第十四話
千一夜のおとぎの国・後篇





 大樹が落ち、代わりに空に不気味な城が現れた。
 太陽が隠れてからいったい幾日経ったのだろう。
 最初は何が起こったのかわからず、ひたすら朝が訪れるのを待ち続けた。
 明けない夜の世界はじわじわと希望を蝕む。
 そのうち、気付いた。きっとこの世界は終末を迎えてしまったのだ。命の源である大樹は落ちた。人間たちはもうこのまま滅びを待つしかないのだ、と。
 涙はとうに枯れた。
 ひたすら絶望と孤独だけがナマエのそばに寄り添っていた。
 
 ざくり、ざくり。
 丈夫な樫のスプーンで、ナマエはひたすら土を掘り起こしていた。
 かつては黄色い薔薇が植えられていたその場所には、枯れた蔦以外なにもない。その地面に、人ひとり分が横たわるくらいのスペースを掘っているのだ。
 ドレスが土まみれになるのも頓着せず、流れる汗をぬぐいつつ、黙々と地面を掘り続ける。
 ――早く彼女を埋葬してあげねば。

 ジーナと二人で美しく整えた庭園は、大樹が落ちたときに襲ってきた爆風で見るも無残に荒れていた。屋敷の方にも被害が及んでおり、屋根は吹き飛び窓は全て割れた。どころか、台所から出た火で屋敷のほとんどが燃え落ちてしまっていた。
 あの大樹が落ちた日、山の上の方から飛んできた岩石にジーナの体は吹き飛ばされ、彼女はあっけなく死んだ。その惨い死にざまは思い出したくもない。
 ナマエはちょうど背後にあった鶏小屋ごと吹き飛ばされたのだが、幸いにも飛ばされた先は柔らかい草地の上で、さらに鶏小屋が彼女に覆いかぶさるような形となって爆風から守ってくれたため結果的に打撲で済んだようだった。その代わり、小屋の鶏たちは全滅してしまっていたが。
 目が覚めて、あたりの惨状に茫然とした。
 屋敷が燃えているのを、ただ指をくわえて眺めていた。消火しようという考えさえ浮かばなかった。ジーナの姿がないことに気付いて探し回り、ひしゃげた格子門の外に彼女だったものが転がっているのを見つけて涙が枯れるまで泣き喚いた。
 が、泣けども泣けども現状は変わらない。ここでようやくナマエは冷静になった。幾分混乱が落ち着いてきたはよかったが、今度はどうしていいか分からず途方に暮れた。
 ひとりだけ生き延びてしまった。当然喉が渇けば、おなかも空く。
 残念なことに菜園の葉物類は全滅していた。屋敷で備蓄していた食料も全て燃えたが、しかし死んだ鶏を捌き、地面の中で育っているはずの根菜類があればしばらくはしのげるかもしれない。鶏の捌き方は村の人に教わったが、なにせ実践ではやったことがない。初めて自分で捌いた鶏は血抜きに失敗してひどく生臭いものとなり、とても食べられたものではなかったが、それすら無駄にするわけにはいかなかった。
 幸いにも次の日には雨が降り、屋敷の火はようやく鎮火したようだった。残っていた鶏小屋の残骸の中で雨をしのぎ、熱があらかた収まるのを待って、いまだ燻る屋敷の中に慎重に足を踏み入れて使えそうなものを見つけては持ち出した。
 そういえば村の人たちは無事だろうかと思い立ち、一度村の方にも行ってみたが、村に着いた途端ナマエは己の行動をひどく後悔した。村は既に魔物に襲われた後で、大量の血痕と血生臭い匂いだけが残されていた。吐きそうになるのを堪えつつ、残されていた食料やら道具やらを拝借し、魔物が戻ってこないうちに急いで屋敷跡へと戻った。

