月に恋したドン・キホーテ
-cantabile-
視線の先で、王とその愛娘が仲睦まじく言葉を交わしている。幾度も夢に見た光景が今目の前にあるという事実に、言葉にできない深い感動を覚えた。
その光景をつまみに手元のジョッキをぐいと煽る。今宵の酒はやけに美味く感じた。
マルティナ姫との再会を果たし、一行は一度イシの村へと帰還することにした。姫の無事を王に知らせた方が良い、できれば顔を見せてあげてというナマエの言葉にイレブンは頷き、その足で村へと飛んだ。
娘の姿をひとめ見て、王はこわもての顔に涙を浮かべて歓喜した。
十六年の隔たりを埋めるようにしっかりと抱擁する親子の姿に、グレイグもまたもらい泣きをしてしまった。こういう感動系にはめっぽう弱い。
その後すぐにでも出発しようとした一行だが、呼び止められ砦の人々の計らいにより急な祝いの場が開かれた。有り体に言えば、姫さまおかえりなさいパーティーというやつだ。マルティナの帰還にデルカダールの兵たちもまた喜びに湧いており、一人の兵士が歓迎の意を表したいと言い出したのがきっかけらしい。
テーブルやら樽やらを広場に持ち込んで即席の宴会場を作り、皆が張り切って宴の準備を行った。カミュの記憶は相変わらず戻らないが、元々得意だった料理を率先して手伝ったりなどしてそこそこ楽しんでいるようだ。
ゾルデを倒してからこの地方の魔物たちの勢いが落ちたことで滞っていた流通も回復しており、物資も以前より余裕があるのだろう。テーブルの上には沢山の食事が並び、なんと樽いっぱいのエールまで供されている。
ぴょろろ、と調子っぱずれの笛の音が響いた。君主親子の方に向けていた視線を音の方へと向ければ、シルビアの笛をイレブンが一生懸命吹いている。皆が楽しそうに盛り上がっている様子を満足げに眺めていると、隣に座っていた男がふらりと席を立った。その空いた椅子にひょいと腰を下ろした人物の顔を見て、酔いが一瞬吹き飛んだ。
「お姫様と話ししなくていいの?」
「ナマエ」
名を口にした瞬間、心臓が跳ねた。何故。彼女の前でまた失態を重ねはしないかと、緊張でもしているのだろうか。
ナマエは片手に持ったジョッキを持て余しつつ、つい先ほどまでグレイグが眺めていた方へと視線を向けている。その整った横顔を見つめていると、ふとナマエがこちらを振り返って微笑んだ。
「十六年間も行方知れずだったんでしょ。積もる話もあるんじゃない? 傍に行ってあげたら?」
「ああ、だが今は王が優先だ。親子水入らずの時間を邪魔してはいかん」
「律儀だね、相変わらず」
と、少し呆れを含んだため息。
「……お姫様と、仲よかったの?」
「ああ、姫さまがお生まれになった時より、王に守役を仰せつかった」
「へえ、生まれた時から一緒かぁ……。じゃあ、一緒に遊んであげたりとかしたの?」
「うむ、僭越ながら遊び相手を務めさせて頂いた――というか、まあアレはほとんど振り回されていたようなのものだが。一度スライムをペットにしたいと言い出された時には、どうしたものかと頭を悩ませたな」
「ふふっ」
肩をすくめて笑いを零したナマエが、ふと何かに気を取られたように顔を上げた。
「ほら、来たわよ。あんたのお姫様」
「ん?」
「お邪魔虫は退散するね」
などと意味深なことを口にしながらおもむろに席を立ち、ぽん、とグレイグの肩を叩いてするりと人の輪を抜けていく。
待て、どういう意味だ。追いかけて問い詰めたい衝動に駆られる。だがそうする勇気もない。遠ざかる背を未練がましく視線だけで追いかけていると、ふと誰かが近づいてくる気配があった。
振り返り、慌てて立ち上がって敬礼する。
「姫さま」
