Chapter.15





「私は森に育てられたようなもの――」
 うっそうとした森の中の遺跡に佇みながら、マナミアはそっと語り始めた。

 曰く、マナミアは森と共に育ったらしい。本当の両親の顔は知らない。物心ついた頃から、森とともに神獣に育てられたと語った。神獣とは、豊富な知識を持った森の賢者のようなものらしい。
 だが、その神獣が息途絶え、それを追うように森も消滅した。大陸では、いたるところで大地が荒廃しているらしい。
 その理由を求めて、マナミアは旅をしている。
 だが、この島には生命力が強く残っているのを感じた。その秘密を探るため、探索を願い出たというわけだ。


 あの後、島から戻ってきたマナミアの要望に応え、昼食を掻きこんで島に上陸した。(マナミアはおかわりを三杯だけで済ませていた)
 島の奥へと進むと、そこには豊かな森が広がっていた。木々は熟した実をこぼれ落ちるほど実らせ、小鳥や小動物が水辺で喉を潤している。
 ひらひらと空中を漂う不思議な光の欠片が、幻想的だった。
 この空中を漂う不思議な光は、死んだ大地の光――らしい。そのマナミアの言葉を聴いて、ナマエはひっそりと眉を顰めた。ならば、ここも荒廃が始まっているということか。
 さらに進むと、崩れつつある古い遺跡が姿を見せた。森に囲まれ、濃い影を落としているが、空気はどこか落ち着いている。

 遺跡を守るようにして眠っていた骸骨が侵入者の存在によって目を覚ましてしまったので、手早く片を付け、二度と目覚めない眠りに落ちてもらう。
 この物言わぬ躯となったアンデットたちはきっと、かつてこの島で暮らしていた人々の夢の残痕なのだろう。

 エルザは徐々にあの不思議な光の力を使いこなせてきているらしい。だが、用心のためナマエはエルザにあまり近づかない。
 とはいえ、エルザの方もどうやらナマエに遠慮しているようだ。
 アンデットを倒し終え、各々遺跡の探索を始めると、エルザがそっと近寄ってきた。
 隣に並び立ち、何気ない仕草で彼は呟いた。
「あのさ、今朝は怒鳴ってごめん」
 一瞬何のことか分からず、ナマエは眉をひそめた。エルザが苦笑ながら続ける。
ナマエがカナンを連れて行くことに反対した時、俺、怒鳴っちゃっただろ」
「ああ、そのことか」
 エルザは拍子抜けしたように肩を落とした。よほど気に病んでいたのだろうか。
 だが、それだけを言いに来た顔ではない。
 ナマエは腕を組んで鼻を鳴らした。
「で、本題は何なんだ? まさかその事を謝りに来ただけじゃないんだろ?」
 図星を刺され、エルザは苦く笑った。
「……俺、あれから少し考えたんだ。ナマエの言い分も良く分かるし、理解もしてる。でもやっぱり、カナンの事放っておけなくて……」
「分かってるよ。私もこれ以上人の恋路を邪魔するつもりはないし」
「だ、だからそんなんじゃないってば」
 エルザは決まり文句のように言って首を振る。
 恋路じゃなければなんだというのだ、単なる同情心か? との言葉は、内心で飲み込んだ。
 
 エルザは気持ちを整えるように息を吸った。
「でも……多分ナマエの方が正しいんだと思う。正しいことを正しい、間違ってることは間違ってるって言える人、そんなにいないから。だから、ナマエ……俺が間違ってたら、これからも遠慮なく言ってくれ。ナマエの言葉なら、ちゃんと受け取れると思う」
 エルザの期待に満ちた表情に、ナマエはうんざりしたようにため息をついた。エルザは傭兵に似つかわしくないほど純真だ。クォークはどういう育て方をしたのやら。
「……世の中そんな単純じゃないさ。何がどう正しい方に転がっていくかなんて誰にも分かりゃしない。だいたいあんたの言う正しさって何だ? 私はただリスクを背負いたくないだけだ。そこに正しいもクソもないだろ」
 戸惑うエルザに、ナマエは指を突きつけた。
「だから、私が言いたいのは、あんたも自分の意志は貫き通せばいいってことだ。誰かの正しさに縋るな。人の機嫌を窺う必要もない。……善悪を口実にされるのは好きじゃない」
 吐き捨てるように言うと、エルザは困ったように笑った。
「……そう思えるのはナマエ、きっと君がとても強い人だからだよ」
 ナマエが眉を顰める。
 ざ、と風が二人の間を通り抜けた。小鳥ののどかな鳴き声。

