素晴らしき哉我が人生・前篇
「おかえりなさい、ホメロス」
その日、帰宅したホメロスを出迎えたのはナマエの輝くような笑みだった。
「ああ、戻った」
いつもなら共に帰宅しているはずの彼女は本日なにやら午後から用事があったらしく、早めに帰宅していたようだ。玄関の扉を開けた瞬間、帰宅の音を聞きつけてナマエが奥の部屋からぱたぱたと駆けてきたところを見るに、どうやら自分の帰りを相当待ちわびていたらしい。今もホメロスの外套を受け取りながらも、なにやらそわそわとして落ち着かない様子だ。何かいいことでもあったのだろうか。外套の埃を払ってワードローブにしまい終え、共に応接間へと向かう途中もどこか気もそぞろな妻の様子をそっと横目で窺う。
「そういえば今日は午後からなんの用事だったんだ?」
「ええと……、後でお伝えしますね」
「そうか。別に無理に聞き出すつもりはないが」
受け応えも妙によそよそしい。と思ったら、ナマエが急に立ち止まり、んん、とむずかるように唸っている。いったい何なんだ。
「――駄目。夕食後まではあなたに秘密にしようかと思ったけど、我慢できないわ」
はああ、と長い間息をするのを忘れていたかのような大きなため息がナマエの唇から漏れた。どうやらこれ以上秘密を抱えきれなかったらしい。こちらに勢いよく振り返った彼女の顔には隠しきれない程の喜色が浮かんでおり、今にも羽が生えてふわふわ飛んでいってしまいそうなほど浮かれた様子だ。
「やっぱり今、お伝えします。聞いていただけますか?」
「なんだ、やけに嬉しそうだな。何か良いことでもあったのか?」
溢れ出す喜びを堪えるように、うふ、とナマエがはにかんだ。
「良いことといえば良いことですし、もしかしたら今以上にあなたの悩みの種が増えてしまうかもしれません」
「ふむ、なんとも意味深な言い回しだな」
「わかりませんか?」
少し甘えを含んだ視線がホメロスをじっと見つめる。どうやら彼女の抱える秘密の正体を察して欲しいらしい。その期待に是非とも応えたかったが、しかしあまりにも情報量が少なすぎる。ホメロスは微苦笑しながら早々に白旗を掲げた。
「残念ながらお手上げだ。さあ奥方、正直に白状するんだ。私に一体何を隠している?」
「ふふっ、では耳を貸していただけますか? あのね、実はね……」
冗談混じりで脅すような口調で迫ってみせると、手招きされて彼女の口元に耳を寄せる。こっそりと秘め事を打ち明けるように、そっと耳打ちされた言葉は。
――家族が増えるかもしれません。
一瞬、時が止まったようにさえ感じた。
つまり。新しい命が。
……まさか。本当に? 信じられない。家族が。自分に家族が、増えるだって?
妻を迎え、家庭を持ち、子供が生まれる。ゆくゆくはその子も成人を迎え、その成長を見守る。そんな人並みの幸せとは縁遠いとずっと思っていた。幸せな家庭の光景というものを思い描いたことすらない。だが急にその可能性を提示され、頭が使い物にならなくなるほどの喜びが爆発した。
天にも登るような感情は、しかしそのまますぐに急転直下する。まるで蝋でできた翼で空高く飛び過ぎてしまったがゆえに、太陽の熱に蝋の翼を溶かされ墜落したとある大工の息子のように。
ぐ、と浮かれていた胃の腑のあたりが急速に重くなる。
“この希有なる幸せを、果たして自分などが享受していいのだろうか。受け取った瞬間、目が覚めてしまうのではないだろうか。”
硬直しているホメロスの様子がおかしかったのか、「びっくりしました?」とナマエが笑みを零した。耳にかかる彼女の吐息がまるで灼熱のようにちりちりと産毛を焦がす。思わず火傷を恐れるかのようにぱっと体を離すと、こちらを見上げるナマエからホメロスの顔に喜色が現れるのを信じて疑わない純真な視線が注がれていた。冷や汗が止まらない。
「そ、うか……それは、」
咄嗟に己の感情を取り繕おうとして、あえなく失敗した。こういう時、どういった反応をするべきなのかは頭では理解していた。だが糊付けされたように口も表情も強張ったまま動かない。そんなホメロスの反応に、ナマエはぱちぱちと困惑したように瞬いている。
「……あまり、嬉しくない?」
感情を押し殺したような声が恐々と尋ねてくる。先ほどまでの浮かれた空気はどこかへ霧散した。ナマエは流石に顔色を隠すのが上手い。彼女の顔にはあからさまな落胆の色は窺えなかったが、きっとホメロスの反応にショックを受けているはずだ。当たり前だ、だって一番に喜んでもらえるはずの相手がこんな状態じゃあ。
