第八話
想いし君へ・後篇





「あっ、ホメロス様」
 本日グレイグは遠征のため、ひとりでナマエのもとを訪れたホメロスを最初に出迎えたのは、彼女の侍女アリサだった。その素朴な顔を見るのは実にひと月以上ぶりである。
「珍しいな、どうした」
「実はさっきまで王様が来ていたんです。だからアフタヌーンティーの準備を手伝いに」
 あっけらかんと言いながら、アリサはテーブルクロスを畳んだものをぽいぽいと籠に放った。
 なんでもナマエの見舞いに訪れた王をもてなすため、数人のメイドと侍女がこの狭い塔の階段を何度も登り降りして準備に勤しみ、それはそれは豪華なティーパーティが催されたという。
「王はもうお戻りになったのか?」
「はい、少し前に」
 それを聞いてホメロスはほっと安堵した。こんなところで王と鉢合わせをしたら事だ。ちなみにいつもの見張り兵は、運び込んだ家具やら食器やらを降ろすのにこき使われているらしい。
 その時、開け放たれた扉の奥から人がやってくる気配があった。
「アリサ、片付けが終わったら少しゆっくり休んで……まあホメロス様、いらっしゃっていたのですね」
 現れたのはナマエだった。爽やかな空色のアフタヌーンドレスに身を包む彼女はいつもより輝いて見える。手には様々な菓子が盛られた皿。お茶会で供されたものだろうか。
「聞きましたよ。王のもてなし、大変だったでしょう」
 ホメロスの軽口にナマエは笑った。
「ふふ、確かに久しぶりに陛下にお会いして緊張しました。でも甘いものがお好きと伺っていたのに、あまり召し上がられていらっしゃらなかったの。もしかして、お加減が悪かったのかしら?」
「あの王が?」
 ナマエが不安そうに手に掲げた皿に視線を落とす。手つかずの甘い菓子の中には、特に王の好物だったものもある。
 ホメロスが知る王は無類の甘い物好きだ。厨房でつまみ食いをしているところも度々見かけたことがあるくらいだ。
 考え込む二人に焦れて、アリサが部屋の中へと促す。
「ふたりとも、立ち話もなんだし、中でお茶でも飲んでお話ししたらどうですか? お湯まだ残ってるんで、お淹れしますよ」
「そうね、そうしましょう。ホメロス様、どうぞ中へ」
 そうそう、とナマエは思い出したように己の侍女を振り返った。
「せっかくだから、アリサも一緒にいかが? いろいろと準備で疲れたでしょう?」
「えっ、いいんですか? やったー!」
 アリサの喜びっぷりを見て、ホメロスは現金なものだと鼻で笑う。もう城勤めを始めてから半年以上は経つのに、ちっとも垢抜けない。だがそこが彼女らしく、まあ好ましい点でもあった。侍女としてはどうかと思うが。
 テーブルに着く前に、「退屈しているかと思いまして」とホメロスは抱えていた数冊の本をナマエに差し出した。いずれも図書館から借りた本だ。鉱物図鑑、植物図鑑、少し前に流行った恋愛小説、歴史物、冒険記。ナマエの好みがわからないため、適当に見繕って持ってきた。
「ありがとうございます。……綺麗」
 礼を言って本を受け取ったナマエは、やはり女性らしく鉱物図鑑の華やかな表紙に魅入っている。
「お気遣い痛み入ります。いつお返しすればいいですか?」
「今度お会いする時にでも」
「ふふ、ではそれまでに全部読まなきゃ。忙しくなりそう」
「急がなくても大丈夫ですよ。貸し出しの延長はできますから」
 談笑しているうち、アリサが着々とお茶の席を整えていく。それぞれのカップに紅茶を注ぐと、アリサは当然のようにナマエの隣に収まった。まずはクリームの乗った一番甘そうなデザートに手を伸ばす。ひとくち頬張り、とろけるような顔になったアリサをナマエは優しげな目で見守っていた。
「ねえナマエさま、これってさえずりのみつですよね? ひとくち貰ってもいいですか?」
 アリサが指差したのはテーブルの中央に置かれた鳥のモチーフの瓶だ。王とのお茶会の際に誰かが用意したものだろう。さえずりのみつは喉の具合によく効く、清き泉の水で作られる貴重なものだ。薬である反面、貴族たちの間でその極上の甘さが愛されている。つまり普段は庶民には手が届かない、一度は味わってみたいとされる希少なもののひとつである。
「ええ、お好きなだけどうぞ」
