月に恋したドン・キホーテ
-da capo-
※全六話
銀色の閃光が目の前で走った。
強烈なレイピアの一閃突きは正しく急所を突き、対峙していた魔物はあっけなく地に倒れ伏した。女剣士は魔物が絶命したのを見届ける間もなく、刃に纏わりつく魔物の血を振り払って次の獲物へと躍りかかる。柳のように細くしなやかな体が風のように大地を駆けた。腐臭をまき散らしながら暴れる凶悪な骸にひるむことなく、剣士はぐっと重心を低くして駆け寄り、すれ違いざまにその脇を崩す。ぶん、と振り回された土気色の腕が剣士の頭上を空振りした。
「グレイグ、とどめを!」
「承知! ――むんっ!」
剣士が振り返り、鋭く合図を寄越した。それに応じ、生きる屍がよろけた隙を狙って勢いよく大剣を振り下ろす。べちゃり、と大剣の重みに頭を潰された屍がなおしぶとく呻きながら手足をばたつかせていたが、ややして事切れた。
屍の末路を見届け、頬に跳ねた腐った血肉の欠片を頓着せず拭い払う。顔を上げ、弾む息を整えつつ平原を見渡した。空は相変わらず闇色に染まり、血に濡れた平原にはあちこちに絶命した魔物が転がっている。が、どうやら脅威となるものはもうここにはいないようだ。
素早く自軍の状況を確認する。怪我をした者が数名。死者はなし。戦線から下げるべきものは……、まだいけるか。
「よし、第一波撃破成功! 偵察兵、残敵確認を!」
「丘の向こうに敵影確認……一個小隊、来ます! 飛空系モンスター多数! 会敵までおよそ距離三〇〇〇フィート!」
高台に陣取っている偵察兵に声を掛けると、大木に登りその枝葉に身を潜めていた兵が遠眼鏡を覗き込みながら次の襲撃を警告した。
剣士が乱れた髪を後ろに払って、不機嫌そうに舌打ちする。
「ちっ、休む間もないね。……皆、ボウガンの準備はいい!?」
「オレ、もう無理っス……」
「うう~鼻血が止まらねえ。誰か薬草持ってねぇか?」
敵の拠点からこの砦にたどり着くには、目の前の小山に掘られた洞道を抜けてくるしかない。だが飛空系モンスターともなれば簡単に空を飛んで小山を越えてくるだろう。
読み通り、間もなく空に現れた魔物たちの姿を視認し、グレイグはぐっと大剣の柄を握りなおした。この拠点に逃げ込んでから、幾度目の襲撃だろうか。もはや数えることも諦めた。犠牲となった人間の数も。
今日こそ全滅するかもしれない。或いはこの絶望の世界で一人生き残って、嘆きの中で孤独に死んでいくか。
「弱音を吐いている暇などないぞ! 我らでこの最後の希望たる砦を守り通すのだ! 邪悪なる魔物どもよ! このグレイグがいる限り、ここは何人たりとも通ること罷りならんと思え!!」
そんな胸内の恐れを吹き飛ばすように、大音声を響かせ兵たちを鼓舞する。おお! と兵士たちがそれに呼応した。
「――構え……、放て!」
グレイグの合図で、空へと向けられたボウガンから鉛の矢が一斉に放たれる。無数の篠突く矢が空を飛ぶ魔物たちに襲い掛かった。
勇者は悪魔の子である。
その王の言葉を長年信じてきた。王の言葉に従い逃亡する悪魔の子を追い、命の大樹を登り、そして真実を知った。
勇者は悪魔の子などではなく、全ては王を操る邪悪なる魔道士ウルノーガが仕掛けた奸計だったのだ。友も、……いや友と信じていた男もグレイグを裏切った。
勇者が破れ、命の大樹が墜ち、既に十数日が経った。
悪の魔道士は大樹の力を得、魔王となり今や世界の覇者として君臨している。
グレイグが最後の砦と言ったこの深い山間の砦は、もとは勇者が育ったイシの村というところだ。デルカダール城は魔王軍によって徹底的に破壊しつくされ、敵軍の拠点となっている。
その襲撃から逃げ延びた人々がイシの村に命からがら逃げ込み、そこを拠点として砦を築いた。元は双頭の鷲の片割れが焼き払った村だ。ほとんどなにもない廃墟の上に新たに砦を築くのは容易かった。
山から木を伐り出し、急ごしらえのバリケードを築いてから今日まで。魔王軍による襲撃が日常的に、かつ際限なく繰り返されていた。
「――貴様で最後だ! はあっ! ……偵察兵、引き続き残敵確認を!」
「はっ! 敵影確認中……オールクリアです、グレイグ将軍!」
空からの奇襲部隊の最後の一匹を倒し、再び偵察兵に確認する。どうやら本日の襲撃はここまでらしい。偵察兵の言葉に張り詰めていた緊張の糸が緩み、無意識に止めていた息を吐いた。
現時点の兵力でなんとかギリギリ勝てた、というところか。まったく弄ばれている、と感じた。敵との兵力差は圧倒的だ。にも関わらず、敵はいたずらに蜂の巣を突くがごとく、少数をけしかけてきてはある程度で引いていく。まるでこちらが疲弊する様を眺めて嘲笑っているようだ。裏ではきっとあの性格の悪い男が糸を引いているのだろう。
