第十七話
とある王女と騎士の恋歌・中篇
「――いたっ!」
暖炉の前でじゃれつくベビーパンサーの相手をしていたナマエが、急に鋭い声を上げた。
「どうした」
声を聞きつけたホメロスが急ぎ駆け寄ると、ナマエが指先を押さえながら少し困り顔でまごついている。
「あ、ええと……」
「噛まれたのか? 見せてみろ」
小さく肩を竦めたところを見るに図星らしい。例え幼い獣といえどもやはり本質は魔物だ。どうやら遊んでいるうちに興奮し、野生の本能が目覚めてしまい目の前をちらつく柔らかそうな肉に噛み付いてしまったというところか。
「大丈夫です。大した傷ではありませんから」
飼い主としてペットを暴走させてしまったことに恥じているのか、ナマエははにかみながらホメロスの視界から手元を隠そうとした。渋い顔でその手元をちらと見やると、大したものではないと言った端から、じわり、と傷口から滲んだ血が表皮に紅い珠を作って、つるりと肌を伝って流れ落ちていく。そのルビーのような紅い珠が描く流線に思わず視線が釘付けとなった。
ああ、もったいない。
口の中で唾液が湧く。
「あっ」
気がつけば彼女の腕を強引に引き寄せ、流れる血を掬い取るように舌を這わせていた。舌先で感じる久方ぶりの官能的な味わいに、思わず静かに熱い吐息を吐く。そのまま、尖らせた舌先で甘美な血が湧き出る泉まで辿り、赤い傷跡を残す指先をぱくりと咥えてちゅうと吸い上げた。ナマエは息を飲んだまま微動だにしない。その凍りついた表情を堪能した後にようやく指を解放してやり、もっともらしく付け加えた。
「消毒がわりだ、一応な」
「あ、ありがとうございます……」
困惑しながらも生真面目に礼を寄越すナマエに頷いて、ホメロスは消えた犯人を探して辺りを見回し始めた。まったく、あの忌々しい獣はなんてことをしてくれたのか。ナマエに傷を負わせたベビーパンサーは既に脱兎のごとく逃亡してはいるものの、しかし寝室という閉じられた空間で身を隠す場所などないに等しい。ほどなくしてドレッサーの下に逃げこんで小さくなっている獣の姿を発見し、ホメロスは容赦なくその首根っこを掴み上げた。「ふぎゃあ」と抗議の声を上げ手足をじたばたとさせて少し抵抗を見せた獣だったが、一応悪いことをしたという自覚はあるようで、すぐにしゅんと大人しくなる。
「待ってホメロス、その子をどうするつもり?」
そのまま寝室の外へと向かったホメロスを慌ててナマエが追いかけてきた。
「捨てる」
「なんですって?」
驚愕と非難の色が混じったその声色に足を止め、後ろを振り返る。動揺を目元に浮かべるナマエを見下ろし、ホメロスは冷淡に告げた。
「悪いが、オレ以外のものがお前を傷つけたことを絶対に許すつもりはない。だからこれは処分する。それに、もう人間の血の味を覚えてしまったかもしれない」
ホメロスにとっては当然の処置だ。間違ったことはなにも言っていない。この獣を可愛がっていたナマエには酷なことだが、それは仕方のないことだった。一度でも人の血を味わってしまえば、生来の残虐な側面がいつ目覚めるかわからない。
だがそう冷酷に告げるホメロスにこそナマエは一瞬怯んだようだった。表情に走った怯えは、よもや自分に対するものか。
不愉快だ。……いいや、心地いい? ナマエの強張った表情を目にした瞬間、ぞわりと胸に広がったこの感覚は一体なんなのか。
「……やめてホメロス、その子は悪くないの。血も舐められてないわ。ちょっと興奮して噛み付いてしまっただけなの――やめて殺さないで、お願い!!」
必死な声は全て無視し、先日崩壊して放置されたままのバルコニーのガラス戸に手をかける。
ぐっと、急に獣を掴んでいる方の腕が重みを増した。なにかと思って視線を向けると、ホメロスの強行を阻止すべくナマエが腕に縋り付いてきている。
「お願いよホメロス……」
その細腕が思った以上に力強く腕を引っ張るので、彼女の本気の抵抗を目にしたホメロスはチッと舌打ちして足を止めた。このまま塔の外へと放り投げようと思っていたが、考えを改める必要がありそうだ。彼女の可愛がっているこの獣を殺してしまうと機嫌をいたく損ねてしまうかもしれない。
「……別にこれを惜しむ必要はない。代わりはいくらでもいる。なんなら、明日にでも新しいものを連れてきてやろう」
「いいえ、私はその子がいいの。新しい子はいらない」
