月に恋したドン・キホーテ
-risoluto-
吹雪が止み、外へと出て丘を登ると、目と鼻の先にキャンプ地が見えた。積もった雪を踏み分けつつキャンプ地を目指していると、半分雪に埋もれたテントから人影が出てきて、こちらに気づいて手を振ってきた。青髪の男。あれはカミュか。
グレイグの前を行くナマエが手を振り返し、こちらを振り向いてほっと顔を綻ばせた。
「良かった、みんな無事みたいだね。早く合流しよう。あったかい飲み物が恋しいよ」
「……ああ」
クレバスの中での出来事を、何事もなかったかのように振る舞うナマエに違和感を覚える。不完全燃焼な想いを抱えているのは自分だけなのだろうか。
ナマエが真剣な話を茶化すような人ではないことは分かっている。だから彼女の言葉は本心だろう。けれど一歩を踏み込もうとして拒絶された感覚に、募るのは苛立ちともどかしさ。
到底手に入らぬと諦めていた高嶺の花が、もしかしたら自分に心を寄せてくれているかもしれない。しかし依然として目の前にそびえ立つ崖。彼女を手に入れるためにはこの崖を命がけで登らねばならない。崖の正体はナマエ自身の警戒心の高さだ。グレイグが想いを吐露した結果拒絶されて傷つくのを恐れているように、彼女もまたそうなることが怖いのかもしれない。
ナマエはグレイグに好意を抱いている。恐らく、これは間違いない。
……だがもし、それが恋慕ではなくただの敬慕だったら? 勘違いのまま先走っては、結果彼女を傷つけることになりかねない。
己の所業で人が傷つくのはもう見たくなかった。ただでさえ機微に疎いのだ。単なるリップサービスである可能性もあり、十代半ばの青二才ならいざ知らず、いい歳をした大人が敬慕を恋慕と勘違いするのだけは避けたい。
考えれば考えるほど深みに嵌っていく。どう動けばいいのだろう。いっそ動かなければいいのか――。
……ああ、ぶつかる痛みも顧みずに無鉄砲に走り回った少年時代が懐かしい。
今こそあの時の勇気と行動力と、大胆さが必要なのに。
悶々としながら無言で足を動かすこと少し、にやにやと意味深な笑みを浮かべたカミュがグレイグとナマエを出迎えた。
「生きてたか二人とも。心配したぜ」
「すまん、後ろからホワイトパンサーに襲われてな。あの吹雪で皆と逸れてしまった」
「なんだ、本当に遭難していたのかよ。二人そろって急に姿を消したから、てっきりどこかでしけこんでやがるのかと思ったぜ」
カミュは記憶が戻ってからというもの物言いに遠慮がない。若干際どい発言は冗談とはわかっていたものの、今の自分にとっては笑い飛ばすことも目の前の若者を叱ることも出来る余裕もなかった。むしろそうであれば良かったのに、という思いがどんどん膨れ上がっていく。
「カミュ……? ふざけたこと言ってると怒るわよ」
「おっとこえー。だが後ろのおっさんが否定しないあたり怪しいな」
「は!? ちょっとグレイグも黙ってないでなんとか言ってよ。別になにもなかったわよね!?」
グレイグとの関係を必死に否定するナマエに募るのは、小さな苛立ちだ。
「……何もなかった。残念ながらな」
不甲斐ない己に向かって吐き捨てるように告げる。凍りつくナマエをそのままに、カミュの横を通り過ぎてテントへと向かうと、後ろで「残念ながらって何!?」と混乱したようなナマエの声が響いた。
翌朝、快晴の下キャンプ地を出立した。
途中、山道手前で復活した古代の邪悪な魔竜ネドラに襲われたものの、間一髪のところで現れたセーニャに救われた。残る仲間はあと一人、双賢の姉妹が片葉、ベロニカだ。再会の挨拶もそこそこに、一行はラムダを目指した。
聖地ラムダは、大樹の麓にある街にしては一見被害は少ないように見えた。が、よく見てみるとやはりあちこちに大樹崩落時の爪痕が残されている。生まれたばかりの赤子を失って嘆く夫婦。親を失い呆然とする子供。悲しみに沈む街の静寂を乱さぬように、静かに街中を探索する。確かにこの近くに姉の気配を感じる、と言うセーニャに導かれ、北にある静寂の森へと足を伸ばした。
