第八話
想いし君へ・前篇
危惧していたことが現実になってしまった。
血相を抱えたグレイグが部屋へと飛び込んできて、ナマエが市民に襲われたと告げた時、ホメロスは衝撃を受けたのと同時に、ああやはりか、とどこか心の中の醒めた部分でその事実を受け入れていた。いつかはこんなことが起きると思っていた。市民の中には、未だナマエの存在を快く思っていないものも多い。そんな複雑な感情が渦巻く市井に姿を現せば、いくら護衛をつけて用心したとて数の暴力には敵わないのだ。
グレイグの話によると、ひとりの市民に石を投げつけられたがそれを護衛が身を挺して庇い、ナマエ自身は怪我もなく無事だという。護衛兵も腕に打撲ひとつで済んだようで、それだけは不幸中の幸いだ。しかし、ナマエが勇気を出してせっかく前を向き始めたのに、これではまた逆戻りだ。
ナマエにとっての不幸は続いた。
騒動を起こしたことによる責任を問われ、ナマエは謹慎の身となった。王命により外出を制限され、さらに居住を城の奥、塔の上階に移動させられた。長い階段を上へ上へと登っていかねば辿り着けぬ場所にあり、部屋の前には見張りの兵。表面上は彼女が落ち着くまでの措置という面目だが、これは事実上の軟禁である。謹慎期限は設けられていない。
この分では、おそらく面会も制限されていることだろう。現にホメロスが見舞いに訪れても、今は家庭教師殿がいらっしゃってますので、と見張りの兵に素気無く追い払われてしまった。まったく腹立たしいことこの上ない。しかしナマエに家庭教師がつくようになったのは喜ばしいことだ。あの歳の子女には学ぶべきことが多くある。
事件から三日経った。
「ホメロス、今日、一緒にナマエ様のお見舞いにいかないか?」
非番の朝、突然部屋に訪れたグレイグの第一声がそれだった。まったく急な男だ。ホメロスは呆れまじりのため息をつき、右目にかかった髪を振り払う。
「……行くのはいいが、先触れをしておかないと難しいと思うぞ。オレも先日見舞いに行ってみたが、取次ぎすらされなかった」
「そうなのか? じゃあとりあえず行ってみて、ダメなら日を改めよう」
グレイグは良くも悪くもポジティブだ。渋るホメロスをよそに、グレイグは持ち前の行動力でぐいぐいと彼を引っ張って行った。
「あっ、グレイグ将軍!」
塔の傾斜がきつい階段を登り終えると、例の無礼な見張り兵が二人を出迎えた。年若いその兵はホメロスの隣にグレイグの姿を認めると、一瞬顔を輝かせた。その反応を見るに彼もおそらくは英雄の崇拝者かなにかなのだろう。
「どうしてこんなところに……あ、もしかしてお姫様のお見舞いですか?」
「そうだ。ナマエ様へ取次ぎを頼めるか?」
「それは……」
グレイグが尋ねると、見張り兵は渋い顔になった。やはり今回も色よい返事は貰えなさそうだ。
が、しばし俯いて返答に詰まっていた見張り兵が意を決したように顔を上げ、ホメロスに向かって頭を下げた。
「ホメロス殿、この間はすいませんでした。実はここを誰も通すなと命令されているんです」
その告白が意外だったのか、グレイグは瞠目した。
「それは誰の命令だ?」
「王様です……」
見張り兵が非常に言いにくそうに告げる。隣でグレイグが言葉を失う傍ら、やはりな、とホメロスは兵の告白を冷静に受け入れた。今の王なら、人権を粗末に扱うような命令を眉ひとつ動かさずにできるだろう。
しかし王にとって誤算だったのが、この若い兵が人情を持った男だったということだ。
「でもグレイグ将軍なら……。お姫様、ずっと閉じ込められたままなの可哀想だし……。あの! 俺がここを通したこと、誰にも言わないって約束してもらえますか?」
「騎士の名誉にかけて」
渡りに船の申し出に、グレイグとホメロスは勇んで誓いを立てる。一時間だけですからね! と釘を刺されてしまったが、無事にナマエへの目通りを叶えられた。
少し面白くないのはホメロスだ。見張りの兵がグレイグの崇拝者でなければ、こうはすんなりと彼女には会えなかっただろう。だがグレイグのおかげで目的が果たされたのは事実だ。そこは素直に感謝をしておくべきか。
ナマエの部屋は陽当たりがよく、窓辺には大きなバルコニーがあった。一見快適そうだが、家具も少ないうえ、白で統一された部屋は色彩に乏しくどこか薄ら寒い。
「お二人とも、どうやって……?」
思いがけない来客に、出迎えたナマエは大層戸惑っているようだった。しかしすぐに気を取り直し、微笑んで歓迎の意を示した。
「いえ、この際それは置いておきましょう。よくいらっしゃいました」
ナマエの笑みには心なしか心労の陰がある。彼女の表情をさりげなく観察していると、隣のグレイグが一歩前出て、さっと胸に手を当てお辞儀した。
