第五話
二人の誓い・前篇
デルカダール王国、新緑の月吉日。
紺碧に晴れ渡る空の下、本日、デルカダール城大広間にて一人の騎士の叙勲式が行われた。
「――我、モーゼフ・デルカダール三世は」
絢爛に飾り付けられた大広間にて、威厳に満ちた王の声が響く。黄金に輝く双頭の鷲像が見下ろす中、王の前に深々と跪きたる騎士が一人。
「建国の祖デルカンとダール二人の王の名に於いて、汝、デルカダール王国筆頭騎士グレイグの此度のユグノア王国およびグロッタでの功績を称え、誉れある狗鷲勲章を授与し、ここに将軍に叙任する」
叙勲式をひとめ見ようと大広間に集まっていた城の者達が、新たなる英雄の誕生を祝福し、熱狂的な歓声をあげた。神聖な儀式の手順に乗っ取り、王は掲げた剣の平で、頭だれる騎士の肩を三度打つ。
「立て、グレイグよ」
「はっ!」
洗礼を受けた騎士はゆっくりと立ち上がり、誇らしげな表情で己が君主を振り仰いだ。
「おぬしの働き、期待しておるぞ」
「ありがたき幸せ。不承グレイグ、必ずや我が王のご期待に応えてみせます!」
父とも慕う王のありがたい言葉に、グレイグはこらえ切れぬ高揚を滲ませながら深く敬礼した。
あいつ、ガチガチに緊張していたな……。
式が終わり、熱狂する観衆を遠巻きにして壁際に移動したホメロスは、親友の後ろ姿を視線で追いながら、式が始まった時のグレイグの様子を思い出していた。名を呼ばれ、やや勇み足で花道を通り王の元へ向かうグレイグに、観衆に混じって立っていたホメロスは軽く手を振ってみたがこちらに気づいている様子すらなかった。それも仕方のないことだった、グレイグにとって今日は夢にまで見た日だ。緊張に顔は強張り、昨日は寝付けなかったのか目の下には薄っすらと隈まであった。まあそんな状態で、手足が両方同時に出てなかっただけ良くやったと思う。
叙勲式は無事終わったが、これで終わりではない。グレイグの将軍としての初仕事は、市民への顔見せだ。このあと新たな将軍のお披露目として、馬に乗って町中をぐるりと一周する予定らしい。ほとんど見せ物だ。冗談ではない。新たな将軍が立つ度慣習で行われているようだが、自分の時が来たら上に掛け合って、そんな悪習はなにがなんでも辞めさせねば。
「ホメロス!」
不意にきょろきょろし始めたグレイグが壁際にいるホメロスに気づいて、満面の笑みでぶんぶんと手を振る。まるで犬が飼い主を見つけてはしゃいでいるようだ。内心で苦笑しながら軽く手を振り返してやると、本日の主役が当然のようにホメロスの元へと駆け寄る。
「なんだ、こんな端っこで。俺の晴れ舞台、ちゃんと見ててくれたか?」
「ああ、心配しなくとも一番前で見ていたよ。お前こそオレに気づかなかったじゃないか」
不満を露わにする親友に皮肉げに笑ってやると、グレイグは途端に申し訳なさそうな顔をする。
「あれっ、そうだったか。すまん、王の姿しか目に入らなかった」
「そんなことだろうと思ったさ。それよりおめでとうグレイグ。また一歩、夢に近づいたな」
握手を求め、手を差し出す。友からの祝辞にグレイグは何よりも嬉しげに顔をくしゃりとさせ、ホメロスの手を力強く握り返した。
「ありがとう。しかしこの俺が将軍か……、うまくやれるだろうか」
「将軍様がなんて顔をしている。無駄に威厳はあるんだから、びしっとしていればいいんだ。そうすりゃ人も自然と付いてくる」
将軍ともなれば、ただ上の指示に従っていればよかった一兵卒時代と違い、未知の世界だ。流石に不安を隠しきれない様子のグレイグに、ホメロスは喝を入れた。
グレイグはいつも、ホメロスの前でだけ弱みを隠さない。
無論、彼の不安は分かる。齢二十で将軍職を任されるなど、大抜擢もいいところだ。グレイグは周囲の期待に応えようとがむしゃらになるだろう。簡単に重圧に負けるような男ではないが、なんでも真正面から受け止めようと空回るグレイグの肩の力を抜いてやるのは、ホメロスの役目だった。今までは。
これからは、違う。いつまでも一緒につるんで馬鹿をやってばかりはいられない。うかうかしていたら、こいつはどんどん前へと進む。いつも前しか見えていないから、そのうち本当に置いていかれるかもしれない。
そんな内心の焦りを綺麗に隠して、ホメロスは親友の厚い胸を拳でどんと叩き、励ましの声をかけてやる。
「いいかグレイグ、どんなに心の中で迷っていても、その迷いを顔に出すなよ。兵はお前の迷いを敏感に嗅ぎとる。軍をガタつかせる一因にもなりかねない。ほら、情けない顔をするな。顔を引き締めろ」
「う、うむ。こうか?」
若き将軍は友のアドバイスに素直に従って、せいぜい威厳に満ちた表情を作る。それがおかしくて、ホメロスは吹き出してしまった。
「ははっ、いい面構えじゃないか。さあ、外で民衆が待ちかねている。手を振ってやるのを忘れるな」
促すように友の背中をぽんと叩く。頷いたグレイグは数歩前へと歩を進め、ふと思い出したようにホメロスを振り返った。
「……なあホメロス、覚えているか? 俺たちで力を合わせて、この国を守ると誓ったこと」
「ああ」
それは幼い頃の二人の誓い。頷いたホメロスに、グレイグは神妙な顔つきになって続けた。
