そしてこれから幸せになる。
だから明日を求めてる。
『……本格的に心を取り戻そうと決意したのは、あの時だった。
あの時、私はお前の愛に何も答えることが出来なかった。
言葉にすることは簡単だ。だが心のない私が愛を口にすることの、どれほど欺瞞にあふれていることかは私自身が一番感じていることだった。
だから私は決意した。
裏切りさえもいとわない。
消えられない、とこれほどまで思ったのは、後にも先にもあのときだけだった。
この手紙が願わくはお前の元に届くように……いや、届かないほうがよいだろうな』
浜辺に漂着したボトルに詰められていた手紙を読み終え、ナマエは自然にあふれた涙を拭った。
ここはナマエが住む場所の中で、一番お気に入りの浜辺だった。いつものように朝の散歩に出かけたら、ふと海沿いに一本のメッセージ入りボトルが着いていたのを見つけたのだ。手紙には宛先も差出人にも、書かれてなかった。失礼して内容を読んでみると、とても愛にあふれた内容で涙があふれてしまったのだ。
けれど、いったい誰への手紙なのだろう。
背後から声が響いたのは、その時だった。
「届いてしまったのだな」
振り返ると、黒いコートを纏った男がそこに立っていた。
「泣いていたのか」
薔薇色の髪に蒼の瞳を持つ、美しい男であった。
見知らぬ人物ではあったが、ナマエは何故だか懐かしい気分になって、彼にほほえみかけた。男がそれに、少し瞠目したようだった。
「あて先も、差出人も書いていないの」
手元の手紙を指し示す。
「とても素敵なメッセージボトルだったわ」
でも、と首を傾げる。
「少し、悲しい」
そうか、と男は頷いた。
「書いた者もきっと満足だろう」
「どうしてそう思うの?」
「それは……」
もしかしてこの人が書いた手紙だったんだろうか。そう思いかけて、ふとナマエは表情を曇らせた。
男の足下が、半透明に消えかけている。
「あなたは、誰」
問いかけに、男はふと瞼を伏せた。
「ただの消え行く者、私は誰かの影でしかない……」
独り言のように呟いて、男は顔を上げてまっすぐナマエを見返した。
「お前の心の欠片と、記憶を返しにきた」
「あなた、消えかけているわ」
そうだな、とまた男が頷いた。
と、つと男がナマエに向かって手のひらを伸ばした。
「――手を」
握手を求められているのだろうか。ナマエは警戒しながらも、おそるおそる手を重ねた。
瞬間。
「あっ!」
指の先にぴりりと痛みが走り、ナマエは声を上げた。とともに、激しい想いの奔流が指先から流れ入ってくるような感覚に囚われて、ひどく混乱した。
――愛している。
一番強く伝わった想いが、胸の内に響く。
「あなたは、……」
ナマエは絶句して、手をつないだまま男の顔を見上げた。男は愛しげな表情を浮かべて、ナマエを見下ろしている。
「ナマエ、私はお前に――」
ふと、考えるように口を噤む。
「お前に、会いに行ってもいいだろうか?」
「……なにをいっているの? よく、わからないわ」
「……」
男がほほえんだ。そのほほえみを見知っているような気がして、ナマエは必死に尋ねた。
この人はいったい誰だっただろうか。知っているような気がする。けれど名前が思い出せない。
「あなたは誰? ねえ、誰なの!?」
もどかしい。ナマエは胸元を握りしめた。
「なんで、私、」
――胸が苦しいの。
涙がこぼれる。目の前の人に抱きつきたくてしょうがない。抱き寄せられたくて仕方がない。
「ナマエ」
男がナマエの名を口にした。名乗っていないのに名を知っているなんて、やはり彼はナマエのことを知っているのだ。
男はナマエの頬を流れる涙を拭う仕草をしようとして、消えかけた指先にそれが叶わず、ふと微苦笑を浮かべた。
「愛、か」
「待って、消えないで。あなたは、あなたはいったい誰なの?」
男はもう既に、胸元まで消えかけている。
「ナマエ、これがお前の云っていた、”愛”か?」
記憶を消されても尚残る想い。
「……やはり、私にとっては”執着”だよ」
「待って……!」
――マールーシャ!
そうして、男はナマエの目の前から消え去った。
そしてこれから幸せになる。だから明日を求めてる。
邂逅はあっけなく終わりを告げた。
だが突然現れた男は、ナマエに一つ約束を交わして消えていった。
『お前に、会いに行ってもいいだろうか?』
だからナマエは信じていた。
また会えるその時まで。