第十五話
愛よ永遠なれ・前篇





 ――まさか、生きているうちに二度も空中散歩をする羽目になるとは思わなかった。
 ホメロスに抱きつきながら夜の空を飛んだナマエは、再び恐怖のひと時を過ごした。ホメロスがへまをするはずがないと分かりつつも、雲の上まで空高く上昇した時には恐怖と寒さとで震えが止まらなかった。
 恐怖の空中散歩は時間にして僅か数十分あまり。散歩を終えたナマエの足はなんとか無事に再び地面を踏みしめることができた。この床を地面、と言っていいものであるかどうかは分からないが。
 ホメロスが連れてきた場所は、あの空に浮かぶ天空城だった。
「着きましたよ」
 塔の一角にせり出したバルコニーにふわりと音もなく着地する。ホメロスはナマエを床へと下ろすと再び姿を人間のそれへと変え、部屋の中へと続くガラス戸を開け彼女を促した。
「さあ中へどうぞ。あなたの為に誂えた部屋だ。どうです、あのデルカダール城のあなたの部屋にそっくりでしょう? 寝室も、応接間も、ダイニングも浴室もある。この塔の上階は安全だが、階下はそこら中に魔物がうろついているから、みだりにうろつかぬように。……ああ、もちろん人間用の食料も用意してあるので、安心してください」
 一歩中へと踏み込んだ部屋の内装にナマエは固まった。赤と黒の悪趣味な色合いで統一された部屋の様相は、確かによく見るとナマエが長年過ごしたデルカダール城のあの部屋の造りとよく似ている。彼はどういう意図であの部屋を模倣したのか。テーブルの上にはご丁寧にチェスまで用意してある。
「あの――」
 ナマエが戸惑って背後の人物を振り返ると、ちょうどホメロスが彼女の髪をひと房取り、鼻先を押し当てているところだった。すん、と鼻を鳴らされる。妖艶な血色の瞳がナマエを見て、挑発するように細められた。
「……奥の浴室に湯を用意してある。疲れただろう。まずは汗を流し、着替えるといい」
 匂いを嗅がれたのだ。そのことに気付いてカッと頬が熱くなって、慌てて彼から距離を取った。するり、と彼の掌からナマエの髪が零れる。
「っ、お、お言葉に甘えさせていただきます!」
 ここ数日、きちんと体を清められていない。おまけにドレスも手も靴も、何もかも泥だらけだ。惨めな己の恰好を自覚していたたまれなくなり、ナマエは逃げるように浴室へと駆け込んだ。
 クスクスと追い討ちをかけるように笑い声が背にあたって、彼女の羞恥心を更に煽った。

 こんな非常事態でありながら、やはり温かい湯に体を浸すと気が緩んだ。湯に香油が垂らしてあるのか、様々な花の香りが鼻腔を満たす。みるみる張り詰めたものが解れていくのがわかって、今までひどく緊張していたことを思い知った。気が緩んだせいか浴槽の中でうつらうつらしてしまいそうになる。
 あまり長くホメロスを待たせてはいけないと、後ろ髪を引かれる思いで浴槽を出た。
 浴室の扉の内側に、一着のドレスがかけられていた。アイボリー色の繊細なシフォンのシュミーズドレス。棚には真新しい下着一式。それ以外に服の用意はない。どうやらこれを着ろということらしい。
 ドレスに袖を通すと、ところどころにレース刺繍が刺された薄いシフォン生地は、肌が透けてしまうようでいて透けていない。柔らかな肌触りに一目で上等なものだとわかった。だが光を通すと体のシルエットがくっきりとわかってしまうのだけはいただけない。
 濡れた髪を乾かし整え、ドレスを纏い姿見の前に立つ。色合いのせいかその姿がまるでこれから初夜を迎える花嫁のように見え、ナマエは慌てて頭を振って浮かんだ妄想を打ち消した。
 浴室から応接間へと戻ると、ホメロスの姿はそこにはなかった。一体どこへ行ってしまったのだろう。一瞬不安に駆られるも、すぐに開け放たれたバルコニーに彼の後ろ姿を発見してほっとする。
 ナマエがバルコニーの方へと進むと、足音に気づいたホメロスがこちらに振り返り、彼女を認めて薄く微笑んだ。いつの間にやら、バルコニーには饗宴の準備が整えられていた。大理石のテーブルの上にはワイングラスとデキャンタ、銀の皿の上にはみずみずしい果物が山と載っている。
