閑 話
その想いはいつ芽生えたか
――大丈夫か? という言葉には呪いがかかっている。
その言葉を投げかける人々は、いかにもあなたのことを案じています、といった気遣う振りを見せつける。そして自らは善い行いをしたという自己顕示欲を満たすのだ。それはある意味、パフォーマンスの一種のようなもの。彼らは、過ぎた同情は人を惨めにさせることにまったく気づいていない。
ナマエはまさに、その状態に陥っていた。
身内に産まれた災いを呼ぶ子により、国と家族を失った哀れな王女。
迎え入れられたこの国で、友好国の幼い王女を大いなる災いから守り切れなかった咎で人々から敵意を向けられるのと同じくらい、憐れみを買った。
人々の同情に、安易に縋りつくことはできなかった。自分の背には滅んだ自国の王家の人間としての責任が、重くのしかかっている。保護されたこの国は、今となってはある意味敵国も同然だ。弱っている姿をさらけ出すことは出来なかった。ここは自分の国ではないのだから、隙を見せればすぐに有象無象の悪意に足元を掬われる。自分を助けてくれる人はいない。
だからその呪いの言葉を送られる度、笑顔を貼り付けてこう返す。
――ええ、お気遣いありがとうございます。皆さまのおかげで、こうして今は心安らかに暮らせております。
この国に迎え入れられてから、一体何度この台詞を繰り返したことだろう。ナマエがそう返すと、大抵の人はあからさまにホッとした顔をして下がっていく。ユグノアに比べてこのデルカダールという国がいかに素晴らしい国であるかということを切々と説きはじめる人も中には少なからずいて、そういう人にあたってしまうとひどく疲労してしまう。たまに、ナマエの被る仮面に気付いて何か言いたげにする人もいたが、結局こちらには踏み込めず、黙ったまま下がってしまうのだ。
自分のことを心から案じてくれている人が少なからずいることには、もちろん気づいていた。だが、どこかで心を制限していた。この一見親切そうな人が、いつ手のひらを返さないとも限らない、と。すっかり疑心暗鬼になってしまっている自分にも嫌気がさす。
城になだれ込んできた魔物たちの姿に抱いた恐怖心が、今もまだうなじのあたりにべったりと張り付いたままだった。目を閉じればすぐに瞼の裏にあの凄惨な光景がまざまざと蘇る。あの滅んだ国から遠く離れたこの地でも、まだ扉の外で魔物が獲物を求めてうろついているような気がして、ナマエは息を潜めて日々を送っていた。
薄い陶器のティーカップに満たされた琥珀色の液体。そこにミルクをそそぎ入れると、白と琥珀色とが静かに混ざり合う。
侍女のアリサが淹れてくれた紅茶。一口飲めば、初日よりだいぶ上達しているのが窺えた。今日のは少し蒸らしすぎたようだが、ミルクを足せばちょうど美味しい。
カップをソーサーに戻し、ナマエは緊張した様子でテーブル向かいに座る人ににこりと微笑みかけた。
「今日のは多分、ご満足いただけるお味かと思いますよ。グレイグ様」
「そ、そうですか……それはよろしゅうございました」
ナマエの言葉にグレイグはその大きな体を窮屈そうに丸め、しおらしく告げて慎重にカップを持ち上げた。ソルティコ名産の薄い繊細なティーカップは、グレイグの大きな手で持たれるとまるで子供の玩具のように見えるのが少しおかしい。
ナマエが客であるグレイグより先に飲み物に口をつけ、味を確かめるという毒見のような真似をしたのはひとえに先の出来事に理由がある。先日彼がナマエの元を訪れた際、アリサの出した紅茶があまりに薄すぎて、ただのお湯ではないか! と声を張り上げてナマエとアリサを驚かせたのは記憶に新しい。侍女の不手際は主人の不手際に等しい。もちろんグレイグはすぐに驚かせたことに対し謝罪をくれたが、以来ナマエは彼の前では必ず先に味見をするようにしている。アリサも落ち込んで、紅茶の淹れ方のみならず侍女の立ち振る舞いの勉強をするようになったのは思わぬ副産物だ。
