ケ・セラ・セラ
邸宅にはいまだに住み込みのメイドの一人も雇っておらず、文字通り二人きりの生活がしばらく続いていた。日中の家事手伝いとして一人の女性を通いで雇ってはいるが、どうしても留守がちな生活が続くと家の中がおろそかになっていってしまう。
匿われている数年の間で、ナマエはホメロスの元乳母であるジーナに色々なことを習い生活力を大分培ったようだ。ひと通りのことは大体一人でこなせていた。ホメロス自身も軍生活が長く、身の回りのことは自分でやるし、なんなら料理も意外と得意だ。が、しかし多忙な生活を送る身としては、家の中の事にまで手を回すのにも限度がある。
そこでホメロスは内密にある人物へと手紙をしたためた。邸宅の取り仕切りの一切を任せられないかという打診の内容だ。わずか数日で届いた返信の紙面には、『すぐにでも行きます』と相変わらず元気で賑やかそうな文字が踊っていた。
数日後、果たしてやってきた人物は。
「……あら、お客様かしら?」
ある日の帰り道、邸宅の前に立っている見知らぬ三人の人物に気付いたナマエが不思議そうに声をあげた。本日の来客予定はない。予定外の来客は、どうやら夫婦と息子の家族連れのようだ。
「あっ、ナマエさま! ホメロスさまも!」
母親らしき女性がこちらに気付いてぶんぶんと手を振ってきた。昔と変わらぬひまわりのような笑顔に、ナマエは彼女の正体を察したようだ。
「――アリサ? どうして……、ホメロス? もしかしてあなたね?」
「ばれてしまったか。昔、ドジな侍女がいたことをふいに思い出してな。こっちに来ないかと試しに声をかけてみたんだ。家の事を任せられないかと思ってな」
ナマエを驚かせるためにこの日の訪問については一言も告げていなかったが、どうやら仕掛け人の正体にすぐに勘付いたらしい。言葉を失ったナマエが説明を求めるようにホメロスを見上げてきたので、肩を竦めてあっさりと種明かしする。
「そう。それで、ユグノアに来てくれたのね……」
ナマエはかつての侍女の前へと歩み寄り、胸を詰まらせているようだ。アリサとの別れ方は散々なものだった。その後手紙が来て和解をしたと聞いてはいたが、顔を合わせるのはあの時以来だろう。
「アリサ、私――」
「おっと待って! 謝るのはナシですよ」
今にも謝罪を口にしようとするナマエを、アリサがおどけたように制す。久しぶりの再会を暗いものにしたくないというアリサなりの配慮なのだろう。「でも……」と戸惑いを見せるナマエが、ふとそこで何かに気を取られたように口を噤む。どうやらこちらの様子を窺うようにして立つ男性と少年の姿を、まじまじと観察しているようだ。
「アリサ、あなたもしかして子供が……?」
「ええ、そうなの! 我が家に養子に来てくれた、うちの自慢の子よ!」
あっけらかんとそう告げるアリサの顔には、何の憂いもてらいもない。はじめまして、と少年がぺこりと頭を下げた。なかなか利発そうな少年だ。
「そう、よかった……。よかった」
幸せそうな家族の様子に感極まったように涙ぐむナマエの肩を、ホメロスは慰めるように抱き寄せる。
ウルノーガの奸計で、ナマエの代わりに毒入り蜂蜜を口にしてしまったアリサはその後遺症として子供を持てない体になってしまった。だがそんな困難を乗り越え、確実な幸せを手にしたアリサの姿を見てナマエはまたひとつ心の重荷から解放されたようだった。
「ねえナマエ様、あたしこれでも結構幸せですよ? 失敗して落ち込んでも、何度だってやり直せるわ。だって生きてるんだもの!」
アリサは、ふふん、と得意げに鼻を鳴らす。彼女の言葉は、襲い掛かる不幸や困難を吹き飛ばすくらいのパワーに満ちていた。
「あたし、あの時死ななくて本当によかったと思ってるの。ナマエ様、お礼を言うのがとっても遅くなっちゃったけど、助けてくれてありがとう」
