Chapter.17





 ――ふ、と頬を何かが撫でていった。
 風ではない。風よりも確かな、温もりを持った感触だった。

 浮上しかけた意識の中で、ナマエはその感覚を追いかける。
 頬に触れた優しいぬくもりが、そっと引いていく。

 瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に映ったのは、男の手だった。
「目が覚めたか」
 声に導かれるように視線を向けると、そこには見知った男の姿があった。
「タシャ……? 手、なに……?」
 頬に残る感触が、まだ微かに残っている。
 ぼんやりとした口調で尋ねると、タシャは手を引き、瞼を伏せた。
「顔にかかった髪を払っただけだ」
「……そう」
 その言葉を受けて、ナマエは再び目を閉じた。
 意識は戻りつつあるが、頭の中はまだ靄がかかったようにぼんやりとしている。
 グルグ基地で気を失ってから、どれほどの時間が経ったのだろう。現在ナマエはどこかの部屋のベッドで横になっており、特徴的な揺れから考えるに海の上のようだ。
「気分はどうだ?」
「うん……大丈夫」
 そう答えながら、ナマエはタシャを見つめた。
 この男は、いつからここにいたのだろう。
「まさか、ずっとここに?」
「……ああ」
 タシャは一瞬、答えを躊躇ったようだった。
「別に病人じゃないんだし、付き添いまではよかったんだけど」
 半ば呆れたように言うと、タシャは静かに首を振った。
「付き添いではなく……単に、離れられなかっただけだ」
「え?」
 意味を測りかねて、タシャに視線で促されて己の手元を見た。
「――うわっ!?」
 思わず声を上げる。自分の手が、タシャの編み込まれた髪をがっちりと掴んでいた。しかも、指がしっかりと絡みついている。まるで、離すまいとするかのように。
 ナマエは慌てて身を起こし、髪を引っ張らないように細心の注意を払いながら、そっと指をほどいた。
 それでも、編み込みはすっかり乱れてしまっている。
「ご、ごめん、ホント悪い。編みなおすから、後ろ向いて」
 自分のしでかしたことに動揺しつつも、早口でそう告げる。
 タシャは、意外なものを見たように目を見開いた。
「後で直すから、別にいい。そこまで気に病む必要はない」
「アンタが良くても、私が気になるんだ。ほら、早く後ろ向け」
 恥ずかしさを誤魔化すように語気を強めると、タシャはやれやれといった様子で腰を上げた。
「顔が赤いぞ」
 後ろを向く瞬間、わざとらしく指摘される。
 ナマエは堪らず、タシャの背をバシリと叩いた。
「うるさいな。子供みたいな真似して、恥ずかしいんだよ」
 その言葉に、鼻で笑う気配があった。


 結い紐を解くと、タシャの白く柔らかな髪が掌に広がった。
 香油の香りに、彼の体温と汗の匂いがほんのり混じっている。
 毛先は癖が強く、量も多いが、ふわふわと軽やかだった。
(これ、まとめるの大変そうだな……)
 そんなことを思いながら、手櫛で素早く整えていく。
「で、ここはルリの艦隊の中?」
「そうだ」
 編み込みながら尋ねると、タシャは頭を動かさずに答えた。
「あんたが船まで運んでくれたのか」
「ああ」
「重かっただろ。悪いね、騎士様に荷物運びなんてさせちゃって」
 皮肉混じりに言うと、深い嘆息が返ってきた。
「……お前は、もっと素直に礼を言えんのか」
 その言葉に、ナマエの手が止まった。
 図星だった。
 なぜ、わざわざ突っかかるような言い方をしてしまうのか。
 きっと、気を失っている間の一番無防備な状態を良く知りもしない相手にさらけ出してしまったことへの動揺と、無意識とはいえタシャの髪を掴んで引き留めてしまったことへの気恥ずかしさのせいだ。
 だが、それらへの照れ隠しにしても刺があり過ぎる言い方だったと自覚し、少しだけ反省する。
 結い紐を結び終え、ナマエは素直に言葉を口にした。
「そうだな、ごめん。ありがとう」
 振り返ったタシャは、驚いたようにこちらを見ていた。


 不意に部屋の扉が開いた。
 ナマエが顔を上げると、そこに立っていたのは――マナミアだった。
 グルグ船で別れたきりだった彼女の姿に、思わず目を見張る。
「お邪魔します……あらナマエさん、目が覚めたんですか?」
 その後ろには、眼帯の少年――ユーリスの姿もあった。
「ユーリス、マナミア」
「何してんのさ二人とも」
 ユーリスが胡乱げな目つきでこちらを見てくる。ナマエは素っ気なく「別に」とだけ返した。
 少年はふぅんと鼻を鳴らし、視線をタシャへと移す。
「わざわざ付き添いありがとう騎士様、僕らの仲間が迷惑かけたね。後はこっちで代わるから」
 声色がなんだか刺々しい。
 タシャは何も言わず、静かに立ち上がる。
 マナミアに席を譲ると、彼らと入れ替わるようにして扉へと向かった。

ナマエさん、気分はどうですか?」
 マナミアの柔らかな声に、ナマエはハッと我に返る。
 無意識のうちに、去っていくタシャの背を目で追っていたらしい。
「うん、大丈夫。マナミアも無事で良かったよ。ちょっと心配してたんだ」
「まあ、どうしてですの?」
 マナミアが可愛らしく小首を傾げたので、ナマエは笑みを浮かべた。
「だってグルグの艦隊に乗っていただろ? 間違ってルリの艦隊に砲撃されてないかと思って」
「そんなヘマはしない」
 扉の方から、低く鋭い声が飛んできた。
 顔を上げると、タシャがこちらを見ている。
「それは失敬」
 ナマエが肩をすくめてみせると、タシャは何も言わず、扉を閉めて去っていった。


「で、あれからどのくらい経った?」
 マナミアが持ってきた飲み物で喉を潤しながら、ナマエは尋ねた。
「一時間くらいかな」
 ユーリスが答える。思ったより時間は経っていないようだ。
 そのまま、ユーリスがナマエが気を失ってからの出来事を簡潔に説明してくれた。
 結局、ザングルグには逃げられたらしい。残ったグルグの残党も、西の海域へと散っていったという。
 採掘場から逃がした捕虜たちも、ほとんどが無事に保護されたと聞いて、ナマエはようやく安堵の息をついた。

「そうそう、そういえばアルさんですけど――実はアルガナンのお姫様だったんですって」
 マナミアが思い出したように手を打ち、声を弾ませる。
 ナマエは苦笑した。
「ああ、聞いたのか」
「あら? ナマエさんはもうご存じでしたか?」
「うん。グルグ船の時にね」
「あの時から、なんとなく怪しいとは思ってたけどね」
 と、ユーリスが口を挟む。
 その言葉に、マナミアがぷくりと頬を膨らませた。
「まあ、では仲間はずれは私だけでしたの? ひどいですわ」
「そんなんじゃないってば」
 むくれてしまったマナミアに、ユーリスが慌てて宥めに入った。




