Chapter.03
門を通り抜けると、賑わいの気配が一気に押し寄せた。
煉瓦造りの建物が密に立ち並び、舗装の行き届いた街道には昼下がりの光が差し込んでいる。丁度昼時とあってか人通りは多く、行き交う人々は皆、どこかこぎれいで、この街の豊かさを物語っていた。
物珍しさに周囲を眺めつつ歩くと、やがて広場へと出た。
中央に置かれたモニュメントが淡い光をまとい、ゆっくりと脈動するように輝いている。そこを抜けてすぐの場所に、クォークたちの宿泊地があった。
アリエルの酒場――。旅人達に酒と食事とベットを提供している、よくあるタイプの酒場だ。
扉を押し開けると、吟遊詩人の笛が軽やかに響き、一行を迎えた。
「あーっ、今日もなんとか無事生き延びたなー。おやじー酒くれ! 一番つよいのな!」
セイレンは一番に酒場に乗り込み、奥のカウンターに向かって声を張り上げた。
宣言通り、昼間から酒盛りをおっぱじめる気のようだ。どうやら彼女は無類の酒好きらしい。それも手に負えない部類の。
「おーうエルザ、お帰りー」
頭上から声がした。二階のバルコニーを見上げると、褪せた金髪の優男と、黒髪の静かな美女がこちらを覗き込んでいる。クォークの仲間なのだろう。二人は階段を降り、テーブルに合流した。
「やや!? そちらの美しい方はどなたかな?」
金髪の男が目ざとくイシュタルの存在に気づき、ずいとにじり寄ってきた。手を取られそうになって、思わず一歩退いた瞬間、
「てめぇジャッカル! 気安くさわんじゃねぇ!」
スパンと小気味のいい音がした。セイレンの仕業だ。男はくるりと後ろに振り向き、セイレンに噛み付いた。
「っててー……おいセイレン! 何しやがる!」
「ああん? ナンパ野郎の魔の手からイシュタルを守ってんだよ! しっし、あっち行け!」
まるで漫才なやり取りを呆気に取られながら眺めていると、今度は隣から視線を感じた。先ほどの黒髪の美女が、興味深げにこちらを見ている。
「それで、この方はどなたです? クォークさん」
「ああ、実は――」
クォークが掻い摘んで説明をした。
「まあ、そうでしたの。棺の中で目覚めて記憶喪失……それはさぞご不安だったでしょう。あ、私はマナミアと申します。どうぞよろしく」
そう丁寧に名乗った彼女は、クォークの説明に驚きつつも自然に受け入れてくれた。この傭兵団、揃ってお人よしが多い。
おっとりしたマナミア自身もまったく傭兵らしくない。しかし、どういう経緯で傭兵になったかを推測するのは無粋だ。人それぞれに都合がある。
と、す……と視界の端から急に花が差し出された。振り返ると、先ほどセイレンと言い争っていた優男がいつの間にか花を片手に気取った笑みを浮かべていた。
ちらとカウンターの隅を見ると、彼が手にしているのと同じ花が花瓶に活けてあった。花瓶の周辺に花びらが数枚散っているから、きっとあそこから一本拝借したのだろう。
「ああ美しいお嬢さん、ボクはジャッカルといいます。今日ここで貴方のような麗しい方と巡り会えた幸運に、女神へ祈りを捧げたくなる――」
歯の浮くような台詞に思わず鼻で笑ってしまった。
後ろでセイレンが「てめーも懲りねーヤツだな!」とジャッカルと名乗った男の頭を殴りつけていたが、目の前の爽やかな笑顔は崩れない。なかなか根性はあるようだ。
「よろしく、ジャッカル。……頭、痛くないのか?」
「ああ、どうってことないさ。これくらい、愛の試練……ぐへっ!」
セイレンの足技がヒットし、とうとうジャッカルが床に沈む。
「へっ、気持ち悪りーこと言ってんじゃねえよ」
満足げなセイレンを横目に、倒れた男の手から花を拾う。ふと、彼の右の首筋に大きな裂傷の跡があるのに気づき、目を留めた。
ずいぶんと大怪我を負ったものだ。あれじゃきっと死に掛けただろう。
そんなことを思いながら、花を元の花瓶に戻してやる。
「さて、じゃあお待ちかねの昼飯にするか。食いながらそっちの調査の報告を聞こう」
クォークが席につき、店員を呼ぶ。
イシュタルは、同席すべきか少し迷ったが、やがて言った。
「私は先に部屋を借りていいかな。荷物整理をしたい」
