素晴らしき哉我が人生・後篇
「……ホメロスはさ、なんでグレイグさんが羨ましいって思ったの?」
もういい、彼の事など放っておいて書類を仕上げてしまおう。そう思って再び羽ペンを持った時、ふいにイレブンが切り出した話題にホメロスは思わず硬直した。なぜそんなことを急に。いいやそれよりも、どうしてそのことを知っているのか。友への嫉妬はこの少年に面と向かって口に出したことはなかったはずだ。
イレブンはそんなホメロスの心境を見透かすように、じっとこちらを見つめてくる。
「正直、人を羨む余地なんてどこにもないように見えるけどなあ。顔がいいし、頭もべらぼうにいいし、行動力もあるし、剣の腕も相当だし、性格も今ならまあ許せる範囲だし、顔がいいし」
「なぜ二回言った」
「大事なことなので」
グッとサムズアップしてなぜかドヤ顔を見せつけてくる。正直このノリについていけない。
答えの見つからない難問にしばし黙考し、ややあって溜息をついた。羽ペンをペン立てに戻し、椅子に深く背を預ける。書類を仕上げるのは諦めた。
ホメロスはしばし高い天井を眺め、執務机の端に行儀悪く腰かけるイレブンへと視線を向けた。
「……なぜ、か。ふん、産まれながらに才覚を兼ね備えた者には、凡人の苦悩はわからんだろうよ」
「凡人?」
その言葉が意外だったのか、イレブンが驚いたように眉を釣り上げた。
「元々、私は持つ者から持たざる者へと転落した身だ。生家はデルカダールでも由緒ある貴族の家系だったが、それも父の代で没落してしまった。両親は死に、行き場を失った私は幸いにも王に掬い上げていただいた。色々と目をかけてくれる王へと恩を返そうと必死に勉学と剣術に打ち込んだ結果、私は特待生として他の騎士見習いの奴らとは別にクレイモランに留学させてもらえることになったのだが、成果はいまいち。どれをとってもそれなりの結果は出せたが、残念なことに私は突出した才能のひとつも開花させることができなかった。グレイグのように体格にも膂力にも恵まれず、双賢の姉妹のような豊富な魔力もない。唯一誇れるのはこの頭脳だが、それとて地道に努力を重ねた上での話だ」
静かにこちらの語りに聞き入っているイレブンに、笑うなよ、と前置きして、ホメロスは続けた。
「……実を言うとな、勇者や英雄の物語のような、主人公達に憧れていた時期が私にもあったんだ」
「えっ」
「柄じゃないだろう? だがそんな純粋な子供時代が私にもあったんだ。いつか後の世に語り継がれるような、偉大な功績を残したいとな」
自嘲を込めて鼻を鳴らすと、それを否定するようにイレブンは重々しく首を振った。
「子供のころはいまいちぱっとしなかったグレイグだったが、あいつには天賦の才能があった。だが伸び代のあるあいつとは違って、私は自分が凡庸な人間であると早くに自覚していた。が、それを素直に受け入れるのはなかなか堪えるものがある。私はそれなりの男という立場に甘んじたくはなかった。だがいくら鍛錬を積み重ねようとも体を鍛えるのは限界がある。魔法も得意だと言い切れるほどでもない。ならば残された道はただひとつ。この頭脳を生かして道を切り開く。オレにはそれしかなかった。オレが認められるには、物語の英雄のように民から愛されるにはそれしかなかった」
「ホメロス、あなたはひとつ大きな勘違いをしているよ」
自嘲を続けるホメロスをそっと制止するように、イレブンが静かに切り出した。
「才能があるから愛されるんじゃない。そのひとだから愛される。そこに条件なんてないんだ。人を愛するのに、理由なんかいらない。今までだって、あなたを無条件で愛してくれる人がいたはずだ。それに気づかなかったのは、あなたが自分のことを認めていないからだ。だから愛することにも愛されることにも自信がない」
少年の目には、微かな怒りと憂慮の色が宿っていた。
「だったらナマエさんはどうなの? なにか才能があったから好きになったの?」
再びの難問に、ホメロスはしばし考え込むように沈黙した。なぜ彼女を愛したか。考えたこともなかった問いかけだ。無論才能ありきで愛したわけでもない。
「……彼女はオレにとって、幸福の象徴のようなひとだった」
ややあって、慎重に口を開く。
