あなたに恋をする・六




 昼に間に合うように、ナマエは朝から厨房に立っていた。ふかふかに蒸した包子に饅頭、旬の青物と肉団子、牛肉と瓜の煮物。量は副官達の分も考えて、五人分は作った。
 菜が出来上がると、それぞれ手巾に包んで伊理と二人手分けして運んだ。馬車に乗り込み、一路宮城を目指す。
 事前に通達を出していたため、今度は門で時間を取られることはなかった。すんなりと門を通り、下官に案内されて賈充の執務室にたどり着いたのは、丁度昼前だった。
「失礼します」
 声をかけて室に入ると、卓に向かって真剣に何事かを話していた男達が一斉にナマエを見た。その中の一人、賈充が顔を上げてナマエに視線を向けると、彼女は晴れやかな笑みを浮かべて手元の菜の包みを持ち上げた。
「公閭様、少し休憩を取って昼餉をともにいたしませんか?」
「そんなに作ってきて、俺をどうさせたいんだ? お前は」
 ナマエと伊理の手に持たれている量に呆れた声を出した賈充は、ため息をついて書簡を片付けだした。どうやらお許しがでたらしい。ナマエはほっとしながらも、所在無さげに立ち尽くしている賈充の副官達に微笑んだ。
「皆様の分も作ってきたんです。一緒に召し上がりませんか?」
「喜んでご相伴に預からせていただきます」
 副官の一人がにこやかに答える。じろり、と男に賈充が意味ありげに視線を向けたが、彼は気づいていないようだった。

 手に持ちきれなかった菜は城の下男に運んでもらい、卓の上に手早く菜を並べた。
 伊理も混じり、一緒に卓を囲む。大人数で菜をつつくのは、にぎやかで楽しかった。ナマエの手料理は副官達に好評だった。賈充の部下は、彼の部下にしてはよく喋り、ナマエを笑わせた。反対に賈充は静かに箸を進めていた。もしかして拗ねているのかもしれない、と思ったが、その考えはすぐに打ち消した。あまりに悋気の感情が似合わないと思ったためだ。
 賑やかだった食事も終わり、食後の茶を振舞う。
 ふと思い出したようにナマエは口を開いた。
「そうだ公閭様。先日お世話になった王元姫様にご挨拶をしたいのですが、あの方はどちらにいらっしゃるかご存知ですか?」
「知るはずがないだろう」
 賈充の返答は素気ない。機嫌があまりよくないようだ。
 若干しり込みしたナマエを一瞥し、賈充は軽く息をついた。
「大方子上の部屋か、自分の部屋にでもいるだろうよ。会いたいのなら、女官に先触れを出させるが」
 賈充の好意に甘え、ナマエはお願いする事にした。
 先触れの女官が戻ってくると、ナマエは立ち上がって入り口に向かった。伊理は器を持って、先に帰らせてある。
 待て、と賈充の声がナマエを呼び止めた。
「城をうろつくんなら、この男を護衛に連れていけ」
 と、すぐさま賈充が己の副官にナマエの護衛を命じようとするものだから、ナマエは慌ててそれを押しとどめた。
「公閭様ったら、そんな心配はいりませんよ」
「駄目だ、云う事を聞け。お前はこの賈公閭の妻だぞ」
 思いがけない言葉に、ナマエは頬を染めた。
「……はい」

 賈充の副官を供に王元姫の室を訪れると、彼女は自ら出迎えてくれた。
「そう、仲直りしたのね」
 ナマエが先日の礼を告げると、そう云って王元姫は淡く笑った。
「はい。王元姫様のお陰です」
「別に私は何もしてないわ」
「でも、王元姫様の言葉がひと押しをしてくれたから、私達は前に進めたんだと思います」
 改めて深く頭を下げる。
 王元姫には感謝していた。あの日、王元姫に出会っていなければ、二人の関係はこじれていたままだったろう。
「ね、ナマエ殿、お茶に付き合って。賈充殿の話、もっと聞かせて欲しいわ」
 王元姫は悪戯げに微笑んだ。

 何杯もお茶をおかわりし、賈充の使いが迎えに来るまで話に花を咲かせた。気がつけば夕刻にほど近い。ナマエは王元姫に暇を告げ、室を辞した。
 賈充の執務室に戻ると、彼は帰り支度をしていた。
「随分話し込んでいたな。こちらも一区切りついた。そろそろ帰るぞ、ナマエ
「え、でも今日はお帰りになる日じゃ……」
 ナマエは戸惑って賈充を見る。
「俺が自分の邸に帰るのに、お前の許可が必要か?」
「いえ、そんなことは。……嬉しいです、公閭様」
 まだ賈充と共にいられる。そんな想いからナマエは頬を染める。
「その割には俺を放って、他の人間にかまけていたようだがな」
「もう、意地悪です。公閭様」
 軽く憤ると賈充が満足げに頬を緩める。つられてナマエも笑った。

 馬車を手配し、二人は宮城を後にした。城門を出る頃には、あたりはすっかり夕闇に染まっていた。
 がらがらと、車輪が轍を走る音が聞こえる。
「お目付け役と何を話していた」
 ナマエは賈充の問いかけに、ふいに意地悪な気持ちになってにっこり微笑んだ。
「公閭様のことです」
「余計なことは話していないだろうな」
「さあ、どうでしょう」
ナマエ
 咎めるように名を呼ばれる。
「ふふ、冗談ですよ」
 軽く吐息をついた賈充は、おもむろに懐から絹の包みを取り出した。それをナマエの目の前に差し出す。
「なんですか?」
「帰ってから渡そうと思っていたが、今渡しておく」
 ナマエは少し困惑しながらも、礼を云って包みを受け取った。絹の包みを広げると、そこに銀細工の繊細な簪があった。精緻な蓮の透かし彫りが施され、控えめに一粒玉がついたそれはひと目で一級品と分かる。
「まあ、綺麗な簪」
 ナマエは思わず感嘆した。まじまじと簪を見詰め、はっとして賈充を振り仰いだ。
「これ、まさか刺繍のお礼に?」
 賈充が頷くと、ナマエは嬉しさ半分申し訳なさ半分で眉を下げた。賈充の気持ちは純粋に嬉しい。だがこの簪に見合うだけのことをしたとは思えない。
「こんな高価なもの……、なんだか申し訳ないわ」
「遠慮はするな。受け取れ」
 賈充の言葉に、ナマエは再度礼を云った。

「つけてみろ」
 促され、後ろ髪に簪を差し込んだ。しゃらり、と涼やかな音が鳴った。
「似合いますか?」
「ああ」
 賈充が満足げに笑ったのを見て、ナマエもまた微笑む。
 ふと、賈充の笑みにナマエはきゅう、と胸の痛みを覚えた。切ない。幸せを貰った気分だったのに、今は胸のうちが切なくて仕方がない。
「私も公閭様に何か差し上げられるものがあればいいのに」
 手巾などではなく、なにかもっと別の特別なものを。
 眉尻を下げてそう云えば、賈充はくつりと喉の奥で笑った。
「では、これを貰おうか」
「公閭様」
 賈充の顔が近づいてくる。
 反射的に、ナマエは目を閉じた。
 一瞬あたたかなものがナマエの唇をかすめ、離れていく。

 ナマエの胸に、やわらかな灯がともった。