第十二話
傷ついた名誉・前篇





 ――ゆらゆら、ゆらゆら。
 揺かごのような規則的な揺れに、水底に沈んでいた意識が音もなく浮上する。
 ……なんだか気分が悪い。それにお腹の中心が鈍く痛みを訴えている。悪夢でも見ていたのかしら、と徐々に覚醒する意識の中、ナマエはゆっくりと瞼を持ち上げた。
 俯きがちのぼやけた視界にまず映ったのは、体を支えるために腹部に回された誰かの手だ。見覚えのある白銀の籠手に包まれたもう片方の手は手綱を握っており、その先を視線で辿れば風になびく白馬のたてがみとひっきりなしに動くその大きな耳が視界に入る。どうやら自分は今、馬上の人となっているようだ。規則的な揺れの正体は、これだったらしい。
 しかも、どうやら背後に同乗する人によって意識のない間ずっと体を支えられていたようだ。同乗者は誰だろう、と背後を振り返ろうにも全身を苛む倦怠感から顔を動かすことすら億劫で、ふたたび落ちていく瞼と懸命に格闘しながら、ナマエは眠気を振り払うように必死に瞬きする。
「……気がつかれましたか?」
「ひっ」
 ふいに耳元で囁かれ、産毛をくすぐる吐息に驚いてナマエの体が跳ねる。ずるり、とバランスを崩した上体が鞍から転げ落ちそうになって、しかし腹部に回る手が力強く彼女の体を支え、事なきを得る。
「落ちますよ。気をつけて」
 聞き覚えのあるその声にすっかり眠気は吹き飛んだ。ナマエは顔をあげ、背後で背もたれ役に甘んじている人を振り仰いだ。
「……ホメロスさま?」
 冷たい琥珀色の瞳が、こちらを見下ろしている。ホメロスはナマエの言葉に応えるように、目元を緩ませた。
 一体自分はなぜ彼と一緒に乗馬をしているのか。状況の理解が追いつかなく、その整った顔を凝視する。
(あ……)
 ふいに、頭が真っ白になった。
 フラッシュバックする感覚。体の芯につきまとう重い痛み。前腕を包む包帯がわりのドレスの切れ端。暴力的なまでの快楽。
 喉がカラカラに乾いて、恐怖で息が上がった。
 思い出した。
 ――私は、墓地で魔物に誘拐されて、それから。
 それから。
「あ、私、……っ!」
「しぃっ、何も仰るな。大変な目に遭われましたね。お気の毒に」
「……え?」
 取り乱しかけたナマエに、宥めるように声をかけたのはもちろんホメロスだ。こちらに同情を示しつつも、どこか他人事のようなその言い方に彼女は困惑した。
 ホメロスはナマエを見下ろして静かに首を振り、いたたまれぬように目線を伏せる。
「もう少し私の到着が早ければ、と悔やんでも悔やみ切れません」
 つまり、ホメロスは知っているのだ。ナマエが何者かに乱暴されたということを。そして彼の言葉は第三者の存在を言外に匂わせている。狼藉者は別にいるのだと、白々しく彼の言葉がそう語っていた。
 ナマエが凍りついていることに気づかず、ホメロスはどこか浮ついた様子で今までの出来事を説明しはじめる。
「あなたは墓地でガルーダに攫われた。それは覚えていらっしゃいますか?」
「……ええ」
 忘れられるはずもない。ひどく恐ろしい空中散歩だった。
「部下からその報せを受け、私は必死にあなたの行方を追いました。そして運よくナマエ様を見つけられた。本当に幸運だった。……ほら、あの崖上の砦ですよ、ナマエ様が囚われていたのは。見えますか? あの砦に到着したとき、ちょうど中から旅人風の出で立ちの男がナマエ様を担いで出てくる所でした。どうやら砦の財宝が目当てだったようですね。ナマエ様を攫った魔物はその男が倒したようです。ですが……」
 そこまで言って、ホメロスはためらうように一旦言葉を区切った。崖上の向こう側を眺めていた琥珀色の瞳が、ちらりとこちらに目線だけを寄越す。
「その男があなたを引き渡すことを拒みましてね。あなたを妻にするのだと言って聞かず」
「つま……」
 含みのある視線が落ち着かなくて、ナマエは彼の腕の中で身じろぎした。
