第十六話
死が汝らを分かつまで・後篇




「――な、なに?」
 目が覚めて、見覚えのない部屋の内装にナマエは困惑した。
 昨夜眠りに落ちる時は、たしかにあのデルカダール城の塔の上の一室を模した赤と黒の内装の天井を見上げながら、目を閉じたことを覚えている。なのに、これは一体どうしたことか。
 いつもなら隣で寝ているはずの男はいない。昨晩は用事があると、夕食も共にせず出かけたきりだった。ゆえにナマエはこの部屋に招かれてから初めての独り寝を経験した。その翌朝のことだ。
 赤と黒の、言ってしまえば目にチカチカとしてお世辞にも趣味の良いとは言えなかった壁紙は、落ち着きのあるアイボリーの色合いのものへと変わっている。窓には繊細なレースカーテン、使いやすそうな執務机、猫脚の可愛らしいドレッサー。寝室の一角には大理石のしつらえの暖炉まであり、白い毛皮の敷物の上にはロッキングチェアが佇んでいた。
 ナマエは混乱しながらベッドから起き上がり、あたりを恐る恐る物色した。基本的な部屋の構造は以前と同じようだが、色合いも質も上品なものに変わっているようだ。
 朝、起きたら部屋の内装ががらりと変わっていたなんてこと、ありえるのだろうか? それもたった一晩で。それとも実はまだ夢の中で、これはリアルな夢を見ているのだけなのだろうか。
 ごとり、と隣の部屋で物音が響いた。ホメロスだろうか。ナマエはローブを羽織って、そっと寝室を出た。
 バルコニーに面した応接間に、相変わらず奇抜な衣服を纏った男がこちらに背を向けて立っていた。男――ホメロスはナマエに気がつくと、微笑みを浮かべて両腕を開いてみせる。
「おはようナマエ。どうだ、この部屋は気に入ったか?」
「ホメロス、おかえりなさい。帰っていらっしゃったのですね。あの、これは一体どういう……」
 戸惑いながらもその腕の中に身を委ねると、頬にキスが落とされる。ナマエもまたキスを唇の端に返すと、ホメロスはにやりと何かを企んでいるような顔つきで口角を上げた。
「模様替えだ。前の部屋は飽きたからな。それに以前言っていただろう。暖炉のある部屋で縫い物をするのが夢だと」
 ナマエはびっくりして、「まあ」と感嘆をもらした。それは昔、一時婚約者だった男の墓標の前で何気なく言葉にしたものだ。まさしくこれが自分の夢だと告げたわけではなかったが、それでもそういう穏やかな生活を夢見ていたのは本当だ。そういえばあの時隣にいたのはホメロスだったか。到底叶うことのない儚い夢だとほとんど諦めていたもので、自分自身ですらその発言を忘れていたくらいなのに、まさかホメロスが覚えているなど夢にも思わず突然のサプライズを貰った気分だ。
「覚えていてくださって嬉しいわ。……でも一晩で、一体どうやって?」
 ナマエはすっかり変わった部屋の内装をちらりと目の端に捉えながら、不思議そうに尋ねた。
「こんなもの、魔力があれば造作もない。錬金術の一種だよ。鉛を黄金に変化させる仕組みを利用し、物の性質を作り変えるのだ」
 ホメロスはそう言って得意げに微笑む。説明されても理解はできなさそうだったので、詳しくは聞かないことにした。
 それよりも、ホメロスの足元に置かれた膝下ほどの立方体が、先程からちらちらと視界に入ってナマエの注意を引いている。白い布がかけられていて中身は不明だ。ホメロスは彼女の視線が足元に注がれていることに気がついて、ふふんと鼻を鳴らしてみせた。
「これがなんだか気になるか?」
「はい、ええ……一体なんでしょうか」
