
「全くだよ。君は船を降りた後、さっさと逃げてたし」
どうやら、まだ根に持たれているらしい。ナマエは肩をすくめて謝った。
「悪かったって」
「ま、気にすんなよ。ナマエ一人でも嫌な目に遭わなくてよかったじゃねぇか」
ジャッカルのフォローに、ユーリスは機嫌を損ねたのか顔を背けた。と思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
「……君のこと、これでも一応心配してたんだけど」
ぼそりと漏れたその言葉に、ナマエの胸がじんと熱くなる。
「――っ、ユーリス!」
感極まって、彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「わっ!?」
「ありがとう。心配してくれたなんて……優しいなぁ」
「や、やめろよ! また子ども扱いして……!」
耳まで真っ赤にして、ユーリスは慌てて身をよじる。
「あ、」
しなやかな少年の体は、ナマエの手からたやすく逃れた。ユーリスは小腹を立てながらも乱れた髪型をなんとか元に戻そうと頭をなでつけながら、足取り荒く先へと行ってしまった。
その背を少し寂しげに見送ったナマエは、ふと思い出したようにジャッカルを振り返った。
「ところで、エルザとクォークは?」
「クォークは多分、伯爵のところじゃないか? エルザはトリスタ将軍に挨拶に行ったぞ。将軍には世話になったからな」
ジャッカルの言葉に、ナマエは納得した。やはりトリスタが力になってくれたか。
「結局、伯爵も味方してくれたの?」
その問いに、ジャッカルは苦笑を浮かべ、言葉を濁した。
「あー……まあ、どうだろうなぁ」
「……ふうん」
その夜、アリエルの酒場はまるで祭りのような賑わいを見せていた。
セイレンとマナミアの食欲と飲欲は底なしで、ジャッカルはジャッカルで、懲りもせずアリエルに口説き文句を浴びせ続けている。
ユーリスはというと、臭いが気になったのか真っ先に風呂へ直行し、その後は酒を片手にほろ酔いでご機嫌だった。
ちょうど酒が切れた頃、エルザとクォークが戻ってきた。そのまま自然と宴会は第二部へ突入。
戻ってきたばかりのエルザだったが、酒が尽きて管を巻くセイレンのため、再び夜のルリの街へと酒の調達に出て行く羽目になった。
その背中を見送るとき、ふと彼の横顔がどこか沈んで見えたのが気にかかった。
容疑が晴れた後、カナンには会えたのだろうか。
カナンはどうしてるのだろう。ルリ船からずっと、まともに彼女の顔を見ていない。
気にはなったが、仲間の前であれこれ詮索するのも気が引ける。ナマエはエルザにカナンのことを尋ねるのはやめて、今は宴を楽しむことにした。
――とりあえず、明日もう一度ルリ城に行ってみよう。
宴は日付が変わってもなお続いていた。
寝過ごすと厄介なので、ナマエは頃合いを見て部屋に引き上げた。
翌朝、階下に降りると、そこにはセイレン、エルザ、クォーク、ジャッカルが死屍累々の態で床に寝転がっていた。
「うわ、こりゃひどい……」
思わず漏れた声に、後片付けをしていたアリエルが苦笑を浮かべる。
申し訳なさがこみ上げ、ナマエは片付けを手伝うことにした。転がる駄目な大人たちを叩き起こし、それぞれの部屋へと追いやってから、ようやく朝食の準備に取りかかる。
朝食を済ませ、少し休んだ後、ナマエはルリ城へと向かった。
城門では、昨日と同じ門番が迎えた。クォークから預かった通行証を提示し、城内へと入る。
カナンを探して城内を歩き回るが、彼女の姿はどこにも見当たらない。
自室は立ち入り禁止区域に指定されており、もしそこに籠もっているのだとしたら、ナマエにはどうすることもできなかった。面会を申し出ても取次すらも断られるだろう。
そうしているうちに、時刻は昼前になっていた。
諦めて中庭へ向かうと、中央に見慣れない階段が現れていた。地下へと続く石造りの階段。グルグ族が襲撃してきたときには、こんなものはなかったはずだ。
――秘密の通路? どこに繋がってるんだろう。
不思議に思って見つめていると、ふいに背後から肩を叩かれた。
振り返るとそこに、昨日、酒場の前で見かけた男の姿があった。
「タシャ!」
思わず声が上擦る。
彼は落ち着いた様子で頷いた。
「ここで何をしていたのだ?」
「あ、いや……この階段、どこに通じてるのかと思って」
ナマエの言葉に、タシャは「ああ」と頷き、視線を階段へと向けた。
