絶対に無理だと証明する方が、実ははるかに難しい。





 ナマエは一人庭園にいた。前の庭園とはまた趣が違った、小さく可愛らしい花が一面に咲く野原のようなその景色が彼女は好きだった。
 先ほどまでここにラクシーヌが来ていた。マールーシャの仲間の一人だ、とナマエの中では認識している。こんにちは、と挨拶すると、ラクシーヌは変な顔して黙り込んでいた。どうしたんだろうか。
 単に不機嫌だっただけだろうか。ラクシーヌと接する機会なんてなかったから、失礼なことはしたつもりはないけれど、それでも気になってナマエは問うた。
 けれど、どうしましたか、と尋ねても、ラクシーヌは苦み走った表情で、なんでもないわ、と云うだけだった。
 去り際、彼女は「あんた早くあいつの側から離れないとヤバイわよ。もう手遅れだろうけど」と言い残していった。ナマエにはそれがどういう意味だかさっぱりだった。
 あいつ、とは一体誰を指すのだろうか。
 花の香りが辺りに充満していた。頭がぼんやりする。まるで春の陽気にあてられたかのような、ふわふわとした感覚だ。
 もしラクシーヌの云うあいつがマールーシャのことだったら、彼の元を離れるだなんて、考えたくもないことだ――。



 ふいに、ざ、と背後で土を蹴る音がした。
「お嬢ちゃん」
 聞いた事のない、鼓膜をくすぐるような声だった。
 振り返ると、黒コートに身を包んだ男が一人立っていた。逆立った赤毛が特徴的な、目つきの鋭い男だ。目の下には、泪のような形の化粧がある。
「こんにちは。あなたは、マールーシャの仲間の人かしら?」
 問いに、男はニヤリと挑発的に笑った。
「俺のことは誰だっていい。それよりお嬢ちゃんが、あいつのお気に入りの人形(ドール)か?」
「人形?」
 何のことか分からず、ナマエは男の言葉を繰り返した。
 それにしても、今日はこの庭園を訪れる人の多いこと。
 ぼんやりそう思っていると、じろじろとナマエのことを眺めていた男が、呆れた様に肩をすくめた。
「しかしあいつの気が知れねえな。こうも長く人間を傍に置くなんざ」
「あいつって、マールーシャの事?」
 男は問いには答えず、顎に手を添えてニヤニヤと口元を歪めながらこちらを見ている。まるでナマエの反応を楽しんでいるかのようだ。
 流石に不快感がナマエを襲った。この男の存在は、まるで幸せなまどろみの時間を邪魔されたかのような不愉快さがある。
「人形って、私のこと?」
「そうだと云ったら?」
 男が挑発するように目を眇める。
「否定するわ。私にだって自分の意思くらいあるもの」
 ハッ、と鼻で笑う音がした。
「そうかぁ? だったらお前、あいつに逆らえるか? マールーシャの元を離れてこの世界で生きていけるか?」
 ぐ、と言葉に詰まる。問いに、ナマエは答えられなかった。その様子を見て、男が肩を竦める。
「ま、人形っていうより、ペットみたいなモンか」
 あまりの云い様に、ナマエは眉尻を下げた。初対面だというのに、なんて意地悪な言い方をする人だろう。
「あなたは、私が嫌いなの?」
 おや、と男が眉を上げた。
「心外だな。別に、嫌いというわけじゃないさ。ただお前は俺等と違って心がある」
「それが、何か駄目なの?」
 ナマエは男の言葉に戸惑いながらも、続けて問うた。
 すると男は、今までで一層作り物めいた笑みを浮かべ、一歩ナマエに向かって足を踏み出した。
「お前は、俺達が失ったはずの心を持っているんだぜ? 喉から手が出るほど欲しいものを」
 す、と手を伸ばされる。びくり、と無意識にナマエは体を震わせ、一歩背後に後退した。
 ナマエの反応に満足したように、男は犬歯をむき出しにするように、にいと嗤った。狂気じみている笑みは、しかしどこか空ろだ。
「お前を見ていると、心が服着て動いているみたいに見えるんだよ。まるで見せ付けるように笑ったり泣いたり怒ったり、哀しんだり。俺達が容易に出来ない事をやってのける」
 伸びてきた手はナマエのおとがいを掴んで、ぐい、と持ち上げられた。
 ガラス玉のような綺麗な瞳が、まるでナマエを威嚇しているようだ。
「正直、――ぞっとしないね」