自分は彼らの仲間ではないし、調査の報告とやらには付き合わなくてもいいだろう。正直空腹ではあったが、それより先に持ち物を確認し、自分の正体に繋がる手掛かりがないかを探したかった。
「ああ、そうしな。うちらの部屋は二階の……ここから見てあの右手の手前の部屋だ。部屋の奥に浴室があるから、風呂も使っていいぜ」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
「セイレン?」
どういうことです? 事情を知らないマナミアが首を傾げる。
「あ、ごめんマナミア。実はこいつ今日の宿決まってなくてさ。うちらの部屋、ベッドが一つ余ってるだろ? で、あたしらの部屋に泊まらないかって誘ったんだ。……勝手に決めて悪い。いいかな?」
「まあ、そういうことでしたの。もちろん構いませんよ。旅は道連れ、世は情け、ですもの。よろしくお願いしますね、イシュタルさん」
「こちらこそ。ありがとうマナミア」
優しい微笑みに倣って、イシュタルはぎこちなく口角を上げる。目覚めてから固まっていた表情筋も、ようやく自然に動くようになってきたようだ。多分ユーリスに見せたモノより、今の笑顔の方が幾分マシに見えているはずた。
正体不明の自分を、彼らは躊躇なく受け入れてくれた。
断られていれば、この豊かな街に着いた途端に路頭に迷っていたはずだ。
安堵と、遅れて追いかけてくるような恐れ――その両方が胸に満ちる。それは、自分が「人間である」という確かな感覚を伴っていた。
記憶とともに感情さえ失ったように覚えていたが。
こうして彼らの優しさに触れるたび、少しずつ、人らしいぬくもりも取り戻しつつある――そんな気がした。
セイレンたちの部屋は、ベッドとエンドテーブルが数台置かれた小奇麗な間取りだった。
大きな窓は陽光を惜しみなく取り入れ、ベッドはふかふかで蚤の心配は必要ない程度には清潔そうだ。
荷物を適当なテーブルに置いて、そのまま奥の浴室へと直行した。
装備をひとつずつ外していくたび、金具が微かに鳴る。その音に合わせて、隠された仕掛けが次々と姿を現す。
やはり、これはただの旅装ではない。何気なく着ていたつもりだが、改めて見ると複雑怪奇だ。随所に仕込み武器がある。自分が用心深い性質だったのか、それとも必要に迫られていたのか。
広めの浴槽には既に湯が張られていた。
湯気に混じる硫黄の匂い。温泉を引いているのだろう。銅の蛇口からは絶えず湯が注がれ、ほんのりと赤みがかった湯面が揺れている。
洗い場で体を洗い流し、着ていたシャツと下着を石鹸で揉み洗いして水を絞る。それからお待ちかねの湯船に身を浸すと、血が巡るような心地よさが背骨を駆け上がった。
湯の温度は若干熱い。長居はできそうになかったので、ほどよく温まったところで湯を出た。
脱衣所に物干しロープを見つけ、洗った衣類を掛ける。
体をタオルで拭きながら、浴室の鏡に目をやった。
(こんな顔をしていたのか……)
鏡の向こうにいたのは、エルザと同じくらいの年頃の女だ。
どこかで見たようで、しかし思い出せない顔。
おそるおそる、自分の頬に触れる。
鏡の中の女も同じ仕草を返す。
……なるほど、少なくとも見られない顔というわけではなさそうだ。
だが、それだけだった。
いくら見つめても、記憶の断片すら戻ってくる様子はない。ため息をつき、タオルを体に巻いて脱ぎ捨てた装備一式を拾って浴室を後にした。
さて、と一息つく。
今度は荷物整理だ。
携行ポシェットの中身をチェックする。どうやら空間拡張の魔法がかけられているらしく、見た目以上にぎっしり詰まっている。
ひとつずつ出していたら日が暮れる気がして、思い切って逆さにした。
ごろり、と金属の重い音。続いてごとん、ごとん、と物が転げ落ちる乾いた衝撃音が続いた。
ひとまず今欲しいものは衣服の着替えと……あとは金目のものだ。金貨があれば万々歳だが、なければ換金できるでもいい。
荷物の山を探ると、すぐに財布らしき革袋が見つかった。紐を解けば、金貨がずっしりと詰まっている。量は十分。ただし、この街で使えるかどうかは分からない。