 マナミアの相手はユーリスに任せ、ナマエはそっとベッドを抜け出した。
 まだ体に鉛のような重さが残っている。足元はおぼつかず、歩くたびに微かに揺れる船の振動が、体の芯まで響いた。
 クォークとエルザの姿を探して船内を歩いたが、どこにも見当たらない。
 甲板に出て、潮風に当たる。肺に入る空気が冷たくて、ようやく自分が生きていることを実感できた。

 船尾に、タシャの姿があった。
 何をしているのかと目を向けると、彼はすぐにこちらに気づき、声をかけてきた。
「もう体調はいいのか」
「うん」
 ナマエは軽く頷き、彼のそばへと歩み寄る。
「足元に気をつけろ」
 タシャが視線を落とし、足元を指した。船尾には荷が積まれており、足場は決して良くない。注意を促すその声音は、どこか自然で、彼なりの気遣いが滲んでいた。
 隣に立つと、タシャは再び視線を海へと戻した。
 静かな波の音が、二人の間に流れる。

「……ユーリス殿に嫌われたようだ」
 ぽつりと漏れた言葉に、ナマエは思わず彼を見やった。
 意外だった。そんなことを気にしているとは。
 話を聞けば、船へ向かう道中も、ユーリスの態度は終始刺々しかったらしい。
 無理もない、とナマエは思う。気を失う直前、タシャがユーリスに放った言葉は確かに正論だが、多感な青少年には受け入れがたいものだ。
「やはり、あの一言が余計だったか」
「気にするなよ。他人に言われる正論は腹が立つものだし」
 ナマエの言葉に、タシャはしばし沈黙し、やがて小さくため息をついて頷いた。
「……まあ、そうだな」
 その素直な反応に、ナマエは内心で小さく目を見張った。この反応は予想外だ。
「へえ、そこで納得するんだ。意外」
「何故そう思う」
 憮然とした声に、ナマエは肩をすくめて笑った。
「あんた、頭固そうだから」
「それは……否定しきれんな」
 少し苦い顔をした騎士の表情を垣間見て、ナマエは意外に思った。
 もう少し融通が利かないのかと思えば、そこはきちんと分別を持っているらしい。

 不意に、タシャがこちらを見て眉をひそめた。
「それにしても、お前は無茶をしすぎだ」
 いきなりの説教に、ナマエはうっと言葉を詰まらせる。おそらくグルグの前線基地で一人突撃した時のことについて、一言物申すつもりなのだろう。
「……耳が痛い」
「分かっているならば、なぜ直す努力をしない」
 その問いに、ナマエは少し考え込んでから、慎重に言葉を選んだ。
「……多分、一人で戦う方が慣れてるんだ。共闘の動き方も分からないし、目を離した隙に誰かが怪我してないかって、気が気じゃなくなる」
「だからといって、背中を任せられないほど仲間がか弱いというわけではあるまい。少しは彼らを信頼したらどうだ」
 最近どこかで聞いた台詞だ。思いながら、首を振った。
「分かってるよ。でも、それで犠牲が出るのは嫌なんだ」
「それは私とて同じ思いだ。お前が傷つく姿を見て、仲間が喜ぶと思うか?」
「さすがにそんな悪趣味な奴はいないと願うよ」
 真っ直ぐな言葉に正面から返すのがどうにも気恥ずかしく、わざと茶化すような口ぶりで返す。
 すると、タシャの声が鋭く跳ねた。
「茶化すな!」
 ナマエは思わず耳を押さえ、苦笑する。
「ごめん、冗談だってば……。そんなに怒らないでよ」
「そういう冗談は好まない。ましてや、生死に関わることだ」
「生死……か」
 ――棺の中で目覚めた人間に、果たして二度目の『死』は訪れるのだろうか。
 不死の者とまでは思わない。体を流れる血は赤く、心臓も規則正しく鼓動を刻んではいるが、自分はきっと普通の人間ではない、という疑念が常に付きまとっている。自身の存在の特異性ゆえ、自分が死ぬかもしれないという実感が薄いのはそのせいか。
 しかしそれが無茶をする要因になっているという訳ではなく、根底にあるのは、きっと――信じきれていないせいだ。仲間を。未来を。自分の居場所を。
 どうせいつかは独りになる。そんな確信めいた思いが、心の奥底にこびりついている。
 タシャは、そんな自分の秘密を知らない。ただの記憶を失った傭兵だと思っていて、無謀な戦い方をする彼女を、真っ直ぐに心配してくれている。
 そのことが妙にくすぐったくて、ナマエはふっと笑みをこぼした。
「なんだ? 何を笑っている」
「いや、真面目な騎士様だなぁと思って」
「……っ」
 タシャが、わずかにうろたえたように目を逸らす。
「……なに? 何か変なこと言った?」
「――お前は、真面目な男は……どう思う?」
 唐突な問いに、ナマエは一瞬きょとんとした。
 なぜそんなことを訊くのか、意図が読めない。
 だが、深く考えるのも面倒で、無難な答えを返すことにした。
「一般的には、好ましいんじゃないか?」
「……そうか」
 ぽつりと呟いたタシャは、それきり黙って海を見つめた。


 ――しかし、あの師匠にしてこの弟子か。
 目の前の生真面目すぎる騎士を横目に、ナマエは内心でそんなことを思っていた。
 タシャの師であるトリスタは、どちらかといえば豪胆で懐の深い人物だ。
 対してこの弟子は、律儀で融通が利かず、まるで教本から抜け出してきたような堅物。
 だが、だからこそバランスが取れているのかもしれない。
「それにしても、あんたの師匠……ええと、トリスタって言ったっけ?」
 何気なく口にしたその瞬間、「あ」と自分の失態に気づいて小さく声を漏らした。ルリ城の中庭で、将軍に軽口を叩いてタシャに怒られたことを、すっかり忘れていた。
 案の定、目の前の騎士の表情がこわばり、急によそよそしくなった。
「――トリスタ様だ。もしくは将軍を付けろ」
 硬質な声に、ナマエは思わず瞬きをした。
「あの方の呼び捨ては許さんと言ったはずだ」
 師を呼び捨てにされたことが、よほど気に障ったのだろう。
 ずいぶんと沸点が低い。ナマエは内心可笑しく思い、なんだか目の前の騎士をからかいたくなって意地悪く微笑んだ。
「はいはい、将軍様ね。あんたの大事な人だもんね、気をつけるよ」
 ふふ、と笑うと、タシャはからかわれていることに気づいて眉を寄せた。
 彼はぐっと顔を寄せ、鋭い視線でナマエを睨みつける。
「……お前、挑発しているつもりか?」
「どうだろうね?」
 ナマエは涼しい顔で応じる。
 そのまま、わざとらしく首を傾げながら、さらに一言を重ねた。
「……でも、そんな風にすぐ熱くなっちゃうのって、騎士としてどうなの?」
「……っ、貴殿に騎士のなんたるかを説かれる謂れはない!」
 明らかな挑発の言葉に、タシャの眉間の皺が一層深くなった。
 
