月に恋したドン・キホーテ
-coda-




「……ちっ、服が汚れたではないか」
 光が収束し、最初に届いたその声に耳を疑った。きつく閉じていた瞼を開け、その目に映った光景に心臓が凍りつく。爆発の瞬間に防御壁を張ったのか、ホメロスはその体に傷一つ負うことなく先程と同じ場所に立ち、服に飛び散った血を忌々しげに振り払っている。
 ……そしてその少し手前で、うつ伏せで倒れている人。乱れた髪の一房が風にそよぐ以外はぴくりともしない。
 ああ、そんな、まさか。
ナマエ……ナマエッ!」
 ドクン、ドクンと逸る心臓。恐怖に喉が締め付けられた。痺れる下肢を引きずってまろぶように彼女の元へたどり着くと、血だらけのナマエを抱き起こす。だらりと脱力した四肢、蒼白い相貌。ナマエのその顔に浮かんでいたのは、なにかをやり遂げたものの満足げな表情。瞬間、グレイグの中で何かが弾けた。
趨勢すうせいを見誤った愚かな女だ。私が手駒の裏切りを予見していないとでも思ったか? はっ、威勢だけは良かったが、完全なる無駄死にだな」
「――黙れホメロスッ!!」
 彼女の死を侮辱する声をあらん限りの大声で遮る。ギリッと奥歯を噛み締め、グレイグは目の前に立ちはだかる敵を睨みつけて宣言した。
「これ以上、彼女の尊厳を踏みにじらせはしない……!」
「はは、一人でどうするつもりだグレイグ! オレに勝てると思ったか? いいだろう、完膚なきまでに叩きのめしてやる!」
 グレイグはぐっと唸った。ホメロスの言う通りだ。この孤立無援の状況で、一人立ち向かったところで結果は目に見えている。だが、あるいはあの方法なら。
 痺れて力の入らない体を叱咤し、ナマエの膝裏に腕を通して両腕で彼女を抱きかかえる。
ナマエ、お前は俺が絶対に助ける。だから、目が覚めたら真っ先に俺の話を聞いてくれ。そう約束、しただろう……?」
 彼女の耳元で囁くように誓いを立て、青ざめたその額にそっと唇を落とす。そして震える膝を励まして、グレイグは立ち上がって目の前の男を睨みつけた。視線の先では、腕を組んだホメロスが茶番でも眺めるかのように醒めた目でこちらを見下している。
「愛か? くだらない。寒気がするな」
「お前には一生分かるまい」
「分からなくて結構だ。……ああそうだ。お前との勝負も平行線のままだったな。丁度いい、今ここでどちらが優れているか決着をつけてやる。確か最後に手合わせした時は、……百九十九勝対二百敗だったか?」
「違う。二百一勝対百九十九敗だ。とぼけるなよホメロス」
「どちらでもいい。お前は今日ここで死ぬ。もうこの先お前はオレに勝つ機会はなくなる。……そしてオレは勝ち続ける」
「いいのか? 俺に二度と会えなくても」
「ほざけ。その間抜け面はもう見飽きたと言っているのだ。さあおしゃべりは終わりだグレイグ。来ないのならこちらから行くぞ!」
 言うが早いか、ホメロスは地を蹴って襲いかかってくる。
「……臆するなグレイグよ。俺は勇者の盾、イレブンを、皆を守る。大切な人を守る! そのためならば、俺は――」
 死すらも厭わない。自分を奮い立たせるように口の中で呟く。
 腕の中のナマエをしっかりと抱き寄せ、地面に伏せる仲間たちに目線を向けた。戦えば負ける勝負だ。だが勝機はある。どんな不利な状況にあっても決して諦めずに、形勢逆転を狙うのだ。今この場でグレイグが出来ることは、仲間たちへと希望を繋げること。両の足裏でしっかりと大地を踏みしめ、何者をも通さぬ鋼鉄の意思で向かってくる敵に対峙する。
「皆、あとは頼んだぞ……!」
 グレイグの口がある呪文を紡ぐ。
「――貴様、その魔法はッ!」
 その最初の一手が予想外だったのか、接近するホメロスの顔が驚愕に彩られたのをグレイグは見た。
 メガザル。自らを犠牲にし、皆を生かす究極の蘇生魔法。心臓が煮えたぎるように熱くなり、カッと内側から溢れた生命力が奔流となって迸る。意識が白む瞬間、腕の中のナマエに己の命を分け与えるようにきつく胸元に抱き寄せた。