「ホメロス、今回は色々重なって俺がお前に先んじてしまったが、俺がお前の努力を知っているように、お前のことを見てくれている人は必ずいる。だから、きっとすぐさ。お前の実力ならすぐに将軍になれる。だから俺は、お前と共に王の御前に並び立つその日を楽しみに待ってるからな」
ぽん、と指し示すように己の胸元を叩くグレイグ。その防具の下に、王から賜った揃いのペンダントが下げられているのを知っているのは、グレイグとホメロス二人だけだ。成人して、誓いの事はめっきり口に出さなくなったが、それでもいつでもそれは心の拠り所だった。鈍感なグレイグがホメロスの焦りを見抜いたとは思えない、恐らく純粋にホメロスを鼓舞しようと思っての言葉だろう。その友の気遣いを内心で有り難く受け取りながらも、綻ぶ口元を誤魔化すように皮肉げに鼻を鳴らした。
「なんだ、まさかそれで励ましているつもりか? ふん、心配せずともすぐにお前に追いついてみせるさ」
あの日の誓いを果たすために。いかなる時もグレイグの誇れる友であるために。
首に下げたペンダントに、防具越しに指で触れる。確かにそこに、友情の証があった。
行進の準備が整い、王城の大扉が重い音を立てて開かれる。外では新将軍のお披露目を待ちかねている市民がいよいよ始まろうとする行進に期待を高まらせ、その歓声が一気に城の中まで流れ込んできた。グレイグの元に立派な甲冑を纏った彼の愛馬が引かれてきて、恭しく手綱が手渡される。
「グレイグ様!」
グレイグが緊張の面持ちで鐙に足を掛けた時、鈴を転がしたような声がグレイグを留めさせた。声の方へと振り返ると、淡い色のドレスを花のように翻らせ、流れるような動作でナマエが階段を駆け下りてくるところだった。頬を上気させた少女はホメロスに気づかず、一直線にグレイグへと駆け寄ってゆく。彼女のきらきらと輝く瞳はグレイグしか見ておらず、グレイグもまた駆けてくるナマエが転びやしないかとあたふたする。ナマエがホメロスに目もくれず目の前を過ぎった瞬間、綺麗に整えられた髪がひらりと舞った。春の花のような優しげな彼女の香りが過ぎり、逆に頬を冷たく打たれたような気分にさせた。
春は親友の元へと訪れる。ホメロスではなく。
恐らく祝いの言葉を伝えるために降りてきたのだろう。ナマエがグレイグの元へとたどり着くと、一言二言交わした後、なにやら二人は顔を見合わせて照れたように笑い合う。片手に持っていた小さなブーケをナマエがグレイグの胸元に飾り付けてやると、グレイグは満更でもない表情で頭を下げる。そこへ彼女の侍女が主人に追いついて、なにやら置いていかれたことについて文句を言っている。
端から見れば、なんとも和やかな光景だ。ホメロスはその光景をぼんやりと遠巻きにして眺めていた。声をかける気にもなれなかった。
英雄と亡国の美しき王女、なんておあつらえ向きの二人だろうか。二人の間に割り込む隙間などない。グレイグとナマエが寄り添う姿は一枚の美しい絵画のようで、互いに惹かれあうのは自明の理のように思えた。グレイグは将軍という安定した立場を手に入れた、つまり今まで以上にナマエを守れるようになったという訳だ。彼女を妻に迎え入れれば、もちろん最初は周囲の反発もあるだろうが、一番角が立たなく手堅い守り方だ。
あの男ならば、きっと世間の心無い声から彼女を守り通してみせるだろう。一度懐に入れた相手は、何が何でも守り抜くような男だ。
つまり、もうホメロスの出番はないのだ。哀れなナマエを自分なりに気遣い、友人になったつもりで接してはいたが結局二人のお膳立てのような事をしただけで終わった。はなからホメロスなど眼中にないのだ。あれだけ深入りしないようにと自戒していたはずなのに、いつの間にか随分とあの姫に情を移している自分に気がついて、ホメロスは自嘲した。
なんだ、結局オレの手助けなどいらなかったではないか。
「……悔しいけれど、なんだかお似合いの二人ね。グレイグ将軍とナマエ姫。もしかして、将来を誓い合ったという噂は本当なのかしら」
「やだやめてよ、グレイグ様は私が貰う予定なの。あんな超優良物件、他の女に取られてたまるもんですか」
「でも、命を救ってくれた人と結婚できるなんて、それってとってもロマンチックじゃない?」
「うっ……確かにそれは認めるけど。でもグレイグ様は渡さないわよ! こちとら片思い歴長いのよ」
少し離れたところから、メイド達の他愛ない会話が聞こえてくる。どうやら知らぬうちにメイド達の間で根も葉もない噂が広まっていたようだが、元よりメイドには噂好きの女達が多い。二人の出会った経緯からして、そんな噂が立つのも無理はない。
似合いのふたり。結婚。
改めて他人の口から聞くと、妙な気分になる。ざらりとした不快な感覚が胸の奥を撫でていった。人々のざわめきが遠のいて、急に目の前が暗くなる。あの二人が結婚するということは、ホメロスは独りになるということだ。もちろん友が幸せになるのは喜ばしいことだ。ナマエだって家族が出来て安心して暮らせるようになるだろう。だがそうなると自分は? ホメロスの居場所はどこにある?