 ナマエの許しが出て、アリサは顔を輝かせてこれでもかというほど瓶の中身を紅茶に流し入れた。瓶の半分がなくなった時点で、流石にホメロスが止めに入った。
「おい、分量を考えろ。それではただの蜜湯だぞ、せっかくの紅茶がもったいない」
「いいんですー! 舌が痺れるほど甘い紅茶を一回飲んでみたかったんですから! ……よし、これくらいでいいかな」
 ホメロスの警告も聞く耳持たずだ。ようやく満足したのかアリサは瓶を置いて、スプーンで中身をかき混ぜると、わくわくした表情でカップに口をつけた。
 幸せそうに表情が蕩ける。もう一口啜った。少しの間。
 突然、「うっ」と呻き声をあげ、喉元を抑えた。
「アリサ?」
 侍女の態度が急変したことにナマエは心配そうにアリサを見遣った。どうせ蜜の入れすぎで味覚が痺れたか何かだろう。
「だから言っただろう。入れすぎだと」
 そう楽観的に考えていたホメロスは、固まるアリサに呆れた混じりの視線をやって、すぐに考えを改めた。
 動悸を抑えるように胸を押さえ、アリサの視線があちこちにさまよっている。苦しそうに丸まった背中が、震えを抑えられていない。
「喉が、へん。焼ける」
 明らかに掠れた、苦しそうな声で絞り出すように告げると、アリサは盛大にむせ込んだ。口元を抑えた手の隙間から、赤い色が飛び散った。
「アリサ!」
 間違いない。これは、毒だ。


 あれから一晩経った。
 一時は危うかった侍女の命は、懸命な処置によりなんとか一命を取り止めた。ナマエがすぐさまキアリーをかけたのが効果があったらしい。
 その後の調べにより、毒物はやはりさえずりのみつの瓶から検出された。本物のさえずりのみつならば解毒しそうなものだが、あれは実際、中身はただの蜂蜜だったようだ。
 しかしそんな代物が、王とのお茶会の場に用意されたという事実が事を更に複雑にしていた。狙われたのは王の命か、それともナマエの命か。手を尽くして捜査しても、例の毒物を用意した人物を洗い出すことができなかった。しかし国家の威厳にかけて万が一にも犯人を逃す訳にもいかず、今回のお茶会に関わった者はほぼ全て収監されることとなった。どんな処罰が下されるのかはまだ分からない。
 幸いなのは両者とも紅茶はストレート派だったことだ。だがそのせいで、まったく無関係の侍女が被害に遭ってしまった。
 ホメロスはこの騒動のせいで王の命令を無視しナマエに会っていることがばれてしまったが、毒の混入したものをいちはやく特定したことを理由に特にお咎めはなかった。つまり、ようやくこれで堂々とナマエに会いにいくことができるようになったというわけだ。
 さっそくホメロスは、落ち込んでいるだろうナマエのもとを訪れた。
ナマエ様、これを」
 ホメロスはナマエに、ひとつ贈り物をした。
 銀のスプーン。昔から、銀は毒物に反応して色が変わると言われているので、これならば毒殺を未然に防いでくれると考えた結果のものだ。
「銀には毒物を見抜く神秘の力があると聞いたことがある。気休め程度にしかならないだろうが、受け取っていただけますか?」
「まあ……ありがとうございます。ほんとうに、ホメロス様には何から何までお世話になりっぱなしですね」
 ナマエは受け取ったスプーンの包みを大事そうに抱える。その笑みには、心労によるものか暗い陰が落ちていた。
 アリサはその後の詳しい検査により、どうやら重大な障害が残ってしまったと判明した。医師は淡々とこう告げた。日常生活に支障はないが、毒の副作用により、子供を持てない体になった、と。
 その宣告にナマエは絶句していた。一歩間違えれば、ナマエに襲いかかっていた災いだ。
 ナマエの隣で医師の言葉を聴いていたホメロスは、毒殺はもしかしたらナマエを狙ったものであるかもしれないと推測した。この毒の不妊という副作用こそが狙いと仮定すれば、ユグノア王家の血筋を残されては困るものに絞っていけば犯人へと繋がるだろう。しかし困ったことに現時点では範囲が絞りきれない。偽善的な正義感でユグノア王家を憎むものはこの王宮内にもいくらでもいる。だからこの推理は、現時点でもう手詰まりだ。
 ただ、アリサには悪いがナマエが無事でよかった。珍しく神の加護に感謝するとともに、一方でアリサへの神の奇跡を祈った。アリサ自身、憎めない娘だ。できれば寛解し、また元気な姿をみせてほしい。
