Chapter.14






 翌朝、目を覚ましたときには、すでに太陽は甲板の上に高々と昇っていた。
 どうやら相当疲れが溜まっていたらしい。完全な寝坊だと悟り、ナマエは短く息を吐いて布団から身を起こした。朝食の時間など、とっくに過ぎているだろう。
 身体を動かすと、あちこちが鈍く軋む。
 ――間違いなく、あのエルザの訳の分からない技のせいだ。
 あの能天気な顔が脳裏に浮かび忌々しく思いながら、服を纏う。黒のレザーアーマー。これを着るとどことなく落ち着く。

 部屋を出て甲板へと向かうと、船員たちが挨拶を寄こしてきた。修繕は順調らしい。
 あまり期待せずに食堂へ向かうと、奇跡的にマナミアの魔の手から逃れた朝食の残りが少しあったので、それを頂戴する。
 食べ終えて食器を調理場まで運び片つけると、ふいに誰かが食料庫へと入っていく気配があった。

 好奇心に駆られて食料庫をそっと覗いてみる。
 そこにいたのは、眼帯の少年だった。なにやら携行できる食料を物色し、袋に詰め込んでいる。
「おはよう」
 声をかけると、ユーリスはぎくりとした様子で振り返り、ナマエの姿を認めてため息をついた。
「なんだナマエか、驚かさないでよ」
 おはよう、とついでのように付け加えられる。
 食料を詰め終えた彼はそのままリフトへと向かったので、ナマエもそれに同行した。少年はいつになく無口だった。
 そういえば昨日の帰り道、様子がおかしかったことを思い出した。

 甲板に出ると、ユーリスは迷いなく船尾へ向かい、そのまま乗船口へ行こうとした。
 ナマエは足を止め、声をかける。
「ユーリス、一体どこに行くつもりなんだ?」
 ち、とユーリスが軽く舌打ちした。呼び止められることは予想していたのだろう。
「ちょっと散歩」
 だが、あくまでしらばっくれる気らしい。ナマエはしかし逆に興味をそそられ、微笑んで少年のささやかな矛盾を指摘した。
「食料を持ってか? ずいぶん長くかかりそうな散歩だな。ピクニックの間違いじゃないの?」
 弾かれたようにユーリスが振り返り、何かを言いかけた。が、そのまま口を噤み、ふい、と顔をそらした。
「……君には関係ないだろ」
「ふーん?」
 何か意地を張っているようだ。ナマエは目をすがめて少年の顔を覗き込んだ。逃げるように顔を背けられたので、懲りずにまた別角度から覗き込む。
 伏せられていた蒼穹の瞳が堪忍したようにこちらを見た。挑むように見つめられ、ナマエは内心面白がってそのままじっと見つめ返した。

 しばし見つめ合い、先に折れたのはユーリスのほうだった。
「……わかったよ! 海岸線に船の残骸があっただろ。そこへ行くんだ」
 吐き捨てるように言い、少年は口を閉ざす。どうやらこれ以上は語るつもりはないらしい。
「船の残骸……って、昨日見たあの難破船のことか? お宝探しでもするつもり?」
「そんなんじゃない」
 どうやら訳ありのようだ。ナマエは暫く少年の横顔を眺め、ややして「分かった」と頷いた。
「なんにせよ、一人じゃ危険だ。私もついていくよ」
 ユーリスがぎょっとする。
「いいってば」
「遠慮するな。めぼしいものがあれば私もラッキーだしな」
 にっこり笑うと、すかさず突っ込みが飛んだ。
「って、それって完全に宝探しするつもりじゃないか!」
 
 そのやり取りに、聞き慣れた声が割り込む。
「――あれ? ユーリス、にナマエ?」
 エルザだった。
「どうしたのさ、二人とも」
「エルザ、ちょうどいいところに」
 ナマエはエルザに、ユーリスが一人で難破船の探索に出かけようとしていることを告げた。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
 あっさりと告げたエルザに、ユーリスは頭を抱えた。
「だから、これは僕の問題なんだから放っておいてよ」
「いや、一人じゃ危険だ。ついていくよ」
 一度決めたらエルザは梃子でも動かない。ナマエは面白がって、ユーリスに水を向けた。
「ほらほら、お人良しがまた一人増えたぞ。このままもたもたしてると、クォークとマナミアに見つかって結局昨日と同じ面子になりそうだな」
 ナマエの言葉に、ユーリスは盛大にため息をついた。面倒なヤツに捕まったのが運のつき、というやつだ。
「……勝手にしろよ。でも、足手まといになるようなら置いていくからね」
「はいはい、気をつけるよ」
 ユーリスのつっけんどんな物言いにも、エルザは慣れた様子で受け流した。




 難破船は、近くで見ると想像以上に朽ち果てていた。
 マストは折れ、船体には穴が穿たれ、甲板には植物が根を張っている。
 この海岸に辿り着いて、少なくとも十年は放置されているだろう。

 船体に開いた横穴から船内へと入ると、空気は一変した。
 何年も放置されているらしい荷物や梁には蜘蛛の巣が張られている。足元には海水が浸水しており、所々木板を腐らせていた。誤って踏み抜いたら大変だ。
 奥へと進む道がなかったので、仕方なしに水の中を潜り進んでいく。

