月に恋したドン・キホーテ
-andante-
砦が出来上がって以降、少しずつだがこの拠点にも人が増えていった。とはいえ日々のルーティンは決まっている。食事は一日一回のみ。被災した人々を保護しこの砦まで連れて帰るのがグレイグの主な役目だが、砦を長く空けることもできず探索時間はせいぜい日に二、三時間程度だ。砦に無事帰還してもいつ襲撃を受けるか分からないため、ゆっくり休むこともできない。人が集まるにつれ、足りなくなってくるのは物資だ。薬草が足りない。武器も、食料も。せっかく保護した人々も、十分な栄養が取れずに弱っていく姿を見るのは忍びなかった。
「太陽が見えないと、気分が滅入るね」
睨みつけるようにして暗い空を見上げていたナマエが、ふいにそう呟いた。
「せめてお天道様でも顔を出してくれたらなあ」
ぼやく彼女の横顔にも、隠し切れない疲労感が滲んでいる。最初あれだけグレイグに威勢よく啖呵を切ったナマエでさえこうだ。皆、思った以上に疲弊していた。
先の見えない戦いに身を投じるのは辛いものがある。軍属で精神を鍛えているグレイグでさえ、勝機を見いだせないことに苛立ちを募らせていた。
そんな中、暗くなりがちな砦内の雰囲気を払拭してくれているのが女性たちだ。彼女たちはよく笑い、喋る。数少ない食材で頬がおちるような美味しい食事を作ったり、時には気落ちしている兵の尻をひっぱたいて気合を入れる。彼女たち……特にこのイシの村の女性たちは逞しい。暗い影は依然として落ちていたが、女性たちのひたむきな献身に心を支えられている兵士たちも多いようだ。
一方のナマエはもともと集団行動が得意ではないようで、よくふらりと一人で山に入っては獲物や薬草などを持ち帰ってきた。腕に覚えがあるせいか気も強く、単独行動は危険なので慎めと何度注意しても聞く耳を持たない。だが彼女の持ち帰る食糧に助けられているのは事実だ。女性陣からの評判も悪くはない。グレイグも彼女に叱咤激励を食らった手前、強く出れない節はあった。とはいえ独りを好む彼女と個人的な会話をする機会もなく、ナマエと打ち解けるきっかけは中々巡ってこない。
襲撃があれば、ナマエも武器を持ち兵と共に戦場に立つ。紅一点が戦場を駆け抜ければ、兵士たちも常になく気合が入った。
彼女の戦法はユニークで、傭兵ならではの多様な戦い方をする。正々堂々、フェアプレー精神とはかけ離れた戦いだ。卑怯な戦いは常ならば嫌悪すべきところだが、猫騙しのような戦法にまんまと引っかかる魔物たちを見る度むしろ感心さえした。
身分に囚われない傭兵というだけあって、王国に対する忠誠心も敬意もない。グレイグも当然のように彼女に呼び捨てにされ、時には顎で使われる。最初は慣れなかったが、新鮮さはあった。彼女がグレイグに向かって対等に物を言うことを、どことなく楽しんでいる自分がいることに気付いたのはしばらく経ってからだった。
……グレイグが命の大樹で見た光景は皆にはひた隠しにした。勇者が死んだという凶報を告げるのは恐らく人々にとってよい結果をもたらさないだろう。
それに、もしかしたら万が一ということもあるかもしれない。自分と王があの爆発の中を生き延びたように、勇者もまた……。
いや、期待を持つは危険だ。常に最悪の事態を想定して動かねば、たやすく絶望に飲み込まれる。
そして砦を築いてから二か月目のある日。
――グレイグの前に勇者が現れた。
「勇者、イレブン」
生きていたとは。
探索から戻ったグレイグの目の前に現れた少年の姿に、命の大樹で見た光景がフラッシュバックする。悪しき者に勇者の力を奪われ、断末魔のような苦しげな悲鳴を上げる少年。
罪悪感から掛ける言葉を失った。
生きていてくれてよかった。やはりお前こそが勇者だった。誤解して済まなかった。どうかこの世界を救ってくれ。
