第十一話
悪魔が囁くとき・後篇
昼を過ぎ、いつもならいっとき静かになる城内が今日はどこか騒がしい。先ほどまで魔王の新たな配下と顔を合わせ、自室に戻る途中だったホメロスはその騒々しさに気付いて音の方へと向かう。ちょうど城の通用口のあたりだ。顔をのぞかせると、肩から胸にかけてざっくりと大きな裂傷を負った兵が血を流しながら膝をつき、同僚たちに支えられているではないか。
「おいあまり動くな! 今シスターを呼びにやっているから、ここで大人しくしていろ!」
「そんなものは後でいい! 誰か、早くグレイグ将軍をお呼びしてくれ!!」
兵は自分の怪我の状態も顧みず、ひどく焦った様子で己の体を抑え込む同僚の手をはねつけようとしている。察するに、緊急事態のようだ。ホメロスは傷ついた兵を囲む人の輪にためらいなく割って入り、声を掛けた。
「どうした、何があった。グレイグは兵を率いてデルカダールの丘まで演習に出ている。用件なら私が聞こう」
「ああホメロス将軍っ!! どうかお助けください! ナマエ様が、ナマエさまが――」
「ナマエ様? ナマエ様がいったいどうした」
次の瞬間、兵士の口からもたらされた事実に、ホメロスは束の間思考が真っ白になった。
――曰く、墓地でガルーダに襲撃され、ナマエが攫われた、と。
重傷の兵をシスターへと託し、すぐさま部下を集めてナマエ救出の計画を練った。急な招集に応じられたのはたった十人の兵だった。デルカダール軍の緊急時への対応力の低さに関してはまったく不甲斐なく今後の課題として大いに議論の余地がある。が、今はそんなことを気にしている暇はない。残りの兵士にも出撃の準備をさせているから、準備ができ次第出撃の命を下す手筈だけは抜かりなく整えておく。
あの護衛兵の話では、ガルーダは墓地にて二人を襲撃した後、ナマエの体を爪で掴みあげてデルカコスタ地方の方角に飛び去ったという。確かにあの辺りではよくガルーダの姿を見かけるが、城壁内まで攻めてくることは今までなかっただけに、その異常事態に部下の顔に緊張が浮かんでいる。
ガルーダは飛行型の魔物で、デルカコスタ地方の高所によく巣を作っては旅人たちを襲撃していた。過去に何度もその巣を破壊するためデルカダール軍が派兵されたこともある。ナマエがどのあたりまで連れ去られたのかは定かではないが、襲撃されてからそう時間も経っておらず、恐らくはその巣に連れ去られたかもしれないと踏んだ。ならばガルーダの巣を探せばおのずと彼女へとたどり着くだろう。だがガルーダの巣は一か所ではなく、さらに探し出すのにも骨が折れる。
――あるいは、とホメロスは忙しなく思考をめぐらす。
ガルーダが城壁内まで攻め入ったという異常事態から察するに、ウルノーガが一枚噛んでいる可能性も大いに考えられた。ならば捕えたナマエをどこか人目に着かないところに隠したかもしれない。デルカコスタ地方には前世紀に建てられた砦の廃墟や洞窟などの、魔物の巣窟となっていそうな場所はいくつかあった。デルカコスタ地方にはデルカダール神殿があり、神殿周辺には小規模ながらもデルカダール軍が駐屯しているから、人目が多いその周辺は除外してもいいだろう。さて、残ったものの候補の中で、ガルーダが行き来しやすいところとなると。
「だいたいの目星はついたな」
机に広げたデルカコスタ地方の地図を見下ろし、ホメロスはそう独りごちる。同じく頭を突き合わせて地図を覗き込んでいた部下に向かって、矢継ぎ早に指示を出した。
「いいか、お前達は三人一組となり、二組は高所にある奴らの巣を探し、もう一組はこの砦廃墟を目指せ。この砦は以前魔物が蔓延り我が軍が討伐に入った場所だ。あれからしばらく経って、再び魔物の巣窟になっていてもおかしくはない。もし姫を見つけたら救出出来るようであれば救出を、多勢に無勢ならば無理をせず、急ぎ一人がキメラの翼を使って城に戻り応援を呼べ。のこり一人、お前は城に残ってこのまま残りの兵の出撃の準備を進めてくれ」