 被せられた白い布から思い出すのは、手放してしまったあの白い鳥だ。少し怖気づきながらも尋ねると、待ってましたとばかりにホメロスは布に手を伸ばした。
「そら、麗しの王女様にもうひとつプレゼントだ」
 ばさりと取り払われた布の下から現れたのは、格子状の檻だった。その中ですやすやと眠るのは、一匹の幼いネコ科の獣。向日葵色の毛並みに、ところどころ砂色の斑点模様。小さいながらも炎のような立派なたてがみが頭部から尻尾にかけて生えているそれは、ベビーパンサーと呼ばれる魔獣の一種だ。図鑑で見たことはあったが本物を目にするのは初めてだった。成獣であるキラーパンサーは凶暴凶悪で度々旅人たちの脅威となりうるが、彼らは魔物の中でも頭が良く、幼い頃から躾ければ人に懐くことがあり、中にはペットとして飼う愛好家もいるらしい。
 すやすやと安らかに寝ているのにも構わず、頓着しないホメロスの手がベビーパンサーの首根っこを掴み上げた。ミャウ、と檻から出された獣が目覚め、小さく鳴く。彼の腕に大人しく抱っこされるがままの幼獣はまだ寝ぼけ眼でぼんやりとホメロスを見上げている。まるでぬいぐるみのようなフワフワの毛並みと、黒目がちの大きな青い瞳。その愛らしさに、ナマエはすっかり心を奪われてしまった。
「かわいい! ああ、なんて愛らしいの……。この子を、私に? ほ、本当にいいのですか?」
「それほど喜んで頂けるとは重畳。さあ、今からこいつはお前のものだ。抱いてみるか?」
 ナマエの反応が予想通りだったのか、ホメロスは満足げに目を細めて腕の中の幼獣を慎重な手つきで差し出してくる。その言葉を心待ちにしていたナマエは歓喜しながら手を差し出した。
「ええ、もちろんよ。ありがとうホメロス、ありがとう。とても嬉しいわ。さあ可愛い子、こちらへおいで? ……ん、ふわふわで、なんだかお日様のようないい匂いがするわ」
 おそるおそる抱き寄せた柔らかな獣の毛並みに顔を埋めると、ミルクのような日向のような、懐かしい匂いがした。毛並みを荒らされるのが嫌だったのか、ベビーパンサーの少しひやりとした肉球がぺちりとナマエの頬を抑える。ふにふにとして柔らかいその幸せな感触に、「ふふふ」と頬がどんどん緩んでいってしまう。
「爪は全て抜いてあるが、牙には気をつけろ。小さくても獣だからな」
「爪を?」
 一人と一匹の様子を窺っていたホメロスの何気ない言葉に、ナマエは困惑した。ベビーパンサーの前脚を掴んで観察すると、彼の言った通り爪が見当たらない。怪我をしてはいけないと、きっとナマエのためにしてくれたことだろう。だが人間のエゴでこの幼い生き物に負担を強いてしまったことに胸が痛んだ。
「……爪を抜いてしまって、この子がこの先生きていくのに困らないかしら」
「さあ、知らんな」
 ホメロスの反応は素っ気ない。興味がないのだろう。ナマエは諦めたように肩を落として、腕の中の無邪気な獣の瞳を痛々しげに覗き込んだ。
「きっと痛かったわよね。ごめんね、痛い思いをさせてしまって」
 応えるように、ミャウ、と獣が鳴いた。弧を描くふくふくとした口の両端から、鋭い犬歯が覗いている。彼の言った通り、本気で噛まれたらひとたまりもないだろう。なるべく甘噛みを癖付けないようにしなければ。
 この獣を飼うとなったら、それなりに準備すべきものがある。寝る場所に、排泄する場所、それに食事だ。
「この子はなにが好きなのかしら? やっぱり生肉? ミルクはまだ必要かしら」