強情な。
逡巡ののち、ホメロスは踵を返した。バルコニーの反対側、塔の階下へと続く部屋の出入り口の方へと大股で向かうと、ガチャリと扉を開けて掴んでいた獣を勢いよく外へと放り出す。ベビーパンサーはくるりと空中で一回転すると抜群の運動神経で床に着地し、己を投げ出した男を見上げた。キトンブルーの瞳が輝いている。どうやらホメロスが遊んでくれているものとでも思ったのか、ベビーパンサーは興奮気味に髭を立てて彼に駆け寄ろうとする。だが無情にもその鼻先でバタンと乱暴な音を立てて扉は閉ざされた。
扉の向こうから、甘えるような獣の鳴き声が聞こえてくる。閉ざした扉にもたれかかり、獣の耳障りな鳴き声を聞きながらホメロスは次第に募っていく苛立ちに息を大きく吸って吐き出した。
脳裏には、先日ナマエが魔物に襲われた光景が蘇っていた。あの時肌に感じた恐怖が、怒りが、すぐそこまで迫ってきている。再び燎原のように身体中を憎悪が広がっていった。
許せない。あの下劣な生き物め。叩き潰されてもなお、自分からナマエを奪おうとするつもりか。
激情のあまり、過去と現在の境界があやふやになる。
「やはり殺すか」
低く、ぞっとするようなおぞましい声が、唇から漏れ出た。まるで誰かが自分の口を操ってでもいるような。数多の負の感情を煮詰めたような、タールのようにどろりとした真っ黒い闇の塊が耳元で囁いている。
殺せ。奪え。憎め。怒れ。畏れよ。壊せ。
――認めろ、これは我が種を植え、お前の内で育った純粋なる悪意そのものだ。
敬愛する魔の王の凍りつくような声が耳元でそう囁いたのを、はっきりと聴いた。ハッと鋭く息を吸い、血走った目で辺りを見回す。
ナマエは少し離れたところで立ち尽くして、怯えたようにこちらの様子を窺っている。
守るべきひと。愛するひと。彼女を守れるのは自分しかいない。
怒りで我を忘れそうだ。目の前が憎悪と狂乱の色で染まっていく。
なんびとたりとも、自分から彼女を奪うことは許さない。青白い顔で死んだように気を失い、なかなか目を覚まさない彼女を前に抱いたあの日の恐怖。あんな思いは二度としたくない。魔物も、彼の王も、死神ですらも、彼女を自分から奪おうとその命を狙ってくる。彼女を守るためには、どうすればいいのだろうか。
「……ホメロス、私は大丈夫だから。お願いだから怖い顔をするのはやめて」
ナマエは恐る恐るといった様子で、一歩ずつ、ホメロスへと近づいていった。だが三歩の距離を残し、それ以上近づいてこない。激情に呑まれそうになっているホメロスを恐れているのだ。
「ほら、傷口だってもう塞がったわ。ねえ、見て」
そっと手のひらを目の前に差し出される。なめらかな白い手が震えていた。いつの間にか魔法で治癒された傷口はもうどこにも見当たらない。
――ああ、そうか。
ふいに、すとんと何かが落ちた。腹の奥で息づくモノがニイと嗤う。
いいことを思いついた。なぜ、いままで思いつかなかったのか。
思い浮かんだ未来に、途端に心が凪いでいく。視界を塞いでいた憑き物が落ちたように思考が明瞭になっていった。
ホメロスは差し出された彼女の手をそっと取った。緊張しているのか、触れる手がひやりと冷たい。そのままゆっくりと距離を詰めながら、ホメロスは強張った顔をするナマエを見つめ、努めて穏やかに微笑んだ。
「ナマエ、聞いてくれ」
「……はい」
「ナマエ、オレはお前を愛している。おまえだけを、おまえだけがオレを分かってくれている」
ナマエは固唾を飲んで、ホメロスの言葉に聞き入っている。
「おまえをどこにもやりたくない、誰にも奪われたくない。たとえ血の一滴たりとも誰にも譲るつもりはない。すべてオレのものにしたいんだ」
白魚のような手が、怯えたようにびくりと強張った。目の前の獲物を逃すまいと、ホメロスは咄嗟に彼女の手を強く握りしめる。その手の力強さにナマエは不安げにこちらを見上げてきた。
「それで考えたんだ。お前を独占する方法を」
「……なんでしょうか」
「おまえをこの腹のなかに隠してしまうんだ」
ナマエが一瞬呆けたような表情を浮かべる。ホメロスの言葉の真意を測りかねているようだった。
「その、おなかのなかに? まるで赤ずきんみたいね」
「ああ」
「でもどうやって? あなたのお口は、私を丸のみできるほどの大きなお口でもないでしょう」
