幸せになるための三つの願い・前篇




 ――さて、これはどうしたものか……。
 ホメロスは目の前の仲睦まじい親子の後ろ姿を難しい顔で眺めていた。
 親友の叱咤激励と愛する人の想いに応えるため無事失意の底より立ち直ったホメロスだったが、牢を出た直後、いの一番にナマエの親族と出くわすという緊急事態に見舞われた。愛する人と共にあることを誓ったはいいが、すっかりその存在を忘れ去っていたホメロスご自慢の頭脳は非常に残念なことにその時点でフリーズしてしまった。昨日の敵は今日の友……とはならず、ホメロスにとってロウとイレブンはまた別の意味で彼の挑むべき強大な敵だ。つまりナマエを伴侶とするための承諾を彼らに得なければならぬのである。いや、承諾の前にまだまともな挨拶すら交わしていない。なんと切り出せばよいのか。そもそも何から説明すれば? 真っ白になってしまった頭には気の利いた言葉のひとつすら浮んでこない。ロトゼタシア中の古今東西ありとあらゆる知識を詰め込んだ頭脳も、こんな時にはただのポンコツ同然と成り果てる。まったく忌々しい。ホメロスはなんとかポーカーフェイスを保ったまま、目の前でやりとりされる親子の楽しそうな会話を右から左へと聞き流していた。
 さて、これは困ったぞ。だんまりを決め込んでいるうち、いたずらに時間だけが過ぎていく。
 落ち着け。まずは不信感を持たれないように爽やかかつ誠実な態度で挨拶をすべきだ。幸いにも猫を被るのは昔から得意だ。いやいやそれよりも謝罪が先か……? 散々敵として相対しておいて、今更被る猫もあったものではない。それに誠実だと? まったくもって自分のキャラではない。あまりの胡散臭さに逆に警戒されて終わりだ。――ああ、ならば一体どうすればいい!?
 ひとり難しい顔で懊悩するホメロスだったが、もたもたとしているうちナマエがホメロスの手を離し、ロウと腕を組むようにして回廊を歩き出してしまった。挨拶のタイミングを見事に逃してしまったホメロスは、そのまま無言ですごすごと彼らの後について行く。ああとんだ失態だ。ホメロスに対する彼らの心象は最悪の一点。今もまだ底の見えぬ坂道をころころ転がり落ちてるところだろう。第一印象……、はまあ最悪そのものなのでどう足掻いても良くなりようはないが、しかしここは少しでも印象払拭に努めるべきところだった。なんという痛恨の極み。
 ……しかし彼らは一体どこへ向かうつもりなのだろうか。すっかり上の空で彼らについていくこと少し、ふと疑問に思い顔を上げるといつの間にやら目の前に玉座の間へと続く大扉がそびえ立っているではないか。
 ホメロスは知らず抱いた緊張をぐっと飲み込んだ。この扉の向こうに、王がいる。


 一行に向かって敬礼した兵の手により、重厚感のある大扉がギギギ……と軋んだ音を立てて開かれていく。扉の向こうは一層煌びやかな空間に続いており、豪奢な絨毯にシャンデリアのキラキラとした眩しい光の粒が降り注いでいた。ロウとナマエイレブンとホメロスが順に扉を潜ると、玉座の間の中央に集っていた人々が一斉にこちらを向く。いずれも見知った顔、勇者の旅の一行だ。他には少数の近衛兵、そして大臣が控えている。勇者一行の好奇心の入り混じった視線を受け、若干居心地が悪い思いを抱きながらもホメロスは彼らに譲られるがまま赤い道を進む。まっすぐに続く赤い絨毯、そして高貴なもののみに許された紫の絨毯のその終点に、王がおわした。その左右を守護するように、デルカダールが誇る一騎当千の黒騎士、そして国の至宝たる麗しき王の一人娘が控えている。
「おお、ホメロス」
 よく響くバリトンの声が玉座の間を通り抜けていった。威厳に満ちたこの声を耳にすると自然と身が引き締まる。この声の主こそは、デルカダール国の支配者にして守護者、王冠を戴く白髭の王、モーゼフ・デルカダール王三世陛下だ。
 ――審判の時は来た。
 ホメロスは覚悟を決め、無言で前へと進み出て粛々と王の前へと跪く。
「我が王。ホメロス、ただ今まかりこしました。遅参を深くお詫び申し上げます」
「うむ、よい。ようやく顔を見せてくれる気になったか、我が息子よ。さあ顔をよく見せておくれ」
