第十七話
とある王女と騎士の恋歌・後篇
『――ホメロス』
夢中で肉を貪っていたホメロスの耳元に、彼女の哀しげな声が聞こえた。
掲げるようにして持ち上げた頭……虚ろな瞳をしたナマエと目が合って、ホメロスは雷に打たれたように固まった。
今まで手にかけてきた人間の姿が走馬灯のように脳裏に蘇る。彼らの亡霊が、ホメロスを取り囲んでじっとこちらを見ているような気がした。同じ目だった。瞳孔の開ききった、何も映さない、うろのような瞳。それが、両の手のひらに乗せられたこの首の主から向けられている。
「……ナマエ?」
呼びかけに応える声はない。
なぜなら、ナマエは食べられてしまったから。一体誰に?
それは、”オレ”だ。
「――うそだ」
呟くと同時に、天空魔城を覆っていた巨大な結界がまるでシャボン玉が割れるようにして掻き消えていった。
それはまさしく今この瞬間、侵入者がこの城にやってきたという証だ。だがホメロスは茫然として回廊に座りつくしていた。
ふと、背後に気配を感じた。
「……その首、噂の人間のものか」
ガリンガだった。
「一度で食してしまうとはもったいないことをする」
ホメロスは答えられないまま、ただ手のひらの中に残されたものを凝視している。
「人間を食ったのは初めてか」
頷こうとして上手くいかず、かくり、と操り人形のように頭が前へと傾げる。
「なるほど。では、これでおまえも立派な魔物だな」
無感情なガリンガの声。その冷徹な瞳の奥で、一体何を考えているのかを読むことは難しい。
「――ああそうだ、勇者がやってきたぞ」
いつまでたっても動けないホメロスにそう言い残し、魔王のしもべは悠々と去っていった。
手のひらにすっぽりと収まるナマエから、ずっと目を離せない。
涙すら出なかった。これも冷酷な魔物の血ゆえか。
「はは……はははは……」
引き攣ったような、乾いた笑いが零れた。
良かったではないか。これでナマエは誰にも奪われない。ウルノーガにも、グレイグにも、彼女の家族にすらも。もう、誰にも取り返せない場所にホメロスが隠してしまった。
「はは……は……、はッ、」
残された彼女の一部。薄紫に染まった唇に、そっと接吻を施す。
唇はひやりとして冷たかった。
目が醒めるような思いで顔を引く。青白いを通り越し、もはや土気色をした頬にホメロスは彼女の血で染まった手を擦り付けた。鮮血が頬を彩り、わずかに血色を取り戻したようにも見える。紫色の唇にも口紅がわりに血を塗りつけた。
だが、その唇が喋り出すことはもうない。
「うっ、ぐうッ」
胃が痙攣する。襲い来る吐き気を、ホメロスは懸命に堪えた。胎のなかを満たしているのは彼女の血肉だ。吐くものか。ぜったいに、吐くものか。
「ああ、ああああ!! あああああッ!!」
吼える。
『あなたを独りにしたくないの』
――そう云ったのはおまえのほうなのに、おまえもオレをおいていくのか。
「ナマエ……オレを独りにしないでくれ……たのむ、」
冷たい回廊に突っ伏しながら、ホメロスは嘆いた。大事に抱えていた彼女の一部が拍子にころりと床に転げ落ちていくことにも気づかずに、ひたすら嘆く。
……そのまま、しばらく気を失っていたようだった。
ホメロスは耳元に聞こえてきた、ふんふんという荒い鼻息に目を覚ました。
がばりと顔を上げると、行方知れずだったベビーパンサーが鼻を鳴らしながら床に転がる彼女の首を嗅いでいる。
「やめろ」
小さな獣を追い払おうとして手を伸ばした瞬間、ベビーパンサーは美味しそうな血の匂いがするそれにがぶりと噛みついた。
「まて、」
手を伸ばしても間に合わない。獣は獲物を咥えて、ホメロスを一瞥もせず走り去っていく。
「まって、くれ」
見る間に、愛した女が遠ざかってく。
やっと幸せを掴んだと思っていたのに、どうしていつもこの手から逃げていくのだろう。
もう追いかける気力もない。足はもう動かない。身動きも取れない。
手が、無数の手が、脚を引っ張って闇の淵に引きずり込もうとしている。
――ああ、オレは独りだ。
