Finally, I'm home.
城を出ると、既に辺りはとっぷりと闇に染まっていた。満天の星空の下、夜の帳が降りた街並みを彩るのは建物の窓から漏れる暖かな家庭の灯りと等間隔に設置された街灯のみ。少し小高いところにある城門から街並を眺めると、街灯の光が道しるべのようにぽつぽつと城下町の奥の方へと向かって続いていた。
そんな美しい光景を目の前にしながら、ホメロスは険しい表情で己の腰を摩っていた。蹴り上げられた尻がじんじんと痛む。くそ、と悪態をついて、ホメロスは愛馬の手綱を引いて自宅へと歩き出した。騎乗しても良かったが、今から住宅街を通るため並足程度の速度しか出せない。そうなると歩くのと大して変わらなかった。決して腰が痛いからではない。
舗装された道を進みながら、ぼんやりと星空を見上げる。
正直、未だ実感が湧かなかった。
あの命の大樹でイレブンに対峙した瞬間から今までずっと、目の前で起きている出来事すべてが、心のどこかでこれは都合のいい夢なのだと解釈をしてしまっているような。まるで、自分とこの世界との間に見えない透明な壁があって、その壁越しに繰り広げられる日常を他人事のように眺めているかのような曖昧な感覚。
……実のところ、本当の自分はもう奈落に落ちていて、夢を見ているだけではないのだろうか。そんな悪魔の囁きのような疑惑が時折ふっと立ち昇っては、困惑だけを残して消えていく。
そんなところへ飛び込んできた懐妊の報せ。あと数ヶ月もすれば、あの全身ふにゃふにゃで真っ赤の、この世で最も弱弱しい生き物を胸に抱いたナマエが「私たちの子よ」と慈愛に満ちた笑みで新たに誕生した命をホメロスに紹介するのだろう。想像した瞬間、そわ、と奇妙な興奮が走り抜けた。
果たしてこんな自分が、人並みの親となることができるのだろうか。
幼少期から城に引取られたため、家族に関してはあまり良い思い出がない。いや、むしろ鬱屈した思い出の方が多い。やり手だった祖父とは違い、実父は資産運用の能力がなく、祖父から引き継いだ広大な領地をうまく運営出来ずに爵位を受け継いだ数年後にはもう破産していた。浪費癖も加えて気が付けば借金の額は天文学的な数字となり、慌てて生活を切り詰めはじめたがその時点で何もかも手遅れだった。初めは家中の銀食器がなくなり、母がいつも同じドレスばかりを着るようになり、使用人が徐々に減らされ、とうとう大好きだった乳母もホメロスの元を離れていった。両親は特権階級の立場を失うのに耐えられず、毒を煽って死んだ。いや、正しくは嫌がる母に無理やり毒を飲ませ、父自ら首を吊った。朝になって両親の冷たくなった姿を見つけた幼い頃の自分はさぞ傷ついたことだろう。いわくつきの幼子に親戚連中は誰も手を差し伸べようともせず、見かねた王が救ってくださった。
幸いにも王は実父より優しかった。幼心にもその期待に応えたいと頑張れば頑張るほどに王はその幼子を褒め、それが癖となり、愛情に飢えた子供はやがて王の愛情を独占したいと思い始めた。第一王女が産まれた時も、王の愛情が自分と幼馴染から離れていってしまうことを一番に懸念した。
必要とされなくなるのが怖かった。友に置いていかれるのが恐ろしかった。そこをまんまと付け込まれ、心を闇に絡め取られ何度もこの手を血に染めた。そんな自分が、父親になるだと? そんなこと、赦されるのだろうか。この罪を重ねた手で、純真無垢な象徴の最たるものである赤子を抱けるのか?