――待ち受けていたのは、ベロニカの死という厳しい現実だった。大木の根元に身を預けて、永遠の眠りに包まれる少女の傍らに残された杖は唯一の形見だ。その杖から伝わってくるのは彼女の最期、彼女の想い、彼女の願い。
ベロニカは最後まで諦めることなく仲間に希望を託し、散った。
やはりグレイグを救ったのは単なる奇跡ではなかった。ベロニカという尊い命を犠牲にして、自分は生かされているのだ。
ふいに足下がぐらついた。失ったものはあまりに大きい。亡くなった少女の無念さを想い、喉が詰まった。
だがセーニャやイレブンを差し置いて悲しみに暮れるのはお門違いだ。少女の為にグレイグが出来ることはただ一つ。魔王を倒す、世界に平和を取り戻す。それこそがベロニカへの弔いとなる。
誓いを立てる代わりに、ラムダに伝わるという鎮魂の習わしに則り、髪を一房切り落として聖なる火の中へと投じた。
「……ベロニカ。君が繋げてくれたこの命、決して無駄にはしない」
同じように一握りの髪を手向けたイレブンが、厳かに告げ空を見上げた。
「皆さま、本日は私の姉、ベロニカのためにお集まりくださり、本当にありがとうございます――」
失意の底にいる両親に代わり、葬儀の挨拶を述べるのは亡くなったベロニカの双子の妹セーニャだ。彼女は片葉を失い、誰よりも深い衝撃を受けているはずなのに、動揺の一つも表に出すことなく粛々と姉を見送っている。
「あの子、強いね。大事な人を失ったら、私も彼女みたいに強くあれるかな……」
他の仲間に遠慮して、少し離れたところで皆を見守っていたナマエが憂いの浮かぶ横顔でそう独りごちる。
「心配ない。お前は強い、俺よりもよほどな」
似たような立場のグレイグもまた輪から離れ、腕を組んで葬儀を眺めながらナマエの言葉に続く。何か言いたげな彼女の視線が一瞬こちらを窺って、また前へと向いた。
己の言葉に含まれた棘にはグレイグは気づかない。一見突き放すような言葉の裏で、ある考えに囚われていた。
魔王を倒すという使命のもとに集った仲間達だ。行く先には常に危険が付きまとい、全員が明日を無事に迎えられるという保証もない。無論仲間を守って死ねるのなら本望。もし仮に自分が欠けても、ナマエはグレイグがいなくとも問題なく生きていけるだろう。
……逆に、ナマエを失ったら――?
考えるだに恐ろしい。
夜の道を照らす月がなくてはならないものと同様、彼女はグレイグにとっての月だった。
いや、月ではない。女神ですらない。
いつでもグレイグの隣にいて、少し生意気そうな笑顔で冗談を飛ばしていてほしい。敵に立ち向かう時の勇敢な横顔。照れを隠したい時にちょっとだけ尖らせる唇。彼女の仕草や癖はこの目が全部覚えている。それくらい、飽きずに見つめ続けた。
もしこの世から彼女が失われたら、きっともう、一歩も歩き出せなくなるに違いない。
「皆さま、おはようございます。よく眠れましたか?」
「セーニャ、その髪……」
「ふふ、自分で切ってみたのです。変ではないですか? この通り、髪もさっぱりしましたことですし、気持ちも新たに参りたいと思います」
それぞれが痛みと悲しみの夜を過ごした翌朝。一行の前に現れたのは、表情も髪もすっきりとしたセーニャだった。髪とともに姉への未練をばっさりと切り捨てた彼女の瞳には強い決意が宿っている。
「改めまして皆様、よろしくおねがいいたします」
にこりと微笑んでセーニャは深々と頭を下げる。殊勝な態度とは裏腹に、少女の目元が赤く腫れている事には誰も触れることはなかった。
イレブンはどうやら昨晩は夜更かしでもしたらしい。未だ降りてこない寝坊助を宿の小さな談話スペースで待っていると、宿に長老がやってきて、大聖堂の奥にある山頂まで来るようにと告げた。長老を待たせるわけにもいかず、イレブンのことはセーニャに任せて皆で山頂へと向かう支度をする。
「あっ、ナマエ様は少し残っていただいてよろしいですか?」
宿を出ようとした時、不意にセーニャがナマエを呼び止める。振り返ったナマエは怪訝そうにしつつも了承し、外へ出ていた仲間へ先に行くようにと促した。
「……お呼びだてしてすみません。実はナマエ様の胸のあたりに、気になる影が見えるのです。あちらで少し見せてもらってもよろしいでしょうか?」