そのほか宝石のついた首飾りや指輪もある。こちらは換金しやすいだろう。
他には、予備の剣、大量の矢、おそらく普段着。
本、地図、ロックピック、回復ポーションに毒薬、乳鉢に錬金素材らしきものまである。
……もしかして自分は錬金術師だったのだろうか。いや、それにしても矢の数が尋常ではない。
どれも自分が選び、必要としていたもののはずなのに、いまは他人の持ち物のようだ。
革の装丁がくたびれた本が目に留まる。何か手掛かりを期待して手に取った。
ページには日付らしき数字と、手書きの文字が隙間なく記されている。
「……日記、みたいだな」
もしこれが自分のものなら、何か思い出すかもしれない――そんな淡い期待が胸をよぎる。
――よし、これは下で読もう。食事も取りたいし。
そうと決まればさっさと着替えて髪を乾かそう。首にかけていたタオルを取ってがしがしと髪を拭いた。粗方水分を拭き取って、手櫛で適当に整える。
半乾きだが、仕方ない。
――魔法で乾かせば早いのに。
無意識にそう思った瞬間、ふと脳裏に呪文が浮かび、そのまま口がそれを紡いだ。
ふわり、と手のひらから温風が吹き上がる。
「ん?」
魔法だ。
「……髪を乾かす魔法?」
いや、そんな生活魔法はさすがに聞いたことがない。
炎と風を組み合わせた即興の合わせ魔法だろう。無意識に使ったということは、以前の自分はこうして自然に魔法を扱っていたわけだ。
いずれにせよ便利な魔法だ。そう思いながら温風で髪を乾かしていく。
あらかた乾いたところで、ふと気づく。
「これ、服を乾かせる……?」
脱衣所へ行き、濡れた衣類を手に取る。
どうやって乾かすか――そう思っただけで、新たな呪文が脳内に浮かんだ。
唱えると、温風とともに、衣類の水分だけが抜ける気配。
床には小さな水溜まり。
先ほどの魔法とは違う、念動力、そして炎と風の複合だろう。
そして念動力単体で使うには……多分この呪文だ。
呪文を唱えると衣服がふわりと宙に浮いた。手を動かさずにモノを動かせるなんて、なんてずぼら向けの便利魔法だろう。
乾いた衣服を身につけながら、思いつく。
「そうだ。ついでに他の魔法スキルもチェックしておこう」
能力をざっと探ると、破壊、回復、変性、幻惑――思いのほか多くの魔法が記憶として残っていた。応用次第で組み合わせは無限だ。
――整理についてはひとまずこれくらいでいいだろう。
満足し、広げた荷物をポシェットへ再び放り込む。
日記だけを手に取り、部屋を出た。
一階に下りると、ちょうどクォークたちが遅めの昼食を取っているところだった。
男性陣と女性陣で自然に席が分かれており、ユーリスはすでに食事を済ませたらしく、離れた卓で一人、本に没頭している。
手前の男性陣のテーブルに近づき、ずらりと並んだ料理に視線を落とす。香りに誘われるように腹が鳴った。
「おいしそうだな」
「イシュタルも何か頼むか? そういえばお腹すかせてたよな」
「うん、お腹ぺこぺこ」
エルザの言葉に頷くと、クォークが顎で店の奥を示した。
「カウンターで好きなものを頼んでこい。金は俺が持つから気にするな」
「ありがと。クォークは命の恩人だな」
「はっ、よせよ。どうせおべっかだろう?」
素直に礼を言うも、クォークが毒づく。本音なのだが、と内心で肩を竦めていると、エルザがニヤつきながらクォークの脇腹を小突いた。
「クォーク、照れなくてもいいじゃん」
「うるせえ」
図星だったらしい。噛みつくクォークにエルザが笑みを深める。
じゃれあう男二人を放置し、カウンターに赴いてマスターにおすすめの料理を訊ねていくつか注文をした。
「おっ、麗しのお嬢さん。もしかして俺に会いに来てくれたのかな? 良かったら一緒に愛の語らいを――」
「遠慮する」
店の看板娘を熱心に口説いていたジャッカルがこちらにも声をかけてきたので、早々にセイレンたちの席へ向かった。
「隣、座っていいかな」
「ええ、どうぞ」
女性陣のテーブルに声をかけると、マナミアが柔らかく椅子を引いてくれた。
卓上には食べ終えた皿が積み上がっている。ざっと見て十人前はある。一体誰が食べたのだろう。