今日は見張りの交代時間と重なり、手薄となったタイミングでの襲撃だったため、対処が遅れて危うく一匹砦内に侵入を許すところだった。
「今日も無事生き延びてしまった、……か」
暗い空を仰ぎ、そうひとりごちる。燃え上がる黒煙。あちこちから聞こえてくる苦しげなうめき声と、腐った人肉の焼けたような酷い匂いが辺りに漂っている。勝利の喜びは全くなかった。思考を占めるのは、次はいつ襲撃があるのかということばかり。
しだいに戦の興奮が醒めてきたのか、急激に疲労感が襲ってきてグレイグはその場にどかりと腰を下ろした。胡坐をかいて重い溜息をつく。顔に落ちてきた前髪を無造作に撫でつけていると、ふいに目の前に影が差した。
「お疲れ様。ほら」
と、水筒を差し出してきたのは、先程グレイグの前で鮮烈な剣さばきを繰り広げてみせた女剣士だ。襲撃が止んでも休む間もなく傷病兵の手当やら疲れて座り込む兵の世話に駆け回っているようだ。
グレイグは礼を言って水筒を受け取り、キャップを回してぐっと手に持った筒を煽った。ぬくい水が喉を潤しながら通っていく。喉がからからに乾いていたことを今更ながらに自覚した。
彼女の名はナマエ。デルカダール王に雇われていた傭兵部隊の一人らしいが、グレイグはその存在を知らない。聞くところによると、どうもあまり表ざたにはできないことをやっていたらしい。デルカダール王家に反抗的な貴族たちへの対処や(ナマエは“対処”としか言わなかった)、下層に住む人々の中でもとりわけ目に余る部類の人間たちの処分など。つまりは正規軍では対処できないような、汚い部分の処理を押し付けられていたのだろう。金払いはいい代わりに、反吐が出るような命令ばかり下されたと彼女は語った。傭兵たちの統括者はホメロスだと聞かされ最初驚きはしたが、冷静に考えるとそう不思議なことでもなかった。あの男はグレイグのあずかり知らぬところで、敬愛する悪の魔道士のために色々と暗躍したのだろう。
そのナマエとなぜ今共に肩を並べて魔王軍と戦っているかというと、一言でいえば彼女に助けられたからだ。
命の大樹が墜ち、デルカダールの民たちは世界に起きた異変の正体が分からぬまま魔物の襲撃を受けた。襲撃から無事逃れ、或いは対処できたのは一部の民や兵士だけだった。ナマエは混乱の最中、救い出せた一部の市民を連れ、跳ね橋が落とされる前に城外へと一気に脱出した。
その逃亡の中、グレイグはナマエに出会った。いや、正しくは彼女の目の前に気を失ったグレイグとデルカダール王が急に現れた。しつこく迫り来る魔物の襲撃を打ちはらいながら街道を急ぐ彼女たち一行の前に眩い光球がふいに現れ、そして光が去った時には自分たちが地に伏していた……らしい。気を失っていたため詳しくは分からないが、おそらくは悪魔の子――否、勇者の仲間の誰かが転移術を使ったのだろう。
命の大樹。その言葉を思い浮かべるだけで、胸中に苦々しいものが走る。信じていたものは全て幻だった。
クレイモランで対峙した悪しき魔女の背後に友の影を垣間見、その動向に疑問を抱いた時にはもうなにもかも手遅れだったのだ。友の謀反を疑い、王を命の大樹へと連れて行ったことすら、恐らくは彼らの計算の内だろう。グレイグは最初から最後まで、程のいい駒でしかなかったのだ。
大勢の人が死んだ。守るべき民。愛するデルカダールの国民たち、頼りになる部下たち。
『目が覚めた? 気分はどう? グレイグ将軍』
『うっ……、こ、ここは? 俺はどうして……』
イシの村の焼け跡で目覚めたとき、こちらを覗き込んでくる女性がまず視界に入った。剣を腰に差した女剣士。グレイグにとっては見知らぬ人だったが、彼女はどうやらグレイグの正体を知っているらしい。
『そうだ、王は……悪魔の子は……。ホメロスは……!?』
混乱する自分を落ち着かせ、彼女は冷静に状況を説明した。だがデルカダールが襲撃されたと聞いた途端、グレイグは我を忘れた。彼女の制止を振り切って城塞へと急ぎ、そしてその目に映ったのは、黒煙をあげるデルカダール城。勢いづいた闇の軍勢によって、グレイグの愛する第二の故郷は破壊しつくされていた。
言葉もなく立ち尽くす。
城壁は崩れ、黒煙がもうもうと上がっている。中は酷い有様だろう。だが跳ね橋はとうに焼け落ちており、城壁内へと入る術がない。生きている者はもういないだろう。だがもし、まだ息を潜めて隠れているものがいたら――?
