第十二話
傷ついた名誉・後篇






「――本当にご無事でよろしゅうございました。ナマエ様のお姿をこの目で見るまで、生きた心地がしませんでした。さぞ恐ろしい思いをされたことでしょう。ホメロスが機転を利かせていなければ、今頃どうなっていたことやら……。やはりあいつは頼りになる男だ。ああ、無論デルカダールの威信にかけて今後はこのようなことがないよう一層城の警備を厳重にいたしますので、どうか今夜は安心してお休みください。……ナマエ様?」
 力の入らない足を叱咤して、壁伝いに手をつきつつ必死に階段を昇っていく。慣れた道だが、今ばかりは自室までの道のりがひどく遠く感じられた。いつも以上に空気が薄く感じられ、なんだか頭痛もしてきた。一度立ち止って大きく息を吸い、そこでようやく斜め後方を追随する男に名を呼ばれていることに気付いて、ナマエは振り返った。
「……え? なにか仰いました?」
 ナマエの問いかけに、グレイグはその眉尻をわずかばかり下げる。なにか話しかけられていたような気もするが、残念なことに注意散漫な耳には届かなかったようだ。
「申し訳ありません。気が利かず、お疲れのところ騒々しくしてしまいました。どうか気にしないでください」
 そう言ったグレイグが、ナマエの様子に見かねて再度腕を差し出してきたので、心苦しく思いながらも再び申し出を辞退した。

 ようやく部屋の前までたどり着くと、見張り兵が慌てたように扉を開き、ナマエを中へと促す。おざなりにグレイグに礼を告げ、ナマエはそそくさと部屋の中へと引っ込んだ。
 部屋の中では、メイドがひとり待機していた。
「湯の用意が出来ております。さ、お召し物を」
 浴室へと促され、薄汚れたドレスやら緩んだコルセットやらを無言で剥ぎ取られていく。
 目の前には湯気をたてる大理石の浴槽がある。早くあの中に浸って身を清めてしまいたい。体の芯にまとわりつく重い違和感が、今もなお強く残って不愉快だった。
「あっ」
 最後にドロワースを自分で脱いで生まれたままの姿になったとき、メイドがふとナマエの下肢に視線をやって、驚いたように声を上げた。
 なにごとかとメイドを見ると、彼女は視線を固定したまま青ざめて言葉を失っている。不審に思い恐る恐るその視線を追っていき、そして息を呑んだ。
 まず視界に入ったのは、己の薄い下腹部。それから淡い下生えがあって、内股から太ももにかけて肌にこびりつく薄紅色の交じった白いもの。そして、虫刺されのような赤紫の斑点がぽつぽつといたるところに散りばめられている。
 それが、おびただしい量のキスマークだとすぐに気づいて、ナマエはさっと青ざめた。よく見ると、乳房にも数か所。
「だ、大丈夫、大丈夫ですよ!! すぐにシスターを呼んでまいりますので!」
 いったい何が大丈夫なのやら。くっきりと残る陵辱の跡にすっかり気が動転したメイドは支離滅裂な事を口走り、慌てて部屋を出て行ってしまった。

