絶対に無理だと証明する方が、実ははるかに難しい。
コツ、コツ……。
靴の音、――誰かいる。
深い闇の中、浅い眠りに落ちていた金髪の少女は不意に侵入者の存在を察知し、目を開けた。寝ぼけた眼をこすりながら身を起こすと、入り口にたたずんでいる人影にすぐに気づいた。
かすかな芳香。この人は。
「――マールーシャ?」
呼びかけに応えるように、コツリとまた靴の音がした。月の光が、その人物の正体を浮かび上がらせる。薄紅色の髪の持ち主は、彼女の良く知る人物であった。
ナミネ、と低く冷ややかな声が少女の名を呼ぶ。
続いた言葉は、やはり冷たく、そして唐突であった。
「ナマエの過去の記憶を消せ」
「え」
戸惑った少女が咄嗟に壁の時計に目を走らせる。――午前二時、真夜中。
「……いま?」
「そうだ」
有無を言わせぬ気迫を感じ、少女はたじろいだ。すでに眠気は吹き飛んでいる。
「でも」
「でもはいらん。お前はただ、言われたことを実行すればいいのだ」
反駁はぴしゃりと封じられ、少女はびくりと身を震わせた。もとより彼の命令に逆らうことなど、許される立場にない。ややあって少女は、わかりました、と力なく言った。
「どの記憶を、消すの?」
その言葉に、彼は――マールーシャは、その冷たい宝石のような蒼の瞳をゆっくりと細めた。
「出会い、を――」
――ナマエとの出会いは、今でも良く思い出す。
初めて出会ったのは、数度目の任務の時だった。
当時彼は機関の中でも新参者で、与えられる任務は単純で単調なものばかりだった。ノーバティとして生まれた時より既に強力な力を持っていたマールーシャにとっては、つまらない任務であることこの上ない。
正直、飽いていたのだ。
これほどの力を持ちながら生かす機会のないことに、そしてうまく采配をふるうこともできぬ無能な上のものたちに。統率が取れねば、機関は単なる集団でしかない。彼の目には、心を得るという彼らの掲げる目的など到底実現不可能に見えていた。
いくつかの星を消滅させた後、彼はまた任務を受けた。いつもと同じ、簡単な任務だ。
降り立った世界は、小さな島が集うささやかな世界だった。輝くエメラルドグリーンの海に囲まれた島々は緑豊かで美しいものだったが、それはじきに彼ら機関の働きによって黒く染まっていった。さしたる抵抗もなく、あっけないものだった。そして僅か数日の間に、世界は滅びの日を迎える。
その星の、最期の日だった。
その地に降り立つと、すでに町には無数の闇の魔物がどこからともなく押し寄せ、人々は逃げ戸惑い混乱に陥っていた。ハートレスは牙を剥いて次々と人々の心を狩り、そして心をなくした人間が新たなハートレスへと生まれ変わっていった。美しかった町並みは増幅する闇に侵され、既に半分ほど飲み込まれている。
ひどい光景だった。だが、何を見ても彼の心は痛まない。
無差別に襲い掛かってくるハートレスを切り裂きながら、あてどなく逍遥した。助けを求めてくる人間は、もうほとんどいなかった。彼らは闇に飲まれたのだ。先ほどから聞こえていた悲鳴は遠のき、あたりは闇のうごめく音が不気味に響くのみだ。
静かだった。
だが、そう思ったときに耳に届いたのは、紛れもなく人の悲鳴だった。
振り返ると、ハートレスに襲われ倒れこむ一人の女の姿が映った。まだ、生き残りがいたのか。哀れなものだ、頭の隅でそんなことを思ったが、別段それは気にすべき存在ではなかった。
彼女の体は闇に引きずられ、取り込まれようとしている。放っておけば、じきに闇に帰る存在だ。現に、彼女の体にはすでに闇が侵食し始めていた。
だが。
ふいに彼女は顔をあげ、彼の存在を認めて瞠目したようだった。
目が合う。
ひどく怯えた目だった。
『貴様、この星の生き残りか』