 ふいに、かさり、と妙な音がした。思わず立ち止まって聞き耳を立てる。この音は、どこから――。
「……っ!」
 ナマエが天井へ視線を巡らせた瞬間、何者かと目が合った。
「エルザ、上!」
「うおっ!」
 叫んだ瞬間、天井に引っ付いていた不気味な正体不明のソレが落下し、床が崩れる。海水が派手に弾け、視界を守ろうとエルザが反射的に顔を伏せる。
「エルザ!」
 ユーリスの悲鳴じみた声。背後からも衝撃音。
 どうやら二体いたようだ。

「ひっ……」
 振り返った瞬間、ナマエの視界に入ったのは――昨日見た悪夢の再来だった。
 昨日のアレよりも丸っこく、なんだか全身毛深い。ぞわり、と鳥肌が立ち、体が硬直するのを免れない。
 前方と後方、道はどちらも塞がれた。
「まずい、囲まれたか!」
 エルザが剣を構え、ユーリスが素早く詠唱に入る。

ナマエ! 固まってないで動いて! 大丈夫、あれは蟹だから!」
 びくり、と体が震え、エルザの言葉にナマエは我に返った。
「そ、そうか、蟹か。蟹は、うん、蟹ならなんとか……」
「もう、苦手だったら君は下がっていていいから!」
 ユーリスは焦れたように叫んで、魔法を放つ。
 一人出遅れたナマエも弓を構えて放った。
「いや、心配ない。蟹なら任せろ。ユーリス、焼き蟹にしてやれば、マナミアにいいお土産になるんじゃないか」
「そっちの黒いほう毒持ちだから食べるのは無理だよ!」
 エルザが剣を扱いながら、ナマエの言葉に笑いながら突っ込んだ。
「それは残念――っと、うわっ!」
 一瞬余所見をした瞬間、蟹がナマエの目の前に迫る。
「バカッ! 危ないよ!」
 押し飛ばされ、ユーリスが前に出る。短剣で蟹の前足を押さえ込んではいるが、完全ではない。押さえ切れていない敵の足が少年の脇腹を掠め、赤い筋が滲んでいた。
「悪いユーリス! こいつ……、焼きガニにしてやるっ!」
 ナマエは素早く体勢を整え、電撃と火炎を両手に灯らせ蟹へと撃ちこんだ。





「――ほら、やっぱりついてきて良かった」
 焼け焦げた蟹が二匹、床に転がる。
 エルザはそれを顎で示し、ほれ見ろと言わんばかりの得意げな顔でユーリスを振り返った。
 ユーリスが鈍い動作で顔を上げ、険しい表情で呟いた。
「っ、別に僕がついてきてくれって頼んだわけじゃないからな」
 いつも通りの、つっけんどんな返し。
 だが、どこか棘が強い。エルザは肩を竦め、特に気にした様子もなく奥へ進んでいった。

 その背を追いながら、ナマエはユーリスの横顔を盗み見た。
 薄暗い船内のせいで確信は持てないが、顔色が妙に悪い。
 ――見間違いか。
 そう思い直し、歩調を合わせる。
 だが、数歩も進まないうちに、少年の歩幅が乱れた。
 ふらりと体が傾き、苦しげに背を丸める。
「ユーリス?」
 怪訝に思って声をかけた瞬間、ユーリスの身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「ユーリスッ!」
 ――カランッ。
 反射的に差し出した両手がユーリスの体を支えるのと、彼が持っていた短剣が床に落下したのはほぼ同時だった。


 抱きとめた身体は、思っていた以上に重く、力がない。
 ナマエは歯を食いしばり、ゆっくりと床へ腰を下ろしながらユーリスを座らせた。
 少年の顔は苦痛に歪み、額には玉のような汗。
 呼吸が浅く、速い。
「ユーリス!」
 異変に気づいたエルザが、慌てて引き返してくる。
 ユーリスはかろうじて目を開け、掠れた声で呟いた。
「さ、っきの……敵の」
「しゃべらなくていい」
 エルザが即座に制する。少年は深いため息をついて、力尽きたように背中を支えるナマエにぐったりもたれ掛かった。

「……毒か」
 低く漏れたナマエの言葉に、エルザが険しい顔で頷く。
「マダラヤシガニの毒だ。噛まれれば、一噛みで致死量に至ることもある」
 ナマエの耳元で、声を落として囁かれる。
 視線を落とすと、ユーリスの顔色は既に青白かった。
 頭の中が、真っ白になる。
 ――私を庇ったときだ。
 自分を守るために、ユーリスは前に出た。
 ならば、これは――。
「……私の、手落ちだ」
 喉が震えた。
 解毒の術式は覚えていない。
 マナミアがいれば治癒魔法で何とかなったかもしれないが、ここにはいない。
 呼びに戻る時間は――ない。
 思考が空回りする。

 そのとき、エルザが決意したように立ち上がった。
「毒消しを探してくる。すぐに戻るから、ユーリスのことを頼む」
「……ど、毒消し?」
 一瞬、意味を理解できず、ナマエは目を見開いた。
「ああ、きっと船内のどこかに常備されているはずだ!」
 それだけ告げて、エルザは踵を返した。