 独りになったナマエはしばらく茫然と立ち尽くしていたが、やがて震える体を引きずるようにして、浴槽に身を沈めた。
「……うっ、」
 嗚咽が零れる。
 全身を暖かい湯に包まれると、張り詰めていたものが一気に緩み、糸が切れたようにナマエは声を上げて泣き出した。
 がたがたと震える体をぎゅっと己の腕で抱きしめて、脳裏にへばりついた悪夢をひたすら振り払おうとする。それでも悪夢は容易にナマエの足を掴み、昏い闇の淵へと引きずりこむ。
 肌にかかる息遣い、這いずり回る舌の感触。破瓜の痛みと経験したことのない圧倒的な悦楽。こちらの自由を奪うがごとく、のしかかられる重み。
 思い出したくもないのに、あの時の恐怖が波間のように何度も何度も押し寄せて、ナマエを叩きのめす。
 恐ろしかった。ひたすらに生きた心地がしなかった。殺されるとも思ったが、今となっては殺された方がましだった。こちらの意思や人権をまるごと無視し、まるで玩具かなにかのように扱われた。
 ナマエは自分の性を初めて恨んだ。男であれば……、いや、もっと力があれば。そもそも魔物を撃退できるだけの力があれば、こんなことにはならなかった。こんな惨めな思いを抱えずにすんだのに。
「うっ、うぅ~っ……」
 しかも、一番近しい立場の人間からの暴力であるという事実が、ナマエをさらに叩きのめしていた。
 ホメロスは旅人風の出で立ちと言ったが、フルプレートの旅人など一体どこにいるというのだ。目隠しこそされてはいたが、防具同士のこすれる音や肌に触れた感覚と重みから、略奪者が大層立派な鎧を纏っているということは容易に想像がついた。
 彼は嘘をついている。
 あれは、ナマエに乱暴したのは。
 ――ホメロスだ。
 立派な鎧、肌に触れた長い髪、落ちゆく意識の中でかすかに聞こえたうめき声。なにより、身に纏う香りがそれを証明していた。
「ど、して……っ、どうしてぇ……!」
 信じていたのに。近頃人が変わったように見えてもその根幹はそう簡単に変わるはずがないと、以前垣間見せてくれた優しい眼差しをなお忘れられず、その思い出に縋るようにナマエはホメロスのことを信じていた。
 それなのに、裏切られた。手ひどく。
 涙が止まらない。ナマエは顔を覆って、わんわんと泣いた。
 ……勝手に信じたのはそちらだろう。脳裏に冷めた笑みを浮かべる彼の幻影が浮かんで、嘆くナマエをそうあざ笑う。
 ふと、湯にゆらゆらと布の切れ端が浮かんでいるのが視界に入った。もう包帯の役割を果たさなくなったドレスの切れ端が、解けかけて腕に纏わりついていた。狼藉者――ホメロスに、擦り傷の手当にと巻かれたものだ。それを引っ掴んで、八つ当たりのように窓に向かって投げつける。
 バチン! と濡れた布が叩きつけられる音が鼓膜に響き、その反動か、ふいにぐらりと頭が揺れる。
 視界が暗転した。

 目が覚めた時、ナマエは自室のベッドの上に横たわっていた。
 頭が痛く、息が苦しい。反対に体は節々が痛み、ひどい寒気に襲われていた。どうやら高熱に気付かず、浴室で気を失ってしまったようだ。
「あ、私……」
 側に待機していたシスターがナマエが目覚めたことに気付いて、無言で妙な匂いのする薬湯の入ったコップを差し出してきた。
「なに……?」
「大丈夫、早く元気になれるお薬ですよ」
 あまり飲みたくなかったが、あいにくそれを振り払う気力もない。口元にコップの淵を押し付けられ、朦朧としながらも口内に流し込まれた苦い液体を必死で喉の奥へと呑み下す。
「なにも心配する必要はありませんよ。ゆっくりお休みください」
 弱ったナマエに、そのシスターの言葉が魔法の言葉のようにじんわりと染みこんでいく。落ちてくる瞼に抗えずに目を閉じると、再び世界は闇に包まれた。



 ナマエを苛む高熱は、三日間続いた。下腹部からも一度出血したものの、シスターは慌てずあの例の妙な匂いのする薬湯をナマエに与え続けた。その懸命な看護の甲斐あってか、四日目にはすっかり平熱に戻っていた。
 そこからさらに七日、ベッドの上で療養して体力の回復を待ち、ようやく社交界に復帰できるようになる頃にはナマエに関するある噂が城中を巡っていた。

 落ちてしまった体力を少しでも回復しようとナマエは兵に付き添われながら、自室と図書館、中庭を往復する日々を何度か繰り返した。なるべく人目は避けているものの、完全に姿を晦ますことなどできもしない。ひっそりと城内を散策するナマエの姿を見かけては、こそこそと例の噂話に興じる宮廷人の姿を遠目に何度か見かけた。
 それも全て、彼女は無視した。

