Chapter.18
「いらっしゃいませ! ……あら」
酒場の扉を開けた瞬間、懐かしい声がナマエを迎えた。
「ただいま、アリエル」
看板娘のアリエルが、ナマエの顔を見て目を丸くする。
給仕の手を止めると、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「ナマエ!? やだ、おかえりなさい! 今までどこに行ってたの? 他のみんなは? 無事なの?」
「ちょっとちょっと、そんなに一気に聞かれても困るって」
苦笑しながら、ナマエは簡潔にこれまでの経緯を語った。
「――で、グルグ族の基地を潰して、今戻ってきたところ。仲間はルリ城に向かったよ。私は……まあ、逃げてきたけど」
「そうだったのね……」
アリエルは安堵の息をつきながら、胸に手を当てた。
「街もね、グルグ族の襲撃でいろいろ大変だったのよ。でも、無事でよかった。本当に、心配してたんだから」
どうやら、グルグ族は街の住民には手を出さなかったらしい。
とはいえ、混乱や不安がなかったわけではないだろう。
アリエルの言葉の端々に、張り詰めていた日々の名残が滲んでいた。
ふと、ナマエは周囲を見回した。
あの酒豪と女たらしの姿が見えない。
てっきり、ここでのんびり酒でも煽っていると思っていたのだが。
「ところで、セイレンとジャッカルは?」
「え? 一緒じゃないの? あれ以来、ここには戻ってきてないみたいだけど」
「……そう」
グルグの襲撃から数日は経っている。
てっきり、ここでクォークたちの帰還を待っているものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
となれば、まだ城に拘束されているのかもしれない。雇われ兵の立場では、丁重なもてなしなど期待できないだろう。
……セイレンが城の酒蔵を空にしていなければいいが。
まあ、それは後で考えるとして。
「とりあえず風呂入りたいな。潮風で肌がベタベタして気持ち悪い」
ナマエの訴えに、アリエルはにっこりと笑って頷いた。
「うん、分かったわ! すぐ準備するから、その間、何か食べる? 飲む?」
「助かる。じゃあ、ちょっとだけ」
アリエルが二階で浴室の準備をしている間、酒場の常連客たちがナマエに気前よく酒や料理を振る舞ってくれた。どうやら“英雄の仲間”として、すっかり持ち上げられているらしい。
ありがたくご馳走になりつつも、浴室の準備が整ったと聞くと、さっさと席を立って二階へと向かった。
湯に身を沈めた瞬間、全身から力が抜けた。
生き返るような心地だった。
船旅の疲れがどっと押し寄せ、気づけばうとうとしていた。頃合いを見て浴室を出ると、着替えを済ませて部屋を出る。
酒場のバルコニーから一階を見下ろすが、仲間たちの姿は見当たらなかった。
まだ城から戻ってきていないのだろう。
もしかすると、城で凱旋の宴でも開かれているのかもしれない。グルグ基地に一番槍で突入したクォークたちの功績は、決して小さくはない。今頃、豪勢な料理に舌鼓を打っているのだろう。
――やっぱり、ついて行けばよかったかも。
少しだけ後悔しながら、ナマエは部屋に戻ってベッドに横たわった。
目を閉じると、すぐに眠気が押し寄せてくる。
――……。
「……ん?」
ふと、階下が何か騒がしい気がした。酒場のざわめきとは異なる、硬質な足音が混じっている。
気になって、ナマエは重い体を起こした。部屋の扉をそっと開けた、その瞬間――。
「ちょっと、勝手に上がらないでよっ! な、なんなの、あなたたちいきなり――!」
アリエルの悲鳴が、階下から響いた。
まさか、賊か?
飛び出しかけたナマエの足が、次の声で止まる。
「そこをどけ、店主」
「いいや、先に要件を言ってもらおうか。衛兵が、こんなちんけな店に何の用だってんだ」
衛兵?