「これは、地下の牢獄へと通じている」
なるほど、とナマエも頷く。
つまり、昨日まで仲間たちが収監されていたのは、あの下ということか。
特に興味があるわけでもなかったので、話題を切り替える。
「そういえば、あんたには礼を言わなきゃな。無事に容疑が晴れて、昨日みんな解放されたよ。酒場の方にも手を回してくれたんだろ? 本当にありがとう」
「――ああ。気にすることはない。仲間が無事で何よりだ」
タシャの穏やかな笑みに、ナマエも自然と笑みを返した。
だがすぐに、少し気まずそうに視線を逸らす。
「それと……この前は、夜中に押しかけて悪かったな」
タシャはすぐに首を振った。
「いや、構わない。――ところで、ナマエ。今日はこの後、予定はあるか?」
「え?」
突然の問いに、ナマエは瞬きをした。
意図が読めず、言葉が出てこない。
「……ないけど」
そう答えると、タシャはどこか安堵したように息をついた。
「そうか、それはよかった」
「……何か用事?」
「いや、あなたをお茶に誘いたいと思っていた」
「――お、ちゃ?」
思考が一瞬、停止する。
目の前の男が何を言っているのか、理解が追いつかない。
ぽかんとしたままのナマエに、タシャは不安そうに眉を寄せた。
「……駄目だろうか?」
その視線に、言外の圧力を感じる。
背中にじわりと汗が滲んだ。
――これは、もしかして。
先日押しかけた詫びとして、何か奢れということか。
あるいは、何か重要な話でもあるのか。
断るという選択肢は、選べる空気ではなさそうだった。
「い、いいけど……」
たじたじになりながらも頷くと、タシャはぱっと表情を明るくした。
「よかった」
その笑顔に悪意は感じられない。
ナマエはそっと彼の様子を窺いながら、慎重に切り出した。
「――けど、どうせならお茶じゃなくて、昼飯にしないか?」
「ああ、そうしよう」
あっさりと頷くタシャに、ようやく彼の誘いに他意がないことを理解して、ナマエはほっと息をついた。
「じゃあ、あんまり高いところはナシな。手持ち、そんなにないし」
「そんなことは気にするな」
行こう、と促されるままに、ナマエは彼の後に続いた。
中庭から大広間へと戻る道すがら、タシャはやけに後ろを気にしていた。何度も振り返っては、ナマエの様子を窺ってくる。どうやら彼女が後ろを歩いているのが気になるらしく、歩幅を緩めては横に並ぼうとしてくる。まるで、淑女をエスコートする騎士のように。
そんな彼の様子が正直不気味で、ナマエはたまらず口を開いた。
「……一体どうしたんだ? 今日はなんだか、やけに他人行儀だな」
「そんなことはない」
タシャは苦笑を浮かべて否定するが、ナマエは眉をひそめて即座に返す。
「嘘だ。だいたい、“あなた”って何だよ。この前までは散々“お前”って……ん?」
言いかけて、ふと口をつぐむ。そういえば、夜中に忍び込んだとき、彼は自分をどう呼んでいたっけ? 思い出そうとしても、はっきりしない。
そんなナマエに、タシャは穏やかに微笑んで言った。
「女性に向かって“お前”と呼ぶのも、考えてみれば失礼だと思ってな」
「じょ、」
言葉に詰まる。
「――手を」
大広間の階段に差しかかったところで、タシャが自然な仕草で手を差し出した。
茫然としながら反射的にその手を取ると、彼はなんのためらいもなく手の甲に唇を落とす。
「~~ッ!?」
思わず声にならない悲鳴が漏れた。
「た、た、タシャ……あ、あんた、熱でもあるんじゃないのか……?」
「……そうだな。あるかもしれん」
顔を引きつらせ、しどろもどろの様子のナマエに、どこか慈しむような眼差しが投げかけられる。
その視線に耐えきれず、彼女は手を引っ込めようとしたが思いのほか強い力で握られてしまい、それも叶わなかった。
はっと息を呑む。
タシャの瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「エスコートさせてくれ」
その一言は、拒否を許さないほどに真剣だった。ナマエは何も言えず、口をつぐんだまま俯く。
――たかが数段の階段を降りるのに、かつてこれほど苦労したことはなかった。
心臓が落ち着かない。足元がふらつくのをこらえながら、タシャに手を引かれ、ゆっくりと階段を下りていく。
一体、彼は何を考えているのか。
どうしてこの男は、こんな傭兵まがいの自分を、まるで貴族の令嬢のように扱うのか。