毒で苦しむアリサにナマエが咄嗟に解毒の魔法をかけたことへの礼だろう。手を取って感謝を告げるアリサにナマエは感激に目元を赤くしながら「そんなの当たり前よ」と不器用に微笑む。二人にとってのわだかまりが、真に消えた瞬間だった。
「アリサ、私……。私、あなたと、できればお友達になりたいわ」
「ええっ!? あたしは最初からそのつもりだったんだけどなぁ」
きっと、本当は親友になりたいとはっきり言いたかったのだろう。まだ遠慮が残るナマエが控えめに告げると、アリサが少しショックを受けたように肩を落とす。
「あっ……、ご、ごめんなさい! お、お友達よね私たち。うんそうだわ、そうだったわ」
その様子にナマエが慌て、不器用なやり取りにホメロスが可笑しげに肩を揺らす。
しかし、
「――生きているから、やり直せる、か」
先程のアリサの台詞を反芻する。なんと力強く勇気に溢れた言葉だろう。
「お前の口からそんな崇高な台詞が出てくるとは。明日はサマディーで雪が降るぞ」
「ちょっと失礼じゃないですかこの人」
からかい混じりに笑って肩を竦めると、アリサはキッと眉を吊り上げて食って掛かってきた。この、歯に衣着せぬ物言いが懐かしい。
まもなく、アリサ達一家は彼らの良き隣人となった。
とはいえ新居には流石に一家を受け入れるまでの余裕はなく、そこで彼女たちの住まいとしてすぐ隣の家を借り上げて、そこに住んでもらうことにした。日中、夫婦には邸宅の管理を任せ、子供はとにかく学問を学ばせるべきだというホメロスの主張のもと、一人息子のほうは先日開校したばかりの学院に通わせた。見込み通り少年はぐんぐんと知識を吸収していき、早くも秀才の鱗片を見せ始めているようだ。
スープが冷めぬ距離に住まう二つの家族が、まるで本当の家族のようにともに団欒のひと時を過ごすようになるまで、あと少し。
ちなみにナマエが匿われている間ずっと世話になっていたジーナだが、今は住まいのあるダーハルーネに戻っており、時たまこちらに顔を見せにきてくれる。その度にナマエは彼女に料理を習っているようで、ジーナが遊びに来た日の夜は必ずホメロスの幼少期の頃の好物が食卓に並ぶ。食事を共にする元乳母が悪びれなく彼の幼少期の思い出話に花を咲かせるので、最近はそろそろ居た堪れなさが限界突破しそうだ。ナマエも、生意気ざかりの子供時代の大して面白くもないエピソードを聞いて一体何が楽しいやら。まったくもって理解不能だ。自分のことよりも彼女の子供時代の話の方がよほど聞き甲斐があるというのに。……まあ、それでも彼女が喜んでいるのならば多少の恥は耐えるとしよう。
月日は流れ、ユグノア復興着手より約十ヶ月が経った。
この日、ユグノア城の大広間の再建が完成し、城の再建もいよいよ尖塔を残すところのみとなった。同時進行していた街の再建も進み、ようやく国として何とか体裁が整ってきたとの判断の元で、今まで臨時で置いていた行政府を本格的に始動させることにした。
国の代表として、かつてナマエが宣言した通りイレブンを立て、相談役兼宰相役にロウの名が続いた。大広間に集まった人々の前で、緋色のマントを纏い、王冠を戴き王笏を手に持ったイレブンが新生ユグノア国樹立を高らかに宣言する。人々の歓声が高いホール内に響き渡っていく。新たな国誕生の瞬間。その力強い産声に、ホメロスはいつまでも感慨深く耳を傾けていた。
とはいえ実質的に動いているのは主にホメロスで、ロウの役職はお飾り程度のものだ。彼としては早く隠居して、世界中のぱふぱふ屋を巡る旅に出たいらしい。全く、老いても尚元気な姿はもはや尊敬に値する。
嫌々ながらも玉座に着いたイレブンはもう逃げ場はないと腹を括ったのか、近頃は精力的に王様稼業をこなすようになっていった。良い兆候だ。とはいえ王座の座り心地はあまり良くないようだ。
国樹立宣言より他国との交渉事が一気に複雑化し、イレブンはもちろんナマエもまた王の代理として度々公人として交渉の場に出るようになった。そのせいなのか、他国との使者のやりとりで会話術がどんどん磨かれ、この頃ますます口が達者になってきたようだ。次期宰相候補として将来有望だな、とホメロスがぼやけば、あなたには敵いませんよ、と微笑んでいた。