 許しを得て、ホメロスはゆっくりと顔を上げた。壇上の王の眼差しには慈愛が溢れ、その目は少し潤んでいるようだ。……ああ、間違いなく王だ。その眼差しと声色にかつての優しい王の面影を見出し、感無量に胸が一気に詰まる。ぐ、と涙腺が瞬く間に崩壊の危機を迎えるのはなんとか持ちこたえた。ここにいるのはあの冷酷で恐ろしい王ではない。かつてホメロスが父と慕った優しくも厳しい偉大な王その人だ。
 長い間悪しきものに体を乗っ取られていたせいか、王の顔色はまだ冴えない。体調も寛解までとはいかないようで、玉座に座っているのもやや辛そうだ。しかしこの場にはロトゼタシアいちの癒し手が二人も揃っているのだからサポートの態勢には抜かりはない。
 デルカダール王はホメロスが胸を詰まらせる様を優しい眼差しで見守り、深く頷いた。
「話は聞いた。お前にも不憫な思いをさせたようだな。……わしを許してくれるか、ホメロス」
「そんな、王よ……許すだなどとんでもない。デルカダールを、ひいては世界に仇なす大罪を犯した私に向かってもったいなきお言葉」
 果たして王より賜った言葉は、叱咤ではなく慈愛の言葉だった。思いがけない謝罪の言葉にホメロスは胸に込み上げるものを飲み込んで、ぎり、と唇をきつく噛みしめる。王は誰も責めるつもりはないのだ。
「そのような淋しいことを申すでない。お前は見事己の内に蔓延る悪をはねのけ、わしが誇るデルカダールいちの騎士として無事戻ってきてくれたではないか」
 王の隣に立つマルティナが、己の父をいたわるようにデルカダール王の肩に手を置いた。王が愛娘へと振り返って、親子同士の親密なアイコンタクトを交わしている。十六年の空白期間があっても、やはり親子の絆はそうそう簡単には失われないらしい。その仲睦まじい様子に、ウルノーガによって奪われた歳月の尊さを改めて思い知る。この十六年の間で、失ったものの価値は計り知れない。それぞれの大切な思い出となるはずだった月日にただひたすら暗い影を落としている。
 王女として恵まれた人生を送るはずだったマルティナも、両親に愛されてすくすくと育つはずだったイレブンも、孫の成長を見守りつつ第二王女の降嫁先に頭を悩ませる予定だったロウも、そしてナマエも。全てがウルノーガという存在に人生を狂わされた。
 ホメロスとて、己の功績に消すことのできない傷痕を残す羽目になった。悔しかった。まんまと敵の術中に嵌り、さしたる抵抗もできず悪の手駒とさせられた。己の人生を好き勝手に荒らされ、悔しくないわけがない。
 後悔に歪む顔を隠すようにして頭を垂れ、ホメロスは重々しく己の罪を告白する。
「いいえ、我が王よ。最早そのような言葉に値する私ではありませぬ。慈悲深き我が王に仕える臣下として、私は許されざる背信行為を犯しました。例え闇の魔道士に操られていたのだとしても、そんなもの言い訳にもなりますまい。ウルノーガの罠に堕ち、思考が徐々に闇に染まっていく予兆はあった。完全に奴の手駒と成り果てる前に、私は自ら命を絶つべきでした」
 あの悪の根源に自分一人ででも立ち向かうべきだった、などという考えは驕りも甚だしい。だが騎士は騎士らしく、その高い矜持を守るために自分で決着をつけるべきだったのだ。そうすれば、少なくとも幾つかの救われた命があったかもしれない。
「やめよ、もうよい。誰かが犠牲になるのはもう沢山だ。わしはもう、誰一人大切なものを失いたくはないのだ」
 叱咤するようにホメロスの言葉を否定した王がおもむろに立ち上がり、慎重な足取りで壇上から降りてきた。跪くホメロスの前まで歩み寄り、立ちなさい、と促してくる。
 ホメロスは王を振り仰ぎ、深い皺の刻まれた目元を縋るように見つめた。
「こんな私を、大切なものと仰ってくださいますか」
「当たり前だ。お前は自慢のわが息子。どうか卑下などしてくれるな」
「王……」
 くしゃりと顔を歪ませて、王の言葉を噛みしめる。
 王の言葉はどこまでも優しく内に響く。萎れかけた自尊心が、太陽の光を浴びて再び首をもたげていくのを感じていた。