「う……」
 残されたナマエは、一瞬茫然としたが、腕の中の苦しげな呼吸にハッと我に返った。
 しっかりしないと。
 ユーリスのことを託されたならば、エルザが戻ってくるまでできる限りのことはしておかないと。
 まず服を緩め、呼吸を楽にする。
 壁際へ移動し、自分が背もたれになるようにして少年を支える。
 思ったよりも、しっかりした体躯。
 異性であることを否応なく実感させられるが、今はそれどころではない。
 治癒魔法を唱える。
 効果が薄いのは分かっている。それでも、やらないよりはましだ。
 次にポシェットをひっくり返す。
 体力回復薬、攻撃用の毒――解毒剤は、ない。
「ああもうっ、役に立たないものばかりだな!」
 焦りが声に滲む。
 その間にも、ユーリスの体温が落ちていく。
 呼吸は、さらに浅い。
 ナマエは歯を食いしばり、少年の身体を後ろから強く抱き寄せた。
 体温を逃がさないように。少しでも、生を繋ぎ止めるために。
「ユーリス……がんばれ、もう少しでエルザが戻ってくるから――」
 治癒の呪文を、何度も、何度も繰り返す。
 だが、力が抜けていくのが分かる。
「……嘘だろ」
 喉から、かすれた声が落ちた。
「ユーリス、しっかりしろ。目を閉じるな……寝るな、頼む」
 頬に手を当て、必死に呼びかける。
「……ナマエ
 微かな声。
 はっと顔を上げると、ユーリスがうっすらと目を開けていた。
「そんな……顔、しないで」
 真っ青な顔で、無理に笑おうとする。
「……大丈夫、だから」
 言葉が、出なかった。
 指先が震え、喉が凍りつく。
 もし、このまま。
 このまま、この子を失ってしまったらどうしよう――。


「――間に合ったか!?」
 まろぶように飛び出してきたのは、エルザだった。手元には毒消しと思わしき瓶。それを目にした瞬間、心からの安堵を覚えた。
 だが、次の瞬間、込み上げたのは理不尽な怒りだった。
「ユーリスは……」
「遅い!」
 エルザの言葉を遮って、一喝。
「えっ、ごめっ……これでも急いだんだけど」
「貸せっ!」
 薬をひったくるようにして奪うと、コルクを抜き、鼻を寄せて匂いを嗅いだ。ひと垂れ、舌に乗せて薬に異常がないか確認する。なにせいつ調合されたか不明なものだ。確認せずに飲ませて、うっかりとどめを刺したら一大事だ。
 問題がないことを確認し、瓶をユーリスの口元に添えて一気に流し込む。
 少年が顔を顰めたが構わない。口と鼻を塞ぎ、嚥下を促す。
 ――ごくり。
 喉仏が動いたのを確認して、手を離した。
 ユーリスは一度だけ咽せたが、そのまま動かなくなる。
「ユーリス……ユーリスっ! 目をあけろ!」
 まさか薬が間に合わなかったのか。
 ナマエが焦れて少年の耳元で叫んだ。
 エルザがユーリスの様子を見て、慌ててナマエを押し留めた。
「お、落ち着いてナマエ! 眠っただけみたいだから!」
「なに……?」
 眉を顰め、もう一度少年を見た。先ほどよりはわずかに呼吸が穏やかになっている。表情も少し険しさが取れたようだ。
 堪らずナマエはエルザを見上げる。
「な?」
 エルザが安心させるように、微笑んだ。
 その瞬間、張り詰めていたものが切れた。
 ナマエは長く息を吐き、ユーリスの肩に顔を埋めた。
「……怒鳴って悪かった、エルザ」
「いいよ」
 ぽんぽん、と頭を撫でられる。
 振り払う気力は、もう残っていなかった。


 四半刻ほど、そのまま少年は眠り続けた。
 暫くすると、ユーリスの顔色が元に戻ってきた。毒の気配が完全に抜けきるまで継続的に治癒魔法を掛け続けていたナマエはそれを見て、ようやく胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出せた。
 額に浮かんでいた汗をそっと拭ってやると、腕の中の少年が身じろぎした。
 ふ、と閉じられていた瞳がうっすらと開く。
「ユーリス、目が覚めたか」
 呼びかけに、少年は焦点の合わない視線を彷徨わせ、やがてエルザとナマエを認めた。
 喉を鳴らし、掠れた声で口を開く。
「……借りが、できたね」
 開口一番の台詞がそれか。エルザは苦笑した。
「そんなこと気にするなよ、仲間だろ。助け合うのは当たり前だ」
「……」
 ユーリスはそれ以上何も言わず、どこか噛みしめるように黙り込んだ。




 ユーリスの調子が戻るまで、その場で休憩を取ることにした。
 持ってきた携帯食の封を切り、少量ずつ胃に収める。
 その間も、ユーリスの体勢は変わらない。背後からナマエに抱き支えられたままだ。
 ユーリスは何度か身をよじって離れようとしたが、それを許さなかった。何より、逃げ出そうにもそこまで体力が回復していない。