「――そういえば、見張り兵のあの方、お亡くなりになっていたんですね」
久しぶりの休日。しとしとと降る雨にけぶるユグノアの風景を窓ガラス越しに眺めつつ、各々好きなことに没頭する。ホメロスは愛剣の手入れを、ナマエは読書を。昼間のうちから自宅でゆっくりと過ごすのは、じつに久しぶりのことだった。
が、先ほどからなにやらナマエは少し上の空のようで、時折ページをめくる手を止めては窓の方を眺めてため息をついたりしている。なにか悩み事だろうか。なかなか切り出さない彼女に、どうした? とホメロスが促そうとした時、ふいにぽつりと呟かれた台詞がそれだった。
「……見張り兵」
「ええ、デルカダール城の、私が暮らしていた塔の部屋の」
ホメロスが手にかけた、あの。
思いがけない話題に息がつまる。口にした途端、記憶の底に封じていたあの青年兵の死に顔が一気に脳裏に蘇って胸が悪くなった。決して忘れていた訳ではない。寧ろ未だナマエに打ち明けることの出来ない、常に心の枷となっている己の罪の一つだ。
だがなぜ急に。ナマエはいったいどこで彼の死を知ったのだろう。
うろたえながら昨日の行動予定を思い出し、すぐにその可能性に思い至る。昨日はデルカダール国の使者との会談があった。その使者の護衛兵の一人が彼女と顔見知りだったようで、そういえば会談後一言二言軽く言葉を交わしていた様子を思い出した。もしかしたら、その時に。
「ああ……。ナマエ、実は――」
彼女は彼の死を知ってしまった。おそらく彼女が知りたがっているのは、その死の真相だろう。ならばこれ以上隠し通すわけにもいくまい。
腹を括り、ホメロスは真実を打ち明けた。
「そうだったのね……」
告げられた真実にナマエはホメロスを非難するでもなく、寂しげな横顔で呟く。どんな謗りも覚悟していたホメロスは、その反応に少し戸惑いを覚えた。
「……責めないのか?」
「あなたはきっと、今でもずっと後悔しているのでしょう?」
「ああ」
「なら、私が責めるべきことではないわ」
言って、ナマエは静かに目を伏せる。きっと今の平穏なひとときが、彼の犠牲の上に成り立っているものであることを理解しているからかもしれない。
「……今度、一緒にお墓参りに行きましょうか」
しんみりと告げられた言葉にホメロスは無言で頷く。実の所、あの心を闇に染めていた間に行った非道な行為の中でも、彼に手を掛けたことを一番に悔いていた。あの時ですら、わずかなためらいを覚えたことを記憶している。
彼は今もなお無名墓地に他の罪人と一緒に埋葬されている。それだけでも早くなんとかしたい。ナマエの提案をきっかけに次の休みに早々にデルカダールを訪れることを予定に入れ、訪問の前にホメロスは友へと手紙をしたためた。
「よく来たな、ホメロス。ナマエ様も、ご無沙汰をしておりました」
デルカダールを訪れた二人を出迎えたのはグレイグだった。滞在日数は一日しか取れなかったため、今回はデルカダール王とマルティナ姫への謁見は見送ることにした。
今回の訪問の目的は墓標の移設、それと不当にかけられた冤罪を晴らすための手続きと、死亡した兵士の故郷への訪問。事前に要件を伝えておいたため、墓標の移設についてはあまり手間取ることもなかった。冤罪については偽王の暗殺命令が主因とはいえ、ホメロス自身が直接関与していることもあって、こちらはじっくり腰を据える必要がありそうだとグレイグが説明した。
「それとお前に頼まれていた書類だが、これでよかったか?」
「すまない、助かった」
グレイグに手渡されたのは兵舎棟の保管庫にしまわれていた件の兵士の履歴書だ。彼の出自を調べるため、これもグレイグに事前に探してほしいと頼んでおいた。経年で黄ばんだ紙をめくりながら兵の履歴書に目を通していると、グレイグが横から声をかけてきた。