 かつて、一度ウルノーガによって踏み潰された自尊心。ホメロスは確かに自分の罪が許せなかった。だが全ての元凶はウルノーガだ。そこは間違えてはいけない。必要以上に自責に駆られては自滅をも招きかねない。事実、ホメロスもその一歩手前であった。
 幸いにも、ホメロスには冷静な判断を下せるだけの能力と知識がある。ウルノーガの遺した負の遺産に苦しめられるのはもうたくさんだ。過去は過去として見つめるべきなのだ。後悔のあまり盲目になるような愚かな真似だけはすまい。
 ゆえに。
「しかし、幸いにも私はイレブン殿に助けられ、二度目の生を得た。一度は自暴自棄となりかけましたが、今はただそのことに深く感謝し、与えられたこの生をまっとうしたく思います」
「……おお! そうか、そう思えるようになったのは良い兆しだ」
 促しに応じて立ち上がり、力強い眼差しを浮かべるホメロスの様子に王は安堵の笑みを浮かべた。その姿はかつての慧眼の持ち主そのもの。自信を取り戻した彼にもう怖いものはない。
 ホメロスはイレブンによって生かされ、魂を救われた。ならば、生き残ったことへの意味がそこにあるはずだ。彼にとって無駄死はそもそも嫌悪すべきもののひとつである。
「私は確かに罪を犯しました。ですがその事実から目を逸らさず、粛々と罪を償っていきたいと願います」
「お前がそう願うならば、わしと共に償う道を探そう」
 強い決意と共にそう告げれば、王は目元に笑いジワを寄せてくしゃりと笑った。


「――陛下、お話の途中ですが、発言させていただいてもよろしいでしょうか。そのことについて、私からひとつご提案があります」
 ふいに側から声が上がり、振り返る。少し離れたところで二人のやりとりを見守っていたナマエが、片手を上げ発言の許しを待っていた。デルカダール王がロウとともに控える見知らぬ女性の顔を暫し不思議そうに眺めた後、その正体に気づいて「おお……」とため息を漏らした。
「そなた、もしやナマエ姫か。美しくなられた」
 感慨深げに目元を伏せる。デルカダール王の記憶にあるナマエの姿は十六年前の少女の頃のものだ。おそらくその頃の面影を重ねているのだろう。
ナマエ姫、長らく辛い目に合わせてまことにすまなかった」
 王はナマエへと歩み寄り、皺の刻まれた手を差し出す。ナマエは万感の想いが込められたその手をそっと取り、こみあげるものを噛みしめるように唇を結んでゆるゆると首を振った。
「いいえ、いいえ。お互い長く辛い時を過ごしてまいりました。責を負うべきは陛下を操っていた悪の魔道士ただひとりのみ。陛下こそ、無事マルティナ様と再会できたこと、お喜び申し上げます」
「うむ、かけがえのない家族との再会に勝るものはないな。互いにの」
 茶目っ気のこもった王の笑顔に、ナマエが輝くような笑みを浮かべ頷く。十六年の歳月を経て、やっと家族との再会が叶った二人。ほぼ初対面同士ではあったが、見えない絆が確かにそこにあった。
「ホメロスよ。お前はわしに化けたウルノーガの魔の手から姫を守ったと聞いたが、それはまことか?」
「……はっ。ウルノーガにナマエ姫の抹殺を命じられた際、咄嗟に彼女の死を偽装し、匿ったことは確かです」
 急に話題を振られ、咄嗟にホメロスは姿勢を正す。
「うむ、流石は我が息子だ」
 その答えに満足げに頷いて、王はまたナマエへと向き直った。
「そなたには本当に怖い思いをさせたようだの。まったくロウには申し訳が立たん。詫びといってはなんだが、なにか願いはないか? わしに出来る範囲でなら、融通を利かせよう。おお、その前に先ほどなにやら提案があると申していたな。気兼ねせず申してみよ」
 ナマエはその言葉を待っていたように王へと改まった。
「では、お言葉に甘えていくつかわがままを申し上げてもよろしいでしょうか?」
「構わぬ」
 その一言にナマエはほっとしたように微笑んだ。己を落ち着かせるように瞼を伏せ、一呼吸。そして、再び開かれた美しい眼差しでひたと王を、そしてこの場にいる人々をじっくりと見渡す。
「見事勇者イレブンの手により諸悪の根源が除かれ、晴れて世界平和が実現とあいなりました。ユグノアが滅亡してよりはや十六年、わたくしは片時も愛する故郷のことを忘れたことはありません。そこで世界が平和となった今こそ、ずっとこの胸に秘めてきた望みを叶えたいと強く願い、陛下に奏上いたします」