「これも飲んでおけ。少しは楽になるはずだ」
 ナマエが即効性の回復薬を手渡すと、ユーリスは嫌そうな顔をしたが、黙って飲み干した。
「……うえ、粉っぽい」
「文句言うな」
 二人の応酬に、傍らでエルザが苦笑していた。
 しばらくして、ユーリスの頬に赤みが戻った。呼吸も安定している。
 そうなると、彼はまず体を拘束する厄介なソファから逃げ出そうとしだした。
ナマエ、もういいから……そろそろ離して」
「いや、無理はするな。もう少し休め」
 ナマエは首を横に振った。確かに調子は良さそうには見えるが、頬は少し逆に赤すぎるくらいだ。もしかしたら熱でも出たのかもしれない。
「いいよ、もう大丈夫」
「だけど顔が赤い。もしかして熱でも出てるんじゃないか?」
 もがくユーリスを制するため、ナマエは腕に少しだけ力を込めた。
 びくり、と何かに反応したように、ユーリスの身体が目に見えて強張る。
ナマエ、それは熱っていうか……」
 言いかけたところで、エルザが事情を察したように、ユーリスへ気の毒そうな視線を向ける。
 ナマエは構わずユーリスの額に手を伸ばそうとした、が。
「あーもう、いいって言ってるだろ……! 気持ち悪いから、そんなにベタベタひっつくなってばっ!」
 思わず手が止まる。
「あ……」
 一瞬の沈黙。
 ユーリスがハッとし、慌てて口元を押さえる。だが、少年が口を滑らせたことを弁明するより早く、ナマエは素早く立ち上がった。
「わっ」
 支えを失ったユーリスは、体勢を崩して後ろへ転がる。
「……悪かった」
 ユーリスを見下ろし、短く謝罪する。
 まごつく男二人を置いて、ナマエはさっさと通路の先へと歩き出した。



 梯子で上の階へと上がると、ざわつくような妙な気配が耳元を掠めた。
 警戒しながら歩を進めると、天井から二つの足音。
 弓を構える。
ナマエ! ……さっきの」
「――しっ」
 追いかけてきたユーリスが焦ったように声をかけてきたが、ナマエは即座に手を上げ、黙らせた。

 次の瞬間、天井の一部が開き、二つの影が降ってきた。
「クォーク……、どうして!? マナミアも」
 エルザが驚きの声を上げた。
「どうして、はこっちの台詞だ」
「あなた方がこちらに向かったと聞きまして。ご無事でなによりです」
 マナミアがおっとりと微笑んだ。
 どうやら心配して追ってきたらしい。
「心配かけちゃったみたいだな。ごめん」
 エルザは気遣いに礼を述べた。
 一方、ユーリスは腕を組み、難しい顔で黙り込んでいた。助けが来たことを、素直に喜べない様子だ。
「ユーリス、黙ってないでなにか……」
「いいさ、気にするなよ。訳があるんだろう」
 エルザの言葉を、クォークが静かに遮った。ユーリスは何も言わなかったが、わずかに視線を伏せた。


 そこから先は、通路が狭いため二手に分かれることになった。
 ナマエは無言で先へと進む。後ろからクォークとマナミアが追ってきた。
「どうしてこの船を調べることになったんだ?」
 クォークの問いに、ナマエは肩を竦めた。
「ユーリスが一人でこの船に来たがっていたから、それについてきただけだ。事情は知らないけどな」
「……ユーリスが、か」
 クォークは低く呟き、思案するように眉を寄せた。
「正直、二人が来てくれて助かったよ。ここには猛毒を持つ蟹が住み着いているみたいだから、マナミアなしではキツイと思ってたんだ」
「猛毒を持つ……マダラヤシガニだな」
 ナマエは頷いた。
「ああ。さっき、それにユーリスがやられた」
「まあ……」
 マナミアが口元を押さえ、息を呑む。
「あいつは大丈夫なのか」
「問題ない」
 即座に返す。
「幸いにも船に毒消しがあったからな」
 それだけ告げて、ナマエは前を向いた。

 
 壁を破壊し、さらに奥へ踏み込む。
 操舵室へ抜けた瞬間、嫌な予感は現実になった。
 床と壁の隙間、天井の梁――そこかしこから、甲殻が擦れ合う音が響く。
 例の蟹だ。
 しかも、群れ。
「――またこいつらッ!」
 数を見た瞬間、ナマエは剣を抜き、考えるより先に踏み込んでいた。
 今はエルザがいない。例の力を気にせず、前に出られる。
 初太刀で一体の脚を斬り落とし、返す刃で本体をひっくり返す。後ろから迫った別の一体に向け間髪を入れず魔法を放つ。
「おいナマエ! 待て、一人で前に出すぎだ!」
 クォークの怒鳴り声が背後で弾ける。
 しかし、すでに遅い。
 気づけば、蟹の群れが円を描くようにナマエを囲んでいた。
「っ――!」
 鋭い痛み。
 毒液をまとった爪が鎧の隙間を抉る。
 呼吸が乱れるより早く、柔らかな光が降ってきた。マナミアの治癒魔法だ。苦しさが一瞬で引いていく。
 踏みとどまり、剣を構え直す。次の一撃で、目の前の蟹の甲羅を叩き割った。
 だが、背後からの攻撃。また毒が体を侵す。
 視界が揺れた瞬間、振り返りざまに雷を放つ。電撃が甲殻を這い、数体が痙攣して沈黙する。 
 遅れて、再び治癒の光。
 だが、まだいる。
 奥に、無数に。まるでいたちごっこだ。
「もう……回復が、追いつきませんわ!」
 不毛な繰り返しに、とうとうマナミアが音を上げた。
「下がれ、ナマエ! 馬鹿みたいに突進するな!」
 クォークの声に、ナマエは牙を剥くように言い返す。
「冗談! こいつら全員私の獲物だ!」
 いつにない不可解な無茶振りに、クォークは顔を顰めた。
「どうした。何を焦っている」
「別に、焦ってなんか……」

