世界が色づく日




 ――はちみつを貰ったから、お昼にホットケーキでもいかが?
 同居人から大層魅惑的なお誘いを受けたナマエは、喜んで承諾した。ホットケーキには新鮮な卵が必要だ。卵の調達を勇んで請け負ったナマエは、先日庭の一角に増設した鶏小屋へと向かうべく、日よけの帽子を被りエプロンの紐を腰の後ろで絞め、籠を持って万全の状態で外へと向かおうとした。
 ドアノブに手をかけたとき、ふと視界の端でひらりと泳いだ白いものが映り、妙にそちらに気を惹かれて足を止める。机の上で開きっぱなしになっている日記が、開け放たれた窓から吹いてくる心地の良い風にページがパラパラとめくられるがままになっていた。その紙の白さが陽光に反射してちらちらとナマエの視界を奪う。
 同居人――ジーナに声をかけられるまで徒然と書き連ねていた日記。なんとなしに踵を返して机の方へと戻って開かれたままの日記を覗き込むと、書きかけの最後の一文が結びの言葉を綴られるのを待っているかのようだった。
『――私、あなたのことを、』
 その後に綴ろうとした言葉は。
 おもむろにペンを取り、インクに浸したそのペン先を書きかけだった最後の一文の、その隣へとそっと置く。
 続く言葉は決まっている。けれど言葉として表現してしまうには僅かばかりのためらいがあった。逡巡の合間にも、置いたペン先からインクがじわりと紙に滲む。
 ……構うまい。どうせ誰にも見られることのない日記だ。ナマエはためらいを振り切って、緊張からやや力んだ手つきで紙にゆっくりと書きつける。
 さらさらと紙をなぞる音。
『"     "』
 結びの一言を書き終えて、そっとペン先を離した。確かめるように、たったいま綴ったその最後の一文を声に乗せて囁く。文字に記した己の想いはたった六文字の短い言葉だ。だがその言葉がもつ温もりにじんわりと胸の奥が暖かくなって、密やかに笑みを零す。
「……さあ、早く行かなきゃ。ジーナさんを待たせてしまうわ」
 自分に言い聞かせるように呟いてペンを置き、閉じた日記を引き出しにしまい込んだ。
 夢想に浸るひと時は、いつだってあっという間だ。


「ああ、いい天気」
 屋敷の外へと出ると、穏やかな天気にナマエは満足げに嘆息した。
 よく晴れた日だった。どこまでも広がる青空に、命の大樹が心地好さそうに浮かんでいる。緩やかな風を頬に感じながら、ナマエは庭の小径をゆっくりと進んだ。
 のどかな午前のひと時。
 庭園に植えられた植物達は、春を迎え思い思いに花開こうとしている。ぶうん、と目の前を横切る小さな蜜蜂が、黒と黄色の縞模様の丸いお尻を花粉だらけにしながら一生懸命に花の蜜を集めていた。なんとも可愛らしく健気な生き物か。
 バラ、ネモフィラ、マリーゴールド、エルダーフラワー。色鮮やかな春の花々の共演に目を奪われつつゆっくりと歩を進めて、ようやく目的地へとたどり着く。鶏小屋の柵を開ける前からもう耳に届いていたぴよぴよと生命力に満ち溢れた鳴き声に、ナマエは頬を緩ませた。先日この鶏小屋で生まれた可愛らしい雛の世話に、ナマエとジーナは目下夢中になっている。
 餌を啄むのに没頭している鶏たちの邪魔をしないよう用心しながら小屋の中へと足を踏み入れ、今朝産み落とされたばかりの新鮮な卵を収穫していく。
 二つ、三つと拾っては、割れないように籠の中にそっと置いて。
「卵三個じゃ足りないかしら……。もうひとつ、もらいましょ」
 四つ目の卵に手を伸ばした瞬間だった。
 ――ぐら、と急に視界がぶれた。
「あっ!?」
 足元を揺れが襲った気がして、ナマエは思わず驚いて声を上げた。拾いかけの卵が手の平からつるりと滑り落ちそうになって慌ててキャッチする。ほのかな温もりを残す重みが再びしっかりと手の中に収まったのを確認し、ほっと安堵のため息をついた。よかった、卵は無事だ。