どれもこれも、散々少年を悪者として追いかけまわした男のかけるべき言葉ではない。
懊悩のあまり、どうやら眉間に険しい皺が寄っていたらしい。少年は仏頂面のまま物言わぬグレイグに戸惑っているようだった。結局、掛ける言葉が見つからないまま少年の前を素通りした。
報告の為王の元へと向かう道すがら、目頭が熱くなっていくのを感じた。
――生きていた。最後の希望たる勇者が、生きていた。
ぐっと込み上げる感情を抑え込む。
この二か月間、必死に闘い、人々を救った。この戦いは無駄ではないと己に言い聞かせつつ、絶望に落ちる一歩手前で踏ん張っていた。その頑張りは報われたのだ。
先の見えないこの戦いに、一筋の光が差し込んだ。
あの少年が唯一の救いだ。ようやく、反撃ののろしを上げる時が来たのだ。
「……ほら、やっぱり諦めないでよかったでしょ?」
いつの間にか隣に並んでいたナマエが、得意げな笑みを浮かべてグレイグを覗き込んでいる。潤んだ目を誤魔化そうと、ああ、と低く唸るように頷いた。
ぽん、と背に添えられた手の温もり。彼女の手を最初に取った時、絶望と不安だけしかなかった。だが今ではこの手こそが、地獄の中に垂らされた蜘蛛の糸であったことに気づかされる。
「またひどい顔。ほら、鼻かんだら?」
「む、すまない」
差し出されたハンカチ代わりの布切れを鼻に押し当て、思い切り鼻をかむ。
皆には見せられぬ情けない顔はナマエだけが知っている。何物にも縛られない自由な人間だからこそ、純粋にその言葉を受けいれることが出来たのだ。彼女はまさに、運命を切り開き、未来へと導いてくれるような存在だ。
「ナマエ」
「なに?」
「まこと、お前がいなければ俺は道を見失っていたかもしれぬな。感謝している」
「べ、別に……! 私はあんたを利用して生き延びようとしただけだし、感謝される理由はないわよ。それに英雄グレイグの情けない姿なんて見たくなかったし……」
居住まいを正し、改めて礼を告げると、ナマエは珍しく焦っているようだった。突き放すような態度は照れ隠しだとすぐに分かった。
「そうだな、お前には情けないところばかり見せてしまっている気がする。……しっかりせねばな」
「まあ、人間なんだからそういう部分もあってもいいと思うけど。……あり過ぎたら困るけど」
口ごもるように呟くナマエの頬はうっすらと赤い。いつもは澄ました顔の彼女の貴重な照れ顔に、つい釘付けとなる。
まるでうららかな乙女が恥じらっているようだ――。
勇ましい戦いの女神とばかり思っていた人が、己と同じ熱を持った人間であることを急に自覚し、内心に動揺が走る。
「……なによ」
「い、いや」
だがまじまじと見る訳にもいかず、早々に視線に気づいた彼女にじろりと威嚇されてしまえば、誤魔化すように行き場の失った視線を上に向けるしかなかった。やけに逸る己の心臓の音を聞きながら、浮ついた気分を振り払い気を引き締めようと努める。
見上げた空に、薄っすらと晴れた雲間から明けの明星が見えた。
――勇者の御旗を得て、奪われたままだった祖国を取り返さんと向かった先で、待ち受けていたのは友との決別だった。
ホメロスはその身を芯まで闇に染め、グレイグの不誠実さを責めたてた。
その変貌ぶりに、逆に目が覚めた。奴はもう人間ではない。人間であることを捨てた、グレイグの友であることを辞めたのだ。
心を砕いて説得すればまだ言葉が届くやもしれぬと僅かでも抱いていた希望は打ち砕かれた。ホメロスがグレイグの守るべきものを害するならば、奴は敵だ。悪しき魔物は斬らねばならない。
かつての友。決着をつけるのならば、せめてもの手向けとしてこの手で。そう、固く決意する。
それでも尚後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように封じ、心を鬼にして剣を向けた。が、卑怯なあの男はその場を別の魔物に任せて逃げ去ってしまった。