ナマエは眉をひそめた。
低く威圧的な声は、酒場の主人だろう。
どうやら、ただの騒ぎでは済まなさそうだ。
「ここに重罪人が出入りしているとの目撃情報があった。中を改めさせてもらう」
「じゅ、重罪人? なにそれ、どういうこと?」
アリエルの困惑した声が響く。
「とぼけるな。アルガナン伯爵家のご令嬢誘拐を企てた大悪党の一味が、この酒場をねぐらにしていることは、すでに把握している」
チッ、とナマエは舌打ちした。
――どうやら、自分のことらしい。
知らぬ間に“ご令嬢誘拐犯”に仕立て上げられていたとは、冗談にもならない。
扉を開けたまま、音を立てないように部屋の奥へと後ずさる。
ブーツを履き、手早く荷物をまとめる。鎧を着ている暇はない。
アリエル一家に迷惑をかけたことを心の中で詫びながら、窓枠に手をかけた。
幸い、窓の下には衛兵の姿はない。
「娘、重罪人を匿えば、ただでは済まんぞ」
「脅しなんか、怖くないわよ!」
アリエルの声が震えている。それでも、怯まずに応戦しているのが分かった。
窓を開け、ナマエは窓枠に足をかけて身を持ち上げる。
「やめろ、アリエル! ……上に上がってもらえ」
「賢明な判断だ。では、客室を確認させてもらう」
階段を駆け上がってくる荒々しい足音が聞こえる。
その音を背に、ナマエは夕闇に包まれたルリの街へと、音もなく飛び出した。
――英雄の凱旋パーティ、なんて甘い話じゃなかった。
あいつら、捕まったんだ。
「まったく……だから言わんこっちゃない」
ナマエは衛兵の目を避けながら、ぼそりと呟いた。
元々隠密行動は得意だったようで、衛兵から逃げおおせる自信はあった。ルリの街は入り組んでいて、隠れる場所には事欠かない。
自分一人なら、どうにでもなる。だが――問題は仲間たちだ。
誘拐犯の汚名を着せられたとなれば、罪は重い。最悪は死罪も考えられる。
だが、どうしてそんな誤解が生まれたのか。クォークたちが誘拐犯だなんて、どこをどう捻ったらそうなる?
ルリ城にはトリスタも同行していたはずだ。彼は何も弁明してくれなかったのか?
確かに、カナンをすぐにルリ城に帰さなかった時点でなんらかのお咎めがあるとは考えていたが、よもやここまで最悪のシナリオになるとは思わなかった。
もしクォークたちがすでに捕らえられているのだとしたら、それはつまり、雇い主であるアルガナン伯爵がそれを認めたということだ。
まさか、伯爵自身が告発したのか?
それとも、他の貴族が裏で動いたのか。
いずれにせよ、目的が見えない。
そもそも本当に誘拐したのなら、その犯人が、堂々と被害者と一緒に帰ってくるものか。
「……貴族の考えることは、分からないな」
とにかく、まずは事情を知る人物を探す必要がある。
だが、城の中にいて、なおかつナマエと面識のある人間となると、限られてくる。
しかも今の自分は手配中の身。人目を避けて会うには、深夜に忍び込むしかない。
カナンは警備が厳しそうなのでパスだ。
残るはトリスタとタシャ。
……タシャは、できれば避けたい。気分的に。
ではトリスタか、と言われれば、あの将軍の信奉者が『トリスタ様の部屋に侵入するなど無礼な』と怒る気がする。
とはいえ――。
「どっちみち部屋が分からないんだから、しらみつぶしに探すしかないか」
一度は警備の担当をしたとはいえ、城の構造を完全に把握しているわけではない。賓客棟の場所は分かるが、部屋数までは記憶にない。
日が沈み、ルリの街が闇に包まれるのを待って、ナマエは動き出した。
ルリ城への潜入は、思ったよりも容易だった。
正面の城門を使う必要などない。裏手の排水路や物資搬入口など、抜け道はいくらでもある。
城内の警備は、意外なほど手薄だった。先日の襲撃の影響か、あるいは油断か。
いずれにせよ、ナマエにとっては好都合だった。
城内に残る戦闘の痕跡は、ほとんど見当たらなかった。修復が進んでいるのか、それとも表面だけ取り繕ったのか。
賓客棟への潜入は成功した。だが、次なる課題は――トリスタの部屋を見つけること。
メイドの控室に、部屋割りが記された紙が置かれていたが、ナマエはこの国の文字が読めない。