また愚かな勘違いから、とんでもない間違いを犯しているんじゃないだろうか。ナマエだってこんな薄情な夫に呆れて、そろそろ愛想をつかしている頃かもしれない。
誰か教えてほしい、お前は間違っていないと。
大丈夫だと自分に言い聞かせるたび反対に希望の光は遠のき、目の前が真っ黒く塗りつぶされていくような感覚に襲われる。
『――生きているからやり直せる』
腹の底からせりあがってきた絶望感にいつしか歩みを止めていたホメロスの耳元に、ふっとそんな言葉が甦った。いつかのアリサの言葉。いつでも太陽の方を向いて咲くけなげなひまわりの花にふさわしい言葉だ。
……ああ、そうだ。その通りだ。
「もう一度やり直そう」
口に出した瞬間、目の前を覆っていた霧は晴れた。
やり直せるのだ。失敗しても、何度でも。そのチャンスがある。生きているからこそ。
それこそが生きているものの特権だ。その権利を今行使しないで、いつするのだ。
そうだ、花を買って帰ろうか。ナマエに花を差し出して先日の態度を詫び、素直に打ち明けよう。ここ数日思い悩んでいたことの全てを。そして新たな命の誕生を嬉しく思うことを。夫としても父としても全くの未熟者だが、必ず家族皆を守ってみせるつもりだとも。
とにもかくにも、まずは花だ。そう思い立って、いつもの帰宅ルートから外れて商業区画の方へと足を伸ばした。しかし時間ももう遅いためか、数軒回ってみても肝心の花屋はどこも既に閉店している。
「……困ったな」
暗い夜道にひとり立ち尽くし、途方に暮れてぼそりと呟く。路上でいくら立ち尽くしていても救世主が現れるわけもなく、やがてホメロスは諦めて再び元の帰路へと戻ることにした。
……ふと鼻先に華やかな香りが掠めたのは、それからしばらく歩いた時の事だ。
香りに誘われるように顔を上げると、路のすぐ脇に低い塀があり、その向こう側に漆喰壁の素朴な家が建っているのが視界に入った。家の前庭に、ひっそりと月の光に照らされるようにして色とりどりの花が咲き乱れている。
いつもの家路の途中で、果たしてこんな所に家などあっただろうか。それとも見落としていただけだろうか。……いいや今はそんなこと構うまい。
ホメロスは歩みを止め、低い塀越しに月の光に照らされる夜の花園に惹かれるように魅入った。花びらに宿る夜露が煌めき、しっとりとした妖艶な香りが辺りに漂っている。まるで魔力が宿っているようにさえ思えるほどの美しい花々。
この美しい花園から、何本か花を拝借できないだろうか。
いいや駄目だ。たとえ花と言えどもこのホメロスがコソ泥のような真似など。ああ、だがこの花がいくつか手に入れば、ナマエの喜ぶ顔が見られるかもしれない。
「どうしたのじゃ」
ふいに背後から声を掛けられ、はっと我に返る。振り返るとそこに、藍色の立派な口髭を蓄えた細身の中年男が立っていた。足首までの長いローブに、頭にはとんがり帽子、手には魔導杖。魔法使いだろうか?
「わしの家に何か用かな? なにやら深刻な顔でわしの花園を見ていたようじゃが」
「あ、ああ、すまない。少し考え事をしていて。すぐに失礼する」
どうやら男はこの家の主のようだ。ホメロスは懊悩を悟られぬように早口で告げて、その場を後にしようとした。が、
「まあまあそう焦るでない。見たところ、なにかお困りのようじゃが? 迷える青年よ」
……青年。イレブンに苦言を呈した手前否定する事は憚られたが、その呼称もそろそろ無理があるような気がする。
「いや、そういうわけでは」
「ほう。他人に迷惑をかけまいとする心がけは立派じゃが、お主はちと他人を頼るのが苦手と見える。だが残念じゃったな、わしはお主のような一人でなんでも抱え込もうとする者を放ってはおけぬ性質でな」
「しかし……」
「さあ遠慮せず言ってみるがええ。口に出せば、意外と望みの方から転がってくるやもしれぬぞ?」
どうやら男は相当世話焼きのようだ。予想外にしつこい追求に諦め、ホメロスは恥を忍んで見ず知らずの男に頭を下げた。
「では、その、大変不躾な願いだが、御宅の花をいくつか分けてもらえないだろうか」
「花か……、それはなにゆえじゃ?」
理由を言わなければならないのか。ホメロスは内心頭を抱えた。だが、まあ当たり前か。男手ずから育てた大切な花を、譲ってもらおうというのだから。