マルティナはグレイグの堅苦しい態度を軽くあしらいつつ、ナマエが去って行った方が気になるのかそちらばかりを見つめている。
「彼女、行っちゃったの? 話をしてみたかったんだけど……。まさか私、避けられてはいないわよね?」
「それはないと思いますが、姫さまがおいでになると『お邪魔虫は退散する』などと妙な遠慮を見せておりましたな」
マルティナが眉根を寄せた。
「変な勘違いされてるじゃない。もうグレイグ、そこはちゃんと訂正しなさいよ」
「も、申し訳ございません……?」
なぜ叱られたのか分からないグレイグは内心で首をひねりつつも、ここでもまた謝ることしかできない。不満顔のマルティナに恐縮していると、不意に後方から声が上がった。
「――ちょっと、やだ……こないでよ!」
いったい何事か。切羽詰まった声に振り返ると、手に小瓶やら櫛やらを持ったシルビアに追いかけられるナマエの姿が。
「あぁんナマエちゃん待ってよぉ! ねえお願い、ちょっとでいいからこれ試してみない? 爪がつやピカになるわよぉ。アナタの爪、割れてて見てて痛々しいのよぉ……って、そんな全力で逃げなくてもいいじゃなぁい!? ねえ待って、せめてその適当にくくった髪をなんとかさせて? 髪は女の命! よ!」
「そんなこといって、私で遊ぶ気満々でしょ!? 顔が笑ってるもの!」
「うっふふぅそんなことないわよ? ねえ怖がらないで、アタシに全部任せてみて……?」
不思議な組み合わせの二人が目の前を過ぎていく。あちこちのテーブルを蜂のようにくるくると回りながら追いかけっこをする二人を呆気に取られつつ眺めていると、マルティナが急に二人に向かって駆け出した。
「姫さま?」
「楽しそう。私も混ざってくるわ」
一瞬振り向いたその顔に、かつてのいたずら好きの幼い姫君の笑顔が重なった。
「見て見てグレイグ、どう?」
得意顔のマルティナが再び現れたのは、それからおよそ四半刻後。マルティナとシルビアに取り囲まれるようにして立つ人はもしやナマエだろうか。俯いたまま顔をあげようとしないナマエの背をマルティナが促すように押せば、よろけて一歩前へと出た彼女がグレイグを反射的に見上げる。その相貌に、思わず視線を奪われた。
「ナマエ、か……?」
問いかけに、彼女は少し恥じらうように目線を逸らした。いつもと様子が違う。どこが違うのかははっきりとは分からなかったが、いつもより数段輝いて見えた。
頬はうっすら染まり、篝火の光を反射する瞳は濡れたように輝いている。アップにされた髪型は複雑で、どこをどう捻っているのかよくわからないが彼女によく似合っていた。唇はつやつやとして……、いやテカっている? 油でも付いているのだろうか。
いつもの勝気な雰囲気は鳴りを潜め、どことなく柔らかな雰囲気の彼女を前にするとやたらと心臓がうるさく騒いだ。こんな美しい彼女を誰かに見られでもしたら――。危険だ。
「どう? アタシとマルティナちゃんの力作よん。キレイになったでしょ」
「グレイグ? ぼんやり見惚れてないで、なにか言ったら?」
「ちょ、ちょっと二人ともやめて……」
二人の促しにハッと我に返り、慌てて何か言わねばと口を開く。
「き、キレイだぞ!? ……だが心配だ。そんなに美しくなってしまっては、良からぬ輩に襲われてしまうやもしれぬ。いや、決してお前を見くびっているわけではないが、やはり万が一のこともある。万全を期して、今宵はお前のそばを離れぬ方が良いな」
「な、なに言って……」
「それと少し言いにくいのだが、……さっきから、口に油がべったりとついたままだぞ。一体なにを食べたのだ? ふっ、お前も案外と抜けているところがあるのだな。良かったら、これで口を拭くといい」
親切心から手拭いを差し出すと、あちゃあ、とシルビアが天を仰いだ。