「最初は友への嫉妬があった気がする。国を失った悲劇の王女とそれを救った騎士。いかにも吟遊詩人が歌にしたがりそうなエピソードだろう? だからかな、あいつの見てる前で彼女を横から掻っ攫ってやったら少しせいせいするだろうと、思わないでもなかった」
正直な告白に、イレブンのホメロスを見る目がやや冷ややかなものになった。
「愛している、か」
その言葉を噛みしめるように呟く。
「正直まだよく理解できんのだ、その感覚が。オレはだいぶ根性が屈折しているからな。本当はただの執着心から側にいるだけかもしれんし、彼女がオレを特別扱いするのが心地よいから手放せないだけかもしれん。オレみたいな天邪鬼に、彼女を幸せにできるとも思えんし」
「じゃあ離婚したら?」
「おい」
ちゃちゃを入れてくる少年をじろりとねめつける。
「かといっても、誰かに彼女の未来を託せるかと問われれば、否だ。彼女には誰よりも幸せになってほしいし、彼女を幸せにするのはオレであってほしい」
「ふーん。でもそれって愛だよ、たぶん」
先ほどの冷たい視線は一転、イレブンはにこにこと微笑ましいものを見るかのようにこちらに視線をくれている。
己より二十も歳下の少年から向けられる、ぬくい眼差しが居た堪れない。ふん、と鼻を鳴らし、照れ隠しから少し乱暴な口調でホメロスはイレブンを挑発した。
「おい悪魔の子よ、王様稼業が面倒になったらいつでもここを出奔していいんだぞ」
「え?」
キョトンとするイレブンに、にやりと出来うる限りのあくどい笑みを差し向ける。
「私がユグノアを復興させて、ついでに王座も頂いてやる。なんといってもナマエは第一王位継承権を持つしな。ユグノアの次世代の王というのも悪くない」
「……ええと、謀反を起こす気なら今ここで受けて立つよ?」
「冗談だ」
「あー、笑えない冗談をありがとう。けど僕はユグノアを復興させる気ではいるけど、このまま王でいる気ではないよ」
「なぜだ?」
イレブンはその言葉を待ってましたとばかりに目を輝かせた。きらきらと輝くその瞳には壮大な夢が宿っている。
「僕を育ててくれたイシの村では、村人みんなの投票で村の長を決めるんだ。でも、だからと言って村長がほかの皆より偉いわけでもない。そんな村で十六年も過ごしてきたんだ。人の上に人が立つのはどうしても違和感がある。平民がいて、その上に貴族とか王さまとかがいる世界が村の外にあるのは知ってたけど、やっぱり身分なんてもので人に差をつけるのは嫌なんだ。だって十六年ずっとただのいち村人だった僕が、今更王子だなんだと言われたって実感も湧かないよ。みんなが公平で幸せで、一人一人が尊重される世界であってほしい。僕はユグノアを、そんな国にしたいんだ。……夢物語かな? 僕の言っていること、おかしい?」
恐る恐るホメロスの反応を窺うイレブンに、思わず破顔した。
「――ふっ、はは。いいや、おかしくなんかないさ。君主制がいやだとなると、共和制か」
「共和制?」
「ああ、民の手により国を統治するやり方だ。民は投票で国の代表を選び、国の運営を議会に任せるんだ。議会は任期制で、民は数年ごとによりふさわしい国の代表を選びなおすことができる。昔読んだ歴史書の中で、数百年前のロトゼタシアにもそんな国があったらしい。制度を確立させてしまえば、恐らくユグノアのような大国でも無理なく君主制から共和制に移行させることも不可能ではないだろう」
「へえ、そんなのもあるんだね。やっぱりホメロスは物知りだ」
「しかしお前のその夢は、王妃には話したのか? 場合によってはいちばん説得が厄介な相手だぞ」
「うん、エマに話したらすごく興奮していた。きっとすごい国になるって」
「ほう、理解のある王妃でよかったな」
感心したように喉を鳴らして、ホメロスは内心であの純朴な王妃への認識を改める。もともと野心とは縁遠い、無欲で純粋な少女なのだろう。大抵の人は、一度手に入れた権力は手放したがらない。
「いずれにせよ、最初に立つ民の代表はお前だ、イレブン。お前がこの国を導け。この、生まれたばかりの幼い国を守ってやれ」
ホメロスは笑みを深め、目の前のしなやかな若木のような少年王を見上げた。
この少年はやはり実に興味深い。身分制度が確固として根付くこの世界で、身分のない国作りを目指そうとしている。王子として生まれ、ただの村人として育ち、お尋ね者として追われ、その足で各国を回り実情を見て回った経験から生まれた知見だろう。
