騎士は誓う




「ホメロス様!」
 突如、光が差し込んだ。声が聞こえた瞬間、ぶわり、と目の前に鮮やかな色がなだれ込んできて総毛だつ。独房に飛び込んできた声の主に気付いて、呼吸が止まった。
 茫然としてグレイグの背後へと視線を向ける。ここまで駆けてきたのだろう乱れた髪もそのままに、せわしなく上下する胸元を抑え、独房の格子扉に掴まりながら立っているのは。
「ホメロス様……、ああ、あなたなのね」
 星の輝きを宿す潤んだ瞳。上気した薔薇色の頬。ホメロスを認め、花びらで形作られたような唇が綻ぶ。彼女が微笑んだ瞬間、まるで辺り一面春の嵐が吹き荒れたようだった。ああ、間違いなく彼女が春を運んできたのだ。
ナマエ、」
 春の妖精は羽が生えたような軽やかな足取りでこちらへと駆け寄ってくる。その一挙手一投足を、彼女から向けられるまなざしの全てを、ホメロスは瞬きもせず見つめていた。
「やっと会えたわ」
 座り込むホメロスと目線を合わせるように膝をついたナマエの視線が、ホメロスの無事を確かめるように上から下までくまなく全身を行き渡る。再び顔へと戻ってきた視線が熱く絡んで、彼女はふふっと嬉しそうに微笑んだ。涙を含んだ眦が興奮と感動とで少し赤みを帯びている。
「なぜ、ここに」
 すぐ目の前に、ナマエがいる。その事実をうまく処理しきれず、ホメロスは顔を強張らせて木偶の坊のように座り込んだまま動けないでいた。ついさっきまでそこにいたグレイグは、薄情なことにいつの間にやら独房を出て行ってしまったようだ。
 ナマエは茫然とするホメロスに、眉尻を下げて柔らかく笑いかけた。
「ホメロスさま……ずっとずっとあなたのことを待っていたのに、どうして会いに来てくださらなかったの。すっかり待ちくたびれて、私の方から会いに来てしまいましたよ」
 少し拗ねたような甘やかな声が鼓膜を擽る。冷たい石床の上できつく握りこぶしを作るホメロスの手にそっと伸びてきた彼女の手が重なり、その柔らかさに驚いて反射的にびくりと体が跳ねた。確かな実感を伴ったナマエの人肌のあたたかさに慄く。理性が吹き飛びそうだ。このまま、このひとをこの腕の中に閉じ込めることができたのなら――。
 しかし感情とは裏腹に、その口が紡ぎだしたのは冷たい拒絶の言葉だった。
「お会いするつもりはありませんでした。私は死んだものとでも思って、どうかこのままお引き取りください」
「いやです」
 後ろめたい想いを誤魔化したくて、ナマエのまっすぐな視線から逃れるように目線を逸らした自分は確かに臆病者だろう。だがそんなホメロスの頬をぴしゃりと叩くように、明確な意思をもった声色がきっぱりと否定の言葉を紡いだ。驚いて顔を上げる。目の前には、流されるがまま生きていた以前の彼女とは別人のように生き生きとした瞳を持つ美しいひとがいた。ドク、と一度心臓が大きく跳ねた。
「以前、求婚してくださったときに、責任をとってくださるとおっしゃいましたね」
「……あれはもう時効だ。それにあの時、あなたは私の求婚をお断りになられたはず。今更その話を蒸し返されても困ります」
 本心とは裏腹に、ナマエが切り出した話題をホメロスは苦々しげに拒絶するしかなかった。曖昧な態度で下手に希望を持たせて、彼女を己の側に引き留めることだけはすまいと固く決めている。
「そんな……」
 だが拒絶されたナマエの目にすぐにでもじわりと涙が滲んで、悲しげな顔で切々と訴えかけるような視線を向けられるものだから堪らない。
「やめてください。泣かれても、もう私はあなたの涙を拭うことは出来ない」
 己のやましさから逃れたい一心で、ホメロスは立ち上がってナマエから距離を取るようにして背を向けた。俯いて、節くれだった己の両手を見下ろす。潰れたまめの痕とペンだこが目立つ、お世辞にも綺麗とは言い難い手だ。この手こそが幾人もの命を屠った。この汚れた手で、彼女の手を取ることはできない。
 ウルノーガという脅威に出会うまで、ホメロスは自分を厳しく律する自信があった。感情など理性で簡単にコントロールできる。だが実際はどうだ。簡単に心の隙を突かれ、闇に付け込まれて操られた。彼女を守ろうとして逆に傷つけ、鬱屈して歪んだ想いをぶつけた。男の欲望が、支配欲が彼女を恐ろしい目に合わせた。全部この手で。自分が。
 ぐすり、と背を向けた先で弱弱しく鼻をすする音が痛いほどに耳に突き刺さる。今すぐにでも振り向いて彼女に己の無礼を謝りたい衝動を、ホメロスはぐっと堪えねばならなかった。
「どうして……? どうしてわざと遠ざけようとするの?」