「――ちょっと! 何してるのさ!」
 反対岸の高台から声が飛ぶ。
 遅れて合流したエルザとユーリスだった。
 ユーリスが飛び出していったので、エルザが慌てて光の力で蟹の注意を引く。
 ――間に合わなかったか。
 ナマエは内心舌打ちした。できればエルザが来る前に片を付けておきたかったが、仕方ない。光に引き寄せられないよう距離を取り、剣を収める。
 代わりに弓を引き絞り、背後から確実に一体ずつ削っていった。

 最後の蟹が沈黙した後。
 ナマエは床に腰を下ろし、マナミアの治療を受けていた。気づけば、あちこちに傷を作っている。
ナマエさん……無茶が過ぎますわ。こんなに傷だらけで、痛くありませんの?」
 半目を伏せ、短く答える。
「腹が立っているから、頭が冷えて丁度いいくらいだ」
 その言葉に、周囲を見回っていたユーリスが振り返った。
「あら、何に腹を立てているのですか?」
「秘密」
 軽く笑って礼を告げ、立ち上がる。
 これはナマエ自身の問題だ。これ以上、語る気はなかった。




 エルザが舵台の下に飾られていた銀のプレートを発見した。文字が刻まれているが、読めない。
「これ、船の名前かな? 汚れてて、よく読めないな」
「読めなくても分かる――」
 ユーリスがプレートの表面を手で拭った。汚れが拭われ、浮かび上がる文字。
「父さんの船だ」
 震えた声だった。
 空気が、一瞬で張り詰める。

 少年が振り返る。仲間のもの言いたげな視線に、ふとため息をついた。彼がこの船にこだわっていた理由を、どうやら話さずにはいられなくなったようだ。
 伏せた目を上げ、静かに語り始める。
 ――彼は元々島で生まれ育ち、父親は海の戦士で、島を海賊から守っていたという。
 ユーリスの口調から、幸せな子供時代だったのが窺える。
 しかし、それはある日転機を迎える。

「あの日は朝霧の濃い、すごく寒い朝だった」
 海賊の襲撃があった。それを迎え撃つため、島の男達は剣を手に取り勇敢に戦った。
 そして。
「父さんは、二度と島に帰ってこなかった」
 島の住民はユーリスの父親が海賊を恐れて逃げ出したのだと疑った。元々狭い島の気質なのだろう、噂は徐々に真実味を増し、ユーリスら親子は村に居留まれなくなったのだ。
 ……そこからユーリスの辛い旅が始まった。母親と二人村を出た少年は、すぐに母親の早すぎる死に直面することになる。
 すべてを語り終えたユーリスは、辛そうに瞼を伏せた。
 ――最初から、分かっていたのだ。
 この船が、父の船だと。
 長年彼を苦しめていた父親への疑念を晴らしたいがため、真実を知りたいがためにあれほど必死になっていたのだ。
 同時に、それはユーリスの一番繊細な部分の記憶でもある。だから、自分のプライベートを仲間に知られたくないがために一人で船に向かおうとしていたのだろう。
 結果的に仲間の力がなければ、ここまでたどり着くのは難しかったのだが。

 そっと、エルザが口を開く。
「ユーリス、その噂を信じているのか? お父さんは逃げたって」
「分からない……。だから確かめたいんだ」
 ふるふると首を振るユーリスに、ならば、とエルザは迷わず頷いた。
「行こう。きっと何か本当のことを知る手がかりが残っているよ」


 ユーリスによると、上階に船長室があるらしい。
 梯子を降ろし、船長室へと向かう。
 途中で、ざわざわとまた妙な気配。
 そして、不意に香ばしい香りが漂ってきた。
「この匂い……」
 ユーリスがスン、と鼻を鳴らす。
「いい匂いだな。食いモンか?」
「これは……ギモラ海老のシチューに、若鶏のカンポソース……それに焼きたて小麦パンの匂いですわ!」
 マナミアが俄然生き生きとした表情で早口で語り始め、エルザが呆れたように笑った。
「匂いで分かるんだ……。すごいな」
「ある意味才能だな」

 奥の扉を開けると、食堂のような空間が広がっていた。テーブルの上には、マナミアが的確に言い当てた料理がたんまりと並んで湯気を立てている。
「なんだ、これ……。食事が並んでいる」
「まさか、まだこの船の中で生きてる!?」
 ユーリスが愕然として呟く傍で、マナミアが夢見心地の表情でテーブルへと近づいていく。
「ふわぁ……、これ、全部頂いても……?」
「食うなよマナミア! 毒入りかもしれないぞ」
 クォークが慌てて食いしん坊を止めに入った。

 しかし、これ以上先へと進む道が見つからない。
 奥の巨大な鏡を調べていたエルザがどこをどう弄ったものやら、音を立てて動き、隠し扉が現れた。
「父さん……!」
 すぐにユーリスが飛び出していく。


