拝啓、あの頃の僕たちへ




 ――ぴとん。冷たい石壁の隙間から滲み出た雫がまたひとつ、硬い床へと落ちて弾けた。
 水滴が落ちるのをなんとなしに数えはじめて、これで一体幾滴目の雫が石床へと吸い込まれていっただろう。それを虚ろな瞳で見つめる“彼”は先程からずっとそうしているように、ここに来た時と同じ体勢で何時間もこの暗い部屋の隅にうずくまっていた。床に敷かれた粗末なベッドに片膝を立てて座り、気だるげに膝頭に己の頭を乗せている。自慢の豊かな黄金色の髪は少し乱れがちで、自らデザインしオーダーメイドで造らせた双頭の鷲の意匠が映える白銀の鎧は、今はその身を飾っていない。
 簡素といえば聞こえがいい尻の下のベッドは実はただの板状にカットされた木材で、あまり使われていない端の方にはこの湿った空気ですくすく育った胞子の塊がにょきりと生えてきている。申し訳程度に用意されていた使い回しの毛布は数々の収容者の手垢でべっとりと汚れており、石壁には反抗的な罪人に架すための手鎖が打ち込まれてはいるが、鎖の先の手枷は解錠されたまま宙にぶら下がっていた。
 四方のほとんどを石壁に囲まれた決して快適とは言えないこの空間は、罪を犯した人を収監する地下牢獄だった。息を吸うと、地下特有のじめじめとしたかび臭い空気が肺の中に重く溜まる。採光窓も何もないこの空間で、もたらされる明かりは唯一壁にかけられた松明のみ。回廊にも等間隔で松明が設置されてはいるが、地下を支配する闇をすべて払うには圧倒的に光源が不足していた。薄暗がりからはチョロチョロと鼠の駆け回る音が聴こえてくるほど不衛生この上ない場所に、彼はまるで石像かはたまたは修験者のように微動だにせずいた。
 ふいに、遠くの方でかしゃりと格子扉が開く音が微かに響いた。音の方角からするに、上階へと続く一角だろう。かしゃん、とまた静かに扉を閉める音のあと、重い軍靴が石床を擦る音が聞こえた。どうやらこの牢獄への訪問者らしい。
 ざり、ざり、と規則的に響く足音がこちらへと近づいてくる。その重い足音の主を、彼は知っていた。ジャリ、と砂を踏む音と共に、彼が収監されている独房の前で足音がぴたりと止まる。俯きがちの視界に、ぬっと大きな影が入り込んだ。
 訪問者は明らかに彼を訪ねてきた者だったが、彼は頑なに顔をあげようとしない。じっと座り込んだまま無反応を貫いている。
 小さくため息が聞こえた。と思ったら、おもむろに足元に伸びていた影が動いた。この独房と自由な世界とを唯一隔てる格子扉。それが訪問者の手によって、キイ……と耳障りな音を立てながらいとも容易く開かれてしまった。
 訪問者の手に独房の鍵はない。
 最初から、鍵は開いていたのだ。

 部屋の主に許可なく侵入してきた礼儀知らずな訪問者にいよいよ彼は顔を上げた。座り込んだ態勢から見上げると、首が痛くなるほどの立派な体躯。そのすみれ色の髪と新緑色の瞳の持ち主を、はちみつ色の瞳がじろりと睨みつけた。
 訪問者、もといグレイグは不機嫌な様子の彼を意に介することなく、努めて朗らかに告げた。
「――ホメロス、気分はどうだ」
 そう、彼らこそはデルカダール国の守護者の象徴にして双頭の鷲という異名が国内外に広く知れ渡る二人の将軍たちだ。その二人が、自国の牢獄という異質な場所で顔を合わせている。
ナマエ様は無事保護されて、先程王城前に到着なされた。怪我もなくお元気でいらっしゃる。お目覚めになった王も、ようやく体調が落ち着かれたようだ」
 ナマエ、という響きにぴくりと金のまつげが震える。しかし相変わらず口を閉ざしたままの友に、グレイグは臆せず続けた。
「しかし不思議な少年だ。王に化けた悪の魔道士のことも、お前がナマエ様を匿っていたことも的確に言い当てた。イレブン殿は全て預言者なるものに導かれたと言っていたが、あれはほかに何か隠している気もするな。まあ預言者なる摩訶不思議なものの存在が出て来た時点で、俺たちの想像の域を遥かに超えるが。さすがは伝説の勇者といったところか。しかし目の前に空飛ぶクジラが現れた時は流石に度肝を抜かれたがな、ははは……は、」