 また落とさないうちにと救出した卵をそっと籠にいれ、改めて小屋の中を見回した。相変わらず鶏達は、コケッコケッと独特の鳴き声を上げつつ地面の餌を啄んでいる。小屋の外も至って平和で、のどかな午前のひと時そのものだ。先程地面がひどく揺れたような気がしたが、あれはナマエの気のせいだったのだろうか。
「……ジーナさん!!」
 けれど、なんだかとても嫌な予感がする。胸の奥がひどく騒めく。うなじに這いあがってきた得体の知れない恐怖に突き動かされ、ナマエは卵の入った籠を地面に置いて小屋を飛び出した。
「ジーナさん! ジーナさんどこ!?」
 ジーナは無事だろうか。妙な焦燥感に駆られ、ナマエは同居人の名を大声で呼ばう。もと来た小径を小走りで戻るうち、焦りのあまり不注意な足元が花壇の煉瓦に蹴躓いてしまう。
「きゃっ」
 ドサッ! 転ぶ瞬間、なんとか受け身を取れたため大事には至らなかったものの、ナマエは地面に手をついたまま胸を騒めかせる感覚に身動きが取れなくなってしまった。擦りむいた手のひらの痛みすら気にならない。
 この感覚は、なんだろう。
 既視感とも違う。先ほどまでナマエを支配していた得体の知れない恐怖はすっかり消え、代わりに浮足立った感覚が胸を満たしている。落ち着かない。先見の才能などまったく持ち合わせていないはずなのに、なんだか誰かがナマエを尋ねてくるような予感がして、ひどくそわそわとした。果たしてこの胸の騒めきが告げるものは吉兆か、はたまたは凶兆の前触れか。
「まあまあナマエさん、大丈夫ですか!? そんなに慌ててどうなさったんです?」
「あ……ジーナさん」
 ナマエの切羽詰まった呼び声を聞きつけたらしいジーナが屋敷から飛び出して来て、ぼうぜんとした様子で地面に座り込んでいるナマエを見つけて血相を抱えて駆け寄ってくる。ナマエはもたもたと立ち上がっては服についた土埃を払い、ジーナに不要な心配をかけたことを申し訳なく思って小さく首をすくめた。
「ごめんなさい騒がしくしてしまって。なんだか妙な予感がして……ジーナさん?」
 ジーナの様子がおかしい。目の前の人が瞬きを忘れて凍りついていることに気付いて、ふと首を傾げる。
 ジーナの目線がナマエの頭上を滑っていき、虚空を見つめるその目がスローモーションのようにまん丸く見開かれてゆく。なんだろう? ナマエの背後になにか驚くようなものでも見つけたのだろうか。例えばドラゴンとか? ――まさか。
「ひ、ひええ……ナマエさんうしろ!」
 凍りついていたジーナの喉が、振り絞るように警告を発する。バッと勢いよく背後を振り返ると、巨大な影が目の前を覆った。
 息を呑む音。

「あれは、なに……?」
 金色の翼を持つ空飛ぶクジラが、そこにいた。
 ――これは夢だろうか。
 目の前に広がるお伽話のような摩訶不思議な光景を夢見心地で眺めながら、ナマエはそんなことを思った。だって一体誰が信じるだろうか。目の前に悠々と空を泳ぐクジラがやってきて、その背中から一人の男の子がひょいと軽やかに飛び降りてきた、なんて。
 少年は背に見えない羽でも生えているかのように、ふんわりと地面に着地した。風にあおられた亜麻色の艶髪が、もつれることを知らぬ絹糸のように切りそろえられた肩口のあたりへとさらさらと戻っていく。
 少年が立ち上がって、庭園の真ん中で突然の来訪者に言葉もなく固まっているナマエとジーナへと視線を向けてきた。
 確かめるように二人の顔を行き来する澄んだ空色の瞳が、ひたりとナマエを捉えた。

「――ナマエ、さん?」

 恐る恐るといった様子で呼びかけられた瞬間、ナマエははっと息を呑んだ。自分の名を呼んだ少年を、改めて見る。亜麻色の美しい髪と宝石のような青い瞳、まさか。脳裏に浮かんだ姿は。