「ユーリス!」
 名を呼び、ナマエは慌てて後を追った。
 一番奥の部屋の扉を押し開けた瞬間、空気が凍りつく。
 ユーリスは、白骨化した遺体を前に、立ち尽くしていた。
 遺体の手元に、短剣と航海日誌らしきものが。
「……父さん……」
 絞り出すような声が、少年の唇から零れる。
 ユーリスは膝をつき、震える手で日誌を拾い上げた。
 指先で頁を捲る。
 言葉を追うごとに、息が詰まっていく。
「……これは……父さんの船は……難破したんだ」
 静かな声だった。
 記されていたのは、漂流の記録。
 何らかの原因でマストが折れ、舵を失い、船は海を彷徨った。
 その時点で、船員たちはすでに全滅していたらしい。
 漂流開始から一週間。病か、あるいは別の何かが船内に蔓延したのだろう。
 だが解せないのは、どうして船のマストが折れたかということだ。なぜならば。
「でもどうして……あの時、海は荒れてなんかなかったはずだ!」
 ユーリスが押し殺した声で叫んだ、その時。
 ――ガタリ、と背後で音がした。

 仲間の間に、瞬時に緊張が走る。
 音のした方を見ると、薄汚れたカーテンが、わずかに揺れていた。
 仕切りの向こう側。そこに、何かがいる。
 先ほどから感じていた気配。
 おそらくその正体だろう。
 エルザが静かに歩み寄り、カーテンを引く。
 現れたのは――巨大な鏡。
「……おっと」
 エルザが息を詰める。
 鏡の向こうには、同じように剣を構える“エルザ”がいた。
 同じ動き。だが――違和感。
 す、と剣を構える。鏡の中のエルザも……否。構えが逆だ。
「こいつ、俺じゃない!」
 エルザが叫んだ瞬間。
 鏡の中の“エルザ”が、躊躇なく襲いかかってきた。

 鏡の中の存在は、エルザの動きを正確に模倣してくる。
 厄介なのは、向こうの攻撃は実体を伴い、こちらに届くという点だった。
 一方、こちらの攻撃は、すべて鏡に弾かれる。
 剣を叩きつけても、傷一つつかない。
「くそ……どうすれば!」
 エルザが歯噛みする。
 その時。
 ユーリスが放った炎が、鏡をすり抜けた。熱風が、鏡の向こうの偽エルザを包む。
「効いたぞ!」
「なるほど、魔法だったら通じるのか」
 即座に理解し、ナマエも電撃を放つ。
 さらに、ユーリスが炎を重ねた。
 耐えきれず、偽エルザは鏡を派手に砕き、こちら側へと飛び出してきた。

 姿を現したのは、黒い魔物だった。
 全身は影のように歪み、ただ瞳だけが赤く光っている。人を小馬鹿にするような動きで、こちらを挑発してきた。
 次の瞬間。
 魔物の姿が揺らぎ――仲間たちの姿を次々と模倣した。
「……っ」
 一瞬で、誰が誰か分からなくなる。
 しかも、行動まで完全に真似てくる。
「くそ、これじゃあ……!」
 標的が定まらず、ナマエは攻撃に躊躇した。
「俺達の姿に化けてるっていうのか。訳がわからない!」
「ふん、くだらないね。良く見れば分かるよ。化けていようが魔物の瞳は変わらない。赤く光ってるあイテっ!」
 言い終わる前に、クォークの攻撃が直撃し、ユーリスが吹き飛んだ。
「あ、すまない!」
「……いいけど、気をつけてよね」
 ユーリスがむっとしたように言う。
 そのやり取りに、ナマエは完全に焦れた。
「――もういい!」
 叫ぶと同時に、自分の姿をした魔物へ突撃する。
「瞳なんか見てられるか! 要するに、自分の姿してるやつを叩き潰せばいいんだろ!」
 剣を振りかぶる。
 まさか能力まではコピーできるわけもなく、自分自身より劣る存在に負ける理由はない。剣でせめぎ合い、隙を突いて偽者の首を景気良く吹き飛ばした、が。
「……うわ、よくやるな」
「ちょっ……心臓に悪いからやめてよ!」
 仲間からのブーイングが飛ぶ。

「――あっ!」
 マナミアが、今思い出したように声を上げた。
「エルザさん、私の魔法を! 敵の魔法を封じ込められます!」
「あ、そうか!」
 エルザが頷く。
 コピー能力を封じられた魔物は、もはや脅威ではなかった。
 ほどなくして、完全に沈黙する。




 ようやく魔物を倒し終え、ユーリスは先ほど読みかけだった手記のページをまた開いた。
 ユーリスの父親の失踪の原因、それは巨大な魔物だった。それを退けるため、彼らは文字通り命を賭して戦ったのだ。
「”……そして、私の妻と息子に、どうか伝えてほしい”」
 読み進めるユーリスの声が、震える。
「”私は、最期までお前達を――”」
 手記は、家族への愛が綴られて、終わった。
 最後のページには、精巧なポートレートが挟まれている。
 ユーリスは日誌を抱きしめ、その場に崩れ落ちた。
 押し殺した嗚咽が、静かに漏れる。
 