「い、いやそんなことはない。ただ驚いただけだ。家族が増えるのは素晴らしいことだ。ああ、イレブンに言って君の仕事を減らしてもらわねばな。いや、その前にロウ殿に報告をせねばなるまいか? そうだ、乳母も今のうちに探しておかねば――」
気まずい空気を誤魔化すようにつらつらと適当に言葉を並べる。上っ面な言葉だけが唇から滑り出ていって、焦燥感が加速していく。ああ一体なにを言っているんだオレは。言うべきことはそれじゃないのに。
「ホメロス」
有無を言わせぬ空気を纏った静かな声が彼の名を呼ぶ。ホメロスはぴたりと口を噤んだ。こっちを見て、というナマエの言葉に従って視線を向ける。凪いだ海のような穏やかな色の瞳が、自分をじっと捉えていた。何もかも見透かすような目だった。
「……なんだ?」
「愛してるわ」
慈母のような微笑み。なぜだか涙腺が熱くなった。
「ああ……」
オレもだ。呟いて、観念したように目を伏せる。
「多くは望まない。ただ、無事に生まれてきてくれれば、それで――」
ナマエの肩を抱き寄せ、その額に祈りをこめて唇を落とした。
困った。仕事が全く手につかない。
翌日から、見事に空振りが続いていた。
交渉に来た商人とは商談が全く折り合わず、新市街区設計の計画図を持ってきた設計士には何を勘違いしたのか旧区画の下水工事の進捗状況を確認し、ついでに外回廊を歩けばルキ達の散歩途中だった王妃にとっ掴まり、やんちゃ盛りの子犬たちに襲い掛かられ服をどろどろにされてしまった。
ほうほうのていで執務室に戻って身なりを整え一息つくも、その後も災難は続いた。完全に上の空のホメロスが紅茶のカップとインク壺を間違えて羽ペンを突っ込み、さらにそれに気づかぬままインク液混じりの紅茶を口に含んだ途端、えも言われぬ味の液体を盛大に吹き出して重要書類を台無しにしてしまった。サマディー王に宛てた公的書類。大量の書類にサインをするだけの仕事からすぐに逃亡しようとするイレブンをとっ捕まえて無理矢理署名を貰ったものが、紅茶の染みだらけになってしまった。また一からやり直しだ。さすがに落胆を隠しきれず染みだらけの書類を握りしめたまま茫然と頭を抱えていると、部屋に戻ってきた部下が机上の惨状にひえっと青ざめた。
ティーセットを執務机から下げ、何か拭くものを、と慌ただしく部屋を出ていく部下の後ろ姿を眺めながらぼんやりと思うのは、今日もホメロスとともに仕事に出ようとしたところを慌てて留め、大人しくしていろと半ば脅すようにして家に押し込めてきてしまった妻のことだ。
懐妊を告げられてから、三日が経っていた。
あの時、ナマエはホメロスの挙動不審さに気付いたはずだ。家族が増えるかもしれないと告げられた瞬間、震えるほどの嬉しさと興奮がこみ上げてきたと同時に、不安と恐怖が襲ってきた。
この身に過ぎるほどの幸せを受け取ってしまったら、今度は不幸が襲い掛かってくるのではないだろうか。
胸中を支配しているのは、漠然とした根拠のない不安だ。普段の自分ならば根拠のないものに振り回されることなどあり得なかったが、ことナマエが絡んでくるとなると話は違った。
家族が増えるということは、守るべきものが増えるという事だ。家族、という単語にホメロスはあまりいい思い出がない。実父は高慢で貴族らしい、鼻持ちならない嫌な男だった。決してあの男のようになるまいと決意していたが、自分が同じようにならないとは限らない。
それにいくら医学や魔法学が発達しても、今も昔も出産は命がけの仕事だ。今までに幾人もの女性がお産で命を落としてきた。彼女を失うくらいならば子供など。そう思えるほどには自分の中にどうしようもなく不安が広がってしまっていた。
いや自分以上にナマエの方が不安なのだ。自分がしっかりしないでどうするのだ。とりあえず知識だけでも詰め込んでおこうと翌日には思い立ち、巷で読まれている出産と育児の参考書、ついでに医学書と発達心理学に関する分厚い専門書も取り寄せている最中だ。医師の見立てでは激しい運動を避ければ通常通りの生活をして構わないとのことだったが、そんな恐ろしい言葉には従えたものじゃない。彼女にはしばらくは大人しくしていてくれと命じ、家で安静にさせている。ちなみにロウには懐妊の知らせはまだ告げられていない。