 ……。
 ――夢を見た。平和な世界の夢。バンデルフォンもユグノアも滅びていない、魔物に脅かされることのない世界だ。黄金色の海の中にぽつぽつと佇む影は故郷の素朴な風車小屋。風に回る大きな帆、どこまでも広がる小麦畑。もしかしたらあったかもしれない夢の世界で、自分は鍛冶で生計を立てて暮らしているのだ。自ら鍛えたものを城下に下ろし、商売が終わった後は顔なじみに誘われて一杯だけやってから帰路につく。小麦畑の向こうの小屋で自分の帰りを待っている妻の顔を見るのが待ち遠しい。勝気に輝くその瞳が自分を映して愛おしそうに煌めき「おかえり」と毎回出迎えてくれるから、グレイグは嬉しくなってその額にキスを落として「ただいま」と告げるのだ。
 ああ、早く彼女の元へ帰りたい。沈む夕陽に燃える小麦畑を横断するあぜ道を急ぐ。次第に近づく我が家。
 ……いや待て、何かがおかしい。鼻先を掠るきな臭さ。上がる黒煙。まさか。
 あぜ道をひた走る。その目に映ったのは炎上する風車小屋だった。敷地を囲む柵の向こう、燃え上がる建物の少し手前で、人影が転がっていた。駆け寄って抱き起こす。
 その顔を見て、グレイグは我を忘れて叫んだ。
「――ナマエ!!」

 自分の叫び声に目が覚めて、がばりと身を起こした瞬間襲ってきた鈍痛に悶絶した。
「うぐっ……、こ、ここは……?」
 ひどい痛みだった。全身がなまくらにでもなったかのように、指の一本動かすだけでも体中にずきりずきりと痛みが響く。なんとか目線を動かして辺りを見回す。どうやらここはホムラの里の宿のようだ。特徴的な木造の建物に、竹を編んで作られた扉。
 と、ふいに衝立の向こうから人がひょっこりと現れた。イレブンだった。彼はグレイグが目覚めたことにあっと息を飲むと、顔を輝かせながら駆け寄ってくる。
「グレイグさん! 目が覚めたんだね、良かっ……」
イレブン! ナマエは、ナマエは無事か!?」
 少年の言葉も遮って、まず第一に確認すべきはそれだった。グレイグの必死な様子に若干気圧されたイレブンは、何かをためらって口を噤んでしまう。
「えっと……ナマエは、その」
 はっきりとしない反応に、嫌な予感が胸に広がる。
「まさか、嘘だろう……。イレブン、何か言ってくれ」
 痛みも忘れ、ベッドから転げ落ちんばかりに身をせり出しイレブンの胸元を掴む。じりじりとした焦燥感が身を焦がした。と、その時だ。
 部屋の扉が不意に開き、聞き覚えのある声が耳に届いた。
イレブン、新しいシーツもらってきたよ。ついでに着替えも。あとお昼ご飯まだでしょ。交代するから、外でなにか食べてきたら?」
ナマエ!」
 グレイグの声にその人の肩がびくりと揺れた。どさり、と手元に抱えていたシーツが床に落ちる。
「あ……グレイグ」
 自分を認め、言葉にならない声を零したのは、グレイグが夢にまで見たナマエその人だった。大きく見開かれた眦に、見る間に涙が盛り上がっていく。その顔に浮かぶは歓喜か罪悪感か、または困惑か。しばしその場で立ち尽くしていたナマエだったが、グレイグがなんとかベッドから抜け出そうと足掻いているうちに、なぜか踵を返して脱兎のごとく逃げ出してしまった。
「あっ! 待てナマエ、どこへ行く! ぬ、ぬぐぐ……」
「あんまり無理しない方がいいよ。メガザルが暴走して、大分魔力も体力も失ったみたいだし」
 体をひとつ動かすたび鈍痛に襲われ悶絶していると、イレブンがそう冷静に忠告をくれる。
イレブンお前、人が悪いぞ!」
 元はと言えばこの少年が意味深な態度を取るから、グレイグの大声にナマエを驚かせてしまったのではないか。ほとんど言いがかりのような考えだが、しかしグレイグを慌てさせた犯人はまるで反省していない様子で肩を竦める。いい大人が慌てふためいているのを内心で楽しんでいるのだろう。
 いや待て、イレブンよりも今はともかくナマエだ。グレイグはイレブンを叱るのを後回しにして、ふるふると震える下肢を叱咤しつつ何とか立ち上がる。扉までの数歩の距離がやけに遠く感じられた。