「さあな、雑食だから別になんでも食べるさ。気にせず好きなものを与えるといい。万が一中毒で死んでしまっても、また別なのを連れてきてやるからあまり気にするな」
「そんな、別の子なんて! ……もう、冷たいんだから。いいわ、私がこの子を大切に育てます。私にだけ懐いて、後で悔しがっても知りませんからね」
 あまりに無慈悲で鈍感な言葉に衝撃を受け、ナマエは腕の中の獣を守るようにぎゅっと抱きしめる。それが苦しいのか、抗議するように小さな獣はキュンキュンと鳴きながら身を捻り、ナマエの腕をあむあむと甘噛みした。
「別に悔しがりはしないと思うが。……まあ、お前がもしそいつばかりにかまけるようになったら、その時は少し考えねばなるまいがな」
 反抗的な彼女の態度に、くく、と男は肩を揺らす。
 ふと、その顔に陰りが落ちた。
「……そんな、はしたな命にすら情けをかけるのだな、お前は」
 そっぽを向いていたナマエだったが、その呟きが耳に引っかかってふと顔を上げる。どことなく悲しそうな眼差しが彼女の腕の中に注がれていた。吊り上げられた薄い唇の端に浮かんでいるのは哀愁か、皮肉か。
「あっ」
 抱擁が緩んだせいか、腕の中から脱出を試みていたベビーパンサーがナマエの手をかいくぐり、とん、と優雅に絨毯の上に着地する。そのまま逃げ出そうとしたやんちゃな獣の首根っこを、青白い手が無造作に掴みあげた。
「ミャーウ、ミャ、ゥミャッ」
「こら、暴れるな。大人しくしろ」
 再びナマエの腕の中に戻された幼い獣の小さな頭を、青白い手がたてがみごとぐしゃぐしゃとかき乱す。先程の憂い顔はどこへやら、ホメロスは妖艶な笑みを浮かべてナマエの耳元で囁いた。
「しばらく留守がちになる。寂しい思いをさせるが、こいつと一緒にいい子で待っていてくれよ?」



 以降、ホメロスは宣言通りあまり部屋には顔を出さなくなった。
 たまに帰ってきたと思ったら、ひとことふたこと言葉を交わしてすぐに出て行ってしまう。逢瀬の時間もめっきり減ったが、寂しさはホメロスが連れてきてくれた小さな友が埋め合わせをしてくれる。寂しくはない。だって彼は待っていれば必ずナマエの元に帰ってきてくれる。
 ――だから寂しくはない。そう、強く自分に言い聞かせて。今日も自分の感情を誤魔化す。

 久しぶりに帰ってきたホメロスが、今日はなんだかとてもご機嫌のようだ。
 男を取り巻くどこか浮かれたような雰囲気に気付いたナマエは、こっそりとその横顔を窺った。今日は久々にゆっくり時間が取れるようで、夕食を伴にし、身を清めて、しばし二人と一匹で他愛ない時を過ごした。その間中もずっとホメロスの機嫌は良く、彼はよくしゃべり、よく笑った。何か良い事でもあったのだろうか。
 ベッドへといざなわれて、ナマエは横になった男の腕に抱き寄せられ静かに頭を預ける。
「……ねえ、なんだか今日は楽しそうね」
 我慢しきれず尋ねると、無自覚だったのかホメロスは目を丸くした。
「そう見えるか?」
「ええ、何か良い事があったの?」
「聞きたいか?」
「ぜひ」と請えば、ホメロスはにやりと挑発的な視線を向け、口の端を吊り上げた。
「ずっと行方不明だったグレイグが、イシの村に被災した人々を集めているとの報告が今日入ったんだ。敗残兵を取りまとめて砦を作り、制圧された王都を取り戻そうとしているらしい。まったくしぶといやつめ。昔からあいつは転んでもただでは起きん奴だった。あくまで我が王に盾突くつもりらしい。しかし、退屈しのぎにはちょうどいい。明日にでもこちらから兵を差し向け、攪乱してやろうと考えていたところだ。……くく、あの張りぼての要塞がどこまで保つか、見ものだな」