 しん。笑いを取ろうとしたグレイグの目論見は脆くも崩れた。友の仏頂面は崩れることなく、から笑いだけ虚しく響く。再び重たい空気が戻ってきて、グレイグは流石に気まずげに口元を曲げて黙り込んだ。

 命の大樹で悪の魔道士ウルノーガの野望が儚く散ってから、およそ一日が経っていた。ひとまずは気の失ったままのデルカダール王の容態が懸念され、捕縛されたままのホメロスを連行して勇者一行はデルカダール城へと急行した。
 意識不明の国王が運び込まれ、長年行方不明だったマルティナ姫の奇跡の帰還、さらには自国の将軍が地下へと収監される騒ぎに、城の中は上を下への大騒ぎだった。幸いにも王はまもなく目を覚まし、記憶が混乱するデルカダール王と側仕えの侍従にロウが事の顛末を説明した。デルカダール王は立派に成長したマルティナをひとめ見て己の娘と気付き、無事親子の再会を迎えることができた。さあ物語は大団円へ、かと思えばそうはならない。親子の対面を側で見守ったイレブンは一息つく暇もなく牢獄に向かいホメロスからナマエの居場所を聞き出すと、騒然とする城内の処理をすべてグレイグに押し付け、奇妙な笛で巨大なクジラを呼び出してその足で仲間たちと共に文字通り空を飛んでナマエのもとへと向かっていった。それが昨日夜の出来事。
 ナマエを匿った場所は山間の分かりにくい場所だったため、探し出すのに若干手間がかかったようだった。どうやらイレブンはホメロスに道案内をさせるつもりだったようだが、それは頑なに拒んだ。この牢獄から出るつもりはない、と。なによりどんな顔をして彼女に会いに行けばいいのかわからなかったためだ。

「……おい、そろそろなんとか言ったらどうだ」
 己のジョークが不発に終わり、そわそわとしていたグレイグが焦れて黙り込むホメロスに発言を促す。
「こんなところでいじけてないで、早く顔を見せにいってやれ。王もお前のことをお待ちかねだぞ」
 いつものホメロスならば、『ふざけたことを抜かすな』と冷淡に斬って言い捨てていたところだろう。生来プライドの高い自分が、いじけている、などという未熟な態度を取ることを己に許すはずがない。だが実際グレイグの言う通りで、ホメロスは今ひどく自己嫌悪に陥っていた。
「おい、ホメロス。何とか言え」
「馬鹿か。会いに行けるわけがないだろう」
 あまりにしつこい追求に、ホメロスはとうとう溜息をついて重い口を開いた。
「なぜだ」
「なぜ、か。はっ、今更どのツラ下げて会いにいけと?」
 純真で無神経な質問にいらいらとする。今のホメロスの心情を、少しくらい汲み取ってくれる繊細さがこの目の前の友にあれば、と今ばかりは真剣に願わずにはいられない。
「本当に会わないつもりか?」
 しつこいな、とホメロスは舌打ちした。
「私はお前たちを裏切っていたんだ」
「洗脳されていたのだろう」
「意識はあった。やったことも、すべて覚えている。イシの村の住人を皆殺しにしようとしたことも、ダーハルーネで子供の声を奪ったことも、クレイモランでお前を陥れようと画策したことも。あれはすべて私の意思だ」
「ホメロス」
 己の中に確かにあった友への敵意を認めると、グレイグの男らしい太い眉が情けなく八の字に歪んだ。己の言葉が、態度が、無二の友を傷つけている。その自覚はあれど、長年のわだかまりであった友への嫉妬心を一度言葉に出してしまえば、もう胸の内にとどめることができなかった。
「軽蔑していいぞ。オレはお前が憎らしかった。オレを認めないこの世界が憎かった」
 はっきりとした口調で、ホメロスはそう告げた。ウルノーガに蟲を植え付けられてより、胸の内に隠していた嫉妬心と功名心をいいように利用され、気が付けば手のつけようのないほど憎悪の感情が膨れ上がっていた。
 とはいえ今はどうかと問われれば、あれほど生来の聡明な頭脳を鈍らせていた闇の感情はきれいさっぱりなくなっていた。ウルノーガの植え付けた闇の蟲は、既に命の大樹で勇者の力で祓われている。
 ホメロスは今、正しくはデルカダール国の刑法に定めるところの罪人ではない。というのも国王から恩赦が下ったためだ。
