眠り給へ大樹の子らよ
ちゃぷ、と微かに水音が響いた。
昏い水底に沈んでいた意識が浮上する。鉛のように重い瞼をゆっくりと開くと、そこでもまた、辺り一面に薄闇が広がっていた。
なにも見えない。
今は夜なのだろうか。時間の感覚がない。いや、それどころか意識も、体の感覚さえも、なにもかも曖昧だった。
伏せていた体を起こそうとして、ぐらりと目眩に襲われた。
体を支えるために地につけた手のひらから伝わってきたものは、冷たい石壁の堅さでもなくベッドの柔らかさでもなく、けれどどことなく奇妙な柔らかさと体温に近い温もりだった。
地面と思われるものは微妙に傾斜があり、薄闇の中うっすらと垣間見えるこの空間の全体像は、おそらく球体の形に近いように窺える。
どうやら、大きな繭のようなものに包まれているらしい。
一体ここはどこだろう。どうして、こんなところにいるのか。
……分からない。
目覚める前の記憶は曖昧だ。
とにかく、光が欲しい。この場を照らす光が。
そう願った時、すう、と上の方から蜘蛛の糸のような微かな一条の光が射し込んできた。まるで誰かが思考を読んだようなタイミングの良さ。
ちゃぷ。
先程も耳にした波間の音。どうやら足元に水たまりが広がっているらしい。
天井から降りてきた一条の光がその水に射し込んだ瞬間、にわかに波間が煌めきだした。
ちゃぷ、ちゃぷ、と波間が揺れる度、足場の水が淡く美しい水色に輝きはじめた。いや、仄かに発光してさえいるような……。
揺れる波間が白く光って、反射光が周囲をぼんやりと照らす。そして、ようやく目の前の“それ”に気付いた。
水たまりの中央に、何かある。
人型程度の大きさの、モニュメントのような影。その像から延びた枝のようなものが、球体の天井のあちこちに根を張っていた。
足元の波間が発する光が次第に増した。徐々に視界が戻り、やがてその正体を知ることになる。
――それは茨の塊だった。四方に可憐な花を咲かせた、好き放題に茨を伸ばした野生の白薔薇。茨同士が複雑に絡まり、まるで巨大な一本の幹のようになっている。
その茨に囚われて、眠るようにして固く瞼を瞑る人影があった。
ハッと、その姿形に息を呑む。
その人はぐったりとして気を失っているようだった。
長く豊かな髪の色は暗がりではよく分からないが、陽の下で見るときっと美しい黄金色をしているはずだ。白皙の肌に、すっと通った鼻梁。今は閉じられた瞼の下に隠れているのは聡明な蜂蜜色の瞳か、あるいは妖艶な緋色か。身に纏う衣服は群青色の厚手のサーコート。下に帷子を着込んでおり、首元を覆う緋色の外套には恐らく背中に黄金の双頭の鷲の刺繍が施されているのだろう。
その模様の精巧さを、彼女は知っていた。
だってその手で一度、苦労しながら縫ったことがあるから。
デルカダール王国の近衛兵に支給される揃いの防具を身に纏う、茨に囚われた目の前の男は。
誰よりも冴えた頭脳と冷徹な理性を持ちながらも、誰よりも生きることに不器用だったこの人は。
「ホメロスっ！」
名を叫んで、駆け寄った。
微妙に傾いだ不安定な足場を蹴ると、平衡感覚が狂って思わず転びそうになる。それに耐え、くるぶしまで浸る水をじゃぶじゃぶと蹴り上げて茨の中心に囚われる人へと駆け寄る。
「ホメロス、」
呼びかけに反応はない。
近くで見ると、血の気の失せた肌にぞっとした。だが最後に彼を見た時よりかは、大分肌の色は健康的なようにさえ思えた。まるで“人間のような”肌の色だ。目元にあった小皺もない。もしかして、将軍に着任する以前まで時が巻き戻っている……？
ぐったりとして意識のない彼を前に、ぐっと歯噛みする。浮かんだのは、彼を救出することへのほんの一瞬のためらい。だが、迷う暇などなかった。
「いま、助けるわ」