「ああ、もちろんその不届き者はこのホメロスが斬り捨てました。ご安心を」
 ナマエの戸惑いを読み取ってか、ホメロスはにっこりと微笑んでそう告げた。つまり彼の言葉によれば、ナマエに狼藉を働いた第三者はその旅人風の男で、既にホメロスが成敗したということだ。
 ……でも、なぜだろうか。ナマエの目には、今日のホメロスはとても機嫌が良いように映る。ナマエの身に起こった出来事に心を痛めている風を装ってはいるが、それもどことなく上の空だ。事実、彼のナマエを案ずる言葉は完全に上滑りしている。
 なぜ、という漠然とした疑問が心を占めていく。この男に空恐ろしさを感じたのは、これでいったい何度目だろうか。人の機微に敏く、さりげない優しさを与えてくれたかつてのホメロスは一体どこへ行ったのだろう。
 ナマエを大事そうに抱えるこのひとは、一体誰なのだろう。
 手の震えを抑えることができない。両手を組むようにしてぎゅっと拳を握っても震えはますますひどくなった。ナマエの異変に気付いてか、どうしましたか、とホメロスが問いかけてきたが、それに答えることもできずに俯いた。
 ――彼女に乱暴を働いたのは、ホメロスではないと、彼の言葉はそう告げている。
 信じなくては。信じなければ。……否、信じられるか?
 ともすれば密着してしまいそうなほどの距離にいる男の存在に、覚えるのはその薄気味の悪さだ。どくどくと心臓が嫌な音を立てている。
 確かめるべきか、否か。
 ナマエは不自然に思われないよう、そっと白銀のプレートアーマーに頭を預ける。一気に近くなったホメロスの男らしい首筋から、湿った雨の匂いに混じってほのかに彼の匂いが鼻腔を掠めた。汗と、上品な香水の香り。――”同じ”香りだ。
 その一連の動作に彼女の具合が悪くなったとでも勘違いしたのだろう、細腰を抱く手に力が入り、ぎゅっと引き寄せられた。
 あの香りに包まれる。ナマエは恐ろしさのあまり身動きが取れなくなった。
 気持ち悪い、吐き気がする。出来ることなら、やめて、と手を振り払ってしまいたい。自分とは違うその異性の力強さが、今はひどく恐ろしい。
 しかし安易にその腕を振り払うこともできず、ナマエはホメロスの腕の中でじっと身を固くしていた。
 昼の合間にここら一帯を襲った嵐はいつの間にやら去り、夕刻を迎えた空はすっかり茜色に染まっている。濁って荒れた海岸線をゆっくりとした並足で抜けると、デルカコスタ地方の丘陵が視界いっぱいに広がった。先ほどまでの大雨で草原が雨つゆで洗われ、落暉を受けてあたり一面きらきらと宝石のように輝いている。
 ナマエの沈む心とは裏腹に、目の前に広がる景色はどこまでも美しい。
 ふいに、ぽつりと呟いた。
「……その人は、どんな服装でしたか?」
「服装? その男のですか? ……鎧をつけていたと思いますが。どうしてですか?」
「いえ……」
 怪訝そうな声色で逆に問い返され、それ以上の追及は飲み込んだ。
 言えなかった。
 どうしてあなたは、その不届き者と同じ香りをまとっているのか、と。


 途中で合流してきたホメロスの部隊の兵士達が、ナマエの姿を認めて心底ほっとした表情を浮かべて口々に彼女の無事を祝った。中には怪我を負った兵もいて、必死にナマエの行方を追った、というホメロスの言葉だけは本当だったのだなとぼんやりと思った。
 九騎の騎兵が、ナマエを乗せるホメロスの騎馬を囲むようにして一路デルカダール城を目指す。帰路は特に魔物に襲われるようなこともなく、夜を迎える前には無事に城塞前に到着した。
 城塞前には兵が二十ほど待機していて、迫りくる闇夜を追い払うように篝火があちこちで焚かれ、剣や鎧がぶつかる物々しい音が響く。
 ナマエを乗せたホメロス率いる一行が姿を見せると、待機していた兵たちが歓声をあげた。ホメロスはそれを片手で制し、部隊の解散を命じる。
 跳ね橋を渡って城下町を進み、ようやく王城へと到着する。
