終 章
神はサロメを赦したか
※ほんのり11主×エマ。
「――イレブン、なにを読んでいるのじゃ?」
「なんでもないよ、おじいちゃん」
背後から掛けられた声にハッとし、イレブンは手にしていたものをさっと懐にしまう。声の主の方を振り返って、誤魔化すようにひらひらと手を振った。
諸悪の根源たるウルノーガを倒し、蘇った命の大樹がロトゼタシアの空に今日も輝いている。世界は光を取り戻したが、いまだ闇の魔物たちがつけた爪痕があちこちに残されていた。
マルティナとグレイグはデルカダール王を支えながら、手始めにイシの村の復興に精力を傾けている。カミュは最愛の妹の世話を焼くのに忙しく、シルビアもパレードの仲間たちと共に世界に笑顔を取り戻すという巡行企画を考えているようだ。
世界は一見明るくなったかに見えた。
だがセーニャは失った姉を偲び、イレブンの祖父であるロウはまた一人大事な娘を失って憔悴した様子を隠せないでいる。
イレブンが今手に持っているのは、崩れ落ちる天空魔城から無事脱出した後、目を真っ赤に腫らしたグレイグが震える手で差し出してきたものだ。あの恐ろしい魔神と化したかつてのデルカダールの双頭の鷲がペンダントと一緒に遺した、血だらけの手紙。誰宛か判別がつかないその手紙の封は渡された時には既に開いていたから、グレイグは手紙の中身を読んだのだろう。
「封がされたままだったから、ホメロスはこれを読まなかったようだ」
手紙に残るのは叔母の筆跡だ。おそらくグレイグは、祖父あてにこれをイレブンに渡してきたのだろう。直接渡さないあたり彼はやはり妙な所で意気地なしだ。だが渡されたその手紙の存在を、イレブンはロウにひた隠した。
「ナマエ様はあの暗い城で、あいつと一緒にいられて幸せだったのだろうか……」
手紙を渡される際、ぽつりと独り言のように呟かれたその一言。ひどく印象的な言葉だった。ナマエはイレブンにとって知らない人だが、考えてみればグレイグの方が叔母の人となりをよく知っているのだ。
「――優しくて、我慢強くて、芯の強い方だった」
どんな人だったの、とのイレブンの問いかけに、グレイグは涙をこらえながらそう告げた。
「お前や姫様と同じように、運命に翻弄された方だ。出来れば幸せになってほしかった。なのになぜ、なぜこんなむごい死に方をせねばならぬ……っ」
肩を震わせるグレイグを眺めても、やはり叔母を失ったという実感は湧かなかった。イレブンにとってナマエとは実の父であるアーウィンの過去の記憶の中で見た、赤子の自分に向かってほわほわと笑いかけていた、自分と同じ年頃の可愛い女の子でしかなかった。実の母であるエレノアとよく似たおっとりとした雰囲気を持つ綺麗な少女だった。
魔王を倒すという使命を果たし、一度は解散した仲間たちだったが、誰が声を掛けるでもなく再び彼らはイレブンの元に集った。魔物によって傷つけられた各地を見て回るイレブンの姿を見つけては、人々は感謝の言葉を伝え、純粋無垢な瞳で自分の事をまるで神のように崇めたてた。正直居心地が悪かった。だってイレブンが命の大樹でヘマをしなければ、ここまで人々の命が失われずに済んだのだ。
ベロニカだって――。
……その先の思考はとても口にはできない。
だが幸いなことに――と言っていいのかは分からないが、各地を回る中でベロニカを助ける唯一の術を見つけた。それは過去に戻ってもう一度やり直すという、とんでもなく荒々しく、かつ人間の手には余るほどの横暴で傲慢な救済方法だった。
忘れられた塔の最深部、とこしえの神殿でひっそりとイレブンの訪れを待っていた時の番人が提示した条件は、過去に戻れるのはイレブン一人だけというひどく酷なもの。
この傷ついた世界を、残された仲間たちを置いて、イレブンは一人過去に戻り、彼の都合のいいようにやり直せるという訳だ。独り過去に戻らなければならないイレブンにとっても、置いていかれる仲間たちにとっても、とても残酷な条件だった。