 しかしそんな祈りも虚しく、アリサの障害は一生残るものだと宣言されてしまった。結局アリサ自身の希望により、彼女は職を辞し生まれ故郷へ帰ることとなった。
 最後の日、見送りに顔を見せたかつての主人を、かつて純朴な田舎娘だった少女は憎悪に染めた瞳できっと睨みつけ、悪意を叩きつけた。
「どうしてあたしがこんな目にあわなきゃならないのよ! あんたの侍女になんかならなきゃよかった!」
 泣き喚きながら投げつけられる言葉は呪詛に満ちている。根底にあるのは嘆きだ。
 それを、ナマエは無言で受け止める。謝罪もせず、言い返すこともせず、労わりの言葉もかけず、なにもかもぐっとこらえて、青い顔で飲み込んで。なにを言い返しても、今のアリサにはきっと届かない。
 付き添いのためナマエの後ろで待機していたホメロスは、あまりにアリサの言葉が過ぎると感じて一歩前へと出ようとしたが、それもナマエに制された。
 散々な見送りを終え、傷心の彼女を部屋へと送り届ける。なにか気の利いた一言でもかけられればいいが、こういう時に限って頭は働かない。
「……お茶でも、どうでしょう。少しは落ち着くと思いますが」
「お願い、少しでいいから一人にして」
 しかしホメロスの言葉を無視するようにナマエは冷たく言い捨て、奥の寝室へと閉じこもってしまった。
ナマエ様!」
 思わずそれを追いかけそうになって、思いとどまる。目の前には天の岩戸。無理にこじ開けようとするのは、マナー違反だ。
 しかし固く閉じられた扉が彼女の拒絶を表しているようで、それが酷く胸に堪えた。自分は悲しみを共有するに値しない男だと言われているような気がして。
 閉じた扉にそっと手のひらを当て、こつりと冷たいそれに額を当てて耳を澄ましてみても、部屋の中の音はなにひとつ聞こえてこない。
 わかっている。ナマエのそれは、弱みを見せまいとする本能だ。ホメロス個人を拒絶したわけではない。
 だがそうと分かっていても、欲せずにはいられない。
 ナマエが隠そうとする悲しみを、暴きたい。悲しむ彼女に寄り添って、慰めたい。そばにいたい。
 ――あのひとを、独りにしたくない。
ナマエ様、オレはここに控えていますので、なにかあったらお呼びください」
 扉の向こうに聞こえるように言って、ホメロスは体を反転し、扉に背を預けるような形で座り込んだ。
 冷たい床。途方にくれたように天井を見上げて、ふと気づく。
 ――ああそうか、オレは彼女を愛しているのか。
 そんな重大なことを、取るに足らないことのひとつであるかのようにぼんやりと考える。
 そうか、彼女にあれほど執着した理由はそういうことか。誰かを想って儘ならず、振り回される感覚を嫌ではないと感じるのは、久しぶりだった。なんだ、自分はそれほど情の薄い奴ではなかったのだ。
 とうとう自覚するのと同時に、今度は育てるつもりもないそれを持て余す。だって誰に言えようか。グレイグに言えるはずもなく、ナマエなどもってのほかだ。
 この恋は、始まりを知ることなくひっそりと終わった。今、この場で死んだ恋だ。
「はは……とんだ道化だ」
 乾いた笑みがこぼれる。誰か笑ってやってほしい。
 ……困ったな。
 なんの感慨もなく、そう呟く。
 もうすぐ、冬が終わろうとしてた。


 ナマエが塔の上の住人となって、しばらく経ったとある日のこと。今宵、デルカダール城では華やかなパーティーが催された。
 主役はユグノアの王女ナマエだ。彼女は今月、めでたく成人の日を迎えた。
 王の傍に立つナマエに、今宵の招待客たちが列をなして祝いの言葉を述べる。どうやらこの列に並ばねば、ナマエに祝いの言葉すら掛けられないようだ。
「大人気だな、ナマエ様」
 行列に呆けたようにグレイグが呟く。相変わらず見当違いな感想を漏らす友に、ホメロスは何も言わず嘆息する。あれはナマエが人気者なのではなく、王への目通りを兼ねた挨拶だ。むしろ王のご機嫌とりが目当ての貴族の方が多数だろう。
 グレイグとホメロスも、ともに王の後見を受けるものとしてこのパーティーに参加していた。滅多に着ない夜会服を身に纏い、紳士的に振る舞う彼らに周囲の人々は魅了される。特にホメロスの服は、こだわって作らせた上等な白の夜会服だ。婦人たちの熱い視線が二人に集中する。