マールーシャはなぜか興味をそそられ、声をかけた。返答はなかった。が、かすかながらその瞳に光が戻ったのを覚えている。それは僅かな光だったが、それでも彼を何らかの助けである、と認めたのだろう。
『た、すけて』
か細く、今にも消えてしまいそうな声で。必死なまなざしで、全身で彼に助けを求めてきたのだ。
それが、――ナマエだった。
おろかな人間だ、私のことを、敵だとも思わないのか。そう思ったのを覚えている。
……無論、助けるつもりなど毛頭なかった。あたりまえだ、彼の任務はより多くの心を得ることなのだから。それに、ナマエは気づいてはいないようだったが、あの時すでに彼女の肉体は消滅しようとしているところだったのだ。
けれど。
いざ、マールーシャの目の前に彼女のハートが現れた途端、彼は言葉を失った。彼女の心は純粋に美しかった。光を失いつつある彼女の中から浮かび上がった美しい薔薇色の心、不覚にもそれに見とれた。きらきらと輝きを放つそれは力強く、容易に目を奪う。
これが手に入れば、元に戻れるのだ。
手を伸ばしたのはほとんど無意識だった。奪おうと思ったのか、それとも単に触れようとしただけなのか自分でも分からない。わずかに触れた彼女の心はひどくあたたかかった。指先を通して、さまざまな感情が流れ込んできたのを覚えている。彼が持つことの叶わぬ感情、――あるいはやさしさ、あるいは悲しみ。耐え切れず握り締めた指先に、鋭利な痛みが走った。まるで心の欠片が、彼の中に突き刺さったようだった。
心を失いつつあるナマエの体の周りには、あの貪欲でしつこい影どもが際限なく湧き出ては、彼女の体を闇に引きずり入れようとしていた。彼女の体は、意思とは反しすでに抵抗を諦めかけており、絶望に満ちた瞳でマールーシャを見ていた。光を失った両目から、涙があふれていた。
『たすけて……』
それでもなお、彼女の意思は助けを求めてあがいている。
膨張した影の手が、彼女の心へとゆらりと伸びはじめた。生まれつつあるハートレスが、貪欲に心を求めているのだ。彼らは実に欲深で、醜い。見るに耐えないほどに。
凝った闇の手が光り輝く心に触れようとするのを見て、思わず眉をひそめて呟いた。
『……シャドウ風情が、生意気にも心を欲しがるか』
ここで、己が手を出すべきではないことはわかっていた。……だが。
――なぜこの時、この哀れな人間を助ける気になったのか、今でもわからない。
きっと、己の持つ記憶がそうさせたのだろうか。死に行く瞬間の、恐ろしい記憶が。それとも単に、あれほどに輝きを放つ心が闇によって汚されるのを見たくなかっただけか。そうであったような気がしたし、そうでないような気もした。
どちらにしても、この瞬間、彼女を助けられるのは自分だけであったし、また見殺しに出来るのも自分だけであった。
……逡巡はほんの少しだった。
そして、決断した。
『良かろう』
ほんのわずかの力をこめると、風圧が生まれ、それだけで彼女の周りに集っていた影はあっけなく霧散した。彼女の体を離れかけていた心は、また静かに体の中に沈んでいく。ナマエの瞳に光が戻る。その様子に、マールーシャはどこか安堵している自分を感じていた。
『――来い、助けてやる』
***
部屋に戻ると、ナマエはベッドの中で丸まって、安らかな寝息を立てていた。
マールーシャは静かに近寄り、ベッドの傍らに腰を下ろした。髪を梳いても目覚めぬほど、彼女の眠りは深い。小さな魔女の力は良く効いているようだった。彼女を苦しめる過去は消し去った。これでもう、悪夢を見ることもない。
強引なやり方であるとはわかっていた。だが、暢気に構えていられるほど彼には時間がない。もうすぐ世界は一人の小さな勇者によって、光を取り戻す。すなわち、再び黎明を迎えた世界の中に、彼ら機関が暗躍するチャンスが来るということだった。それはマールーシャにとっても、例外ではない。