 
 その時だった。
「――高波がくるぞー!」
 船首から響いた船員の怒声と同時に、ふわりと体が浮くような感覚に襲われた。
 船が高波を乗り越え、大きく上下に揺れる。船尾に乱雑に積まれていた荷物が、重力に逆らうように跳ね、好き勝手に舞い上がった。
「なっ――」
 背後に積まれていた木箱がズズ、と不穏な音を立てて滑り出す。
 その勢いに押され、タシャがよろめいた。踏ん張ろうとしたものの、足場の悪さもあって体勢を崩す。
「くっ……ナマエっ! 伏せろ!」
 鋭い声と共に、タシャの両腕がナマエの頭を覆った。反応する間もなく、視界が彼の鎧で塞がれる。
「わぶっ!」
 勢い余って、ナマエの額がタシャの胸元――硬い鎧の金具にぶつかる。ごつん、と鈍い衝撃が走り、思わず目を閉じた。
 そのまま、タシャが覆いかぶさるように膝をつく。ナマエも引きずられるようにしゃがみ込み、次の瞬間――。
 ごとん、と重い音が頭上で響いた。
「ぐっ……!」
 タシャの背に、木箱が直撃したらしい。
 ナマエはようやく、自分が彼に庇われたのだと気づいた。彼の体を盾にして、落下物から守ってくれているのだ。

 高波が過ぎても、船はなおも大きく揺れていた。
 だが、やがて波が落ち着き、船体の軋む音も静まっていく。
 ナマエはそっと目を開けた。
 船尾の荷物は散乱し、甲板はひどく荒れていた。
 その混乱の中、彼女はまだタシャの腕の中にいた。彼の胸に顔を預けるような体勢のまま、しっかりと抱きしめられている。
 目の前には彼の首筋。血流に合わせて脈打つ鼓動が、かすかに伝わってくる。額にかかる吐息がくすぐったくて、けれど不思議と、緊張よりも先に安堵が胸を満たした。
 目を閉じ、しばしそのまま身を委ねる。

 やがて揺れが収まり、タシャがそっと囁いた。
「……大丈夫か?」
 その声に、ナマエはハッと目を開けた。夢から醒めたような心地だった。
「あ、うん……」
 危険は去ったはずなのに、ナマエはまだ彼の腕の中にいた。不思議と、逃れようという気にはなれなかった。
 タシャが少しだけ体を離し、彼女の顔を覗き込む。
 だが次の瞬間、彼はハッと目を見開き、青ざめた。
「っ、額から血が……! 鎧の金具に引っかけたのか……!」
「え……?」
 言われて初めて、先ほどぶつけた額に鈍い痛みが残っていることに気づく。
 そっと指で触れると、指先にわずかな血がついた。大したことのない切り傷だ。
「大丈夫だよ。こんなもの、ただの切り傷だ」
 ナマエが冷静に指摘するも、タシャは明らかに動揺していた。慌てて取り出したハンカチを、そっとナマエの額に押し当てる。
「いや! だが女性の顔に傷をつけるなど……! そ、そうだ、ヒーラーを呼んでこねば!」
 思いつくなり、すぐにでも飛び出そうとする。
 その慌てぶりがあまりにおかしく、ナマエは思わず吹き出してしまった。
「ぷっ……あははっ、ちょっと落ち着いてよ。タシャってば慌てすぎ。私が治癒魔法使えるの、忘れた?」
 そう言えば、タシャは「あ」と小さく声を漏らした。ナマエは目の前で軽く詠唱し、治癒魔法を発動させる。淡い光が額を包み、痛みがすっと引いていくのを感じた。彼の手をそっと取り、ハンカチを押し当てていた腕を下ろさせる。
「ほら、治っただろ?」
 軽く笑って額を見せると、タシャの強張っていた表情がようやく緩んだ。
「ああ……よかった」
 安堵の笑みが、彼の口元に浮かぶ。その顔を見て、ナマエも自然と笑みを返した。
「タシャこそ平気? 背中に荷物当たってたよね?」
「いや、平気だ。問題ない」
「そう? でも、咄嗟にかばってくれるなんて、さすが騎士様。ちょっとドキッとしたかも……、なんてね」
「――っ」
 ちょっとした軽口のつもりだった。
 だが、タシャはわずかに肩を強張らせたまま、黙り込んだ。
 そのまま、ナマエの頬に添えていた手を離さず、真顔で彼女を見つめる。
 整った顔立ちのせいか、無表情の彼に見つめられると、妙な威圧感がある。
 無言のまま視線を交わし続けるうちに、ナマエは次第に居心地の悪さを覚えた。まるで、何かを責められているような気がして、思わずたじろぐ。
 ――でも、何を?
「……あれ、なんか怒ってる……? あ、そっか。さっきはからかっちゃって、ごめ――」
 険悪だった空気を思い出し、謝ろうとしたその瞬間。
 言葉の続きを、タシャの唇が塞いだ。
(……は?)
 唇が触れ合った一瞬、世界が止まったように感じた。
 驚きに目を見開いたまま、ナマエは動けなかった。
 唇が離れたとき、ようやく声が出た。
「タシャ……? なんで……」
 名を呼ばれたタシャは、どこか苦しげに顔を歪めた。
 そのまま視線が絡み合い、彼の両手がそっとナマエの頬を包み込む。
 若草色の瞳の奥に、確かな熱が宿っていた。
「……嫌なら、突き飛ばしてくれ」
 低く囁かれた声が、耳元をくすぐる。
 また、顔が近づいてくる。
 ナマエは反射的に、そっと瞼を閉じた。

 押し付けられた唇は、意外なほどに優しく、やわらかかった。
 薄く開いた唇から漏れる吐息は熱を帯び、少し荒くて――それが妙に生々しく、現実味を帯びていた。
 うっすらと瞼を開けると、タシャが目を細めてこちらを見つめているのが見えた。
 どうして、こんなことになっているのだろう。
 頭の片隅でぼんやりと疑問が浮かぶが、思考は霞がかったまま、うまくまとまらない。
 気づけば、ナマエは半ば無意識のまま、その口づけに応えていた。
 頬を包む手のぬくもりが、じんわりと伝わってくる。押しつけられるだけの、静かなキス。
 不思議と不快ではなかった。プライベートな領域を無遠慮に侵されているはずなのに、嫌悪感が湧かない。それは、相手がこの男だからだろうか。
 わからない。
 けれど、このぬくもりは思っていたよりも心地よかった。
 人肌に飢えていたわけでもない。それでも、どこかで――無意識のうちに、誰かのぬくもりを求めていたのかもしれない。
 ……いや、やっぱり、わからない。
「は……っ」
 唇が離れ、タシャの吐息が頬をかすめた。
 熱を帯びた眼差しが、まっすぐにナマエを捉えている。
 その視線に、胸の奥がざわめいた――。