「――油ぁ?」
凄味の効いた低い声が目の前の人から発せられた。ひっと息を詰めて声の主を顧みる。美女が恐ろしい烈女に取って変わった瞬間を、たしかにその時はっきりと見た。
急に伸びてきたナマエの手が、ぎゅ、とグレイグのチュニックを荒々しく掴んだ。腹のあたりでベルトで締められた厚手の布が容赦なく引っ張られる。そして。
「……お、おいなんだ? 待て、なにをする!?」
グレイグはぎょっとして声をあげた。ナマエは差し出した手拭いをまるっと無視し、グレイグのチュニックに顔を埋めて思いっきり顔を擦り付けている。彼女の顔を彩っていたさまざまな化粧粉やら油やらで容赦なく布地が汚れていく。
「こら、やめろ! お、俺の服をタオル替わりにするな!」
あまりの粗雑な扱いに耐えかね悲鳴をあげる。
と、ようやく顔をあげたナマエが、擦りすぎて赤くなった頬もそのままに噛み付いてきた。
「そんなダサい服、せいぜいがタオルがわりにしかなんないわよ!」
「なっ」
容赦のない言葉に胸を抉られる。
……まさか、もしかしてずっとダサいと思われていたのだろうか。一度浮かんだ疑問がぐるぐると脳内を回り始めた。
ダサい服、ダサい男。ダサい……。
彼女の言葉が呪いのように何度も蘇る。
想像以上の衝撃に二の句が継げないでいると、ナマエは一瞬顔をしかめたものの、すぐに踵を返して去っていってしまった。
「あれグロスって言うのよ……。油じゃないのよグレイグ……」
背後でマルティナが、疲れきった声でそう呟いた。
彼女にとって尊敬できるかっこよい男でありたいと願う気持ちとは裏腹に、ナマエを前にするとどうもヘマばかりしてしまう。今まで情けない部分は散々見せてきているはずなのに、なぜ今更になって体裁を気にし始めたのか。
己の心情の変化に薄々気づいていたものの、はっきりと意識したのはおそらくイシの村での一件がきっかけだろう。
ダサい、というたった一言に激震が走った。己に元々センスがないのは百も承知だが、それでも彼女はその広い心で許容してくれているものだとばかり思っていた。服のセンスを否定され、まるでグレイグ自身を否定された気分になったのだ。
それで、ようやく気付いた。
彼女に魅力的な異性として見られたいという自分の本心に。
彼女を女性として愛してみたいという欲望に。
単なる肉欲ではない。肉欲だけなら己の左手で事足りる。
ナマエの心が欲しかった。傷つかないよう守りたい。側にいて、困っているときに手を差し伸べられるような存在でありたい。と同時に、ナマエという存在がグレイグだけのために在って欲しいとも思う。
まぎれもない独占欲だ。
だが実際それは、空に浮かぶ月を欲するのと同じくらい愚かしい願いだということも分かっていた。
なぜならナマエは、グレイグを男として見ていない。
彼女の数々の態度からそう気付かされた。ナマエはグレイグに対してだけ態度に隙がありすぎる。初対面のシルビアには持ち前の用心深さを見せたくせに、自分に接する時に限っては距離感が近すぎるのだ。恐らく、完全に安全地帯だと思われているに違いない。『天に誓って俺は彼女に一切の疚しい感情を抱いたことはないし、これからもそうなることはないだろう』 今更になってイレブンへと宣言したことが悔やまれた。
誓いをそう簡単に翻す訳にはいかない。騎士としての言葉ならば尚更。
もしかして自分を男として見てくれるようになるやもという下心を隠しつつ、不用意に距離を詰めてくる彼女への警告の意味で、一度だけナマエをねじ伏せてみせようかとも考えた。勿論力加減を考慮してのものだが、そんなことをすれば彼女は脱兎の如く逃げ出してしまうに違いない。場合によっては、今の関係は修復不可能なレベルにまで拗れる。無論そんな危険は侵せない。
