第六話
真心を忍ばせて・前篇





 最後のひと針を通し、糸処理を終えて針を針山の上に戻す。
 完成したものを目の前で広げ、ほつれがないか、おかしいところがないかをじっくりと検分し、問題がないことを確認してようやく肩の荷が下りた気分でナマエはほっと息を吐いた。
 ナマエが作っていたのは、以前彼女がホメロスの外套を汚してしまった際の、その代わりとなるものだった。自分の血で汚してしまったものをいつまでもホメロスに使わせるのは非常に忍びなく、できるだけ早く代わりとなるものを用意したいと心に決めてはや数日、それがやっと今日完成した。
 侍女のアリサに頼みこんで軍支給の外套に使われている織物と同じ生地を入手してもらい、外套の型や寸法はマルティナ姫の乳母やグレイグなど、彼らの人脈を頼ってなんとか支給のものと遜色ない程度のものを作り上げることができた。協力してくれた人達には感謝しかない。
 ナマエは外套の裾を持ち上げて、そろりと指で裾をなぞる。端から端までなぞり終え、違和感がないことを入念に確かめた。外套の裾には、ちょっとの風では煽られないよう重りがわりのロープを仕込んであるのだが、思いつきであるものを端の方に一緒に仕込んだのだ。ロイヤルチャームという、四大国会議の日にナマエが纏っていたドレスの胸元を飾っていたアクセサリーだ。ドレス自体はもう血だらけでボロボロになっていたので処分してしまったが、アクセサリーだけは手元に残しておいた。魔除けの効果があるそのアクセサリーは、言うなればユグノアから唯一ナマエが持ってこれたものだ。
 そんな貴重なものをどうして手放そうと思いついたのか、正直自分でも良く分からない。しかしホメロスには実際デルカダールに来た当初からなにかと助けられてばかりいるし、何らかの形で感謝の意を伝えたかったのは事実だ。
 けれどもちろん、それだけではない。ナマエは、自分がホメロスに好意のようなもの――無論友人としてのだとは思うが――を寄せている事に気がついたのは、実に昨日のことだった。柔らかい物腰に反して、彼が計算高く容易に他人を信頼しない人であることは早くから気づいていた。そうであるにも関わらず、ホメロスは恐らく純粋にナマエを手助けしようとしてくれた。なんの見返りも求めずに。きっとそれが騎士道の奉仕精神というものなのだろうが、それでもナマエは嬉しかったのだ。
 ホメロスの差し伸べてくれた手をしっかり握りしめて、ちゃんと目を見て礼を伝えたかった。
 それなのに。
 昨日、お披露目式へと出発するグレイグを見送るホメロスの、淋しそうな顔ときたら。いつものポーカーフェイスは剥がれ落ち、まるで道に迷って途方にくれる幼子そのものの表情をしていた。もちろん見る人によってはいつものホメロスと相違なく感じただろうが、少なくともこのデルカダールに来てからの短い期間でホメロスの人となりを多少なりとも理解しているつもりのナマエには、そう見えた。
 足早に去って行くホメロスの後ろ姿に、ナマエは急に不安になった。おそらく友の大出世に複雑な気分なのだろうことは窺えたが、それ以上にホメロスは動揺しているように見えた。
 そして、ホメロスに背を向けられて動揺していたのはナマエも同じだった。ホメロスとナマエとの物理的な距離が空けば空くほど、彼との心理的な距離まで空いていくような感覚に襲われ、ナマエは泣きたくなった。出来ることならホメロスを追いかけたい。だが、ナマエには彼を追いかける理由がない。ホメロスにはもしかしたら大事な用があったのかもしれないし、ナマエにはそれを邪魔する権利はない。結局その場では、立ち尽くしてホメロスの背を見送るしかなかった。
 そっぽを向いてしまった彼に、なんとかして自分の真心を伝えたい。私はあなたのことを見ている、と。そんなメッセージを込めて。そうして思いついたのが、外套にロイヤルチャームを縫い付けるということだった。