自分に言い聞かせるように宣言し、彼の腕、胴や下肢をきつく締めあげる茨へと震える手を伸ばす。茨の鋭い棘がちくりと肌を掠めたが、構わず掴んだ緑の硬い蔦をぐっと引っ張った。
鋭い棘のある茨は難敵だった。この手を拒むように幾度も棘が指先を引っ掻き、容赦なく皮膚を裂く。じんじんと熱い痛みが指先にまたひとつ増えた。
痛みを恐れて、ためらいを残したまま中途半端に茨を引っ張るだけではだめだ。生半可な覚悟では彼を助け出すことなどできない。奥歯を噛みしめる。身に纏っていた衣服の裾をびりびりと引き裂き、それを手に巻き付けて再び茨に手を掛けた。
「あっ！」
茨と格闘することしばし、ふいに絡まった糸が解けるようにずるりと拘束が綻んだ。それまでに大いに茨と格闘していた手を保護する布きれは既に血だらけで、二の腕や頬さえも撓った茨の棘に幾度となく巻き込まれ無数の細かいひっかき傷を作っていた。
その努力は報われたのだ。彼を拘束する茨が解け、解放された体が前のめりになって落ちてくる。その体を、傷だらけの両腕で慌てて抱きとめた。
どさり。ひらりと長い髪が翻って、彼の重みが実感を伴って上半身にのしかかってくる。細身だけど筋肉質の重たい体だ。
「ホメロス、ホメロス。……ねえ起きて」
腕に抱きとめた彼は相変わらずぐったりとして意識はなかった。肌はうっすらと冷たく、呼吸も薄い。だが間近で見ると、やはり記憶にある肌の色と違う。血の気が通ったその色は明らかに人間のものだ。
ここで目覚める直前に見た彼はぞっとするような冷たい灰青色の肌をし、角と翼を生やした恐ろしい獣だった。理性を失い、目に狂気を宿し、一緒になろうと迫ってきた血に飢えた獣。
かぱりと大きく開かれた彼の口から鋭い牙が覗いたのが見えて、……それから先の事は覚えていない。
たぶん、獣と化した彼に食い殺されたのだろう。そして、迷える魂のみの存在となった。
彼が彼女とともにいるということは、きっと彼もまたこちら側にきてしまったということだ。
おそらく、イレブンの手によって。
最後に彼を目にした時の恐怖と絶望感は未だ奥底でくすぶっている。
この閉じられた目が開いた瞬間、また同じように狂気に呑まれてしまわないだろうか。そんな恐れを抱きながら、腕の中で眠る彼の肩をそっと揺さぶる。
「ねえお願い、目を覚まして」
水たまりの中に浸かるようにして座り込む彼らの動きで、波間がちゃぷちゃぷと揺れた。
ふ、と閉じられた瞼が震えたのはその時だ。
「……ナマエ、さま？」
徐々に開かれてゆく瞼の下から現れたのは、かつての優しさを奥に隠した理知的な蜂蜜色の瞳だ。
「ああ、よかった」
目覚めにホッとしていると、膝の上から身を起こした彼が困惑したように額を抑えた。う、と霧がかった曖昧な記憶を探るように呻いている。
「オレは、どうして。……ああそうか、ウルノーガの手駒にされて。あいつらに、グレイグに負けて、――死んだのか」
自嘲するように鼻を鳴らした彼は、そこでハッと何かに気付いたようにこちらに勢いよく振り返った。
「あ、ナマエ……オレ、は。おまえを、」
どうやら、自分の所業を全て思い出したらしい。彼が後悔の嵐に放り込まれるより前に、その手を取って告げる。
「あなたが目覚めてくれてよかったわ」
「……？」
発言の意味を訝しむように彼の眉根が寄る。
「こんなところに私ひとりで放り出されていたら、すごく心細かったに違いないわ。あなたがいてくれてよかった」
「……ここは奈落なのか？」
「分からないわ」
「オレがお前を道連れにしてしまったのか」
「言わないで。ずっと一緒にいるって、誓ったんだもの」
「……いっそ責められたほうが楽だな」
全てを諦めたような無気力な溜息が彼の口から零れる。
こうなってしまったら慰めなんて無意味だ。握っていた彼の手をそっと離そうとすると、逆に手首を掴まれる。