 ナマエは、そっと視線を逸らした。
 ユーリスが望んだ真実は手に入った。しかしどちらにせよ、父親の死を目の当たりにするという残酷な事実は、変わらない。父親がどこかで生きているという希望は絶たれ、これで彼は天涯孤独の身になったのだ。
 ――それでも。
 ユーリスは、ゆっくりと立ち上がった。
「父さん……、父さんは僕達を守っていてくれたんだ」
 ゆっくりと振り返り、ユーリスを心配そうに見守っていた仲間を認めた。
「皆のお陰で……、真実を知ることができた」
 そして彼は、涙を目尻に湛えたまま。
「――ありがとう」
 穏やかに、微笑んだ。




 船へ戻る帰路、ユーリスはどこか吹っ切れた顔をしていた。
 ポートレートは父親のもとに残し、彼は父親のダガーを形見に頂戴していた。
 エルザと楽しそうに小突きあいながら歩いていくユーリスを見て、クォークは穏やかな笑みを浮かべた。
「ユーリス、ようやく歳相応な笑顔になったな」
「ええ、良かったですわね」
 マナミアも柔らかく頷く。

 ナマエは少し距離を置き、無言で二人を眺めていた。
 まるでじゃれ合う子犬を見るような、静かな眼差しで。

 その時、ふいに視線が交わった。
「あ……」
 ユーリスは思わず立ち止まり、気まずそうに口を噤った。
 何か言いたげな表情だが、迷っている様子だ。
 ……だが、しばらく待っても少年は口を閉ざしたまま。
 ナマエはかすかに息をつき、そのままユーリスの横をすり抜けていく。
 もの言いたげな視線が絡み付いてきたが、最後まで声を掛けられることはなかった。




 ナマエの背を見つめたまま、ユーリスがぽつりと零す。
「……怒ってる、よね」
「……気になるんなら、早く謝っておいたほうがいいんじゃないか」
 同じく足を止めていたエルザが、さり気なく言った。
 ユーリスが振り返る。その表情には、後悔の色が滲んでいた。
「ユーリスの気持ちは分かるけどさ、あれは流石に言い過ぎだと思う」
「……わかってるよ」
 呟きながら、ユーリスは短剣の柄をぎゅっと握り締めた。


 散々迷った末、ユーリスは一大決心をしてナマエのもとへ向かった。
 彼女は部屋に篭っているらしく、船に戻った後からずっと姿を見せていない。
 ユーリスの言葉が彼女を傷つけてしまったのだろうか。気持ち悪いなんて言うつもりはなかった。
 ただ、ナマエがあまりにも無遠慮に距離を詰めてくるものだから。女性特有の体の柔らかさや、近くで香る匂いが……とにかく思春期の少年には刺激が強すぎただけなのだ。
 そうは言っても、『気持ち悪い』は言い過ぎた。
 胸を締め付ける後悔を抱えたまま、扉の前に立つ。
 深く息を吸い、勇気を振り絞ってノックした。
ナマエ、いる?」
「……誰?」
 一拍遅れて、中から声が返ってくる。
 ユーリスは喉を鳴らし、口を開いた。喉は既にからからだった。
「僕だよ、ユーリス。話があるんだ。開けていいかな」
 沈黙。
 しばらくして、ようやく声がした。
「……ちょっと待ってろ」
 なぜか、水音が聞こえる。
 嫌な予感が胸をよぎった、その直後。
 扉が開いた。
「休んでるところごめ――」
 言い終わる前に、言葉が喉に詰まった。
「――うわぁっ!」
 そこに立っていたのは、タオル一枚のナマエだった。
 濡れた髪。肌に張り付く布。
 ユーリスは反射的に後ずさり、壁に頭を思い切り打ちつけ、そのままずるずると座り込んだ。はくはく、と空気を無駄に飲み込み、叫んだ。
「な、なに……なに考えてるの!? 馬鹿じゃないの君! そんな格好で出てこないでよ!」
 理性をフル稼働させて、必死に顔を覆う。が、男の悲しい性で、目元は完全に隠し切れてない。
「……ごめん、急ぎの用かと思って」
 行水をしていたんだ、とナマエはあっさりと告げた。
 その一言で、頭に血が上る。
「ひ、一言言ってくれたら僕だって遠慮するのに!」
 苛立ちに、声が裏返る。うんざりしたようにナマエが顔をしかめた。
「じゃあ、とりあえず服を着るから。扉、閉めていいかな」
 ひくり、とユーリスは顔を引きつらせた。
「ああ、是非そうしてくれよ!」
 ヒステリックに叫ぶと、そそくさと逃げるように扉が閉まった。

 ユーリスは深呼吸を繰り返し、なんとか立ち上がった。
 まだ心臓が落ち着かない。
 閉じた扉に手を掛け、そのまま体を反転させて扉に背凭れた。
「あーもう、信じらんない……」
 扉の向こう側からは衣擦れの音がして、また落ち着かなくなる。たまらず、扉に向かって苛立ちをぶつけた。
「ねえ君さ! 僕が男だって分かってる? そうやって煽って楽しいわけ? それとも僕がうろたえるのを見て喜んでるの?」
「そんなつもりはないよ」
 扉の向こうから、くぐもった声が返る。
 ユーリスは、思わず鼻で笑った。
「嘘だね絶対! だいたい君ってデリカシーがないよね。男に平気で抱きつくし、格好だってそうだ、見せびらかしてんの?」
 その瞬間。
 背中の扉が、唐突に開いた。
「うわっ!」
 不意打ちで支えを失い、後ろに転げる。上から、ナマエが覗き込んできた。
「……っ」
 反射的に目を瞑った。目の裏には先ほどの刺激的なナマエの恰好がしっかりと焼き付いている。
「この装備のどこが見せびらかしてるんだ? ……もう着替え終わったから、目をあけていいぞ」
 苦笑と共に言われ、ユーリスは恐る恐る目を開けた。
 そこにはいつもの黒のアーマーを纏ったナマエの姿が。
 ほっ、と思わず息を吐く。
 ――それでも、心臓の高鳴りだけはなかなか収まらなかった。