仕方なく、外に出て壁伝いにバルコニーを移動し、部屋の様子を探る作戦に切り替えた。
灯りのついた部屋には誰かがいるはず。それを頼りに、一つずつ覗いていく。
「……二人とも、どこにいるんだよ」
結論から言えば、将軍の姿はどの部屋にもなかった。タシャも同様。一つだけ、ある部屋の椅子にフリルのエプロンが置かれていたが、あれはメイドの忘れ物だろうか。
――さて、どうしたものか。
思案に暮れていたその時、ふと下の階の部屋に灯りがともった。誰かが戻ってきたようだ。
ナマエは壁を伝って静かに降り、灯りのついたバルコニーへと忍び寄る。
そっとガラス戸越しに中を覗くと――そこにいたのは、あの白騎士だった。
「……タシャ」
思わず名を呟く。
彼は、どこか疲れた様子で佇んでいた。
すると、タシャがおもむろに鎧を外し始めたので、慌てて視線を逸らし、壁際に身を潜める。
――危ない……、危うく覗き魔になるところだった。
着替えが終わるまで、しばし悩んだ。
できれば顔を合わせたくない。けれど、今はそんなことを言っていられない。仲間の命がかかっているのだ。
再びそっと部屋を覗く。
タシャは編んでいた髪を解き、細い編み紐で緩く束ねていた。ゆったりとした白いチュニックシャツの部屋着がいかにも優雅で様になっていて、ナマエは思わず鼻で笑ってしまった。彼女の、着古したシャツとは大違いだ。
その小さな音に、タシャがバルコニーの方を振り向く。ナマエは慌てて顔を引っ込めた。
足音が近づいてくる。
タシャが窓辺に歩み寄ってきているのが分かる。
――もう、隠れても無駄か。
観念して、ナマエは静かに立ち上がった。
ガラス戸の施錠が外れる音がした。ゆっくりと戸が開き、そこからタシャが顔を覗かせる。
「……誰かいるのか?」
訝しげな声が夜気に響いた、その瞬間――。
ナマエは飛び出した。
「なっ……!」
タシャの瞳が驚きに見開かれ、ナマエを捉える。
大声を出される前に、彼女は素早くその口を塞ぎ、抜刀しかけた手を押さえつける。そのまま男の体ごと部屋の中へと押し入った。
無言のまま後ろ手でバルコニーの戸を閉める。目を白黒させていたタシャの口元から、ようやく手を離すと、彼は待っていたかのように口を開いた。
「ナマエっ、今までどこに――むぐっ」
思いのほか声が大きく、再びナマエは慌てて口を塞いだ。
「しっ、大声出すな」
その一言に、タシャは頬を赤らめながらこくりと頷く。
手を離すと、今度は声を落として尋ねてきた。
「す、すまない……しかし、いきなりで驚いた。賊かと思ったぞ」
「ごめん。夜中に押しかけて悪いとは思ったけど……頼れるのが、あんたしかいなかった」
その言葉に、タシャは目を見開き、そしてふっと表情を緩めた。
頼れる人間が“消去法”で選ばれたことなど、彼は知る由もない。
「いや、気にするな。むしろ、あなたが来てくれてよかった。どう連絡を取ろうかと考えていたところだった」
そう言って、タシャは苦笑を浮かべた。
「……だが、お尋ね者が堂々と城に忍び込むとは。無茶をするな。それに、城の警備体制も見直す必要がありそうだ」
「げっ、それは私が困るからやめてくれ」
ナマエは顔をしかめて肩をすくめた。
半日ぶりの再会は、気まずくなるかと思いきや、意外にも穏やかだった。
「しかし、無事でよかった。船を降りたら挨拶に行こうと思っていたのに、いつの間にか煙のように消えていて驚いたぞ」
「あー……堅苦しいの苦手でさ。先に宿に戻ってた」
「そうか。……何にせよ、また会えてよかった。さあ、座ってくれ。いま紅茶を……いや、メイドを呼ぶのははまずいな……」
昨日の他人行儀な態度が嘘のように、タシャは柔らかな笑みを浮かべていた。その気安さに、逆にナマエは気まずさを覚える。
だが、振り回されてばかりなのも癪だ。何もなかったふりをして、彼女は無言で頷いた。
タシャの部屋は、いたってシンプルだった。ベッドとクローゼット、テーブルに椅子が二脚。
勧められるままにテーブルへと歩み寄り、椅子の背に手をかける。
だが、腰を下ろす前に、ナマエはタシャを振り返った。