成長次第では立派な王にもなれるはずだ。皆のためなら王の座をも惜しげもなく手放すつもりだと宣う彼は、やはり根っからの勇者なのだろう。出来うることなら、彼の旅に同行してみたかった。彼のために智と武を振るい、勇者の慈悲を、采配を、勇気を、覇気を、すぐ傍で感じてみたかった。
――やはりオレはお前が羨ましいよ、グレイグ。
「まあ頼られて悪い気はしないけど。でもね、僕はトレジャーハンターになりたいんだよ。テオじいみたいなね」
口ではそんなことを言いながらも、鼻先をぐいと拭って満更でもない様子で顎先をつんと上げるイレブンに苦笑した。
「……で、実の所何に迷ってるの?」
かつてなくイレブンと会話が弾み、油断していたところでおもむろに切り出された話題にホメロスは思わず「うっ」と身構えた。イレブンからじいっと詰問するような視線が注がれているところを見るに、恐らくこちらの方が本題なのだろう。うっかり疚しさから逃げるように目線を逸らしてしまったのは明らかな失態だった。
「なんのことだ?」
「とぼけなくてもいいよ。何かあったんでしょ?」
ぐ、と言葉に詰まる。
「――ちっ、聖人君子の勇者様にはなんでもお見通しか。やはり同じ血を引くのだな」
「ん? なに?」
「ナマエもそういう察しの良いところがある」
「うーん? 別に普通だと思うよ。グレイグさんが絶望的に察しが悪いだけで」
「……、そうか」
思い当たりがありすぎて、返す言葉もない。
ホメロスの仕掛けたささやかな話題逸らしにも引っかからず、イレブンは「で?」としつこく促してくる。その尋問に抵抗するようにしばし黙秘権を行使していたが、ややあって彼は腹を括った。黙っていても、いずれ発覚することだ。
「――実は、子供ができたと言われた」
「へえ、そうなんだ。子供。へえ……、え。――はあ!?」
腹の底から張り上げられたイレブンの大声が鼓膜を貫く。思わず耳を覆って耳鳴りに耐えていると、突然カッカと怒り出したイレブンに追い立てられるように椅子から転げ落とされてしまった。
「ちょ、おいなにを……」
「なんでこんなところで油売ってんのさ! はやく帰りなよこのダメおっさん!」
「待て誰がおっさんだ」
その認識は我慢ならない。言い返そうとしたところ、激怒したイレブンに早く帰れと部屋から放り出されてしまった。
部屋の主を叩き出す際、ぐずぐずしているホメロスの尻に向かってイシの村式お仕置き(悪戯っ子限定)を一発お見舞いしてやった。形のいい尻を思い切り蹴り上げてやると、今までそんな粗暴な扱いを受けたことがなかったのか、「おい嘘だろ!?」と悲鳴をあげながら廊下へと転がるように飛び出していった。結構な力加減で蹴り上げてしまったが知ったことか。まったくいい大人が情けない。
ホメロスの執務室に一人取り残されたイレブンは少し気疲れしたように溜息をついて、ポケットから赤茶けた手紙を取り出した。もう一つの世界の記憶。ナマエが残した最期の手紙だ。
グレイグにはホメロスのことを頼まれたけど、実は最後まで彼を助けるのを迷っていた。命の大樹で、勇者の力を使ったのは正直賭けだった。闇の力が定着しすぎていれば肉体ごと消滅してしまうかもしれない。ホメロスが自ら魔王に仕えることを選んだのであれば、なおさらイレブンでは彼を改心させることは無理だ。だが幸いにも成功した。すっかり毒気の抜かれたホメロスが目の前に現れて、彼もまた強大で理不尽な闇の力に抗えなかった者のうちの一人でしかなかったことを知ったのだ。
暗い過去を捨て、未来を明るい色で塗りつぶす。そんな乱暴なやり方で歴史を軌道修正してしまったことへの気味の悪さと、過去の仲間たちへの罪悪感だけがどうしてもずっと拭えないでいた。悲しみに暮れて流した涙の熱さを今も覚えている。
だけど多分、これで良かったのだ。過ぎ去りし時を求めたことも、彼を救ったことも、間違いじゃない。叔母のためであり、結果それが彼のためにもなった。世の中から不幸な人が減るのは単純に良いことだと思う。ホメロスとナマエの幸せそうな姿を見て、改めてそう思う。全てが元通りとはいかないけれど、世界が一度破壊された痛みはイレブンだけが覚えていればいい。
ずっと持て余していた血糊のついた手紙を、イレブンはしばし手の中でくるくると遊ばせる。
少し迷い、そして薄暗い記憶の名残に火をつけた。