「エレノアお姉様……?」
「ええと、その息子です」
 十六年前、ユグノアを襲った悲劇の最中別れたっきりだった姉の名前をぽつりと漏らす。その姉とそっくり生き写しの少年が、ナマエの呼びかけに困ったようにはにかんでそう告げた。
「……ああ神よ、なんてこと。奇跡だわ」
 その瞬間、こみあげてくる熱いものを抑えきれず、震える吐息を吐いた。
 分かっていた。予感はしていた。生きていたのだ。なんという僥倖だろう。
 ナマエは今見ている夢から醒めることを恐れるように、一歩ずつ、慎重に少年へと歩み寄った。少年もまたナマエの方へと近づいてくる。近くで見ると、意思の強そうな彼の目元が、見れば見るほど義兄にそっくりなことに気付いた。
「はじめまして、僕はイレブン。ずっとあなたに会いたかった」
 目の前に立ち、そう名乗った少年は静かに手を差し出してきた。澄んだ青い瞳が、この奇跡の再会に感極まったように潤んでいる。
「あなたを助けられて嬉しい」
「……はじめましてじゃないわ、イレブン
 ナマエは差し出された手をそっと取る。そのごつごつとした手の甲の感覚を確かめるように両手で握りしめながら、立派に成長した甥に彼女もまた涙を浮かべて微笑みかけた。
「あなたが生まれた日のことを、昨日のことのように覚えているわ」
 以前、この手を握りしめたときは、もみじのように小さくてふにゃふにゃと柔らかかったのに。もう、こんなに大きな手を持つ男の子へと育ったのだ。
「エレノアお姉様の腕の中で、小さなあなたが私に向かって笑いかけてくれた時、この世界にこんなに愛らしい存在があるのだということを初めて知ったの。……私もずっと、あなたに会いたかった。会いたかったわ、イレブン


 ――ドスン!
 感動の再会に水を差す物々しい振動が響いた。なにか落ちたのだろうかとびっくりして音の方を見ると、クジラの背から落ちてきたらしい見事にまん丸な体形の老人が、背負った大量の荷が邪魔なのかもたついた仕草でなんとか立ち上がったところだった。
「――っ!」
 老人の顔を目にした瞬間、ナマエはもう駆け出していた。
 老人――ロウは少しずれた帽子をいつもの定位置へと直し、乱れた口髭を整えるように捻って、そこでようやく駆けよってくる娘に気付いて慌てて両手をひろげた。
「お父さま!!」
「お、おおナマエナマエ! 我が娘よ……!」
 昔以上に立派に成長した腹めがけてナマエは父に飛びつく。およそ十六年ぶりの父と娘の再会。ナマエはぼろぼろと涙を零しながら大好きな父の首にぎゅうと抱きついた。昔と比べて少し背が縮んだだろうか。それでも昔とほとんど変わらない父の姿と声に、ナマエは今度こそ夢でも見ているのではないだろうかと目の前の現実が消えないように必死に縋りつく。
「お……っとっと、ふんっ!」
 老齢のため足腰が弱くなったのか、ロウは全力で抱きついてくる娘を少しよたついた仕草で抱きとめる。あやうくまた後ろへと転げそうになるも、父の威厳をかけてなんとか踏ん張ったようだった。
「ああナマエや、すまなかった。長い間寂しい思いをさせてまっことすまなかったの……。さあ、この父に顔をよく見せておくれ」
「お父様、おとうさま、おとうさま……!」
 ナマエはひっしと抱き着いたまま離れない。感極まってその呼び名を連呼する娘の背をロウは優しく撫でてやる。その懐かしくも柔らかな手つきに少し落ち着きを取り戻したナマエはゆっくりと顔をあげ、いまだ目の前の人物の存在を疑うかのようにロウの顔を凝視した。垂れ目の優しげな目元に、ふくよかなまあるい頬、立派な口髭。記憶にある父の顔と同じだ。
「お父さま……、これは夢ではない?」
「まだ夢を見る時間ではないぞい」
