あなたに恋をする・四




 執務室を飛び出したナマエは、賈充から逃げ出したい一心でわけもわからず右に左に回廊を曲がった。人影が見えなくなったところで、ようやく立ち止まる。そこで声をあげて泣き出した。
 とてもみじめな気分だった。怒られた事がくやしかったのではない。なにも言い返せないことが悔しかったのだ。賈充の言い分は正しい。実際に見合いを断る断らないは別として、ナマエは自分の意志を示す事は出来たはずだ。
 まるで小さな子供に戻ったように、しゃっくりをあげる。
 
「そこにいるのは誰」
 背後から声が響いた。
 我に返ったナマエは肩を震わせ、急いで涙をぐいと拭い、声のした方に振り返る。
 訝しげに立っていたのは、一人の女だった。少女めいた美しい面には、賢そうな瞳がきらめいている。その顔に、またもやナマエは既視感を覚えた。どこで見たのだろう。
 女はナマエを見て、息を呑んだようだった。泣きはらしたみっともない顔をしているのだから、当然の反応だったかもしれない。
 だが、その後の女の反応は少々違った。
「貴方はもしかして賈充殿の……」
 今度はナマエが息を呑む番だった。このひとは、ナマエのことを知っている。
 女はあたりを見回してナマエ以外誰もいないことを確かめると、ゆっくりとナマエに歩み寄った。
「ねえあなた、私の部屋で一緒にお茶でもどう?」
 気遣わしげな声色に、ナマエはややあって頷いた。

 白い湯気がくゆる杯を傾け、茶を一口含むと、ようやく人心地ついた気分になってナマエはほっと息をついた。
 案内された室は広く、質素だが品のいい調度が並んでいる。卓には可愛らしい色合いの花が飾られ、それもまたナマエの心を慰めた。
「落ち着いた?」
 ナマエの様子をじっと気遣わしげに見詰めていた女が、口を開いた。
「……はい、ありがとうございます。あの、あなた様は……」
「王元姫よ、ここでは司馬家ご子息のお目付け役をしてるわ」
 その名に、ようやくナマエはこの目の前の人を何処で見たか思い出した。才女と名高い王元姫。賈充との婚儀の席で、招待客として彼女も参列していたのだった。そういえば、先ほど賈充の執務室の前で出くわした男も、彼女の隣に座っていなかったか。あれが司馬家の子息だったのだろうか。
「李ナマエと申します。賈公閭の……妻です」
「そう、ナマエ殿。よろしくね」
 王元姫はさらりと告げて、単刀直入に尋ねてきた。
「どうして泣いていたのか、聞いてもいいかしら」
 物静かな問いかけに再び涙がこみ上げてきて、ナマエは口元を覆った。こみ上げてきた涙をこらえて息を整える。果たして、ほぼ初対面の彼女に賈充との私的なことを語っていいものだろうか。
 王元姫はじっとナマエの言葉を待っているようだった。その優しげな双眸を見ていると、何もかもぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。
「実は私……」
 堰を切ったように、ナマエは王元姫に今までの事を語った。賈充との夫婦生活が上手くいっていないこと。賈充を心無い言葉で傷つけてしまったこと。謝りに来たが逆に賈充に責められ、言い返せずに飛び出してきたこと。
 共寝がまだのことは、流石に伏せた。
 すべてを聞いた王元姫は考え込むように瞼を伏せると、一つ長いため息をついた。
ナマエ殿、これは知っておいてほしいのだけれど、賈充殿はあなたを大事にしているわ。とてもね」
 王元姫の言葉を、ナマエは信じられなかった。
「そうでしょうか」
 訝しげに尋ねると、王元姫は頷いた。
「賈充殿はね、あの多忙な中、自分の邸にあなたの顔を見に帰ってるの。あの人は頑張っていると思うわ。そこは認めてあげて」
「でも、会話らしい会話はありませんし。それに私がなにかすれば怒らせてばかりで」
 ナマエは俯いた。花壇のことを、彼女はまだ気にしていた。
「私、なぜ自分が公閭様に選ばれたか、それがわからないんです」
 自信がなかったのだ。自分は賈充の妻としてふさわしくないのではないだろうかという思いが、拭えなかった。
「あなたたちは、ちゃんとお互い顔を合わせて話すべきよ。そう思わない? 賈充殿」
 王元姫の言葉に、ナマエは弾かれるように顔をあげた。
 入り口のついたての向こうに、人の気配があった。ちっ、と舌打ちが聞こえてきて、ついたての向こうから顔を見せたのは、賈充だった。
「公閭様」
 茫然とナマエがその名を口にする。賈充は彼女の泣きはらした顔を見て、眉をひそめたようだった。
「手間を掛けたな」
 王元姫を一瞥した賈充が、ナマエに向かって顎をしゃくる。ナマエに退室を促すと、さっさと自分は出て行ってしまった。
 はっとしたナマエは慌てて立ち上がり、王元姫に深く頭を下げるとその背を追った。