彼はおもむろにナマエの髪を掻き分け、現れた細い項に指を滑らせ唇を落とした。彼の指は項から鎖骨、胸元へと器用に移動し、その柔肌を楽しんでいる。
彼がベッドの中に身を忍び込ませた時、気配を感じたナマエがようやくのように目を覚ました。
「ん、なに……?」
重い瞼を瞬かせながら、彼女が背後の男を振り返る。そのナマエの小さな顔を覗き込んだマールーシャは、顔を寄せて彼女の唇を塞いだ。腕の中にあった彼女の体が、少し驚いたように跳ねた。
「気にするな、寝ていろ」
唇を放し、ナマエの耳元でささやく。吃驚した彼女は一瞬眠りから醒めたようだったが、犯人の正体が分かるやいなや、にっこりと微笑んでみせた。
「おかえりなさい……」
彼はつられて微笑み、再びナマエの肌におぼれ始めた。彼女はそれにうっそりとまどろみながら、身を任せていた。
窓の外では、再び夜空に戻りつつある星々が彼らを静かに見下ろしていた。
ナマエを助けたマールーシャは、彼女を彼らの本拠地へと連れ帰ることにした。上のものから見咎められることは半ば予測済みだった。彼は当然ながら追及を受けたが、用意していた口上を述べるとあっさりと許可がおりた。ナマエの存在を歓迎したのが、主に研究員の面子だ。というのも、マールーシャの述べた言葉とは、
『貴方がたのどなたかが、人間の実験体が必要、とおっしゃっていたように私は記憶しているのだが』
だったからだ。権力におもねるやり方は好きではなかったが、だからといって出来ぬわけではなく、むしろ平然として彼は嘘を並べ立てた。元から得意だったポーカーフェイスは、ノーバディとなってより、さらに磨きがかかっているようだ。
だが、文字通り実験体としての存在を許されたナマエは、当然のように上のものに引き渡さねばならなかった。彼女は彼が拾ったもの――つまり己の物、を他人に譲ねばならぬのは内心面白くなかったが、ここで反抗するのは賢明ではない。
一方のナマエは、何のためらいも見せずに彼女を研究員に引渡した彼の存在が、実は味方でもなんでもないことに気づいて、愕然としているようだった。
『あなたは、味方、ではないの?』
縋るような赤く腫れた瞳に、彼は一瞬ながらも真実を告げることに戸惑いを覚えた。確かに己は味方ではない。だが、敵であるつもりはなかったのも、事実だ。
真実を知った彼女は激昂した。彼女が我を忘れて暴れ、とうとう首を絞められるに至ったのには流石の彼も少々手を焼いた。
『――うるさい女だ』
いよいよ手刀を叩き込むと、彼女はあっけなく意識を失った。
受け止めた体は羽根のように軽かった。
弱い生き物だ。こんな力のない体で、この世界で生き伸びられるものだろうか。唐突に、そんな思いがよぎった。
『威勢のよいことだ』
くつりと笑ったヴィクセンの表情が、少し不快だった。おそらく、いい実験体が手に入ったと内心喜んでいるのだろう。心など持たぬくせに、まるでモルモットを前にした狂気の科学者のような目をしている。彼にとって、この痩せこけた長身の男は、軽蔑すべき存在だった。
だがマールーシャはこの時、確かにその軽蔑すべき男の手にナマエをゆだねたのだ。
彼女を手放した後の触感がひどく冷え冷えとして、彼を一層不快にさせた。
ヴィクセンから苦情が来たのは、それからすぐだった。
呼び出され、彼のラボに向かったマールーシャが見たものは、心を閉ざしたまま昏々と眠り続けるナマエの姿だった。
『欠陥品だ』
ヴィクセンはナマエの横顔を見つめて、そう言い放った。
『欠陥品とは、どういうことだ』
『心が一部かけておる、これでは使い物にならん』
心が一部、かけて――。脳裏に、あの輝きを放つハートがぼんやりと浮かんだ。彼女の心に触れたあの時、何かが入り込んだような気がしたのは、単なる気のせいではなかったのだろうか。
『……彼女はどうなる』
『決まっておる、処分するのだ。こんな欠陥品なぞ、ハートレスにでも……』