 顔が近づいてきて、反射的にナマエは男の手を振り払った。
「近いわ。離れて」
 冷静にそう告げると、男は拍子抜けしたように頭を掻いた。
「あれ、意外。もっと怯えてくれねーの?」
 先ほどまでの気迫はどこへやら、歳相応の貌に戻った青年にナマエはくすりと微笑んだ。
「ごめんなさい。ちっとも怖くないわ」
 つまらねぇな、と男はチッと舌打ちした。
 ナマエは男の様子にますます可笑しげに笑った。
「だってマールーシャの方が最初はもっと怖い……、いいえごめんなさい。そんなことなかったわ」
 無意識に口走ったナマエは自分に驚いて、口を抑えた。何を云っているんだろう。彼は最初から優しかった、筈だ。
「ふうん?」
 と、男が含み笑いを浮べている。
 それで、とナマエは居住まいを正し、男に向き直った。
「あなたは、感情を見せ付けられるのが嫌なのね。だったら、あなたの前では笑わないようにしたほうがいいかしら?」
 ナマエの言葉に男は首を捻り、腕を組んで考え込むように唸った。
「んー、かといって、心がある癖に無感情に振舞われるのもなんか癪に障るんだよなぁ」
「わがまま、って言われない?」
「おう、よく言われる」
 ニッ、と男が子供のように無邪気に笑った。



 ひらり、と枯れかけた花から花弁が一枚散った。
「あら、いやだわ」
 眉をひそめたナマエは指先を伸ばし、枯れかけの花の房ごとそっと摘んだ。枯れかけの花はすぐに摘まないと、地面に散って余計な手間が増えてしまう。
 それに枯れた花なんて、この完璧な庭園には不要なものだ。

 ナマエの作業を見ていた男が、背後から問いかけた。
「しかしお前、本当にあいつが怖くないのか?」
「どうして? マールーシャはとても優しいわ」
 それは彼女にとって愚問だった。ナマエは他の花殻を摘みながらも、事も無げに言った。
「ふうん、ほんとかねえ」
 訝るような声。
 ナマエは作業の手を止め、背後を振り返った。
「嘘じゃないわ。彼は最初から優しくて……。ううん、どうだったかしら」
 首を振る。実のところ、出会った当初のマールーシャの様子はあまり覚えていない。どういう出会い方をしたのかすら、分からない。
「最初は何を考えているのかわからなくて、少し怖かった、かな」
 その記憶も曖昧だ。記憶力は悪くはない方だと思っていたが、もしかして出会った時の自分の心理状態が悪かったため、忘れているのかもしれない。
 男はナマエの言葉に、ふうん、と鼻を鳴らした。
「その恐い男に惚れるお前も傑物だ。よく、仇と一緒に居られるな」
 目を見開く。
「……仇?」
 何のことだか分からない。けれど、ナマエの胸にその言葉が何故か突き刺さった。
 ――仇って何のこと? 喉の奥まで出掛かった言葉は、しかしかろうじて呑み込んだ。
 この人は、ナマエに関して何か重大な事を知っている。けれど、この男の口から聞くのは、なんだか癪だった。
 ぐ、と尋ねたい気持ちをこらえ、ナマエは瞼を伏せた。
「あなたは、……まるで心があるようだわ」
「……」
 男は目を眇めた。ナマエの反応を窺っているようだ。
「……そりゃ、俺のほうが先輩だもん」
 沈黙が降りる。
 次に口を開いたのは、ナマエが先だった。
「……あの、名前を聞いてもいいかしら?」
「ヤダ」
 返ってきたのは、拒絶だった。ナマエが瞠目すると、男がふいに笑った。
「あんたにゃ教えたくない」
「どうして?」
「別に。理由はない」
 この人は、やはりわがままだ。
 ナマエが戸惑っていると、何かに気づいたように男が顔を上げた。
「――そろそろ行くぜ。ご主人様が戻ってくるころだ」
「え?」
 じゃあな、とあっさりと暇を告げて、男は闇の回廊の中に姿を消した。




ナマエ
 男が去って間もなく、愛しい声がナマエの名を呼んだ。弾かれるように振り返る。
「マールーシャ!」
 ナマエは愛しい人の名を呼んで、庭園の入り口に立っていたその人に駆け寄った。ひらり、ひらりと手の平から零れた花弁が舞う。
 目の前まで寄り、顔を見上げて告げる。
「おかえりなさい」
 ナマエの待ち人は微笑んで、彼女を腕の中に抱き寄せた。柔らかな薄紅色の髪が頬をくすぐる。厚い胸板に顔を埋めると、ナマエは幸福に満たされた気分になった。
 ふいに、青臭い緑の匂いが鼻についた。彼が纏うにしては、珍しい匂いだった。
「……草原の匂いがするわ。どこへ行っていたの?」
 気になって尋ねると、マールーシャは視線を逸らすように目を伏せて告げた。
「――勇者を、迎えに」
 云って、彼は漂う闇の気配に気づいたように辺りを見回した。
「誰か居たのか?」
 なんて敏いのだろう。ナマエは一瞬、答えに詰まった。
「ええと、あなたと同じ黒いコートの……」
「ラクシーヌか?」
 いいえ、と首を振る。
「赤い髪の、男の人よ」
「アクセルか……」
 呟いて、マールーシャは考え込むように束の間黙り込んだ。
「何か云っていたか?」
 問いに、ナマエはすぐに答えられなかった。アクセルという名の男の言動は、一貫してナマエには優しくなかった。だが、それを素直に目の前の男に告げていいものか。
ナマエ?」
 言葉を捜すようにしばし目線をさ迷わせていると、促すようにマールーシャが名を呼ぶ。
「……私、彼に嫌われているみたいだわ」
「どうした、何があった」
「私に心があることが、気に食わないみたい。それにあなたのこと、まるで怖い人のように云っていたの」
「ほう」
「だから私、云ってやったの。マールーシャは優しい人だって――」
 つとマールーシャの顔を見上げると、ナマエはそこで言葉を失った。
 そこで見たのは、まるで棘のように鋭い眼差しをする冴え冴えとした美貌の男だった。氷のように冷ややかな表情のマールーシャを、けれどナマエは知らない。
 こんなマールーシャは、知らない。……いいや。
 背中に、冷汗が伝って流れた。
 一瞬、何もかもが闇に侵食されてゆく恐ろしい光景が脳裏に浮かんで、……すぐに沈む。あるはずのない記憶なのに、妙にリアルで恐怖が真に迫るようだった。訳の分からない絶望だけが、ナマエの中に残ってしまっている。
 震える己を掻き抱くと、異変に気づいたマールーシャが心配げな表情を浮べて覗き込んできた。その様子には、先ほど見た恐ろしげな貌の男はどこにもない。
「……どうした?」
「いえ、――なんでもなんわ」
 平静を装ってなんとか答えながら、ナマエの脳裏であの赤毛の男の言葉が繰り返し響いていた。