的確な指示に、応、と部下が口々に答えた。
「ホメロス将軍は?」
「この海沿いの高所の砦を目指す」
「おひとりで? いくらホメロス将軍といえど、それは危険ではないですか?」
「私はひとりで十分だ」
ホメロスが目指すのはもう一つの候補地。高所にある砦で、一番人の足が踏み入れにくい場所だ。
目的地は決まった。しかしいざ出発しようとしたところで、部下に呼び止められる。
「ホメロス将軍、王にはこのことを報告しなくてよろしいので?」
城に残ることになっていた部下からの問いかけに、ホメロスは逡巡した。どうすべきか。城壁内で起こった誘拐事件だ、無論彼には城の防衛の責任を負う将としてこの事件を王に報告する義務があるし、王に報告した時点でナマエを救出する大義名分が成り立つ。
――だがそれが逆に彼女の寿命を早めることになったら? 真犯人がウルノーガだとしたら、救出に軍が動いたと知ればすぐさまナマエを殺すよう命じるかもしれない。
しかし、どちらにせよ攫われた時点で彼女の命は風前の灯火だ。
ならば魔王より早く動けばいい。魔王が配下に殺害の命を下すより前に、彼女の元にたどり着けばあるいは。
とにかく時間がなかった。急がねば不味い。
だからホメロスは賭けに出ることにした。こそこそ動くより大々的に動いた方が、魔王も動きにくくなるだろうと踏んだのだ。
「お知らせしてくれ。それと演習に出ているグレイグのやつも呼び戻して、対応に当たらせろ」
口早に告げて、部下を伴い城を飛び出した。
昼間の快晴はどこへやら、一転降り出してきた激しい雨が視界を遮る。空は鈍色の重苦しい雲に覆われ、夜が訪れたかのように闇に沈んでいる。遠くの空でぱっと閃光が走り、続いて腹の底を揺るがすような雷鳴がとどろく。軍馬として鍛えられた愛馬は、それでも恐ろしい雷などものともせず一心に前へと進む。
顔を叩きつける雨粒が視界を妨げうっとうしい。激しい雨は見る間に防具の中へと染みこんで体温を奪い、ぐっしょりと濡れた外套が足元に絡みつく。それでも前へと進まぬわけにもいかず、逸る気持ちのまま手綱を握った。
デルカコスタ地方までたどり着くと予定通り途中で部下と別れ、ホメロスはひとり荒れた海岸線をひた走った。どす黒く濁った荒波が幾度も寄せて、まるで近づくものを海へと引きずり込もうとしているかのようだ。それを振り払うように愛馬にむち打ち、ひたすら前を目指す。
そうしてたどり着いた先は切り立った断崖。幾度も顎を伝う雨粒を拭い、上がる息を吐きながら、ホメロスはその断崖を睨むように見上げた。この崖を登ったところに、目的地がある。
崖の周辺をぐるりと回り、ひとまず足がかりを探した。ようやく見つけたのは、ほぼ獣道と化した街道の残骸だ。砦が打ち捨てられてから手入れをするものなどおらず、砦までの街道は既に崩れている。馬で登れるとこまで登り、後は足で登るしかない。道なき道を進み、ようやっとの思いで崖を登り切る。
目の前の断崖絶壁に、闇に沈む砦の黒い影。カッとまた閃光が空に走った。
(ここで合っていてくれ、頼む……ナマエ)
寒さのためか、上がる息が白くけぶる。ホメロスは剣を抜き、濡れて肌に張り付いた前髪をぐいと前腕で拭った。
剣を下段に構えたまま、周囲を警戒しながらまっすぐに砦の入り口へと向かう。
ふいに入口の扉が開き、奥からガルーダが出てきた。どうやら当たりのようだ。
ホメロスはくくっと歯を見せ、興奮を抑えきれぬように笑った。決まりだ、囚われの姫の居場所を探し出し、かつここの魔物を殲滅させる。緊張によるものか、それとも戦前の興奮によるものか、ぞくぞくとした高揚感が背を駆け抜ける。雨粒の伝う唇を無意識にぺろりと舐め、濡れたグローブで滑ることがないよう、確認するようにぎゅっと剣の柄を握りなおす。
ホメロスがこれから行うことは、忠誠を誓った主君への反逆行為だ。