 奥からクォークの呼び声が聞こえた。なにやら発見があったらしい。
 エルザがそちらの方へと足を向ける。ナマエがそれに続こうとした時、彼は急に振り返って言った。
「あとさ、ナマエ。余計なお世話だろうけど……言葉遣い、ちょっとだけ直したら? ”クソ”は流石に……」
「それ、セイレンにも言ってやれ」
「うっ」
 反論に言葉を詰まらせるエルザを一笑し、ナマエはさっさと彼を追い越した。




 仲間のもとへ戻ると、ユーリスが怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「二人で何話してたの?」
「あ、いや……ちょっとした世間話だよ」
 エルザは笑顔で誤魔化した。

 遺跡の奥へと続く扉を発見したのは、マナミアだった。その手前に、人ほどの大きさもある獣の足跡を見つけて、彼女は頬を染めて興奮していた。
「きっとこの先に神獣がいるんだわ!」
 奥へと通じる扉には、蔦ががっちりと絡まっている。ユーリスが炎で焼き切ると、マナミアは一人飛び出していってしまった。
「マナミア、待て! 一人では危険だ!」
 しかし彼女は普段のおっとりとした雰囲気とは似つかわず、意外と俊足だ。あっという間に彼女の姿を見失ってしまった。

 急いでマナミアの後を追うと、湿った空気の広がる湖にたどり着いた。水は濁り、浮島のような足場が奥へと連なっている。
 一歩踏み出す度に足場が揺れ、不安定だ。
「おわぁっと! ゆれるぅ」
 バランスを崩しかけたユーリスが、彼にしては珍しく素っ頓狂な声を上げた。
 慎重に進むと、突然前方の地面から植物の蔦が飛び出してきた。同時に、リザードも這い出てくる。
「うわ、何あれ」
 不気味に蠢く棘のついた蔦を見て、ユーリスが顔を顰めた。
「こんなところにもリザードがいるのか。あいつら本当に神出鬼没だな」
 呟いて、一歩退いて弓を構える。
「うわっ」
 エルザが前へ出た瞬間、蔦が彼を捕らえようと襲い掛かってきた。
「植物にも敵意が……。この森もおかしくなっているな。とりあえず、植物には炎だ! ユーリス!」
「了解!」
 クォークの指示にユーリスがすばやく魔法の詠唱に入る。だが、エルザが蔦に吊り上げられ、好き放題に振り回されていた。
「くそっ、離せ! い、いてて、と、棘が……」
「ちょっとエルザ、君がそこにいちゃ魔法に巻き込んじゃうよ」
「そうだぞエルザ、遊んでないで早く脱出しろ」
「え!? ひ、ひどいよ……助けてくれたっていいじゃないか!」
 ユーリスとナマエの言葉にエルザは涙目で抗議した。
 クォークはというと、苦笑している。
 蔦はやがてエルザを投げ捨てて、土中へ潜った。
 次の標的を探して波打つ気配――。
 来る、と感じた瞬間。
 足元を割って蔦が突き上がり、足首を絡め取る。跳ね退こうとするより早く、別の蔦が首へ巻きついた。
「……っぐ!」
 喉が締め上げられ、息が押し潰される。
ナマエ!」
「待ってろ、今――」
 クォークが飛び出そうとするが、それより早く、ナマエは自らの体に炎の魔法を叩き込んだ。
 詠唱破棄。火力を絞った炎の破壊魔法が、体に絡みつく蔦を焼き切る。
 短気ゆえに一刻も早く蔦から抜け出すために選んだ乱暴な手段だったが、しかし結果としてそれは仲間をざわつかせる羽目になった。
ナマエ!? ユーリス、まさか――」
「ぼくじゃない!」
「わ、私だ……」
 膝を突き、咳き込みながらそう告げると、仲間の疑念は散った。
 ユーリスが駆け寄り、ナマエの背を支える。
「……大丈夫?」
「お前な……無茶をしすぎだ! 自分を燃やすやつがどこにいる! 何のために俺達がいると思ってるんだ……」
 クォークが声を荒げながらも、律儀に水筒を差し出してくる。
「いや……悪い。首が絞まって少し焦ったんだ」
 確かにクォークの言う通りだ。蔦に首を絞められ、焦って早くなんとかしなければと、咄嗟に思いついた手段があれだった。仲間の手助けなど念頭になく、とにかく一人でなんとかしなければと判断を急いたせいだ。
「まあ……、無事ならいい。怪我は?」
「ん――、まあ、大丈夫」
 多少火傷を負ってはいたが、自業自得なので正直に告げるのは憚られた。あとでこっそり治癒魔法をかけておこうと思いながら水筒に口を付けると、クォークがナマエの言葉に胡乱げに片眉を上げたので、逃げるように視線を反らす。
 