 グレイグが見つかったこと、そしてデルカダールの王都が制圧されたという事実にも衝撃を受けたが、その前に聞きなれない村の名前にナマエは小首を傾げた。
「イシの村……?」
「ああ、言ってなかったか。イシの村とは、悪魔の子――勇者が成人するまで育った、デルカダールの南方にある辺鄙な村のことだ」
 今度こそ、するどく息を呑む。
 “勇者が成人するまで育った”村。そう、ホメロスは言ったのだ。
「……まさかイレブンが? デルカダール国領内に?」
 ああ、とホメロスは頷く。
 当たり前のように、イレブンが生存していた事実があっけなく認められる。その瞬間、ナマエの後ろ髪をずっと引っ張っていた孤独の影がするりと煙のように立ち消えたような気がした。
 甥が、生きている。愛する姉が遺した希望の子が。
 ナマエは呑みこんだ息を、昂る感情とともにゆっくりと吐き出した。目がしらが熱い。
「そう、そうなのね……、生きて、ずっと近くにいたのね。こんなに嬉しいことはないわ。ああ、せめてひと目、」
 言いかけて、ハッと我に返って口を噤む。イレブンとホメロスは、いわば敵対している者同士だ。イレブンに一目会いたい、などという願いは当然聞き入れられる筈もないし、そんなことを言って彼を困らせたくはない。
 だが勘のいいこの男はナマエの飲み込んだ言葉はおろか、内心の葛藤まで察したらしい。紅い目が優しく眇められ、尋ねてくる。
「会いたいか?」
「……いえ」
ナマエ、オレに遠慮などしてくれるな。甥に、会いたいか?」
 大事なものを扱うような手つきで、宥めるように頭を撫でられる。思わず泣きそうになった。
「――はい」
 涙をこらえるナマエの額に、慈しむようなキスが落ちる。
「ふっ、麗しの王女様のご要望とあらば。勇者を見つけ次第ウルノーガ様に献上する予定だったが……。いいだろう。その前にひと目、会わせてやる」
イレブンはまだ生きているのね?」
「おそらくはな。命の大樹が落ちる際、勇者の仲間の一人が身を挺して守ったと聞いている。だからお前の甥はどこかで生き延びているはずだ」
 やはり、この世界の変容はイレブンが動き出したことがトリガーとなったようだ。今まで気になってはいたものの経緯を尋ねたことはなかったが、どうやらナマエがホメロスに匿われてのち、イレブンがデルカダール王――魔王の前に現れたらしい。それが敵の親玉であると知らずに。イレブンは命からがら魔の手から逃れ、仲間を得て、大冒険をし、そして命の大樹へとたどり着いた。その先に待っていたのは、恐ろしい魔王の罠だ。
 命の大樹が落ちる際、その身を犠牲にしてイレブンを守ってくれたという顔も名も知らぬ人物に胸が痛んだ。つらい逃亡生活のなか、イレブンはきっと素晴らしい仲間に巡り合えたのだろう。それだけは幸いだった。幸いだが、同時に悲しくもある。
「あの子の仲間はどんな人たちなのかしら」
「勇者の仲間か。ふふ、名前を聞いたら驚くぞ」
 ナマエの呟きを拾って、ホメロスは得意げにその名を挙げた。
 盗賊カミュ、ラムダの姉妹ベロニカとセーニャ、旅芸人シルビア。当たり前だが、挙げられる名前はどれも聞き覚えのないものだった。だが次に告げられた名前にこそナマエは驚愕した。
「――それと前ユグノア国王、ロウ」
「ッ、お父様が……!?」
「ああ、それとマルティナ姫も」
「マルティナ姫も!? ほ、ほんとうに……? それは本当なのですか?」