「もう少し、ゆっくりしてきてくれても構わなかったんだが」
「いいえ、あまりお待たせする訳にもまいりませんから。ホメロス様、素敵なドレスをありがとうございました」
「……ああ、よく似合っている。見立て通りだ」
 とても綺麗だ。持ち上げたデキャンタから用意したグラスにワインを注ぎ、そのひとつをナマエへと差し出しながらホメロスがそう告げた。濡れた紅玉の瞳がひたとナマエに注がれている。耳当たりのよい世辞とその陶酔したような視線に浮き足立って、ナマエの頬が淡く色づいた。
 差し出されたグラスを辞退するような興ざめな真似は出来なかった。断ってしまえば彼の機嫌を損ねることは目に見えている。礼を言っておずおずと差し出されたそれを受け取り、しかし渡されたものをどうしていいかわからず、手持ち無沙汰にグラスの細い脚の部分を指でなぞった。
「――再会を祝して」
 軽くなったデキャンタをテーブルに置き、もうひとつのグラスを持ち上げたホメロスがこちらに軽くグラスを傾けて乾杯を求めてくる。が、あいにくナマエは饗宴を楽しめるような心境ではない。再会を喜ぶより前に、彼に説明してもらわなければならないことがたくさんある。
 乾杯に応じるべきか否か。逡巡するナマエをよそに、ホメロスは気乗りしない彼女を気にした様子もなく、自らグラスを近づけカチンと軽妙な音を鳴らす。目の前でワインを呷る彼の喉仏が上下するのを、ナマエは戸惑いながらただ見つめていた。
 その視線に気づいたホメロスが、変なものは入れてないぞ、と苦笑する。
「嫌なら無理をして飲む必要はないが、この日のためにと取っておいたワインだ。一口だけでも無理か? 無理なら私が飲んでやるが……」
 そこまで言われて、飲まない訳にはいかない。恐る恐るグラスの縁に口をつけると、芳醇な香りが鼻腔を掠めた。一口含むと、嫌味のない自然な甘さが喉を通り抜ける。果物の甘さがぎゅっと濃縮された、まるではちみつのような濃厚な甘さだった。おいしい。クレイモランの冬に収穫された貴重な葡萄で作られるという、幻のアイスワインだろうか。
 その美味しさに驚いて、気がつけばグラスの中の液体を全て飲み干していた。
「どうやらお気に召したようだな。お代わりは?」
「……いただきます」
 ホメロスがデキャンタを持ち上げてみせたので、ナマエはそっとグラスを差し出した。
 芳醇な香りを楽しみながら、ちびりちびりと二杯目を飲む。しばらく味わえなかった至福の味に頬が緩んだ。
 ふと、その様子を紅い瞳にじっと見つめられているのに気づく。途端に気恥ずかしさを覚え、残りのワインをゴクンと一口の内に飲み干してしまった。
 ことりとグラスをテーブルの上に置くと、なんだか目の前が少しふわふわしている。
「ご馳走様でした。とても美味しいワインでした」
「それは重畳。気分はどうだ?」
「はい、だいぶ良くなりました」
 その甘さに誤魔化されがちだが、ワインの度数は意外と高いようだった。しかし酒精がほどよく入ったおかげで緊張が抜けたようだ。少し気分が大きくなったナマエは、ホメロスさま、と彼の方へと姿勢を改めた。
「どうした」
「あの、聞きたいことがあるのですが、……よろしいですか?」
「なんだ?」
 おずおずと切り出せば、血色の瞳がナマエを映す。青白い肌と、プラチナブロンドの髪が今にも夜の帳のうちに溶けてしまいそうだ。彼の変貌ぶりが今でも信じがたい。いつからこうなってしまったのか。それとも実は、本性はこちらの方でずっと人間に化けていたのだと説明されても、今の彼の姿を見てしまえばころりと信じてしまうだろう。
 ナマエは自分を落ち着かせるためにひと呼吸おいて、そして意を決して口を開いた。
「わたし、あの……。私、ホメロスさまが、……魔族、の方だったとは、全く知りませんでした」
 ふふっ、とホメロスが笑みを零した。どうやら見当違いなことを言ってしまったらしい。
「勘違いをなさっているようだが、私は元人間ですよ」
「元……」
 つまり、彼はもう闇のものそのものだと言うことだ。なんと言っていいかわからず、複雑な表情を浮かべて口を噤んで俯く。最初から説明する気がないのか、ホメロスはそれ以上を語らなかった。手の中のグラスをくゆり、ゆっくりと豊穣の神の恵みを堪能している。
