第十六話
死が汝らを分かつまで・前篇
ふと、水底でたゆたっていた意識がゆっくりと浮上した。
目を開けようとして、瞼が腫れてひどく重くなっていることに気付く。体は鉛のように重く、鈍痛が下腹部に我が物顔で居座っている。それらはすべて彼にたくさん愛された名残だと思えば、この痛みにすらも愛着が湧いてしまいそうだ。
なかなか開いてくれない瞼をなんとかこじ開ける。すぐ目の前に、秀麗な相貌の男の寝顔があった。うっすらと開いた薄い唇からはすうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。いつもは眉間に刻まれた厳しげな皺もこの時ばかりは姿を消し、すっかり毒気の抜かれた目の前の貴重な寝顔をまじまじと見つめる。
どうやら互いに向き合ったまま、眠りに落ちたようだった。まるで運命の糸を手繰り寄せるように、しっかりと指を絡めて手を繋がれている。密かに憧れであった恋人の腕の中での目覚めではなかったものの、それだけで心は十分満たされた。
満足げな溜息をついて、うっとりとしながら目の前の長いまつ毛の数をなんとなしに数える。ふと薄い唇にかかる銀髪のほつれ毛が気になって、そっと繋がれていない方の手を伸ばして指先で静かに払ってやる。
伏せられた長いまつ毛がぴくりと震えた。そしてゆっくりと瞼が持ち上がり、ぼんやりとした紅い瞳がさ迷い、やがてナマエを捉える。
ホメロスは柔らかく微笑んだ。
「……おはよう」
寝起きの低く艶のある声がどことなく昨晩の情事を思い起こさせ、ナマエは照れ隠しにはにかんだ。おはようございます、と返そうとして、その声はほとんど音にすらならなかった。喉がすっかり枯れ果ててしまったようだ。ナマエは耳障りなしゃがれた自分の声にびっくりして、思わず喉を抑える。
「すまない、流石にがっつきすぎたようだ」
「ぃ、え、」
憂い顔で柳眉を寄せるホメロスにこれ以上の心配をかけまいとして、大丈夫です、の意味を込めて頭を振る。
「どれ、見せてみろ」
気難しそうに眉根を寄せたホメロスは、体を起こしてナマエの顎を持ち上げ、無遠慮にその指を彼女の口の中に突っ込んだ。抵抗する間もなく下顎を押さえつけられ、かぱりと大口を開けさせられた状態で親指がナマエの舌をぐっと抑えつける。どうやら喉の具合をまじまじと看られているようだ。舌先に指の厚い上皮を感じる。はふはふと不器用に息を吸いながら、ナマエは気恥ずかしさから身じろぎした。じゅわりと口内に湧いた唾液が口の端から溢れてホメロスの指を濡らす。……はやく離してくれないだろうか。
「腫れている、さえずりのみつが必要だな。……ああ、もちろん毒が入っていない方のな」
拘束していたナマエの顎を離しつつ、ホメロスは真顔でそう言い足した。毒、とはいつぞやの毒混入事件のことを言っているのだろう。さえずりのみつという単語にまつわる思い出は、ナマエにとっては決して良いものではない。それなのにあえて毒に言及したのは、果たして彼なりの気遣いだったのかブラックジョークだったのか判別できず、微苦笑を浮かべるしかなかった。
体はいくらでも惰眠をむさぼれるほど疲れ切っていた。だがいくらタオルで拭ってくれたとはいえ、汗やら唾液やら体液にまみれた体に残る不快感までは拭えず、気力を振り絞って体を起こし、浴室まで運んでもらって念願の湯に浸かることができた。浴槽でうつらうつらしても危なくないようにと湯の温度と量の調整までを完璧にこなしたホメロスは、朝食の用意をしてくると告げて浴室を出ていってしまった。
ホメロスの背中を見送ったナマエはぱちぱちと瞳を瞬き、そして瞼の落ちるままに従った。
気が付けば、ソファで横になっていた。いつの間にか肌触りのよいバスローブを纏っているところを見るに、どうやらホメロスの危惧どおり浴槽に浸かったまま眠りに落ちてしまっていたようだ。
また、ホメロスに余計な手間を掛けさせてしまった。朝食を載せたトレイを持ってダイニングの奥から現れた彼を、ナマエは申し訳なさそうに出迎えた。ごめんなさい、とほとんど空気混じりの声で謝ると、ホメロスは可笑しそうに目元を細めて笑った。