「心配ない。まずは手から、次に足。ひとつずつ、この腹の中に納めていく」
「……ばらばらにして飲み込むの? でも、それでは私は死んでしまうわ」
「問題ない、腹の中で継ぎ合わせればいいんだ」
ナマエの顔が分かりやすく引きつった。穏やかな声色に反して、言葉の端々から滲み出る隠しきれない男の狂気を感じ取ったためだろうか。
「ホメロス、冗談よね……?」
「いいや、本気だ」
ナマエが絶句する。今度こそ、彼女は目の前の人間のなりをした魔物から逃げ出そうとしてぐっと手を引いた。だが強く握りしめられた手は、いくら力を込めようともびくともしない。カタカタと恐怖に震える彼女を落ち着かせるべく穏やかに笑いかけようとして、しかしニヤリと吊り上げたその口角の隙間から覗く獰猛な牙までをも隠しきることは出来なかった。……いいや、ここまできて、全身から溢れ出るこの狂気を隠し通すのは無理がある。
「大丈夫、痛いのはきっと一瞬だ。なるべく負担はかけないようにする」
「ホメロス……手を、手を離して」
「なあ、オレとひとつになってくれないか?」
ホメロスは尚も拘束する手から逃げ出そうと足掻くナマエをいとも容易く腕の中へと引き寄せると、まるで愛を謳うがごとく彼女の耳元で囁いた。
「くれるだろう……? ナマエ」
「ほ、ほんきなの?」
「ああ、本気だと言っただろう」
早く、はやく速くハヤク。誰かに奪われる前に。
「この胸の下で脈打つ健気な心臓を、お前が生きた証を刻むその尊い指先を、星を映す宝石のようなこの目玉を、愛を謳う美しいその声を、脳みそも、耳も、唇も、はらわたも、骨も、胎の奥の子宮も、全部、ぜんぶぜんぶ」
強張っていたナマエの表情が、次第に絶望に染まっていく。見下ろす彼女の姿が、するするとまるで魔法にでもかかったように縮んでいった。……いや、自分が大きくなったのだ。まるで赤頭巾を喰らおうとした邪悪な狼のように。
「あ、ああ、あ……そんな、」
ナマエがゆるく首をふる。向けられる絶望が心地よい。荒い呼気。騒がしくうねる血潮。犬のように息の弾む口の端から、行儀悪く涎がだらりと垂れた。
「――ぜんぶ喰わせてくれ」
ぎゅうと握りしめている小さな手。仄かに残る血の匂いに誘われ、ホメロスは大きく口を開いた。
「いやぁっ!!」
がりっと噛みついた左手の薬指を骨ごと噛みちぎろうとして、鼻をしたたかに打たれてすんでのところで逃げられた。
ナマエは噛まれた指先を庇いながら、たたらを踏むホメロスの横をまろぶように過って部屋を飛び出していった。咄嗟に選んだ避難先としては悪くはないが、あいにく階下は凶暴な魔物が数多うろつく巨大な迷路のような城内へと続いている。彼女がこの扉から先を踏み出すのは初めてだろう。この城に不案内な彼女が出口までたどり着けるとは到底思えず、万が一たどり着いたとて地上へと逃げる手段はない。要するに彼女は既に手詰まりなのだ。ただひとつ残された彼女のクイーンの駒を取れば、それでチェックメイトだ。
先程部屋の外に放り出したベビーパンサーの姿はもうない。おそらく階下へと向かったのだろう。部屋を出てすぐに続いている螺旋階段には彼女が流したと思われる血が点々と続いていた。が、途中でそれに気づいたか、ある地点からその血痕が途切れた。それでも空気中に漂う甘い血の匂いを辿っていけば、いよいよ螺旋階段も終わり、城内へと続く扉にたどり着いた。開いた扉のドアノブにべったりと血が付いている。獲物を確実に追い詰めていく高揚感に、ホメロスはくつりと嗤って扉を開け放った。
「……どこへ行った?」
だがすぐに、出鼻を挫かれる。複雑に分岐した回廊、その先の丁字路。いくらあたりを見回しても彼女の気配はなく、また魔物どもの姿もまばらで今はまだ日が高いせいかその動きは鈍い。血の匂いを辿っていけばすぐにナマエに追いつけると思っていたのに、広い城内を逃げ惑っているのか、そこら中に美味しそうな血の匂いが漂っていてどこへ向かったのか見当が付かない。
なんてことだ、獲物を見失ってしまうとは。
「ナマエ、ナマエどこへ行った!」
ホメロスは苛立って声を張り上げた。がらんどうのような城内に声が反響する。
口の中に残る極上の血の味が苛立ちと空腹感を加速させた。はやく、もっと味わいたい。
どこだ、どこだどこだ、どこにいる。
「ナマエ!!」