一方、雑な紅茶の淹れ方を指摘した当の本人は、声を張り上げナマエとアリサを怯えさせてしまったことに少なからず反省をしているようだ。ナマエが先にカップに口をつけるたび、いつも何か言いたげな顔をする。彼は素で声が大きい方のようであるから、本人としてはもしかしたら先の事だって決して悪気はなかったのかもしれない。
大きな体格に大きな声、いかつい顔つき。本来ならばあまり得意ではない異性の部類に入る彼だったが、優しい目をしているからなのか、側に居ても例外的に窮屈さを感じない。
「ナマエ様。もう、毒見のような真似はしていただかなくとも結構です。侍女殿の腕前も、十分上達したことは分かっておりますゆえ」
「あら、本当にいいのですか? うっかり今度はとっても苦い紅茶をお出ししてしまうかもしれませんよ」
「うっ……姫君、よもやこの私をからかって楽しんでおりませぬか?」
「ふふ、そんなことはありませんよ」
問いかけにナマエは笑みを深める。気安く接しても許してくれる人だからこそ出来るやり取りだ。
悪戯げに微笑むナマエにグレイグは苦笑し、仕切り直すように咳ばらいをした。
「それよりも、姫君。デルカダールに来て、無事ひと月が経ちましたな。この国にはそろそろ慣れましたか?」
「ええ……はい、皆さまのおかげで」
ああ、と途端に気が重くなるのを感じた。彼はいつも、顔を合わせる度こうやって調子を尋ねてくる。彼は有象無象の一人ではないと頭では分かりつつも、ナマエが返す言葉はいつも決まっていた。ただ、この国と人々に対する感謝の言葉のみ。
「それはよろしゅうございました。何かお困りのことがあれば、いつでも遠慮なくお申しつけください」
彼女の言葉を額面通り受け取ったグレイグは、ほっとしたように目元を緩めた。それを見てしまえば、実は少し疲れているのだ、などとは言えるはずもない。この国で一番信用している人にすら、ナマエは打ち解けられずにいた。
グレイグが人前でナマエのワンピースをめくり上げた事を謝罪しにきた際、取り付けた約束。それはこうやってたまに自分と共にお茶をしてほしい、という内容のものだ。
あれ以来、グレイグはその約束を果たすためナマエの元を何度か訪れていた。とても律儀な人だと思う。とにかく生真面目で、まっすぐで、言葉の裏を考えるのが苦手なようだ。
よければ共にお茶をと誘ったはずのグレイグの親友は、顔を出したり出さなかったり。いや、いない方がほとんどだった。会話術に長け、機知に富んでいる彼の親友がいれば話題に事欠かないお茶会も、ナマエとグレイグの二人きりであれば、あまり話題もなくすぐに終わってしまう。
というのも、どうやらグレイグは年頃の婦女子の対応にあまり慣れていないようで、彼の得意とする話題――主に剣技や鍛治のことだったり、はつまらないのではないかと話すのを遠慮している節がある。そんなことは気にしなくていいのに。王族として外交術を学んだことのあるナマエは、たとえどんな話題であっても自分なりに興味を見つけ出すのは得意な方だった。義兄アーウィンの話だって、ナマエの知らないことが沢山で聞いていて面白かった。それこそ、どこそこの馬の尻が素晴らしいだとか、どこ産の鉄の質が良かっただとか、テントの素早い張り方のコツ、味気ない軍の炊き出しを美味しくするコツやら軍隊の布陣の方法に至るまで。
せめて会話の中で糸口を探ることができればよかったのだが、口を噤まれてしまえばそれすらも難しい。