 そのとき、森の奥から絹を裂くような悲鳴が響いた。




 悲鳴の響いた方へ駆けつけると、そこではマナミアが、小山のように巨大な蜘蛛と対峙していた。
 ユーリスがその異様な影を認めた瞬間、走りながら詠唱に入る。
「エルザ、マナミアが危ない!」
「わかってる!」
 エルザは叫ぶと、剣を抜き放ち、ほとんど跳弾のように突撃していった。

 強烈なほどグロテスクなその巨大蜘蛛は、姿相応に手ごわかった。動きもすばやく、堅い甲羅も相俟って中々致命傷を与えられない。
 エルザが壁を蹴り、一閃を叩き込んでも、甲殻はびくともしない。逆に蜘蛛は衝撃で跳ね上がり、その反動の隙に糸を撃ち込んで捕縛を狙ってくる。
 その度にエルザが風魔法で粘つく糸を切らねばならなかった。なにより子蜘蛛がやっかいだ。放っておくとどんどん親蜘蛛が産み落として増殖していく。

 クォークとエルザが攻撃の主軸、ユーリスとマナミアが後方から魔法援護。
 ナマエは遠距離から子蜘蛛を狙い撃ちながら、局面を冷静に見ていた。
 ――そう、崖の上の、安全圏で。
「ちょっと! 一人だけ高見の見物?」
 ユーリスが崖上を睨んだ。狙いはナマエだ。
 ナマエは、いかにも心外だと言わんばかりに肩を竦めた。
「弓で援護してるだろ」
「降りて手伝ってよ! 子蜘蛛が邪魔して魔法が唱えられないんだけど!」
 ぐ、とナマエが詰まり、顔を逸らす。
「……いやだ」
 いつにない子供っぽい拒絶に、全員ぎょっとする。
「一体どうしたんだよナマエ~!」
「そうですわナマエさん、今私達にはあなたの助けが必要なんです」
「早く降りて来い! このままじゃ全員コイツに食われかねん!」
 仲間から口々に言われ、ナマエはますますへそを曲げたように頬を膨らませた。
「いやだ! 絶対降りない! 私はそいつが倒れるまでっ、絶対、降りないぞ!」
 その異常な固執に、エルザがふと何かに気づいた。
「……あ、もしかして」
 ナマエがハッとし、焦ったようにエルザに視線を向けた。
「蜘蛛……苦手なんだ?」
 言われた瞬間、羞恥と怒りが混ざった動揺がナマエの腹を殴るように湧き上がる。
 弾かれたように魔法を放つが――動揺のせいで狙いが甘かった。
 火球が地面に着弾し、爆風が子蜘蛛を蹴散らす。
 ……だけでなく、仲間にも火が回った。
「うわっ!」
 エルザが盛大に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「エルザさん!」
 マナミアが悲鳴をあげ、慌てて治癒魔法を唱える。
「あっちち! ちょっと、僕らまで燃やす気!?」
「いい加減にしろ! ナマエ、まじめに戦え!」
 ユーリスとクォークが炎を振り払いながら、怒鳴った。
「――くっ」
 本気で怒られてしまっては折れるしかない。
 ナマエは涙を飲み、崖から飛び降りた。