 春の風のように伸びやかな声が、玉座の間を通り抜けていく。
「その望みとは?」
 はい、と頷き、ナマエは一呼吸置いた。
「ひとつは故郷を今一度この目で見ること。そしてもうひとつは、ユグノア王国の復興です」
 ほう……、と幾人かから感嘆のため息が微かに漏れた。一見大人しそうな王女から、まさかいきなりそのような大胆発言が飛び出すとは思うまい。無論、ナマエの願いはホメロスにとっても予想外だった。王はしかし泰然とした様子で鷹揚に頷いてみせる。
「ほう。壮大な望みだな」
「はい。私一人では叶えることのできない、途方もない望みです」
「して、それを叶えるためにそなたはわしに何を願う? 遠慮するな。申せ」
 恐縮です、とナマエが緩く膝を折るようにして、優雅な仕草で頭を垂れる。
「そこで陛下にはユグノア復興のための資金提供をしていただきたく、お願い申し上げたいのです。もちろん、無利息での融資を希望いたします」
「ほう?」
「やはり先立つものがなければ不安なものですから」
 と、かなりふてぶてしいことを要求しつつ、ナマエはしたたかに微笑む。しかししたたかさでは王も負けてはいない。デルカダール王にとってもここは大国の王としての度量の示しどころである。
「ふむ、ユグノア復興については各国を交えて話し合いの場を設けるつもりであった。他でもないそなたらが復興を望むのならば、無論我が国としても支援は惜しまぬつもりだ」
「大変ありがたく存じます」
 再びナマエが緩く膝を折り、次なる発言の許可を求める。
「もうひとつ、よいでしょうか」
「うむ、言ってみよ」
「ユグノアの復興にあたり、沢山の人手が必要となります。屈強なデルカダール軍の方々におかれましては、是非我がユグノア復興へのお力添えをお願いしたく思います」
「つまり我が国の軍を派兵せよと?」
「はい。もちろん、派兵に際して発生する人件費はお支払いするつもりですが、経済基盤が出来上がるまで、当分のあいだは復興支援金から出させていただきます」
 つまりその分、支援金に色を付けろと言っているのだ。人件費を彼らで持つといったのは領内での金の流動を促すのが目的だろう。
「それともし、勇敢なるデルカダール軍の方々が新生ユグノア国を気に入ってくださって、定住したいと申し出があった場合には、陛下におかれましては是非とも寛大なお心で許可をしていただきたく思います」
 むむむ、とそこで初めて王の眉間が悩ましげに寄った。やはり、流石にこれには難色を示したようだ。人材の流出は国にとって痛手だ。
 だが思わぬやり手の交渉人の登場に王は興味深いまなざしをナマエへと向け、立派な顎髭を扱きながら少し考え込むように唸っている。
「うーむ、それでは我が国が一方的に損するばかりだ。対価とは言わぬが、なにかリターンが欲しいところよの?」
 王の発言を予測していたか、ナマエは落ち着いた様子でこれに頷いてみせる。
「もちろんです。ただ未だ見ぬ未来のユグノアはどう発展を遂げるのか現時点では未知数……。あまりこれといって提示できるものがなく申し訳ないのですが、代わりに対価として、そうですね……。ユグノアが復興した暁には、四年の期限を設け、貴国との間で独占的に貿易条約を結ばせていただく、というのはどうでしょうか? かつてわが国は羊毛産業が盛んで、各国に上質な羊毛を輸出しておりました。レッドベリーで染めた、ユグノア織という独特の模様を織り込んだ毛織物も代表的な我が国の輸出品でしたね。それに山間に広がる豊かな森林からは立派な木材が取れ、高原で育てた乳牛からは栄養価の高く美味な乳製品が、そして海からの潮風を受けてミネラルたっぷりの土壌で育った葡萄で造られた芳醇なワイン……。デルカダールより北部に位置し、標高も高いユグノアは昼夜の寒暖差が大きく、昔から良質で立派な葡萄が育つことで有名でした。いかがでしょうか? 私はこれらをユグノアの特産物として復活させたく思っております。貴国はこれらに自由に税をかけ、各国へ輸出できる権限を独占できるのです。ただし輸送費はそちら持ちで」