ただ、会話が弾まないことを差し引いても、グレイグの笑顔を見るとほっとする自分がいることには気付いていた。彼の態度は表裏がない。包容力のある笑顔を見ると、思わず余計なことまで口を滑らせてしまいそうになる。
――だからこそ、辛い心情を吐露すればきっと彼を困らせてしまう。
ナマエはそう考えていた。
彼女の心境を知れば、優しい彼は戸惑い、そしてなんとかしてくれようと無理をするはずだ。そんな人だからこそ、困らせたくないと思った。
それにうっかり心情を打ち明けてしまえば、人を疑うことを知らない彼は、きっと良かれと思って真っ先に王に奏上するだろう。あの冷たい目をしたデルカダール王に。それだけはなんとしても避けたい。あの王は、口ではナマエのことを歓迎するようなことを言っていても、目は確実にこちらを拒絶していた。歓迎はポーズで、あくまで大国の王としての器の大きさを見せつけているだけなのだろう。
ナマエがグレイグをどう思おうと、ともかく彼はこうやって律儀に約束を果たしに来てくれている。彼は思った以上にまめにナマエの元に通ってくれて、それには少し驚いていた。とはいえこの頃は、あまり会話も弾まず一杯紅茶を呑んではすぐに帰ってしまう日が続いているのだが。
……実のところ、あんな約束を取り付けて、少し後悔し始めていた。こんな、なにも生産性のない時間を過ごすことを繰り返すうち、彼の貴重な時間を奪ってしまうことに申し訳なさが先に立つようになっていたのだ。
そのうち、彼の気遣うような目線も、煩わしくなってしまうのだろうか――。
「失礼します。ナマエ様、お客様ですよ」
思考が後ろ向きになりかけた時、隣の間に控えていたアリサがそう声をかけてきた。客人の名を聞き部屋に通すように伝えると、果たして現れたのはグレイグの幼馴染だった。
「グレイグ、やはりここにいたか」
「ホメロス? どうしたんだ」
珍しい人物の訪れに不思議そうにするグレイグから一旦視線を外し、ホメロスはナマエに型式通りの挨拶を述べてから再び友へと向き直る。
「どうした、じゃない。お前午後の演習のことを忘れているだろ。上長殿がおかんむりだぞ」
あっ! と大きな声が響いた。反射的にナマエは身を硬くする。
「す、すまん忘れていた、すぐに行く! ナマエ様、失礼します!」
グレイグは指摘に顔を青くし、がたがたとテーブルを揺らしながら慌ただしく立ち上がってナマエに暇を告げる。
その去りゆく背に向かって慌てて「お気をつけて」と声をかけたが、どうやら届かなかったようだ。部屋の出口へと向かうグレイグを座ったまま見送り、無意識に止めていた息を吐き出した。やはり、大きな声や大きな音は苦手だ。以前は然程気に留めることはなかった。それが気に障るようになったのはきっと、今はもう燃えてしまったあの城で、廊下をうろつく魔物に見つかるまいとナマエが息を潜めている部屋の扉を、血に飢えた魔物の鋭い爪がガリガリと引っ掻いたあの時からかもしれない。
思考に沈み込んでいると、ふと視線を感じて顔を上げた。
グレイグを呼びに来たはずのホメロスが、扉のそばの壁にもたれたまま、ナマエの虚勢を見透かすようにじっとこちらを見ている。急に湧き上がった不安をごまかしながら、彼に向かって微笑んだ。
「ホメロス? どうしたんだ、一緒に行かないのか?」
「少し用がある。お前は先に行っていろ」
先に飛び出していったはずのグレイグが、いつまでたっても友が付いてこないことに焦れて戻ってきたようだ。部屋の扉からまたひょっこりと顔を出したグレイグを、ホメロスは片手一つであしらう。
グレイグの親友であり、幼馴染でもあるホメロス。初めて彼を見た時、グレイグから事前に聞いていた話より少し軽薄そうな印象を覚えた。多分、整いすぎた顔立ちのせいだろう。現実主義。理知的。冷静、冷淡。笑い方すら計算している。そんな印象。