本当に失われた時を求めて過去に戻る覚悟があるか、という時の番人の真摯な問いかけに、イレブンは迷い、答えを見つけあぐねた。
気がつけば、聖地ラムダの彼女の眠る場所に来ていた。
「……ベロニカ、どうするべきだと思う?」
時の流れを忘れたかのような、新緑の木漏れ日が心地よいこの空間で、彼女は静かに眠っている。静寂の森に建てられたベロニカの墓標の前に座り込み、イレブンはひとりごちた。
ベロニカを救いたいという想いに変わりはない。だがこの世界線に残される仲間たちは、イレブンによって救われるはずのベロニカに会えることはないのだ。
そしてもうひとり。脳裏に思い浮かぶのは、会ったことのない叔母のことだ。産みの母に似た優しげな少女の面影。彼女は愛した人に無残に殺された。イレブンにとって、ホメロスとはどこまでも恐ろしく忌まわしい男だった。でも多分、叔母にとっては違ったのだろう。彼女の残した手紙がそれを証明している。
イレブンを育ててくれたテオは、人を憎んじゃいけないと言った。イレブンはその言葉の通り努力したが、しかしそれを実現するのはひどく難しい。この長い長い旅の中で、怒りは力になり、原動力になることを知った。
誰にだって事情がある。その道を選ばざるを得なかった理由がある。ホメロスの場合、それはなんだったのだろう。友への嫉妬? 功名心? マルティナと祖父の話では、昔は真面目で頭が良く、忠誠心に溢れる青年だったという。ならばやはりウルノーガが一枚噛んでいるのだろう。
ここに居ては、その真実を知りうる術はない。……知りたいとも思わないが。
「君に会いたいなぁ」
イレブンはふたたび、沈黙する墓標に向かって嘆息するように呟いた。
「君を助けたかったよ」
あの大樹の魂が魔王に奪われる絶望の最中、イレブンたちに最期の希望を託してくれたベロニカにこそ会いかった。過去に戻ってやり直したとて、当然違和感は残るだろう。今と過去の仲間たちの、拭いきれない差異を目の当たりにするのが怖いのだ。
「君に、会いたかったなぁ」
目の前で風に揺れる名も知らぬ草をいたずらに引っこ抜き、イレブンはぼやく。
ふいに、風が吹いた。新緑のようにみずみずしく、まるであの子が持つ魔力に似た気配を含んだ風が、イレブンの頬を撫でていく。
――ちょっと、いつまでそんなところでうじうじしてるの! あんたは勇者さまでしょ? 救える命があるなら、どうして立ちあがって前へとすすまないの!
彼女の心地よい啖呵が耳元に甦って、イレブンは思わず苦笑した。
「……うん。そうだね、ベロニカ」
どうやら女々しく悩む勇者様を見かねて、草葉の陰から口を出さざるを得なかったようだ。彼女らしい激励に奮起し、イレブンは重い腰を上げた。
「――いいさ、やってやる」
覚悟は決まった。
神は、時を遡るという世界のあり方さえ歪ませるような力を、たった一人の人間に与えたもうた。偶然などではない、すべては必然だ。敷かれたレールの上を歩くのは癪だが、たとえそれが運命の神によってあらかじめ用意された道筋であっても、この決断の瞬間はイレブンだけのものだ。
「僕にしかそれができないってんなら、やってやる」
成人の日を迎えて以来、ずっとずっと、イレブンの人生は運命の神のものだった。だけどもう、運命に翻弄されるのはうんざりだ。
「だから変えてやる。こんな力も、こんな予定調和な物語もくそくらえだ」
彼が成人を迎えるあの日まで、イレブンはただの村人Aだった。たった一人の少年の物語が、世界を破滅させ、そして再び光を取り戻した。
――この奇蹟のもたらす行く末を、最後まで見届けてやる。
ふたたび仲間を集め、とこしえの神殿へと向かった。仲間はイレブンの決断を神妙に受け入れ、もはや彼の歩みを止めようとするものはいない。
「イレブン、ひとつ、いいだろうか」