『――ならば』
マールーシャは彼の言葉を強い口調でさえぎった。
『ならば、それを拾ってきた者にも責任があろう』
実験台に近寄った彼は、ぐったりとしているナマエの体を抱き上げ、ヴィクセンに振り向いた。
『これは私が引き取る』
『――なんだと?』
ヴィクセンは驚愕の表情を浮かべた。
『気でも狂ったか? マールーシャ』
『いいや、正気だ』
対称的に、マールーシャは微笑んでみせた。
『丁度、身の回りの世話をする者が欲しかったところだ。私にはまだ配下もいないゆえ、何かと不便だったのでな』
我ながら良く口の回る、マールーシャは内心己に感心ながら続けた。
『よろしいだろう? ヴィクセン』
返答など、はなから待つ気はなかった。彼は早速踵を返し、闇の回廊を開く。回廊を使えば、闇にナマエの存在を嗅ぎ付けられるかもしれなかったが、そうなっても彼の力で一掃すれば良いだけの話だ。
『それでは、失礼する』
闇の回廊へと足を踏み入れる。すぐに、その背をヴィクセンの声が未練がましく追ってきた。
『い、いかん、いかんぞマールーシャ! ゼムナス様の了承もなしに、勝手なことは許さんぞ!』
しかし彼は、小うるさい先輩のお小言になど、聞く耳は持ちあわせていない。振り向きもせずにそのまま回廊をくぐり、その場を後にした。
『……まったく、いったいあの新参者は何を考えておる』
一人残されたヴィクセンは、マールーシャが去っていったほうを見つめて忌々しそうにつぶやいた。
ヴィクセンの手から、己の物を無事に取り戻すことができた。
とはいえ。
そもそもマールーシャは、別段ナマエをどうこうしたくて連れてきた訳ではなかった。気まぐれに拾ってきたは良いが、さてどうするか。
マールーシャはとりあえず、目覚めぬナマエをベッドへと横たえた。彼女の若干青ざめた頬に触れ、その暖かさに思わず目を伏せる。心を持つ人間に触れるのは、久方ぶりだった。
この人間が、自分になにがしかの変化をもたらしてくれるとまでは思わない。せいぜいが、このつまらない日常を慰めてくれる良い玩具にでもなれば上々。心を持たない彼が、果たして心を持つ彼女を手懐けられるかどうか試してみるのも一興だ。彼にとって、退屈しない面白い遊戯にはなるだろう。彼女の存在は、少なくとも当分の間は決して邪魔にはなりはすまい。最初は、そんな程度のものだった。
目覚めた彼女は、傍らのマールーシャの存在を認め、警戒と憎しみを露にした。が、すぐに自分の置かれている状況を把握し、深く絶望したようだった。この状況から逃げる事はかなわないと分かるやいなや、今度は自分の殻に閉じこもった。
予想以上に、彼女は脆かった。
感情もなく、生気もなく、表情もない。殻に閉じこもった彼女の姿は、人形を見ているかのようだった。これではまるで心を持たない彼と変わらない。
こんなものか、彼はどこか醒めた目でナマエを観察した。期待していた、までとはいかずとも、せめて退屈しのぎくらいにはなるだろうと思っていた身としては、見込み違いもはなはだしい。
――ならば切り捨てるまで。簡単に折れるような弱い心になど、用はない。
かつて彼女の居場所があった星は、すでに彼らが奪っていってしまっている。ここで彼が放り出すことの、いかに無慈悲な仕打ちであるのかは分かっていた。ならば放置すればいい。捨て置いて、自滅するのを待つか。幸いにも彼は心を持たぬので、心を痛めずにそういうことが出来たのである。
だが、そうは分かっていても、なぜだかあの時触れた彼女の心が頭をちらついて、簡単に切り捨てることが出来なかった。なによりも、このままではせっかく救った心を、自ら闇に落とすことになりかねない。それだけは、我慢ならなかった。彼女があの時見せた、貪欲なまでの生への執着はどこへいったのか。
あるいは。