「出ていって、心配になってすぐに戻ってみたらもう舟を漕いでいた」
どうやら、寝落ちするのも想定内だったらしい。己の浅慮さにうなだれていると、トレイをテーブルの端に置いたホメロスが隣に身を寄せてきて、おもむろに耳元に唇を当て囁いた。
「お前がぐっすり寝こけているうちに、体の隅々まで洗っておいてやったぞ。無論、中の方もな」
「……っ!」
弾かれるようにナマエは体を離し、咄嗟にソファの隅に置かれていたクッションを引っ掴んだ。手に持ったそれを底意地の悪い笑みを浮かべる男の顔にぼふんと押さえつけようとして、顔を守るようにしてかざした腕に弾かれ逆にクッションを奪われてしまう。
「はは、そういえば眠りながら、随分と気持ちよさそうにしていたな。実はこっそり起きていて、楽しんでいたんじゃないのか? なあナマエ」
「~~っ! ぁ、……って!」
にやにやとしながら挑発する男に枯れた声ではまともに反論もすることができず、ナマエは真っ赤な顔のまま悔しげに唸った。減らず口を叩く唇をせめて塞ごうとして伸ばした手は、あっさりと手首を掴まれそのまま腕の中に引き寄せられてしまう。
「冗談だ、そう怒るな」
ホメロスは顔を真っ赤にして憤慨するナマエをぎゅうぎゅうに抱きしめて、くつくつと可笑しげに肩を揺らした。
まったく、彼の冗談は心臓に悪い。
ホメロスが用意してくれた朝食を食べ終えると、寝室に連れられてそのままベッドに押し込まれた。甲斐甲斐しく世話を焼く彼はまるでナマエの親鳥のようだ。されるがままのナマエは目を閉じればまたすぐに気を失うようにして眠りに落ちた。
一眠りし、ようやく動き回れる程度には体力が回復したようだったので、着替えて寝室を出る。すると丁度外出していたらしいホメロスがその手にさえずりのみつを持って、部屋に戻ってきたところに出くわした。わざわざ探し出してきてくれたらしい。とろりとした黄金色の蜜を一口含めば、てきめんに効果があった。
ようやく声を取り戻したナマエは居住まいを正し、ホメロスへと向き合った。
「ホメロス、あの、聞きたいことがあるの」
「どうしたんだ、改まって」
「命を賭すとは何のことか、聞いても?」
ホメロスの表情が一瞬強張り、すぐに忌々しげに歪む。昨晩、彼が漏らした言葉。それがずっと頭の端に引っかかっていた。
「忘れておいてくれればいいものを」
盛大に舌打ちされ、予想以上の拒絶を肌で感じたナマエは若干尻込みした。
「言いたくなければ、無理にとはいいませんが……」
おずおずとそう告げれば、ホメロスは再度小さく舌打ちし、しばし瞼を伏せて考え込こむようにおし黙る。
「……いいや、お前にも知る権利がある」
まもなく、目を開けたホメロスはナマエを見返し静かにそう告げた。
「――我が王が私にお前の殺害を命じたのは、知っての通りだろう。薄々勘付いてはいるだろうが、それ以外にもあの方は度々ユグノア王家の生き残りであるお前の命を狙って罠をけしかけていた。全ては我が王が勇者の血統を憎むゆえにな。私はあの方の魔の手がお前に及びそうになる度に、気付かれないようそれを密かに打ち払った。王に忠誠を誓った当初、あの方の注意は勇者という憎むべき存在にひとえに注がれていたから、私ごときがこっそり動いても気付かないだろうと踏んでいたのだ。……だがそれも浅はかな考えだった。あの方には全てお見通しだった。オレの悪あがきも、小細工すらも」
黙ってその告白に耳を傾けていたナマエは、次第に胃のあたりがすうっと冷えていくのを感じた。彼が忠誠を誓ったのは魔王だ。臣下の反抗を赦すような慈悲は、おそらく持ち合わせてなどいないだろう。
「では私を助けてくださるために、相当危ない橋を渡るはめになったと」
「まあ、そうだな。私はお前のことに関しては、あの方の忠臣にはなりきれなかったということだ」
ふっとホメロスは自嘲するように呟く。一歩選択を間違えれば、きっと彼は魔王に消されていてここにはいなかった。まさしく刃の上を歩くような生き様に、背筋がぞっとする。
薄ら寒さから身を守るように両手で己を掻き抱くと、その様子を見たホメロスはふっと肩の力を抜くように息を吐いた。