……いや、焦る必要はない。急く心を落ち着けて、ホメロスは大きく息を吸った。この城の中で、彼女の逃げる場所はないのだ。圧倒的優位はこちらであることは間違いない。焦らず、じっくり探せば必ず見つかるはずだ。
「ナマエ、隠れんぼでもするつもりか? いいだろう。付き合ってやる!」
どこかに隠れているであろう彼女に聞こえるようにひときわ大きい声でそう宣言し、ホメロスは悠々と回廊を進みはじめた。そこいらをうろついている魔物たちが司令官殿の突然の登場に何事かとのっそりと振り返った。好奇心を含んだ視線を一切無視し、ホメロスは耳を澄ませながら回廊をゆっくりと進む。まもなくまっすぐと伸びた回廊の奥、その角を曲がった先から探し人の囁き声が聞こえてきた。
――ああ、出口……出口はどこなの!? はやく見つけないと、あのひとに追いつかれてしまう……!
人間の耳より何倍も優れた聴覚をもつ魔物の大きな耳が、しっかりとその囁きを拾う。
そこか。
ニイ、と嗤う。バサリと翼を拡げ、飛ぶようにして一気に回廊を駆けた。ズシン、と重い着地音。丁度角から飛び出してきたナマエと目が合う。その顔が、一気に恐怖に染まった。
「キャアアッ!!」
「見つけたぞ。さあ遊びは終わりだ」
己の姿を認めて恐怖の悲鳴を上げ、反対側へと逃げ出そうとするナマエの小さな足先を掴み取る。この大きな手のひらで掴むには小さすぎてするりと抜けてしまいそうなほどの細い足首に、ホメロスはためらいなく爪を立て、くるぶしを捻った。上がる悲鳴。
彼女の悲痛な叫び声に、もはや痛む心など持ち合わせてはいなかった。先に足を潰しておかないと、またちょろちょろと逃げられては敵わない。放り出した彼女の足は、見下ろした視界の先で妙な方向に曲がっている。
「助けて!! 助けて、誰か! お父様、お姉さま、イレブンッ! お父さま早く来て!」
十六年前、デルカダールに迎え入れられた無垢で美しかった哀れな亡国の王女は、もはやホメロスの手によってただ囲われるだけの無力な女に堕とされ、そしていま、目の前で惨めに地面を這いずって死神から逃げ出そうとしている。いくら叫んだところで助けなど来るはずないのに。哀れな女だ。
「逃げないでくれないか、余計に苦しませたくない」
「ぅああッ!!」
捻ったくるぶしをそっと抑え込む。それだけでも激痛が走るのか、ナマエは顔を歪ませ悲鳴を上げた。力の入らない足を抑えてしまえば、いとも簡単に彼女の逃げ場も逃げる気力も全て奪ってみせた。追い詰められ袋の鼠となったナマエは這いずることをやめ、がたがたと震えながら目の前の狂気に飲まれた恋人を見上げる。
「い、いや、死ぬのはいや……。ホメロスやめて、正気に戻って」
「はは、おかしなことを言う。オレはいつだって正気だ」
「私が死んだらあなたは独りになっちゃう。話だって出来なくなるわ。ねえ、あなたを独りにしたくないの……!」
おかしなことを言うのはナマエの方だ。せっかく、ふたりが永遠に一緒に生きていく方法を見つけてやったのに。それを拒絶するとは。
「ああ、オレもだ。だからふたりでひとつになろう。これからはずっと一緒にいられるぞ」
愛を囁くように優しく告げ微笑んでやる。ナマエはこれ以上ないほど目を大きく開け、「ひぅっ」と妙な声を上げながら呼吸を乱した。もはやこの化け物を前に説得など無駄な行為だと悟ったようだ。彼女は深く絶望し、幼児のようにひぐひぐと力なく泣きだしながら自由を奪うホメロスの腕を震える手で払いのけようとする。
「離して、はなしてぇ……」
まるで大きな象に米粒ほどの虫けらが果敢にぶつかってくるような、小さな小さな抵抗だった。だがそよ風のようなそのあえかな抵抗にこそ、ホメロスはひどく苛立った。なぜ逃げようとする。なぜ拒絶する。
大事に想うからこそ、この胎に隠そうとしているだけなのに。彼女の捻りあげた足を抑える手に力が籠る。魔物の鋭い爪が真白の肌に深く食い込み、表皮を突き破ってじわりと血が滲んだ。
「いやあ……っ、誰か、お願い! おとうさま! ナマエはここです! おとうさまぁっ!!」
あげく、みっともなく泣き喚く。助けて助けてと叫ぶ声が先程から煩い。自分ではないものの名を呼ぶナマエの声がひどく耳障りだ。
――なぜオレの名を呼ばない。一番お前を助けてやったのはこのオレなのに。誰よりも愛してやったこのオレを!