ナマエっ」
 よろよろと部屋を出てすぐ、廊下の向こうでこちらに背を向けて立ち尽くす彼女を見つけた。駆け寄ろうとして気付かれ、傍にあった空き部屋へと逃げ込まれる。それを急いで追い、グレイグも続いて部屋に入ろうとしたところで乱暴に閉められた竹の扉に顔面を強打した。
ナマエ待て、なぜ逃げる!? ……ぬおっ!?」
 ごちん、とすごい音が鳴って、耐えきれずにその場にうずくまり顔を抑える。
「あっ、ご、ごめん! グレイグ大丈夫?」
 その音を聞きつけ慌てて部屋から出てきたナマエがおろおろとしつつグレイグの肩に触れた。――その手をすかさずがしりと掴み、ナマエの体ごと腕の中に引き寄せる。きゃっ、と彼女の悲鳴が小さく上がった。
「ハハ! つ、捕まえたぞ……!」
 痛みに耐えながら、グレイグは目を丸くしているナマエに得意げに勝利宣言をした。だが視界に入った濡れた彼女の頬に、すぐに興奮は冷めていく。
「や、離して……。見ないで」
「教えてくれナマエ。俺は、また何かヘマをしてしまったか?」
「違う」
 ふるふる、と力なくナマエが首を振る。
「ではなぜ泣いている」
「グレイグが目を覚ましてくれて嬉しい。けどあわせる顔がなくて……謝りたいのに、どうしたらいいのか分からなくて」
 彼女の気持ちは痛いほど理解できた。一時的にとはいえ仲間を傷つけ騙した、その己の所業に平気でいられないのだろう。
「合わせる顔がないのならば、俺の胸に顔を伏せていればいい。だから、どうか逃げないでくれ。……頼む」
 ナマエの顔が見えないように頭を抱き寄せ、混乱する彼女を落ち着かせるように背を摩れば、ナマエはようやっと落ち着いたようにグレイグの腕に身を任せてきた。
 少し体を動かしたことが良かったのか、いつの間にか体中を走っていた鈍痛はなりを潜めている。

「――そうか、三日も。心配をかけたな」
 その態勢のまま、グレイグが目を覚ますまでの出来事を聞いた。どうやらあれから三日も経っているらしい。
「そういえば、ホメロスはどうなった?」
「すんでのところで逃げられた。ごめんなさい」
「いや、謝る必要はない。あいつとはいずれ、決着を付けねばならん」
 さらに話を聞くと、どうやらあの時仲間は生きていたという事実を知った。どくばりはいずれも急所をはずれ、先端に塗布したどくがのこなで麻痺をしているだけだった。体格の大きなグレイグには粉の量が足りず、意識を奪うまでには至らなかったようだ。だがそれで命拾いした。ナマエは無謀にも最初から一人でホメロスに対峙するつもりだったようだが、それはあの男の念密な手の内を知らないからできた芸当だ。グレイグがメガザルを放ったと同時に仲間の意識が戻り、強制的に生命力を分け与えられた彼らはゾーン状態となって一気呵成にホメロスを攻めた。さすがのあの男も容赦のない攻め手に徐々に押され、自らの劣勢を悟ると「興がそがれた」と言って去っていったらしい。