ふいに、言いようのない不安感と恐怖がホメロスを襲う。今までしっかりと地に足をつけていたはずなのに、いつの間にか沼地に足を取られ、前にも後にも引けなくなっている。身を寄せていた頑丈だったはずの船が沈んで、すっかり拠り所を失った気分だ。
グレイグは地位と名誉を手に入れ、愛すらも彼に微笑みかけている。ジリ、と頭の隅で小さな火花が散った。
これは、嫉妬か焦燥か。あるいは両方。ホメロスは自問する。
王城門前では兵士や城勤めの者がグレイグを取り囲み、口々に祝辞を告げていた。グレイグの側にいたナマエがそのとばっちりを受ける形で、グレイグに守られるようにひっついている。その二人の距離はあまりに近い。
瞬間、胸に残り火を押し当てられたような酷い痛みと熱を感じ、ホメロスは己の心境の変化に戸惑って眉をひそめた。腰に差した剣の重さがずんと増したような気さえした。
これは本当に嫉妬か。いや、友に対する嫉妬、とも違うような。無論、ナマエが友を奪う、などという考えはナンセンスだ。
――ならば彼女に感じるこの抑えきれない苛立ちは、いったいなんだ。
人垣から脱出し、ようやくグレイグはお披露目式へと出発できたようだ。グレイグを見送ったナマエがようやく壁際に立つホメロスに気づいて、晴れやかな笑顔を浮かべ会釈をよこしてきた。ホメロスは胃にのし掛かる重い気分を抱えたまま、おざなりに会釈を返す。しかし彼女の相手をする気分にはなれず、ナマエがこちらに向かってくる前に逃げるように踵を返した。
叙勲式の翌日。
グレイグが将軍となって、初の軍事会議の日である。
「さて諸君、先日の王の宣言どおり、我々は軍の強化を当面の目標として進めていくことになった」
居並ぶ軍の上層部の面々を見渡しながら、進行役の参謀がそう発表した。
広い会議室の中、ホメロスはいつも通りの定位置、即ち下座に静かに控えていた。この軍事会議には、将来の幹部候補として常に数名のエリート兵が参加を許されている。が、発言を許されているわけではない。
「新たな兵の募集、編成の見直し、兵器、魔術の開発、辺境の地への派兵強化及び検問の強化、このあたりを重点的に行っていく。それとは別に、王より勅命が下っている。早急に悪魔の子捜索隊を組み、任務に当たるようにとのお達しだ。これについては後ほど人選を選別したい」
続いて参謀が、それぞれの任務の役割を割り振っていく。
「グレイグ将軍には兵士の再教育をお願いしたい。たるんだ兵士達を徹底的に鍛え直してやってくれ」
「はっ、承りました」
「よろしく頼むぞ、英雄殿。続いて兵器及び魔術の開発についてだが、こちらは研究部の人間を主体として――」
緊張しているのだろう、グレイグが硬い表情で任務を請け負う。そのグレイグの横顔を遠目に眺めながら、ホメロスは改めて立場の違いを思い知る。つい先日まで、同じく幹部候補だったグレイグはホメロスの隣に並び立って、退屈な会議に飽きてはこそこそと軽口を叩き合っていたのだ。これからはもう、そんなことはできなくなる。なにせ相手は上座におわす将軍様だ。
別に他意はない。退屈な会議中に軽口をたたく相手がいないのはつまらない、ただそれだけだ。が、実際のところ、こちらをちらとも顧みない友に覚えるのは一抹の寂しさ。
ホメロスはふと、グレイグの隣に座る古参の将軍と自分とを重ね合わせてみた。いつか、自分が座るべきはあの席だ。グレイグの隣で、誰に遠慮することもなく、喧々諤々とした議論を交わしたい。権力にあぐらをかく無能な連中を一掃し、古臭い旧体制を自分たちの手で改革していくのだ。
そんな日が、いつか。
だが彼らと肩を並べるには、誰もが認めるほどの大きな功績をあげなければならない。そしてそんなチャンスは早々やってこないことを、ホメロスはよく知っていた。