 ナマエ様、と不意に呼ばれ、気に入りの本を読みながら中庭のベンチで涼んでいた彼女は驚いて顔を上げた。いつの間にか、目の前に人が立っている。逆光でその表情は良く見えないが、ナマエのよく見知った人だ。小麦の穂のような豊かで長い黄金色の髪。穏やかな風に翻るは、マゼンタ色の裏地の外套。
 かしゃり、とその人の纏う鎧が涼やかな音を立てる。
「今日はお加減もだいぶ良いようだ。……あれから、少しは落ち着かれましたか?」
「ホメロス様……」
 茫然と、ナマエはその人の名を呼ぶ。緊張によるものか、声が掠れた。
 ナマエの中では、まだこの男と対峙する心構えはできていない。うろたえるようにあたりに視線をさ迷わせるも、あいにく彼女の付き添いの兵士は今、席を外している。
 ホメロスはそんなナマエの心境を読み取ってか、彼女が逃げ出さぬように目の前で跪く。彼女の手に抱えられた本を静かに抜き取り、それをベンチの脇に置くと、行き場を失ったナマエの両手をそっと握りしめた。
 強い感情を宿した琥珀色の涼やかな瞳が、彼女を射抜く。
ナマエ様に大事なお話があります。今、お時間を頂いても?」
「……なんでしょうか」
 常にない真剣さで迫られ、ナマエは腹を括って居住まいを正した。
 ホメロスは頷いて、静かに口を割った。
「――あなたに関する噂は、もう耳に届いているでしょう」
 続けられた言葉に、ひゅっと息を呑む。
「ああ……誤解されないよう。私はあなたの不幸を嘲笑いに来たのではありません。あれは、あなたのせいではありません。ナマエ様の貞節を守れなかったのは、ひとえにこの私の力不足ゆえ。なれば私はその責任を取り、あなたを妻として迎え入れたいと願い、今日ここに参りました」
 まさか。
 まさかそのことをこの男から切り出すなんて。
 あまりの事に頭が真っ白になる中、ホメロスはつらつらと己の責任の重さとナマエへ罪悪感をあげつらう。ナマエを散々凌辱したその唇で、その舌で、あたかも何も知らないふりをして、ホメロスは詠うように己の功罪を並べ立てる。
「……ですからナマエ様、私の伴侶になってくださるのであれば、この先なにひとつ不自由ない生活を送れることをお約束します。このホメロス、夫として誠心誠意あなたにお仕えする所存です」
 目の前で繰り広げられる茶番に胸が軋んで、悲鳴を上げた。
 もうやめて、もうやめて。あなたの言葉は、すべて嘘だとわかっている。だからもうこれ以上、嘘を重ねないで。
「――いいえ!」
 ナマエはホメロスの言葉を遮るように、声を荒げた。
 ホメロスは驚いたように目を見開き、束の間押し黙った。
「いま、なんと?」
「……いいえ、同情ならば結構です。お断りいたします」
 しばし沈黙が落ちた。
 握りしめられていた彼の両手が、脱力したようにナマエの手から滑り落ちて、ぶらんと宙を揺らいだ。
「……このホメロスの求婚を断ると?」
 信じられない、とでも言いたげに、その声は狼狽えた。彼の狼狽は、まさか断られるとは思っていなかったためだろう。きっとホメロスの思い描いた道筋に思わぬ邪魔な石ころが転がってきたから、忌々しく思っているだけだ。
 石ころ程度の邪魔者ならば、彼にとっては蹴り上げることなど造作もない。
 いたたまれなくなって、ナマエは立ち上がった。彼が一体どんな表情を浮かべているのか、怖くて直視することができない。
「お話はそれだけですか? なら私はこれで失礼します」
「待て、考え直せ」
 亡者のようにこちらを捕まえようとする手をするりと交わし、さっと会釈をして足早に城内に通じる扉の方へと向かう。その背に、ホメロスの咎めるような声がぶつかった。
「あなたはこのままでは一生後ろ指を指されながら生きてゆくのだぞ? それを私が護ってやろうと言っているのだ。聡明なあなたならこの意味がお分かりになるはず。――待て、待てと言っている、話を聞けナマエ!!」
 強い口調が彼女を呼び止める。
 もう我慢がならなかった。ホメロスが提案したのは、とことんまで彼女の弱みに付け込んだ卑怯な取引だ。弱っているところをますます追い詰めるような己の行為を、彼は自覚していないのだろうか。
「……卑怯者」
「卑怯者、だと?」
 ナマエの独り言のような呟きを拾い、ホメロスの纏う空気が俄かに変わった。あからさまに怒気を含んだ声色がすぐ後ろに迫って、はっとした時にはもう腕を強く捻り上げられていた。
「撤回しろ、今すぐに」
 見上げると、狂気に満ちた瞳が爛々と輝いてこちらを射殺さんばかりに縫い止める。
「やっ、痛い……!」
「……っ、すまない、乱暴をするつもりは」
 ナマエが痛みを訴えるとホメロスははっと我に返ったように瞠目して、すぐにその腕を解放する。彼女は警戒するように男から一歩距離を取って、視線を伏せ、痛む腕をさすりながらぽつりと呟いた。
「……あなたはお変わりになりました、ホメロス様」
「なにを馬鹿なことを。私は私だ」
「――うそよ」
 ナマエはきっぱりとホメロスを見据え、彼の言葉を否定した。
 ホメロスが言葉に詰まる様子を目の端で認め、今度こそ踵を返して城内へと向かう。
ナマエ! ……くそッ!」
 ガラン! と背後で何かを蹴りつける音。
「グレイグにでも泣きつくつもりならそうすればいい! あいつはもうあなたを守る気はさらさらないらしいがな!」
 それでも背中をしつこく追ってくる、心ないその罵倒に思わず耳を覆ってしまいたくなる。ナマエは涙をこぼしながら逃げるようにその場を後にした。
 ホメロスは結局、追ってはこなかった。