 ひとつ確かなことは、彼は己の変貌に満足しているらしいということだ。
「……ここは一体どこなのですか?」
 聞くべきことは沢山ある。だが一体何から尋ねるべきなのか。迷いあぐね、ナマエは諦めてひとまず一番気になっていた事から質問していくことにした。
 ホメロスは笑みを深め、空を支配する巨大な空中城塞をナマエへと紹介するように掌を掲げ、軽く頭を下げた。
「ここは天空魔城。魔王ウルノーガ様の支配する領域だ」
「――まおう?」
 耳慣れない単語を、確かめるように反復する。マオウ、魔王。魔物達の頂点に立つ王。人間達の最大の敵となりうるもので、勇者――つまりイレブンの宿敵だ。
「うそ、そんな、……ほんとうに?」
「今、あなたが目にしている闇の世界が信じられないというならば、実際にウルノーガ様にお目通り頂いても良いのだが……、あの方はあなたが死んだものと思い込んでいる。のこのこ顔を出せば、その場で殺されてしまいかねないしな。――さて、いったい何を示せば、あなたに私の言葉を信じていただけるのやら」
 まるで魔王がナマエのことを知っているかのような口ぶりだ。恐ろしいことをなんでもないことのように呟いて、ホメロスはわざとらしく悩むふりをした。
「……でも、どうして? デルカダール王はイレブンを悪魔の子と仰いました。イレブンがいなければ邪悪なものは復活しないのではなかったのですか?」
「無論そんなものは嘘に決まっている。愚かな女だ、勇者が本当にこの世界に災厄をもたらすと思ったか」
 無論、はなからそんな子供騙しの嘘は信じてはいない。ナマエは真実を知りたかったのだ。
「ではホメロス様、愚かな私にどうか教えていただけませんか。どうやって魔王はこのロトゼタシアに現れ、そして世界を掌握したかを」
「ふっ、良いだろう、真実を教えてやる」
 挑むような態度で真実を請えば、挑発するようにホメロスの瞳が眇められ、血色の瞳が妖しく輝く。
 ――彼の口から語られたのは、まさしく驚愕の真実だった。
「……ではユグノアの滅亡は魔王のせいで、デルカダール王はずっと魔王に操られていたと?」
「その通りだ。理解が早くて助かる」
 つまり、魔王は常にナマエのすぐ近くにあったという訳だ。どころか、魔王に飼われてすらいたらしい。ならばナマエを暗殺しようと目論んでいたことも頷ける。
 あまりの事実に愕然とした。
 そんな恐ろしい存在が、いつの間にかこのロトゼタシアの世界に君臨していたのか。気がつけば世界はひっくり返っていた。夜が昼を侵食し、魔物は我が物顔でそこいらを闊歩する。身近に脅威が迫ってくるまで、その絶対的な闇の存在に全く気がつかなかったのだ。
 世界の盤上をひっくり返したのが魔王ならば、この世界の変容ぶりも頷けた。問題は魔王に対抗できる唯一のものがいないということだ。勇者の生まれ変わりと謳われた愛する甥は、十六年前のユグノア襲撃の際に消息を絶ったままだ。デルカダール王、否、魔王はイレブンを悪魔の子と糾弾し、今もなお何処かで生き延びているものとして全国を捜索していたようだが、あの悲惨な襲撃の最中、最もか弱い乳飲み子であるイレブンが生き残れる訳がない。イレブンは姉夫婦とともに亡くなった。少なくともナマエは、そう思っている。
 ひたひたと足元から絶望が襲ってくる。
 ナマエの隣にいるひとは、そんな恐ろしい魔王のいったいなんだというのだろう。人間の味方には到底見えない。先程の言動からして、魔王の配下であることは疑いようもない。
 ……そういえば、もしかしてあの方も。
 ふと、ナマエは彼の双翼の片割れだった騎士のことを思い出した。
 デルカダール王が魔王に操られていたのだとしたら、彼の友人もまた同じように闇に染まってしまっているのかもしれない。自ら染まったか、或いは無理矢理染められたか。
「グレイグ様も……」
「ん?」
「もしかして、グレイグ様も、あなたのように魔族になられたのですか……?」
「グレイグだと? まさか! ははは、そうかあなたは何もご存じなかったな」