ためらいは、しかし一ミリたりともない。
篠突く雨の中、砦から出てきたガルーダが再び飛び立とうとしていた。ウルノーガに報告に行くのだろうと察して、その動きを遮るように飛び出す。
「待て」
「おや、あなた様は我が君の……。いったいなぜこのようなところに」
ガルーダは闇の中からふいに姿を現したホメロスに不審な目をむける。
「計画は中止だ。まもなくここに我が軍の救援部隊がやってくる。急ぎ捕えた娘を別なところに移動させねば」
「なんと、もうここをかぎつけるとは。人間も侮れぬ。あなた様がここにいるということは、軍の指揮を執っているのはもう一人の将軍で?」
「そうだ。グレイグが来る」
「おお、その名を聞くだけで鳥肌が立つ。あの有名な猛将と一戦交えてみたいところですが、その前に娘を移動させるのが先ですね。ホメロス殿、グレイグの足止めを頼めますか?」
「いや、私が娘を別な場所に移動させる。お前はウルノーガ様のもとに急ぎ報告に行くがよい」
「しかし……」
「早くしろ。時間がない」
「……分かりました。ではこの牢屋の鍵を。娘は地下二階、左奥の牢屋に捕えてあります。頼みましたよホメロス殿。さて、私めは我が君の元へ行かねば。ああ忌々しい雨よ、自慢の羽根が濡れてしまうではないか」
「――いや、それには及ばない」
ガルーダがこちらに背を向けた瞬間を狙って、ホメロスはためらうことなく剣を振りかぶった。
ぎゃっと短い悲鳴が上がり、乱された羽毛が舞う。魔物はあっけなく絶命した。
「これでもう雨に頭を悩ます必要もなくなったな」
ホメロスは次第に霧になって消えゆくガルーダの死に顔を冷たく見下ろし、くつりと喉の奥を鳴らした。
周囲を見渡す。気付かれた様子はない。上出来だ。このまま警戒する暇など与えず、砦を一気に攻め落とす。
ゆうに十数の魔物を闇討ちし、砦内の魔物をあらかた片づけ終わったところで、ホメロスはガルーダに教えられたとおり地下二階へと向かった。
どうやら左奥の一角全体が牢獄となっているらしく、その最奥の牢屋に門番が座り込んでいた。他は全て空だったため、どうやらあそこにナマエが囚われているようだ。
門番の魔物はすることがないのか、うつらうつらと微睡んでいる。職務怠慢なその門番に今ばかりは心の中で感謝し、忍び寄って斬り捨てる。
悲鳴を上げることなく絶命した魔物は、どさりと音を立てて沈み込んだ。
その音を聞きつけたのか、牢屋の奥から心細そうな声がホメロスの耳に頼りなく届いた。
「誰……? 誰かいるの?」
紛れもなくナマエの声だ。
よかった、彼女はまだ無事だ。その声にこそ、ホメロスはほっと胸をなでおろした。剣を握る己の手が微かに震えているのに気づいて、自分が思っていたよりも緊張していたことを思い知る。
格子扉越しに中を覗き込むと、薄暗い牢屋の中、ナマエが薄汚れた布の上で身を小さくしてぽつんと座っていた。纏うドレスは若干薄汚れてはいるものの、幸いなことにどうやら目立った怪我もないようだ。
が、ひとつ想定外だったのは、彼女が後ろ手に縛られ、その視界は目隠しに遮られ、ホメロスの存在に気付いていないことだった。怯えた様子で、音のした方――こちらを向いて、じっと耳を澄ましている。
その頼りなげな横顔の、劣情をそそることといったら。
「……」
ナマエを安心させるために掛けようとした言葉を、思わず喉の奥に押し込んだ。
――耳元で、悪魔が囁いたのだ。魔がさしたといってもいい。
彼女はこちらの正体に気づいていない。今なら誰にも咎められることなく、ナマエを手に入れることができる。お互いの立場も関係なく、彼女を好きに奪うことができる。
ひとつ、大きく息を吸って、静かに吐く。
ホメロスは彼女の不安を煽ることを承知で、沈黙を保ったまま静かに格子扉の鍵を開けた。牢屋に満ちる静寂の中、かしゃり、と開錠の音だけがいやに大きく響くと、びくんと彼女の体が震える。