「分からないわ。今は本当は夜で、私はただ都合のいい夢を見ているだけかもしれない」
「むう、ではわしの頬をつねってみるがよい。痛みに飛び上がるぞ。わしが」
 ロウがおどけたように笑ってみせると、ナマエもつられて笑みを零した。その大きな鼻先にそっと触れる。昔から、家族のように大事に想っている人にのみ表すナマエなりの親愛の情がこもったしぐさだった。
 ロウは懐かしいその仕草に、目元にくしゃりと皺を寄せて微笑む。
「わしの鼻は大きいじゃろ?」
「ええ、相変わらず立派なお鼻ですね」
「そうじゃろうそうじゃろう。大きいことは、よきことじゃ」
 よくわからない理屈を述べてはロウはひとり満足そうに頷く。その横顔を感慨深げにじっと見つめ、ナマエは静かに口を開いた。
「……お父様」
「うん? なんじゃナマエ
 呼べば返事が返ってくる。
 その幸せを噛みしめながら、ナマエは長い時を経て自分の元へと帰ってきてくれた家族に、やっとこの言葉を告げられることを誰にともなく感謝した。
「生きて、またお会いできる日が来るとは夢にも思いませんでした。――おかえりなさい、お父様、イレブン



 ナマエが家族と感動の再会劇を繰り広げている間、それをじっと待っていてくれたジーナとイレブンの仲間たちには少し申し訳ないことをしてしまった。空飛ぶクジラ(ケトスと言うらしい)の背で待機していたイレブンの仲間たちの中に、あの亡くなったはずのマルティナ姫がいると知り、ナマエは美しく成長した彼女とひとしきり再会を喜んで、その興奮醒めやらぬまま名も知らぬイレブンの他の仲間たちにも『甥を支えてくれてありがとう本当にありがとう』と熱烈に礼を告げて回った。ようやく興奮が醒めてきたところで、なぜこの場所がわかったのかとイレブンに尋ねたところ、彼はなんとホメロスにナマエの居場所を聞き出して迎えに来たと言う。
 長い間待ちわびた迎え人は、甥だった。……ホメロスではなく。
 落胆の表情を隠し切れないナマエに向かって、よく聞いて、とイレブンは真剣な表情で話し始めた。
 ――事の顛末を、全て聞いた。
「では、ホメロス様は悪の魔道士の手先で、デルカダール王はずっとお身体を乗っ取られていたと……?」
「信じたくないだろうけど」
「いえ……」
 告げられた驚愕の真実に愕然としながら首を振る。十六年という長い歳月の間、デルカダールの民はずっと偽の王を戴いてきたというわけか。一見突拍子もない説だったが、しかし思い当たるふしはあった。毒を盛られたこと、ガルーダに攫われたこと。あの城で、幾度となくナマエを襲った危機。言われてみれば納得できる。デルカダール王は確かにナマエの死を望んでいた。毒も、誘拐も、おそらくは全てあの偽の王が仕組んだものだったのだ。
 ホメロスのことだって、ある時から人が変わったように冷酷になった。おそらくあの時から、魔物側に寝返っていたのだろう。だがいったいなぜ、何のために。
「ひとつ、聞きたいのだけれど、ホメロス様はご自身の意思で魔道士の手先となっていたの? ……今も、まだあなたと敵対を?」
「魔道士ウルノーガはもう倒した。ホメロスは、今はもう正気に戻っている。あいつがどういう経緯でウルノーガについたのかは分からないけど、……多分、王さまみたいに心の隙をつかれて、いいように操られていたんじゃないかな」
 確証はないけれど、とイレブンは自信なさげに呟く。
「そう、だったのね……」
 その言葉にこそ、ナマエは深く安堵した。よかった、ホメロスは自ら望んで魔物側についたわけではないようだ。心の隙をつかれ、取り込まれた。ならば、――ならば彼に逢いに行くことを誰に遠慮する必要がある。
イレブン、ホメロス様は今どちらに?」
「デルカダール城の地下牢だよ」