 手綱を引いたホメロスは、身軽な様子でひらりと地面に降りた。そのまま振り返り、当然のようにナマエへと手を差し伸べる。
ナマエ様?」
 が、差し出された手をじっと見つめたまま、彼女は動かない。動けなかった。無邪気にその手を取ることはもうできなかった。
 ホメロスはしばし辛抱強くナマエが手を取るのを待っていたが、やがて焦れたのか、彼女の意思を無視する形で両脇に手を差し入れ、やや強引に鞍から引きずり下ろした。抵抗する間もなく、風圧でドレスがふわりと膨らみ、とん、と地面とつま先が接触する。瞬間、下肢がぐにゃりと軟体動物のようにくずおれた。
「あっ」
 驚いたナマエは咄嗟に目の前の人に縋った。気がつかなかったが、腰が抜けて足に全く力が入らない。
 ホメロスはそれをある程度予測していたのか、慌てることもなく腕一本で苦もなくナマエを支えた。
「きゃっ」
 瞬きする間にもう片方の腕で彼女の膝裏を浚い、流れるような動作で横に抱きかかえる。密着度が一気に増して、ナマエは表情を強張らせた。
「下ろして、自分で歩きます」
「腰が抜けているのに、無茶を言う。このホメロスが中までお運びしますよ」
「歩けます。おろして」
「遠慮なさらず」
「……下ろしなさい、ホメロス将軍」
ナマエ、あまりわがままを言うな」
 再三の命令にも、ホメロスは聞く耳を持たない。彼はまるで駄々をこねる子供に向かって言い聞かせるように、微苦笑を浮かべてたしなめた。

 城門をくぐると、大広間にデルカダール王とグレイグの姿があった。ナマエの無事を認めたグレイグが遠目にもほっと肩をなでおろした姿が視界に映る。
 ホメロスはナマエを抱えたまま王の前へと歩み出て、軽く頭を下げた。
「ホメロス、ただいま帰参いたしました。王、ナマエ様を無事保護いたしました」
「ご苦労であった」
 デルカダール王は厳粛な表情をその顔に張りつけたまま、鷹揚に頷いた。
「姫よ、大変な目にあったな。心配しておったぞ。さあ部屋に戻り早く休むがよい。グレイグよ、姫を部屋までお連れせよ」
「はっ!」
 王の命令に、ホメロスが小さくチッと舌打ちしたのが聞こえた。グレイグが王の命令を遂行しようとこちらに近づいてくると、ナマエを抱く腕にぎゅっと力が入った。少し苦しいほどの抱擁に辟易して、ホメロスの肩を軽く叩いて下ろすよう促す。完全に無意識だったのだろう、彼ははっとした様子で肩を震わせ、ナマエを下ろして「失礼しました」と小さく告げた。
 幸いなことにようやく下肢に力が戻ってきていたようで、今度は自分の足で立つことができた。グレイグが隣に立ち、エスコートのための腕を差し出す。その腕は辞退し、ナマエは形式ばかりの礼と暇をホメロスと王に告げて、その場を後にした。
 背中にまとわりつくような視線は、一切無視して。


 後ろ髪を引かれる思いでナマエを見送って、じっと己に注がれる視線に気づいていたホメロスは内心面倒に思いながら、その視線の主へと振り返る。先程ナマエを抱えていたせいでできなかった膝をついての恭順を、忠誠を誓った闇の王に向かって示した。
 気が付けば、大広間にはデルカダール王とホメロスの二人だけが取り残されている。
「余計なことをしてくれたな」
 怒気を含んだ、地を這うような声。どうやらそれなりにお怒りのようだ。臆するわけにもいかず、ホメロスは平静を装って頭を下げた。
「申し訳ありません。ですがデルカダールの将として、誘拐事件を放置するわけにもいかず」
「本当にそれだけが理由か?」
「無論でございます」 
 しばし、無言が訪れた。魔王の怒気に触れ、ホメロスの背に嫌な汗が浮かぶ。
「ホメロス」
 名を呼ばれ、顔を上げる。思わず息を呑んだ。
「よいか、二度と我の邪魔をするな」
 こちらを見下ろす王の鋭い瞳が、全て見通していると告げている。
「一度は見逃してやったが、次はないぞ」
 お前を見ているぞ。
 心の奥底に隠した感情すら暴こうとする闇の目が、そう警告していた。