ここにリタリフォンがいてくれたら、あの素晴らしい馬脚で崩れた橋の間を軽く飛び越えてくれたかもしれない。だが愛馬は大樹に登る前に聖地ラムダに預けたままで、その後の行方は知れない。デルカダールの丘より下層へと通じる道はあったが、目の前の凄惨な光景に動揺し、動きだす気力はとうに失われていた。
身に纏う鎧が重い。デルカダールの国章が刻まれた、国の威信を背負った鎧。それが重く肩にのしかかる。次第にグレイグは身動きが取れなくなって、崩れた跳ね橋の手前に膝をついた。
『すまない……。守れなくて、すまない』
荒らされた大地に、後悔にまみれた嘆きが落ちる。
見上げる視界の先には、見るも無残な廃墟。先日この城門より出立した時は、あれほど美しく青空に映えていたのに。
――ふいに耳障りな声が聞こえた。
ギャア、ギャア、とけたたましい鳴き声が頭上から響く。敵の偵察部隊か、どうやら大型の飛空系モンスターに見つかったらしい。突如現れた、武装した人間を警戒するように頭上を周回している。むき出しの敵意が突き刺さった。だが無力感に苛まれたままのグレイグは、その敵意に抗う術を既に手放してしまっていた。剣の柄に手をかける気力すらない。
その時確かに、グレイグは一度何もかも諦めた。国土を焼かれ、剣を持つ意義も意味も失った。二度も故郷を失い、生きる気力をも奪われた。
魔物の羽ばたき音が頭上に迫った、その時だった。
ドシュッ、と肉を割く音と同時に、魔物の断末魔がすぐ頭の真上で響いた。どかりどかりと蹄が乱暴に土を蹴る音が遠くから聞こえてくる。のろのろと顔を上げると、平原の向こうから一頭の騎馬がこちらに向かって駆けてくる姿を認めた。片手にボウガンを携えたその人間の顔には見覚えがあった。
『お前は……』
意思の強そうな、整った顔立ち。イシの村で目覚めたときグレイグに付き添っていた女剣士だと気づいたのは、彼女が口を開いてからだった。
『気を付けて。ぼんやりしてたらすぐに死ぬよ』
騎馬はグレイグが座り込んでいるすぐ手前で止まると、冷静な声がそう警告した。グレイグはその言葉に、先程すぐそばに落下した魔物を見やった。頭に矢が貫通している。一発で仕留めたのだろう。見事な腕だ。
『さあ立って。ここは危ない』
座り込んでいるグレイグに向かって、馬上から手を差し伸べられる。手の主を見上げると、この手を振り払うのは許さないといわんばかりの強い意志がその瞳に宿ってグレイグを鋭く見据えていた。この地獄のような現実に絶望するどころか、抗う意思さえ見て取れた。
――はたして、これは救いの手なのだろうか。目の前に差し伸べられた手はグレイグの手よりもよほど小さく、頼りない。縋るにはなんとも不安な手だ。
わずかな逡巡ののち、その手を掴んだ。
のろのろと立ち上がって後ろに騎乗したグレイグを確認し、彼女は馬首を返して再び駆けだした。平原には闇の力を吸収し狂暴化した魔物たちが多数うろついている。襲い掛かってくる魔物をなんとか躱しつつ、元来た道を目指す。
頬にあたる風に妙な生ぬるさを感じた。グレイグは揺れる馬上でしっかりと重心を保ち、手綱を操る人の両脇に腕をくぐらせ鞍のグリップに掴まった。初対面の女性に抱き着くわけにもいかないので、苦肉の策だ。
誰かの後ろに乗せてもらうのは久々だった。少年兵の時以来か。グレイグは乗馬が得意ではなく、何度も落馬してはその感覚を身に叩き込んでいった。
『絶望している暇なんかないわよ。私たちは生きるの。魔物なんかに、容易くやられてやるもんか』
懐かしい記憶に浸るうち、少しぼうっとしていたらしい。懸命に手綱を操る彼女の力強い声にハッと我に返る。思い出に逃げ込み、束の間でも現実逃避をしてしまった自分を恥じた。