「あの兵の出自についてだが、意外な場所の出身だったぞ」
言われて出身欄に視線を落とせば、住所の最後に記されたなにかの施設のような名称に目が留まる。そこに書かれていたのは、
「孤児院……?」
グレイグに護衛をつけてもらい、向かったのは王都から二時間ほどのところにある田舎の村。そこの村はずれに、こぢんまりとした木造の建物があった。
ナマエと一緒に尋ねたのは、孤児院だった。件の兵は早くに親を亡くし、成人するまでここで育ったようだ。この辺りは広大な穀物畑が広がっているのだが、例年収穫の時期になると背の高い作物に紛れこんだ魔物に人間が狩られる事件が多発し、親を失い孤児となる子供が多いようだ。デルカダール軍も定期的に魔物の住処の討伐等は行っているが、広大な畑の守備にまでは手が回らないらしく、そこで近隣の集落の人々が集まって自警団を結成し、孤児達のためにと資金を出し合って建てたのがこの孤児院だ。建物が妙に真新しく見えるのは、十数年前に起きた事件の際にほぼ倒壊しその後建て直したためだろう。
事件、つまり例の孤児院襲撃事件だ。この孤児院も例外なく襲撃され、施設にいたほとんどの子供がその際に犠牲となっていた。村の共同墓地に建てられた追悼記念碑に、犠牲となった子供達や施設の人間の名が刻まれている。
目の前の建物に漂う雰囲気は平穏そのもので、そんな悲惨な過去の面影はうかがえない。敷地内の狭い庭では、ぬくい風が野花を揺らし子供達がきゃっきゃっと無邪気に駆け回っていた。
村長兼施設長に案内されながら、二人は建物の中を見学した。どうやら建物の再建費用は兵の仕送り(実際にはホメロスが送金したものだが)で大半を賄ったようだ。彼の死亡通知とともに大金が送られてきてそりゃあもうびっくりでしたよ、と村長は柔和に微笑む。肝心の亡くなった彼と面識があるものはほとんどいなかった。どんな謗りをも受け止める覚悟で遺族に真実を告げようとここまで来たホメロスは、この状況に内心戸惑っていた。
「彼が亡くなったと知った時には衝撃でしたよ。私の亡くなった兄の――前の施設長ですが、あの子のことは兄がよく気にかけておりましてな。人付き合いが苦手で、あまり器用な子ではなかったので、王都に出ると聞いた時には兄がいたく心配していたのを覚えております。……それをこんなに早くに亡くなってしまうとは、なんとも世知辛いものです」
明るくお調子者だった彼の意外な側面を知り、その人となりを前よりも身近に感じる。誰しも他人には見せたくない側面を持っているものだ。お調子者の仮面の下に隠れていたのは、孤独を背負う不器用な青年の顔だった。
「……彼は良い部下でした。彼に個人的に思い入れがあったため、生まれ育った故郷をひと目見たいと長らく願い続け、本日はそれがようやく叶いました。おかげで少し肩の荷が下りた気分です」
「そうでしたか……。あの子もよい上司の方に恵まれたようでなによりです」
あの青年兵のことを直接知るものはもういない。この村長に青年の死の真相を告げても持て余すだけだろう。そう判断し、結局最後まで兵の死因について触れることはなかった。
ナマエの提案で記念碑に青年兵の名を刻み、黄昏に染まる村を後にした。
兵の故郷から帰還し、まもなくユグノアへと戻らなければならない時間となった。色々と世話になったグレイグに礼と暇を告げる。帰りは来た時と同様キメラの翼で帰路に着く予定だ。
「ではまたな、グレイグ」
「ああ」
別れの挨拶は簡潔に。湿っぽいのは似合わない。素っ気ない友とのやりとりの後、グレイグはナマエへと丁重に頭を下げた。
「ナマエ様、お元気そうなお姿を拝見し安心いたしました。イレブンやロウ様はご健勝でいらっしゃいますか?」
「はい、二人とも日々ユグノア復興に精を出しております。今回はあまり時間が取れなく陛下とマルティナ姫にお目にかかれなくて残念でしたが、今度はゆっくりと遊びに参りますね」