 ――仇?





 その頃、忘却の城は一人の来訪者を迎えていた。
 空色の瞳を持つ少年と、その一行。
 その少年こそが、鍵の勇者――。


***


 光の勇者は順調に、忘却の城の中を進んでいるようだ。このまま記憶の改編を進めれば、まもなく鍵は彼ら機関の手に落ちる。
 城の中の様子を映し出す水晶を眺めながら、マールーシャは人知れず微笑んでいた。ナミネの力は本物だ。それはナマエで証明済みだが、こうもうまくいっては笑いも起きようというもの。勇者の記憶を改編し、鍵を手に入れるのは機関の計画。だが無論、それに易々と従うつもりはなかった。
 ナミネは手中にある。彼が望めばマールーシャ自身が、鍵を手に入れる本人になれるのだ。


 勇者がこの城を進むためには、勇者の記憶から作ったカードが必要となる。その次のカードを渡す役には、同じく機関の仲間であるアクセルが選ばれた。
 だが、その前に云うべきことが一つある。ナマエのことだ。マールーシャの許可もなく勝手に接触したことを、彼は懸念していた。
「アクセル」
「あ?」
「お前、ナマエと接触しただろう」
「あー……」
 アクセルはばつが悪そうにぼりぼりと頭をかいた。が、マールーシャは追求の手をゆるめない。
「何を云った?」
 アクセルは挑発するように、にいと口の端を持ち上げた。
「別に? あえて言うなら、世間話?」
「ふざけるな」
 マールーシャが厳しい表情を作ると、アクセルはおどけたように肩を竦めた。
「おー恐い恐い」
 マールーシャの手からカードを奪い、トン、と弾むように一歩下がったアクセルは、腕を翳して闇の回廊を開いた。
「んじゃ、ちょっくらカードをあいつに届けてくらぁ」
 ひらひらと手を振りながら、アクセルはその場から消えた。

「それにしても、あんたって案外ひどい男よねえ。あの子がかわいそう」
 事の始終を見ていたラクシーヌが、つんとすました顔でマールーシャへと歩み寄る。どこか楽しむような彼女の声色に、マールーシャはため息をついた。またラクシーヌの悪い癖が出たようだ。
「なんのことだ」
「あんたの玩具のことよ。好き勝手に記憶を消されて、それでも従順にこんなひどい男に尽くそうとするなんて、不憫すぎて涙がでちゃう」
 わざとらしく目元を押さえたラクシーヌに、マールーシャは「やめろ」と強い口調で告げた。
「安っぽい三文芝居はよせ。ナマエはあれで幸せなのだ」
 ラクシーヌの態度が、妙にしゃくにさわった。彼女の言葉はマールーシャの行動を揶揄するものではあったが、ナマエに対しての心配りから来たものであることも恐らく一部は真実であろう。
 だが、他人などに心配されなくとも、ナマエのことはマールーシャが一番考えている。彼女に関しての進言は余計なお世話だった。
 ラクシーヌはどこかつまらなさ気に口をとがらせ、鼻をならした。
「ふぅん、幸せね。ま、どうでもいいけど」
 そう告げて、彼女もまた去っていった。

 今のところ、マールーシャの思い描いた通りに事は進んでいる。このままいけば、彼が力を手に入れるまでまもなくだ。
 そして、早く心をこの体に――。
 欲しいものを手に入れるためには、絶対的な力が必要なのだ。力さえあれば。そうすれば、いつ消えるのかという恐怖に怯えることもなくなる。心が手に入れば、彼は自由を得るのだ。




 アクセルから云われた言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
 ナマエは今日も庭園にいた。
 薔薇の選定をしながらも、その心は遠く先日会ったアクセルとの会話で占められていた。
 彼はあのとき、仇といったのだ。マールーシャのことを。だが、それが何故だかわからない。彼が仇であるはずないのに。
 けれど、それを考えようとすると、頭がぼんやりとしておぼつかなくなってくるのだ。
 仇ってなに? いったいだれのこと――?