息を殺し、足音をも殺して、そっと彼女に近づく。それでもナマエは近づいて来る気配を察したのか、怯えたようにじりじりとその場で後ずさった。
「グレイグ様?」
ぴちょん、と天井から水滴が落ちる音がどこかでした。彼女の圧倒的優位に立つ今、もはやその忌々しい名はホメロスの心を揺さぶらない。
「……ホメロス、さま?」
「っ、」
が、ためらうように、たどたどしくその名をナマエが口にした途端、心がさざ波のように震えた。彼女が自分の名を呼んでくれた。思わず足を止め、荒ぶる感情が零れ落ちることのないよう口元を抑える。
ナマエはどうやら目の前の物言わぬ存在を、己を害する魔物ではないと判断したらしい、恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
「あの、どなたか存じ上げませんが、どうか助けていただけませんか。私はデルカダール国王に庇護されている者です。十分な謝礼をご用意できるかはわかりませんが、助けていただけたら必ずお礼はいたしますので」
ならば、今すぐその礼とやらをもらおうか。
思わず喉まで出掛かった言葉を飲み込む。
ずっとずっと、喉から手が出る程欲しかったものが、すぐ目の前にあるのだ。メインディッシュよろしく目の前に差し出されては、手を出さずにいられようか。
ホメロスにとっては幸いなことに、いくばくかの猶予があった。他の場所に向かわせた救援部隊も、すぐにはここまで辿り着けまい。それまでの間、誰も二人の間を邪魔するものはいない。
仮にこのまま名乗り出て、彼女を助けたとする。感謝こそされど、その後は今と変わりない日々を送ることになるだろう。ナマエを妻にと望んだところで、王は許してはくれないはずだ。なぜならば虎視眈々とナマエの命を狙うウルノーガにとっては、配下であるホメロスが彼女の夫となるのは都合が悪いからだ。
だが今ここで何者かによって彼女が傷物となり、その噂が城中に広まったら? 流石に傷物となった娘の縁談相手を堂々と探すには外聞が悪く、王も無理強いはできなくなる。
そしてナマエの救援に向かったホメロスは、その貞操を守り切ることができなかったことに騎士として責任を感じ、彼女を妻として迎え入れる。ウルノーガの都合はさておき、デルカダール王としては婦人奉公の理念に則った騎士の行いを咎めるわけにもいくまい。体裁は整っている。
ああ、完璧だ。
即興で思い描いた道筋にしては悪くなく、ホメロスは笑いだしたくなるのを堪えた。
「あの、なんとか言ってくださいませんか……? それとも、そこに誰もいないの?」
ナマエは続く沈黙に耐えきれなくなったのか、不安さを滲ませた声色で探るように虚空に向かって問いかける。微かに震える柔い唇が、彼女の怯えを伝えていた。その頼りなげな横顔を眺めていると、なぜだか心が満たされていくような気さえした。
今や、ナマエの命運はホメロスの手の中だ。
それにしても、つくづく哀れな女だ。散々な扱いをうけ、それでもまだあの冷酷な王のことを信頼しているらしい。いや、頼らざるを得ないのだ。そうしなければナマエはこの国で生きていけない。そのような状況に追い詰めたのもまた我が王だ。
そして自分はその状況を利用して、彼女を手に入れようとしている。
彼女には少し無理を強いることになるかもしれない。
だが仕方のないことだ。
これは彼女を守るためでもある。
――わかっている、全て彼女を手に入れるための言い訳だ。
卑怯者、と己の浅ましい行為を謗る理性はすでになく、内なる善の心はとうの昔に死んだ。
もはや湧きあがってくる興奮は抑えようがなく、どくどくと沸騰する血が潮騒のように騒めいて、耳の裏から首筋を通って背骨の裏を駆け抜ける。
震える吐息を静かに吐き出して、ホメロスは一歩踏み出した。
肥大化して暴走しはじめた欲を、もはや止める術など持っていなかった。