落胆は、とある思い付きを生んだ。再び彼女にとっての危機が訪れれば、あの時のように彼を惹きつける何かが顔を出すかもしれない。危機は人の本性を暴くという。彼は心を持たない身ではあるが、心を揺り動かす方法はいくつか覚えていた。たびたび無神経な言葉で、彼女の感情を大いに揺さぶった。
『……あなたは血も涙もない冷血漢ね』
『血も涙もある。心がないだけだ。お前と大して違わん』
『っ、大違いよ!』
それが功を奏したのか、しだいに彼女は感情を露わにするようになった。そして、それは彼女に思わぬ良い変化をもたらした。殻が、破られはじめたのだ。
感情を向けられることの、なんという懐かしさ。彼女が顔を真っ赤にして怒る時、決まってマールーシャはなぜか湧き起こる可笑しさをこらえ切れなかった。まるで失った感情の一部が、呼び起こされるかのようだった。アクセルが、新入りの教育係を任じられてからまるで人が変わったようだと聞いていたが、その変化を今なら理解できる気がした。彼は己の中で起こりつつある微妙な変化を感じながら、それを楽しんでいた。
ヴィクセンはあれ以来、彼女の存在が気になるらしく、時たま様子を見に来ている。彼女はあの男の顔だけは覚えているらしく、彼が現れると決まって借りてきた猫のようにおとなしくなっていたのがおかしかった。
とたんにナマエは、マールーシャにとって欠かせぬ存在となった。
とはいえ、彼がナマエの憎い仇であることには変わりはない。
『いやよ、こんなの着たくない。私の服を返して』
『何度言ったら分かる。そのコートがなければ、この世界ではお前は生きていけぬと』
『そんなの知らないわよ! 勝手に私のものを奪わないで!』
いちいち反発してくるナマエには手を焼いたものの、新鮮な反応を見せる彼女は生き生きとして彼を飽きさせない。あの輝くハートと同様、彼女の表情は彼の視線をたやすく奪う。
怒りを見せたと思えば、次は涙に変化し。
『……帰る場所が、ないの』
ならば、どこにも帰らぬがいい。ここにいて、退屈を紛らわせていてほしい。少なくとも、彼はナマエの敵になるつもりはないのだ。
指先でぬぐった涙は、彼女の悲しみそのもの。その一滴の雫の中に、なんと感情の満ち溢れていることか。マールーシャには、その一滴の雫ですら貴重なものに思えて、なぜか露を振り払うことが出来ない。
――手懐けるどころの話ではない。いつのまにか彼女に絆されている己がいて、マールーシャはひどくおかしかった。
だが、悪くはない。
抱き寄せた彼女の肢体は、想像以上に心地よかった。
『ナマエ』
彼女の名。
口にすると、彼女の心に触れた時のように失った何かが暖かくなるのを感じた。
***
時計の針は、そろそろ朝の時間を指し示しめそうとしていた。
だが、この忘却の城には陽は昇らない。どこまでも広がる宙にぽっかりと浮かぶ孤島のような空間なのだ。
目を覚ましたマールーシャは、隣で静かに寝息を立てているナマエを起こさないようにそっと体を起こした。
ナマエは己の身を守るように体を丸めて寝る癖がある。その横顔をそっと覗き込むと、涙の跡は見られない。どうやら安らかな眠りが彼女に訪れたようだ。
起こさない様に、指先でそっと頬をなぞる。くすぐったいのか、ナマエはふと笑みを零した。マールーシャはその安らかな寝顔を見つめながら、ここに来た当時のことを思い出していた。
光の勇者の活躍で、世界に光が戻ってきた。それと平行するように、忘却の城に一人の魔女が現れたのだ。
この城には世界の秘密が眠っている――ボスの指令を受け、機関のメンバーがこの城に入ったのは、数日前のことだった。
城は地下にも階層が広がっており、地上組と地下組、二手に住処を分けた。
地下の連中の目的は、人の記憶に関する研究だった。それと、魔女の力の解析。地下の研究者どもによると、魔女――ナミネは、どうやら記憶を操作する力を持つらしい。ナミネは可憐な外見の少女で、一見するとそのような魔力を持つようには見えなかった。
