第五話
二人の誓い・後篇




 会議が終わり、参加者たちが各々談笑に花を咲かせ、次第にちらほらと退室してゆく。ホメロスは最後のひとりになるまでそこから動かなかった。
 誰もいなくなった会議室で、ホメロスはゆっくりと辺りを見渡し、そして正面の壁に飾られてあるロトゼタシア全土が記された大きな地図の前に立った。この地図の前に立ち、戦略と戦術を練るのは軍師の役割だ。ホメロスが描いた道筋を、グレイグが切り開いていく。それこそが、ホメロスの夢の構図だ。
 だが、その構図は早くも崩れかかっている。
「くそっ……!」
 己の立身出世の道は遠い。歯噛みして、ホメロスはダンと拳を地図へと叩きつけた。
 その時。
 ふいに、首筋にぞくりと氷を押し付けられたような悪寒が走る。
「……っ!?」
 後ろになにか、得体の知れない恐ろしいものがいる。
 正体不明の何者かに背後を取られた事に苛立つより前に、肌に押し付けられた底知れない恐怖に本能が警鐘を鳴らし、ホメロスは瞬き一つの間に振り返り身構えた。
 が、そこにいたのは。
「ホメロスよ」
「お、王……? なにかご用でしょうか」
 デルカダール王、その人だった。意外な人物の登場に、ホメロスは戸惑った。
 王はどこかぼんやりとしていて、様子がおかしかった。焦点の合わない王の瞳が、虚空を見つめている。
 ホメロスは背に冷や汗が流れるのを感じつつ、務めて冷静を装いながら王その人を観察する。
 おかしい、なぜ王の気配を感じられなかった。自分は気配を読むことに長けていたはずだ。無論、武勇の人であるから王が気配を隠すことに長けていることは知っているが、ホメロスを相手にそれをする意図が分からない。
 それにあの王の全身を取り囲む魔力はいったいどういうことだ。デルカダール王家の血筋には魔力を扱う素質は受け継がれていないはずだ。なのに、むせ返るほどの濃い闇の気配を感じるのは何故なのか。
 あれはほんとうに、王なのか?
 進退に窮する中、デルカダール王の瞳の焦点がゆっくりとホメロスに絞られ、ニイと歯茎を見せてこちらに獰猛な笑みを見せた。ぐ、と圧迫されたような感覚を覚え、ホメロスはじり、と後ずさりそうになる脚を踏みとどめた。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことか。
「親友に先を越された気分はどうだ」
 王の形をした何者かは、ゆっくりと、ホメロスの心の傷をえぐるように言葉を紡いだ。
「王……?」
「あれは忠誠心も強く、民からもよく愛されることだろう」
 わんわん、と王の声が頭の中になりひびく。何度もこだまし、脳裏に張り付いていくような不快な感覚がホメロスを襲った。まるで思考を支配されているような。
「お前のことも息子のように可愛がっていたのだがなぁ、あれと比べてどうも劣る。わしの見込み違いだったか」
「……ご期待に添えず、申し訳ありません」
 混濁していく理性をなんとか保ちながら、ホメロスはなおも失わない慎重さで答えた。これは王ではない。王になりすました何者かだ。ホメロスはそう確信した。なぜなら王は部下を叱咤することはあれど、貶めることは決して言わない。
 この目の前の不届きものがその正体を現したら、一気に斬りかかれるように、じりじりと間合いを図る。
「そのうちお前をだれも見なくなる。グレイグすらも、お前を置いてゆくぞ」
「っ!」
 グレイグ。不意に出された友の名に、ホメロスは動揺を見せるという失態を犯した。
「そんな、ことは」
 デルカダール王の顔をした何者かが目に狂気を浮かべ、ニヤリと笑った。
 まずい、と思った時にはもう、敵は牙を剥いてホメロスへと襲い掛かっていた。
 伸びてきた節だらけの皺の刻まれた手が、見た目からは想像もできぬほどの力でホメロスの顎を掴む。引き寄せられた顔に息がかかるほどの不快な距離で、王の顔をした何者かは明確な悪意を持って囁いた。
「お前は出来損ないだ、ホメロス」
「でき、そこ、ない……?」
 目の前のものは、敬愛する王の顔をして、耳に親しんだ王の声でもって、ホメロスを貶める。これは王ではない。わかっている。だが。
「できそこない、だと?」
 幼い頃からなんでも卒なくこなしてきたホメロスは、己の能力を下に見られることに悲しいほど慣れていなかった。出来損ない、などという屈辱的な言葉に、自尊心がいたく揺さぶられる。
 ホメロスの動揺を誘うことに成功して、敵は心底嬉しそうに高笑いした。
「フハハハ! 聞いたか、これがこの老いぼれの本心だ!」
 敵は血走った目で唾を飛ばし、ホメロスを更に揺さぶる。王の顔に、見知らぬ青白く不吉な顔の男がぶれて重なる。