そんな状態なものだからなんとなく彼女に会わせる顔がなく、ここ三日間帰宅時間が遅くなってしまいがちだった。今日も気が付けばいつもの帰宅時間が過ぎてしまっている。夕刻の鐘の音を聞き逃してしまうほどには、執務に集中していたらしい。ふいに顔をあげて窓の方に視線を向ければ、空に夕闇が迫っていた。
もう仕事を切り上げて帰るべきか。彼女が家で待っているはずだ。だが今この手元にある書類も書き上げてしまいたい。特に今日はトラブルに見舞われて、思うように仕事が捗らなかったから余計に。
逡巡していると、部屋の扉がノックの音を響かせ来客を告げた。こんな時間に一体誰だ。部屋の主の返事を待たずに無断で開けられた扉の向こうからひょいと顔を見せたのは、この国の若き王だった。
「お邪魔します」
「なんだ、お前かイレブン。なにか用か?」
「ホメロスこそ、まだ帰らないの? ナマエさん、待っているんじゃないの」
どうやらいつもの帰宅時間を過ぎても部屋の灯りがついたままだったので、気になって顔を覗かせたらしい。
「この書類を仕上げてから帰る。お前ももうそろそろ王妃の元に戻ってはどうだ」
なんだそんなことかと内心呆れつつ、ホメロスは苛立たしげに手元の紙面をとんとんと指で叩いた。まさか王さま直々に帰宅を促される情けない臣下など一体どの国にいるというのか。それにイレブンだって人の事は言えないはずだ。いつもならこの時間帯はとうにエマの元へ戻っているのに。イレブン達の暮らしている居住区と現在いるこの棟とは別棟になっており、回廊で結ばれている。なるべく元通りにユグノア城を復元したかったが、居住区の建造を優先させた結果、現在の形になってしまった。
ホメロスの指摘にイレブンは「うん」と空返事をしつつ、執務机の端を占領している資料の山をぼんやりと眺めている。
「ナマエさん、昨日も今日も来てないみたいだけど具合悪いの?」
まるで心の中を覗かれたように、どきりと心臓が跳ねた。
「いや、大丈夫だ。心配はいらない」
努めて冷静を装って答える。イレブンはそんなホメロスの異変にまるで気付いていない様子で、資料の山を上から順にぱらぱらと捲っていっている。イレブンが眺めているのは、いずれ行うであろう大規模な治水工事の資料の山だ。ユグノア王国の背後に連なる自然豊かな山脈からは巨大な滝が流れ込み、滝の下に建っている石像を分岐点として雄大な川が領土を囲むようにして流れてきている。豊富な水資源に恵まれる一方、一旦川が氾濫してしまえば国内にも被害が及ぶ。ゆえに新市街区を計画するにあたり、河川の流れも変える予定だ。大規模な灌漑工事。おそらく完成までに何年もかかるだろう。
そのための下準備の資料を眺めつつ、イレブンは感心したように溜息をついた。
「うーん、何度見てもすごいなあ。やっぱりホメロスって頭いいよね」
「褒めても何も出んぞ」
ホメロスは警戒も露に獣のように唸った。この少年が自分を持ち上げる時は、大抵その後に無茶なことを要求してくる。
「事実を言っているんだよ」
イレブンは資料をめくっていた手を止め、極めて真面目そうな顔で振り返った。
「そうはいってもな、私に足りん部分は山ほどあるぞ」
「ひとりで何でもこなしちゃうくせに?」
「違う、任せられる人間がいないから私がやらざるを得ないんだ。まったくお前も分かっているだろうに。イレブン、お前はその人を誑し込む能力をフルに発揮させて、さっさと人材スカウトでもなんでもしてこい。私はそろそろユグノア国軍の編成の方に手をつけたいのだ。治安維持をいつまでも他国に任せておくわけにもいくまい」
ホメロスの人物評価論に、ひどいや、とイレブンは肩を竦めた。だが言葉とは裏腹に、さして傷ついたような様子は見られない。
「でもホメロスってずっと働き詰めじゃない? ここらでちょっと一休みしてもいいと思うけど」
「おい、誰のせいで死ぬ程忙しい思いをしていると思っているんだ」
「あはは~誰のせいだったかな? でも大丈夫だよ。そんなに焦って仕事をしないでも、太陽は明日も昇るさ」
ホメロスの苦言などまさに暖簾に腕押し。呑気に笑うこの国随一の貴人に皮肉のひとつも言いたくなるのは許してほしい。
「お前は少し休み過ぎだと思うが、新米王さま?」
「そういうホメロスには王さまへの敬意が全くないよね。僕王さまなのに。一応。これでも」
なぜかふふんと得意げに胸を張るイレブンに、言ってろ、と追い払うように手を振った。イレブンが居座るせいで、手元の書類が一向に終わらない。