第十五話
愛よ永遠なれ・後篇





 どうやらこれ以上の詮索は墓穴を掘るだけのようだ。
 そう気付き、ナマエは諦めて小さく溜息をついた。ホメロスから視線を逸らし、逃げるようにバルコニーの縁へと近づき地上を見下ろす。いくら目を凝らしても、人の作り出すともしびは見当たらなかった。どこまでも闇に沈む世界は、まるで死の世界のようだ。
 そして自分は今こうして、逃げ出すことすらできない雲の上に連れられてきてしまった。
「……どこに行っても、籠の鳥であることには変わりはないのですね」
 そう呟く声に隠しきれない諦観と皮肉が交じる。どこへ行っても自由はナマエの手に入らない。薄々分かっていたことだ。
 背後の部屋を振り返る。内装があのデルカダール城の一室とそっくりなのは、きっとホメロスなりの牽制と皮肉なのだろう。もはやナマエにはどこにも逃げられる場所はない、と。
「運が良ければ、グレイグがあなたを迎えにくるやもしれませんね。まあもっとも、もう死んでいる可能性もありますが」
「……グレイグ様は、生きていらっしゃるの?」
「さあな。気になるか?」
 答えをはぐらかしながら、ホメロスがナマエへとゆっくりと近づいてくる。もしかしたら、このまま彼に殺されるかもしれない。手のひらを返される可能性はあり得なくもない。どくどくと心臓が逸った。だが、どこにも逃げ場はない。
ナマエ、あなたは最後まで哀れな捕らわれの王女でしたね。流石に同情しますよ」
 まあ、半分は私のせいでもあるか。くつくつとホメロスが嘲笑う。黒く染まった爪先が伸びてきて、青白い手が風に靡くナマエの髪をひと房さらった。
「私を信じていたのなら、申し訳ない」
「ホメロスさま……」
 持ち上げた髪に顔を寄せ、唇を押し付けられた。一連の動作を見せつけるように紅玉の瞳がナマエを捕える。
「……あっ!?」
 それを甘んじて受け入れていると、急に腰を掴まれぐいと彼の胸元に引き寄せられた。胸が密着して、腰にしっかりと回った腕がナマエの逃亡を許さない。顔を上げればすぐ近くにホメロスの顔があった。赤い瞳がナマエを見下ろしている。息苦しい。胸が、苦しい。
 狼狽えるナマエを見下ろして、ホメロスは妖艶に微笑んだ。
「私が救い主ではないと知って絶望したか? こんなことなら、グレイグのやつに縋ればよかったと後悔したか?」
 まるで挑発するように棘のある言葉を投げつけられる。だが皮肉げな言葉とは裏腹に、青白い指先がそっと柔らかに頬を撫でていった。余りある力でナマエを傷つけないようにと気遣いすら感じさせるその指先が、額を通り、眦を撫で、顎先をくすぐり、唇へと至る。
「あ、」
 紅い両の眼差しでじっと見つめられ、場違いにも頬が熱を持っていくのを抑えきれない。……まるであの時のようだ。あの舞踏会の夜、バルコニーで彼と初めて踊ったときのような。
 思いがけず甦った郷愁に胸が苦しくなって、せつなさからぎゅっと目を閉じた時。
 ぱ、とナマエを包んでいた熱が離れていった。
「え……?」
 ――どうして?