 ……訳が分からない。
 なぜ断った。なぜ彼女は求婚を断った。
 ここまでは完璧な道筋を歩んできたのに。信じられない、これでは計画が台無しだ。
 ひとり中庭に取り残されたホメロスは、震える両手を茫然と見下ろしていた。その手に残るナマエのぬくもりを追い求めるように、ぎゅっと拳を握りしめる。
 つい今しがた、彼女はホメロスの求婚を断った。信じられなかった。断られるとは露ほども思っていなかった。
 きつく、きつく。拳を握りしめる。ふつふつと腹の底から湧いてくるのは、途方もない絶望と殺意の塊だ。
(”……ころせ”)
 暗い淀みから囁いてくる。あれは過去の自分の声だ。すべてに嫉妬し、絶望していた自分だ。闇の力を手に入れたときに葬ったと思ったのに、澱に沈んでもなお生き残っているらしい。
 ぎり、とホメロスは血がにじまんばかりに歯を食いしばった。膨大な闇の力を手に入れても、己の理性をなお奪おうとする闇の意思。それに抗い、ホメロスは暴走する殺意をなんとかコントロールしようと躍起になった。
(”ころせ”)
「……いや、殺さない」
(”ころせ”)
「彼女だけは、絶対に殺さない」
 上等だ。絶対に逃がしてやるものか。
 ――オレを拒絶することなど、絶対に許さない。
 ゴッ、と握りしめた拳に怒りを凝縮したような闇の炎が灯り、まるで意思があるかのように踊るその炎をためらいもなくぎゅっと握りつぶす。ジジッと苦しげな音を立てて、闇の炎が掻き消えた。
 ホメロスのそのゆるぎない意志が、思考をコントロールせんとする闇の力に勝った瞬間だった。
「……死よりもなお辛い目に合わせてやる」
 地を這うような声で、ホメロスが低く唸る。
「あの女の前でグレイグを殺して、何度も犯して、孕ませて……はは、はははっ! 私なしでは生きられなくしてやる!」
 執念深い蛇のように瞳をぎらつかせて、網膜に焼き付いた愛しい女が絶望に染まるその甘美な妄想に浸る。
 のどかな中庭の空に、恐ろしい高笑いが響いた。