「ナマエ様、こうしてまた無事なお姿を拝見でき、望外の喜びです」
なんとも堅苦しい挨拶だ。ホメロスは友の態度に内心呆れて、その堅苦しい空気を振り払うようにナマエに笑みを寄越す。
「お元気でいらっしゃいましたか? すっかり囚われの姫君ですね」
ホメロスの冗談に、ナマエは微苦笑を浮かべた。
「お二人にはいつも心配をかけてしまって、申し訳ありません。私の浅はかな行いのせいで、陛下のご不興を買ってしまったようです」
ナマエは諦めまじりの表情で淡々と告げる。ふと俯いて、ナマエはおもむろに体をバルコニーの方へと向けた。ぴんと伸びた美しい背中が、まるでこちらを拒絶しているかのようだ。
「ほんとうに、自業自得だわ。忘れていたの、ここが誰のための国であるかということを」
「ナマエさま……」
悔しさの滲んだ呟きにかける言葉もない。
彼女はいま、きっと泣いている。この惨めな状況に絶望して。羽根をもがれ、自由を奪われ死んでゆく渡り鳥のように。
「……よろしければ、そちらに座ってください。今、お茶をお淹れしますわ」
しかし彼女の自尊心が、みっともなく泣きわめくことを決して赦さない。振り返ったナマエは、言葉を失う男二人の表情を見てにこりと安心させるように笑う。
ナマエ手ずから淹れた紅茶を、ありがたくいただく。
ここには世話役の侍女がいない。どうやらアリサというあの侍女も出入りを制限され、ナマエの世話のため日に三度しかやってこないらしい。
寂しくないか、という問いはぐっと呑み込んだ。
それなりに和やかに談笑が続いたが、ふとナマエの表情が陰って、そのまま口をつぐんでしまった。その視線が物言いたげにグレイグを窺う。
「どうかされました?」
「あの、ひとつ気がかりなことがあるのです。私に石を投げた方は、どうなったのですか?」
「無論、地下に捕らえてあります」
当然のようにグレイグが告げると、ナマエが辛そうに眉をひそめて、しばし言い淀んだ。
「……恩赦を望める立場ではありませんが、できれば、あまり厳しい罰はお与えになりませんよう、お願いできませんか」
「なりませぬ。やったことには相応の責任を取らせねば。あれは無抵抗な女性を攻撃した卑劣な犯罪者。できることならこの手で罰してやりたいくらいです」
悪を憎むグレイグにとっては到底受け入れがたいナマエの願いを、彼は断固として拒否した。ただでさえ女子供を狙った卑劣な行いだというのに、その上被害者はナマエだ。グレイグの憤りは凄まじいものだった。
「そう……。なら、仕方ありませんね」
彼女はグレイグのかたくなな態度に諦めがついたのか、力なく肩を落とした。
それからはあまり会話が弾むこともなく、紅茶が冷めていくのをひたすらに待った。バルコニーの外の手すりに、つがいと思わしき白い小さな鳥が二羽、大人しく羽を休めている。
「……この部屋で、退屈はしていませんか?」
ホメロスの何気ない問いに、ナマエは「いいえ」と首を振った。
「幸いにも、陛下が家庭教師の方をつけてくださったから、それほど退屈はしておりません。今はデルカダール国の歴史を学んでいるところです。それにこの部屋からの城下の眺めがとても素晴らしくて、存外気に入っております」
ナマエの表情を窺う限り、それはどうやら本心のようだ。少しだけほっとしていると、扉がノックの音を告げ、ひょっこりと見張り兵が顔を出した。どうやら約束の刻限らしい。
茶の礼を言い、いとまを告げる。
「また、訪ねても?」
帰り際、階段の手前まで見送りにきたナマエをふと振り返って、ホメロスはそう尋ねた。拒絶されることはないとわかっていて、けれど確約が欲しくて尋ねた問いだ。
「ええ、是非。お待ちしております」
ナマエが嬉しそうに告げる。それにホメロスは安堵し、今度こそ彼女のもとを辞した。
グレイグとともに、その後も何度かナマエの元を訪れた。すっかり顔見知りとなってしまった見張り兵は、もう諦めたのか二人が訪れると何も言わずとも部屋へと通してくれるようになった。
一ヶ月もすると、やはりナマエは何もすることがなくなったのか、いつも同じ場所で同じ本を読んでいた。そこでホメロスの私物であるチェスを持ち込んで、時折勝負した。
上級者であるホメロスとでは二人とも相手にならぬため、自然とチェス初心者のナマエの相手を大抵はグレイグが務め、ホメロスはナマエに助言をする形になった。戦略を知らぬグレイグは真っ向から仕掛けてくるため手の内を読みやすく、またこちらからも仕掛けやすい。ホメロスの指導により、ナマエがぐんぐんと上達していくのも爽快だった。
白と黒の駒が複雑に入り乱れる盤上を、グレイグはじっと見つめていた。対する相手はナマエ。現在最強の駒であるクイーンを取られてしまい、ナマエの形勢は危うい。