 その時だった。
 甲板の向こうから、足音が近づいてくるのを耳が捉える。先ほどの高波の被害状況を確認しに来た船員だろう。
「……誰かこっちに来る」
 ナマエが小さく呟くと、タシャの動きがぴたりと止まった。
「あ……」
 熱に浮かされていた男の表情が、みるみるうちに青ざめていく。
 その変化を、ナマエはどこか他人事のような気持ちで見つめていた。
 我に返ったタシャが、慌ててナマエの体を引き離す。
「すまないっ、つい……!」
 言いかけた言葉は、喉の奥で途切れた。
 うろたえる彼の姿を、ナマエは呆然としたまま見つめていた。

「おーい、そっちに誰かいるかぁ? ……おや、タシャ様でしたか。二人とも、大丈夫でしたか? 怪我は?」
 船尾にやってきた船員が声をかける。タシャは慌てて立ち上がり、ぎこちなく応じた。
「あ、ああ……こちらは問題ない」
 そのやり取りを聞きながら、ナマエの頭の中は次第に冷えていった。
 ――きっと、魔が差したのだ。
 思い返せば、距離が近すぎた。
 あの堅物の騎士様をからかったせいで、何か勘違いさせてしまったのかもしれない。
 媚びを売ったつもりなんて、なかったのに。

 それに、応えた自分も自分だ。
 何をしているんだろう。
 自嘲気味に息を吐き、ナマエはゆっくりと立ち上がった。
 その動きに、タシャの視線が焦ったようにこちらを追う。
ナマエ、待ってくれ。話を――」
「もう行くから」
 彼の言葉を遮るように、有無を言わせぬ口調で言い放つ。
 それ以上、何も聞きたくなかった。

 踵を返し、船尾を後にする。
 その背に、呻くような男の声が追いかけてきた。
「……何をしているんだ、私は……!」
 その声が、妙に胸に突き刺さった。
 けれど、ナマエは振り返らなかった。




 刺々しい気分のまま甲板へ出ると、トリスタが船員たちに目を配っていた。彼らは先ほどの高波で崩れた荷物の整理に追われ、忙しなく動き回っている。
 ナマエは構わず、船の縁に身を寄せた。
 潮風が頬を撫でていく。冷たくも心地よい風だった。
 視線を上げると、アルガナンの艦隊が優美な帆を広げて大海原を進んでいた。
 数隻の船が、揃ってルリ島を目指している。
 その光景は、どこか幻想的で美しく、今の自分の心情とは対照的だった。

 しばらく風に当たっていると、背後から声がかかった。
「目が覚めたのか。体調はどうだ?」
 振り返ると、トリスタが穏やかな笑みを浮かべていた。
「おかげさまで」
 短く答えると、「それは良かった」と彼は日向のような笑顔を見せた。その温かさに、ささくれ立っていた心が少しだけ和らぐのを感じた。

「ところで、グルグの艦隊をどうやって追跡したんだ? 基地の場所、把握してたのか?」
 ふと湧いた疑問を口にすると、トリスタはお茶目に片目をつぶってみせた。
「それはな……グルグ族に少しばかり協力してもらったのだよ」
「……ああ、拷問でもして口を割らせたのか」
「はは、手厳しいな。お嬢さんには聴かせられぬよ」
 豪快に笑うその様子に、ナマエは肩をすくめた。
 結局のところ、クォークたちが命懸けで手に入れた航海図も、結果的にはこの男の手柄になったようなものだ。ルリ艦隊が追ってこなければ、自分たちはあの基地で袋の鼠になっていたかもしれない。
 ふと、思い出す。
 そういえば、グルグ船に捕らえていた敵の捕虜たちはどうなったのだろう。
 だが、考えかけて、ナマエは首を振った。彼らの運命がどうなろうと、自分には関係のないことだ。

「しかしお主、なかなか無謀な戦い方をするな。見ているこちらの肝が冷えたぞ」
 物思いに沈んでいたところに、再び声をかけられ、ナマエは顔を上げた。
「それはあんたの弟子にもう言われたよ」
「タシャのことか」
 その名を聞いた瞬間、ナマエの表情がわずかに曇った。
 無意識に眉間に皺が寄る。
「……あいつ、意外と手が早いんだね」
「ん? 手が早い……? まあ、そうだな……あやつは騎士としては未だ未熟なところもあるゆえ」
 トリスタは苦笑しながら曖昧に頷いた。
 その反応に、ナマエは妙に納得してしまった。
(やっぱり、女誑しなのか……)
 実直そうに見えたが、どうやら見かけ倒しだったらしい。
 さきほどの一件は、気の迷いでも何でもなく、ただの“手慣れた行動”だったのかもしれない。

 ナマエの反応に、トリスタはすぐに何かを察したようだった。
 苦笑を浮かべつつも、弟子の名誉を守るように言葉を続ける。
「タシャはな、不器用だがプライドが高い男でな。ルリ城でも、君の仲間には失礼した」
 その言葉に、ナマエはふと記憶を手繰った。
 ルリ城――確か、初めてタシャと出会ったとき、彼はある名前を聞いて急に不機嫌になったような……。
「……まさか、セイレンのこと?」
 愕然としながら口にした名に、トリスタはあっさりと頷いた。
 ――猛者だ。猛者すぎる。
「嘘……だろ……」
 ナマエは呆然と呟いた。
 つまり、タシャはあのセイレンに手を出そうとして――しっぺ返しを食らったということか。
「……あの時は、城の中庭で危うく大変なことになるところだったな」
 しみじみと語るトリスタの言葉が、さらに衝撃を増幅させる。
「し、しかも中庭!? 公衆の面前で……あの男……!」
 信じられない、と呻きながら、ナマエは額を押さえた。
 そこまで見境のない人物だったとは――。
 茫然自失のまま、トリスタのもとを離れる。
 マナミアの身が心配になってきた。
 あの白騎士の毒牙にかからないよう、彼女のもとへ急がねば。