 まるで放り出されるように唐突に抱擁が解かれ、ナマエは困惑を隠せない。瞼を開けると、ホメロスがグラスにワインを注ぎ足している姿が視界に入った。彼はナマエの困惑を見透かしたようにふっと鼻で笑い、悠々とワインを呷った。
「まあどちらにしても、もう遅い。せいぜいグレイグが助けにくるのを良い子で待つといい。まあ来ても奴は私が殺すがな」
「……私を殺さないのですか?」
「まさか、殺しませんよ。あいにく楽しみは最後にとっておく方でね」
 ホメロスはナマエの問いに心外そうに眉をひそめる。
「あなたの見ている前で、グレイグをぶちのめすのが楽しみだ。きっとあなたは奴に失望する」
 あいつの鼻を明かしてやれる機会がようやく来た。そう告げるホメロスは、今にも鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だ。
 ことグレイグに関しては、ホメロスはひどく饒舌だった。だが口をついて出るのは、殺すだのぶちのめすだの物騒な言葉ばかり。先程からホメロスがひどくグレイグに固執していることに気付いて、ナマエは当惑した。彼女が知っている二人の姿とは、あまりにもかけ離れている。
「なぜ、なぜそんなひどいことを言うのです。あなたたちは親友ではなかったのですか? いつからそんな仲たがいを? あなたたちは、あんなに互いを信頼しあっていたのに――」
 ナマエにとって誤算だったのは、この時まで彼ら二人の確執に気づかなかったことだ。
 上機嫌に笑んでいたホメロスの表情が一気に憎悪に染まった。
「っ、お前がッ!!」
「きゃっ」
 床に叩きつけられたグラスが、ガシャンと派手な音を立てて粉々になった。残っていたワインが白いドレスに飛び散ろうがお構いなしだ。ホメロスは粉々になったグラスをジャリ、と踏みつけ、ナマエににじり寄る。
「いくらオレがお前に心を砕いても、お前がオレに靡かないからだろう! どうせお前も結局はあいつを選ぶんだ!! 誰もオレのことを見ない……お前も、あいつも! だから奪ってやりたかった。あいつの大事なものを全部な! あいつさえ、グレイグさえいなければ……」
「――勝手に決めつけないで!!」
 聴くに堪えないホメロスの詰るような糾弾をあらん限りの声で遮る。
「……ナマエ?」
 ホメロスはナマエの予想外の反撃に驚いたのか、ぱちりと目を瞬かせている。ナマエは興奮を鎮めるように一度震える吐息を吐き出した。
 すっと息を深く吸う。そして正面からホメロスに向き合って、ひたと彼を見つめた。
「……ホメロスさま。私、あなたにお会いしたらお伝えしたいことがあったんです。どうか聞いていただけますか」
「……。なんだ、言ってみろ」
「――あなたは。あなたは私がデルカダール国に迎え入れられてから、一番長く側に居てくれました。不甲斐ない私を支えてくれて、とても感謝しております。友人としても親しくして頂いてとても嬉しかった。あなたにはたくさん助けられたし、様々なものを頂きました。あなたの存在はいつだって私の心の支えでした。だから一言……いいえ一言では済みません、お礼を言わせてください。ずっと側にいてくれてありがとうございます。ずっと守ってくれて、そしてたくさんの贈り物をありがとうございます。私に思いやりの尊さを思い出させてくれて、ありがとう。……誰かを大切に想う素晴らしさを教えてくれてありがとうございます。それから」
 一拍、間をおいて。
「――あなたをお慕いしております」
「……は」
 ホメロスは言葉を失ったようだった。
「嘘だ」
「嘘ではございません」
 目に見えて狼狽しはじめた彼にナマエは冷静に繰り返した。
「だがグレイグは」
「グレイグ様は関係ありません。あの方には確かに命を助けていただいた恩義がありますが、それだけです。グレイグ様にとっても、私は守るべき大勢の中のひとりにしかすぎません」
 やっとわかった。このひとはナマエが彼の親友のことを愛していると思い込んでいるのだ。今までのちぐはぐな態度も全てそれが原因だったのだ。わかってしまえば、彼の全てが愛おしくなる。
「私の心の中にいるのは、ただひとり、あなただけです。ホメロス様」