「座る前に、一つ確認したいことがある。……あんたは、味方と思っていいんだよね?」
その問いに、タシャは驚いたように目を見開いた。
「当然だ。まさか、私も今回の騒動に加担していると思っていたのか?」
不快げに眉をひそめるその顔を見て、ナマエはようやく少しだけ安心した。
「悪い。疑ってたわけじゃない。ただ……誰が味方で、誰が敵なのか、はっきりさせておきたかっただけ」
その言葉に、タシャはそっと手を重ねてきた。顔を上げると、どこか憐れむような視線が向けられていた。
「……独りで、不安だったのだな」
その一言に、ナマエの頬がかっと熱くなる。
哀れまれたことへの苛立ちか、それとも単なる照れか――自分でも分からない。
(……やっぱり、顔を合わせるべきじゃなかった)
「別に、そんなんじゃない」
そう言いながら、彼の手を振り払って椅子に腰を下ろす。
タシャは微苦笑を浮かべ、自分も向かいの椅子に腰を下ろした。
「――で、一体何がどうなってるんだ。どうしてクォークたちは捕まったんだ?」
ナマエの問いに、タシャは真剣な表情で頷いた。
「順を追って話そう。まず、トリスタ様がルリ城に凱旋した際、アルガナン伯爵とカナン姫の婚約者が出迎えに現れた。その直後、クォークたちは衛兵に取り押さえられ、牢へと連行された」
「は?」
「トリスタ様もカナン様も止めようとしたが、伯爵は聞く耳を持たなかった。……恐らく、最初からそういう段取りだったのだろう」
「……つまり、仕組まれてたってこと?」
「その可能性が高い。現在、エルザたちには“カナン姫誘拐”と“グルグ族との内通”の嫌疑がかけられている」
「はっ、内通? 誰がそんなこと言い出したんだ。頭おかしいんじゃないの、そいつ」
「……違うな。腐っているんだ」
タシャは珍しく、あからさまな嫌悪をあらわにした。
その表情に、ナマエは思わず目を見張る。
「……あれ、意外と毒吐くんだ」
「ああいう連中には、我慢ならん」
その言葉に、彼の中の正義感がにじんでいた。虚偽の密告がまかり通る現実に、彼は本気で怒っているのだ。
「今、エルザは取り調べを受けているが……状況は厳しい」
「……そっか。難しいな」
証拠など、作ろうと思えばいくらでも捏造できる。権力者の一声で、真実などいくらでもねじ曲げられる世界だ。
「タシャ」
ナマエは、目の前で難しい顔をしている男の名を呼んだ。
「このまま取り調べが長引きそうなら、私も頃合いを見て出頭しようと思う」
タシャは一瞬、言葉を失った。
「っ、だが……なぜ、わざわざ」
「酒場の主人に迷惑をかけてるんだ。私が逃げ回ってたら、あの人たちにまで火の粉が飛ぶ」
「ならば、それは私が何とかしよう。……ナマエ、行くあてがないなら、ここにいればいい」
「え?」
思わず、タシャの顔をまじまじと見つめる。彼は真剣だった。
「……ああ、灯台下暗しってやつ? 隠れ場所としては悪くないかもね。でも、遠慮しとく。これ以上、あんたに迷惑かけたくない」
「そんなことは気にしなくていい。迷惑だとは思わない」
「でも、私を庇えば将軍にも迷惑がかかるよ」
そう言って首をかしげると、タシャは口を真一文字に結び、押し黙った。
その沈黙が、何よりも彼の葛藤を物語っていた。
――まったく、面倒なことになったものだ。
ナマエは疲れたように天井を仰ぎ、ぼやくように呟いた。
「敵の拠点を突き止めたっていう功績があるんだし、恩赦にでもしてくれないかな。お姫様をすぐに帰さなかったのは確かに過失だけど……死罪だけは勘弁してほしいよ」
「……うむ。しかし、ジルが易々と許すまい」
聞き慣れない名に、ナマエは姿勢を正し、タシャに向き直った。
「ジルって?」
「カナン姫の婚約者だ」
その名に、ナマエはグルグ船でのクォークとの会話を思い出し、頷いた。
「ああ、クォークが言ってた……。で、どんな奴なんだ?」
「――小物だ」
タシャの眉がわずかに歪む。その一言に、彼の嫌悪が凝縮されていた。
そういえば、クォークも『プライドだけが高い役立たずの腰抜け』と散々な言いようだった。
「小物なくせに権力は一流ってやつか。やっかいだな」