そして常闇を生む魔物――屍騎軍王ゾルデを見事打ち負かし、ロトゼタシアの空に太陽を取り戻した。
勇者イレブンによる、救世の物語がここから始まるのだ。
「……ねえ。ぼうっとしているんだったら、こっち手伝ってよ」
ぱちぱちと薪の爆ぜる音に思いを馳せていると、ふいに声が掛かりハッと我に返った。声の方を振り向くと、先程狩ったばかりの獲物とナイフを手に不満顔のナマエがこちらをじとりと見つめている。
「あ、ああ、すまない」
焚火を熾し、その火を前にしてぼんやりと物思いにふけっていたグレイグは慌てて立ち上がり、彼女から獲物を受け取った。獣を捌くのは汚れる上臭く、対象が大型になるにつれ重労働となっていく。捌く役目は、なるべくグレイグが買って出るようにしていた。
今日の獲物はいっかくウサギだ。丸々と太って美味しそうだが、何を食べて此処まで肥えたのかはあまり考えたくない。
ここはデルカダール地方のキャンプ地だ。女神像の加護を受け、周囲には魔物の気配はない。空には美しい月夜が輝いている。
最後の砦を出発してから、二日が経っていた。
闇の手先を打ち倒し、デルカダール地方を覆う闇を打ち払ったイレブンは、魔王への対抗手段を求めて旅立った。過去の過ちを謝罪し、勇者の盾となると誓いを立てたグレイグは当然その旅路に同道したが、さらに意外な人物がその旅に加わった。
ナマエだ。彼女は当然のごとく旅路についてきて、理由を問えば生意気な口調でこう告げた。
「男だけのムサい二人旅じゃかわいそうだと思って。イレブンが」
明らかな建前だ。別に彼女の本心が知りたい訳ではなかったが、あえて危険な旅に同行する理由が分からない。彼女はグレイグにとって勝利への象徴のような人だ。隣に居れば気が引き締まり、やる気も出る。だが辛い旅だ、世界を救うという重い使命に彼女を巻き込むのは気が引けた。
「ナマエ、無理をしてついてくる必要はない。お前は砦にいて、王と皆を守っていてくれ」
「私の行く道は私が決める。保護者ぶって口出ししないで」
そう、いつだって彼女は自由だ。だから諦めて好きにさせた。事実彼女がいることで、いまだうまく打ち解けられずにいるイレブンとの緩衝材の役割も果たしてくれた。なにせ親子ほど年の離れた少年と何を話していいかグレイグには皆目見当がつかなかったのだ。
出自も年齢も性別も、何もかもが違うでこぼこな三人。だが意外と何とかチームワークは保てていると思う。
とはいえ、決まって揉めるのは食事時だ。少ない量の食料を巡って取り合いの喧嘩になるわけではなく、その配分のアンバランスさがグレイグには気がかりだった。ナマエはグレイグとイレブンの器には山盛りいっぱい分けるくせに、自分の器にはほんの少ししか盛らない。いや、思い返せば貴族の娘達もそれ以上に食が細かったし、女性からしたらそれが普通なのかもしれないが、グレイグから見たら小鳥の餌程度の量しかない。
老婆心から、グレイグは彼女が食べ終えるまでの数口をじっと見つめた。一口、二口、三口……。十口目にもたどり着かぬうちに、あっという間にその日の夕食を食べ終えたナマエは、器を持って水を張った桶の方へと向かっていく。
「ごちそうさま」
「待てナマエ、それでは少なすぎる。もっと食べろ」
「いらない」
「だが腹は満たされたのか? 今日は良く動いた。明日のためにも、もう少し食べておいた方がいい」
「いらないって言ってるでしょ。イレブンは育ち盛りだし、あんたと私とじゃ燃費もちがうの。それに手持ちの食料が少ないのよ、少しでも節約しなきゃ」
グレイグの説得も暖簾に腕押しだ。ナマエは自分の器をさっさと洗い終えると、食後の茶の準備に取り掛かっている。
その頑固な態度に少々苛立ちを覚えた。食料が少ないと言いながら自分とイレブンには惜しみなく分け与える彼女の言動は一致しない。グレイグはナマエが思う以上に彼女の事を頼りにしていた。だからいざという時に動けなくなられるのは困る。