たっぷりと熟考していたグレイグがようやく黒のナイトを動かし、ナマエが設置した白のポーンを取る。黒のナイトが、白のキングに目前に迫った。
次はナマエのターンだ。グレイグが対戦相手をちらと見ると、彼女がにっこりと微笑んだので、はっと息を飲んだ。
盤上を今一度眺める。
「……しまった!」
そこでようやく自分の失態に気づいて、声をあげた。が、時すでに遅し。
「ふふ、ひっかかりましたねグレイグ様。今度はこちらの番ですわ」
ナイトが移動したことにより黒のキングへと結ぶ道が開け、ナマエの白のビショップは敵将へと一直線に攻め入った。
「チェックメイト」
誇らしげにナマエが勝利を宣言した。
「お美事でございます、ナマエ様」
対戦相手を讃えたグレイグが、がくりと肩をおとしてテーブルに突っ伏した。
「くっ、お上手になられるのは結構だが、だんだんやり口がホメロスに似てきているのが非常に複雑だ……」
「お前がいつまでたっても上達しないのを、人のせいにするな」
ナマエの隣で勝負を見守っていたホメロスは、グレイグの言い分に聞き捨てならぬと口を挟んだ。しかし一理ある。白のクイーンを取られた時から、ホメロスにはこの勝負の行方は見えていた。グレイグの言った通り、ナマエの駒の動かし方は自分に似てきている。
クイーンは取られたのではなく、取らせたのだ。狡猾で読みにくい一手となるよう、大胆に駒を切り捨て、囮で相手を誘導し、伏兵をけしかける。いずれも以前、ホメロスが助言をしたものだ。
人に教授するという経験は初めてだが、これはこれでなかなか興味深いものだ。
「ホメロス様もたまには一戦いかがですか? 見ているばかりなのは退屈でしょう?」
グレイグを易々と打ち負かし、自信をつけたらしいナマエが余裕を感じさせる笑みでホメロスを盤上へと誘った。その堂々とした様に、ホメロスはふっと鼻を鳴らした。
「なるほど、グレイグ程度ではもう満足できぬと。いいでしょう、では今度はオレがナマエ様のお相手をいたしましょう」
「はい。ぜひよろしくお願いします、先生」
「では私は、僭越ながらナマエ様の助言役を務めさせていただく」
今度はホメロスと入れ替わりにナマエの隣へ座ったグレイグが、生真面目に挨拶をして会釈した。
盤上の駒を整えながら、ホメロスはさりげなく対面するナマエの表情を窺った。さすがに、緊張の色がわずかに目元に浮かんでいる。
「緊張されなくても、ナマエ様のレベルに合わせてさしあげますので大丈夫ですよ」
「まあ、お言葉ですが手加減は無用に願います。全力でかかってきてください」
リラックスさせるつもりが、逆にナマエを煽ってしまったようだ。ホメロスは苦笑し、「それではお望み通りに」と告げて先手を取った。
ことん、ことんと駒を動かす音が静かな部屋に響く。序盤は両者とも腹の探り合いをするように、慎重に駒を進めていった。時折、グレイグがナマエの手元を覗き込み、顔を寄せては耳元で助言を囁く。おそらくは頓珍漢なものも多いだろうグレイグの助言に、ナマエは大抵微笑みで誤魔化していたが、どう考えても邪魔にしかならないエール(しかも囁き声)に笑いを堪えたり、近すぎる距離に戸惑って少し頬を染めたり、と中々仕合に集中できないでいる。だがそんな二人も、側から見れば仲睦まじい恋人たちのようだ。
それが非常にホメロスの集中を削いだ。グレイグが動いて、ナマエがそれに反応するたび、彼の内心は嵐のように荒れた。目の前の二人のやりとりに、冷静な思考が奪われていく。そんな自覚もないまま駒を進めるものだから、
「チェック」
「な、」
唐突に盤上で喉元に剣を突きつけられた状態であることを知らされ、ホメロスは呆気に取られた。焦って手駒を確認する。
まさか。もう、打つ手がないだと。
ナマエが嬉しそうに、にこりと笑った。
「チェックメイトでしょうか。油断しましたね、ホメロス様」
「お見事です、ナマエ様。まさかあのホメロスを負かすとは」
ホメロスもまさか自分が負けるとは思っていなかったため、しばし呆然としていた。ナマエの油断を誘い、一気に形勢逆転させようとの目論見は水の泡だ。それもこれも全てグレイグの余計な動きのせいだ。ホメロスは、ナマエの隣でなぜか勝ち誇った顔をしている親友を忌々しく睨みつけようとし、しかし師弟勝負で初勝利に喜ぶナマエに水を差すこともできず、ぐっと不満を呑み込んだ。
「……これはこれは、してやられましたね」
皮肉げな笑みで応えながら、思い知る。女性とはつくづく恐ろしいものだ。男の言動にあれほど振り回されているように見えたのに、一方で冷静に攻め方を考えていたのだ。
ナマエに限って、まさかこれも策略の内、などとは言い出すまい。