「かわいそうな男だ、この老いぼれに認められているとでも思っていたのだろう。がっかりしたか? 所詮は人の心などこんなものだ」「我だけはお前を認めるぞ。お前には秘められた力がある。我であればその力を引き出せる」「我はお前が望むだけの力を与えてやれる。この手を取れば、それが叶う」「力を得れば、友は再びお前を崇めるようになるだろう。友の尊敬はもう欲しくないのか。このまま友だった男の下に甘んじていてよいのか」「力が欲しければ我に心を明け渡せ」「我に屈しろ」「屈しろ、屈しろ、屈しろ」「闇の力に跪け」
 敵はホメロスを籠絡せしめんと怒涛の如く悪意を垂れ流す。悪意の塊が奔流となってホメロスに襲いかかる。呑まれそうになるところを踏みとどまり、顎を掴まれていた手を振り払い、ふらふらとおぼつかない足取りで距離を取った。
「くっ、我が王の名を騙るおまえは一体何者だ……!?」
 とうとう腰に差した剣を抜き、精一杯の虚勢を張って王へと差し向ける。この後に及んで、反逆罪など心配している場合ではなかった。
「おお、我が闇の力に抵抗するか。さすがの胆力だ。このおいぼれは一瞬で屈したぞ?」
 敵は必死の抵抗を見せたホメロスに嬉々として手を叩く。まるでホメロスの威嚇など、ものともしない。
 ホメロスは悟っていた。目の前の敵との力量差は圧倒的だ。このままではどう足掻いても、飲み込まれる。だが曲がりなりにも騎士の端くれとして、逃げ出すわけにはいかなかった。ぐ、と湧き上がる怒りで恐怖を飲み込み、己を奮い立たせるように怒鳴る。
「王を……我が王を愚弄するな! 王の体から出て行け、慮外ものが!!」
 ホメロスの一喝が功を奏してか、敵が一瞬考え込むように黙り込み、こちらを舐めるように上から下までじっくりと観察してくる。
 そして満足行くまで眺めた後、ふむ、と納得するように頷いた。
「加えて、その並ならぬ忠誠心。やはり、お前は我の手駒として欲しい。――だがどうしても、我に自ら膝を折らぬのならば、こうするしかあるまい」
 一瞬だった。敵はホメロスとの間合いを一息に詰め、気がついたら首を絞められていた。鋭い爪が肌を食い破らん程の力で、腕一本で徐々に空へと持ち上げられる。
「がはっ! くっ、はなせ……!」
 次第に空気が足りなくなって、ホメロスは必死で抵抗した。だが、彼の両手でもってしても敵の腕を退けることができない。
 とうとう、ばたつかせた足先が空を掻いた。ホメロスは己を縊り殺さんとする敵を睨みつける。
 目があって、それはおぞましく嗤った。
 見せつけるようにもう片方の腕を持ち上げ、枯れ木のような指先から闇が産まれた。ドロドロとして、ぬめるようなそれは、次第に細長い幾つもの節をもつ何かに変形し始めた。形は言うなれば、節足動物。それが敵の手のひらの中で蠢いている。
 ホメロスはその虫の行方を凝視した。嫌な予感に心臓がばくばくと張り裂けそうほど音を立てている。
「ぐっ、やめろ! やめ、やめてくれ……!」
 その虫のようなものが、身動きが取れないホメロスの頬へとぼとりと落下した。粘着体のように頬に張り付いたそれは震えながら蠢いて、ゆっくりと顔の上を這う。ぞろぞろと無数の節が肌を這う感触がおぞましく、全身が粟立つ。今すぐ振り払ってしまいたい。だが首を抑えられた体勢ではままならず、とうとうそれは耳たぶの淵を這い上がっていった。複雑に隆起した耳の奥に、侵入するのに丁度良い穴を見つけたと言わんばかりに、ずるりと耳の中へ入り込む。ホメロスが恐怖に絶叫を上げたとき、締め上げられていた首が唐突に解放された。宙ぶらりんになっていたホメロスは重力に従い臀部から落ちるように座り込んだが、目の前の敵に対峙せねばという使命感より虫が体内へと入るという本能的な恐怖感が勝り、耳の奥を犯す虫の侵攻を防ごうと耳の中を血が出るほど強く掻きむしった。
「っ、あああああっ!? いやだっやめろぉっ! これ以上中に入るな!!」
 だが、もう手遅れだ。
 虫の形をした何かがうぞうぞと耳の中を這い、鼓膜を突き破って中へと侵入していくおぞましい感触。脳みそを直接かき混ぜられるような、ひどい頭痛に襲われた。キン、と無数の神経が響いて、眩暈に襲われる。
「あ、あ……いや、だ……」
 両の目から涙がだらだらと出て、鼻と口から体液が垂れ流れる。鉄錆の味。
 ふいに、胃の腑から何かが逆流してくる。抑えきれず、ホメロスは嘔吐した。屈辱に涙を流しながら蹲っていると、次第に意識が遠のいていく。
「……我の蠱毒はお前の精神をじわじわと蝕む。どれだけ耐えられるか、見物だな」
 薄れゆく意識の中で、敵がこちらを見下ろし嗤っているのが視界に入った。


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※握手スルー事件はウル様に記憶操作されているという設定でお送りしております。