……いや、違う。
「最初から、独りだったではないか」
己に語り掛けるようなその声が、どこか他人のもののように聞こえた。だがその言葉を耳にした途端すっと胸に染み入るように馴染んでいき、恐ろしいと思っていたこの孤独感は途端に心地の良いものになり替わった。
この城でナマエと過ごした数か月間。言葉を交わし、愛を囁き、人間の食べ物を口にし、肌を合わせて共に眠る。まるで人間のつがい同士が繰り返す、ままごとのような日々。
だが彼女のひた隠しにしていた恐怖心を暴いた途端、このくだらないままごとを愉しんでいたのは最初から自分一人だったのだと気が付いた。
彼女はただの人形だった。ホメロスを慕う女という役を必死に演じた、ただの人形だ。それを、壊してしまった。それだけのことだ。
はじめから、愛してくれるひとなどいなかったのだ。悲嘆に暮れる必要などどこにある。
「……こんなものか」
孤独など、たいしたことはない。本当の意味でホメロスの事を理解してくれる人間などどこにもいないのだから。
愛した女の血肉で腹は満たされている。愛した、とは言っても食ってしまえばただの食料だ。腹は満たされたが、なお昂揚する魔物の性によるものか、ホメロスは一層血に飢えていた。
城の端の方で、ガリンガの魔力が散る気配を感じた。侵入してきた勇者一行が倒したのだろう。
……それでいい。
待ち望んだ対決の時が、ようやく来る。
「さあ、今度はおまえで遊んでやる。グレイグ……!」
興奮のまま一歩踏み出した足が、かさりと何かにぶつかって音を立てた。足元を見下ろすと、血をぐっしょりと吸ったナマエの引き裂かれた服がそこにある。先程聞こえたのは何か乾いたものがこすれた音だ。何の音だったかと不思議に思ってよくよく眺めると、スカート部分のポケットから四角いものがはみ出している。
「手紙……?」
手を伸ばして拾い上げると、それは血でべったりと汚れた封筒だった。宛先の書かれた黒のインクは血で滲み、誰宛かすらも判別がつかない。
いつ書かれたものなのだろう。
手紙の存在にまったく気づかなかった。手紙を開封しようとして、ふと手が止まる。
彼女の筆跡を見て、冷静でいられる自信はあるだろうか?
自問する。
まもなく、導き出た答えにホメロスは手紙を握りしめた。
お膳立てをしなくとも、勇者一行は着実に上階を目指してきているようだった。世界を回り、六軍王のほとんどを倒した彼らは以前命の大樹で対峙した時とは比べ物にならないほど力をつけたのだろう。
ああ、あいつと対峙するのが愉しみだ。どういたぶってやろうか。一瞬押される振りを見せ、そこから一気に形勢逆転させるのも楽しそうだ。
飢えた腹は満たされ、ホメロスはかつてないほどの万能感を覚えていた。魔王の待ち構える神殿へと唯一通じる悪夢の塔の最上部で、静かにその時を待った。
果たして、友はやってきた。
「ゆくぞ! 貴様らのしかばねを、ウルノーガ様に捧げてくれるわ!」
闇の力を使い、彼らが失った仲間の幻術を見せてやると、予想通りグレイグは安い挑発に激怒して剣を向けてきた。
「言え! ナマエ様をどこへ隠した!?」
「ナマエ……? ああ、彼女なら、ここにいる」
己を倒すべき敵と定め、怒りに燃える友にホメロスは己の腹の方を示してやる。グレイグにしては珍しく勘が働いたのか、その顔が次第に青ざめていった。
「ホメロス、まさかおまえ……」
「く……くくっ、ああ、そうだ。血の一滴も残さずすべて食べ尽くした。旨かったよ」
最後のデザートこそ食べ損ねたものの、あの素晴らしい血の味を思い出しながら恍惚として告げると、彼女の知己だった幾人かは絶望の淵に叩き落とされたように悲痛な声を上げた。
「うそっ! そんな……! どうして……。やっと、やっとここまできたのに、間に合わなかったって言うの!?」
「よ、よくも、よくもわしの娘を……!」
「おじいちゃん!」
「この……っ、化け物が!!」
「――ホメロス、俺はお前を決して許さぬ」
友の宣言に、ホメロスは嗤った。