テーブルに突っ伏していたセイレンが急に跳ね起き、イシュタルを認めてにへらと笑った。既に相当呑んだのだろう、息が酒臭い。
「おっ、降りてきたか。おせぇぞイシュタル~。お前も酒呑まね?」
「いや、遠慮しておく」
お誘いを丁寧にお断りすると、セイレンは口を尖らせた。
「なんだよ、つまんね」
「そんなに呑んで大丈夫なのか?」
「まだまだよゆー! 明日も休みだしー」
にゃはは、と笑ってジョッキを煽る。その様子を若干呆れながら眺めた。
「お待たせ! 楽しんでいってね」
「ありがとう」
店の看板娘――アリエルが、頼んでいた料理をテーブルまで運んできた。
クリームシチューにパン、シーフードの香菜焼き。酒場の料理らしく味付けが濃い。酒に良く合いそうだ、と思いながら、レモン水で流しつつ腹を満たす。
食べ終えると、持ってきた日記を広げた。
すぐ隣のマナミアが興味深げにのぞき込む。
「それは……日記ですか?」
「うん、荷物の中にあったんだ。たぶん私のだと思うけど……」
その言葉を聞きつけたのか、ジャッカルが背後から覗き込んだ。
「へー、どれどれ……なんだこりゃ、どこの国の文字だ?」
どうやら見たことがない文字らしい。
「読めない?」
「まったく」
エルザとクォークも輪に加わってきて、彼女の持っていた日記を見て同じく首を傾げていた。
「ここに名前が書いてあったんだ。私の名前、だと思うんだけど……」
見開きページの下段を指すと、セイレンが芝居がかった声を上げる。
「おっ! ついにイシュタルの本当の名前が明かされる時が! ……で、なんて書いてあるんだ?」
「ナマエ、と」
まあ、とマナミアが声を上げた。
「素敵な響きですね。きっと、あなたのお名前ですわ」
「そう……かな? じゃあ、今からそう名乗ろうかな」
遠慮がちに皆を見回す。せっかく名前を考えてくれた彼らに対して、わずかに罪悪感があった。
「いいんじゃねえか? 少なくとも、クロとかアンジェリーナよりは全然マシだしな」
「はは……」
セイレンの言葉に、一部の男たちが気まずそうに視線をそらした。
「――まあ女神の異名で呼ばれるより、そっちの方が僕もマシだと思うよ」
不意に背後から声がする。見ると、隅で本を読んでいたはずの少年が立っていた。
「ユーリス」
「ようやく思い出した。明けの明星の女神の名前だ。昔読んだ古い魔導書に記述があった」
「イシュタルがか? そりゃ大層な名前だな」
クォークが顎をさすりながら呟く。
「ちょっと僕にも見せて」
イシュタル――改めナマエが差し出した日記をユーリスが捲る。すぐに眉間にしわが寄った。
「……見たことない文字だ。古代語でもない。君、異国の出身?」
「そうなのかな。自覚ないけど」
首を傾げる。
「でもよー。言葉が違うなら、なんで普通に会話できてんだ? 自覚がないなら、イシュタ……じゃなくてナマエが自然にこっちの共通言語を喋れるのは変じゃねえか?」
セイレンの指摘に皆が頷く中、ナマエにはひとつだけ、思い当たる術があった。
「たぶん、翻訳魔法のおかげだよ」
先ほどスキルをチェックした際に気づいたそれは、一度術を発動させれば恒久的に効果が続くタイプの魔法だ。
「翻訳……魔法? そんなのある?」
ユーリスが露骨に疑いの目を向けてくる。
「あるよ。変性魔法の一種だけど」
「変性……? 聞いたことがない。ジャッカル、マナミア、君たちはどう? 聞いたことある?」
「いや……まあ、初耳ではあるが……」
「私も聞いたことはありませんねぇ」
あまりに疑われるので、ナマエは小さく息をつき、術を解除した。
『これならどうだ? 分かる?』
「……さっぱり分かんねぇ」
一瞬で会話が断たれ、皆が困惑した顔になったので、再度翻訳魔法を展開する。
「やっぱり解除すると不便だね」
「へー便利だなおい! それがあれば、言葉が違っても会話できるってことだろ? すげえじゃねぇか!」
セイレンは素直に感心したが、ユーリスだけは納得いかない様子だった。
「……でも確証はないだろ?」
「どうして?」
「君が適当に発音して、僕らをからかってる可能性もある」