「連れていって」
 そうはっきりと告げると、イレブンは神妙な顔でしばらく押し黙った。
「会うの? あなたのことをずっと騙してきた男だよ?」
 澄んだ青い瞳が挑むように煌めく。イレブンの口ぶりから、おそらく幾度となくホメロスに苦い思いをさせられたのだろうことは察せられた。経緯はともかくホメロスが裏切り者であるという事実に変わりはなく、そんな彼に会いに行こうとするナマエの行動をイレブンはあまり快く思っていないようだった。
「……真実を知るのを怖がっていては、先には進めないわ」
「真実なんて話してくれないかも。また嘘をつかれるかもしれない」
 イレブンはさらに喰いついてくる。まるで賢者の試練のようだ。本当に真実と向き合う覚悟はあるのかという問いかけ。
 ――覚悟ならば、ある。
「嘘でもいい。私は直接あのひとから話を聞きたいの」
「向こうが会いたくないって言ってても?」
 一瞬、息が詰まった。
「そう、ホメロス様が仰ったの?」
「……会う気はないって」
「まあ、ひどい!」
 バツの悪い顔でそう告げたイレブンに向かって、ナマエは八つ当たりのように憤慨した。
「もう、正気に戻られているのでしょう。なのになぜ」
「……あわせる顔がないんじゃないかな、もしかしたら」
「そんなの関係ないわ」
 なぜ、どうして。ずっと待っていたのに。まさか会いたいと思っていたのはナマエの方だけか。あんな別れ方をしておいて、今更突き放すなど薄情にもほどがある。
 ……それとも、まさか彼がナマエを特別に想っているというのは思い違いで、ただ情けから助けてくれただけだろうか。乱暴を働いたことへの罪ほろぼし? けれどそれならば、どうして求婚などしたの。優しくしてくれたの。涙を拭ってくれたの。これだけ心を縛りつけておいて何も告げずに離れようだなんて、せめて一言、納得のできる言葉を彼から聞かなければ引き下がれない。
 ホメロスに拒否されたというショックは、次第にナマエを焚きつける燃料へと変わりつつあった。めらめらと良く燃える燃料だ。今やナマエは熱意の塊となっている。
 ちりちりと赤く燃えては弾ける星くずのようなこの感情は、久しく抱くことのなかった活気漲るものだった。ナマエを抑圧していたものは最早去った。もう息を潜めて生きる必要などない。
 ナマエは自由だ。どこへだって行けるし、したいことも出来る。
 そう気づいた途端、セピア色だったナマエの世界が一気に息吹を吹き返し、鮮やかに色づいていくようだった。山脈の深い碧、空の青さ、眼下に広がる緑の大地、伸びやかに流れる真っ白な雲。こんなにも世界は美しかっただろうか。深く息を吸う。わくわくと胸が踊った。こんな感覚は久しぶりだった。今ならなんだって出来る気がする。
「……いいわ」
 ナマエは決意した。世界を脅かしていた悪しきものは去った。家族とも再会が叶った。あとひとつ、ナマエが幸せになるためのピースが欠けている。
 昔から、御伽噺は『めでたしめでたし』で終わるのが不文律だ。王子様がお姫様を迎えに来て、二人はずっと幸せに暮らしましたとさ。幼い頃、本の表紙が擦り切れるまで何度も読んだ御伽噺の幸せな結末を、今も心のどこかで夢を見ている。
 だがナマエの王子様はお城に閉じこもって迎えには来てくれない。
 ――ならばお姫様から逢いにいけばいいではないか。
 簡単なことだ。この二本の足を動かして、彼の元へと駆け出せばいい。臆病な王子様を、白馬ならぬ白いクジラに乗って迎えにいくのだ。

「――いいわ、ならばなおさら私から会いに行きます。さあイレブン、参りましょう。デルカダール城へ!」
「い、イエスマム!」
 気迫のこもった号令に、イレブンはまるで尻を叩かれたかのように飛び上がり、慌てて出立の準備を始めるのであった。