城に来てから数日経ったが、地下の研究者達に対して地上組は特別やることがない。同行していたラクシーヌはすることがない事に対して、不満を漏らした。
「んで、あたしたち、ここで何やっていればいいわけ? このままじゃ退屈で死にそうなんですけど」
「ゼムナス曰く――」
マールーシャは、ラクシーヌを横目で見ながら続けた。
「光の勇者が、闇の世界から帰還を果たしたようだ。だが、未だ光の世界へ戻る道を見つけられず、世界の狭間をさ迷っている」
地下の研究者達もめずらしくこの場に同席している。マールーシャは、ヴィクセンの陰気な顔に目をやった。
「我々は光の勇者をこの城に招待し、そして魔女の力を使って鍵を手に入れる」
「ふむ、あの魔女の力を使って勇者の記憶を操作し、機関の手駒にするつもりか」
ヴィクセンが少々感心するように、目を眇めた。
「しかし、魔女の力は未知数だ。記憶の操作は、うまくいくのか」
と、壁に背をもたれていたレクセウスが、静かに口を開く。確かにナミネの力は未だ謎な部分も多い。記憶の改編が上手くいくのか、試したことがないだけに不安要素が大きい。
しかしマールーシャには、一つ切り札があった。
「心配はいらない。実験体ならば、すでにここにいる」
「あんた、まさか」
ラクシーヌがはっとしたように息を呑んだ。
「ナマエで試させればいい」
マールーシャの言葉に、一同は妙に押し黙った。ナマエの存在は、機関の面子には既に知れ渡っていることだった。
「……まあ、そっちはそっちで上手くやってくださいよ。僕達は研究を続けるので」
ゼクシオンがため息をついて、その話はそれで終了だった。
後はナマエに悟られないよう、ナミネに少しずつ記憶を消させていった。
マールーシャとて、最初から実験体にしようとして連れて来たわけではない。だが、ナミネが記憶を操るときいて、あわよくばそれを利用しようと思いついたのは確かだ。
ナマエを苦しめる過去を少しずつ消して、幸せな記憶だけで埋めてしまえばいい。彼女への断りなど無論入れてないが、悪いことをしているつもりは毛頭なかった。もとよりナマエのためという気持ちが強い。
ナマエには、ナミネに会わせてはいない。接触は極力避けるつもりだった。
と、ふいにナマエの瞼がゆっくりと開いて、マールーシャは物思いから抜け出した。
目が醒めたナマエは、マールーシャを認めて幸せそうに微笑んだ。
「……おはよう、マールーシャ」
おはよう、と彼は笑んで応えた。
「よく眠っていたようだな」
ナマエは潤んだ目元を擦りながら、うん、と素直に頷いた。
「悪夢は見なかったのか?」
「悪夢? 何のこと?」
「――いや」
なんでもない、と彼は微笑んだ。
ナミネによるナマエの記憶の改編は、順調だった。
彼の脳裏には、ある計画が浮かんでいた。
彼がその計画を思いついたのは、ある意味必然だった。ナミネの力を使って勇者の記憶を操り、少年を機関の操り人形にする。そこまでは機関の計画だった。だが、勇者を手に入れられれば、世界の心への道のりはすぐそこだ。
だから勇者を機関の操り人形にするのではなく、マールーシャの操り人形にすればいい。そうすれば気に食わない者達に追従しなくても済む。そして彼が心を手に入れるまでの道のりも、俄然近くなる。
勘の鋭いラクシーヌには、すでに計画に気づかれているようだった。それとなく彼の計画の内容を示唆され、彼は彼女を仲間に引き入れることにしたのだ。
――あるいは、彼女も最初から同じ事を考えたか。
ふっ、と己の考えに鼻を鳴らす。マールーシャの胸板に身を預けていたナマエは、不思議そうに顔を上げた。
「ナマエ」
「なあに? マールーシャ」