 自室で目覚めたデルカダール王が事の顛末を聞き、最初に口にしたのはイレブンとロウ、そしてマルティナへの謝罪だった。本人のあずかり知らぬところで国内外に広まってしまった悪魔の子説流布の抑止と勇者の名誉回復、いつの間にか荒れ果てた国内の秩序の回復を真っ先に臣下へ指示したあと、王はグレイグの隣にホメロスの姿がないことにすぐに気付いて彼の事を尋ねた。加害者の側面を持ちながらも、ホメロスもまた悪の魔道士に利用された被害者であると、彼の事情を知りそう判断した王は一切の迷いを見せずに恩赦を下した。その時点で、ホメロスが収監される牢の鍵は開かれたのだ。
 つまりこの暗くじめじめとして不愉快かつ不衛生な牢獄から、ホメロスの意思ひとつでいつでも出ていけるということだ。だがようやく正気に戻った彼は改めて己の歩んできた凄惨な道を振り返って、自分がもう二度と陽の下を自由に歩けるに値する人間ではないと判断した。ナマエを守るためとはいえ、そしてウルノーガの命令とはいえ、自国の人間をその手に掛けた。高潔であれと主君に誓いを立てた騎士が、いくら魂を闇に染められたとはいえ、平和に暮らす村人たちを虐殺するのになんのためらいも抱かなかった。幸いにも村人たちの命はグレイグによって守られたが、こんな危険な人物をあっさり赦してしまうデルカダール王は、大勢の無辜の民を守り国を統べる立場にある国王としてはいかがなものか。

「……なあホメロス」
 思考に沈むホメロスを、グレイグの声が引っ張り上げる。顔を上げると、真摯な新緑色の瞳がこちらをじっと見つめていた。
「まだ憎いか? 俺の事が、この世界が」
「いいや全く」
「ならば――」
 グレイグの言わんとすることを察し、ホメロスはハッと自嘲した。
「今が良ければ許される、か? そういう問題ではないのだ、グレイグ。私は、いわば世界を滅ぼそうとした大罪人だ。だのになぜ、お前たちはオレを生かしておく? なぜ許す。人が良いにも程があるぞ」
 そう、友も、王も、城の人間も、この手に掛けようとした村人たちですらも、みな彼の罪を許している。だがホメロスだけは自分自身の罪を許せないでいた。
「罪は償わねば。罪人は犯した罪相応の罰を受ける。それがこの国の法律だ」
 そう重々しく告げ、くしゃりと髪を握りしめて苦しげに呻く。
「いっそ、頼むから早く楽にしてくれ。斬首でも、なんでもいい」
 冷え切った暗い世界に突如として差し込んだ一条の光はあまりに強く眩しく、暖かさと慈愛に満ち溢れていて、逆にその優しさがホメロスから空気を奪う。ただ息苦しかった。許されるわけがないのだ。
「オレは自分が許せないんだ」

 ふいに太い腕が伸びてきて、ぐい、と胸元を締め上げられた。
「――いい加減にしろ!」
 突然の罵声にぎょっと目を見開くと、目を潤ませた幼馴染が険しい顔でホメロスを睨みつけているではないか。そのグレイグの激情がただ単に怒りからではなく、友への心配からきているものであることは、潤んだ瞳からすぐにわかった。
「世界を脅かす悪は去った! 王も、姫様も無事だった。お前も生きて、俺の元に戻ってきてくれた……! それがどんなに喜ばしいことか、お前には分からないのか!」
「グレイグ」
「俺はお前が元のお前に戻ってくれて嬉しいんだ、友よ……。頼むから俺の、この感情までをも否定してくれるな」
 友の嘆きに、目が覚める思いだった。
「だからそんな簡単に、殺してくれだなんて言わないでくれ……」
 グレイグの口調が弱くなっていくのに比例して、ホメロスの胸元を無造作に掴みあげていた太い腕が力なく落ちていく。己の無神経な発言が予想以上に友を傷つけてしまったのだと知って、ホメロスは少しばかり自省した。
 グレイグが自分を慮り、惜しんでくれていることは単純にありがたいと思う。それでも、やはり。
「だが、罪は償わねば」
「……ああ、償えばよい。お前の気が済むまで、いくらでも」
「どうやって。今までオレがやってきたことに、今更取り返しがつくとは思えない」
「償える方法が分からないから、だから死んで逃げるつもりなのか。そんなのはお前らしくないぞ」
 見え透いた安い挑発に、ホメロスはらしくなくカッとなった。
「貴様……、誰が逃げるだと!?」
 切れ長の瞳を眇めてかつて背を預けるに足る相棒だった男を睨みつける。グレイグはそんなホメロスの鋭い視線を真正面から受け止め、真摯な表情で小さく頷いてみせた。漆黒色の籠手を嵌めた手が、ぽん、と肩に置かれる。力強く、暖かな手だった。