「私が君をからかって得すると思う?」
「……」
すかさず返すと、少年は言葉を詰まらせた。
「……でも、そんな魔法、聞いたことがないんだよ」
自分に言い聞かせるように、ユーリスが呟く。
マナミアがくすりと笑い、優しく言った。
「でも、そんな魔法があったら素敵ですわ。魔法はイマジネーションが大事、とも言いますし……ね、ユーリス?」
有無を言わせぬ笑みに、少年は脱力したように息を吐いた。彼女は細かいことには拘らないようだ。
「ほかにはどんな魔法が使えるんですか?」
「ええと、手を触れずに物を動かせる、とか?」
「やってみせてよ」
ユーリスがムキになって言う。完全に挑発の声だ。少し迷った末、ユーリスに指を向けて呪文を唱えた。少年の銀色の髪を固定していた髪留めが、指先の動きに合わせてするりと抜ける。
「っ……!」
編みこんでいた髪がはらりと解け、ユーリスはハッとして髪を押さえた。
髪留めは宙を彷徨い、指の一振りでナマエの掌に落ちてきた。
その様子を目撃していた他のテーブルの客から喝采が起こった。
「おお、手品か!? すげーな姉ちゃん! もっとやってくれよ!」
「おっと、これ以上はお代を頂くよ」
素気無く言うとブーイングをくらったが、すぐに興味はそがれたようだ。流石は酔っ払い、興味の移り変わりが速い。
「それ、早く返して」
髪を抑えていたユーリスが、低く抑えたような声で言う。どうやらさらに少年の機嫌を損ねてしまったようだ。
「ごめん」
手に持っていた彼の髪留めを差し出すと、ひったくるように奪われる。
ふとエルザが首をかしげた。
「すごい魔法だね。でも、どんな時に使うの?」
「うーん、手の届かないところにある物を取るときとか……あとは他人に気づかれずに物を盗る時とか?」
「それじゃただの盗人だよ」
エルザが苦笑いを浮かべる。その可能性も否定しきれず、曖昧に笑った。
「君の口の悪さは、その翻訳魔法とやらのせい?」
髪を束ね終えた少年が、むすっとした顔のまま口を挟んでくる。
「……それは元々かな」
その返答に、ユーリスは盛大にため息をついた。
日記を卓に置き、そのまま階段へ向かう。
「ユーリス?」
「なんだか疲れた。僕はもう休むよ」
そのままこちらを一瞥もせず、少年は二階へと姿を消した。
「怒らせちゃったかな」
「気にするなよ。あいつはちょっと気難しいお年頃なだけなんだ」
ジャッカルがウィンクをしながらそう告げた。
ユーリスが二階へと引きこもると、各々また思い思いの行動に戻っていった。
すなわちジャッカルはアリエルを口説きに、セイレンは酒盛り、マナミアは料理の追加。
「ところで、日記を読んで何か思い出さなかったのか?」
「残念ながら、さっぱり」
クォークに肩を竦めながら、紙面を捲る。
見知らぬ地名。人名。
淡々と綴られた戦況。
遠征、偵察、戦場の泥。
マナミアがデザートを頬張りながら、尋ねてきた。
「どんな内容が書かれているんですか?」
「どうやら、大規模な戦争があったみたい。いろんな土地を巡って、偵察したり、戦に参加したり……あとは上司らしき奴への愚痴が延々と」
「なんだ、じゃあお前も傭兵みたいなもんじゃないか」
酒が入って陽気になったクォークが豪快に笑い、遠慮もへったくれもなくナマエの背中を叩いた。
苦笑し、そのまま視線を日記に落とす。
――早く帰りたい、と。
切実な願いが、乱れた筆致で記されていた。
『――ああ最悪だ。これが夢なら早く醒めてほしい。クズの”ご主人様”に唆され、クソみたいな戦に放り込まれて、良いようにこき使われている。まるでこれじゃ奴隷だ。私はあいつらの企みに巻き込まれた、ただの被害者なのに。帰りたければ手を貸せ、だと!? 本当にふざけている。……ああ、早くシロディールに帰りたい。帰ったらスイートロールを腹がはち切れるほど食べて、蜂蜜酒をしこたま飲んでやる。だから一刻も早く、この愚かな戦が終わってくれるのを願うのみ――』
インクの痕は乾いているはずなのに、その怒りが、絶望が、生々しく胸を刺す。
――この言葉を書いた“誰か”は、いったいどこへ消えたのだろう。
2025/11/16改稿