 聞けば聞くほど、恐ろしさに身が震える。これは幸運が重なったが故の勝利だ。ひとつでも欠ければ、あの場で全滅していたに違いない。
 顛末を聞いて冷静になるどころの話ではない。命にかかわるほどの隠し事をしていた彼女に対し、次第にふつふつとした憤りが腹の底から沸いてきた。
「……ねえ、そろそろ離して」
「だめだ、お前の無事をまだ隅々まで確認しておらん。体調は大丈夫なのか? あの男に付けられた心臓の罠というのはまだ残っているのか?」
 意趣返しのつもりで、グレイグはナマエの体を無理矢理引きはがして無遠慮に顔を覗き込んだ。ぺたぺたと頬や額、唇、首筋からその下まで。常の彼女なら怒り出しそうなきわどいところまで入念に触れて確かめる。恥ずかしいのか、ナマエの顔がリンゴのように真っ赤に染まった。
「だ、大丈夫だって! 実はラムダでセーニャに見てもらった時、しつこい呪いはあらかたキラキラポーンで祓ってもらったんだ。……呪いが残ったまま死んでいたら、きっとあんたのメガザルも効かなかった」
 弱弱しく告げられた言葉に眉根を寄せる。溜息をついて、グレイグはじろりと彼女をねめつけた。
「なぜ俺に黙っていた。言っておくが、素直に吐かないと本気で怒るぞ」
「う……、ごめんなさい。だって心配をかけると思ったし、それに」
「それに?」
「グレイグはすぐに顔にでるから」
 正論だ。ぐうの音もでない。
「……、敵を欺くには味方から、というわけか。うむ、ならば……仕方あるまい」
「ふふ、そこ納得しちゃうんだ」
「自分の弱点は多少心得ているつもりだ」
 不満はさておき、渋々ながらも彼女の言い分に納得する。
 だが言葉尻に不満の色がにじみ出ていたのか、ナマエは先ほどまでのしょぼくれた表情を一転させ、おかしげに頬を緩ませている。

 ようやく彼女に笑顔が戻ったことにホッとする。くすくすと笑みを零すナマエの顔をじっと見つめ、ふいにその紅潮した頬を手のひらで包んだ。
 ピクリと震える細い肩。空気が変わったことを察してか、グレイグを見つめる彼女の瞳にはわずかな緊張が宿っていた。
「……白状していいか」
「な、なに」
 少し怯えを含んだ声色。構わずナマエに顔を寄せた。唇で触れた先は彼女の額。
「……っ」
 ちゅっ、とリップ音が鳴ってから、静かに体を離してナマエの顔を覗き込む。
「ずっと、お前にこうしたかった」
 ナマエは真っ赤な顔で硬直したままグレイグを見上げている。拒絶の気配はない。グレイグは緊張する己自身を奮い立たせるように深く息を吸い、意を決して口を開いた。
「目の前で大切なものを失うのはもうごめんだ。ナマエ、俺はお前を失いたくない。お前のことを、とても愛しく思っている。……迷惑だろうか? こんな野暮な男では」
「め、迷惑なんて」
「なら俺を見てくれ、ナマエ
 恥ずかしそうにふいと逸らされる顔に手を添え、ゆっくりとこちらに向かせる。その柳眉は困惑に歪み、白い肌は耳まで真っ赤に染まり、赤く艶やかな下唇は感情を押し殺すように噛まれ、そして伏せられた長いまつ毛は目元に影を作っている。羞恥を耐えるその表情はひどく煽情的だ。いつだって、彼女のすべてがグレイグを煽る。
「……お前は不思議な女だ」
 いくら眺めても飽きることのないナマエの表情をまじまじと観察し、感慨深く溜息をつく。
「ひとたび剣を握れば戦いの女神のように勇ましいのに、今は人を惑わす妖精のようだ。お前からずっと目が離せない」
「女神って……本気?」
「ああ、本気だ。お前は俺のことを、月に向かって愛を請う愚かな男だと嘲笑うだろうか。だが、もうこの想いを抑えておくことができん。俺はお前に、……夢中なのだ」
 先ほどからずっと小さく震え続ける細い肩を、壊れ物を扱うかのようにそっと、しかし決して逃がさぬように固く抱き寄せる。
「どうか、お前に触れる許しを与えてくれないか」
 恥も外聞も投げ捨てての、一世一代の告白だった。ややあって耳に届いたのは、クスッと零れた笑い声。体を離すと、潤んだ瞳を細め、目の前の男が心底愛しい、とでも言いたげな慈愛に満ちた微笑みを浮かべるナマエの顔が目に飛び込んできた。
「グレイグ、あんたの目って本当節穴ね。私は女神でも妖精でもない。もうずっと前から、英雄グレイグに心底惚れ抜いているただの女よ。グロッタがアラクラトロに襲われた時、孤児院の女の子を助けたのを覚えてない? 私、あの時からずっと、……ずっと、あなたの背を追いかけてきたの」