背に腹はかえられない。苦虫を噛み潰したように渋い顔になりながら、実は……と切り出した。
「妻と、喧嘩をしてしまって。それで仲直りをしたいと思ったのだが、手ぶらではどうにも格好がつかなくてな。かといってこの時間では空いている花屋がどこにもなく……」
「なるほど、仲直りに花とはたしかに常套じゃな。そういうことならば喜んで、わしの育てた魔法の花をお譲りしよう」
少し脚色をしてしまったが、全部が全部嘘ではない。男はホメロスの述べた“理由”にすぐに納得し、邸宅の格子扉をくぐって花園から慣れた手つきでパチパチと花茎を鋏で切っていった。
「こんなもので良いか?」
「すまない、恩にきる。この礼は必ず後日に」
差し出された花束は予想外に立派だ。重みのあるそれを受け取って礼を告げると、男はホメロスを励ますようににっこりと笑った。
「うむ、頑張るのだぞ青年よ。迷うこともまた人生、だが行く路はお主自身が決めるのじゃ」
随分と説教臭いことを言う男だ。それに口調も古めかしい。だが世話になった手前ホメロスは黙したまま頭を下げ、男に別れを告げて再び家路を目指す。
するり。星がひとつ流れた。
それを合図に、背後で客人を見送る男が花園と邸宅ごとすうっと音もなく消えていったが、ホメロスはそれに気づかない。
旧城壁門跡を過ぎてまもなく、目的地が見えてきた。
愛すべき我が家。やっと帰ってきた。今日は色々ありすぎて、一日がいやに長く感じた。
愛馬を厩へと戻したホメロスは、譲ってもらった花束を胸に抱え玄関の前に立つ。一階の窓から零れる柔らかな光のぬくもりが目に眩しい。キッチンの方からはかぐわしい匂いが漂ってきている。懐かしく、少し泣きたくなるような幸せの匂いだ。
目の前の樫の扉を開けるのを、ホメロスはしばしためらった。緊張を解すように深呼吸を繰り返す。
帰ったら、まずナマエに何と言おう。肝心の最初の一言が思い浮かばず、なかなか扉を開ける決心がつかない。
ふと腕に抱えた花を見下ろす。あの男はこれを魔法の花と言っていたか。たしかに薄暗がりの中でも花弁がきらきらと淡く光を発しているように見える。不思議なもので、見る角度によって花の色が変化するようにさえ見えた。まさしく虹色に輝く魔法の花だ。
……しかし、寒い。花束を抱えたままその場でぐずぐずとしているものだから、次第に体も冷えてきてしまった。ユグノアの冬は終わったが、春先の夜はまだ冷える。
――あと、あともう一度深呼吸したら、この扉を開けよう。
そう思えば思うほど、ためらいは強くなる。
その時だ。
ふいに、ゆら、と頭上の玄関灯が揺らめいて、周囲の闇が不自然に深さを増した。辺りが急激に冷えていく。
「なんだ……?」
気候による変動ではない、これは魔力によるもの。不自然な濃い魔力が辺りを包んでいるのだ。だが一体何者が。よもや十六年前の悲劇の再来かとあたりに警戒を巡らせたが、魔物の気配のひとつも探り出すことが出来ず、ホメロスは白い吐息を吐き出しながら困惑したように周囲を見回した。
空も大地も穏やかな夜に沈んだまま。まるで、世界と彼を遮る透明な壁のこちら側だけが異変に襲われているかのようだ。
ひたひたと足元に這い寄る闇の気配が、徐々にその重苦しさを増していく。明らかに狙いはホメロスだ。警戒するように手元の魔法の花が強い香りを放って、重苦しい夜の闇がずるずると迫ってくるのを拒んでいるかのようだった。
「何者だ、正体を現せ」
腰に差した剣の柄に手をかけ、正体不明の気配の主に警告を発す。
それを合図に、ふっ、と頭上の玄関灯が消えた。瞬時に広がった冷たい闇がホメロスを覆う。
『――戻ってコイ……オマエの居場所はコッちだ……』
「――ッ!」
ぞ、と凍えるような亡霊の囁きがうなじを舐めた。
世界を苦しめた闇の魔道士も邪神も倒された。だが光が世界を照らす限りそこにまた影も生まれるように、小さな悪意の芽が日々至るところに生まれては消えていく。今背後に迫ってきているのは、そんな消しきれなかった闇の残滓だ。明確な意思を持たぬ、この世に生じた小さな闇が逃げ場を求め、互いに身を寄せ合った末生まれた混沌。ありとあらゆる悪意が溶けて混ざりあったものが、どろり、と流れ出る泥濘のようにゆっくりと背後に這い寄ってくる恐ろしい気配。花の香りも紛れてしまいそうなほどの不快な死臭が強まった。