傍から見れば、きっと滑稽に映っているに違いない。
大広間にいる貴族たちがこちらに注目していないのが、不思議なくらいだった。
――いっそ、誰かがあざ笑ってでもくれれば、この手を振り払えるのに。
城門を出る前、ナマエはタシャに申し出た。
「街中では、手をつなぐのは勘弁して」
いざという時、反応が遅れる――というのは、ほとんど言い訳だった。
だが、タシャは何も言わずに頷いた。
しばし無言のまま、ルリの街を並んで歩く。
雑多な喧騒と、鼻をくすぐる屋台の匂い。肌に馴染んだ空気に触れ、ようやくナマエの心も落ち着きを取り戻してきた。
「で、どこに行くんだ?」
ふと顔を上げると、いつの間にかアッパークラスの店が立ち並ぶエリアに差しかかっていた。
周囲には、ナマエのような格好の人間は一人もいない。
完全に場違いだった。
「あの店はどうだろうか」
タシャが指し示した先を見て、ナマエはぎょっとした。
「え、ちょっと待って。正気? 無理無理、断られるって」
そこは、いかにも貴族御用達といった高級店。
ドレスでも着ていればまだしも、今の自分は旅装のまま、しかも剣まで帯びている。
だが、タシャはその意味が分からないようだった。
「なぜだ。聞いてみないと分からないではないか」
そう言って、ナマエの手を取って店の前まで引きずっていく。
が――。
「――大変申し訳ありませんが、当店にはドレスコードがございまして……お連れ様のようなお方は、あいにくご遠慮いただいております」
「む……」
「ほら、だから言ったろ」
予想通りの対応に、ナマエは肩をすくめた。
「服装を改めればいいのか? ならば、ブティックに――」
「いや、お腹すいたし!」
その場で粘りそうな気配を察し、ナマエは慌ててタシャの腕を引いた。
彼の顔を覗き込みながら、提案する。
「ね、マルシェに行こうよ。あそこなら屋台がたくさんあるし、好きなもの買って食べるのも楽しいよ」
その言葉に、タシャは少し考えてから、こくりと頷いた。
「……そうだな」
マルシェに着くと、二人はそれぞれ好きなものを買い、近くのベンチに腰を下ろした。
ナマエが手にしているのは、スモークサーモンとたっぷりの野菜が挟まれたバゲット。タシャの奢りだった。
「美味しい?」
「……ああ」
バゲットにかぶりついたタシャが、口元を拭いながら頷く。
「そりゃ良かった。騎士様のお口に合って一安心だよ」
軽口を叩きながら、ナマエも自分のバゲットにかじりつく。香ばしいパンに、サーモンの塩気とマスタードの酸味が絶妙に絡んで、思わず頬が緩んだ。
ふと、タシャが苦笑を漏らす。
「本来なら、誘った私がエスコートすべきなのに……。どうにも頼りなくて情けない。こういうことには慣れていないせいか、なかなかスマートにはいかないな」
「慣れないことはするもんじゃないってことだろ」
「そうかもしれない。だが、不慣れだからと避けていては、いつまで経っても慣れないままだ」
いかにもタシャらしい、生真面目な答えだった。ナマエは顔をしかめながら、ぼそりと呟く。
「……肝に銘じるよ」
しばらく、パンをかじる音とコーヒーを啜る音だけが静かに響いた。
やがて、ナマエがふと思い出したように口を開く。
「でも、今日はいきなりどうしたんだ? 何か私に話でもあったのか?」
「いや」
タシャは首を振った。
「ただ……あなたを誘いたかっただけだ」
その言葉と同時に、バゲットに挟まっていたオリーブがぽとりと地面に落ちた。
「少しでも、一緒に過ごせたらと思ったんだ」
その言葉に、ナマエは思わず顔を上げる。
視線がぶつかる。
タシャの瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「な、なんで……? 何か企んでるの?」
「そんなふうに言うな。別に下心があるわけじゃない。……ただ、ひとつだけ、聞きたいことがあって」
「なに?」
警戒心を隠せないまま尋ねると、タシャは油紙に包まれたバゲットをテーブルに置いて、こちらに向き直った。その表情はどこか緊張を帯びていて、内心で身構える。
一体、何を聞かれるのだろうか。
ふ、と一呼吸置いて、タシャが口を開く。
「……恋人は、いるのか?」
「……はい?」
予想の斜め上をいく質問に、思考が一瞬止まる。
数度瞬いて、ようやく意味を理解した瞬間、困惑が押し寄せてきた。
――ジャッカルじゃあるまいし、なんでこの堅物がこんな質問を?