 並ぶこと数分、やっと目通りが叶った。王は少し前から席を外したらしく、ナマエの隣は空席だった。挨拶に来るものたちも今は控えめだ。
ナマエ様、この度はご成人、誠におめでとうございます」
「オレからもお祝いのお言葉を。ご成人おめでとうございます。ナマエ様の未来に祝福がありますよう」
「おふたりとも、今日は私のお祝いの場に参加してくださってありがとう。今宵は是非楽しんでくださいね」
 女神のように美しく着飾ったナマエが、祝いを述べにきたグレイグとホメロスににこりと微笑む。
 今宵のナマエは主役らしく美しく結い上げた髪に小ぶりのティアラを載せ、体つきを強調するような少し大胆なデザインのドレスに身を包んでいる。耳元には大ぶりのイヤリングが揺れ、人々の視線を奪っていた。似合ってはいるが、おそらく彼女の好みではないだろうなとホメロスは内心思った。できる事なら、隣の幼馴染が理性を失う前に自分のコートでむき出しの白い肩ごと隠してしまいたい。
「……しかし、ひとこと言ってくださればよかったのに」
 ナマエを前にし、思わず愚痴めいた一言がぽろりと溢れる。ホメロスが言わんとしたのは、ナマエの誕生日についてだ。先の一件以来少し疎遠になってしまっていたため、彼女の誕生日を知らなかったのは仕方のないことだとは分かっている。けれどあれほど懇意にしていたのに、一言もないなど薄情ではないか。できることなら、いの一番に祝福したかった。
 ナマエはホメロスの一言に、何も言わずただ微笑んだ。
 その後王が戻ってきて、ナマエの手を取りフロア中央へと進んだ。王の合図でワルツが流れ始めた。最初のダンスは王と。
 無事一曲踊り終え、ナマエは招待客に向かってお辞儀をすると、拍手が送られる。今宵の主役が一曲踊り終えるのを待って、他の招待客がホール中央へと次々なだれ込んだ。
 ホメロスはナマエのもとへと向かおうとしたが、一歩遅れをとった。彼女の元に、複数の見目の良い男たちが集まってダンスを申し込んでいた。その男たちの顔を彼は見知っていた。彼らは確かデルカダール国内でも有力な貴族の子弟で、特別待遇で軍に士官してきたものたちだ。もちろん実力あっての特別待遇だが、中には貴族特有の鼻持ちならない男もいて、ホメロスは彼らを好いてはいなかった。ある種、同族嫌悪に近い。
 そんな男たちに囲まれて、ナマエは和やかに談笑している。話が弾んでいるところをみると、もしかして顔見知りだろうか。彼らとナマエの接点といえば、……おそらくは一時期救護室で働いていたあの時だろうか。
 そんなことを考えていると、飲み物を取りに行っていたグレイグが戻ってきて「踊らなくていいのか?」と尋ねてきた。
「おまえこそ。どうするんだ、あれ。早く行って横からかっさらってこい。今ならまだ間に合うぞ」
 ナマエを囲む男たちの一団を顎でしゃくると、グレイグは青ざめて首を振った。
「俺は無理だ、踊れない。ホメロス、俺のダンスのレベルを知ってるだろ」
 言われて思い出す。たしかに友の踊りは独特だ。しかしそんな悠長なことを言っている場合ではない。
「そんなこと呑気なこと言ってたら、ナマエ様をあの男達からお救いできないぞ」
 なぜかグレイグにこだわるホメロスに、彼は不思議そうに首をかしげた。
「ならばおまえが行けばいいではないか、ホメロス」
「……オレではダメだ」
「なぜだ?」
 グレイグの問いに、ホメロスは押し黙ったままだった。


 浮かれた夜が明けてからいっとき、一部の騎士の間ではナマエの噂が持ちきりだった。彼女の品の良い笑みに魅了されてしまった男の多いこと。彼女の住む塔にはひっきりなしに熱を上げた来客が訪れ、すげなく追い返されては肩を落として帰っていく。中には焦がれすぎて、塔をよじ登ろうとする馬鹿まで現れた。ちなみに王が課した面会制限自体は、成人した時点でなくなったようだ。
 だがその後、浮かれた空気に連動したように騎士たちの怪我人が続出した。訓練中に練習用の剣が折れて視力を失ったり、乗馬中に落馬して骨折するなどの比較的大きな怪我ばかりだ。ホメロスが聞いた話では、いずれもナマエに交際を申し込んだ者達だということだ。
 あまりにもそんなことが連続するものだから、ナマエを指してこう呼ぶものが現れた。
 呪われた傾国の君、と。