力はかつてないほど満ちている。向けられる憎悪が心地よく肌を刺す。
このまま、この虫けらどもを踏み潰してやる。
必死に繰り出される攻撃は全て一撃のもと叩き落とし、魔法は強靭な尻尾ではじき返した。勇者たちの攻撃は魔軍司令ホメロスに傷一つすらつけられないまま、いたずらに彼らの体力だけを消耗していった。
それを愉しげに眺めながら、ホメロスは満を持して攻勢に出た。繰り出される重い一撃にひとり、またひとりと膝をついていき、次第に勇者の仲間たちは力尽きていく。ぼろぼろになりながらも悔しげにこちらを睨みつける彼らの視線が心地よい。
それでも諦めることを知らない虫けらたちは果敢にも憎き敵を倒さんとして立ち向かってくる。突き出される槍を奪って折ってみせても、かつて忠誠を誓った王の娘は叫びながらホメロスに向かって渾身の蹴りを繰り出してくる。老体にむち打ちつつも必死に仲間を魔法でサポートする、目の前の敵に娘を奪われた亡国の前王。大切な姉を失い、それでもひたむきにこちらに杖を向ける華奢な少女。盲目的なまでに勇者を信じる盗賊と、ふざけた格好をしながらも騎士さながらの信念を目に宿した旅芸人。
そしてかつての友。
すべて、すべて目障りだった。勇者という希望の星を戴き、その光の下に集い、闇に抗わんとするものたち。彼らを結ぶのは光り輝く強い絆だ。ホメロスが焦がれ、そして結局手に入れることの叶わなかった英雄譚の一節を、彼らは今謳いあげようとしている。
ホメロスはギリッと歯軋りし、仲間たちに守られるようにして立つ少年を睨みつけた。あの女と同じ、瞳に不思議な光を宿した少年。
まず、この忌々しい希望から潰さねば。
「――やらせん!」
イレブンを叩き潰さんとして勢いよく振り上げた爪は、しかし割り込んできた大剣に阻まれる。ホメロスは剣の持ち主をギリリと睨めつけた。
「……どけグレイグ、お前を血祭りにあげるのは一番最後だ。大人しく待っているがいい」
「絶対にここは退かぬ。俺はイレブンの盾。そして、愛するデルカダールの未来を守る矛ともならん! ロトゼタシアを脅かす闇を打ち払うまで、決して……決して膝を屈せぬ! 俺は、お前を止めてみせるぞホメロス!!」
「――させるかぁッ! おまえは、おまえたちはいまここで! この魔軍司令ホメロスに惨めに敗北して死ぬ運命なんだッ!!」
下から突き上げてくる友の一撃を力任せに叩き潰す。ガキンッ! 大剣が真っ二つに折れた。すさまじいパワー。だがグレイグは怯まない。折れた大剣を握りなおし、雄たけびをあげて決死の覚悟でホメロスの懐へと飛び込んできた。
攻撃の軌跡ははっきりと見えていた。だが、体が鈍らにでもなってしまったのか、避ける動作が間に合わない。
「ぐあッ!」
折れた剣の鋭い刃先が魔物の分厚い肌を切り裂いた。傷口から噴き出すは魔族の青い血。斬られた場所を抑えながら、宙をホバリングしていたホメロスは堪らず地に足をつけた。
重力を感じた途端、ずん、と急に体全体に纏う筋肉の重みが肩にのしかかってくる。ふいに手がしびれたように動かなくなって、次に足を動かすのが億劫に感じた。
――おかしい、力が。なぜ、力が出ない。
ホメロスはうろたえ、たたらを踏んだ。あれほど体内に満ちていた力が、今更になってどんどん体から流れ出していくのを感じる。
「なぜ、なぜだ……」
ふいに、思い至る。あの女の暗殺を王に命じられたあの日。ウルノーガの言っていた聖なる魔力、大樹の加護を受けし一族。先程ホメロスは、その聖なる魔力を膨大に取り込んだ。
それが、内側からホメロスの中に巣くう闇の力を抑え込もうとしているのか。
まさか。まさかまさか。
『――わたしをおぼえていて』
あの女の今際の台詞が脳裏にリフレインする。
足が動かない、体が動かない。
ゴウッ、と頬に感じた熱に、はっと顔を上げた。目の前に迫り来る、圧倒的な熱量。仲間と力を合わせた、イレブンの全身全霊の一撃。
避けなければ。このままでは。だが、体が動かない。
「やめろ……、やめろナマエッ!! オレの邪魔をするなァアアッ!!」