「どうしたんだ、傷だらけじゃないか」
「大丈夫。なんでもないわ」
「……だが、痛そうだ」
茨の棘が残したひっかき傷に痛々しそうな眼差しが注がれている。空いている方の彼の手が伸びてきて、そっと頬に触れてきた。ぴり、と痛みが走る。
その時だった。
不意に、蛍の光のような小さな燐光が視界の端に入った。なんだろう、と光源に視線を向ける。彼の鎖骨の下あたり、服の下から淡い光が漏れてきているようだ。
「見て、なにか光っているわ」
「なに？」
指摘に彼は怪訝そうに胸元を見やり、そしてハッと息を呑んで服の下を探る。チャリ、と硬質な金属音。果たして服の下に隠されていたものは、
「ペンダントが、発光している……？」
そう呟いた時、突如爆発したようにまばゆい光が彼の胸元から溢れ出した。悲鳴を上げて咄嗟に目を瞑る。
「ナマエ！」
ぐ、と強く腰を抱きよせられる感覚があった。
ぐらぐらと体を襲う揺れ。ペンダントトップから噴き出す光の洪水。嵐の只中にあるような騒音。どうやらこの繭が崩壊しかかっているらしい。
抱きしめてくる腕を掴みながら、ぐ、と眩しさに耐えて薄目を開ける。
ペンダントから発せられる強烈な光線が次々と内側から繭の殻を突き破り、穴を空けていく。
隙間から見えたのは、美しい青だ。
青空。
直感的に思う。
命の大樹が蘇ったのだ。
ふいに、ぼろりと繭の膜が大きく剥がれ落ちた。
「奈落が、くずれる……！？」
ぼろぼろと崩れるように、二人を閉じ込めていた闇の繭の膜が次々と剥がれ落ちていく。
いや、違う。
蝶だ。
繭だと思っていたこの空間は、じつは無数の蝶が集まって彼らを閉じ込めていただけにすぎない。
ざああ。
つぼみが花開くように繭は割れ、淡く燐光する無数の蝶が美しい青空に向かって羽ばたいてゆく。
幻想的で非現実的な光景。
すっかり頭上を覆っていた闇は晴れ、頬に風を感じた。
「わあ……！」
目に飛び込んできた景色に歓声をあげる。
「な、なんだこれは」
それは道を作っていた。
足元には淡く輝く蝶が集まって足場を作っており、渡り鳥のように集まってひとつの方向へと飛んでいっている。
二人を乗せ、命の大樹に向かっていく。
アメジスト色に光輝く無数の蝶の架け橋。
この美しい光景を以前も見たことがあった。
それはユグノア王家に代々伝わる、鎮魂の儀式。非業の死を遂げた魂を弔う儀式だ。人は死ねば皆命の大樹へと還ってゆく。けれど、この世を迷う魂はその還る道が分からない。ゆえにこの儀式を執り行うのだ。
燃やすと強い香気を発する香木を火の精霊に捧げ、煙の香気につられてどこからともなくやってくる光輝く蝶たち。
この蝶を人の魂と見立て命の大樹へと送ることで、死者へのなぐさめとするのだ。
幼いころに一度執り行われたことのあるこの儀式で、命の大樹へ向かって飛び立つ無数の蝶の美しさに胸打たれて涙ぐんだのを覚えている。
ただしあのときこの光景を見たのは、地上からだったが。
もし、誰かが鎮魂の儀式を執り行ってくれたのだとしたら、きっとそれは恐らく、
「見て、あそこ！」
蝶の渡し船の上から地上を見下ろすと、すぐに目的の人物を発見した。ユグノア城跡の裏手にある祭壇に見えるは複数の人影。
「お父様と、……あれはもしかしてマルティナ様かしら！」
「グレイグ……」
「え？ あ、ほんとだわ」
隣の彼の呟きに視線をさ迷わせると、すぐに存在感のある黒の甲冑を発見する。
すみれ色の髪の彼は祭壇から少し離れたところに立ち、祈るように頭を垂れ手元に握りしめた何かを胸に押し当てている。手の平からこぼれ落ちるは金色のチェーンか。
「見て、彼の手元。あなたと同じペンダントを握りしめているわ」
恐らく、ふたつ。
グレイグのと、ホメロスの。