今のグレイグにできることは、ナマエにとってひたすら安全な止まり木であり続けることだけだ。
側にいて、せめて安心できるような男でありたいと願う。
幸いにもナマエはグレイグの数々の失態にも飽きれることなく、付かず離れずの関係が続いた。己の感情を殺し、ひたすらナマエを見守ることに徹したのが幸いしてか、イシの村での一件以降は反発は少なくなったように思う。
それによく考えたら、仮にナマエと男女の関係になれたとしても、それが永遠に続くわけではないと気づいた途端に気持ちにブレーキがかかった。グレイグはこれまで、男女の関係が長く続いた試しがない。人の機微に疎いため、言われずとも分かっているだろうという女性からの無言の圧力に萎縮し、グレイグから離れていくことが多かった。
ナマエともそうならないとは限らない。つまり、臆病風に吹かれたのだ。
情けない。図体だけは立派で、心は相変わらず故郷を焼かれたことをいつまでも引きずっている少年時代のままだ。英雄が聞いて呆れる。
肝心の旅の方はというと、仲間との再会も順調に叶い、敵の手に落ちていたオーブも少しずつ集まってきた。外海へと出て黄金に閉ざされたクレイモランへと向かい、魔に落ちたカミュの妹を救い出す。その過程でカミュもまた失っていた記憶を取り戻したようだった。
次なる目的地は聖地ラムダ。氷雪が吹き荒れるシケスビア雪原を抜け、ゼーランダ山への登頂に臨まなければならない。
実はグレイグは寒いところはあまり得手ではない。脂肪をなるべく絞っているせいなのか、体温を保つことが苦手なのだ。故に黄金の呪いが解けたクレイモランにて入念な準備をし、防寒具を着込んで雪原へと足を踏み入れた。
途中襲ってくる魔物をいなし、雪に足を取られそうになりながらも必死に前へと進む。残念ながら今日はいつも以上に天候が悪いようで、先程から横殴りの吹雪に襲われ視界も最悪だ。街を出たときには元気だった仲間たちもあまりの暴風と寒さに耐えかね次第に無言となっていき、イレブンの提案により本日はゼーランダ山への入山は諦め、手前のキャンプ地にてテント泊にすることにした。
この時点で視界は殆どホワイトアウトしており、シルビアが先頭を、グレイグがしんがりを務め、一列となって前を行く仲間の背を見失わないようにしつつ必死に雪を掻き分け前へと進む。
「ぐっ!?」
不意に背に衝撃が走った。ズシ、とのしかかってくる重みに襲われ、足元がよろける。耳元に獣の唸り声。ホワイトパンサーか。振り払おうとして背後を振り返った時、片足が深く積もった新雪を踏み抜いた。しまった、と思った時にはもう遅い。
咄嗟に上げた声は吹雪に掻き消され、ホワイトパンサーとともになだらかな丘の下へと音もなく転がり落ちていく。前を行くナマエの背を最後に映したグレイグの視界はぐるぐると回る真っ白な世界一色に染まり、そして暗転。
次に目を覚ましたのは、自分を必死に呼ぶ声が徐々にはっきりと聞こえてきてからだった。
「グレイグ……グレイグ……! 起きて!」
「……ナマエ?」
瞼を開けると、ぼんやりとした薄暗い視界に心配そうに上から覗き込む彼女の顔を認めた。どうやら膝枕をされているらしい。少し酔ったような気分の悪さはあったが、寝転んでいる状態から確認するに怪我はしていないようだ。
「良かった、やっと起きた。気分はどう?」
「あ、ああ、問題ないが、俺はいったい……。そうだ、ホワイトパンサーは!?」
気を失う前に魔物に襲われたことを思い出し、慌てて身を起こす。それを制したナマエが「もう倒した」と真っ白に染まる外を指さした。