 ナマエの投げかけた疑問が相当可笑しかったのか、これは傑作とばかりにホメロスは腹を抱えて笑い転げた。ヒステリックな笑い声が、耳に障る。
「あの正義感の塊のような男が魔族だと! ナマエ、まったく笑わせてくれるな。あいつは全く気がついてなかったさ。自分の仕える王が実は故郷を滅ぼした恐ろしい魔の者であったことに」
 ハッとナマエは息を呑んだ。魔王が滅ぼしたのは、ユグノアだけではなかったというのか。
「まさかバンデルフォンまでも――?」
「そうだ、全てはウルノーガ様の描いた筋書き通りだ。誰も逆らえるものなどいない。グレイグも、デルカダール王も、勇者ですらも。光栄にもオレはそんなあの方の手駒として選ばれたのだ。才能あるものとしてな。あの方は約束通り、力を与えて下さった。闇の力は実にオレに馴染む。素晴らしいだろう? ああ、これでオレは宿願を果たせる」
 ナマエは目の前が絶望で暗くなるのを感じつつ、一方で小さな疑問を覚えた。魔に堕ちてまで彼は力が欲しかったのだろうか。いったいなぜ。どうして。宿願とは、なんだったのだろうか。
「……ホメロス様、あなたは、あなたの意志で魔王にお仕えされているのですか?」
「もちろん」
「なぜ」
「なぜ、だと? より力のある者に従うのは当然の摂理だ。力なき者は淘汰されるまで。だから私はあのお方に忠誠を誓った。生き残るためにな。……そうでなければ、私はとっくの昔に消されていた」
 先ほどまでの態度を一変させ、ホメロスが苦々しげにそう告げる。
 あ、とナマエは声を零した。ホメロスが言葉にするまで、その可能性には思い至らなかった。確かに絶大な力を持つ魔王の求めを拒否すれば、彼は消されていた可能性は大いにある。
 でも、だからといって彼の選択を支持できるかといえば、今の心情ではそれも難しい。ホメロスの仕える王はナマエの故郷を滅ぼし、家族を奪ったのだ。どころか、度々彼女が王から心無い扱いを受けるのを黙認していた可能性さえある。さらには彼自身が、このロトゼタシアを恐怖に陥れるその一端まで担った。
「あのお方に逆らえるとしたら、勇者くらいなものだ」
 皮肉げに口元を歪めるホメロスにナマエは固く目を閉じて俯いた。頭が混乱して、心の内の整理が追い付かない。
「……一体、いつから」
 いつから私たちを裏切っていたのか。
 その言葉はかろうじて飲み込んだ。先程の彼の言葉を借りれば、これは彼なりの生き残る術を模索した結果でもある。ならば一概に裏切ったと責めるのは酷かもしれない。
 ともかくナマエは真実を知った。
 だが真実を知ったところで、絶望が深くなるだけだった。救いはどこにもない。生き残った人間たちは魔物に狩られ、やがて絶滅するだろう。
 ――いや、あるいは。
 考え込むナマエの脳裏に一筋の光明が差す。
 魔王が復活したという事実にこそ、イレブンが生きているという証左とはなりえないだろうかと。古より受け継がれし勇者の伝説が本当ならば、イレブンは必ず今もどこかで生きているはずだ。悪しきものを倒す宿命を背負うもの、それが勇者だ。
「……っ!」
 ナマエははじかれるように顔をあげ、ホメロスを見つめた。イレブンは生きているの? 問いが喉までこみあげる。だが、それを口に出すことは憚られた。
「……ん? なんだ」
 きっと、ホメロスはナマエの問いに対する答えを知っている。だが彼女の大事な家族の生死に関わる情報を知っていてなお黙っていることに対し、目の前のひとに尻込みしたのだ。
「どうした、今度はだんまりか。……チッ、あなたが望んだから真実を話したのだが、どうやら失敗だったようだな。なぁ麗しの姫よ、過ぎてしまったことを嘆くより、こうしてまた我らが再会できたことを少しくらい喜んでくれてもいいのではないか?」
 薄情な女だ。ナマエの態度が癪に障ったのか、吐き捨てるようにホメロスが呟く。
 ナマエはびくりと肩を揺らし、委縮した。どうやら彼の機嫌を損ねてしまったらしい。
「……喜んで、いないわけでは」
 しかし彼の指摘は当たらずとも遠からずだ。ホメロスとの再会は確かに嬉しい。だがこのような状況で、しかも変わり果ててしまった待ち人の姿に手放しで喜べるわけがなかった。