 いま、ナマエがすべきことはただひとつ。誠意を込めて想いを告げるのみだ。
 だが疑心暗鬼の塊となったホメロスはナマエの言葉を真っ向から拒絶した。顔を歪ませ、追い詰められた手負いの獣のように噛みついてくる。
「――はっ、そうやってオレを騙して、油断を誘って逃げ出すつもりか?」
「違います!」
「嘘をつくな! 無駄なあがきは止すんだな。オレはお前の意思を奪うことだって出来るのだぞ。少しでもオレに逆らう真似をしてみろ、お前の自我を奪って人形同然にしてやる!」
「……っ!」
 手こそ出してはこないものの、今にも喰いつかんばかりの恐ろしい形相で詰られ、ナマエは流石にめげそうになった。全く信用がない。当たり前か、今まで彼への想いは綺麗にひた隠して、捧げられる献身を何食わぬ顔で受け取ってきたのだから。だからこれはナマエの自業自得だ。ホメロスが立場を気にしたように、ナマエもまた己の立場を気にして自ら動くことをしなかった。
 情けなさから思わず泣きだしそうになって、ぐっと堪えた。泣いている場合ではないのだ。どれだけ言葉を尽くせばこの想いを彼に分かってもらえるだろうか。それとも、態度で示せばいいのだろうか。どうすればホメロスを納得させられるか見当もつかず、途方に暮れて縋るように彼を見る。
「そんな目でオレを見るな!」
 その視線が癪に障ったのか、ホメロスは苛立たしげに怒鳴って、踵を返して部屋の出入り口へと向かおうとする。この塔の一室を出られてしまっては、ナマエはそれ以上彼を追えない。
「待って、逃げないで!」
 目の前でひらりと翻った彼の衣服の裾を逃すまいと、必死にぎゅっと掴み取る。
「なっ、離せ!」
 バランスを崩したホメロスが床に膝をつく。行かせまいとばかりにナマエは彼の背中に縋りついた。
「お願い。行かないで。こっちを見て、ホメロス様」
 ナマエはホメロスのぬくもりを感じる広い背に顔をうずめ、涙ながらに懇願する。ぴたりと、彼女を振り払おうとする手が止まった。
 戸惑うような空気に恐る恐る顔をあげると、まるで奇妙なものを見たかのようにこちらを窺うホメロスと目があった。もう、どんな風に見られても構わなかった。体裁など気にする余裕はない。世界が壊れてしまった今、立場などというくだらないものを気にする必要もなくなった。
 ナマエは浮かんだ涙を拭うことも忘れ、固まったままのホメロスにそっと顔を寄せた。まぶたを閉じ、唇を押し付けるようにして奪う。彼の唇は冷たく、荒れていた。
 唇を離すと同時に、涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
ナマエ、いま」
 ホメロスは今起きたことが信じられないといった様子で、茫然と彼女の目を見つめ返した。余裕のないホメロスが少しおかしくて、ナマエは眉尻を下げて柔らかく笑いかけた。
「あの舞踏会の夜、バルコニーで一緒に踊ったあの時から、いつかあなたとこんなキスをすることを夢見ていたの……おかしいでしょ?」
「おかしくなど」
 ナマエの零れた涙を苦しげに見つめ、言葉に詰まったホメロスはふいと視線を逸らした。彼女の涙を度々拭ってくれた指は、もう持ち合わせていないようだ。

 ホメロスは床に座り込んだまま、動かなかった。動けなかったのかもしれない。ナマエを振りほどくこともできず、黙り込んだままだったのだから。
「……これでもまだ、信じていただけませんか。わたしのことを」
 問いかけにホメロスは肯定も否定もせず、ただ静かに瞼を伏せた。信じあぐねている。どうやらそれが彼の答えのようだ。
「――では、仕方がありません」
 言葉を尽くしても届かないのならば、彼が振り向いてくれるまで行動で指し示し続けるしかない。昔から現実主義の自信家なのに、肝心なところで臆病なのだ。そんなところはちっとも変わっていない。
 それがなぜだか、とても愛しかった。
 意を決したナマエは立ち上がり、ホメロスの腕をぐいと引っ張った。されるがままよろよろと立ち上がった彼をそのまま寝室へと引きずっていき、ゆうに大人五人は寝られそうな大きな大きなベッドの端へと座らせる。
「なにを」