どうやらここは、巨大な氷にできた亀裂――クレバスのようなところらしい。ナマエは雪原に転げ落ちた自分を追って、ここまで運んでくれたようだ。とはいえ壁一面をエメラルド色の氷で覆われた狭い空間だ、忍び寄ってくる冷気に当然体温は少しずつ奪われる。吹き荒れる外よりは幾分ましだろうが。
「俺を追ってきてくれたのか。皆は……?」
「はぐれちゃった」
軽く肩を竦めるナマエに申し訳なさが込み上げる。自分が背後にもっと気を配っていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「お前を巻き込んでしまってすまない。皆の元には戻れそうか?」
「大丈夫、落ちた場所はだいたい分かってるから。でも動くのは晴れてからね。この吹雪が止まないうちはここから外に出ないほうがいい」
彼女の提案にグレイグも同意した。可能なら拠点に戻った方がいいのだが、街に戻ろうにも生憎キメラのつばさは手元にない。暖を取ろうにも燃やせるようなものもなく、互いに身を寄せ合って寒さをしのぐしかなかった。幸いにも衣服はあまり濡れておらず、そのままの恰好で真正面から抱き合って互いの毛皮のコートで包まり温もりを分け合うことにした。
「俺とこうするのは不服だろうが、犬に噛まれたとでも思って我慢してくれ」
抱き合う際、僅かな躊躇を見せたナマエに言い聞かせるようにそう告げると、なぜかむっと唇を尖らせた彼女の方から積極的に抱き着いてきた。
「こんな非常時に不服もなにもあるわけない。あんたこそ変な遠慮しないで、寒かったらちゃんといいなさいよ。メラならまだ何回か唱えられるから」
「……天井の氷が溶けて落ちてきたら大変だから、それは最後の手段にしよう」
グレイグは真面目だったが、冗談だと思われたらしくクスリと笑われる。
抱き寄せた体は、やはりかなり冷えていた。心を寄せる人を腕に抱くという夢のような状況だが、疚しい気持ちは一切湧いてこなかった。ひたすら、少しでも早く彼女の体が温まるよう祈ってその華奢な体を抱きしめた。
抱き合ったまま、しばらく互いの呼吸音に耳をすませる。口から零れるは白い呼気。時折ぶるりと震える腕の中の体をぎゅうと抱きしめ背を摩ると、ようやく体温が戻ってきたようだった。
「グレイグ、……そっちの方、寒いんじゃないの?」
「問題ない」
ナマエがふと思い出したように口を開く。クレバスの裂け目はグレイグの背後にあり、外から吹いてくる風は全て己の背中で受け止めている。確かに背中は中々あったまらなかったが、腕の中のぬくもりさえあれば耐えられる程度の寒さだ。それよりも気になるのは。
「お前こそ、顔が赤い。風邪をひいたか?」
「ひいてない! ちょっと勝手に顔覗かないで」
どことなく赤い顔の彼女を覗き込もうとすると、慌ててグレイグの肩口に顔を埋めてしまった。
「……ねえそれよりもさ、なんか話してよ。じっとしているのは退屈なんだけど」
「なにか、とは……?」
「なんでもいいんだってば。例えば英雄グレイグの失敗談とか」
「う、む……失敗談か? いや、あるにはあるが、急に言われてもな……」
残念ながら、突然の無茶ぶりに利かせる機転は持ち合わせていない。彼女の期待に応えるべくしばらく頭を悩ませたものの、結局何も思い浮かばず。
「もう、気が利かないね。じゃあ私が話すわ」
軽く憤慨したナマエだったが、なにせ相手が相手だと悟ったらしい。すぐに気を取り直してそう切り出した。
「私が剣を取ったのは英雄グレイグに憧れたからだって話はしたよね? 最初にあんたを見たのは、十六年前のグロッタでのこと――」
極寒の地でしっかりと互いを抱き締めながら、ナマエの語るさまざまな話に耳を傾けた。