 今までずっと死んだものと思っていた人たちが生きていると告げられて、なお冷静でいられるほどナマエの神経は太くはない。ホメロスを疑うわけではないがすぐには信じられず、しつこく確認してしまうのは仕方のない事だった。
「嘘は言わんぞ」
 必死なナマエの様子に少し困ったように眉尻を下げてホメロスが笑ったので、それでようやく真実なのだと悟る。
「うれしい、――夢みたい。ほんとうに、夢みたい」
 失ったと思った家族が生きている。ナマエは天涯孤独じゃない。その事実が、ひたひたとナマエの足先から幸福で満たしていく。
「会いたいわ……お父様。エレノアお姉さま」
 無事に生きていてくれただけで十分だとは思いながら、心はなお貪欲に絆を求める。愛する人が側にいてくれるという幸せと、大切な家族が生きていたという僥倖。だが残念ながら、このふたつの幸福を同時に掴み取ることは出来ないのだ。
 ナマエは既にホメロスの決断を受け入れている。彼はもう、人間側に戻ることはない。
「でもマルティナ姫が生きていらっしゃって、グレイグ様もさぞお喜びでしょうね。グレイグ様にも是非お会いしたいわ。あなたが酷いことを企んでいるって、早くお知らせしなきゃ」
 己を抱きしめる男を見上げ、ナマエはにっこり笑ってわざとらしい口ぶりで彼の元相棒の名を口にする。これ以上、湿っぽい話を続けるつもりはないというナマエなりの意思表示のつもりだった。ナマエのその意図をすぐに読み取ったホメロスは、顰めかけた眉根を緩め、妖艶な仕草で薄い唇を舐めた。
「……ほう? ナマエ、ベッドの上で他の男に会いたいなどとうそぶくとは良い度胸だ。覚悟は出来ているんだろうな」
「ふふ、許して? ホメロス」
 体を起こしたナマエは悪戯が成功した子供のように無邪気に微笑んで、騒めく血色の瞳を覗き込む。稚拙で、あからさまな挑発だ。
「ふむ、さてどうするべきか」
「ねえ、……ひどくして、いいから」
 余裕を見せるホメロスの牙城を早く崩したくて、ナマエは頬を染めて婀娜あだっぽく囁く。
「……っ!」
 もったいぶって獲物を焦らそうとした男の目論見はそこで崩れた。発情を隠し切れない潤んだ瞳と蠱惑的な囁きに我慢しきれず、ホメロスは目の前の獲物に勢いよく食らいつく。互いの吐息が混ざりあいながら、夢中で唇を啄んだ。
 きつく抱きすくめられた背骨が、ぎり、と軋む。はあっ、と苦しさから息が弾んだ。
「もっと、」
 一瞬離れた唇の隙間から、ナマエは潤んだ瞳で男に請うた。
 ――もっと。もっと苦しみを与えてほしい。もっと痛くしてほしい。この身に刻んでほしい。あなたが生きているという証を。
 男の胸に添えた手のひらは、その厚い筋肉の下にあるはずの心臓の鼓動を拾わない。魔王に心臓を奪われてしまったのだろうか。ひどい話だ。彼の全てが欲しいのに、相手が魔王では取り返そうにもままならない。
 ――返してほしい。彼の心を、心臓を、未来を。なにもかもを。
 男の熱い吐息を胸の谷間に感じながら、気が付けばナマエは嗚咽を零していた。
「な、なぜ泣く。どこか痛むのか?」
 苦しそうに肩を震わせるナマエを、ホメロスは狼狽しながらも心配そうに覗き込んでくる。
「……ちがう、ちがいます」
「では一体なんだ? 何がお前を泣かせている」
 溜めに溜め込んでいた感情を、一度自覚してしまうともう駄目だった。ナマエは喉を震わせ、声を絞り出すようにして胸の奥の苦しみを吐き出した。
「やっぱり、ここでひとりあなたを待つのは辛い。……会えない時間が長くなればなるほど、帰ってこなかったらどうしようとか、余計なことを考えてしまって」