 不意に背後から声をかけられたのは、その時であった。
「よう」
 赤毛の男は、この前と同様突然やってきた。
「……あなたはこの前の」
「また会ったな」
 手を挙げてアクセルが応える。
 だがナマエはその言葉に違和感を覚えた。この庭園をわざわざ訪れる人は、稀だ。だからきっとアクセルは、ナマエに会いに来たのだ。そう確信があった。
「……”また”? なぜ、偶然を装うふりを?」
 まっすぐ見つめて質すと、アクセルはおどけたように両手を振った。
「え? なんで? 偶然だってば」
 うそよ、とナマエは静かに糾弾した。
「だってあなたは花を愛でるようには見えないわ」
 その言葉に、アクセルは意外そうに片眉をあげ、苦い表情で顎をさすった。
「手厳しいねえ」
 ナマエの追及に降参の態度を示したアクセルを、彼女は静かに見据える。
「――質問をしていいかしら?」
「質問? ……三個までなら受け付けるぜ」
 ふざけた態度に眉をひそめ、ナマエは尋ねた。
「私の仇って、なんのこと?」
 にい、とアクセルが笑った。
「さあて、なんのことかな?」
「ふざけないで、答えて」
 かっとなって質すも、アクセルは人を見下すような笑みをやめない。不愉快だった。
 静かに憤るナマエから、意外なほど強情な態度を見せつけられ、アクセルは仕方ないと言いたげに肩を竦めて降参した。
「怒るなって、悪かったよ。お詫びにとっておきの情報やるから、機嫌なおしてくれよお嬢さん」
 それすらもいったいどこまで信用できるものか。
「あんた、名前は」
「……? ナマエ
 素直に名を名乗ったナマエに対し、アクセルは内心で笑った。
「なあナマエ、この城の名前を知っているか?」
 ふるふると横に顔を降るナマエに、アクセルは一歩寄ってナマエの耳元でささやいた。
「忘却の城、だ」
 名の通り、記憶を失う城だ。
 その言葉に、ナマエの目が見開かれた。

 ――マールーシャは、あんたの都合の悪い部分の記憶を消そうとしているんだ。より従順に手なずけるためにな。文字通り、人形だ。哀れなもんだね。それによ、あんたの故郷を奪った奴が、あいつなんだよ。だからあんたにとっちゃ、仇、だろ? なあそうじゃねーか。あいつが憎くないのか――。
 ナマエはアクセルが語った言葉に、呆然と呟いた。
「……嘘」
 云うだけ云ったアクセルは、逃げるように姿を消した。ナマエは一人、庭園で力なく座り込んでいる。
 ――仇。ナマエは青年の言葉を反芻した。
 マールーシャはナマエの仇。それは真実だったのだ。ナマエの故郷を奪ったのが、彼、だったのだ。
 実際どんなことがあったのか、しかしこれまでの事を思い出そうとすると、霧に覆われたように不透明だ。ナマエの故郷は闇に覆われて、それでナマエはここにいる。でもどうしてだったか、どうしてそうなったか思い出せない。
 ナマエをこの城に連れてきたひとは――。
 マールーシャ。
 だめ、それ以上は思い出せない。
『記憶を消そうとしているんだ――』
 ちがう。もうすでに、記憶は消されているのだ。

 庭園から自室へと戻る道すがら、具合が悪くなって近くの扉にもたれた。
 あまりの事実に、体に力が入らない。
「どうして! マールーシャ……!」
 嗚咽をこらえて、もたれた扉を握りしめた拳でたたいた。乾いた衝撃音がした。
 ややあって、キイと静かに扉が開いた。
「あの、大丈夫ですか?」
 と、扉の奥から顔をのぞかせたのは、空色の瞳と蜂蜜色の髪を持つ、可憐な少女だった。
「あなた、だれ……?」