 回廊に出て賈充の背を追う。賈充は数歩先を進んでいて、ナマエは慌てた。
 急ぎ足で歩を進めると、急に賈充が立ち止まった。
 押し黙ったまま賈充は立ち尽くしている。その物言わぬ背が言外になにかを語っているようで、ナマエは恐る恐る呼びかけた。
「公閭様?」
 ナマエ、と賈充がふいに唇を割った。
「お前は、俺がお前を妻にした理由が分からないのか」
 非難めいた声色に、ナマエは一瞬言葉に詰まる。
「……分かりません」
「その理由は必要か」
 知りたい。たとえどんな理由であれど。ナマエは泣き腫らした目のまま、しっかりと賈充の背を見詰めた。
「はい」
「――ひとめ惚れだ」
「え」
 思わず耳を疑う。今、賈充は何と云った。
「……ちっ、二度は云わん」
 茫然と立ち尽くしていると、振り返った賈充がナマエの顔を一瞥して舌打ちした。
 首を竦めそうになって、思いなおす。違う、彼は怒っているのではない。この舌打ちは、きっと照れ隠しのそれだ。
「公閭様……」
 唐突に、心の内にあたたかい何かが宿った。ナマエはそのぬくもりを感じながら、そっと問いかけた。
「公閭様、今日はうちに帰ってきますか?」
「帰って欲しいのか、俺に」
 意地の悪い言い方だ。だがナマエはそんなこと、気にならなかった。いや、気にならないというのは嘘だ。だがこれが目の前の男の言い方なのだろうと思った。
 問いかけるような水色の瞳をしっかりと見詰めて、ゆっくりと頷く。
「……はい」
 ちっ、と舌打ちが再度響いた。
「行くぞ、今日の仕事は終いだ」


 がらがらと車輪が廻る音が響く。馬車に揺られながら、ナマエはそっと窓掛けをめくって夕陽に沈む許昌の街並みを眺めた。許昌の街並みは整然としていて、夕焼け色に染まっていた。
 ナマエは同乗している男に視線を移し、居座りなおす。賈充が斜め前に座っていた。彼はじっと目を瞑ったまま、腕を組んで押し黙っている。一体何を考えているのだろう。
 伊理は賈充との同席を嫌がるそぶりを見せたため、御者台に避難させた。馬車内には賈充とナマエ、二人きりだが空気はそれほど重たくない。ナマエの心持ちが変わったせいだろうか。
 いや、賈充を取り巻く雰囲気も、心なしか穏やかになっている気がするのはナマエの思い違いではないだろう。
「邸前の花壇――」
 ナマエは賈充の横顔を眺めながら、ふいに口を開いた。賈充が耳を傾ける気配がする。
「花が綺麗に咲いたんですよ。気づいていましたか?」
「……ああ」
「公閭様の好きな蒼い花。わざわざ植え替えまでした」
 我ながら意地の悪い言い方だと思った。しかしこんな軽口を叩けるようになるほど、ナマエの心が賈充に近づいたという証拠だろう。
 賈充は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「……あの時は別に咎める気はなかった。悪かったな」
「そうだったんですか?」
 ナマエは意外に思いながら、その時の賈充とのやり取りを思い出していた。賈充は素直に己の感情を吐き出すような男ではない。勘違いをしたのは、ナマエの方だったのだろうか。
「私、今までずっと勘違いしてたのかしら」
 呟いて、ナマエはまっすぐに賈充を見た。
「公閭様」
 呼びかけに応えるように、水色の綺麗な瞳がこちらを向いた。
「もっとお話をしましょうよ。私達、お互いの事知らなすぎると思うんです」
 ややあって、そうだな、と返答があった。その短い受け答えに、ナマエは頬を緩ませた。
 政略結婚ではなかった。ナマエは望まれてここにいるのだと知って、心は驚くほど軽くなった。賈充がナマエを望んでいるというのは意外だったが、じわじわと嬉しさがこみ上げて、ナマエはようやく賈充の想いを実感しはじめていた。
 目の前の冷徹そうな男は、ナマエに惚れているのだという。ふふ、とこみ上げてきた笑いがどうにも抑えられない。
「今日は公閭様の意外な一面を知れて良かった」
 ち、と賈充が舌打ちした。
「図に乗るなよ」
「また意地の悪い言い方をして」
「……俺はこういう言い方しかできん」
 そっぽを向いた賈充の横顔に、そうですね、とナマエは微笑んだ。
「やっと公閭様のこと、分かってきた気がします」
「ふん、遅すぎるぞ阿呆め」
「ごめんなさい。私も、意地になっていました」
「……いや、俺もお前の扱いを決めかねて迷っていた。悪かった」
 賈充の謝罪にはにかんで、ナマエはそっと視線を窓の外にやった。黄昏時の空が美しい。
「本当は、今でもちょっと怖いんです。でも」
 再び賈充を見る。水色の瞳がしっかりとナマエを捉えていた。賈充の気持ちに気づかず彼を傷つけていた、愚かで幸せな己が映し出されている。
「公閭様の瞳は綺麗だと思ってます」
 沈黙が落ちて、がらがらと車輪の廻る音が間に入る。
「俺の妻になったこと、後悔してるか」
「いいえ」
 零れるように賈充がふっと笑った。つられてナマエも微笑んだ。
「ねえ公閭様。これから少しずつ、歩み寄っていきましょう」
 そうだな、と賈充が頷いた。