彼はふたつのペンダントを大切そうに握りしめている。
きっと、ペンダントが発した光は彼の想いだ。親友を悼む優しい彼の想いが導いてくれたのだろう。
「きっとグレイグ様が、あなたのことも祈ってくださったのね」
「あのお人好しめ」
こんな時にも素直でない。照れを隠した乱暴な彼の口調にこっそり苦笑する。
だけど人影をいくら探しても、イレブンらしき人物はいない。残念だ。愛する姉の残した子の立派に成長した姿を、ひとめ見たかったのに。
名残惜しさを残しながらも、蝶の群れはまもなくユグノア上空を離れた。
二人を命の大樹へと導いてくれるはずの案内人は、しかしなぜか目的地への道筋を大きく反れ、そのまま世界中をめぐる旅に出たようだ。
蝶と共に空を駆けながら、次々と眼下に広がる光景に歓声を上げる。
キラキラと流れ星の落ちるバクラバ砂丘、星屑のようなサンゴの欠片が集まってできた白く輝く入り江、ダイナミックに黒煙をあげるヒノノギ山。
いずれも生涯、目にすることの叶わなかった光景だ。
「すてき！ こんな空中散歩ならいつでも大歓迎だわ！」
そして美しい白銀の世界に染まるクレイモランを通過し、虹の橋へと至る。
終着地は命の大樹だ。
「さあ、あの虹の橋の向こうへ参りましょう」
降り立ったのは、うっそうとした森の中だ。
清廉な空気、瑞々しい草葉、見たことのない造形の花々。奥の方から、厳かで聖なる気配を感じた。向かうべき場所はそこだ。誰に教えられるでもなく、本能が全てを悟っていた。
「オレはここから先へはいけない。お前だけで行ってくれ」
緑の小路を抜け、目の前に光り輝く美しい命の源が現れた時、彼がふいに足を止めた。
「どうして？」
「オレは許されざることをした。こんな男には奈落こそがふさわしい」
馬鹿なことを言わないで。口元を皮肉げにゆがめる彼を叱りつけようとした時、背後で憤慨まじりの声が上がった。
「もうっ、ほんとうに面倒な男ね」
振り返ると、金髪のおさげに膝上の赤いワンピースを纏った勝気そうな年頃の女の子が一人、腰に手を当てて仁王立ちしていた。紫水晶の色に輝く瞳が、どことなく浮世離れした雰囲気を醸し出している。
「あんたがここにいるということは、あんたの行いはとっくに大樹様に許されているということなのよ、おばかさん」
「おまえ……」
突然の少女の登場に、彼は茫然として目を見開いている。
「お知り合い？」
そう窺うと、気まずそうに目を逸らされた。
「どうかしら？ 本当のあんたとは初めましてかもね。あたしはベロニカ。あんたたちと同じ、新たな葉として芽吹きを待つものよ」
「私はナマエよ。ベロニカさん、あなたはここでずっと一人でいたの？」
「ええ、双子の妹を待っているの。また、同じ葉のもとに生まれましょうって、約束しちゃったからね」
「まあ」
なんという美しい姉妹愛だろう。感動をしつつ隣の彼をちらと見て、自分たちの場合はどうだろうと思いを巡らせた。
「ねえホメロス。もし、私たちが次の世で同じ葉のもとに生まれたら、今度は家族になるのかしら」
「……兄と妹にか？ おまえを妹に持つと、心配で気が休まる暇がないだろうな。なにせ男運が格別に悪い」
「あら、姉と弟かもしれないわ。もしくは、兄と弟、姉と妹。あなたが女性に産まれたら、きっととても美人になるんでしょうね。スレンダーで、背が高くて、かっこよくて」
「やめてくれ」
手を振って嫌がる素振りを見せる彼に笑っていると、ベロニカがふとなにか異変に気付いたように声を上げた。
「あら？ 大樹の魂の様子がおかしいわ」
彼女の背後に輝く命の源。あれこそが大樹の魂なのだろう。緑の蔦に守られるようにして鎮座する光の球体。先ほどまでその中をゆったりと泳いでいた光の粒子が、今はせわしなく明滅している。
大樹の魂へと歩み寄ったベロニカが、その様子を眺めて納得したように頷いた。