 ――ヴィクセンの計画は失敗に終わったようだった。レプリカは勇者の前から逃げ出して、行方が分からないままだ。
 これで計画の失敗を口実に、彼を始末できる理由ができた。
 マールーシャは一人、水晶の前で佇んでいた。
 突然地下から出てきたかと思えば、勇者を引き込む計画にしゃしゃり出てきたヴィクセンのことを彼は内心忌々しく思っていた。だが彼は愚かにも、自分の立てた計画で自爆したのだ。失敗は機関への反逆に等しい行為、そこを突けば、ヴィクセンは更に踊ってくれるだろう。
 突然背後で声が響いたのは、その時だった。
「ラクシーヌは口が軽いのが玉に瑕だな」
 振り返ると、そこにアクセルがいた。壁を背に、腕を組んでマールーシャを眺めている。いつの間に背後を取られていたのか。
 マールーシャが警戒の目を向けたが、それに構わずアクセルは一歩近寄った。マールーシャが眺めていた水晶を覗き込む。そこにはヴィクセンの姿が映っていた。
 ヴィクセンの姿を認め、アクセルはすっと目を眇めた。
「お前さんは最初の頃と比べて、確かに人間らしくなったよ。一体誰のおかげかな?」
「――アクセル」
「なんせ、こんなくだらないことを思いつくくらいだもんなあ」
 匂わせるような言葉に、マールーシャは身構えた。勇者を我が物とする計画が、ばれているのだろうか。だとすれば、アクセルは一体どう動くのか。
 マールーシャが見つめる中、アクセルはふっと笑って肩を竦めた。
「機関への反逆、随分と人間じみたこと思いつくじゃないか」
「……アクセル、お前は」
「なあ、一つ聞くが、これもあの娘のためか?」
 ちっ、とマールーシャは舌打ちした。
「アクセル、ならばどうするというのだ。私の邪魔をするというならば、容赦はせぬが、良いか」
 手をかざして大鎌を呼び出そうとするが、それより先にパシリと手を取られた。
「いーや待てよ、俺はあんたの計画に乗るぜ? 俺だって早く心が欲しいし、それに――」
 アクセルはニッと笑った。
「――面白そうじゃん?」




 夜半、ナマエはマールーシャの部屋で彼の帰りを待っていた。マールーシャが帰ってきたのは、日付が変わったころだった。
「マールーシャ、聞きたい事があるの」
 開口一番、ナマエは尋ねた。彼が疲れているだろうとの気遣いも、挨拶も二の次だった。
「どうした、そんな青い顔をして」
「私、この頃すごく記憶が曖昧になるの。どうして?」
 この質問に、マールーシャは暫し言葉を失ったように見えた。
 その様子を見て、ナマエは確信した。やはり、この人はナマエの記憶を消しているのだ――。
「マールーシャ、私、ここに居たら記憶を忘れちゃうの? 全部?」
「そんなことはありえない」
 すぐに気を取り直したマールーシャが否定するも、ナマエはもうその言葉は信じられなかった。
「ナミネに会ったわ」
「っ!」
 マールーシャが一瞬声に詰まる。
「……では、すべて聞いたのか」
「ええ、貴方が私の記憶を消すように命じたと」
「……」
「本当、なのね」
 黙り込んだマールーシャに、ナマエは肩を落とした。彼を無心に信じていた自分に呆れる思いだった。
「馬鹿だったわ。少なくとも私はあなたに悪いようには思われていないと思っていたのも、全部私の勘違いだったんだ。私は、ただの実験体だったのね」
「違う」
 すぐさま否定したマールーシャを見上げ、必死な思いで尋ねた。
「違う? ……じゃあ、私はあなたにとって」
 ナマエは喉をならした。今までずっと、尋ねるのが恐ろしかった質問だった。
「――あなたにとって、なに?」
「……」
 だが、マールーシャはこの質問に答えてくれなかった。ただ、沈黙だけが落ちる。
「答えてくれないのね」
 瞼を伏せ、ナマエは沈黙から逃れるように顔を背けた。
「別にいいの、実験体でも。それで、私があなたの役にたてるんなら」
ナマエ
「私、ずっとマールーシャに助けられてばかりだったから」
 でも、と振り返る。
「ひとつ教えて。私の記憶はどうなるの。全部消えちゃう? あなたのことも忘れちゃうの?」
「無論、全て忘れるわけではない。だが、お前にとって都合の悪い記憶は消してやりたいと思う」
 その言葉に、ナマエは絶句した。