 これは言うなれば、ナマエの真心だ。ホメロスがそれに気がつかなくてもいい。自己満足以外のなにものでもない。ただ、この自己満足の好意が、陰からホメロスを守ってくれるよう祈りを込めて。この外套が寒さや雨露を払い、敵の攻撃を交わすのと同様に、ホメロスの心をも守ってくれるよう、その心身の健やかなることを祈る。

 出来栄えにも満足したところで、ナマエは出来上がった外套を折りたたみ、ずっと座り込んでいた椅子から立ち上がった。
 ちょうどその時、洗い物を洗濯場へと出しにいっていた侍女が戻って来て、ナマエの手元にあるものに気づいて顔を輝かせた。
「あっ、やっと出来たんですねそれ! あたしが苦労して生地を手に入れたやつ!」
「はい、おかげさまで。アリサには苦労をかけて申し訳ありませんでした」
「うんうん、いいんですよ! お役に立てたのならよかった」
 まるで自分のことのようにニコニコと喜ぶアリサに、ナマエは顔を綻ばせて出来上がった外套をひと撫でした。
「ええ、とても助かりました。それでアリサ、戻ってきたばかりで申し訳ないのだけれど、これから出かけるので伴をお願いできますか?」
「もちろんいいですよ。どこまでのお出かけですか? 支度はどうします? あっ、護衛も誰かに頼まなきゃ」
 外出の一言に目を輝かせ、さっそく張り切ってクローゼットを開こうとするアリサをナマエは押しとどめた。
「出かけるといってもお城の中だから、支度はこのままで大丈夫ですよ。この完成したものをホメロス様にお渡ししたいだけですから」
「ええ? わざわざ渡しに行くんですか? どうせならお姫様の特権で、部屋に呼びつければいいのに」
 そう不思議そうに首をかしげるアリサの、『お姫様』に対するイメージ像は大体想像がつく。ナマエは微苦笑を浮かべながら、アリサの提案をやんわりと断った。
「大した用でもないのにわざわざお呼び立てする必要はありません。あくまで用があるのは私なので、こちらから出向けばいいのです」
 ナマエの言葉に、ふうん、と納得したのかしていないのか、微妙な表情でアリサは相槌を打つ。
「そういうのってケンキョって言うんですよね?」
「さあ、どうかしら」
 今度こそ、ナマエははっきりと苦笑した。謙虚なのか、謙虚に見られたいという打算の上での行動なのかは自分でもよく分からなかった。


 気軽に出かけるといったものの、ホメロスの現在の居場所を把握しているわけではないナマエは、彼を探してしばし城を彷徨う羽目になった。見張りの兵に居場所を尋ねると、半刻ほど前に軍議が終わって、それからのホメロスの足取りについて誰も知るものがいなかったからだ。城下町に降りている可能性は、最初に門番にホメロスの姿を見ていないか確認済みのため、すれ違いになっていない限りは恐らく低いだろう。兵に聞いてホメロスとグレイグの部屋の場所は確認できたが、就寝時でもないのに部屋にいる訳もない。執務室、訓練場や図書館、食堂などを回っても陰すら見えず、結局アリサと二手に別れて探すこととなった。
 ひとりになったナマエは、恐る恐る城の中を回ってみる。中庭、地下牢に続く階段の手前まで(地下に潜ろうとしたが見張りの兵に止められた)、バルコニー。しかし、ホメロスはどこにもいない。特に訓練などは入っていないと聞いたのに。
 ふと思い立つ。こんなときは初心に帰るのだ。
 ナマエが向かった先は、軍議が行われたという会議室だ。軍議が終わってしばらく経つが、もしかしたらまだ中にいるかもしれないという可能性に遅まきながら気がついたのだ。
 会議室の扉の前に立つと、薄っすらと扉が開いていることに気づく。そっと扉を押し開くと、中は薄暗く静まり返っている。
 押し開いた入り口から中をそっと覗く。床になにか、キラキラとしたものが散乱していた。なんだろうと思い、もう一歩部屋の中へと歩を進める。
 そうしてわかったことは、キラキラとしたものは金髪で、それで人が床に倒れているということにようやく気づいた。
 ナマエは慌ててその人物の元へと向かい、はっと息を飲む。
「もし? いったいどうなさって、……ホメロスさま?」