勇者は死に、世界は滅亡した。もう救世主はどこにもいないのだ。まだ希望を捨てていない彼女にその事実を伝えるのは気が重く、だが自分一人で抱えるには大きすぎる秘密だ。ぐ、と唇を噛みしめる。皮膚が破け、血が滲んだ。努力も空しく、必死に抱えていた秘密は腕からこぼれ落ちていってしまう。
『……勇者は命の大樹で死んだ。俺はこの目で見た。もう世界を救う救世主はいない』
絞り出すように重苦しい声で告げる。
少しの間。
次に耳に届いたのは、怒りを含んだ低い声だ。
『――勇者が死んだから、なんだっていうの? もうこの世は終わり? 勇者ってあんたたちデルカダールが悪魔の子って呼んでた子でしょ? それを、なにを今更。救世主はもう死んだから、諦めてこのまま死を待つの?』
ぐ、と言葉に詰まる。手厳しい追及にグレイグは答える術を持っていなかった。確かに彼女の言う通りだ。世界は破壊されても、まだ自分たちは生きている。生きている以上、生き延びる術を模索せねばならない。
だがなぜ、一体どうやって自分たちはあの崩れゆく命の大樹から脱出できたのだろうか。
『……俺はなぜ、まだ生きているのだ? いっそのこと、あの少年の代わりに死ねばよかったものを……!』
『いったい命の大樹で何が起きたの?』
『分からぬ。我が王が、悪しき者に体を乗っ取られていた。勇者が悪魔の子という王のお言葉は虚言で、俺は、何も考えずにそれを信じて……。あいつが、ホメロスが国を裏切って、』
『あ、あそこにおっきな黒馬がいる。あれ、もしかしてあんたの馬じゃない?』
裏切った友が脳裏をよぎり、怒りに呑まれそうになった時、ふいに彼女が声を上げた。顔をあげ、指さす方を見やる。
立派な体格の黒毛の軍馬。あの堂々とした佇まいは見間違えようはずもない。
『リタリフォン……! 生きていてくれたか!』
胸が震えた。この絶望の中で、小さな奇跡が起きたのだ。
『――聞いて。まずは山から木を切り出して、村の入り口の前にバリケードを作る。木の実、果物、山の獣。食料になるものは全部かき集める。瓦礫の中から使えるものもありったけひっくり返して、ここに砦を作るの。私たちが砦を作っている間、あんたは逃げ延びた人たちを探してここに連れてきて。きっと避難場所を探して彷徨ってる人たちがどこかにいるはず』
イシの村へと戻った女剣士は、今も尚失意の只中にあるグレイグに言い聞かせるように力強く宣言した。彼女は目の前にある焼け落ちた廃墟を、砦に作り替えるという。気概に満ちた言葉だったが、グレイグの耳には上滑りしたようにしか聞こえなかった。命の大樹が墜ち、デルカダール城が廃墟となった事実にすらいまだ実感が湧かない。
『砦……? ここにか。だが物資は、武器は、兵士は。……ここには何もないぞ』
『だから今からそれをかき集めるの。ぼんやりしてないで、しっかりしなさいデルカダールの英雄さま! あんたは人々の希望なの。あんたが砦を守る総大将になってくれれば、皆もきっと勇気づけられるはず』
『……希望、などと、俺には到底無理だ。知らなかったとはいえ、俺は悪事の片棒を担いだ。そのような男が指揮を執るなど、到底皆も納得すまい』
『そんなの黙っていればいい』
当然のように言い放つ彼女の言葉を、不義を嫌うグレイグは受け入れるわけにはいかなかった。
『そんなわけにもいくまい。俺は、――罰を受けねば』
苦々しい思いで告げると、はあ、とわざとらしい溜息が聞こえた。伏せていた顔を上げると、びしりと指先が鋭く突きつけられて思わず怯む。
『噂には聞いていたけど、デルカダールの英雄さまってほんと頭固いのね。いい? 自分を責めたい気持ちはわかるけど、私達には今あんたが必要なの! 国は焼かれて、王さまだっていつ死ぬかわからない……。安住の地を失って、路頭に迷う私たちには力強く引っ張っていってくれる先導役が絶対必要なのよ!』