 彼にとって、一体自分とは何だったのだろう。勝手に記憶を消されて、都合のいいようにしつけられて、ただの人形にでもするつもりだったのだろうか。そう、アクセルが云ったように。
 マールーシャはナマエが顔を青くして凍り付いている様子に、彼女の拒絶を感じ取って、首を振った。
「嫌なのか? 哀しい記憶はすべて忘れられるのだぞ。事実、お前は悪夢に魘される事もなくなった」
「……悪夢?」
「お前は私のことだけ覚えていれば良い」
 それ以外は必要ない。そう断言したマールーシャに、ナマエはカッとなった。
「どうしてそんなことを言うの!」
 激情に任せてマールーシャの胸元を叩く。
 と、彼がそのナマエの手を取って、彼女を覗き込んできた。
「……お前が私の傍らにいる上で、過去の記憶など何の意味がある」
 強い眼光が、ナマエを見据えて非難している。
「私の元の名など求めてどうするつもりだった? 私の過去を知ってどうなる。あれは私ではない私だ、全く別の人間だ。それをお前は求めるのか」
 ナマエは息を呑んだ。彼の元の名前を聞いたことを、マールーシャは不快に思っていたのだ。
「どうしてよ、過去があるから今があるのに。だから、大切にしなきゃいけないものなのに。マールーシャ、何より大切な貴方の過去だからこそ私は――」
 知りたいと思ったのに。彼のことならばすべて知っておきたかった。だって愛しているから。
 でも、マールーシャはそれすらも否定している。
「私たちが一緒に過ごした時間なんて、貴方にとってはどうでもいいんだわ!」
「――私は」
 マールーシャはふと云いあぐねた。
「ノーバディにとっては、記憶は何よりも大切なもの。だが」
「そうじゃない!」
 ナマエは首を激しく振って、マールーシャの言葉を遮った。
「……好きよ、大好き。愛してる、マールーシャ」
 縋るような視線を向け、ナマエは彼の胸元に頬を寄せた。
「ねえ、分るでしょう? 私は、貴方が大好きなの、ずっと傍にいたいと思うくらい。でもあなたは――」
 そして、見上げる。
 マールーシャは厳しい表情で、ナマエを見下ろしていた。
「……、何度も同じ事を言わせるな、私には――」
「こころがない?」
 ふ、とナマエは諦観の笑みを口元に浮かべた。
「でも、少なくともマールーシャは私をハートレスの餌食にはしないわ。守ってもくれているわ」
 決して泣くまい、とナマエは内心誓った。この人には大事な心がない。でも、ナマエに向けられる彼の視線は、時折勘違いさせるほど愛情にあふれていることがある。それを一筋の希望として、縋りたかった。
「そうでしょう……?」
 しかし、マールーシャの答えは、ナマエの期待通りのものではなかった。
「……。お前は、私がお前の事を愛しているとでも云わせたいのか?」
 マールーシャは厳しい表情のまま、ナマエを責め立てるような口調で口を開いた。
「お前は、私がお前に偽りを告げる事を、良しとするのか? それでいいのか?」
 その愛は偽りだ――。そうはっきりと告げられ、ナマエは口許を戦慄かせた。衝撃のあまり、手が震える。
「……分らないよ、マールーシャには、分らない!」
 カッとなって、思わず叫んだ。
「私は人形なんかじゃない……っ!」
 瞬間、空気が冷えたような気がした。
「それを誰に云われた?」
 手をきつく掴まれる。その力の加減に、ナマエは顔をしかめた。
「離して」
ナマエ
「誰でもいいでしょ! 離してったら」
「云わないのなら、体に聞くまでだ」
 そう告げて、マールーシャは近くのソファにナマエを押し倒した。ナマエは必死に逃げ出そうとする。
「……いや、止めて!」
ナマエ
「したくないの、お願い、マールーシャ」
 ふ、とマールーシャは皮肉交じりに微笑んだ。
「その願い、聞き届けられると本気で思っているのか?」
「……っ」
 冷酷な声色に、ナマエの理性は吹き飛んだ。
「私の記憶を返して! 返してよ!」
 叫ぶと、パンと耳元で音がなった。頬をぶたれたのだ、と理解するまで、数秒かかった。
 信じられない思いでマールーシャを見ると、彼は震える手を抑えて、苦しそうな表情で口を開いた。
ナマエ、私にこんなことをさせるな」
「私のせいなの……?」
 茫然と呟くと、マールーシャは瞼を伏せた。
「私はお前に、」
 優しくなりたい。