 薄暗い中でも分かる、月の光を集めたような見事な黄金色の髪の持ち主。倒れていた人物は、確かにナマエが探していたその人だった。いったい何があったのか、端整な顔は苦痛に歪んで涙と血で汚れており、自慢の髪は吐瀉物で一部毛先が濡れていた。そうして気を失っている今も尚、苦しそうに呻いている。
 ナマエは事の重大さに気づいて、さっと青ざめる。
「まあホメロス様! 大変だわ、しっかりなさって! ……誰か! どなたかこちらへ来てください! 手を貸して!」
 ナマエは自分でも驚くほどの必死さで、声を張り上げ助けを呼んだ。


 ナマエの声に駆けつけた巡回兵の手を借りて、ぐったりとしたホメロスを彼の部屋へと運び込んだ。騒ぎを聞きつけ戻ってきたアリサが一瞬驚きで固まったものの、すぐに軍医を呼びに走っていく。
 ここまでホメロスを運んでくれた兵は、グレイグ将軍を探してまいります、と言い残して部屋を飛び出してしまった。部屋にはベッドの上に横たわるホメロスと、ナマエの二人きりが残された。
 一瞬この状況にナマエは躊躇したが、相手は病人だ。ぼんやりしている暇などない。
 腕に抱えていたプレゼントの包みは書類や本が整然と並べられた彼の執務机の端へとそっと置き、まずは水差しを探した。
 当然ながら他人の部屋のため、勝手がどうにもわからない。幸いにも水差しとボウル、タオルはすぐに見つかり、それらを持ってベッドの側のサイドチェストへと置く。水に浸したタオルを適度に絞って、顔や髪の汚れをやさしく拭き取った。顔を拭われる感触が心地良いのか、ホメロスの眉間に刻まれた皺が少し和らぐ。ナマエはそれに少しほっとし、続いて軍靴や肩当、籠手や革手袋など脱がせそうなものは脱がせ、腰のベルトを少しだけ緩めた。下に着込んだチェインメイルは、ナマエひとりでは流石に手が余る。そして横になるのに楽な状態にさせ、うっすらと汗の滲むホメロスの額にそっと触れ、自分を落ち着かせるようにひと呼吸。
「ホイミ」
 唯一覚えている下位回復呪文を唱える。指先から産まれた青い燐光が弾けて、癒しの魔力がホメロスの体に染み渡っていく。どうやら効果があったらしく、荒かった呼吸が随分とましになったようだ。その様子に勇気づけられ、ナマエはホイミを続けて唱えた。何度も、何度でも、ホメロスが目を覚ますまで。
 それにしても、一体なぜあんなところでホメロスは倒れていたのだろう。グレイグほどではないにせよ、健康そうな成人男性のホメロスが倒れるなどよほどのことだ。もしかしたら具合が悪いのを押して会議に出たのだろうか。ホメロスは他人に弱みを見せるのが不得手そうだから、それも十分あり得る話だ。何事もまっすぐぶつかってくるグレイグと違い、ホメロスは笑みで感情を隠そうとする。本人は気づいていないようだが、ナマエにはホメロスのその癖は少し生き辛そうに見えた。
 ホイミを唱え続けて、十回を数えた頃だろうか。ホメロスの眉間に不意にぎゅっと皺が寄って、瞼が震えて覚醒の兆候を知らせた。ナマエはホメロスの額の上に掲げていた手をさっと降ろし、目覚めかかっている彼にそっと声をかけた。
「お目覚めですか?」
「ぐっ……! う、」
 覚醒したことで、静まっていた痛みが再びホメロスを苛んでいるようだ。彼は苦しげに呻くと、悪夢を振り払うように首を弱々しく振った。
「お辛いのですね、かわいそうに」
 ホメロスの様子があまりに痛々しく、ナマエは思わず、ぐずる甥っ子をあやすような感覚で彼の頭を撫でてしまった。しかしイレブンの生えたてのふわふわした髪の毛とは違い、さらりとした髪質にはっと我に帰り、すぐに慌てて手を引こうとした。
「あっ」
 そのナマエの手を引き止める、筋張った大きな手。
 家族以外の異性に無造作に手を掴まれることなど初めての経験だ。ナマエは内心どきどきしながら、ホメロスの素肌から伝わる低い体温を感じていた。