彼女と入れ違いでグレイグが宿を出る瞬間、背後から聞こえてきたセーニャの真剣な声に思わず振り返った。扉の隙間からセーニャとナマエの背中が一瞬見え、ぱたん、とマホガニーの分厚いドアにその光景を遮られた。
一足先に向かった勇者の峰から見下ろす景色は、禍々しい魔王の城さえなければ素晴らしいの一言に尽きた。だが頭の中を占めるのはナマエのことばかり。先ほどのセーニャとの会話が気になって仕方がなかった。影とはなんなのか。
完全に心ここにあらずの状態で立ち尽くすことしばし、ややあって一人で山道を登ってくるナマエの姿を認めてほっと息をついた。
「おまたせ。イレブンは今起きたみたいだから、もう少ししたら来ると思う」
皆と合流したナマエは普段と変わらぬ様子だ。その様子から、セーニャの用事は大したことではなかったのかもしれないとも考えた。或いはナマエが平静を装っているか。
どうしても先ほどのセーニャの言葉が引っかかるグレイグは、皆に聞こえぬように小声でナマエに耳打ちした。
「セーニャにいったい何と言われたのだ?」
「ん? ああ、別にたいしたことじゃない」
「……そうなのか?」
「大丈夫。ちゃんと見てもらったから」
ぽん、と拳で胸元を軽く叩かれる。ナマエはグレイグを安心させるように笑いかけ、向こうの方で長老の語る神話に耳を傾けている仲間たちの元へと向かっていった。
うまく逃げられた、と気づいたのは次の日の朝。
勇者の峰で釣り上げた白いクジラ――伝説の神の乗り物ケトスに乗ってまず向かった先は、天空に浮かぶ神の民の里。太陽の神殿で聖なる苗木が見せたいにしえの記憶に導かれ、先代勇者の軌跡を辿り新たな勇者のつるぎを作るために世界を巡る。
天空の古戦場ではつるぎの鉱石であるいにしえの神の金属オリハルコンを、サマディーではつるぎを鍛えるための大地の精霊の力が宿りしガイアのハンマーを。残るは伝説の鍛冶場が封印されているというヒノノギ火山。
呆気ないほどに順調に進む行程に、グレイグは少し懸念を覚えた。うまく行き過ぎている。敵方の邪魔が入らないのは妙だ。長年彼の軍師の相棒を務めたグレイグだからこそ気づく違和感。六軍王のうち既に四体破っているとはいえ、あの男がこちらの動向を把握していないはずがない。だが北の荒海で対峙したジャコラにいたっては勇者が生きていることすら知らぬようだった。敵方の連携がうまくいってないのか。わざとこちらを泳がせているのか、あるいはよほど余裕があるのか。
不気味なほどに旅が順調に進んでいることに、いくばくかの胸騒ぎを覚えた。
活火山であるヒノノギ火山の入山を管理するのは山の麓にある村、ホムラの里だ。この里で、一行はひとつの悲劇的な死を見届けることとなる。
里の長である巫女ヤヤクは秘密を抱えていた。それは火竜の呪いにかかった息子ハリマのことだ。彼ら親子が人食い火竜を退治した際、火竜の呪いを浴びたハリマもまた新たな火竜へと変じ、ヤヤクはそれをハリマは死んだものとして里の者たちから必死に隠し通そうとした。息子の呪いを解く術を探す一方、人の血肉に飢えた火竜を宥めるべくヤヤクが出した答えは村人から生贄を出すこと。しかし火の神への捧げ物と偽って贄を捧げようとした目論見は、イレブン達がヤヤクの秘密を暴いたことにより失敗した。村人たちに火竜が生きていることがばれ、さらには空腹に耐えかね里を襲撃した火竜を庇ったヤヤクは自ら身を投げ出し、喰われた。
ヤヤクが息子を助けたいあまり、村人を犠牲にしようとした行為は許されるものではない。が、その心情は痛いほどに理解できた。最愛の息子を失いたくないという必死な思いが理性と判断を狂わせたのだ。結果としてヤヤク自身が生贄となり、暴れまわる火竜を前に退治するしか術がなく、皮肉にもヤヤクとともに飲み込んだやたの鏡が人食い火竜の呪いを解いた。呪縛から解放されたハリマは母を食らった記憶を思い出すことなく、母の幸せを願って満足するように逝った。
いったいヤヤクの犠牲とはなんだったのだろう。