ひとりひとりに別れを告げる中、ずっと黙り込んでいたグレイグが重い口を開いた。
「なに?」
「友のことを、頼めるか……?」
恐る恐るといった様子で告げられた言葉に、イレブンは虚を突かれる。彼の友とは、つまり。
「助けたいの?」
そう尋ね返すと、グレイグはぐっと唇を噛み締めた。
「友がしでかしたことを思えば、そう願うことすら、赦されないのは、分かっているつもりだ。だが――」
ひとつひとつ、罪を告白するようにグレイグは重々しく言葉を紡ぐ。
「せめて、悪の道に進むあいつのことを、引き止めてやってはくれないか。過去の俺では、頼りにならないからな」
友の救済をイレブンに願うことを、彼は一体どれほど悩みぬいたことだろう。イレブンは目元に隈が残る新緑色の誠実な瞳をじっと見つめ、そしてこくりと頷いた。
「分かった」
「そ……、そうか! 世界を救うという重責を背負うお前に、こんなことを頼んでしまって本当にすまない。だがナマエ様をお助けするのであれば、居場所はあいつにしか分からんからな。……まあ、素直に吐くとは思えんが」
「大丈夫。絶対吐かせるから。ついでにグレイグさんの代わりに、ホメロスをぶん殴ってくる」
「はは……、それでこそ勇者だな」
肩の荷が下りたのか、グレイグは苦笑しながらもほっとした表情を浮かべた。
言われなくとも、ホメロスのことは元から助けるつもりだった。彼だけが叔母の居場所を知っているのだ。ナマエの残した手紙の内容から、彼女が死の直前まであの城で暮らしていたことがうかがえた。つまり命の大樹が墜ちる前まで戻れば、彼女はどこかで匿われて生きているはずだ。
イレブンは背後で消沈している祖父を振り返った。
「おじいちゃん、ナマエ叔母様のことは任せて。絶対助けるから」
目線を合わせ、力強い口調でそう告げれば、ロウはしわくちゃの目元をさらにきゅっと寄せる。
「すまん、すまんの……お前に何もかもを背負わせてしまって、ほんとうにすまん」
「いいんだよ。僕の方こそ、おじいちゃんを置いていってしまうひどい孫でごめんね」
「よい、よい。生きて、こうして会えただけで充分じゃ。この上なにを望もうか」
イレブンは小さく震える祖父の肩を、名残惜しむように抱きしめた。
「惜しむらくはあの子の、ナマエのことじゃ。わしはあの子に何もしてやれんかった。モーゼフの元で保護されていることは知っておったのじゃ。多少生き辛くとも平穏の中で過ごしているのならばその方がよいと思っていたのじゃが、こんなことになるのなら……うっうっ」
「おじいちゃん……」
泣き崩れてしまった祖父を気遣わしげに一瞥して、イレブンは寄り添うようにして隣に立っていた人に目線をくれた。
「マルティナ。迷惑をかけてごめん、おじいちゃんのこと、頼める?」
「もちろんよ、イレブン。迷惑だなんて、そんなこと思ってないわ」
「ありがとう、すごく心強いよ。……そんな顔をしないで、マルティナ。ああ、困ったなぁ」
ロウにつられて泣き出しそうな顔をするマルティナに、途方に暮れて頭を掻く。
「ごめんなさい。また、あなたの手を離さなければならないのが辛くて……」
「僕はもう赤ん坊じゃないよ。この手で、君を守る事だってできる」
さっと頬を染めたマルティナに悪戯げに微笑んで、次にイレブンは隣の少女へと視線を移した。
「セーニャ。ベロニカのこと、きっと助けるから」
「ええ、信じていますわ。イレブンさまならきっとお姉さまを助けられると」
約束の意味を込めて小指を差し出すと、セーニャは少し恥ずかしそうに笑って、控えめに指を絡めてきた。なんだか背中がむず痒い。
名残惜しげに絡めた指を離し、イレブンは一歩下がったところで控えめに佇んでいた人に歩みよる。
「シルビアさん。ぼく、この旅の間中、ずっとあなたの笑顔に助けられてきました」
思いを込めてそう告げると、シルビアはまるで慈悲深い聖者のように微笑みかけた。