この混沌がホメロスを付け狙う意図は不明だが、いずれにせよ彼の中に残る闇の香りに惹かれてこれは姿を現したのだろう。自分を再び闇に引きずり戻すためか、あるいは。
「……くそッ!」
冗談ではない。二度も同じ轍を踏んでたまるか。すぐにでも鬱陶しい勧誘を振り切って目の前の我が家へと飛び込みたいのに、しかし体は凍りついてしまったかのように硬直し、指の一本たりとも動かせない。
――恐レルな。振り返っテ、闇の正体ヲ見極めロ。コッちにクレば、オマエのだいスキな闇のチカラがまた手に入ルゾ。
いやだめだ、その声を聴くな。絶対に背後を振り向くな。見てしまえば目を奪われる。一瞬で思考を支配され、心を凍らされてしまう。
――何ヲ言う。コレはお前ノ闇。オ前の居場所はコッちにしかナイぞ。お前ゴトきが光ノ中デ生きていケルと思うノカ。
「やめろ、オレはもう――」
かつて大いにホメロスを苦しめた幻聴の残響。それが最後のあがきのように襲い掛かって、彼を再び闇の中へと引きずり込もうとしている。
ふいに腕に抱えた花束が、一度強く明滅した。
ホメロスを捕えようとしていつの間にか背後に迫っていた死人のような冷たい闇の手が、その光に一瞬怯んだように見えた、その時。
ガチャリ。
前触れもなく、急に目の前の扉が開かれた。扉の向こう側から差し込んでくる木漏れ日のような暖かな光が、闇に埋もれかけていたホメロスの全身を包む。
「あ! やっぱりホメロス様だった。お帰りなさい!」
顔を覗かせたのはアリサだった。寒さと恐怖のただ中に遭ったホメロスは、その呑気な声と明るい笑顔にほっと心からの安堵を覚えた。
「アリサ……」
「そんなところで突っ立って、なにしてたんです? 外で物音がしたのに一向に入ってこないから、待ちくたびれて出てきちゃった。さあどうぞ中へ。今日もお疲れ様でした」
ホメロスのために大きく開かれた樫の扉の向こうに広がる景色を、凝然と見つめる。扉越しに窺える家の中の内装は今朝家を出る前とほぼ変わりはない。だが何の変哲もないその光景が、今ばかりはいやに眩しく見えた。
「……あれ? ホメロス様、なんかすっごい顔が疲れてません?」
「――ああ、しつこい勧誘を追い払うのに苦労してな」
失敬な感想に抗議する気にもなれず、どっと脱力したように肩を落とす。勧誘? と不思議がって外を窺うアリサをよそに、ホメロスは先ほどまで麻痺していた体の動作を先に確かめた。指先にも足先にもちゃんと感覚が戻ってきている。
一歩先の、光に満ち溢れる扉の向こう側を改めて見やる。深呼吸をしようとして、やめた。この光の中へ飛び込むのに、ためらう必要などどこにもないのだ。ホメロスは顎を引いて一歩を踏み出した。
必要なのは、そのたった一歩分の勇気。
飛び込んだ光の世界は当然のようにホメロスを受け入れる。全身を包んでいた寒くて暗い闇が、波が引くように体から離れてゆく。背後を振り返ると、薄暗がりの中、ホメロスを捕まえそこねた闇の手が、すう、と掻き消えていくのが見えた。
――私はもう、そちら側には戻らない。
強い決意を胸に秘め、闇が消滅していく様を眺める。
パタン。アリサの手によって閉じられた扉が闇と光の世界を隔てた。透明な壁の向こう側……いや、今はこちら側に、ホメロスはいるのだ。
「ただいま」
無意識に呟いてから、その言葉をもう随分と長い間口にしてなかったことに気がついた。幼少期に家と家族を一度に失い、王に救われてから、あの城がホメロスの生きる場所となった。
だがあそこは決して自分の“家”にはなり得なかった。あくまで身を寄せる場所だ。だからあの城の部屋に帰っても、一度たりとも『ただいま』と告げたことはなかった。
だが、なにより今は「おかえり」という言葉が返ってくる。自分の帰りを待っていてくれる人がいる。
「わ、すごい大きなお花ですねぇ! 奥様にプレゼントですか? あとで花瓶持ってきますね」
アリサの歓声に手元に抱えていたものの存在を思いだし、目線をくれてふと眉を顰める。虹色に輝く魔法の花はいつの間にやら色が抜け、ごく普通の白薔薇に変化してしまっていた。花に宿る魔力があの混沌からホメロスを守ってくれたか、……あるいは花の匂いがあの混沌を呼び寄せたか。可能性としてはどちらも考えられる。いずれにせよ、七色に輝く花をナマエに見せられなかったのは残念だ。……が、まあいい。このままでも、十分綺麗なことに変わりはない。