「どうしましたか? わたしに何か用でしょうか」
相対する彼の口からいったいどんな言葉が飛び出すのか、まったく読めないのが怖い。平静を装って尋ねると、癖なのかホメロスは長い前髪を払って、どうしたものかと思案するように眉根をひそめた。
「ナマエ様、グレイグのやつに、訪問は控えるようにそれとなく伝えましょうか?」
「え、どうしてですか?」
「先ほど、ため息を吐いていらっしゃった」
「あ、」
まさか見られていたとは思わず、ナマエは呆けたように声を上げた。観察できるほどの時間もなかったはず。きっと、聡明な彼はナマエの様子を一目見て察したのだ。
「それに顔色も冴えない。お疲れならば、はっきり言わないとあいつには伝わりませんよ。我らに遠慮は不要です」
「……でも、ご厚意を無碍にするわけには」
きっと親切心からそう忠告をしてくれたのだろう。だがすぐには頷けず、俯いたまま答えあぐねていると、「ナマエ様」と名を呼ばれた。
「さっき、無理して笑ったでしょう。あいつは騙せても、オレの目はごまかせませんよ」
ストレートに投げかけられた言葉を受け止めきれず、瞠目する。
「無理に笑わなくてもいい。まだこの国に来てから一ヶ月程しか経っていないのに、慣れろという方が酷だ。オレたちに気を遣う必要もありません。人前に出て消耗するくらいならば、まだ引きこもられていた方がマシだ。ユグノアの王族として、他人の目を気にされるのは分かります。だがあなたは未成年で、それにまだ心労も癒えてないでしょう。それなのに無理をして外に出ていらっしゃる。ご自身がとても消耗されていることに、あなた自身が気ついていないのは少し問題がある」
ナマエは、一体彼に何を言われるのかと身構えていたさっきまでの自分を恥じた。切れ長のはちみつ色の瞳には、こんなにも彼女に対する優しい気遣いで満ちていることに気がつけなかった。
「ゆっくりでいい。あなたのペースで、日々の日常を取り戻して行くんです。一歩進む日もあれば、後退する日だってある。剣の修行と同じだ。上達するタイミングは、ひとりひとり違う。誰もあなたを咎める権利はありません。強くあろうとすることを、自分に無理強いしないでください」
良いですね? と念を押され、それまで呆けたように目を見開いたままホメロスのことを見つめていたことに気づいて、はっと我に返って表情を取り繕う。
「は、はい」
「どうかご自身を労ってやってください。あなたのことは、あなた自身が一番よくわかっているはずだ」
「……はい、分かりました」
彼の言葉が慈雨のように染みこんでいく。一見突き放すような言葉に含まれた慈愛は、少し立ち止まって考えればすぐに気づけた。じんわりと胸の奥に灯った温もりに、ナマエは表情を取り繕うのが難しくなって目線を伏せた。
彼は王族としてのナマエではなく、ただのナマエとして気遣ってくれている。絆されてしまいそうだ。ユグノア王家の人間として、情け深い彼の言葉を受け入れるべきか毅然として突っぱねるべきか。正解を教えてくれる大人は、しかしどこにもいない。
ああ、とホメロスは思い出したように付け足した。
「それとあいつは少なからず本心であなたを心配している。だから遠ざけたりしないでやってください」
「お優しいのですね、お二人とも。……とても、お優しい」
ホメロスの友を想う言葉に、ナマエは今度こそ微笑む。真心を拒絶されれば誰だって辛い。
しかしナマエの呟きを、ホメロスは軽く笑って否定した。
「いや、オレの場合は、単にあいつが落ち込むと面倒なだけですので」
今日はグレイグの非番の日だ。
