あなたに恋をする・五





 ナマエにとって、我が世の春だった。
 賈充とは上手くいっているといって差し支えはない程度に、関係は良くなっていた。共寝がまだのこと以外は、ナマエを悩ませていたことも解消した。
 一時はすべて使用人まかせだった邸のことも、少しずつ手をつけるようになっている。邸内の采配は本来女主人の仕事だ。賓客のもてなしから出入り商人の仕入れの品定めに至るまで、少しずつ家人に教わっていく。やることがあるのは楽しかった。
 疲れて帰ってくる賈充のために、と料理も覚える事にした。相変わらず賈充は五日に一度しか帰ってこない。が、夕餉の時の会話は増えたように思う。

 ある時ナマエは夕餉の席で、酒を嗜む賈充におもむろに尋ねた。
「公閭様の好きなものはなんですか?」
「好きなもの?」
 賈充は杯を傾けながら、ナマエを見た。夕餉には賈充の体を労わった、ナマエ手製の菜が並んでいる。
「さあな、思いつかん」
 賈充はそっけなく云った後、不満顔を浮かべるナマエを一瞥し、続けた。
「しいて言えば、詩歌を詠むことだな」
「素敵ですね。私は刺繍をしている時間が好き。そうだわ、今度公閭様にもおひとつ何か作ってさしあげます。ね、何がいいですか?」
「別になんでも構わん」
「張り合いのない人ですね」
 もう、と軽く嘆息する。
 賈充は妻の様子を横目で見て、ふと口の端を持ち上げた。
「お前の作るものであれば何でもいい……とでも云えば満足か」
「公閭様」
 意地の悪い言葉に思わず頬を染めたナマエは、嗜めるように賈充の名を呼ぶ。が、くく、と笑って賈充は取り合わない。
ナマエ
 賈充が杯を置いた。
「己の指まで縫わぬよう、せいぜい気をつけろ」
「はい、気をつけます」
 素直ではない忠告に、ナマエは微笑んだ。

 贈る物は、無難に手巾を選んだ。布地は手触りのよい絹。模様は迷って、最終的に麒麟にした。ナマエは花模様の刺繍の方が得意だったが、男性が持つのに花はおかしいかと考えた結果だ。
 賈充のことを考えながら、ひと針ひと針すすめていく。賈充のためになにかをすることは楽しかった。夫としての愛情が出てきたかと問われれば未だよくわからないが、それでも好きか嫌いかと問われれば好きだと答えられる自信は出てきていた。彼は感情をあまり表に出さないが、機嫌のいい時と悪い時の差くらいは見分けがつくようになっている。賈充もナマエに気安い言葉を使うようになったし、時折向けられる視線は優しい。
 少しずつだが、ナマエは賈充に歩み寄れている。そんな気がした。

 麒麟の模様は思いのほか苦戦した。少し難易度が高かったかもしれない。それでも、ナマエは根気強く刺繍版へと向かった。賈充の幸いを願いながら。
 またひと針、進め。そして。
「……出来た」
 
「公閭様、先日云っていた刺繍、出来上がりましたよ」
 出来上がった手巾を早速手渡すと、賈充はそれを見てひとつ満足げにうなずいた。
「礼を考えておこう」
 胸元に手巾をしまいながら告げた賈充の言葉に、ナマエは慌てた。
「そんな、お礼なんていりません。手慰み程度のものなのに」
「謙遜をするな。見事な刺繍だぞ」
「……ありがとうございます」
 賈充のような人に素直に褒められるのは、悪い気がしない。ナマエは頬を緩ませた。
 胸元にしまわれた手巾を思う。賈充は大事に使ってくれるだろうか。きっと大事にしてくれるに違いない。
 賈充の幸いを願った刺繍であることは、伏せたままだった。ナマエの心が宿った手巾。それが賈充の懐にある限り、いついかなる時も一緒にいれる気がした。
 ……実のところ、賈充を思って刺繍を刺している時、時折ナマエは淋しい気分に襲われていた。今までは賈充の留守を気にしたことなどなかったのに。
 今では五日に一度賈充に会えるのを心待ちにしているくらいだ。賈充に会えないことを、淋しい、とナマエは素直に感じていた。
 ここ数日だって、驚くほど賈充に会いたい気持ちを募らせていた。今日のこの夕餉の時間が過ぎれば、また賈充は宮城に帰ってしまう。そう思うだけで、胸が切なくなった。また次に会えるのは、次の五日後。それまで、また会いたい気持ちを我慢しなければいけない。
 ――そうだわ。いっそ、私が城に出向けばいいのだ。
 唐突なひらめきに、ナマエは瞳をきらめかせた。
「そうだ公閭様、今度また執務室にお邪魔しても?」