「いいかホメロス、お前は道に迷っているだけだ」
「己の道に迷う軍師など、それこそ無価値だ」
 肩に乗せられている友の手を煩わしげに振り払おうとして、しかしホメロスは何故かそれができないでいる。
「誰にだって道に迷うことはあるさ。お前にだって完璧じゃないところのひとつやふたつあったっていいじゃないか」
「完璧でなければ生きている意味がない」
 苛立たしげにぼそりと早口で呟く。神童ともてはやされた幼少期から、完璧であれという呪縛が今もなおホメロスの中に巣くっていた。仮にも軍師がへまをして手の内を読まれては、名折れどころの話ではない。
「そんなことはないぞ。冷徹で聡明なデルカダールの軍師様が実は努力家で、結構面倒見が良くて、たまに小姑みたいに口うるさくて、気に食わないことがあればいつまでも根に持ったりするような意外な一面を持ち合わせていてもいいと俺は思うがな」
「……お前、オレを励ますつもりなのか、それとも辱めたいのか、どっちなんだ。いっそ悪意すら感じるぞ」
 グレイグの言葉に黙って耳を傾けるホメロスの眉間に、徐々に深い皺が刻まれていく。威嚇する猫よろしく今にも噛みついてきそうな友の様子に気付き、グレイグは慌ててうかつな己の口を塞いだ。
「す、すまん。どうも俺は口下手で。要するに等身大のお前が好きだってことを言いたかったんだ」
「口下手を言い訳にすれば、己の無自覚な発言が全て許されると思うなよ」
「ううっ」
 昔からこの男は、誠実だが良く言って繊細ではない、つまり無神経で後先考えずの発言を爆弾のごとくたまにぽろりと零しては数々の人間の心を吹き飛ばしてきた経歴がある。その犠牲の最たるがホメロスで、今回ばかりはそうそう許しなど与えてやるものかと今までの恨みつらみを込めて冷たく言い捨てると、グレイグは痛む心臓のあたりを抑え、猛省するようにがくりとうなだれてしまった。
 いい気味だ、とその様子を鼻を鳴らして眺めては、ホメロスもまた次第に自己嫌悪に沈んでいく。
「それに……誰だって道に迷うと言いながら、お前はいつだってまっすぐ前を進んでいたではないか」
 ん? と、ホメロスの言葉に反応して、グレイグが顔を上げた。
「ホメロスには、俺がまっすぐ進んでいるように見えたのか」
「見えた……というか、そうじゃないのか。実際」
「はは、たしかに目標ははっきりと見えていた。だが不安はあった。迷いもあった」
「嘘をつけ」
「嘘をついてどうする」
 自己嫌悪に沈んでいたかと思えば、突然嬉しそうな顔になって妙に喰いついてくる。いったい何なんだ、とホメロスが内心狼狽したとき、グレイグがおもむろに切り出した。
「なあホメロス、俺がずっとここまで進み続けることができた理由、なんだと思う?」
 新緑色の瞳がわくわくとして輝いている。ホメロスは舌打ちした。こんな顔をするときのグレイグは、大抵ろくなことを言い出しかねない。
「チッ、まどろっこしい言い方はやめろ。答えが決まっている問いかけなど時間の無駄だ」
「まったく、相変わらず短気だな。答え合わせくらいさせてくれよ。質問の答えだが、それはな、ずっとお前の背を目標に追いかけてきたからだ」
「は? ……冗談だろう?」
 すっかり疑心暗鬼のホメロスに、冗談ではない、とグレイグは大まじめな顔で告げた。
「俺がここまで進んでこられたのは、お前のおかげなんだ。幼いころからお前という絶対的な存在が側にいて、俺はお前を目標にするだけでよかった。お前は間違わない。やり方が正しいかどうかはともかくとして、お前のやること、言うことは全てに筋が通っている。お前は俺を導いてくれる光だった。少なくとも、俺はそう思っている。対して俺はお前ほど頭が回らないからな、ならば俺はせめてお前の補佐を務められる男でありたいと願い、この剣の腕を一心に磨いてきたんだ」
「それはお前が築き上げたオレの幻想だ」
 即座に友の妄想を斬って捨てると、むっとしたようにグレイグが口を尖らせる。
「それを言えばホメロスだってそうじゃないか。だいたい、お前の中の俺はどうなってるんだ? あれだけ俺の情けない実情を散々その目で見てきたくせに」