「ついでだ、もう一つ告白しよう」
「なんでしょうか」
血色の目でひたとナマエを見つめ、彼は静かに口を開いた。
「お前に関わる人間を、少なくとも三人、殺した」
一瞬、全ての音が遠のいた。
「……いま、何て?」
「――三人、お前が知る人間を、この手に掛けたと言った」
息を呑む。
さんにん。ぼうぜんとして繰り返しながら、頭が真っ白になった。自分の知らないところで、既知の人間が彼の手にかかって死んだ。三人も。
ナマエが我に返る前に、ホメロスはその命を奪った三人の名前を挙げた。彼女に見合いを勧めた大臣、ほんのわずかの間婚約していたクレイモラン出身の男爵家の三男坊、そしてナマエの部屋の前を長年守ってくれたあの心優しい見張り兵の青年。
涙をこらえながら、なぜ、と尋ねれば、返ってきた答えに全てではないが彼が手に掛けた理由が納得できてしまって、胸につかえた言葉はそのまますべて飲み込んだ。一度目は激情から、二度目は彼女の暗殺計画を止めるため、三度目は忠誠を誓った王を欺くために。そのすべてがナマエに関係する死だ。
「オレを軽蔑するか?」
皮肉げに口の端を歪め、吐き捨てるように尋ねてくる男の瞳に見え隠れしているのは、紛れもなく怯えだ。軽蔑され、糾弾されて当然だと口先では告げながら、その実それを最も恐れている人の目だった。
眦に溜まった涙が一粒、こぼれ落ちた。ナマエは迷いの浮かぶ紅い瞳を力強く見つめ返しながら、いいえ、とはっきりとホメロスの言葉を否定した。
「いいえ、その犠牲があった上で私が今生きてここにいるのならば、私もあなたと同じ罪を背負っているわ」
自分だけは。他の誰でもない、ナマエだけは、この瞳から目を逸らしてはいけない。
「決して、あなただけに重荷を背負わせたりはしない」
誓いを立てるように、おごそかに宣言する。前触れもなく伸びてきた腕に、荒々しく抱き寄せられた。まるで縋りつくように背後に回された両腕が、ナマエの背骨を軋ませる。
苦しい。けど、彼はもっと苦しんだのだ。
「……っ、愚かな女だ。お前は、本当に」
感極まったような熱い吐息が、胸の谷間に落ちていった。
昼も夜も関係ない世界で、さまざまな場所で愛し合った。求められるがまま与えて、与えられるがまま貪る。まさしく夢のような日々だった。誰にも邪魔をされることのない、ふたりだけの世界がそこにあった。
幾度も愛を交わしていくうち、次第にナマエの心の奥底に、とある密やかな願いが生まれつつあった。
情交を交わし、男の精を受け止めた胎にそっと触れる。まるでそこにもう命が宿っているかのように、慈しむような手つきで薄い腹を撫でながらナマエはぽつりと呟いた。
「……赤ちゃん、できるかしら」
「欲しいのか?」
後ろからすっぽりとナマエを抱える男が慎重な声色で問いかける。ちらりと視線を背後へと向け、ナマエは微笑んだ。
「……あのね、あなたに家族を作ってあげられたらなって」
それはささやかな、けれど切実なる願いだった。かぞく、とぎこちなく反芻した男の表情が凍り、目元に昏い陰が落ちる。
「オレは、」
紅い瞳に動揺が走っている。
「オレはナマエがいれば、それでいい」
痛々しいほどの悲壮感に満ちた声色が、そう重苦しく告げる。ナマエは無言で、己を抱きしめる腕にそっと手を添えた。
願いとは言ったが、所詮は叶うことのない夢だとは分かっていた。穏やかな春の日々はそう長くは続かない。それを二人とも、薄々感じ取っていたのだ。
太陽が姿を隠してから、はやひと月が経とうとしていた。
延々と続く夜の世界に沈んだ気分が浮上することもなく、ナマエは地上の人たちに思いを馳せた。それでも空に浮かぶ大きな月が時折雲間からその姿を見せ夜を煌々と照らすこともあって、その時ばかりは心穏やかに地上を眺めることができた。
淡い白銀の光が、すべてを優しく包んでくれている。ロトゼタシアの空も、この天空魔城の空ですらも。
寝室の大きな窓から差し込む一条の光が、シーツの上に豪奢に散らばったホメロスの美しい銀髪に注がれている。それを指に絡めて梳きながら、ナマエはうっとりと囁いた。