「――ん?」
 ナマエが去った後、トリスタはようやく気づいた。
 先ほどの会話と彼女の反応が、どこか微妙に噛み合っていなかったことに。
 が、時すでに遅し。



 マナミアは、クォークとエルザと共にいた。その周囲に、あの憎たらしい男の姿がないことを確認し、ナマエはひとまず安堵する。
 そういえば、カナンの姿が見えない。
 尋ねてみると、彼女は騎士たちに警護されて部屋に篭っているらしい。
 それもそうか、と納得したが、エルザの表情にはどこか影が差していた。
 確固たる身分差――それが、彼の胸に重くのしかかっているのだろう。仕方のないことだと分かっていても、見ていて胸が痛んだ。
 その日、ナマエはしばらくマナミアのそばを離れなかった。
 マナミアは不思議そうな顔をしていたが、うまく誤魔化してやり過ごす。

 タシャは、遠くからこちらを気にしているようだった。だが、ナマエは一切の隙を与えなかった。
 物言いたげな視線が、背中に絡みついてくる。それが、ひどく不快だった。



 翌朝、まだ太陽が昇りきらない薄明の頃。
 ナマエは静かに目を覚まし、ひとり部屋を抜け出して甲板へと出た。
 朝靄があたりを包み、空気はしっとりと湿っている。早朝の甲板には、最低限の船員たちが静かに働いているだけだった。
 船首へと向かう。波がやや高いのか、足元がふわふわと揺れている。

 歩を進めて船の縁に身を寄せると、目の前に広がる大海原を眺めた。どこまでも続く水平線。変化のない景色が、かえって心を落ち着かせてくれる。
 そのとき、不意に船体が揺れ、体がふらりと傾いた。
 と同時に、背後から腕を取られる。
「落ちないように気をつけろ」
 咄嗟に振り返ったナマエは、目を見開いた。
 昨日、あれほど避け続けた男――タシャが、そこにいた。
「……タシャ」
 その名を口にしただけで、胸の奥がざわつく。
 掴まれた腕を見下ろし、顔を歪めた。
「大丈夫だよ。離して」
 すぐに、タシャの手が離れる。
「ずいぶん早起きなんだな」
「……あんたに関係ないだろ」
 不快を隠さずに睨みつけると、タシャは深刻な表情を浮かべた。
ナマエ
 名を呼ばれた瞬間、心がひどくざわついた。
「昨日はすまなかった。改めて詫びたい。……どうかしていた」
 真摯な言葉に、虚を突かれる。
 けれど、ナマエはすぐに顔を背けた。
「別に、気にしてない」
 明らかに嘘だと分かる口調だった。
 だが、タシャは怯まず、さらに言葉を重ねる。
「……不快な思いをさせてすまなかった。お前が望むなら、責任は取るつもりだ」
 その言葉に、ナマエは思わずタシャを見上げた。
 その瞳は、まっすぐで誠実そうだった。
 昨日のことがなければ、誰もが彼を誠実な騎士だと信じただろう。
 だが、もう騙されない。
 ナマエは内心で苦々しく思いながら、意地悪く微笑んでみせた。
「ふうん? で、どうやって責任取ってくれるんだ?」
「それは、その……」
 言い淀む。
 やがて、何かを決意したように口を開いた。
「――お前の信頼を取り戻すためなら、どんな誓いでも立てる」
「はっ、たかがキスで“誓い”ね。騎士様ってのは、口先だけは立派なんだ」
「そ――」
 冷たく言い返すと、タシャは一瞬、言葉を失った。
「……ならばお前は、何を望む?」
「さあね。……太陽に咲いている花でも取ってきてもらおうかな」
「――は? 太陽に咲く、花……?」
 当然、そんなものは存在しない。
 だがタシャは真面目に考え込み、やがてからかわれていることに気づいたようだった。
 頬に朱が差し、声が低くなる。
「……私を、からかっているのか」
 ナマエはちらと彼を見やり、ため息をついた。
 その様子に、タシャは眉をひそめる。

「……ナマエ、怒っているのか?」
「別に」
 素っ気なく言い放ち、顔を背ける。
 だが、タシャは彼女の肩を掴み、無理やりこちらを向かせた。
「嘘を言うな。昨日から、私を避けていただろう」
「そんなことない」
「ならば、私の目を見て言え」
 苛立ちを滲ませた声に、ナマエはキッと睨み返し、彼の胸元を指差した。
「……あんたは、そうやって誠実そうな顔して油断させて、また手を出すつもりなんだろ? 残念だったな。私が、二度も同じ手には乗ると思うか?」
「……何の話だ?」
 タシャは困惑したように首を傾げた。
 その反応に、ナマエは鼻で笑う。
「しらばっくれる気? あんたの敬愛する師匠から、取っておきの武勇伝を聞いたぞ。ルリ城の中庭で、セイレンに手を出したんだってな」
「っ、あれは――!」
 タシャはすぐに何の話かを察し、顔を赤らめた。
「……あの傭兵は風紀を乱す言動を繰り返したうえ、伯爵の招待客を怯えさせていたのだ。騎士として見過ごすわけにいくまい。それに真っ向から対立した私も大人気がなかったと反省はしているが……」
「へえ。で、力でねじ伏せようとしたの? ますます最低だね。騎士の名が泣いてるぞ」
 その一言に、タシャの顔色が変わった。
「な……っ、あの傭兵が剣を抜こうとしたから、私も応じただけだ! それを、なぜそこまで言われねばならん!」
 怒声に、ナマエの表情が固まった。
「……剣?」
 話の流れが、何かおかしい。
 タシャの説明を話半分で聞いていたナマエはそこで眉をひそめ、混乱したように問い返した。
「ええと……セイレンを手篭めにしようとして、剣を抜かれそうになった……んじゃないの?」
「は!? なぜそうなる!?」
 タシャの怒鳴り声に、ナマエは思わず口をつぐんだ。

「ええと、ちょっと待って……」
 自分がとんでもない勘違いをしていたのではないかという予感が、急速に広がっていく。
 “手が早い”という言葉――あれは、喧嘩っ早いという意味だったのか?
 そう考えると、すべての辻褄が合う。
 相手は、あのセイレンだ。そう簡単に口説けるような相手ではない。
 ナマエはタシャを見上げ、慎重に問いかけた。
「……マナミアのこと、どう思う?」
「は? マナミア殿……黒髪の、お前の仲間の傭兵だったか。この話と彼女に何の関係が?」
 そう言ったタシャは、次の瞬間、ハッと息を呑んだ。
 ようやく、自分がとんでもない誤解を受けていたことに気づいたらしい。
「まさかお前、私のこと――」
 うろたえた様子で、タシャは言い募る。
「誤解だ! 私は……私は、心に決めた女性にしか、そんな気に……っ、添い遂げたいと思っておらん!」
 あまりにストレートな言い回しは、慌てて言い直された。