 一度地面に降りてしまうと、獲物が小さくすばしっこいため、弓では間合いが取れない。
 仕方なく弓から剣へと持ち替えたが、しかしなるべく蜘蛛に近寄りたくないのは変わりない。嫌悪感を抑えながらも魔法と剣を駆使して、子蜘蛛を蹴散らそうと奮闘した。
 すると回復してきたエルザが、ナマエのそばに寄ってくる。
 距離が近い。嫌な予感が走る。
「――うわ、エルザ! やめろ!」
 次の瞬間、ナマエと周囲の子蜘蛛は青い光に囚われた。
 体の力が奪われていく感覚に、もがきながら叫ぶ。
「ごめん今はちょっと無理かな!」
 わざとらしい口調で言いながら、エルザは周囲の攻撃を受け流している。
 周辺に子蜘蛛がまとわりついてきて、鳥肌を抑えられない。
「エルザ、いい加減に……」
 解放してくれ、と叫ぼうとした瞬間、青い光が一層力強く輝き、エルザの右手から逆流するように放たれた。
「――え、」
 光を受けた子蜘蛛は軒並み爆ぜ飛び散る。
 その余波はナマエにも到達――し、常識外れの力で彼女を吹き飛ばした。
 全身に感じるのは痛みではなく、力だ。光がナマエに力を与えている。
ナマエ!」
 焦ったように誰かが叫ぶ。
 吹き飛ばされた先では、巨大蜘蛛が牙を掲げ迎え撃っていた。
 喰われるわけにはいかない。
 空中で身体を捻り、落下の勢いをそのまま刃へ乗せ、斬り込む!
「これでも……くらえーッ!」
 鮮烈な一撃。
 今まで傷すらつかなかったはずの巨躯の前足が、ひしゃげ、彼女の一撃で見るも容易く一本もぎ取れた。
 超自然的な力が、ナマエを手助けしたようだった。
「な、なんだ今の……」
 一部始終を見ていた仲間は呆気に取られたようだ。
 エルザは右手を眺め、興味深げに呟く。
「この力、こんな風にも使えるんだ」
「エルザ、今のはお前が?」
 クォークの問いに、エルザは頷いた。
「ああ、ついさっき使えるようになった技なんだ。一定まで敵を引きつけてると力が溜まって、光が敵を吹き飛ばしてくれるんだ」
 つまり……そのエルザの力が、ナマエにだけ“攻撃”ではなく“強化”として作用した、ということになる。
 しかし、どうしてナマエにだけそうなるのかは、未だ不明だ。
「彼女まで攻撃食らってたらどうするつもりだったんだよ、エルザ」
 ユーリスが呆れて問うと、エルザはへらりと笑った。
「あ、それもそうだね」
 と――。
「エルザァ!!」
「あ、ナマエ
 蜘蛛から逃げ戻ってきたナマエが、荒々しくエルザへと詰め寄った。
「ごめん、大丈夫だった?」
「大丈夫なわけあるか!」
 ご尤もなお言葉で。エルザは笑顔を貼り付けたまま、口を噤んだ。
「あ、あんた絶対わざとだろ! さっきの根に持ってるな!?」
「え、なんのこと?」
 涙目で噛み付くナマエに、あはは、とエルザは笑って、しらばっくれる。
 その様子を呆れたように他の仲間が眺めている。