「は、その日を心待ちにしております。……ホメロス、お前もな」
ああ、と軽く頷いてみせる。が、挨拶を交わした男から向けられるまとわりつくような鬱陶しい視線が離れない。「なんだ?」と顔をしかめると、「いや、すまん」と口先で謝りつつも、変わらずグレイグの遠慮のない視線が並び立つナマエとホメロスを交互に行き来した。しばらくそれを繰り返し、ふいに締まりのない顔が更にへにゃりと崩れた。
「幸せそうだな、ホメロス」
「ふん、羨ましいか」
ぞんざいに言って鼻を鳴らす。デルカダール国の偉大な英雄様は未だに独り身だ。
「いや、嬉しいよ」
我が事のようにホメロスの幸せを喜ぶグレイグに、気恥ずかしさと鳥肌の立つ感覚が同時に襲ってくる。へにゃへにゃと笑う友の顔を、間抜け顔め、と心の中で悪態をついた。
「微笑ましいものを眺めるかのようにこっちを見るな気持ち悪い。殴りたくなる」
「ひどいな!?」
流石に傷ついた顔をするグレイグに、ふん、と尊大に胸を張ってみせる。なんてことはない、いつもの軽口の応酬だ。傷心の友を放って、ホメロスは傍らで二人のやりとりを微笑ましそうに眺めている妻を促した。
「そろそろ行こう、ナマエ。こいつといると頭に花が咲きそうだ」
「まったく、薄情なやつだ」
「ベタベタするのは性に合わんだろ。互いにな」
確かにな、とグレイグが笑って同意した。
「ねえホメロス。グレイグ様と離れ離れになってしまって、寂しくない?」
「どうした、急に」
デルカダールから帰国して数日経ったある日の夜、ベッドの中でふいにナマエがぽつりと呟いた言葉にホメロスは眉根を寄せた。
「久々に故郷に帰ったから、色々と寂しくなったんじゃないかしらと思ったの。そろそろホームシックにはなってない?」
「なんだそれは。私の家はここだぞ」
「そうね。でもあなたの意思をよく確認せずにここまで強引に連れてきてしまったじゃない? あんなに仲の良かったグレイグ様からあなたを引き離してしまって、本当に良かったのかしら」
彼女の言葉が心外すぎて少しむせてしまった。妙な言い方をされた苛立ちより前に脱力が先に来て、頭を抱える。
「ナマエ、誤解を招くような表現はやめてくれ。思うところがあるのならとっくに君に言っている。私はこの道を選んで良かったと思っているよ」
彼女はその言葉の真意を探るように、じ、とこちらを見つめてくる。
「グレイグにも久々に会ったが、あいつを見て以前のように苛立ちや不安に駆られることはなかった。だから、これでいいと思っている。君はなにも心配することはない。……いや、この言い方は良くないな。何かあれば一番に君に相談する」
「ほんとう?」
「ああ。疑うのか?」
「いいえ、信じるわ」
ようやく安心したようにナマエが微笑んだ。隣に横たわるしなやかな体を抱き寄せ、ホメロスは妻の額に口づけを落とす。
「だがあいつの顔を見られて少し安心したよ。私が抜けた分の穴埋めも、なんとかこなしているようだ。あいつもあいつで上手くやっているんだ」
一歩遠のくことで、今まで見えなかった相手の部分を知ることができたのだ。互いの距離が近すぎると見えなくなるものもある。今までは友の背中ばかりを見続けた。そしてそれは己の作り上げた幻想だった。幻想に嫉妬するのは相手がよく見えなくなっているせいだ。
かつての双頭の鷲は無様に片翼をもがれ、地に堕ちた。巷のエセ詩人が面白おかしく吹聴する。そんな陰湿な悪意など跳ね飛ばして、友も、ホメロスも、自身の選んだ道をひたすら邁進するのみだ。
「遠く離れたからと言って、私たちの関係性が変化するわけじゃない。あいつとは、ずっと変わらず親友だ。今も、これからも」
「よかった。信頼しているのね、グレイグ様のこと」
離れていても。離れているからこそ、友に恥じない自分でいられるよう前を向いて。
「……ああ、親友だからな」