 伸びてきた手が、ナマエの服に掛けられた。


***


 目が覚めて、全身が痛んだ。
 隣にマールーシャはいなかった。
 昨夜手ひどく扱われたせいで体はぼろぼろだった。立ち上がるのすら億劫だ。手首には拘束された跡が生々しく残っている。それでもなんとか起き上がり、身に纏うものを手繰り寄せた。身になじんだ黒いコート。それを震える手で、身に纏う。
 そういえば、以前着ていた服はどうなっただろうか。大切にしまってある私服を思い出して、クローゼットの中を探した。だが、どこにもない。
 たしかにここにしまっておいたはずなのに。
「う、」
 どこにも、ない。
「うわあぁぁっ!」
 耐えきれず、ナマエは泣きわめいた。クローゼットの黒いコートを床にぶちまけて、そこに突っ伏して無茶苦茶に泣いた。

 ふと耳慣れた重低音の後に、カツリとブーツの音がした。
「おバカな子。だから云ったのに」
 続いて聞こえてきた声に、ナマエは何とか顔を上げた。そこには黒いコートを纏った女が立っていた。
「ラクシーヌ」
 呼びかけにふと笑い、ラクシーヌはしゃがみ込むナマエの隣に膝をついた。
「あんたのことは、かわいそうだとも思うわ。ほんとうは、そんなに嫌いじゃないのよ」
 ぼろぼろと涙をこぼすナマエの頬に、ラクシーヌが触れる。
「どうしてあんな奴の側にいるの? あんた、被害者なのよ」
「被害者……?」
 そうよ、とラクシーヌは静かに頷いた。
「あいつは傲慢で自分勝手、あんたのことなんかこれっぽっちも考えちゃいないって、前に言ったわよね。ああ、記憶を消されているんだったっけ」
 哀れみ混じりの笑みを浮かべ、ラクシーヌは厳しい表情を作った。
「なぜ、逃げなかったの」
 つい、とラクシーヌの指先が、ナマエの顔の輪郭を辿って、顎を持ち上げる。
「心がないあいつに同情でもした? それとも本当に愛してるとでもいうの?」
「だって、彼は私を助けてくれたわ」
 反射的につたない言葉で告げると、ふふ、とラクシーヌは笑った。
「そうね。でもあんたの故郷を滅ぼしたのはあいつよ」
「彼は、側において守ってくれたわ」
「ほんとうに?」
「優しくしてくれた」
「そうかしら」
「彼は、……」
 言葉に詰まったナマエの様子に、ラクシーヌはクスクス笑う。まるでナマエを追い詰めて楽しんでいるようだ。いや、事実追い詰められているのだ。
「ほら、もうないの?」
 楽しげな笑みに、ナマエはとうとう首を激しく振った。
「もうやめて! わかったから!」
 それ以上、云わないで欲しい。だって分かっていたから。この愛は、真実の愛ではないことに。
「私は彼に従順でなかったら、すぐに捨てられていたわ!」
 なにもかも保身のためだった。本当に心から愛していたわけではないのだ。




「ナミネ、ナマエの記憶をすべて消せ」
 ナミネのもとを訪れたマールーシャは、開口一番そう告げた。
「え? でも」
 ナミネは戸惑って、首を傾げた。
「いいの? マールーシャの事も、忘れちゃうのに」
「構わん。今があればいい」
 それ以外は必要ない。
 云いながら、脳裏に甦ったのは昨日のナマエの言葉。
『……好きよ、大好き。愛してる、マールーシャ』
 マールーシャはナマエの記憶を改ざんしてまでも彼女を側に置くことを望んだ。しかし偽りの愛を告げることだけはためらった。
 愛だと――? 
 だが、マールーシャにはそんなものは持ち合わせがない。花も、ナマエも、結局は支配して楽しんでいるのだ。愛ではない。愛などない。そもそも、心がないのだから。
 彼女との関係が、彼には心地良すぎたのだ。それだけだ。
 だがなぜ、彼女の涙にはこんなにも動揺させられるのか。肝心なところで彼は理解できない。腹立たしい。傷つけてめちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られてしまう。それとは逆に、無性に優しくしてやりたい気もする。
 心が欲しい。紛れもないただ一つの、こころが欲しい。
 ――私の中のなにかが、こんなにもお前を求めている。気が狂いそうだ。
 彼女の心がほしい。
 飢えにも似た思いが、昨夜、彼にナマエの肌に指を掛けさせた。彼の力があれば、えぐろうとすれば肉ごとえぐれた。だが彼はそうしなかった。彼女の瞳から光が失われるのを、恐れていたからだ。

 彼女が離れていくのが。
 彼女を失うのを、何より恐れていたんだ。

 瞬間。
「――!?」
 マールーシャは勢いよく振り向いた。
 ナマエが、結界の外に飛び出る気配がした。
「マールーシャ!?」
 闇の回廊を急いで開いて、その中に飛び込む。ナミネの声が、響いた。

 回廊を通ってナマエの気配のする場所へ飛び出ると、彼女はちょうど階段を降りようとしているところだった。そこから先は、出入りを禁止していた場所だった。
 振り返ったナマエはマールーシャを認めて、青い顔のまま再び階段を降りようとした。すんでのところでその腕を取り、彼女の体を引き寄せマールーシャは厳しく質した。
「何処へ行く?」
 のぞき込んだ彼女の顔には、涙の跡があった。
「ここを出るのよ。これ以上ここに留まって、大切な思い出をなくしたくないから!」
「出られると思っているのか」
「出られるわ!」
 激昂したナマエは思わぬ力でマールーシャの腕を振り払い、階段を下っていく。
「ちっ、……愚か者め」
 舌打ちをし、マールーシャがそれを追った。

 階段を降りると、そこにラクシーヌがいた。彼女は背後にナマエをかばうような形で立っている。
 ラクシーヌはマールーシャに気がつくと、ニヤリと楽しげに笑った。まるでナマエの逃走劇を楽しんでいるように見える。
「ラクシーヌ、邪魔をするな!」
 彼女は雷撃をバリアのように周囲に張っていて、容易に近づけないようになっていた。
「ほら、今のうちに行って行って」
 マールーシャがバリアを破ろうとしている間に、ナマエはラクシーヌに促され、次の階へと下っていった。
「待て、ナマエ!」