「ああ、頼む」
アリサの言葉へと頷いて、ふとキッチンから漂ってくる美味しそうな匂いに気付いた途端、ぐう、と急に腹が空腹を訴え出す。
「……いい匂いだな」
「今日は奥様がシチューを作ったのよ」
「身重の体であまり無理はしないでほしいんだがな……」
きっと彼女の甥の好物だというシチューだろう。ナマエはちょくちょくイレブンのもとに顔を見せにくる勇者の育ての親――ペルラといつの間にか交流を深めており、彼女に甥の好物のレシピを教えてもらったらしい。ナマエはその優しい味つけをいたく気に入り、この頃度々夕食のメニューとしてテーブルに並ぶようになっていた。どちらかというとお子様向けな味付けだったが、まあ悪くはない。
「ナマエは?」
「居間にいますよ」
脱いだ外套をアリサへと手渡し、そのまままっすぐ居間へと向かおうとしたホメロスを、すぐに忙しない声が呼び止める。
「あ、先に手を洗ってうがいをしてくださいね!」
「私を子供扱いか。ふん、偉くなったものだな」
遠慮のない物言いにわざとらしく眉をひそめる。なんてことのない、いつもの軽口の応酬だ。だが言いつけ通り先にバスルームへと向かい、ついでに気合いを入れるため頬を軽く叩いた。
居間の扉をそっと開けると、中からふわりと暖かな空気が流れてきた。どうやら暖炉に火を入れているらしい。ぱちぱちと小さく薪の爆ぜる音が心地よく鼓膜を弾く。
暖炉の前に置かれた椅子に、一人の女性が深く身を預けていた。
ホメロスの唯一無二。妻のナマエだ。彼女は物音にぴくりとも反応せず、頭を椅子の背に持たれるようにして目を閉じたまま動かない。どうやら夫の帰宅を待ちかねて、眠りの世界へと旅立ってしまったらしい。
起こしてしまうことも憚られ、ホメロスは声を掛けずに手に抱えていた花束を側のサイドテーブルへとそっと置いた。腕を組み、壁にもたれるようにしてしばし目の前の光景を眺める。
柔らかな暖炉の火に映える、妻の穏やかな寝顔。足元には子犬が丸まってすぴすぴ寝息を立てており、こちらも主人の帰宅に気付きそうにない。ナマエの手元には編みかけの編み物が危うげに握られていて、今にも膝掛けの上から滑り落ちていきそうだ。
産まれてくる赤子のためにと編み始めた小さなレースのよだれかけ。
レース編みは初めての挑戦だったのか、少し不器用な編み方に笑みを誘われる。
ふ、と微苦笑混じりのため息が唇からこぼれる。ふいに、ハッと目が醒めるような感覚に襲われた。
『実は、少しだけ想像してしまいました。この方と一緒に、クレイモランの家で暖炉の火に温まりながら、シチューを作ったり、編み物をしたりして穏やかに過ごす日々のことを……』
それはいつしかナマエが語った夢。目の前にある光景そのもの……、これはまさしく彼女の夢物語だ。様々な困難に見舞われながらも、彼女は決してあきらめず、とうとう自らの夢を叶えたのだ。失われた故郷を取り戻し、愛を勝ち取り、新たな家族をも得た。これはまさしく、見えない神の手によって掬い上げられた奇跡の夢物語のひとつなのだ。
……そんな彼女は今、いったいどんな夢を見ているのだろう。
悲劇の王女。春の妖精。追い求めた幸せの象徴。目の前で眠る人は、そのどれでもない、ただホメロスが愛した唯一無二のひとでしかなかった。
渇望していた幸せは、もう手のひらの中にあったのだ。
訳もなく涙があふれた。嗚咽がこぼれる。
しばらくの間、そこから一歩も動くことはできなかった。
目の前の光景を、声を押し殺してひたすら胸に抱きしめる。
「……泣いているの?」
ふと寝起きの甘い声が耳朶を撫でた。
うっすらと瞼が開かれた寝ぼけ眼の、優しげに潤んだ妻の眼差しがホメロスに注がれている。
「ここにきて」
ためらいなく、こちらに向かって伸ばされるほっそりとした白い手。
引き寄せられるように近寄って、彼女の前で跪いた。
愛するひとが微睡むように笑う。
差し出された手をしっかりと掴み取り、祈るように額に押し当てた。
「そばにいてくれ……」
呻くように、懇願する。
「大丈夫、もうあなたはひとりじゃないの」
――ひとりぼっちの夜は、もう明けていた。
Until then, Have sweet dreams, Lumiére Children…….
(やがて収束するもうひとつの世界へ(EXへ続く))