素直な反応。彼女は以前と比べて、随分と甘えた声を出すようになった。
「なにか、足りないものはないか。不自由なことがあればすぐに言え」
「ううん、なにもないわ。今のままで十分」
「ずいぶんと欲の薄いことだ」
彼女は微笑んだ。
「ナマエ」
マールーシャは彼女のおとがいをそっと指で掬った。
「……幸せか?」
「ええ。大好きよ、マールーシャ」
その答えにマールーシャは満足して、彼女の唇に己のそれを落とした。
――狭間の世界をさ迷っている光の勇者が、今頃何も知らずにこちらに向かっているだろう。上手く誘導して、この城に誘い込まねば。
マールーシャは、部屋で一人ナミネのこれまでの実験データを眺めていた。
ナマエはお気に入りの、マールーシャの庭園に花の手入れに行っている。
ナミネによるナマエの記憶の改編はすこぶる順調だった。特に副作用も出ていない。彼女は以前よりも心穏やかに日々を暮らしている。
そのうち己以外の過去の記憶は、全て消すつもりだ。それはナマエのため、というのは殆ど方便で、ただ単に帰郷心を起こさせないためだった。光の勇者の活躍のお陰で、いまや一度消滅したナマエの居た世界は元に戻ってはいたが、無論それを彼女は知らない。
ここまでナミネの力がうまく効いているのも、ナマエに光の勇者とのつながりがあるためだ。彼女は勇者と故郷を同じにしている。そのことに気づいた故に、実験体にしたのだが。
と、ふと背後に人の気配を感じた。振り返ると、逆立った赤毛の男が、マールーシャの手元のデータを覗き込んでいる。
「それ、ナミネの実験データか。あんた、まだあの人間を傍に置いてるんだな。ったく、よく持つねえ」
遅れて忘却の城に配置されたメンバー、アクセルだった。
油断ならない男だ。ち、とマールーシャは舌打ちし、彼の視界から手元のデータを隠した。彼にはナミネの監視を任せてあるはずだったが。
「何の用だ、ナミネの監視はどうした」
鋭く睨みつけると、アクセルはおどけたように肩を竦めた。
「おいおい、威嚇しなさんな。監視役はラクシーヌに交替したよ。俺はただ……そうだなあ、与太話でもしにきたってわけだけど、付き合ってくれねえか?」
「くだらん。私の邪魔をするのならば、とっとと出て行け」
マールーシャが立ち上がって警戒をあらわにすると、アクセルは両手を挙げて降参の意を表した。
「おーっと待った! 何焦ってるんだよ。それとも、他人に見られたくない事でも隠しているのかい?」
ニヤリ、と口の端を歪めて、アクセルはマールーシャを見据えた。
「たとえば、――その手の中のデータとか」
『あんた、ちょっと変わったよな。こう、人間臭くなったっていうか。以前は俗世の事なんか興味ないってな澄ました顔してたくせによ』
アクセルの去った部屋で、マールーシャは一人佇んでいた。
『なに企んでいるんだか知らねぇが、面白そうな事なら是非俺も混ぜてくれよ?』
去り際のアクセルの言葉が、彼の脳裏から離れない。彼は、マールーシャの反意に薄々気づいているような口ぶりだったが、果たしてどうなのだろうか。
だが、アクセルの言う通りだった。以前の自分ならば、謀反など思いつきもしなかっただろう。
ナマエと出会ってから、何かが狂い始めた。ナマエの心に触れてからだろうか。ヴィクセンが彼女の心が不完全と云っていたが、彼にはその原因に心当たりがあるように思えた。あるはずのない彼女の記憶が、心の欠片が、彼の中にあるような気がしてならない。
彼女は、せいぜいが手慰み程度になればと拾ったはずの玩具だった。だが、彼はナマエを捨て置けず、彼女に居場所を与えた。彼の力に守られた場所で、一番安全な場所を彼女に与えたのだ。それをナマエは知らないし、知らせようとは思わなかった。