「……あなたはまるで月のようね」
情交の後の火照った肌を冷やしながらの、他愛ない言葉遊びのようなやりとり。彼は最初の夜以来、自制して無茶な抱き方をすることはなかったので、枕を交わした相手とこうして会話を楽しむ程度の余裕がこの頃生まれてきていた。
ナマエの何気ない呟きに、それまでじっと目を閉じていたホメロスがぴくりと反応し、片目を開ける。切れ長の目がじとりとこちらをねめつけた。
「それは皮肉か?」
「違うわ。どうしてそう思ったの?」
「月は太陽がなければ輝けない。はっ、まるでオレとグレイグのようだな」
唾棄するように自嘲する彼の発言こそが紛れもない皮肉だったが、すぐにはそれを否定せず、うーん、と首をかしげてナマエは思考を巡らした。ホメロスが月ならば、グレイグは太陽。なるほど彼の発言には一理ある。
「確かにグレイグ様は太陽のような方ね」
素直に同意を口にすると、男の眉間が不機嫌そうに寄った。己から言いだしたくせに、どうやらそれを認められるのも嫌らしい。天邪鬼な男に、ナマエはこっそりと笑みを零す。
「でも、私たち人間にとって太陽がなくてはならない存在であるように、夜を照らす月もまたなくてはならないものよ。夜の道を行く旅人をやさしく導いてくれるのは、太陽ではなく月の役割だもの」
むすりと口元に不貞腐れた色を残すホメロスは、ナマエの言わんとしていることを察したらしく、開きかけた口を静かに閉じた。
「太陽の光は、時に生きるものには厳しすぎることもある。その強烈な光で、隠したいことも全てを明るみにしてしまうわ。でも月の光は全てのものにそっと寄り添ってくれるの。一見冷たく見えても、本当はその光は優しさで満ちているのよ」
「……では、ナマエはオレが優しいと」
「ええ、優しいわ。お城にいた兵士さんたちは皆あなたのことを慕っていたもの。ふふ、みんなね、あなたが実は優しい人だってことくらいお見通しなの」
悪戯げに微笑んで、そう指摘する。
ナマエは幾度もホメロスの優しさに触れ、そして救われた。だから知っているのだ、月の光が優しいものであると。
かつてなく己の本質を暴かれる羽目になったホメロスは動揺をしながらも、それは違う、とナマエの言葉を強く否定した。
「それはオレがいかに兵士を使い潰さず、国と上官への忠誠心を植え付け、効率よく立派な戦力に育て上げるかを考えて実践しただけだ。別にそこに優しさなど関係ない」
「うん、でもそれを知っていて実践できるあなたはとても部下思いのいい上司なのよ? あなたは部下に慕われている。たとえ物事の一面でしかなくとも、それが全てよ」
完璧主義のこの男は、生半端な評価では納得しない。己の評価については、きっと自分自身が一番厳しい目で見ているのだろう。それこそ自虐的になるまでに。
ナマエはそんなホメロスの中に巣くう疑心暗鬼を否定することなく、真実から目を逸らしつづける視線を優しくこちらへと促した。
「ねえ、そろそろ認めてちょうだい? あなたは私の自慢の恋人だってことを」
「な、」
切れ長の瞳が見開かれる。
「オレが、自慢だと? ――はっ、はは、それはまたとんだ皮肉を……クソッ」
笑い飛ばそうとして、どうやら失敗したようだった。紅い瞳が見る間に潤んでいくのを、ナマエは言葉もなく見守った。
「こんなことで、……情けないな」
「あっ」
くしゃりと歪む相貌をよく見る前に、さっと体を反転させられてしまった。
拒絶するように広い背中を向けられてしまっては打つ手がない。ナマエは困ったように溜息をつき、丸まった背中にぴたりと寄り添っておでこをくっつけた。さらさらと触れあう互いの素肌が気持ちいい。
「ホメロス、こっちを見て。顔を隠さないで、よく見せて」
「いやだ」
いじけたような声色が返ってきて、笑うのをなんとか堪える。なんて大きな子供だろう。
「ねえ、弱気になっているあなたがとても愛おしいわ」
「ナマエ、からかうな」
「からかってなんかない。もっとそうやって、最初から人を頼ればよかったの」
きっぱりとホメロスの言葉を否定して、ナマエは大真面目に続けた。