 やはり、どうしてもこの男が女誑しには見えない。
 目の前でうろたえる様子に、ナマエは思わず信じかけた。
 ――信じかけた、が。
 それでも、どうしても腑に落ちないことが一つだけあった。
「じゃあ、私にしたアレは何なんだ」
 じとりと睨みつけると、タシャはまるで急所を突かれたかのようにたじろいだ。
「あれは――、あれは、その……っ」
 言葉に詰まり、しばらく口をもごもごと動かした末、小さな声で呟いた。
「……誘惑に、負けて」
 その一言に、ナマエの眉が跳ね上がる。
「はぁ? 誘惑なんてしてない!」
 思わず声を荒げると、タシャは慌てて両手を上げ、宥めるように言った。
「わかっている! だから、あれは……私が自分を律しきれなかったせいだ。お前は何も悪くない」
 必死に弁明するその姿は、確かに真剣だった。
 だが、疑心暗鬼になったナマエには、彼の言葉を素直に受け取れなくなっていた。先ほどまで抱いていたタシャへの複雑な想いが、いまだ燻っている。
「ふーん……。どうせ、卑しい傭兵なんか簡単に靡くって思ってたんだろ? 当てが外れて、残念だったね」
 冷ややかな皮肉を投げつけると、タシャは顔を強張らせた。
「ち、違う……! そんな風に思わせたのなら、本当に申し訳なかった。そんな下心があったわけじゃない。そんな輩と一緒にされるくらいならば……私は今すぐこの船を飛び降りる」
 そう言って、タシャは真顔のまま、朝焼けに染まる大海原を指さした。
 その真剣な様子に、ナマエは思わず鼻で笑った。
「船を? 海に飛び込むってこと? ……ふん、馬鹿みたい。どうせ口だけでしょ?」
 半ば呆れ、半ば嘲るように笑い飛ばす。
 だが次の瞬間、タシャは船の縁へと歩み寄り、軽々と足をかけた。
「私は本気だ。なんなら今すぐ――」
「え? ちょ、ちょっと待てってば! ストップストップ!」
 その行動に彼が本気であることにようやく気付き、慌ててその背にしがみついてなんとかタシャの暴走を食い止める。
 両腕で彼の腰をがっしりと抱きしめると、タシャの体がびくりと震え、そのまま硬直した。
「わ、分かったから、とりあえずそこから降りてくれない……?」
 恐る恐る声をかけるも、タシャはまるで石像のように動かない。
「タシャ……?」
 横からそっと顔を覗き込むと、耳まで真っ赤に染めた彼の顔が目に飛び込んできた。
 その視線に気づいたのか、タシャは慌てて片手で顔を隠す。
「見るな……」
 ぽかんとするナマエをよそに、タシャはようやく縁から降り、ばつの悪そうに目を伏せたまま、深くため息をついた。
「……分かっただろう? 私はあまり……女性に慣れていない。だから、その……距離感を間違えてしまったのだ」
「――は? その顔で?」
 思わず口をついて出た言葉に、タシャはむっとした表情で反論する。
「……信じられないなら、トリスタ様にでも聞いてみるといい」
 その真顔に、ナマエは一瞬呆気に取られた。
 ――誰に訊けって?
「ぶふっ……! しょ、将軍に……? 弟子の女性遍歴を訊けと? それ……自分から言っちゃうの、勇気あるね。ふふっ」
 堪えきれず吹き出し、肩を震わせる。
 タシャは不機嫌そうに眉をひそめた。
「笑うな。恥を忍んで申し出たというのに……」
 あまりに真面目な抗議に、ナマエは「ごめんごめん」と手を振って軽く謝った。

 ふと、タシャの表情が陰った。
「お前こそ……なぜ、振り払わなかったんだ」
「え……?」
 ぽつりとこぼれた疑問に、ナマエは内心でどきりとした。
「なぜ私を受け入れた。嫌だったのなら、遠慮なく突き飛ばせばよかったのだ。ルリ城で絡まれていた男のようにな。お前の腕なら、造作もないはずだろう?」
 じっと見つめてくる若草色の瞳。
 真っ直ぐなその視線に、ナマエは言葉を失った。
 確かに、ルリ城で初めてタシャに声をかけられたとき、彼女はしつこく言い寄ってくる男に膝蹴りを食らわせようとしていた。
 状況としては、あの時と似ている――けれど。
(……でも、あの時と同じには思えなかった)
 少なくとも、タシャに膝蹴りを食らわせようなんて、考えもしなかった。
 なぜだろう。
「そりゃ、なんでって……いきなりだったから、頭が真っ白になって……」
 言い訳のように口にしたが、それだけではなかった。
 嫌じゃなかった。
 むしろ、あの瞬間、どこか浮ついた気持ちになって――安心感すら覚えた。
 けれど、タシャが我に返って青ざめた顔を見たとき、現実に引き戻された。まるで、自分が何か取り返しのつかないことをしたかのように。
「……あんたが、後悔したような顔をしてたから……」
 ぽつりと、口の中で呟く。
「ん? すまない、今なんと?」
 聞き取れなかったのか、タシャが首を傾げて問い返してくる。
 ナマエは横目で睨み、ため息をついた。

 ――『すまないっ、つい……!』

 あの時の彼の言葉が、耳の奥で反響する。
 ……だいたい、“つい”って何だよ。
 ナマエが自分で言ったように、たかがキスだ。それをここまで引きずっているのは、タシャの反応が引っかかっているからだ。
 結局、彼がどんなつもりでキスをしてきたのかが、分からなかった。それが、苛立ちの原因だ。
 ――つい、ムラムラして?
 女慣れしていないって言ってたくせに、キスはためらいなくしてくるし。
 そのくせ我に返ったら、キスを後悔するような言動をするし。
 腹が立つし、悔しいし。……あと少しだけ、悲しい、気もする。
 それなのに本人は、悪気はなかったとあっさり詫びてくるし。

 そんなことを色々考えているうち、頭の中がぐちゃぐちゃになってきて、やがて面倒になってきて。
「……もう、いい」
 会話を終わらせたのは、ナマエの方だった。
ナマエ
「この話は終わり。あんたに悪意がなかったことだけは、取りあえず分かった。……色々言って、ごめん」
 ぽつりとそう言って、俯く。
 頭の上から、タシャのため息が聞こえた。
「怒っていたのはお前の方だろう。私は別に――」
 誤解さえ解ければ、それでいい。
 タシャのその言葉に、ナマエはようやく肩の力を抜いた。


 けれど、彼の穏やかな声が、かえってナマエの胸をざわつかせた。
 一度冷静になってみれば、なぜあれほど腹を立てていたのか、自分でも分からなくなってしまった。
 軽んじられたと思ったにしても、先ほどまでの態度は少し子供じみていたし、八つ当たりが過ぎた気がする。
 相手が目の前の男じゃなきゃ、謝罪(とついでにちょっとした謝礼)を貰えれば、それ以上は不問にしただろう。
 ――まさか、こいつに甘えてるんだろうか、私は。
 エルザじゃあるまいし。出会って間もない相手に、どうしてここまで感情を揺さぶられているのか。