『言うことを聞けんのなら、砦に戻ってもらうぞ』
そんな心配が、苛立ちとなって口をついて出ようとしたときだった。
「――二人は恋人同士なの?」
「ッ、!」
背後からの純粋無垢な問いかけに、呼吸が止まった。いや、思考すら停止した。ナマエとの遠慮のないやりとりが、イレブンにはまるで痴話喧嘩のように映ったのだろう。
彼女と懇意になるなど、考えたこともなかった。ナマエはグレイグにとって大切な恩人で、敬意を払うべき女性だ。風のように奔放な彼女にとって、自分のような堅い人間は窮屈で退屈なだけだ。
だが、もし仮にそうだとしたら……自分は決して悪い気はしないだろう。彼女は恋人に対して一体どんな特別な顔を見せてくれるのだろうか。甘えてくれるのか、それとも甘えさせてくれるのか。……一体どんな声で己を呼ぶのか。
一度始まった脳内の妄想は留まることを知らず、それは勢いよく振り向いたナマエが顔を真っ赤にしてイレブンの疑問を否定するまで続いた。
「なっ、違うわよ! 誰がこんな唐変木と!」
「そ、そうだぞ、冗談でも彼女に失礼だ。イレブン」
ナマエの金切り声にハッと我に返り、大人の余裕を装って彼女に同調する。得意の鉄面皮の下でつい先程まで考えていた疚しい思考のことは綺麗さっぱり覆い隠して。
「そうなの? なら良かった。なんかすごい親しげだったから、僕お邪魔虫だったかな、って少し心配になっちゃって」
「すまん、イレブンをのけ者にするつもりはなかったのだ。だが天に誓って俺は彼女に一切の疚しい感情を抱いたことはないし、これからもそうなることはないだろう。だから安心してくれ。第一そのようなことにうつつを抜かせるような呑気な状況でもないしな」
「う、うん、とりあえず分かったよ」
まさか共に旅をする大人が色恋に溺れるような残念な大人であると思われる訳にもいかず入念にアピールすると、少年は少しタジタジになりながらもグレイグの主張に頷いた。しかし先ほどからナマエに物凄い形相で睨まれているのだが、グレイグにはその理由が皆目見当も付かない。大方自分のような野暮ったい男の恋人に間違われたことに機嫌を損ねているのだろう。
その上彼女は矜持の高い剣士だ。軽々しく疚しい目で見るのは侮辱にあたる。性別という括りを超えて、彼女の人格こそを尊重したかった。
「イレブンも幼馴染を砦に残してきて不安だろうが、誘惑に負けず己に課せられた使命を第一に……、――あがっ!? な、なんっ、い、いまなぜ髪を引っ張った? ナマエ」
人生の先達としてイレブンに良く言い聞かせていると、唐突に後ろ髪を引っ張られてかくんと仰け反ってしまった。これではイレブンに示しがつかないではないかと軽く憤慨しながらも悪戯犯を振り返るも、彼女は完全に開き直ったようなふてぶてしい態度でフンとふんぞり返っている。
「べ、つ、に? そこに引っ張りやすい髪があったからかな」
不機嫌の理由が自分にあるのならば口に出して言えばいいものを――とは思うものの、口に出せないのはグレイグも同じだ。事実何も言い返す事も出来ず、触らぬ神に祟りなし、とばかりにそろりと焚き火の前に戻り、食べかけだった器に再び手を伸ばした。
その日の深夜。熾火に変わりつつある火を前に、倒木に腰を下ろしたグレイグは毛布に包まりながら一人寝ずの番に当たっていた。女神像の加護があるとは言え、夜はなにかと油断がならない。前の晩、一人で一晩中見張り番をやると言いだしたのはグレイグだったが、言い合いの末交代制に落ち着いた。グレイグは読みかけの本を進めながら、この独りの時間を楽しんでいた。
背後に張った小型テントから、かさりと物音が立ったのは午前一時頃。次の見張りの交代まで、まだ一時間ほどある。
「……交代にはまだ早いぞ。もう少し寝ていろ」