 そんな空気の中、クォークが二人に声を飛ばす。
「おい、あの蜘蛛、まだやる気だぞ」
 視線を向ければ、足を落とされながらも尚も立ち上がり、子蜘蛛を産み落とす蜘蛛が。
「こう何度も産卵のシーンを見せられるのは、流石にえぐいな」
「侵入者は私達のほうですもの。彼女だって身を守るためならなりふり構っていられませんわ」
 げっそりとユーリスが言えば、マナミアは平然と言ってのける。一体どちらの味方か。
「しかし、こうも防御が堅いと骨が折れるな。おいエルザ、すまないがそこのお嬢さんをもう一度吹き飛ばしてやってくれないか」
「分かったよクォーク。ってなことで、ごめんナマエ
 クォークの言葉にエルザはあっさりと頷き、ナマエは身の危険を感じて逃げ出そうとした、が。
「うわ、ちょ、やめ」
 あっさりと捕まる。
「もうやだ! もう勘弁! って、」
「行くよーナマエ!」
「い、行くよじゃなっ……ぎゃあああっ!」
 エルザの軽い合図と共に、ナマエは再び空を舞った。


 
 一度、巨大蜘蛛の甲殻にヒビが走った瞬間、戦況は一気に傾いた。
 そこからは畳み掛けるような連撃を叩き込み、ついにその巨体を床へ沈めた。
 倒れゆく化け物の脚が痙攣し、埃と乾いた空気が舞いあがる。
 
「もう、一人で先に行っちゃ危ないよ。マナミア」
「ええ、気をつけますわ。取り乱してご迷惑をおかけしてしました」
 ユーリスが心配の色を声に滲ませながら注意すると、マナミアは肩をすぼめて素直に頭を下げた。

 二人のほほえましいやり取りを横目に、ナマエは膝をつき、その場で肩を上下させた。胸の内側で鼓動が荒く弾む。
 エルザは吹き飛ばした子蜘蛛の死骸をつまみ上げ、ナマエとそれを交互に見比べ、不思議そうに首を傾げる。
「なんでこんなの苦手なんだ?」
「あまりそれをこっちに近づけるな」
 ナマエは眉根をひきつらせつつ横目で釘を刺したが、エルザはむしろ面白がって一歩近づいてきた。
「エルザ、ほんとに勘弁してくれ」
 ナマエは腰を抜かしたように後じさる。完全に逃げ腰だった。
「近くで見れば慣れるかもよ」
「慣れるか!」
 逆切れする。
「だいたいそいつら関節が無駄に多いんだよ! どうして足が八本もついてるんだ! 訳わからんし、動きもいやだ! 毛も気持ち悪い! ゾンビの次に嫌だ!」
「ゾンビって……どこで出会うのさ」
 ユーリスがぼそりと突っ込む。
 ナマエの心からの拒絶に、しかしエルザは悪乗りしたようにニヤニヤと笑った。
「へえ、俺はぜんっぜん平気なのになぁ」
 ――悪寒。
 ナマエは即座に後退しようとしたが、次の瞬間、首の後ろをがっちり押さえつけられた。
「うわやめろバカ! エルザ離せ!」
 ナマエは拘束から逃れようと暴れたが、犯人はひょいひょいと彼女の手を避けてしまう。エルザは意地悪く微笑んだ。
「さっきのお返しだよ」
「お返しならさっき散々っ、ひっ! い、いや……やめて」
 子蜘蛛を近づけられ、ナマエは必死で身を捩った。
 流石に度が過ぎる悪戯に、ユーリスが慌てて止めに入る。
「ちょっとエルザ、やめなよ! アルに言うよ!」
 その言葉に、エルザはぴたりと硬直する。効果は抜群だ。
 その隙にナマエはほうほうの体で逃げ出していた。

「いじめっ子か、お前は」
「流石にあれは頂けませんわ、エルザさん」
 クォークとマナミアの非難が飛び、エルザはぎこちなく振り返って空笑いを浮かべた。
「俺も、ちょっとヤバかったかも……」
 自分の内側に潜んでいた妙な性癖の気配に、本人が一番困惑している様子だった。