「痛みを抱えてひとりでじっとしているのは辛いわ」
それは紛れもなく彼女自身が経験し、思い知ったことだ。弱みを曝け出すことに、ことさら臆病になってしまうのは誰でも同じことだ。けれどたったひとり。ひとりだけでいいのだ――、寄り添ってくれる誰かがいれば、きっと道に迷いはしなかったはずだ。
「……ナマエ」
背を向け続けていたホメロスが、ようやくこちらを向いてくれた。だが顔を覗き込もうとする前に、その腕にかたく抱き込まれる。
男の胸にそっと頬を押し当てる。張り詰めた皮膚の下から聞こえてくるはずの心音が、押し当てた耳元になにも響いてこないことには薄々気づいていた。ナマエを大事そうに抱きしめるこの男は、もはや人間ではないのだと改めて思い知る。
――心は彼とともにある。その決意は揺るがない。
だがナマエにようやく心を許してくれたこの孤独な獣を、なんとか説得して人間側に引き戻すことは出来ないだろうかと考えあぐねていた。いくらホメロスの側にいると決意したとはいえ、ナマエ自身は彼が忠誠を誓う魔王に追従するつもりは全くない。
もしかしたら、今ならナマエの言葉に耳を貸してくれるかもしれない。……でももし、彼の機嫌を損ねたら? いいや、もしもの話はよそう。怖気づいて何もできなくなってしまう。
一度だけ。一度だけでいい。この青白い肌の男の中に眠っているであろう、優しいはちみつ色の目をしたかつての青年に語りかけてみたい。
ナマエは意を決し、己を抱く上腕に手を添えた。ホメロス、と名を呼べば、その緊張を滲ませる声色を察して男は無言で腕を解く。
ナマエは体を起こし、居住まいを正した。それに追従したホメロスは真顔で彼女の言葉をじっと待っている。
「ホメロス。一度だけ、あなたに物申すことをお許しくださいますか」
「……なんだ」
束の間の逡巡。緊張から冷たくなった指先をぎゅっと握り込み、ナマエは深く息を吸った。
「魔王の元を離れ、人間側に着くことは出来ませんか?」
紅の瞳が見開かれる。
「――出来ぬ」
一拍のち、ナマエの説得は一刀の元に斬り捨てられる。開いた瞳孔には苛立ちがはっきりと浮かんでいた。おそらくナマエへの苛立ちか。彼にとっては、可愛がっていた愛玩動物にいきなり噛み付かれたようなものだろう。
「それだけは出来ない。今更どのツラさげてあいつらの元へ戻れというのだ。そんな負け犬のような真似は、私のプライドが絶対に許さない」
語気も荒く、ホメロスははっきりと提案を拒絶した。
説得は失敗した。ナマエは静かに目を伏せその事実を受け入れる。説得は一度だけと決めた。もうこの先、二度とこのことは口にすまい。
「……わかりました。それがあなたの決めた道ならば、もう何も言いません」
もとより彼の怒りと責めを真正面から受け止める気で告げたことだ。激情に染まる瞳に怯むことなくひたむきに宣言すると、ふと彼の厳しい表情が少しだけ和らいだように見えた。
「……ああ」
力なく声が落ちる。ふと両手を見下ろし、ホメロスはぽつりと呟いた。
「すまない。オレはもう、お前の願いを叶えてやることが出来ないんだ」
声色に滲むのは一体何に対する懊悩か。プライドの高さゆえ己を呪縛し思うままに生きられぬことに対する苦悩か、彼の命運を握る魔王の元を離れたくとも離れられぬことに対する悲嘆か。ナマエは彼を決して苦しめたかったわけではない。浅はかにも自分ならば彼を説得できるのではないかと思った少し前の自分に後悔しながらも、強く握りしめられた拳にそっと触れた。
「ホメロス、これだけは覚えておいてください。わたしは何があっても、あなたのお側にいます」
神に告解をするがごとく粛々と、切なる祈りをその言葉に込める。たぶん、その想いは届いたのだろう。ホメロスは真摯に見つめてくるナマエに、強張った口元を崩してふっと不器用に微笑んだ。
「当たり前だ、今更お前を手放すものか」
――もしかして、あの時見開かれた彼の瞳に宿ったのは怒りではなく、嘆きだったのかもしれない。
ナマエは抱き寄せられた男の肩口に顔を寄せ、ぼんやりとそう思った。
だって彼は、既に引き返せないところで深みに嵌ってしまっているようなものだ。