 駆け足で階段を下ったナマエは、扉の手前の柱にもたれるように立っているアクセルの存在に気づいて足を止めた。彼はナマエを止めにきたのだろうか。振り切れるだろうか。
 その心配は、しかし杞憂に終わった。
「ほら、こっちだお嬢さん」
「あなたは」
 男の手招きの仕草に気づいて、ナマエは警戒しながらも近寄っていく。
「出てくのか。やっぱり、あいつに愛想をつかしたんだな」
 アクセルはナマエに一枚のカードを差し出した。
「この城はタダじゃ出れねえ。ほら、こいつを使うんだ」
 ナマエの記憶から作られたカードは一枚。これを使えば、外に出られる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 カードを受け取ったナマエは礼を述べ、扉の前へと急いだ。カードを翳すと扉が開き、その中へと飛び込んだ。

 ナマエの姿が扉の奥へと消えるのを見ていたアクセルは、ふいにぼそりと呟いた。
「あんたがいちゃ、どうもやりずらいんでね」


 扉の向こうは、懐かしい故郷の風景が広がっていた。だが、単に懐かしいだけでは済まなかった。ナマエが立つ浜辺には、無数のハートレスが湧いていたのだ。ナマエの故郷を襲った闇、それがハートレス。
 彼らはナマエの存在に気づくと、獲物を見つけた獣のように次々に飛びかかってきた。
 それをナマエは交わしていくが、数が多い上にすばしっこく、しまいには転んでその上から押しつぶされるようにのし掛かられてしまった。
「このっ、どいてよ、バカっ! ばけもの!」
 必死になって振り払おうとするも、重たくてかなわない。
 と、その鋭い爪がナマエを襲う瞬間。
ナマエ!」
 響いたのはマールーシャの声。とともに、振り降ろされた大鎌がナマエの上に乗りかかるハートレスを一掃した。
「いくらハートレスを詰っても意味はないぞ、ナマエ
 静かに告げるマールーシャの表情には、哀れみが浮かんでいた。
「奴等はこころがないのだからな」
「マールーシャ……」
 身を起こしたナマエは、呆然と彼の名を呼んだ。必死になって逃げ出したのに、もう追いつかれてしまった。
「愚かだなナマエ、何も持たずに飛び出すなど、このまま奴等の餌食になるつもりだったのか?」
「そんなこと!」
「お前の居場所は私の側以外には――」
 云いかけ、口をつぐんだマールーシャは、ナマエに向かって手を差し伸べた。
「来いナマエ
 だが、ナマエはふるふると首を振った。
「いや、もうマールーシャの元には戻らない!」
「……来いといっている」
 激しい否定に、マールーシャの声に剣呑な色が含まれる。
 ナマエはしかし臆しなかった。今まで云うべきだった我慢してきた事を、ぶちまけた。
「いや、もういやなの! あなたの側は、疲れるの。ぼろぼろだよ!」
 ナマエにとっては、恐怖から芽生えた愛だった。けれど、それは決して偽りではない。本当に愛していたのだ。それは後ろめたい愛だったけど、愛ではないと否定するには想いが強すぎた。
「私、人形じゃないの! ちゃんと心があるの、だから愛してるって云って欲しいよ!」
 ナマエの心からの希求に、しかしマールーシャは応えられない。
「愛だと」
「だって、幾ら愛しても、愛されないなんて」
「……」
「もう、疲れたのよ……」
 それが本音だった。一人であがいて、一人で絶望して。もうたくさんだ。
「――ならば、出て行くが良い」
 マールーシャの冷淡な声色が響く。
 顔を上げると、彼はこちらに背を向けていた。
「私には、愛せるこころがないのでな」
 冷たい声が、冷酷に事実を告げる。
 ナマエはその言葉に、俯いて涙を流した。これでもう、二人は決定的に決別したのだ。

 ふと、思い出したようにマールーシャは口を開いた。
「……餞別に教えてやろう。お前の故郷は滅びてなどない。光の勇者が、世界を救ったのでな」
「え?」
 聞き返したナマエの耳に、ブウン、となじみのある重低音が響く。顔を上げると、マールーシャの傍らに、闇の回廊ができていた。
「ここを通っていくがいい、お前の故郷に繋がっている」
 振り返ったマールーシャは、茫然と座り込むナマエの腕を取り、引き立てた。
「――この道を抜ければ、闇の世界での出来事は、すべて忘れていよう」
 マールーシャの微笑には、哀切が漂っている。
 と、ぐい、と腕を引かれ、つかの間抱きしめられた。愛しい温もりに、ナマエはそれにあらがう事を忘れた。
 顎をとられて、美しい蒼の瞳が近づく。
 ハッとした時には、唇を奪われていた。
 そして、
「あ」
 ドン、と押され、ナマエの体は狭間の世界に突き落とされた。
「……まっ」
 回廊の入口が閉まる。愛しいマールーシャの姿が遠ざかる。瞬間、ナマエは手を伸ばした。
「――待って、マールーシャ……っ!」
 ただ、愛して欲しかっただけなのに。偽りでも、愛してると云ってくれたらよかっただけなのに。あなたはとても律儀だから、嘘はつきたくなかったのだろうけれども、それでも。
「マールーシャ――!」
 どうして、上手く行かないんだろう。
 どうして。



絶対に無理だと証明する方が、実ははるかに難しい