 顔を覆って座り込んだままピクリとも動かないナマエに、ユーリスは恐る恐る声をかけた。
「大丈夫?」
 のそり、とナマエが顔を上げる。顔色はすこぶる悪い。
「だいじょばない」
 そう機械的に答えると、ナマエは幽鬼のごとくふらりと立ち上がり、来た道の方へと歩き出した。
「え、どこ行くの?」
 思わずユーリスが声をかけると、ナマエは真っ青な顔で振り返った。
「ふ、船に、もどってる」
 そうぎこちなく告げると、おぼつかない足取りでまた歩き出す。
「ちょっと、ナマエ
 ユーリスの呼びかけに、今度は彼女も振り返ることはなかった。




 ――エルザの奴め!
 心の中であの悪戯っ子に罵声を浴びせながら、ナマエは森をふらつき歩いた。
 苦手な蜘蛛を押し付けられたせいではない。あのエルザの強引な手法による技で、ずいぶんと体力を奪われていた。
 体を酷使した後の疲労感が全身を覆っていた。
 船まで気力が持つといいがと思いながら、遺跡を抜けようとした時。
「待ってよ!」
 背後から声が追いかけてくる。振り返れば、眼帯の少年が息を弾ませながら走り寄ってきた。
 ナマエは足を止め、彼が追いつくのを待った。
「ユーリス、どうしたんだ」
「フラフラしていて見てられない。僕もついてくよ」
 ナマエはその申し出に、きょとんとした。
「え、いいよ」
 しかしその言葉は軽く無視され、ユーリスは彼女の腕をそっと取った。
 力はないのに、不思議と拒む余地を与えない手つきだった。
「気にしないで。僕も早く戻りたいし。……ほら、行くよ」
 ナマエはそのまま従い、歩きだした。
 ――人のお節介には眉をひそめるくせに、自分だってこうして平然とお節介を焼くんだから。
 胸の奥がむず痒くなり、口に出して茶化したくなる衝動が一瞬よぎる。
 だがそれを言えば、少年は確実に不機嫌になる。
 なので、その台詞はそっと心の中に押し込み、代わりにひとつ息をついた。
 横を歩くユーリスの横顔は、つんと澄ましているようでいて、僅かに強張っていた。
 その緊張が、自分の状態を思ってのものだと気づくと、ナマエはふと小さく笑みを洩らした。
 ほんのわずかに、足取りが軽くなる。

 
 夕陽の落ちかけた森を、二人はゆっくり歩いた。
 燃えるような橙の光が木々の間から差し込み、影を長く伸ばす。海へ沈みゆく太陽が、世界を一瞬だけ黄金に染め上げていく。
「ユーリス、見てみろ。夕日が綺麗だな」
 ナマエが足を止めて指さす。少年は黙って隣に立つ女傭兵の横顔を見返した。
「……うん、綺麗だね」
 少し遅れてユーリスが呟く。
 その声に、微妙な熱の揺れが混じったことにも、ナマエは気づかない。
 
 ふと視線を海岸へ向けると、朽ち果てた船の残骸が、波間に焦げ茶の影を落としていた。
「あれ、難破船かな」
「え……」
 つられてユーリスがそちらの方へ視線を向ける。少年の表情が、ギクリと強張った。が、それに気づかず、ナマエは彼を促した。
「あ、と、そろそろ日が沈むな。暗くなる前に急ごう」
 ユーリスはどこか心ここにあらずの様子で頷いた。




 船へ戻るまでの間中じゅう、ユーリスは何か考え込んでいる様子だった。
 少年の様子がおかしいことになんとなく気づきながらも、ナマエは自分の状態に手一杯で彼を気にかける気力はなかった。
 船にたどり着くと、部屋へ直行した。
 わずらわしい服を脱ぎ捨て下着だけになり、布団へ潜ろうとしたそのとき、マナミアが戻ってきた。彼女はなんだか気落ちしているようだ。
 半分眠りの淵に沈みながら、ナマエは声を掛けた。
「どうだった、神獣とやらには会えたのか?」
「いえ、ダメでしたわ」
 マナミアは寂しげに微笑んだ。
 そうか――とだけ返したナマエの意識は、そこで途切れた。

 泥のように深い眠りへ引きずり込まれる。
 次に目が覚めたのは、とうに朝日が昇りきった後のことだった。



2025/12/10改稿