本日城下町の巡回任務に当たる予定のホメロスは、朝食時から何やらいそいそと落ち着かない様子の親友に気付いて溜息をついた。恐らく懲りずにあの姫のところに向かうつもりなのだろう。最近非番の日は、たいてい彼女の元を訪れているようだ。
任務は正午からの予定だ、まだ少し時間がある。城の外回廊を歩いていたグレイグを捕まえて行先を問いただすと、やはりあの少女の元を訪れる予定だったらしい。訪問はやめておけ、と忠告するホメロスに、グレイグは不思議そうに首を傾げた。
「なぜ、行ってはだめなのだ?」
「ダメという訳ではない。が、お前の厚意が必ずしも相手に届いているとは限らんということだ。それどころか、お前のその行動が相手を追い詰めているかもしれんぞ」
「どういうことだ? 別に俺は姫を追い詰めているつもりはないが……」
「どうだかな、お前のことだ。どうせ大した話しもできず、調子を尋ねて満足して帰ってくるんだろ?」
「うっ、なぜ分かった!?」
図星だったらしい。ホメロスは頭痛を覚えはじめたこめかみを抑えた。
「まったく……。気になるのは分かるが、構いすぎるのもほどほどにしろ。お前がこの国にやってきた時、ここに馴染むのにどのくらいかかったか忘れたのか? 必死に立ち直ろうとしている相手を急かすのはよくない。大丈夫かと問われて、大丈夫ではないと素直に言えるものがどれだけいると思っている」
ホメロスの指摘に思い当たるところがあったのか、グレイグはその新緑色の瞳をはっと見開いた。
「……そうだな、言われてみればそうかもしれない」
考え込むように顎髭に触れてから、グレイグは納得したように頷く。
「故郷を魔物に奪われ、王に拾われてこの城に来たとき、大人たちは泣いて怯えるだけの俺を腫れ物に障るように接してきて、俺はますます殻に閉じこもった。だがそんな中、お前は普通に接してくれたな。今思えば、あれに随分と救われた。周りから可哀想な子と憐れまれ続けて、俺は自分の事を世界一不幸なのだと思っていた。泣いて泣いて、ずっと泣いていれば俺の泣き声を聞きつけて死んだ父と母が戻ってきてくれると思ったんだ」
「ふん、そういえば随分と甘ったれなガキだったな」
手厳しいな、とグレイグは苦笑する。
「あの時のお前の一喝は、今でも忘れられない」
しみじみと言って、グレイグはホメロスを眩しげに見た。
「確かにあの時、俺はお前に救われた。感謝している。やはりお前は俺の、――大事な友だ」
「ゴマを摩っても何も出んぞ」
気恥ずかしさから、友の熱烈な言葉を冷たくあしらって、ホメロスもまた胸に甦った懐かしさを吐き出すように溜息をつく。
「まあオレも、最初面倒なやつがやってきたとは思ったがな」
「そう言いながら、結局世話を焼いてくれたな」
「仕方ないだろ、王から頼まれたとあっては」
目を閉じると、瞼の裏に目を真っ赤に腫らしたすみれ色の髪の少年が浮かんでくる。当人は知る由もないが、幼くして生きる術を失ったホメロスもまた、グレイグ少年の面倒を見ることで孤独を癒してきたのだ。何度もぶつかって、仲直りをして、今もこうして共にある。
泣き虫で暗いところが苦手で、でも諦めることを知らないまっすぐな瞳。悪知恵を覚え始めたばかりのホメロスがズルをしようとすれば、グレイグは静かにそれを止めた。お前はそんなことをできるやつじゃない。俺はお前を信じている。
きっとグレイグのその言葉がなければ、自分の性根はもっとねじ曲がっていたに違いない。共に騎士を目指しはじめてから、ホメロスは常に友に恥じない自分であろうと努力した。
無論そのことは、本人には死んでも言うつもりはないが。
「……つまりお前の言葉を借りれば、俺はナマエ様のことでひとりで空回っていたというわけか」
「いつものことだがな」
ひどいぞホメロス、とつい口が滑って出た皮肉に友がじとりと睨んでくる。