もし、ヤヤクが最初から事情を打ち明け、素直に助けを求めてくれれば、今この場で親子は対面できたのだろうか。所詮は憶測の話だ。だがヤヤクは、たとえ一言でも息子と言葉を交わせればそれでよかったのかもしれない。
なにが最善だったのだろう。どうすれば後悔せずに済んだのだろう。後味の悪さだけが残る結果に、皆黙ってハリマの命が燃え尽きるその瞬間を見届けた。
――だが立ち止まっている暇はない。前へと進まなければならない。
隣に立つ人をちらと窺う。憂いを含んだ横顔が、流れ出る溶岩の赤々とした光に照らされていた。
手を伸ばせばすぐ届く距離にある大切な人。彼女へと伸びそうになる己の手を戒め、グレイグは前を向いてぐっと拳を握った。
「……ナマエ」
「なに?」
「後で話がある。聞いてくれるか?」
常にない真剣な声色にナマエは躊躇いつつ、分かった、と頷いた。
もう、傷つくことを恐れて立ち止まってはいられない。
後悔することのないよう。この一瞬一瞬を大切に生きねばならない。
それが残されたものの使命だ。
ヤヤクの側仕えであった老女が記憶していた伝承に倣い、ヒノノギ火山の山頂にて神の民の里で入手した聖なる種火を火口に向かって投げ入れる。煮えたぎるマグマが割れ、せりあがってきたその台地に、伝説の鍛冶場が現れた。
これでようやく新たな勇者のつるぎを打つことができる。
「よーし、やろうぜイレブン! 魔王のヤツをぶっ倒すため、ここで新たな勇者のつるぎを作るんだ!」
気合の篭ったカミュの言葉に頷き、皆勇み足で冷えた溶岩が作り出したでこぼこ道を進みはじめた時のことだった。
うっ、と急に背後で苦しげな声が上がった。と共に、ドサリと重い荷物が地に落ちるような音が複数続いた。
「な、皆どうした……ぐっ!?」
仲間の異変に気付いてグレイグが背後を振り返ろうとした瞬間、ヒュッ、と空気を裂く音とともにうなじに鋭い痛みと衝撃が走る。うなじに回した手が触れたのは鋭利な凶器。ぐっと歯を噛みしめ、皮膚の奥深くまで刺さったそれを引き抜き正体を確認した。どくばり。急所を突けば即死に至る恐ろしい暗器だ。他の仲間を襲ったのも恐らくこれだろう。皆道の途中でうつ伏せに倒れ、ぴくりとも動かない。グレイグは手元の凶器を握りしめ、仲間を背中から襲った卑怯な犯人を力いっぱい睨みつけた。
「……いったい、一体これはどういうことだ、ナマエ!?」
背後で静かに佇んでいたナマエは、グレイグの罵声にそっと瞼を伏せる。
疑惑が確信となった瞬間だった。信じられない思いでナマエを凝視する。一歩踏み出そうとして、足先にしびれが走りその場に膝を屈した。どうやらどくばりの先端にどくがのこなが念入りに仕込まれていたらしい。倒れた他の仲間は微動だにしない。まさか全員致死に至ったか――。
混乱しながらもなんとか状況を把握すべくめまぐるしく辺りの様子を窺っていると、ふいにバサリと頭上で羽ばたく音がした。頬に掛かる風圧。顔を上げ、火口から降りてきたものの正体にグレイグは言葉を失った。
「ほお、うまくやったか。いい子だナマエ、褒めてやろう」
「――ホメロス!?」
かつて崩壊したデルカダールの玉座の間で垣間見た、幼馴染の変わり果てた姿。おぞましい魔物と化した親友がナマエのすぐそばに降り立ち、こともあろうに親しげに彼女に声を掛けているではないか。つまり、最初からナマエはこの男の。
「な、なぜ……何故だ、ナマエ!? なぜその男がここにいるのだ! ちゃんと俺に分かるように説明しろ!!」
「……ごめんなさい」
裏切ったのは彼女のくせに、なぜかナマエは傷ついたような顔でグレイグを一瞥し、顔を伏せた。それがさらにグレイグの苛立ちを促す。駆け寄って問い詰めたい衝動に駆られた。だが痺れに冒されたこの体は言うことを聞いてくれず。
「せっかく盛り上がっているところを、邪魔をしてすまなかったなグレイグ。だがお前たちに新たな勇者のつるぎを作られては困るのだよ」
魔に染まった男は姿を魔物から人間へと変じ、敵の奸計にまんまと嵌った間抜けな幼馴染を下卑た笑みを浮かべて見下ろしている。グレイグは一度ホメロスを鋭く睨みつけ、そしてその視線を横で所在なく佇んでいる女へ移した。