 ホメロスの前に立ったナマエは、彼の見ている前でためらいなくドレスに手をかけた。息を呑む音。
「やめろ、ナマエ
 衣擦れの音がひどく耳に障ったが、手は止めない。狼狽まじりの制止の声を無視し、ナマエは脱いだドレスを見せつけるようにばさりと床に落とす。恥ずかしくないわけがなかった。こんな娼婦じみたことをしでかして、引かれてしまったらどうしようとか、呆れられてしまったらどうしようとか考えないでもなかった。
 でも今はそれよりも大事なことがある。どうすればホメロスに分かってもらえるのか。
 ……半分自棄になっていたふしもあった。
 歯を食いしばりながら下着を投げ捨てていくうち、とうとう生まれたままの姿になってしまった。気恥ずかしさからずっと伏せていた顔を上げると、ホメロスの視線はナマエの体に釘付けになっている。
「私、初めてではないのですが、もらっていただけますか?」
 理性を手放しきれず、大事なところを手で隠しながらの初めての誘惑はまあ及第点といったところか。本当はもっと大胆に迫る予定だったがこの際仕方がない。
 いつのまにか、ホメロスの瞳に欲情の炎が宿っている。だが彼は動かない。ナマエは焦れて男の前に膝をつき、後ろめたさから目を背けようとするホメロスの顔を真摯に覗き込んだ。
「それとも、”目隠し”をした方がいいですか?」
 弾かれるように、切れ長の目が驚愕に見開かれる。
「ッ……!? ま、さか気づいていたのか? オレが、あなたにしたことを」
 ナマエは何も言わず、ただ微笑んだ。
 まったく詰めが甘いひとだ。まさか気づいてないと思っていたのか。
 ホメロスはそれだけで全てを悟ったのか、諦めたように半目を伏せ深くため息をついた。
「……許せとは言わない。あなたの純潔を奪ったことも謝らない。私はあなたを娶る大義名分がほしかった」
 彼の口からやっと語られた真実に、ナマエはようやく己の抱えている傷が落ち着けるところにゆっくりと落ちていくのを感じた。
「それは、もしかしてあなたが魔王の配下だったから?」
「そうだ、オレはあの時すでにウルノーガ様に忠誠を誓っていた。そしてウルノーガ様はあなたを厭うていた。だが、あなたを傷つけてしまったことだけは申し訳なかったと思っている」
「許しません。とても怖かったし、悲しかったんだから」
 だから今夜はうんと優しくして。
 怒ったような命令口調とは裏腹に、ナマエはその目で、その唇で、全身で愛を乞うた。
 ホメロスが促されるように、恐る恐るナマエを見上げてくる。いつもは見惚れるほどキリリとした麗しい相貌が、今はとても情けない顔になっていた。だがその耐えるように歪んだ口元に、苦しそうに寄せられた眉間に、薄く皺の刻まれた眦にこそナマエの心臓は切なく高鳴った。
 愛おしい。彼がとても愛おしい。
 そろそろと臆病な手が伸びてきて、ぬくもりを確かめるようにナマエの頬に触れようとしてくる。ナマエはそっと己の手をその手の上に重ね、怯えを浮かべる紅玉の瞳を優しく見つめた。切れ長の眼差しが辛そうに歪む。恐る恐る触れてきたその手が震えていた。
 は、とホメロスが息を漏らす。
「……本当にいいのか? オレが、怖くないのか?」
「怖いわ、でも」
 彼の怯えごと包み込むように、そっとホメロスの額に口づけぬくもりを伝える。
「……こうやって、ずっとあなたに触れたかったの」
 泣き笑いを浮かべてそう告げれば、ホメロスは堪えきれないようにくしゃりと顔をゆがめた。まるで今にも泣き出しそうな迷子の子供のようだ。
 伸びてきた両腕がしっかとナマエを抱き寄せる。もう手離すまいと言わんばかりに、その腕の中に閉じ込められた。
 愛している。
 耳元で囁かれた言葉。多幸感にめまいがする。そのたった六文字の短い言葉を、一体どれだけ待ちわびたことだろう。
 男の首裏に両腕を回し、慈しむように美しい銀糸の髪を梳きながら、ナマエは故郷に伝わる子守唄を思い出していた。
 迷える魂は、安らぎを求めて逃げ込んだ夢の世界に囚われてしまった。
 ずっとずっと、こうやって彼は独りで道に迷っていたのだ。
 暗い森の奥深くで道に迷い、さまよっていた魂はこのひとだった。

 ――ナマエはようやく、ほんとうのホメロスを見つけられたのだ。