そろりと音を立てずにテントを出てきた人物に、グレイグは振り向かずそっと声をかけた。
「目が覚めちゃったの。隣、いい? あ、一人で良いもの飲んでるね。それ紅茶? 私ももらおうかな」
許可を待たずに隣に座ったその人は、テントの中で熟睡する少年を起こさぬよう声を潜めつつグレイグの手元を覗き込んできた。読書タイムを思いがけぬ闖入者に邪魔され、やれやれと肩を竦めて本を閉じる。
まどろみから目覚めた女神の要望に答えるべく、せっせと湯を沸かして紅茶を淹れる。体が冷めぬようにとひと滴ブランデーを落とせば、カップを彼女へと捧げた。
「ありがと。……うん、目覚めに効くわね」
湯気の立つ紅茶を一口飲み、パチパチと瞬いてナマエがひとりごちる。だがそんな小さなカップ一つでは迫り来る夜の冷気を打ち払えるものではなく、ややしてふるりと体を震わせた。吐く息は白い。
「やっぱり夜は寒いね。毛布持って来ればよかった」
「これを使うと良い」
「あれ、意外と気がきくのね。じゃあちょっとお邪魔します」
紳士たるもの常に女性を気遣うべし。骨の髄まで叩き込まれた婦人奉公の理念に従い、当然のごとく纏っていた自分の毛布を献上しようとすると、ナマエは何を勘違いしたのか、グレイグの上腕にすっぽり収まるようにその体を滑り込ませてきた。焦ったのはグレイグだ。ぴったりと密着してくる異性の存在に動悸が乱れ、思わず声を荒げた。
「お、おい! そういう意味で言ったわけでは」
「しいっ、イレブンが起きちゃう」
対して相手は悪びれない。彼女の奔放な態度のせいなのに、むしろこちらが窘められる始末。「す、すまん……」 あげく良いように丸め込まれ、短い押し問答の末、譲歩したのはグレイグの方だった。
「ねえ、隙間ができてて寒いからもっと身を寄せて、ほらそっちの毛布の端も貸して……そうそう。うん、あったかい」
これはなんという拷問か。
胸元に身を寄せてくる異性の柔らかな曲線を服の上からでもはっきりと感じ取り、どうしようもなく意識してしまう。気を抜けばうっかり抱き寄せてしまいそうだ。だが自ら安全地帯であると宣言した手前、絶対に彼女に手出しするわけにはいかなかった。
「く、くっつきすぎではないか? 流石の俺とてこうも密着されては――」
「余計ことを考えてないで、黙って湯たんぽがわりになってなさい」
「……、解せぬ」
まさかの人から物扱いに降格したらしい。ぴしゃりと一喝され、不服な思いをその一言に込めて押し黙る。
しかし黙っていてもふんわり香ってくる甘い匂いだけは如何ともし難い。己の意思とは無関係に鼻の孔が広がっていく。女性の匂いというのは、どうしてこうも男と違うものなのか。今にも飛んでいきそうになる理性の紐を引き留めつつ、ひたすら無我の境地を目指す。
「……ねえ」
彼女が口を開いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「ん?」
「さっき、何か考え込んでいたでしょ? 悩みがあるなら、聞くよ」
意外な言葉に視線を向けると、俯く彼女のつむじが視界に入った。
「まさかお前、それを気にして……?」
「違うわよ。自惚れないで。ただ単に眠れなかっただけだから、暇つぶしにでもなるかと思って」
まさか自分を気遣ってくれての行動かと感動に震えていると、容赦のない言葉がそれを否定した。それもそうかと期待に高鳴った胸を落ち着かせ、目敏い彼女に苦笑する。どうやら夕食の準備の際、物思いに耽っていたのを気取られていたらしい。
「……そうだな。お前には散々情けないところを見せているし、今ひとつそれが増えても同じことか」
「ホメロスのこと? 決別したって聞いたけど」
「ふっ、全てお見通しか。ああ、あいつのことを考えていた」
「去っていった男のことを考えるなんて、意外と未練がましいんだね」