「おねがい……、だれか、このひとを止めて……」
……ああそうか。ふいに、すとんとそのわだかまりが腑に落ちた。
――結局この女は、変わり果てたオレを厭う本心を隠しながらも、役者顔負けの演技で情を寄せるふりをして、その実眈々と助けが来るのを待っていたということか。
考えてみれば単純なことだった。化け物を愛せる人間などいない。欺かれていたのは自分の方だった。
ならばもう、手加減など不要か。
徐々に深く肌に食い込んでいくホメロスの爪から逃れようと足掻いていたナマエが、押さえつけられている床の上でふいにがくりと脱力した。どうやら抵抗は諦め、乱れる呼吸を整えようと必死に深く息を吸い、迫りくる死の恐怖と戦っているようだった。
閉じられた薄い両の瞼から、とめどなくぽろぽろと涙が伝いこぼれ落ちてゆく。儚くて美しい、心惹かれる光景に、気が付けばホメロスはナマエの顔を覗き込むようにしてそっと流れ落ちる涙へと手を伸ばしていた。
指先が彼女の頬に触れた瞬間、ぱちりと瞼を開けたナマエと目が合う。ホメロスを認めた彼女の顔が、ふいにくしゃりと歪んだ。見る間に両の目元に大粒の涙が盛り上がって、ぼろぼろと頬を滑って落ちていく。しゃくりあげるようにして泣きながら、ナマエは不意に両手を伸ばしてホメロスの首にぎゅうとしがみついてきた。咄嗟の事に避けられず固まったままその抱擁を受け入れていると、拳一つ分の隙間を空けてナマエが覗き込んでくる。彼女の熱い手のひらが、冷えた頬を包んだ。
「ああホメロス、かわいそうなひと。こんなすがたにされてしまって。あのきれいなはちみつ色の目を奪われて、盲目のおじいさんみたいになにも見えなくさせられて。自分がなにをしているのか、わからないのね」
ぼろぼろと涙を零しながら、そんな意味不明なことを言う。ひどく不愉快だった。だが愛した女に免じよう。
「神よ、今ここに、心よりあなた様にお祈り申し上げます。このひとを、ホメロスをどうかお救いください。この迷える魂を、見捨てないでください」
真摯な祈りに、ホメロスは鼻で笑った。
「神などいない、祈るだけムダだ」
衝撃を受けたようにナマエが目を見開く。その唇が何か言いたげに開きかけ、そして閉じた。狩人に散々追い回され、傷つけられ、生きることを諦めてしまった獲物と同じ目が、ホメロスを見上げてくる。
「……ホメロス、ホメロス、おねがい、どうか、」
頬に添えられていた彼女の手が力を失って、ホメロスの肌を滑って床にことりと落ちた。先程噛みちぎろうとした指から流れる血が、頬をべたりと汚してゆく。
『わたしをおぼえていて』
耳に残ったナマエの憐れな声。美しい、子守唄を歌う声。ホメロスの名を愛しげに呼ぶ声。そうだ、まずは最初にこの声から頂こう。
かぱりと口を開ける。だらりと涎が彼女の頬に垂れ落ちた。目の前のうっすら隆起した喉仏めがけて、牙をぞぶりと突き立てる――。
「……っ! ぁ、ッ……!」
骨ごと噛み砕くようにして勢いよく食いちぎり、噛み応えのあるそれを口の中で転がした。ナマエは喉を抑え、カッと目を見開いてホメロスを凝視している。食い破られた喉を抑える指の隙間から血がごぼごぼと溢れていき、まもなく、彼女は目を見開いたまま大人しくなった。
抵抗は止んだ。