 あくまで己の負うリスクは最小に。手堅いやり方で足場を積みあげつつ、一方で相手への要求は大胆に。とは言え、得られるメリットは確実にある。ユグノアがまた元のように復興した暁には、二国間にて軍事同盟を結ぶことになるだろう。あらゆる技能面の輸出、武器や防衛設備、大型兵器の輸出、ほか学問や文化の交流など、この二国が手を結ぶことで生み出される利益は無限大だ。廃れていた二国間の貿易ルートも再び活発化し、街道沿いの街は栄えるだろう。街道が整備されることで安全が確保され、人々の流動も増加する。
 これは単なる慈善事業ではない。さあこの提案に伸るか反るか。ホメロスが脳内ではじき出した答えに、王も間もなく辿り着いたようだった。
「ふ、ふははは! よい、よい。すぐに具体案を詰めにかかろう」
 王はひとつ高笑いを響かせ、満足げに頷いた。

 やはり緊張していたのか、無事大役を演じきったナマエはほっと安堵の表情を浮かべた。が、すぐにその顔が憂いに陰る。どうやらまだ懸案事項があるようだ。
「――それともうひとつ、よろしいでしょうか」
「うむ? まだあるのか?」
 立て続けの要求に、流石に面を食らったように王が眉頭を跳ね上げる。すると先ほどまでの堂々とした態度はどこへやら、ナマエは急に自信を失ったように不安げに眉根を寄せて俯いた。言葉に迷っているような素振りだ。しかし、それもやがて覚悟を決めたように顔を上げ、先程以上の気迫をもって王へと対峙する。
 そして、その微かに震える唇が紡いだ言葉は。
「ホメロス様を、わたくしにいただけませんでしょうか?」
 は? と腕を組んで傍観していたホメロスの口から間の抜けた声が漏れたのと、「ひゃあ」と後ろで歓声が上がったのは同時だった。あまりに予想外かつ大胆な発言にホメロスはすっかり惚け、まるで他人事のように茫然と突っ立ったまま動けないでいた。
ナマエ様?」
 呼びかけにナマエは気恥ずかしそうにちらとこちらに視線を寄越し、しかしすぐによそよそしく視線を逸らされる。背後ではメロドラマばりの恋愛劇が展開される予感に双賢の妹がきゃいきゃいと浮かれている様を、しっかり者の姉が黙らせていた。
「ほう、我が息子を所望とな? それはなにゆえだ?」
「はい。我がユグノア復興には、彼のような有能な方が必要不可欠だと判断しました。それに先程おっしゃっていた彼の罪に対する償いについてです。ひとつの国を復興させる……、それが彼の償いの代わりとはならないでしょうか」
 王の問いかけにしっかりとした口調で答えるナマエの主張は、一見まともな意見に思えた。だがそれだけが理由の全てではない。王が意味深な視線をホメロスへと向け、ふーむ、と何かを悟ったように目を細めてみせた。
「なるほど。ホメロスほどの逸材を手放すのはわが国としても大変な痛手だ。そちらについては簡単には承諾しかねるが……、しかしナマエ姫、我が息子を欲するのはそれだけが理由ではあるまい? 正直に申してみるのならば、わしとしても一考の余地はあるがの」
 ナマエの思惑は既に王に見破られている。王のどこか面白がるような、いわくありげな台詞に彼女は動揺し、流暢だった口ぶりがその日初めて淀んだ。
 それは……、と言いかけて、言葉に詰まったように俯く。衆人環視の中、本当の理由を告げることをためらっているのだろう。渦中の人物であるにも関わらず、ホメロスはすっかり置いてけぼりを食らっている。だがこれは王とナマエ、二人の間の駆け引きだ。助けを求めるのは彼女の矜持に関わるのだろう。無論、ちらとでもこちらに視線を送ってくれればホメロスにはすぐにでも助けに割って入る用意はあった。それが分かっているのか、彼女は頑なにホメロスを見ない。それにようやく気付いたこの彼女の大胆発言の意図も、ホメロスが手助けすることで台無しにしてしまう恐れがあったためうかつに手出しもできない。
「それは、……とても個人的な理由なのです、陛下」
「その理由とは?」
 王はナマエをさらに追い立てる。彼女が困窮していく様を手をこまねいて見ているのは、そこまでが限界であった。