 ……今、彼女は何と言った? ずっと前から、惚れていた?
 まさしく寝耳に水の言葉にグレイグは己の正気を疑い、自分の頬を抓った。ぎゅう、と思い切り強く。痛い。夢ではない。いや待て、痛みを伴う夢という可能性も――。
「なにしてるの?」
「い、いや、あまりに都合が良すぎて、これは夢ではないかと思ったのだが」
「……ねえ、野暮なのもいい加減にしてくれない? もう雰囲気台無し」
 先程のうっとりした表情から一転、じとりと恨めしげな彼女の目線がグレイグをちくちくと刺す。
「すっすまない。では今のはナシだ。少し会話を戻そう」
「やだ、今更ムリ。もういいでしょ。恥ずかしいから離して。……それにここ廊下だし」
「――なっ、ならば別の場所であれば構わないのか!?」
 慌てて挽回しようとするも、ナマエはすっかり熱が醒めてしまったらしい。離れようとする彼女を必死に引き留めたいあまり、焦った口から飛び出た台詞がそれだった。
 待て待て、何を言っているのだ、冷静になれグレイグよ。脳内で理性がそう訴えるも、既に思考回路は暴走一歩手前で、そこに己が放ったとどめの一手。
 ――いや、そうだ、その通りだ。彼女は廊下は嫌だと言ったのだ、ならば場所を移せば良いだけだ。うむ、我ながら良案である。
 ……暴走する煩悩を前に、理性はあっけなく散った。
 そうと決まれば、さっそく行動に移さねば。普段は慎重すぎるグレイグだが、一度こうと決めたら猪突猛進。なんだか気もすっかり大きくなっている。今の自分は、一度くらい断られてもへこたれる男ではない。
「へっ? いやそう言う訳じゃなくて。もういいからとりあえず離してってば!」
「いやだ。せっかく想いが通じたのだ。やっと手に入れたものを、そうそう簡単に手放せるものか」
「分かった分かったから、落ち着いてってば。ねえ、今焦らなくても、後でいくらでも二人きりになれる機会があるでしょ?」
 まるで駄々をこねる子供を宥めるかのような口調。普段ならその扱いに不服を申し立てるところだが、言葉の端に滲む怯えのせいで、そのいじらしさがむしろ微笑ましくすら感じられた。今この場の利はグレイグにある。獲物を追い詰めていくような感覚に、ぞくぞくと背筋に興奮が走った。
「後などない、今が大事なのだ。今日本懐を遂げられるのなら、たとえ明日死んだとて後悔はない」
「わーっ!? やだもう、グレイグどうしちゃったの!? お願いだから正気に戻って!」
「俺はずっと正気だ。……ああ、無論責任は取る。いやむしろ他の奴に取らせてなるものか。なんならこのまま教会に駆け込んでもいいぞ」
「ひ、ひええ誰この人……。――わっ!?」
 もはや自分が何を口走っているのかすら顧みることも忘れ、及び腰のナマエを捕まえその体を軽々と肩に背負いあげる。「降ろして!」と喚きながらじたばたと暴れる躾のなってない足は容赦なく押さえつけた。向かう先は先ほどグレイグが目覚めた部屋。廊下を歩きながら右肩に乗る形の良い臀部を撫で上げると、「ひっ」と引きつった声とともに暴れていた体がぱたりと静まった。