 そして今日、数日前から少しずつ掘り進めていた穴が、ようやく目標の大きさまで到達した。
 人ひとりぶんの穴を掘るのは苦労した。なにせ手元には道具がほとんど残されていない。村から拝借してきたものの中で土を掘れそうなものは、いま手にしている大ぶりのスプーンくらいしかなかったのだ。
 ナマエはスプーンを置き、屋敷のそばに安置していたジーナの遺体を収めた麻袋をずるずると埋葬穴の方まで引っ張っていった。大量に血を吸った麻布は既に黒く変色している。
 遺体を穴の中に横たえ、その上から手で土をかぶせていった。汚れを知らなかったナマエの手は、いまやすっかりその爪先に黒い泥がこびり付いてしまっている。
 ようやく埋葬を終えると、ナマエは跪いて静かに祈りを捧げた。
「大いなる主よ、どうか彼女の魂が安らかならんことを――」
 いったいその祈りを、誰か聞き届けてくれるのだろうか。
 ……祈りなど無駄だということは、分かっていた。大樹が落ちた今、魂は還るところを失ったのだから。
 今は多少余裕があるが、このままでは自分とて危うい。食料には限りがあり、井戸水は徐々に腐りつつある。さらにここは山の奥まった場所にあり、魔物には見つかりにくいが、同様に人もほとんど訪れない。つまり助けを求めるにはナマエ自身がここを離れ、未だ魔物がうろついているかもしれないあの村を通り、街道まで出ないといけないのだ。
 街道までの道のりはひどく困難で、無事にたどり着けても助かる保証はない。
 だが、どのみちこのままここに留まっていても、野垂れ死ぬのは時間の問題だ。