つらい逃亡生活の中で、太陽のような彼の存在に心を救われた。悪魔の子として追われる身であるイレブンのことを疑うことなく、イレブンの人となりこそを信じてくれた。今日この日まで、ずっとその歩みを見守ってくれていた。彼はもともと気ままな旅芸人だ。こんな辛い旅に付き合うメリットはないはずなのに、己の信念と正義感を信じ、ここまでついてきてくれた。とても誠実で優しくて、公正なひとだ。
「不甲斐ない僕のことを、信じてくれてありがとう」
「大きくなったわね、イレブンちゃん。きっと、きっとアナタなら大丈夫よ。いつも笑顔でね。辛い時こそ、忘れないで。いつでもアタシたちが側についているわ!」
シルビア印の太鼓判を貰えば、向かうところ敵なしだ。
残る仲間はあと一人。
イレブンは静かに後ろを振り返る。全て悟ったような顔で、こちらをじっと見つめてくる唯一無二の相棒がそこにいた。
「カミュ、」
万感の思いを込めて、その名を呼ぶ。
出会った時からこの時まで、彼は疑うことなくイレブンを信じてついてきてくれた。打算もあっただろう。最愛の妹を救う残された唯一の手段がたまたまイレブンだっただけに過ぎない。それでも、どんな辛い時でも彼は隣にいてくれた。それにどれほど救われたことか。
「カミュ」
イレブンの心情を察してか、カミュが無言で腕を広げた。ひしと抱き合う。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「また、すぐ会えるさ。な、相棒」
「うん」
ぽんぽん、と宥めるように背を優しく叩かれる。唯一無二の相棒に背中を押され、ぐっと目元を拭ったイレブンは力強く顔を上げた。
時の番人の待つ方へと一歩前へと進む。ふと、ひらりと視界の端で翻ったものに視線を落とした。腕にぐるりと巻かれたオレンジ色のバンダナ。
イシの村でイレブンの帰りを待ってくれている、幼馴染のバンダナだった。結局、卑怯にもあの子にさよならを告げずにここまで来てしまった。よすがに、とこっそり彼女のバンダナをくすねてまで。
ただ一人、イレブンが向き合うことができなかった人物。
――エマ、さよならを告げることができなかった弱い僕を許してくれるかな。
イレブンは名残惜しむようにそっとバンダナに触れ、時の番人を再び振り仰いだ。その透き通った指先で示された先にあるのは、きらきらと輝く時のオーブ。
時の祭壇へと無言で前へと進む。後ろはもう振り返らない。
時のオーブを前にして、イレブンは静かに勇者のつるぎを鞘から抜き、そして――
「う、おおおおッ!!」
――キィンッ。振り下ろした剣先と時のオーブの双方が砕かれた瞬間、時空が引き裂かれた音を確かに聞いた。
ごう、と空間が歪み、光の速度でイレブンの周りを流れていく。
大切な仲間たちの姿がゆがんで、遠のいていく。
イレブンは、時のはざまにいた。
走馬灯のように、周りを膨大な量の過去の映像がものすごい勢いで流れては去ってゆく。
ウルノーガを倒したあの瞬間。魔に落ちたホメロスのあっけない最期。ベロニカの死を知ったあの日。グレイグが仲間になったあの時……。
その映像の中で、唯一自分の姿だけが見つからない。当然か、イレブンはここにいるのだから。これは記録映像ではなく、まさしく今、時空を旅行しているのだ。
――ふいに、鮮烈な赤を目の端で捉えた。
赤いとんがり帽子の少女。ベロニカだ。懐かしい彼女の姿を見つけ、思わずそちらに向かって手を伸ばしかけたその時。
「あっ!」
腕に巻きつけたバンダナがするりとはずれ、時のうずに呑まれてしまった。
追うわけにはいかなかった。追ってしまえば、完全に時のはざまに囚われる。
「エマ……」
茫然と立ち尽くすイレブンに、突如光が襲ってきた。
咄嗟に手をかざして目を閉じる。
『イレブン』
自分を呼ぶ、誰かの懐かしい声。
――柔らかな深緑の光が、イレブンを包みこんだ。