「まさか、そういうことか? ……いつだ。いつから我らを裏切っていたのだ? ――答えよ、ナマエ!」
罵声に、ナマエが小さく肩を揺らした。
「クク、傷ついたのか? 可哀想になぁ。だがそうやって相手の事情もよく知ろうとせず、すぐに頭に血が上って糾弾する……。昔からお前はちっとも変わらんよ」
まさしく手も足も出ないグレイグの醜態を眺めて愉しそうに喉をならしたホメロスは、見せつけるようにナマエの肩を抱きよせた。衝撃的な光景に頭が真っ白になり、ナマエが一瞬見せた耐えるような表情には気づく余裕すらない。
「ナマエは我が手駒、オレが仕掛けた埋伏の毒よ。仲間の振りをさせ、お前たちの油断を誘って罠に陥れるためのな。まぁここまでお前がこの女を信用するとは思わなかったが……、本当にお前は女に甘い。出自も不明の女に肩入れするなど……。近づいてくる女には気を付けろと私があれほど口を酸っぱくして忠告したのに、全く聞き入れもしないのだな」
「ぐっ、だまれホメロス……!」
「そもそも不思議だとは思わなかったのか? あれだけ破壊の限りを尽くされた城から女傭兵ごときが生きのびるなど」
ホメロスは反論する気力もないグレイグを冷たく一瞥した後、ナマエの顔を覗き込み、その華奢な顎を黒い爪先でぐいと持ち上げた。
「なあナマエ。魔物の一撃を食らい、死にかけだったお前を誰が助けてやったか、覚えているか?」
「……はい」
「ナマエ……、嘘だと言ってくれ。頼む……」
「ならばそこの男に教えてやるといい。誰に助けられたのかを」
「ええ。危ないところをホメロス様に助けていただいたの。とても感謝しているわ……」
虚ろな目がグレイグを捉え、そうはっきりと告げた瞬間、破裂寸前だった心臓にとうとうユダのナイフが突き立てられた。声が出ない。認めたくない。愛した人が、まさか裏切り者だなどと……。
「――とでも言うと思ったか、この自惚れ屋め! 人の心臓に罠をけしかけておいてよく言う!」
「なっ」
不意に覇気に満ちた声が響いて、絶望に沈むグレイグを引き留めた。顔をあげると、いつの間にか二人の形勢は逆転し、ホメロスの背後を取ったナマエがその首を必死に締め上げどくばりを突き付けている。
「くそっ、離せ虫けらが!」
「よく聞けゲス野郎。あんたの取引に応じたのはあくまで街の人を助けるため、それ以上でも以下でない。一度は騎士に憧れその道を目指し、諦めた。だけどグレイグは言った。勇気があれば、信念があれば、そいつはもう立派な騎士だって! ……あんた、いつも傭兵を下に見ていたね? 分かるよ。傭兵の中にも卑怯な奴らは沢山いる。けどね、親友をこんな風に貶めて、悲しませて、足蹴にして楽しんでいるあんたは世界一の卑怯者だ!」
「ちいっ、黙れドブネズミが! 何も知らぬくせにキイキイと喚くな!」
裏切ったはずのナマエが、何故かホメロスに歯向かっている。首元に喰いつくナマエをホメロスが必死に引きはがそうとしている光景をグレイグはしばらく茫然と見つめ、ハッと我に返った。これはつまり。彼女はホメロスの手先では、ない。
「ナマエ……その男から離れろ!」
「なんでも思い通りになると思ったら大間違いよ! あんたの手には乗らない!」
「バカなヤツめ! ならばそこの負け犬どもと共に心中するがいい!」
ホメロスの手がガッとナマエの顔面を乱暴に掴んだ。咄嗟に引きはがされまいと彼女は男の腕に両手で抱き着く。顔面を抑える指の隙間から覗くその瞳には、グレイグに腕相撲で勝負を挑んできたあの時のような気迫が宿っていた。どんなどん底にあっても、決して諦めずに勝機を窺うしたたかさ。彼女は自らの勝利を確信している――。嫌な予感にグレイグの全身が総毛だつ。一体ナマエは何をするつもりだ。
「いいえ、そうはならない。あんたは今日ここで私と死ぬの。道連れは私一人で十分。最初から差し違える覚悟だった。――さあ、あんたがこの心臓に仕込んだメガンテの威力、たっぷり味わってよ!」
「ナマエよせ! やめてくれーっ!!」
瞬間、彼女の胸元で膨れ上がった魔力が暴発し、目を開けていられないほどの閃光が襲いかかった。