応える声はドライだ。だがそれくらいが今の自分には丁度よかった。妙な憐憫を示されても反応に困ってしまう。
「理由が知りたいのだ。俺たちを裏切った本当の理由が。あいつは前を行く俺を許せないと言っていたが、理解ができんのだ。俺はあいつの背を追って、ここまでやってきた。あいつが俺を置いていくことこそあれ、俺があいつを置いていくなど……」
ぎゅ、と握りしめた拳が震えた。置いていく。己のその言葉が堪えた。そう、自分はホメロスに置いていかれたのだ。
「……あの男はずっと家族同然だった。実の両親よりも長く共にあったのに、あいつの悩んでいる事などちっとも分かってやれなかった。分かろうともしなかった。……もしかしたら隣にいる間、ずっと俺の事を疎んでいたのかもしれない。そう考えるだけで身が竦むのだ。俺は今この瞬間も、誰かの期待を裏切り、失望させているやもしれぬと」
絶対に裏切るはずがない人間に裏切られたという事実から、未だ立ち直れずにいた。どれだけ肉体を鍛えても、心というやつはままならない。特に親しい人物との決裂は、何度経験しても慣れることはないだろう。
ふと慈しむような温かな手が、そっと背に添えられた。
「人のことなんて分からないわよ。あんたがホメロスのことを理解できなかったように、あの男だってあんたのこと分かってないのかもしれない」
「いいや、それはない。俺の考えることなどあいつには全部お見通しだ。あいつは頭がいいし、非情なほど合理的だ。役に立たぬと判断すれば見限るのも早い。俺もきっと知らぬ間にあいつを失望させていたのだろう。俺があいつほど聡明でないことは、周知の事実だからな」
冷静を装おうとして、思わず自虐的な言い方になってしまった。ナマエが少したじろいだのを見て、はっと態度を改める。
「――すまない、今のは八つ当たりだったな」
ナマエが殊勝に微笑んだ。
「別に大したことじゃない。気にしすぎ」
「いや、そういう訳にもいくまい。俺は、本当にお前に甘えてばかりだな」
気を引き締めねば。相手の優しさに頼りきりになって、そのうち彼女に依存してしまうかもしれない。自由の象徴たる彼女を縛ってしまうことだけは避けねば。
「……そろそろ時間だね。テントに戻って、朝までひと眠りしたら?」
「あ、ああ。もうそんな時間か」
その後もとつとつと語るうち、どうやら交代の時間がやってきたようだ。思いがけず得た彼女との二人きりの時間はあっという間に過ぎてしまったが、胸のわだかまりを聞いてもらったことで少し心が軽くなったような気がした。
一緒に包まっていた毛布をそのまま彼女へと手渡し、立ち上がる。側で感じていたぬくもりが離れ、一気に物寂しい思いに駆られた。
「ナマエ、俺のつまらない話に付き合ってくれて礼を言う。夜明けまでの数時間、見張りを任せたぞ。体を冷やすなよ。何かあれば遠慮なく呼んでくれ」
「こっちこそ。紅茶ご馳走様。おやすみグレイグ」
「ああ、おやすみ」
離れがたい思いを振り払うようにテントへと足を向けかけ、ふと思い留まる。
「……ナマエ」
「なに?」
「この上更にお前に負担を掛けるようでこれを頼むのは気が引けるのだが、――どうかイレブンのことを度々気にかけてやって欲しい。今も気にしてくれてはいるだろうが、仲間たちの消息が掴めぬこの現状に、おそらくイレブンは相当堪えていると思うのだ。だが俺が声をかければ気を張ってしまうだろうし……。無理を言ってすまないが、頼めるだろうか」
彼女の負担とならぬように慎重に言葉を選んでの個人的な依頼だった。だが返ってきたのは、オッケー、と空気よりも軽い了承の言葉。思わず苦笑すると、ふと彼女が意味ありげに微笑んだ。
「でもグレイグ、それを言うならあんたも」
「ん?」
「なんでも一人で背負いこむの、やめた方がいいわよ」
何気なく投げかけられた言葉に、妙にどきりとした。