『不敬なことを申すな! まだ我が王はご存命でいらっしゃる。王がおられる限り、デルカダール国は滅びぬ!』
まるで王の死期が近いとでも言いたげな不吉な言葉に、グレイグはカッとなって大声を上げた。デルカダール王は焼け残った教会の一室で横たわり、今もなお目を覚まさないままだ。顔色も悪く、呼吸も弱い。適切な治療を受けねば、早晩彼女の言葉通りとなるかもしれない。だがそれを認めたくないグレイグの口を突いて出たのは、単なる強がりだ。当然、それは見透かされていた。
『はっ、自分の職務も忘れて殻に篭ろうとしている将軍さまの言葉じゃないわね』
『俺は自分の存在意義を見失ってなどおらぬ! 俺の成すべきことは、……王を、残されたデルカダールの民を守ることだ!!』
怒りのあまり、グレイグは震えながら怒鳴った。その大音声に驚いて、そこらで力なく座り込んでいた人たちが何事かと顔を上げてこちらを注視する。
胸の内にある怒りは、一体誰に対する怒りか。彼女の無礼な言動か、裏切った友へか、それとも無力な自分へか。だがあんな言葉、煽られたからとて言うべきではなかった。民を守るなどと、どうせ成せもしないことを……。
だが一度宣言した以上、引っ込みがつかなくなってグレイグは肩で息をしながら女剣士を無言で睨みつける。彼女はしばし腕を組んで見定めるようにこちらを眺めたかと思うと、ふと警戒を解くように笑った。
『わかってるじゃない。ならさっさと動く! ぼさっとしている暇はないよ』
『……言われずとも』
ええいままよ、騎士に二言はない。
グレイグは未だ迷う己の胸中に蹴りをつけ、腹を括った。だが不服さが声色に滲んでいたらしい、彼女がそれに気づいて含み笑いを浮かべながら口を開いた。
『じゃあさっそくだけど一働きしてきてもらえる? 実は城を脱出するときにデルカダール軍や他の人たちと一緒だったんだけど、途中で襲撃に遭ってその人たちと散り散りになっちゃったの。万が一バラバラになった時はこの村で落ち合おうって約束したんだけど、一向にやって来る気配がなくて……。きっとどこかで足止めくらっていると思うんだ。軍隊が一緒だからそうそう簡単にやられてはいないだろうけど、そう長くは保たないだろうし。……探しに行ってくれる? 英雄さま』
このイシの村のことは、その時一緒になった少女に聞いたのだという。恐らく牢に収監したイシの村の住民だろう。彼女の要請を断る理由はない。
グレイグが頷き、リタリフォンの待つ方へと歩き出した時だった。
『――おい、王が目を覚ましたぞ!』
『王が……!?』
不意に飛び込んできた吉報に、グレイグははじかれるように声の方へと駈け出した。
教会の一角へと急ぐと、朦朧とした様子の王が横たわったままグレイグを認めて弱弱しく手を差し出してきた。『おおグレイグよ……』 しゃがれた声が自分の名を呼ぶ。グレイグはその枯れ木のような手を取って額に押し付け、涙を堪えながら神へ感謝の祈りをささげた。
デルカダールはまだ滅びていない。ここにも希望の芽がある。
『まったく、手のかかる英雄さまだね』
王に出立の挨拶を述べて御前を辞すと、リタリフォンの隣で待っていた彼女がグレイグの赤くなった目元と鼻先を認めて苦笑しながら愛馬の手綱とわずかな物資の入った袋を差し出してくる。貴重な物資だ。
『私はあんたに憧れて剣を手に取ったんだ。期待してるんだから、がっかりさせないでよね、英雄さま』
そうあざやかに微笑む彼女の笑みが、絶望のさなか、ひどく輝いて見えたのをよく覚えている。
常闇の中、唯一大地を照らすのは青白い月のみ。その月を背負い、王に代わってグレイグの出立を祝福する彼女は、まるで古の神話に登場する狩猟の守護をつかさどる月の女神のようだった。
女神はナマエと名乗った。