 淡い色の睫毛が震えて、まぶたの下からはちみつ色の綺麗な瞳がゆっくりと現れる。ここまで至近距離でホメロスの顔をじっくり見たのは初めてだ。その整った容貌。全体的に中性的な顔造りではあるが、意思の強そうな眉に涼しげな切れ長の瞳、薄い唇は明らかに異性のものだ。ホメロスのはちみつ色の瞳がゆっくりとナマエを捕えると、心臓がどくりと音を立てるのを聞いた。急にホメロスが眩しく見えて、こんなにも魅力的な異性と部屋にふたりきりのこの状況に途端に恥ずかしくなってくる。
「ホメロスさま……?」
 ホメロスはしばし虚ろな目でナマエをぼんやりと眺めていたが、次第に意識が覚醒したのか、彼にしては珍しくぎょっとした顔で慌てて身を引いた。
 離されてしまった手が少し寂しい。
「ひ、姫? オレはいったい……」
 ホメロスは視線をあちこちに彷徨わせ、困惑を隠せない様子だ。どうやら記憶が飛んでいるらしい。
「覚えていらっしゃらないのですか? あなたは会議室で倒れていらっしゃったのですよ」
「かい、会議室……? ああ、軍議。……軍議が終わったところまでは覚えているが……」
 首をひねって唸るも、それ以上は覚えていないようだ。ナマエは真剣な表情のホメロスの横顔を眺めながら、水差しに手を伸ばした。
「お水は飲めますか?」
 ホメロスは少し考えるそぶりを見せ、頷いた。
 簡易食器棚の場所を教えてもらい、そこから持ってきたタンブラーグラスに水を注ぐ。それをホメロスの口元まで持っていって飲ませようとするも、察した彼がさっと起き上がり、グラスを奪い取り自分で飲み干してしまった。しかし慌てていたのか、飲み込みきれなかった水が口の端から溢れて顎先まで伝い落ちる。
 忌々しそうに口元の水を手の甲で拭うホメロスに、ナマエは失礼します、と一言断って持っていたハンカチで彼の口元と濡れた手の甲をそっと拭った。すみません、と己の不手際を恥じてか、ホメロスは消え入りそうな声で謝罪した。そっぽを向くその顔は赤い。ナマエはホメロスの手からグラスを受取りながら、そっと微笑んだ。
「いいんですよ、今は。病人は世話をされる特権があるのです。だからうんと頼ってください」
「……だが、格好がつかない」
「大丈夫です。ホメロス様はいつだって素敵ですよ」
「っ、あなたというひとは……」
 流石に呆れたのか、ホメロスは一瞬言葉に詰まり、嘆息した。
 本音を言っただけなのだが、ダメだったのだろうか。ナマエはホメロスの反応に少し戸惑い、あいまいに微笑んだ。
ナマエ様がオレを助けてくれたのですか?」
 ホメロスの問いに、ナマエはゆるく首を振った。
「あなたを見つけたのは私ですが、ここまで運んでくださったのは通りかかった巡回兵の方です。いま、私の侍女が軍医を呼びにいっておりますので、もうしばらくは横になっていてください」
「とんだ迷惑をかけてしまったようだ……」
「気になさらないでください。それよりも、ご気分はいかがですか?」
 そう尋ねながら、ナマエは潰れてしまった枕を整え、ホメロスの背と肩にそっと手を添えて横になるよう誘導する。
 だが彼はちらりとこちらを窺ったかと思うと、後ろにかかるはずだったホメロスの体重がナマエに向かって寄りかかってくる。
「あっ」
 目眩でもしたのだろうかと慌てて彼の上半身を支えると、ホメロスは遠慮なくナマエの肩口に寄りかかり、こてんと頭を預けてきた。絹糸のような髪がさらりとナマエの首筋をくすぐる。
「頭痛が、すこし」
 囁くような声でぽつりと一言。
「ホ、ホメロスさま……?」
「だが、気分は悪くない……」
 どうやら体調が悪化したわけではないらしい。ホメロスの口元が穏やかそうに緩んでいるのを見て、ナマエはほっとするやら混乱するやらで忙しい。
 なぜ今、自分はホメロスを腕に抱えているのだろう。確かに頼って良いとは言ったが、ナマエの細腕でホメロスを支えることに関しては残念ながら頼りがいがあるとは言えないレベルだ。意外とがっしりとした体つきのホメロスをなんとか支えながら、成人男性を腕に抱えるという前代未聞の出来事を前にナマエは大いに困惑していた。