『親愛なるホメロス様へ
今日はあなたにお手紙を書こうと思い立ち、筆をとりました。
あの夜以来、あなたとどんな会話をしていいのか、まだ少し戸惑っています。あなたの中に流れる魔物の血と気性を、受け入れるための努力が必要なようです。少し時間を頂けたらと思います。
ごめんなさい。あなたに気を使わせてしまっていることはわかってはいるのだけど、これだけはどうにもならなくて。本当は、あなたを拒絶なんてしたくないのに。早く以前のように、あなたと触れあいたい。抱きしめてもらいたい。
……ああ、こんなことを言ったら、ますますあなたを困らせてしまいますね。ごめんなさい。
あなたがお仕事に忙しくなって、あまりゆっくりとお話ができなくなってしまったので、やっぱり少し寂しいです。出来れば、毎日でもあなたのお顔を見たいと思ってしまいます。だめですね、欲が出てしまって。あなたが私の元に帰ってきてくれる、それだけでも十分幸せなのに。
あなたに頂いたベビーパンサーちゃんも、ようやくこの部屋に慣れてきてくれたようです。とても可愛くて可愛くて、一日中でも眺めていられます。でも、一緒に遊ぶとなるとちょっと大変。この前、とうとう服を一着穴だらけにされてしまいました。きっと狭いお部屋に閉じ込められて退屈しているんでしょうね。ベビーパンサーちゃん用の広いお部屋が用意できればいいのですが。あ、ねだっているわけではありませんよ。
昨日、夢を見ました。
その夢は、私がまだ少女だった頃、漠然と思い描いていた幸せな未来そのものでした。ええ、あなたが律儀に覚えていてくれた、あの夢ですよ。
魔物に怯えることのない平和な世界で、愛する人のためにお料理をして、暖炉の前でゆったり過ごすの。
昨日見た夢で出てきたそのお相手の方、誰だと思います?
……もちろんホメロス、あなたですよ。ふふ、ごめんなさい、焦らすようなことを書いて。でもちょっとドキっとしてくれていたら嬉しいです。
ねえ、もし……。魔王が存在しない平和な世界のもしものお話で、ユグノアが滅びなかったら、もしかしたらそんな未来があったのでしょうか。あなたが陛下やマルティナ姫の護衛でユグノアを訪れて、あるいは私がデルカダール城を訪れる機会があったとしたら。あなたの凛々しい姿を見かけた途端、きっと初心な私は、舞い上がってしまったでしょうね。
でも、もしそんな世界があったとしても、あなたはとても素敵な人だから、きっと私など眼中になかったでしょう。そう考えると少しだけ悲しいかも?
ねえホメロス、理想が高くて完璧主義で、寂しがりやで意地っ張りなホメロスさん。
デルカダールに迎えいれられた当初、あなたが私の孤独と悲しみを受け止めてくれたように、私にもあなたの胸の内に隠していた苦しみを分けて欲しかった。
人知れず苦しんでいたあなたの側に居たかった。あなたの苦しみはあなただけのものだけど、その苦しみを理解することはできなくても、きっと寄り添うことは出来たと思います。
人は本来孤独な生き物です。だから寄り添って、支えあって、抱えた重荷を分け合って生きていくの。あなたがそう教えてくれたのよ。覚えている?
私はこの先、どんなことがあってもあなたについて行きます。
あなたのことを真に理解できるつもりなど到底ないけれど、あなたの抱えている闇も、あなたの弱いところも、全部全部愛してる。
あなたがとても大切なの。
この先にどんな未来が待ち受けていようとも、あなたが苦しんで悩んで、それでも選んだ決断を受け入れるわ。
だからどうか、私のことを信じてください。
いつだって、あなたのそばにいるわ。
愛を込めて
ナマエ
追伸。
なんだかまじめに書いてしまって、ちょっと恥ずかしくなってきました。次にお会いした時、態度がぎこちなくても許してね。
さらに追伸。
ベビーパンサーちゃんの名前をそろそろつけてあげようと思うんだけど、よかったらあなたにちなんだ名前をつけてあげたいの。いいかしら?
またまた追伸。
あなたに出会えて良かった。
大好きよ。』