 ナマエは部屋の中央に立ったまま、ユーリスを見やった。
 扉を閉め、簡素な室内に二人きりになると、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返る。
「で、何しに来たんだ? 私に説教をしにきただけじゃないだろ?」
 促すと、ユーリスはぴたりと動きを止めた。
 俯いたまま、何か言いかけては飲み込み、口を開いては閉じる。その仕草がやけに目につく。
「黙っていちゃわからないよ」
 少し強めに言うと、ようやく彼は顔を上げた。
「……その、気持ち悪いなんて、本当は思ってないから。ちょっと気まずかっただけで……」
 あまりに率直な言葉に、ナマエは一瞬きょとんとする。
「悪かったよ」
 それだけ言って、ユーリスは再び口を閉ざした。ナマエは次の言葉を待ったが、どうやらそれで終わりらしい。
「え……、それだけ? わざわざそれを言いに?」
 思わず問い返すと、ユーリスが目に見えて傷ついた表情を浮かべた。
「……それだけって、ひどいな。君を傷つけたと思って、謝りに来たのに」
「――ふっ」
 堪えきれず、笑いが零れた。
 慌てて口元を覆うが、指の隙間から笑みは隠しきれない。
(なんて素直なんだ)
 父親のことで沈んでいると思っていたのに、まさかあの一言をここまで気にしていたとは。
 拍子抜けするほど真っ直ぐで、不器用だ。

 気づけば、ナマエはユーリスの頭に手を伸ばしていた。
 少年の銀髪を指に絡め、遠慮なくくしゃくしゃにする。
「ちょっと! だから子供扱いやめてって――」
 抗議の声も構わず、そのまま彼の頭を引き寄せた。
 体勢を崩したユーリスが、ナマエの胸元に倒れ込む。ぎゅっと、迷いなく抱きしめた。
「キャァ!」
 裏返った悲鳴が上がる。
 あまりに甲高く、ナマエは一瞬、本当に女の子を抱きしめているのかと錯覚した。
 だが、腕の中の体は確かに生きている。
 温かく、確かな鼓動が伝わってくる。
 ――先ほど、抱きとめた時は違った。
 毒に侵され、今にも消えそうだった命。
 あの感触が不意に蘇り、胸の奥がひやりと冷える。
 ナマエは無意識のまま、縋るように腕に力を込めた。
「……ごめんな」
「え?」
 ぽつりとユーリスの耳元で呟くと、それまで慌てていたユーリスが、ぴたりと大人しくなる。
「ユーリスが毒を受けたの、私を庇ったせいだろ。私がしっかりしていれば、君はあんなことにならなかった」
 思わず弱音が口をついて出た。ユーリスが死にかけたのは、ナマエが原因だ。油断した自分に腹を立てていたのだ。
 彼女の感情の吐露を耳にし、ユーリスは行き場のなかった両腕をそっとナマエの背に回した。
「……僕は、毒を受けたのが僕でよかったと思ってる」
「は……? なんで。ユーリスって意外とマゾなの?」
「マ……っ、だからそういう意味じゃなくて!」
 ユーリスの顔を覗き込もうとした瞬間、逆に強く抱き返された。
「僕が庇わなきゃ、君が毒にやられていたはずだろ? 君が苦しい思いをしなくて良かったって意味だよ」
 ナマエはその言葉に、大いに戸惑った。
「それに正直、君の治癒魔法がなかったら、僕は持たなかったと思う。……だから、僕でよかったんだよ」
「……」
 ユーリスの言葉に、ナマエは押し黙る。ややあって、ため息をついた。
「まあ……過ぎたことを今更どうこう言っても仕方ないな。でもユーリス、次にああいう場面があったら、まず自分の身の安全を考えろ」
「それはどういうこと?」
 聞き捨てならないとばかりに、ユーリスが体を離して覗き込んでくる。
「庇うなって意味? 迷惑だった?」
「そうだな、大迷惑だ」
 真面目な顔で頷くと、ユーリスの眉が寄った。空気が、わずかに張り詰める。
 だが、ナマエは目を逸らさず、続けた。
「――私は……仲間に死なれるのが、一番嫌なんだ」
 

 
 ナマエの言葉に、ユーリスは息を呑む。
 彼女の顔を見て、初めて気づいた。
 強がりでも、冗談でもない。
 ナマエは傷ついているのだ。自分が死に掛けて、それで心を痛めている。
 
「……ナマエ、僕、は」
 
 ――キス、したい……。
 初めて、自覚する。
 目の前の人に、どうしようもなく強烈に惹かれているという恋情を。
 その衝動を、自分自身がまだ、どう扱えばいいのか分からないまま――。





2025/12/14改稿