からかわれているのか?
そう思った途端、羞恥と怒りがないまぜになった感情が胸にこみ上げ、頬が一気に熱を帯びた。
「恋人だ。親密な関係の相手は、いるのか?」
「く、繰り返さなくても聞こえてるってば……」
「そうか。で、いるのか? いないのか?」
「そんなの……いるわけ、ないだろ」
低く抑えた声で返すが、タシャは淡々と続ける。
「想いを寄せている者も?」
「い、いない……。タシャ、私のことからかってる?」
「いたって真剣だ。もうひとつ。クォークと親しげに見えたが、彼とも何もないのか?」
「ありえない! クォークは恩人だ」
とんでもない質問に慄いて即座に否定すると、ようやくタシャの表情が和らいだ。
「そうか。それを聞いて安心した」
「安心って……何が?」
問い返すと、タシャはまっすぐな視線を向けてきた。
「最初から、やり直したいと思ってな」
思考が、止まった。
言葉の意味を理解したくなくて、脳が拒否反応を起こす。
――何をやり直すつもりだ、と聞いたら負けだ。
顔が熱い。変な汗まで出てきた。
「……ええと」
どう返せばいいのか分からない。
混乱したまま、無理やり視線を逸らす。妙な雰囲気になるのを何とか阻止しようと、何か別の話題はないかと頭をせわしく回転させた。
「あー……あっ、そういえば。戦の準備って、どうなってるんだ?」
「戦?」
「グルグ族と戦争するんだろ? 今、準備で忙しいんじゃないのか?」
「ああ……」
ようやく話題が切り替わったことに気づいたのか、タシャは頷いて遠くを見やった。
「戦争か……そうだな。形式的には、帝国とグルグとの戦争は、大昔から続いていることなのだが」
「そうなのか」
随分と長い因縁らしい。
「武力衝突は、ここ数十年はなかったがな」
タシャはしばし黙り込み、ぽつりと呟いた。
「……妙なことになってしまったな」
その横顔を見つめながら、ナマエは内心でほっと息をついた。
よかった。なんとか話題を逸らせたようだ。
安心したように、両手で持っていたバゲットに思い切りかぶりつく。
スモークサーモンの塩気とマスタードの酸味が、口いっぱいに広がった。
……うん、やっぱりうまい。
視線を戻したタシャが、ふっとおかしそうに笑った。
「……マスタード、頬につけているぞ」
「えっ、ほんと? どこ?」
思わず自分の頬に手をやるが、タシャは首を振る。
「右の……いや、逆だ。ナマエから見て右……もう少し下……いや、まったく、仕方ないな」
苦笑混じりのため息とともに、タシャの手がそっと伸びてきた。咄嗟のことに、ナマエは身を固くする。男の硬い指先が、頬をぐいと撫でた。
「……ありがと」
心臓が早鐘を打つのを感じながら、ナマエは瞼を伏せてなんとか礼を言った。
けれど、タシャの指がなかなか離れていかない。触れるか触れないかの距離で、指先がそっと口元へと滑る。
唇の端をなぞるようなその動きに、ナマエは思わず目を見開いた。
タシャの視線は、どこまでも穏やかで、どこか慈しむようだった。その眼差しに、ナマエは居心地の悪さを覚え、思わず睨みつける。
「……なに?」
いや、と掠れた声が耳元をくすぐる。
目を合わせるのではなかった――と、咄嗟に自分の失態を呪った。視線が絡み、目が逸らせない。男の視線に、熱が加わったような気がした。
「……そろそろ、さきほどの話に戻してもいいだろうか」
「……っ」
蒸し返されると思いもよらず、びく、と体が無意識に跳ねた。
――何なんだこの空気。逃げ出したい。
「ナマエ」
慌てて顔を背けた彼女に、タシャが優しく名を呼ぶ。その声音は、まるで甘く窘めるようだった。
返事をしなければ。黙っていたら、彼の都合のいいように解釈されてしまう。
「だっ、だめだ……戻しちゃ、だめ……」
ようやく絞り出した声に、タシャはふっと笑った。
「……そうか。残念だな」
その表情には、どこか余裕すら漂っていた。
――ああ、分かった。
唐突に、この男の一連の不可解な行動の意図を理解できたような気がした。
この男、きっと気づいてる。自分が、少なからず彼に好意を抱いていることに。あの船の上で、唐突なキスを拒まなかった時点で、もう隠しきれていなかったのだろう。
だから、こんなふうに余裕の態度で、じわじわと距離を詰めてくる。
けれど、傭兵風情を本気で相手にする騎士なんて、この世にいるのだろうか。せいぜい、気まぐれな遊び相手が関の山じゃないのか。
……でも、タシャはそんな男だろうか? 女を弄ぶようなことを、この人がするだろうか?