「まったくだ」
タシャは心底うんざりしたようにため息をついた。
だが、疑問は残る。なぜそんな厄介な男に、目をつけられる羽目になったのか。
「……伯爵ってのは、どういう奴なんだ?」
ナマエの問いに、タシャは少し考え込んでから答えた。
「あまり詳しくはないが、一言で言えば――野心家」
「ジルとの関係は?」
「姪の婚約者と、その叔父。伯爵はランバルト公爵家の名を欲しているようだが、それに留まらない」
なるほど。となると両者の結びつきは浅くない。
だが、タシャは続けた。
「ただ、今回の件に関しては、伯爵の主導ではないようだ。騒動の主犯はジルだ。あの男は、エルザとカナン様の関係を快く思っていない。……エルザを排除したがっている節がある」
「……なんだそれ。つまり、嫉妬ってこと?」
ナマエは思わず頭を抱えた。
要するに、悋気。くだらないにもほどがある。
「そんなことで、ありもしない罪をでっち上げられたのか」
「そういうことになるな」
タシャの言葉に、ナマエは深いため息をついた。
つまり、ジルという男の見栄とプライドが、すべての発端。動機は単純明快。だが、だからこそ厄介だ。こういう類の問題は感情が絡む分、理屈では覆しにくい。
どうすればいいのか。
金で解決するのは難しい。相手が権力者である以上、通用しない可能性が高い。
となれば、手段は二つ。
一つは、さらに格上の権力者を味方につけて、相手を黙らせること。
権力を振りかざす者は、往々にして自分より上の力に弱い。
もう一つは――訴えを起こした本人の口を塞ぐこと。
つまり、闇に葬る。
「タシャ、その婚約者の部屋って、どこにあるか知ってる?」
「……何をするつもりだ」
ナマエの問いに、タシャは明らかに警戒を強めた。
不穏な空気を感じ取ったのだろう。
質問する相手を間違えたか、とナマエは苦笑し、肩をすくめた。
「今のところは、何もしないよ。ただ、何か手がかりがないかと思って」
「頼むから、早まるな。下手を打てば、事態はさらに悪化する」
その心配は、ナマエにも分かっている。
だが、何もしないまま傍観するなどできるはずがなかった。
ナマエは椅子から立ち上がり、ガラス戸越しに外を見やった。
曇り空に月は隠れ、夜の闇が濃く広がっている。
――事を起こすには、悪くない夜だ。
そんな考えが頭をよぎり、思わず自嘲気味に笑みが漏れる。
そして、背後のタシャを振り返った。
「でも、このままじゃ確実に処刑台行きだよね。……いっそ、その前に脱獄でもする?」
冗談めかして微笑むと、タシャは固唾を呑んだ。まるで、困難な現実を突きつけられたかのように。
「それは……。――いや、最悪は、それもやむを得ないかもしれん」
言いかけて、思い直したようにタシャは低く呟いた。
その言葉に、ナマエは思わず目を見張った。
「へえ、公明正大な騎士様の言葉とは思えないな」
「さすがの私も、冤罪には黙っていられんからな」
タシャは苦笑しながら、首をゆるく振った。
椅子から立ち上がったタシャは、そっとナマエの隣に立った。彼女の肩に手を置こうとして、一瞬だけ躊躇いを見せる。
その手は迷うように宙を彷徨い、やがてナマエの手を掬い上げ、両手で包み込むように握った。
「ナマエ」
その仕草をぼんやりと見つめていたナマエの視線が、タシャの真剣な瞳とぶつかる。
無意識に、体がこわばった。
「……なに?」
「とにかく、エルザたちのことは私が何とかする。だから、ナマエはおとなしく身を潜めていてくれ。さっきも言ったが、ここを使ってもらって構わない。目の届くところにいてくれた方が、私も安心できる」
思いがけず力強い口調に、ナマエはたじろいだ。
「ここに……? まあ、寝るスペースなら、たしかにいくらでもありそうだけど」
視線を落とすと、よく磨かれたタイルの床が目に入る。
見た目は綺麗だが、寝転がるには硬すぎる。
これなら、野宿の方がまだマシかもしれない。
「どこを見ている。床になど寝かせる気はないぞ」
タシャの苦笑に、ナマエは顔を上げた。
まじまじと彼の顔を見つめる。
――床じゃないなら、ベッド?