ナマエに触れるにつれて、さまざまな感情が芽生えはじめ、それが時折彼を煩わせた。彼女の存在が彼に影響を与え始めていることに、彼は自身で気がついていた。一番顕著だったは、彼の失った感情が再び花開いたことだった。喜びを思い出し、怒りを思い出した。
そして――。
「……確かに、私らしくない」
元々これほど心を取り戻すことに執着を覚えることなどなかった。だが。
……いつのことだったか、偶然耳にしたナマエと機関の人間の会話の中で、ずっと胸に引っ掛かっている言葉がある。
いつものように庭園にいたナマエを尋ねたマールーシャの耳に、慣れた声が届いた。
『……誰?』
思わず足を止めた彼の耳に次に届いたのは、男の声だった。
『あ、ごめん。誰がいると思わなくってさ』
飄々とした軽い声は、デミックスのものだとすぐに分かった。
『で、君誰?』
『ナマエです。マールーシャの……お世話係?』
『ふうん。あ、俺、デミックスって云うんだ』
と、随分と親しげに声を交わしているものだから、マールーシャは顔を出す機会を逸したままになってしまった。
『デ、デミックス?』
ナマエの戸惑った声。彼女の戸惑いを察したのか、デミックスはおどけたような声を出した。
『へへ、変な名前だろ。俺もあんまり気に入ってなくてさあ、でもボスから直接頂いたありがたぁい名前だから無下にもできなくて』
『大変なのね』
元から人になじみやすい性格の男だ、彼の前ではナマエはすっかり警戒を解いているようだった。
『俺達の名前はね、元々の名前に”X”を足して――』
しかし機関の秘密をぺらぺらと喋るのだけは、いただけない。
ふいにデミックスは、重大な秘密を打ち明けるようにナマエに耳打ちした。
『だから、俺の本当の名前は――』
本当の名前。花の影で彼らの会話を聞いていたマールーシャは、その言葉に胸に陰りを覚えた。
『――あなたはどうしてここへ来たの?』
『昼寝しに来たんだ。ここでの昼寝は最高に気持ちいいんだ。君も一緒にどう?』
どうやら度々花が踏み荒らされていたのは、この男が犯人だったようだ。マールーシャが内心忌々しく思っていると、ナマエの遠慮げな声が届いた。
『ううん、魅力的なお誘いだけど、この後お花に水をやらなきゃいけないの』
『水遣り? なら、まっかせてよ』
『――わあ、すごい』
ナマエのはしゃいだ声。デミックスが力を使って庭園中に水を降り注いだようだ。顔を上げれば、小さな虹がそこに掛かっていた。
――本当の名前。ナマエが拘ったマールーシャの元の名前。
それが喉に引っ掛かって、彼から冷静さを失わせていく。
厳密に言うのならば、この体は心を失う前と別の体だ。万が一己の心を取り戻した場合、今の体と記憶はどうなるのだろうか。
この体が心を失って生まれた体ならば、この体は本当の体ではないのだ。
指先に痛みが走る。ナマエの心に触れた指先が、熱い。
本当の自分がいるのならば、ここにいる自分は偽りなのだろうか。この存在は本当の自分のものにはなりえるけれども、本当の自分は偽りの自分のものにはなりえないとマールーシャは考えていた。
己の心を取り戻すことは難しい。だがもし本当に取り戻せたとしたら、自分はナマエを失ってしまうに違いない。
だから、この『偽りの自分』が完全体にならなければいけなかった。マールーシャの記憶は、マールーシャだけのものだ。
『早く心が手に入って、元に戻るといいね』
何も知らず暢気なナマエの言葉が腹立たしい、と同時に、憐憫さえ覚える。彼女はこの上なく厄介なものに掴まってしまったのだと。だが、手放す気は毛頭無い。
アクセルは果たして信頼できるのか。マールーシャの計画に気づいているのならば、味方に引き込むか、または状況如何によっては始末せねばならないかもしれない。
マールーシャはつと顔をあげ、手を振り上げた。重低音と共に、目の前に回廊が開く。その混沌とした渦に、彼はためらうこともなく身を滑り込ませた。
向かうは、草原をさ迷う光の勇者の元――。