 グレイグの実情。そう言われて、はじめてホメロスは戸惑った。そうだ、目の前の男は軍神のように他の追随を許さぬ不可侵の存在ではないのだ。暗いところは苦手だし、虫を見れば声にならない悲鳴を上げてすくみあがるし、猫に絡まれては目を真っ赤に腫らす。恋愛ごとには臆病で、かと思えばムフフ本蒐集が趣味で、鎧を脱げばくそダサい私服で城内を闊歩する。そんなどうしようもない側面も持つ男だ。
「……あのみっともないステテコパンツは捨てたのか?」
「みっともないとかいうな。あれほど履き心地がいいパンツはめったにないんだぞ」
「お前……」
 真顔で力説され、笑い飛ばしていいのか、いやしくもデルカダールの筆頭将軍が身なりに気を使うことの重要性をこんこんと説くべきなのか分からなくなって、ホメロスは途方にくれて俯いた。昨日から予測不能な出来事が目まぐるしく起こって、脳内で情報の処理が追いつかない。遠い存在になってしまったと思っていた友は、実はすぐ隣に居て、しかも自分を目指していたんだとまで宣った。訳が分からない。つまり必死になりすぎるあまり、周りが見えなくなっていたのだ。互いに。
 グレイグは憔悴した様子のホメロスを気遣うようにしばし見つめ、そっと促すように声を掛けた。
「なあホメロス、悪夢は終わったんだ。お前の新たな道は王が示してくれる。王の恩赦は、お前の行いを全てなかったものにするためのものではない。罪を償う権利と機会を与えてくれたのだ。犯した罪の償う方法が分からなければ、俺と一緒に考えよう。もし俺では力不足だと言うのならば、お前にはもうひとり、一緒に償い方を考えてくれる人がいるはずだ」
「――ダメだ」
 もうひとり。グレイグの意味深な言葉に眉を顰めかけ、彼が言わんとしている人物に思い至ってホメロスは反射的に拒絶した。
「ホメロス」
「彼女だけは、ダメだ。もう、巻き込みたくないんだ」
 窘めるように名を呼ばれても、首を振って頑なに友の言葉を受け入れようとはしなかった。
 脳裏に過るのは昨日の出来事。命の大樹での、運命の分岐点。ウルノーガが倒れても、なおホメロスは敵愾心も露わにイレブンに対峙した。誰にもその生存を知られていないはずの彼女――ナマエの居場所を尋ねたイレブンをまるで親の仇か何かのように睨みつけ、自分から彼女を奪うつもりかと食って掛かったのだ。ウルノーガは消滅した。だがホメロスの魂を縛る蟲の呪いは未だ解けていない。イレブンたちも、まさか妙な蟲が巣くってホメロスの正気を奪っていることなど知る由もないだろう。
『やめろっ……、オレはこの力を失いたくない……! くそッお前の差し金かグレイグ! それほどにオレが邪魔か! オレがお前の隣に立つことすら許さんか!』
 瀕死の状態で捕縛され、なおも死に物狂いで抵抗を続けるホメロスの容態を危ぶみ、数人がかりでその手足を押さえつけてくる勇者の仲間たちを鬼の形相で睨みつけ、彼は最期の足掻きのように散々暴れた。
 その内イレブンの勇者の印が標のようにぽわりと光って、その光がホメロスの胸元を照らした途端、ひどい吐き気に襲われた。惨めに地面にはいつくばって吐き出したものは、小指ほどの大きさのおぞましい虫のようなものだった。細長い幾つもの節を持つ、まっくろな節足動物。死にかけなのかその動きは鈍い。
 ホメロスは己の吐き出したそのおぞましいものを茫然と眺めていたが、それでもなお執念深くも次の宿主を見つけるべくどこぞへ向かって這いずり出した時、プチリとイレブンがその虫のようななにかを踏み潰したのだ。その瞬間、呪縛は解けた。あれほどホメロスを苦しめたものを、イレブンはいとも容易く祓ってしまった。
 だがホメロスの中で育ち切った憎悪の感情がまだ残っている。憎悪を形作る基盤となるものを失い、行き場を失った膨大な闇の力に苦しむホメロスは、セーニャとロウの賢者の力によって解き放たれ、途端に胸の内を支配していた憎悪はきれいに消えた。
 きらきらと星屑のような癒しの光を全身に受けていると、なぜあれほど全てを憎んでいたのかさっぱりわからなくなってしまってホメロスはひどく困惑した。
 胸の奥には今や虚しさだけが残っている。

 ――その時だった。