「しかし、だからといって見守るだけなのは俺の性分に合わん。姫君のために、何かできることがあればいいのだが」
「いっそ本の読み聞かせでもしてやったらどうだ? 昔、オレがお前にしてやったみたいにな」
「おい失礼だぞ。仮にもユグノア国の王女に向かって」
「やはり分かっていないな。そうやってお前が壁を作るから、いつまで経っても打ち解けないんだ」
壁? 何か思い当たることがあったのか、グレイグは難しげに唸った。
「壁か……」
ふと、そこで何かに気づいたように新緑色の瞳を瞬かせたグレイグは、隣の親友を振り返りにこにこと腑抜けた笑みを向けてくる。
「……にしても、全く興味ないふりをしておきながら、こうやって気にかけてくるあたり、やっぱりお前はいい奴だな。ホメロス」
「やめろ気色悪い」
「前々から言っているが、その口の悪さだけは直した方がいいと思うぞ、俺は」
「余計なお世話だ」
……そろそろ任務に向かわねば。
グレイグを見送ったホメロスは自らも踵を返しながら、先日会った少女のことを思い出していた。
第一印象は、我慢強い少女、だった。
猫のように警戒しながら、傷ついたそぶりもみせずに可憐に笑う。どこか、昔拾った白い子猫を思い起こさせた。あの猫は、体の奥深くに負った怪我が原因で一年足らずで死んだ。おそらく誰かに虐待されたのだろう。子猫は痛がるそぶりをみせず、ホメロスは最期まで異変に気づくことが出来なかった。
彼女のことを思えば、できれば同じ年頃の同性の友人が出来るのが望ましい。異性では打ち明けにくい事もあるだろう。あの新米侍女はその点好条件だが、あれはあくまで主従の関係にある。
あの少女には、身分の貴賎に囚われない純粋な友人が必要だ。王族とは本来孤独なもの。それを望むのは難しいかもしれない。だが支えがなければ、あの少女は早々に潰れてしまうのは目に見えていた。
彼女の中の幼子は、まだ怯えたままだ。警戒心を解かないまま、誰が信用するに足るのかを静かに探っている。国と家族を失い、まだ心の傷も癒えていない。天涯孤独。それはホメロスにもグレイグにも、身に覚えのあることだ。
「難しいな……」
あの少女の信頼を勝ち取るのは、きっと並大抵の事ではない。
渡り廊下に立ち尽くしながら、ナマエは吹き抜けの窓に手をかけて、階下でホメロスが長い髪を揺らして去っていくのをじっと見つめていた。
先ほどまで、下の外回廊にいた彼らのやり取りがここまで届いていた。二人はナマエが頭上を横切る渡り廊下で彼らの会話に聞き耳を立てていたことなど、知る由もないだろう。盗み聞きするつもりなどなかったが、歩いていてふと耳に飛び込んできた自分の名前に思わず足を止めてしまったのだ。
彼らの会話に耳を傾けながら、気付かされた。
ホメロスはあの呪いの言葉を言わない。
最初、彼に少し尻込みしたのを覚えている。華やかな外見は笑みが消えれば少し冷たい印象を与えた。はちみつ色の瞳はたまに、やや醒めて人々を観察している。
だけど、根は優しい人なのだ。
勿論みんな優しい。グレイグもアリサも、名も知らぬ兵士やメイドでさえ、気を遣ってくれている。
腫れ物のような扱いと感じるようなことはなかったが、それでも遠慮は感じる。どこまで触れていいかを内心で測っているのだ。
あの人は少し違う。ナマエの抱える痛みがどういうものであるのかを知っていて、決して押し付けがましくない程度で側にあろうとしてくれている。
危険だからと、幼子の行く先の石ころを排除してしまうような過ぎた優しさではない。歩き方を教えてくれるような優しさだ。
そっと瞼を閉じる。
――もっと、あのひとと言葉を交わしてみたい。
胸中に芽生えたものは、とても清らかで純粋な想いの欠片だったに違いない。