 黙り込んだナマエを不思議に思ったのか、タシャがそっと尋ねた。
ナマエ、どうした」
「……別に。あんたにどう責任取ってもらおうかなって、考えてただけ」
 その言葉に、タシャはぐっと言葉を詰まらせた。
「……またその話に戻るのか?」
 あまりに素直な反応に、ナマエはふっと微笑んだ。
「あんた……馬鹿正直って言われない? 冗談だよ。それに、タシャだって私みたいなのじゃなくて、もっとお淑やかな人の方がいいだろ?」
 タシャは一瞬、言葉を失ったように黙り込んだ。
「……それは、一般論だな」
「だよね」
 その答えに、ナマエは無意識にため息をついた。
 やっぱり、自分はこの騎士様の範疇外らしい。
 確かに、彼の隣に立つなら、深窓の令嬢のような女性が似合う。
 自分はその正反対だ。
 剣を振るい、荒事に身を置く傭兵。
 礼儀作法も、上品な言葉遣いも知らない。
 ――所詮は、別世界の人間だ。
 そう思いながらも、どこか胸の奥が、きりりと締めつけられるように痛んだ。





 ルリ島への航路は、順調だった。
 このままの速度で進めば、あと二日ほどで帰還できる見込みだという。

 問題は、その二日間をどう過ごすかだった。
 乗っ取ったグルグ船の時とは違い、今回はあくまで“お客様”の立場。船内の雑務はすべて船員が担っており、傭兵団の出る幕はない。暇を持て余すには、十分すぎる環境だった。

 昼休憩を終えて甲板に出ると、威勢のいい掛け声が耳に飛び込んできた。
 何事かと目を向けると、エルザが屈強な船員と取っ組み合いをしていた。喧嘩ではない。どうやら模擬戦のようだ。
 トリスタが腕を組み、興味深そうにその様子を見守っている。
 エルザは真剣な表情で、額に汗を浮かべながら相手とにらみ合っていた。
 強い日差しが容赦なく照りつける中、よくやるなとナマエは感心しつつも、見ているだけで暑苦しくなってくる。

 やがて勝負がついた。
 どうやらエルザの勝ちのようだった。
 勝者の彼がこちらに気づき、満面の笑みで手を振ってくる。
 ナマエは思わず一歩引いた。
「汗臭いから、こっちに来るな」
「えっ、ひどい」
 そう言いながらも、エルザはおかまいなしに彼女の隣に腰を下ろした。
「仕合、見てたのか? ナマエもやる? 俺、さっきので十人抜きなんだぜ」
「誰がやるか」
 素っ気なく返す。
 だが、楽しげなエルザの様子に、ふと昨日の沈んだ顔を思い出した。
「昨日と比べて、今日は元気そうだな」
 エルザは一瞬、目を瞬かせた。
「カナンのことで、悩んでたんだろ」
「お見通しか」
 参ったな、と言いながら、エルザは頭を掻いた。
 そして、昨日カナンと話をしたことを打ち明けた。
 城に戻れば、彼女はまた半ば幽閉のような生活に戻る。
 それがあまりに不憫で、クォークに掛け合い、カナンを傭兵団に迎え入れられないかと提案したのだという。
 だが、結果は惨敗。
 リーダーの大反対に遭い、さらにカナン自身にも諭され、しぶしぶ引き下がったらしい。
 どうやら、ナマエが気を失っていた間に、そんなやり取りがあったようだ。
「カナンを仲間に、ね。……あんた、面白いこと考えるな」
 ナマエは素直な感想を口にした。
「でも、現実問題として、お姫様と傭兵って、両立できるもんじゃないだろ?」
ナマエ! 俺は本気で考えてるんだよ」
「でも、どうやって? この船はルリの艦隊だろ。騎士達の目をかいくぐって、どうやってカナンを連れ出すつもり? 何か手立てはあるのか?」
 エルザがぐっと言葉に詰まる。
 どうやら、そのあたりはノープランらしい。
 というより、今の状況では抜け道を探す方が難しい。
 歯噛みするエルザを見て、ナマエはため息をついた。
「考えなしか。勢いだけでどうにかなるほど、世の中甘くないって、分かってるよな?」
「……分かってるよ」
 エルザは沈んだ顔で、ぽつりと答えた。

「こら、そんな顔するな」
 ぴしゃりと肩を叩くと、エルザが驚いたように顔を上げた。
 ナマエは小さく笑ってみせる。
「ま、今回の功績の恩賞にでも期待してみたら? 何かしら、手はあるかもよ」
「……そうだな。愚痴ってごめん」
「いいよ」
 そう言った直後、エルザが急に吹き出した。
「にしても、ナマエって遠慮なく言うよな。出会って数日とは思えない。なんだか、ずっと前から一緒にいる気がするよ」
 どこか懐かしげな視線を向けられ、ナマエは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「私は相変わらず記憶ないけどな」
「あ、そうだったっけ」
 エルザがのほほんと笑いながら言った。



 夕暮れ時、部屋へ戻ろうとしたところで、ユーリスに呼び止められた。
 少年は不機嫌そうな顔で、単刀直入に切り出す。
「今朝、タシャと何かあったの?」
「えっ」
 思わず動揺が顔に出る。
「船乗りたちが噂してる。今朝、君たちが密会してたって」
「みっ、密会!?」
 思わず声を上げる。
「そんなんじゃない!」
「じゃあ、会ったのは本当なんだ」
 ぐ、と言葉に詰まる。
 咎めるような蒼穹の瞳が、じっとこちらを見ている。
 別にやましいことはしていないはずなのに、なぜか後ろめたい気分になる。
「……感心しないね。裏でこそこそ、何やってるんだか」
 ナマエは髪をかき上げ、苛立ちを吐き出すようにため息をついた。
「こそこそなんかしてない。……ユーリス、言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「……じゃあ言わせてもらうけど」
 ユーリスは尖った声で続けた。
「タシャは騎士だ。特権階級の人間だよ。騎士には義務があって、庶民とは違う世界で生きてる。僕らみたいに日銭を稼ぐ必要もない。君は傭兵で、僕らと同じ――」
「馬鹿なこと言うな」
 ナマエはぴしゃりと遮った。
「知ってるよ、そんなこと」


 その夜、ナマエはユーリスの言葉を何度も思い返していた。
 なぜ、あんなことを言われなければならなかったのか。
 心外だった。
 まるで、タシャのことを想っているとでも言いたげな口ぶりだった。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 第一、私みたいのはあいつの好みじゃないんだ。
 エルザのように、不毛な想いを抱えて生きるなんて、そんな愚かな真似はしない。