 涙混じりの訴えに、ホメロスはたじろいで言葉に詰まったようだった。
「決してあなたの力を信じていないわけではないの。でも私の知らないところで、もし誰かに討たれてしまったらと……。ひとりきりが続くと、いやな考えばかりが浮かんで仕方ないの」
「杞憂だ。お前を置いて死ぬものか。オレの帰る場所は、ここ以外にはない」
「――でもイレブンが生きているのでしょう!?」
 ナマエはヒステリックに叫んだ。それは悲鳴だった。苦しい苦しいと悶える心が上げた彼女の慟哭だった。
 ホメロスは驚いて目を丸くしている。ナマエは涙に濡れた瞳でキッと青白い肌の男を睨みつけ、そして堪えきれぬように顔をくしゃりと歪めた。
「きっと、すぐにでもここに辿り着くわ。だってあの子は世界を救う宿命を負わされた勇者だもの。そうしたらあなたは、あの子の前に立ちはだかるのでしょう?」
「当然だ。くだらぬことを聞くな」
 険を孕んだ声色が、ナマエの訴えを世迷言のごとく切り捨てる。
「……怖いの、怖いのよ。私にとってどちらも大切なものなのに、あなたとあの子が出会ってしまえば必ずどちらかを失うことになる。それが怖いの。私はどちらも失いたくない」
 とうとう抑えきれなくなった涙が、泉のように湧き出て次々頬を零れ落ちていく。ナマエは顔を覆って弱弱しい声で訴えた。
 ふいにぐっと強く肩を掴まれる。肩に走った痛みに顔をしかめた時、顔を覆っていた腕を引っ張られ、おとがいを乱暴に掴みあげられた。激昂から爛々と煌めく瞳がナマエを鋭く射抜いている。紅い瞳の奥に、嫉妬という名の炎が舞い踊っていた。
「この十六年、ずっと生死も分からぬままだった甥のことがそんなに大事か……? ずっとお前のそばにいたオレよりも、あの忌まわしいドブネズミどもの方が大事なのか!? ……はっ、はは、いいだろう、そんなに家族の元に帰りたいなら、ここでお前の心臓を食らって――」
「違います! 私はもうとっくにあなたを選んでいるわ!」
 過激な口調で責めたてられ、激しく首を振りながらそれを否定する。どうしようもなく悲嘆にくれた。ナマエがいったい何を畏れているのか、なにを怖がっているのか、一ミリも伝わっていない。
 涙はぽろぽろとこぼれ落ちるままに、いまだ激昂に頬を紅潮させた男を睨みつけるようにしてぐっと迫る。一瞬、彼が気圧されたように身を引いた。
「ホメロス、万が一、あなたがいなくなったら……。あなたがいない世界で私はどう生きればいいの? 連れていってください。冥府の底でも、地獄でも、どこへでも連れていって。私の全てはあなたのものです」
 見開かれた赤い瞳孔が、動揺に揺れている。
 怖いのは、愛する人を奪われること。愛する人と引き離されること。平時であれば気にも留めないような恐れだ。
 ――このひとは、勇者の敵。人間の敵。光のもとに生きるものすべての敵なのだ。
 そしてナマエは、人間のまま闇に落ちると決めた。
 ……いや、気が付けば闇に引きずり込まれていた。命の大樹が落ちてから、ずっと底なしの闇を落ち続けている。隣には愛を誓った人がいるとは分かっていても、ほんとうは怖くて怖くて、正気を失いそうだった。だからその前に、
「ぜんぶ、奪って。おねがい、ひとりにしないで」
 震える指先で縋るように愛しい人の手を掴むと、力強い腕が溺れるナマエを掬い上げた。

 果たしてその時彼女が掴んだのは救いの手か、それとも――。
 一緒に沈みゆく藁か。