「あ、グレイグさん。体大丈夫?」
 部屋の扉を開けると、ベッドに腰掛け暇そうにしていたイレブンが出迎えた。
イレブンか、すまないが明日まで引きこもる」
「あ、はい。ごゆっくりどうぞ」
イレブン!? 止めなさいよ! つ、つるぎは? 勇者のつるぎを作らないと――!」
「それは後でいいんじゃないかな、流石の僕も馬に蹴られたくないし。頑張ってね、ナマエ。あ、僕お手製のファイトいっぱつ机に置いとくね」
「いらないバカッ!!」
 彼女にとっては完全に裏切られた気分だろう。ナマエの罵声は完全無視を決め込みつつ、今この場でイレブンがグレイグの味方をしてくれたことに感謝をしながら、にこやかに少年を見送ってすかさず扉に閂を掛ける。


 先ほど飛び出したままの乱れたベッドにナマエをそっと横たえ、その上に覆い被さる。あえて手足は拘束しない。怖気付いた彼女がいつでも逃げ出せるようにとわざと作った隙だ。ナマエを欲する気持ちはあれど、彼女を傷つけるのは本意ではない。もちろん拒絶されればすぐに解放するつもりだった。だが彼女はこれまで本気で嫌がっていない……ように見えた。あくまでグレイグの主観だが、都合の良いように解釈するのは得意だ。
 乱れたシーツの上に寝転ぶナマエの髪を一束指に巻きつけて、そこに唇を寄せながら羞恥に染まった彼女の表情をまじまじと眺める。グレイグの真っ直ぐな視線を見返す勇気はないのか、半目に伏せた瞳はキョロキョロとあちこちを彷徨って落ち着かない。
 ややあって、もう逃げ場はないと悟ったのか、グレイグと向き合うことから逃げていた瞳がようやくおずおずとこちらを向いた。
「グ、グレイグ……ねえやめよう? 病み上がりだよ? まだ本調子じゃないでしょ」
「些細なことだ。お前を愛するのに支障はない」
「……っ!」
 ナマエは初心な乙女のように真っ赤になって言葉に詰まっている。グレイグの気を逸らしたいのであれば恥じらうのをやめればいいのに、これではますます男を興奮させてしまうのが分からないのだろうか。それとも、わざとそうしているのか。
「お前は? ……俺に抱かれるのは不服か?」
「……その聞き方、ずるい」
 きゅう、と柳眉が困ったように八の字に下がり、ナマエの瞳が一層潤む。男に慣れていないその様子に心が躍った。彼女は意外と身持ちが硬い方なのかもしれない。
「嫌じゃない……けど。や、優しくしてよ……?」
 どうなのだ、と耳元で囁くと、熱に浮かされた顔でそんな可愛いことを言ってくれる。
「ははっ」
 耐えきれず、破顔する。
「ちょっとなんで笑うの?」
 思わずこぼれた笑みに彼女の機嫌を損ねてしまったが、グレイグは余裕だった。何故なら彼女の気持ちが伝わってきたから。ナマエもグレイグと同様、自分を欲してくれているのだと。
 ひねくれた彼女の唇はなかなか素直に本音を語ってくれない。だがその代わり、潤んだナマエの瞳が雄弁に想いを訴えてくれるのだ。
「お前はかわいいな」
「はっ?」
 愛しさを込めて告げる。
「可愛すぎて加減が出来ぬやもしれぬが、許せよ」
 混乱するナマエをまるで獲物を狙うかのように見定めて、堂々と宣戦布告。男の本気を悟ってか、彼女の顔から色が失われていく。
「え……グ、グレイグ……? あの、ちょっと待って……こわい、んだけど……」
 これから少しばかり無理を強いられるナマエのことを哀れに思ったが、それ以上に彼女を欲する気持ちの方が強かった。獰猛な獣と化したグレイグに、もはや「待て」は通じぬ。
「俺は愚直ゆえ、女性を抱くのも正攻法しか知らぬ。が、幸いにも体力には自信がある。お前が満足出来るまでとことん付き合うつもりだし、その為の努力も惜しまない。……だから、ともに醒めぬ夢を見よう」

 ――きみと一緒に甘い夢を。

 月に向かって愛を乞うた恐れ知らずの愚者は、とうとうその手に彼が望んだ奇蹟を掴んだのだ。