だが、ここには一つしかない。
男と女が同じ部屋で、同じベッドを使うというのは、いくらなんでも警戒心がなさすぎる。
もちろん、タシャが別の部屋を使えれば問題はない。
だが、手配犯を匿っているという立場上、下手に動けば不審を招く。この部屋以外を使うのは、得策ではない。
ナマエの脳裏に、ルリ船内での“事故”がよぎる。
タシャの申し出が善意からのものだとしても、あの一件を思い出すと、そう簡単には気を許せなかった。
――この申し出は、ただの親切か? それとも……。
考えるのが面倒になってきたナマエは、単刀直入に尋ねることにした。
「……でも、ベッドは一つしかないじゃないか。一緒に寝るつもり? あんたが床に寝るの? それとも、――そういうお誘い?」
「そ、」
冗談めかして言ったつもりだった。だが、タシャは一拍置いてから盛大に顔を赤らめ、自らの口元を覆って呻いた。
「す、すまない……気を悪くしたのなら、本当に申し訳ない。私が浅慮だった」
その反応に、ナマエは拍子抜けした。
なんだ、ただ自分の寝床のことを忘れていただけか。
苦笑を噛み殺しながら、うなだれるタシャの肩を軽く叩く。
「そんなに心配しなくても、無茶はしないよ。気遣い、ありがとう。……タシャ」
ありがたい申し出ではあったが、彼の世話になるつもりはなかった。
ナマエはガラス戸を開け、バルコニーへと出た。
下を素早く確認する。見張りの姿はない。
振り返って、部屋の中のタシャに別れを告げた。
「じゃあ、もう行くよ。邪魔したな。ゆっくり休めよ」
飛び出そうとしたその瞬間――。
「っ、ナマエ」
どこか切羽詰まった声が背中を呼び止めた。
振り返ると、タシャが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「……なに?」
「本当に、無茶はするなよ」
念を押すようなその言葉に、ナマエは思わず苦笑した。
「分かってるって。あんたに迷惑かけるつもりはないよ。じゃあな。夜遅くに悪かったね」
「ナマエ!」
バルコニーを飛び出した瞬間、タシャの声が闇夜に響いた。
「……あの馬鹿」
屋根に移動したナマエは、内心で舌打ちする。
あんな大声を出して、巡回兵に気づかれたらどうするつもりだ。
屋根の上から下を覗くと、遠くでランタンの灯りがゆっくりと移動していた。
騒ぎにはなっていないようだ。
どうやら気づかれてはいない。
ほっと息をつき、ナマエは今夜の寝床を探すべく、屋根伝いに移動を始めた。
――それにしても、あいつ。
もし、あの時私がタシャの申し出を受けていたら、
自分の寝床はどうするつもりだったんだろう。
ふとそんなことを思い出し、ナマエは小さく笑った。
心配してくれるのはありがたいが、天然なのも困りものだ。
……ただ、彼女はまだ気づいていない。
あの問いかけに、タシャが“否定”の言葉を一度も口にしていなかったことに。
2026/1/5改稿