「……そうか、きっとイレブンがあっちでうまくやったのね」
「イレブン？」
突然飛び出た甥の名に、ぱちりと瞬いた。
「ええ、私たちの偉大なる勇者様。過ぎ去りし時を求めて、過去へと旅立った。きっと、あの子が世界の未来を変えたのね」
「未来を、変えた……？ では、私たちはこのまま消えるの？」
「大丈夫よ。消えない。今ある世界と、イレブンによって書き換えられたもうひとつの世界の未来。あっちの世界が語り継がれるべき正史となり、きっと世界がひとつに収まろうとしているんだわ。……もう間もなく、この世界は眠りに落ちる。あっちの世界で、こっちの世界での事はすべて夢の中で起きた出来事のように曖昧なものになる」
神託のごとく厳かな口調で告げるベロニカの背後で、支えの蔦がするすると引いていき、大樹の魂が花開くように輝いた。ふわり。光の粒子が胞子のように宙へと舞って、彼らを、大地を包むように降り注ぐ。暖かい。懐かしくなるようなせつなさが胸に去来する。
「私たちはどうなるの？」
「ただ、眠るだけよ。この世界での記憶はほとんどなくなるけど、きっと心が覚えているから。だから安心して。これは大樹の意志。大樹の導きに身を任せるの」
光に包まれながらもにっと勝気に笑った彼女の足元は、もう判別できないほど消えかかっている。
「先に行っているわね。また向こうで会えたら、会いましょう。軍師さま、ナマエさん」
間際、それまで黙っていた隣の彼がぐっと一歩前へと出た。
「ベロニカ……すまなかった！」
「最後に本当のあんたと話せてよかったわ」
たった一言の謝罪。彼らの間に何があったのかは分からなかったが、ベロニカにとってはそれで十分だったようだ。顔をくしゃりと綻ばせて笑った彼女は、まもなく光の粒子に攫われていった。
大樹の魂から溢れ出た光が世界中に降り注いでいる。
彼女の言った通り、この世界は眠りにつくのだ。
鎮魂を願ってくれた父も、小さく愛らしかった黒髪の王女様も、すみれ色の髪の彼も。そしてここにいる二人も。生きとし生けるものすべてが、大樹の意思によって夢の世界に連れていかれるのだ。
光の粒子が二人の足元を包んだ。
「ナマエ」
不安そうな様子で立ち尽くす隣の彼に手を伸ばす。指先が絡むようにして、ぎゅっと握りしめられる。
気が付けば、彼の腕の中にいた。背中に回された手が少し震えている。
「大丈夫、きっとまた会えるわ。これがさよならじゃない」
空いた手で彼の頬を包むように触れ、陰りを映す蜂蜜色の瞳を覗き込んで励ますと、切れ長の目が驚いたように見開かれた。ややあって、ふ、と口元に微苦笑が宿る。
「……女性はこういう時、肝が据わるな。まったく、驚かされる」
「ふふ、悪くないでしょ」
「まあな」
互いの額をくっつけるようにして密やかに微笑みあう。
それでも、この先に待ち受けている未来に不安がないわけではない。離れがたい思いから体をぴったりと密着させ、彼の肩口に頭を預ける。とくとくと、皮膚の下から聞こえてくる脈動に耳を傾けた。……不思議なものだ。生命の息吹の音がする。
「……ねえホメロス、わたしに会いに来てね。ずっと待っているから。もしあなたが私の元に会いに来られなかったら、私があなたの事を探すわ」
顔を上げると、視線の先の彼の体がだんだんと淡い光に包まれてゆく姿が目に映った。
黄金色に輝く大好きな彼の瞳の色を、最後まで目に焼き付けて。
「きっとあなたを探し出してみせるから」
絡ませた指先の感触を、決して忘れないようにとぎゅっと力を込める。
「約束よ」
「ああ、」
白んでいく意識の中、彼が淡く微笑んだ。
「もし、もう一度、むこうの世界でお前に会えたら、――」
今度はこの手を離さない。
――そして世界は、静かに眠りに落ちる。