羨ましいわ。眠気と格闘しているのか、ナマエがとろんとした焦点の定まらない目で呟いた。
「なにがだ?」
「だってもし私が男だったら、あなたとおともだちになれたかしら……」
少しの間の後。すう、と穏やかな寝息が聞こえてきて、ホメロスは嘆息した。
「男では困るのだがな」
「――あなたにお話があります」
ある休日の朝、ナマエにやたら深刻な様子で切り出され、ホメロスは反射的に身を固くした。
何事かと身構え恐る恐る話を聞けば、なにやらイレブン夫妻の飼う犬が先日子犬を出産したらしく、そのうちの一頭を貰い受けたいらしい。アリサにも事前に相談済みのようで手回しは抜かりない。なんだそんなことか。拍子抜けするとともに、気が抜ける。あまり大仰に切り出されるのは心臓に悪い。犬を飼う事に反対するつもりなど毛頭なかったが、念のため一度子犬の顔を見に行くことにした。
子犬たちは城の王妃の部屋の隣に専用の部屋を用意されていた。ホメロスとナマエが部屋を訪れると、一匹の子犬が訪問者に気付いて猛ダッシュでころころ転がるように駆けよってきたので、ナマエが慌ててその小さな体を抱きとめる。
「二人ともいらっしゃい! ふふ、その子、可愛いでしょ。ナマエさんにすっごく懐いているの」
奥の方から声をかけてきたのは、別の子犬を胸に抱いたエマだった。
「エマさん、こんにちは」
「王妃殿下におかれましてはご機嫌麗しく――」
「やだ堅苦しいの禁止。さ、ほかの子も見てってよ。ホメロスさんはこの子たちと初めましてよね? どの子も可愛いわよ」
可愛らしいデザインのドレスに身を包んだ若き王妃は、挨拶を述べようとするホメロスにしっしと邪険に手を振ってみせる。この頃、この新米王妃は彼への態度に遠慮がない。飼い犬――ルキがあんなに懐いているのだから悪い人ではないと認識を改めたらしい。
しかし王妃の気安い態度はホメロスにとって頭痛の種のひとつだ。気安いのも結構だが、気品というものがない。……まあ心を許してくれていると思えば悪い事ではないが、外交面では心もとない。今つけている家庭教師の人選を改めるべきか。
「ホメロス、この子をうちで飼ってもいいですか?」
そんなことを思案しつつ片手間で子犬をあやしていると、ナマエが最初に胸に飛び込んできた子犬を提示してくる。どうやら早々に飼う子犬を決めていたらしい。小麦色のむくむくとした子犬ははち切れんばかりに尻尾を振り、ナマエをつぶらな瞳で見上げている。
ホメロスは子犬の頭に手を乗せ、遠慮なくわしゃわしゃと毛並みを乱した。
「いいだろう、よい番犬になってくれよ。だが寝室にいれるのはダメだからな」
えっ、とナマエが驚いたように声をあげた。
「ダメですか?」
「ダメだ」
「ほんとうに? ダメ?」
懇願するような上目遣いが突き刺さる。今度はホメロスが、うっ、と言葉に詰まる番だった。
「……その顔は卑怯だぞ」
寝室をめぐる攻防はどうやら彼女の策略勝ちになりそうだ。
乳離れ後に迎え入れられた子犬は邸宅を一通り冒険し終わった後、疲れたのか用意してあった寝床で早々に丸くなっていた。勇敢な親犬とは違い少し臆病な気質があるのかホメロスの愛馬に対面した途端びっくりして逃げ出そうとしたり、犬のくせに狭いところが好きでいつの間にかクローゼットに忍び込み衣服に埋もれてうとうとしていたり、ソファと壁の隙間に挟まって抜け出せなくなりキュンキュン鳴いて人間に助けを求めたり、かと思えば高いところは意外と平気なのか果敢にも階段をぐんぐん登っていき今度は降りられなくなったり、と初日から忙しなかったためだろう。これから邸宅の中が少し賑やかになりそうだ。いずれにしてもシアンナに良く懐き、甘える姿はまあ可愛らしいといっても差し支えはない。だが、とホメロスはふと浮かんだ疑惑に眉根を寄せた。
うにゃうにゃと寝言を言うホメロス家の新しい家族はなんだか犬というより、どこか猫っぽい気もするが。
……まあ個体差だろう。たぶん。