 ――バサリ。
 ふいに風が巻き起こり、頭上を大きな影が覆った。
 何事かと反射的に顔を上げる。大きな月を背に、空中にひとつの巨大なシルエットが浮かんでいた。拡げられた大きな翼に角、長い尻尾が揺れている。
「ひっ!」
 魔物だ。とうとう見つかってしまったのだ。
 ナマエは恐怖に身がすくみ、その場を動くことができなかった。
「ご機嫌よう、ナマエ様」
 ふいに、その魔物が口を開いた。聞き間違いでなければ、それはナマエの名を呼んだ。なぜ。混乱し、息をすることを忘れて硬直するナマエの前に、魔物はゆっくりとホバリングをしながら降り立った。巨人のような大きな躯、灰青の肌、銀糸の長い長い髪。顔は、……逆光で良く見えない。
 魔物の胸元を飾る銀の宝玉が淡く光ると、どこからともなく黒い霧が現れてその巨躯を包みこむ。霧を取り込んだその大きなシルエットがまるで手品のようにするすると小さくなっていく。
 霧が晴れて、果たしてそこにいたのは。
「――あ、」
「約束どおり、お迎えにあがりましたよ」
 "それ"は、恭しく一礼した。
「まさか、ホメロス様、なの……?」
 ナマエは目の前で起きた出来事にぽかんとしながら現れた人を見つめた。思考がついていかない。どう見ても魔物にしか見えない異形の生き物が、次の瞬間人間の形になった。それも限りなく、ナマエの知っている人物と似た姿で。違うのは肌と瞳の色、髪の色。そして身に纏うものくらいだ。目の前のひとはあの輝く白銀の鎧ではなく、赤と黒の役者のような奇抜な衣装をまとっている。
 だがその端麗な顔立ちは忘れるべくもない。人を食ったようなその笑みも、前髪を払うしぐささえも、全てが記憶にあるものと一致している。魔物が化けているのかと一瞬思ったが、これはホメロスそのひとだ。あれほど待ち焦がれたひとを、見間違うはずもない。
 ……だがこの妖艶な雰囲気はどうしたことだろう。血色の濡れた瞳に見つめられると、頭がくらくらしてくる。
 ホメロスはぼんやりと彼を見つめるナマエに微笑みかけると、いまだ座り込んだままの彼女の前に膝をついて優雅に頭を下げた。
ナマエ様、ご無事でなによりでした。生きていてくださったとはまことに僥倖。おかげで死霊術の力を借りずに済んだ」
「……何を言っているの?」
 目の前のホメロスから甘ったるい匂いが漂ってきて、ますます思考がぼんやりとした。先程は月の光のせいかと思ったが、やはり彼の肌は死者と見間違うほどに青白い。
「ホメロス様、いったい何が起きたの? どうしてそんなお姿に。それにさきほどのあれは――」
「それは?」
 はなからこちらの疑問に答えるつもりもないのか、ホメロスは問いかけを遮るようにしてナマエの目の前の不自然に盛り上がった土に目線を落とした。
 指摘にナマエはびくりと体を震わせる。叱咤されたわけではないと分かっていた。だが彼の乳母の死を目の前のひとに告げるのが恐ろしく、唇を噛んで俯く。
「……そういえば、ジーナはどうした」
「っ、!」
ナマエさま?」
「……じ、ジーナさんは、大樹が落ちた時に……」
「死んだか」
 ナマエがようやくこくりと頷くと、ホメロスは乳母の埋葬された場所を一瞥し、そうかと小さく呟いた。特別思うところはなにもないのか、その赤い瞳には何の感情も浮かんでいない。
 ホメロスは立ち上がり、ナマエを促した。
「――さあ、もう行きましょう。ここも安全とは言い難い」
「……でも、どこへ?」
 漠然とした疑問がぽろりと口から滑り落ちる。この世界にもはや安全な場所などあるのだろうか。
 ホメロスはナマエの不安を打ち消すかのようににっこりと口角を上げ、芝居がかった仕草で一礼してみせる。
「もちろん、世界一安全な場所へお連れいたしますよ」
 言うや否や、ホメロスはいつの間にか手にしていた魔道杖を一振りした。彼の胸元が鈍く光ったかと思うと、目の前で見る間にその体が変貌していく。
「あっ!」
 肌を突き破るようにして彼の体が巨大化していくのを、ナマエは茫然と眺めることしかできない。
 すっかりと現れた時の異形の姿に戻ったホメロスは、言葉もなく立ち尽くすナマエに向かって鋭い犬歯を見せつけるようにニイと嗤ってみせた。
「さあ、お手をどうぞ。姫君」
 ナマエの頭を軽く片手で握りつぶせそうなほどの大きな大きな手が、目の前に差し伸べられる。黒く鋭い爪、ざらざらとした灰青色の肌、手首を覆う深い毛皮。
 どこからどう見ても、彼は魔物だ。
 本能が差し伸べられた手を取ることを拒絶して、じり、と無意識に体が半歩後ずさる。
「オレが怖いか」
 ナマエの恐怖を見透かすように、血色の瞳が弓なりに細められた。恐怖で息が上がる。怖い、だが彼から逃げられる気もしない。なにより、この目の前の魔物はホメロス自身であるという事実にこそナマエは葛藤を覚えていた。
 血色の目がじっとこちらを窺っている。彼女が手を取るか、または逃げ出すか。
 ……少しでも逃げ出す振りを見せれば、彼はその凶悪な爪でナマエの背中を引き裂くのだろうか。
「できればこの手を取って頂きたい。オレもなるべくならば無理強いはしたくない」
 中々動かないナマエに焦れたのか、ホメロスが言い聞かせるように促す。ナマエはぎゅっと目を瞑り、その僅かな間で覚悟を決めた。
 ――どのみち行く場所などないのだ。
 目を開け、深く息を吸う。今一度挑むように頭上にある血色の瞳を見上げてから、恐る恐る手を伸ばして灰青色の指先に触れる。仄かな温もり。生きている。その大きな手の上に己のそれを重ねると、自分の手が随分小さくなったように見えた。
「ふっ、肝の座った女だ」
「――えっ、まって、……きゃあっ!?」
 ホメロスは満足げに鼻を鳴らしたかと思うと、片手でいともたやすくナマエの腰を掴み、そのまま胸元へと抱きよせる。まるで大事なものを抱えるかのような繊細な手つきにナマエは困惑した。
「ほ、ホメロスさま……」
「飛びますよ。夜の空中散歩と洒落込みましょう。しっかり掴まっていてください」
 言うや否やホメロスがぐっと跳躍する姿勢になったので、慌てて目の前の太い幹のような首筋に両腕を巻き付ける。
 黒い翼をバサリと羽ばたかせ、ホメロスは地を蹴った。