 結局、眠れずにベッドを抜け出した。
 時刻は深更。月の朧な光と、篝火の揺らめきだけが、静まり返った船上をかすかに照らしている。
 ナマエは甲板に出て、じっと夜の海を見つめていた。
 塗りつぶしたような暗闇が、どこまでも広がっている。
 波は穏やかで、聞こえるのは潮の音だけ――。

「眠れないのか?」
 背後から声をかけられ、振り返ると、やはり予想通りの人物が立っていた。
 ナマエは苦笑する。できれば、今は会いたくなかった相手だった。
「よく会うね」
「あ、ああ……。そう、だな」
 タシャは少し気まずそうに短く頷いた後、隣に並んだ。
 そのどこかぎこちない仕草に違和感を覚えたが、特に追及せず、彼女は再び波間に視線を戻す。
 ザァ、と波が船体を撫でる音が、静かに響く。
 わずかな白波が、月明かりに照らされておぼろに揺れていた。
「夜の海って、なんか怖いね」
「見つめすぎると、呑まれるぞ」
 闇ばかりを見ていると、心まで引きずられる――そんな意味だろう。
 ナマエは素直にその忠告を受け入れ、視線を波間から外した。
 ぬるい風が頬を撫でていく。

「――記憶喪失、だと言っていたな」
 ふいにタシャが口を開いた。
 ナマエが顔を向けると、彼はまっすぐにこちらを見ていた。
「不安ではないのか?」
「……そうだな。自分が何者か分からないっていうのは、やっぱり少し不安だ」
 少し考えてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「クォークたちはよくしてくれてる。でも……帰る場所がない気がして、ちょっと怖いんだ」
 呟くように言って、瞼を伏せる。
 隣の男は、しばらく黙っていた。
「――ナマエ
 肩にそっと手が触れる。
 顔を上げると、タシャの視線とぶつかった。

 その真摯な眼差しに、咄嗟にナマエは笑みを作った。
 わざとらしく、軽く。
「悪い。なんか、余計なことまで喋った気がする」
「いや、構わない」
 タシャの静かな声に、ナマエは首を振った。
「私が構う。……なんか、あんたの前だと調子が狂うな」
 思いがけず、弱々しい声が出た。
 あんなことがあってから、変にこの男を意識している。
 だとしたら――ユーリスの言葉が、図星だったということになる。
『タシャは騎士だ。特権階級の人間だよ。騎士には義務があって、庶民とは違う世界で生きてる』
 少年の刺々しい声が、頭の中でこだまする。
 ナマエは言葉を失った。

「……どうした?」
「いや、いつ島に帰れるのかなって」
 ぼんやりとした声で言うと、タシャが微苦笑を浮かべた。
「陸地が恋しくなったか。あと一日だ。もう少しの辛抱だな」
 そう言いながら、タシャの手がナマエの頭を撫でた。
 どうにも子ども扱いされているようで、ナマエはその手を掴んだ。
 そのまま、彼の手をまじまじと見つめる。
 大きく、節くれだった手。
 剣を握り続けてきた者の手だ。
 ぼんやりと眺めながら、ナマエはふと呟いた。
「ルリ島に戻ったら……あんたとも、そうそう会えなくなるのかな」
 言ってから、はっとして口を噤む。
 タシャの手が、ぎゅっとナマエの手を握り返した。
 心臓が跳ねる。
「私との別れを、惜しんでいるのか?」
 熱を孕んだ声色。ナマエは顔を上げることができなかった。
 この男の前では、本当に調子が狂う。
「そんなんじゃ――」
 言いかけて、言葉が喉に詰まる。
 ――そうかもしれない。
 その可能性が頭をよぎった瞬間、ナマエは自分の手を強く振り払った。
 踵を返す。
ナマエ? 待て、どこへ行く」
「寝る。おやすみ、騎士様」
 それだけを言い残し、逃げるようにその場を後にした。



 部屋に戻り、ベッドに潜り込んでも、眠気は一向に訪れなかった。
 むしろ、頭の中はますます混乱していた。
 調子を狂わされるのは、ひどく苦手だった。
 腹立たしさすら覚えるほどに。
 自分のことは、自分でコントロールしていたいのに、それができないもどかしさ。

 タシャに心惹かれている――それは、もう自分でも分かっていた。
 けれど、深入りするつもりはない。させる気もない。
 恋愛ごっこにうつつを抜かすような性分でもない。記憶のない、素性も分からない、こんな正体不明の人間が恋愛だなんて、冗談にもならない話だ。
 ――なのに、どうして。
 本人を前にすると、こうも上手くいかないのか。
「……あー、くそっ。……消えろ、頭の中から、全部……」




 ようやく眠りについたのは、明け方近くだった。
 翌朝も、航海は何事もなく続いた。
 タシャは、まるで昨晩のことなどなかったかのように、いつも通りに接してきた。
 その態度に、ナマエの頭は逆に冷えた。
 ――なんだ、やっぱり一人で浮かれてただけか。
 そして、ついに帰港予定の日がやってきた。

 朝、騒がしさに目を覚まし、甲板へ出ると、遠くにルリ島の姿が見えていた。
 数日ぶりに目にするその島影に、ナマエはほっと胸を撫で下ろした。セイレンやジャッカルは、元気にしているだろうか。

 港は、出迎えの騎士たちと民衆でごった返していた。英雄たちの帰還に、街は熱狂している。
 船が港に着くと、まずはカナンがトリスタらと共に降り立った。
 ルリの騎士たちが恭しく出迎え、民衆が歓声を上げる。カナンは笑顔でそれに応えていた。

 ナマエはその様子を、げんなりした顔で眺めていた。
「うわ、こういうの……ほんと苦手なんだよなぁ」
 ぼやくように呟くと、隣にいたクォークが肩を叩いてきた。
「ほら、しゃきっとしろ。俺たちも降りるぞ」
「……早く宿に戻りたい。風呂入りたい」
 心底うんざりした声で呟くと、クォークは苦笑を浮かべた。
「残念ながら、それはもう少し先だな。俺たちもこのまま城に向かわなきゃならん」
「……は?」
 ナマエの顔が引きつる。
 冗談じゃない。これ以上、茶番に付き合わされるなんてごめんだ。
「……クォーク、後は任せた。私は先に宿に戻ってるから。私の分まで、頑張ってくれ」
「あ? なにを言って――」
 クォークが間の抜けた声を上げる間もなく、ナマエはくるりと踵を返し、隊列から離脱した。
 人混みの中へと、するりと紛れ込んだ。
 その背は、あっという間に見えなくなった。

「おい!」
 背後からクォークの焦った声が飛んできたが、ナマエは一度も振り返らなかった。




2026/1/4改稿