そもそも、彼ならいくらでも相手を選べるはずなのに――。
なぜ、私なんかにこだわる?
思考の渦に沈んでいたその時、ふいに、さわ……と、タシャの指が下唇をなぞった。
そのわずかな刺激に、ナマエの思考は一瞬で真っ白になった。
言葉も、呼吸も、すべてが止まったような気がした。
吐息が震える。つと息を吸い、吐いたその瞬間――。
「……なにしてんのさ」
「……っ!?」
背後からかけられた声に、ナマエの体がびくりと跳ねた。タシャの手が、そっと離れていく。
振り返ると、そこには見慣れた少年の姿があった。
「ユーリス……」
第三者の登場に、思わずほっと息を漏らす。助かった、と心の底から思えた。この際、あの妙な空気を壊してくれたのであれば、グルグ族でもリザードでも、ナマエは感謝していたことだろう。
だが、ユーリスの表情はどこか不機嫌そうだった。目が据わっている。
「……なにしてたの?」
思いのほか冷たい声音に、ナマエは内心たじろぎながら答えた。
「タシャに、昼飯奢ってもらってただけ」
「ふうん」
じろり、と半目で睨まれる。
「で、なんで見つめ合ってたの?」
その問いに、ナマエは一瞬言葉に詰まる。理由を説明するのが、なんとなく気恥ずかしい。
「……頬についたマスタード、取ってもらってた」
「君って、意外と子どもっぽいよね」
深いため息とともに、ユーリスが呆れたように言う。ナマエは口を尖らせて抗議した。
「心外だな」
ユーリスは肩をすくめるだけで、特に反論もせず、すとんとナマエの隣に腰を下ろした。
二人掛けのベンチに三人。少し狭い。
「ユーリス?」
「僕もここでお昼食べる。……お邪魔していいよね?」
後半の言葉は、どうやらタシャに向けられたものだった。
「……ああ、もちろんだ」
タシャは静かに頷いた。
ユーリスは、事前にアリエルからランチボックスを受け取っていたらしく、手際よく包みを開く。
中には、一口サイズのサンドイッチがぎっしりと詰まっていた。きっと、読書しながらでも食べやすいようにと、アリエルが気を利かせたのだろう。
ふと、自分の手元のバゲットを見下ろし、ナマエは思いついた。美味しいものは分け合う主義だ。
「ユーリス、これも一口食べてみる? 美味しいよ」
「ふうん?」
ちらりとバゲットを見たユーリスは、何の前触れもなく、がぶりと齧りついた。
「ちょっ! おまっ、いくらなんでも持ってきすぎだろ!」
慌てて引き戻すも、時すでに遅し。
サーモンの半分以上が、ユーリスの口の中に消えていった。
「……私のサーモン……」
少年はよく咀嚼し、飲み込んでから、さらりと言った。
「うん、美味しいね」
「……そりゃ良かったよ」
がっくりとうなだれながら、ナマエは涙を飲んだ。
以前、食事を勧めたときはあんなに面倒くさそうにしていたくせに、今回は遠慮のかけらもない。
――まさか、わざと?
そんな疑念がよぎったその時、タシャがすっと立ち上がった。
「もう一度買ってこよう」
「あ、いや、それは――」
遠慮しようとした矢先、ユーリスも立ち上がった。
「お詫びに、僕が買ってくるよ。同じのでいいんだよね?」
「ああ、頼……む?」
ナマエが顔を上げると、ユーリスはなぜかタシャを見ていた。
そして、タシャもまた、ユーリスを見返している。
――なんだよ、男同士で見つめ合って。
ナマエはなんとなく仲間外れにされたような気がして、ふてくされながら頬杖をついた。
結局、二人はナマエを置いてバゲットを買いに行ってしまった。
並んで歩く二人の間に、会話はなかった。
だが、沈黙はどこか張り詰めていた。
「ユーリス殿、貴殿は――」
ふいにタシャが口を開く。ユーリスが振り返り、静かに彼を見つめた。
「なに?」
「……いや」
数拍の沈黙。
視線をそらしたのは、どちらが先だったのか。
おそらく、ほとんど同時だったに違いない。
2026/1/11改稿