彼女の生い立ちから、デルカダールを訪れるに至るまで。なんとナマエはグロッタでのアラクラトロ退治の時のグレイグの活躍を見ており、その時に剣の道に進むことを目指したらしい。だが生憎、コネもツテもない彼女は騎士にはなることができなかった。一度遍歴騎士の従者になるにはなれたが、憧れていた高潔な騎士の姿はそこになく、酒や賭博、女に溺れる落ちこぼれ騎士の姿を見て幻滅したらしい。まあ使えるべき君主のいない騎士など野盗とほとんど変わりないのは、グレイグにとっても周知の事実だった。
「そうか、苦労したのだな」
ナマエの話に感慨深い溜息が零れた。彼女の道もまた決して平坦ではなかったのだ。
「それでもその高潔さを失わなかったのは、ひとえにお前の魂が清らかなためだろう」
「き、清らかって」
他意のない素直な感想だったが、彼女にとってはそうでもなかったらしい。動揺が腕から伝わってきて、自然と口元が緩む。彼女は案外照れ屋で、どうも照れを隠したい時に限って言動が荒くなることに、この頃ようやく気付いたのだ。
最初にナマエに出会った時、なんと強かな人だろうと思ったのを覚えている。彼女の激励は弱気になったグレイグを立ち直らせ、前へと進ませた。だが今思えば、ナマエもまた先の見えない未来に不安を募らせていたに違いない。彼女は弱みを見せなかっただけで、不甲斐ないグレイグを見限ることなく側に居てくれた。
「大樹が落ち、信念が揺らいだ時、一番最初に出会ったのがお前で良かったと思う」
「……あんたってたまにとんでもなくこっぱずかしいことを平気で言うよね」
「そっ、そうか? 思ったことを口にしたまでなのだが」
不貞腐れたような声に、彼女の機嫌を損ねたかとどきりとした。だがそれは杞憂だった。
「まあ、でも光栄よ。英雄さま」
こんな時でも余裕があるのか。おどけたような声色とともに、うふ、と零れる吐息にどうしようもなく女を感じる。押し殺した筈の彼女への感情が不意に蘇って、胸の中で暴れ出した。彼女は自分などに興味はないだろう。好意を示すのは迷惑になる。分かっている。だが。
これ以上は、堪え難い。
ぎゅう、とナマエを抱く両腕に無意識に力が入った。
「……グレイグ?」
「――以前、ゴリアテのような男が苦手と言っていたな?」
「え? ええ」
「では逆に、好ましいと思う異性は?」
「……異性? 私の?」
急な話題に戸惑ってか、ナマエはしばし言葉に迷っているようだった。困惑混じりの声に、沸騰しかけていた思考が逆にすっと冷えた。
「あ、いや。妙なことを尋ねてすまん。らしくないな」
忘れてくれ、と言いかけて、被せるように発せられた彼女の声に遮られる。
「――好きなタイプは真面目で優しくて、声が低くて落ち着いてて、笑顔が素敵で、強くて、弱いところもあるけど、でもそれをちゃんと受け入れているひと。あとたまに抜けてる、というか結構抜けてる」
「……やけに具体的だが、もしかして実際にいるのか? 好いている男が」
どくどくと逸る自分の脈の音が聞こえる。緊張に掠れた声で、絞り出すようにそう尋ねるのが精一杯だった。だがナマエの反応は鈍い。頑なに顔を隠そうとする彼女の顔が急に見たくなって、体を離そうとすると抵抗するように逆にますます強く抱きつかれてしまった。
「ナマエ?」
「それと、すごく鈍感」
くぐもった声の中でかろうじて聞き取れた言葉に心臓が痛いほど跳ねた。自惚れだと思われるだろうか。しかし、彼女の言葉に当てはまる男にグレイグは嫌という程思い当たりがある。
「ナマエ、もしやそれは……。いや、俺の勘違いかもしれんが、その男というのは――」
「晴れたみたい」
「え?」
「外」
急に切り出された言葉に戸惑っていると、ナマエが後方を指差した。その指先を視線で追い、眩しさに顔をしかめる。
いつの間にやら吹雪は止み、憎らしいほどの青空が亀裂の向こうに広がっていた。