「あなたは分かっていない。私は大罪を犯した。そんな男の側に居るべきではない」
「ホメロス様の置かれている状況は理解しています。その上で私はあなたに会いに来たの」
「私は狭量で、その上卑怯な男だ。あなたも、もうわかっているだろう? 私があなたに近づいたせいで、あなたは不幸になった」
 胸の内にあるのは己への怒りだ。ぐ、と震える拳を握りしめ、石壁を殴りつけたい衝動を抑えつけた。
「もう、オレなんかにかかわるべきじゃない。オレはあなたを傷つけることしかしてこなかった」
「うそよ」
 迷いを見せるホメロスの背を、そのたった一言が引きとどめる。
「そんなの嘘。知っているもの。あなたが私を守ろうとしてくれたこと。危険から遠ざけようと尽力してくださったこと」
 息がつまる。胸の内にある熱いものを吐き出すように深くため息をついて、ゆるゆると首を振った。ナマエはホメロスの、彼女に対して行った非道な仕打ちを知らない。だからそんな甘ったれたことを口にできるのだ。
 告白せねばならない、己の罪を。押し殺さねばならない、この想いを。遠ざけねばならない、罪深い自分から。やっと、これから幸せな道を歩むことができるであろう彼女の隣に立つ男は、自分であってはならないのだ。
「……あなたに乱暴を働いたのはこのオレだ」
「――知っています」
 束の間、時が止まったような錯覚。愕然として、今度こそホメロスは背後を振り返った。
 ナマエは真摯な瞳でこちらをひたと見つめていて、その瞳は一切を承知の上であると告げている。頭が真っ白になった。
「なぜ。ならばどうして」
 体裁を気にする余裕は最早ない。狼狽するホメロスに、ナマエはふと考え込むように瞼を伏せ、そして再び目の前の男を静かに見据えた。あの勇者と同じ、不思議な力を宿す瞳がホメロスをまっすぐに捉えている。
「あなたが陛下の命令に背いてまで私を守ろうとしてくださったことの真意を、ずっと考えていました。厄介者でしかない、その上あなたの求婚を拒否した私の事を助けてくださった。だからあなたが何を思い、何を考えているのかを知りたかった。教えてください。私はあなたの、特別だと……そう思ってもいいのでしょうか。それともそれは私の勘違いで、もう私のことなどとっくの昔に見放されてしまわれたのでしょうか」
 カッと身の内が熱くなる。想いを疑われたのが心外で、それ故彼女の言葉がひどく堪えた。ナマエを怯えさせまいとする努力も空しく、ぐいと彼女へと迫って噛みつくように吠えかかる。
「そんなわけがないだろう! 今、この瞬間も! どうやったらあなたを守れるかを、あなたが幸せになれるかをずっと考えている! なのに、あなたが幸せになる未来にオレが側に居られる方法がどうしても見つからないんだ……」
「ホメロスさま……」
 最後の方は、もう声にすらならなかった。取り戻しようのない過去を悔いても仕方のないことだと分かっていても、それでもなお乞い願わずにはいられない。なぜもっと違う道を選べなかったのだろうと。
「オレの側にいては不幸になってしまう」
「――いいえ」
 きっぱりとした声が、ホメロスの嘆きを否定した。
「私の幸せを決めるのは私よ」
 ひやり、と。ナマエの告げたその一言が、まるで清涼な水を一気に飲み干した時のような感覚となって全身を駆け抜けていく。目覚めの悪い夢に微睡むホメロスの目を覚まそうとしてくる。
「そばにいて」
 潤んだ瞳が必死に訴えかけてくる。なんという苦行か。こんなに自分を求めてくれる人を自ら引き離さねばならないとは。
 このままではほだされてしまいそうだ。ホメロスはふいと顔を背け、苦しげに小さく呻いた。
「……お引き取りください」
 その一言を告げることの、なんと困難なことか。
 ぐい、と片腕にかかる重み。目線をそちらへと向けると、震える指先でホメロスの衣服の袖を掴み、縋るようにこちらを見上げるナマエと目があった。
「いやよ。あなたが意地っ張りなのなんてとっくにお見通しなの。ねえ、私がいなくなったら、だれがあなたの涙を拭うの? グレイグ様?」
「気色の悪いことをおっしゃらないでください」
 流石に笑えない冗談だと眉をひそめ、袖を握り締めるナマエの手を振りほどこうとすれば、逆にその手をしっかりと掴まれてしまった。動揺するホメロスを、必死な様子の彼女が下から見上げてくる。
「お願い。あなたのために生きる私から、どうかこれ以上希望を奪わないで」
「……オレのため?」
「忘れたの? あなたが言ったのよ。生きるのを諦めるなと、目標を失ったわたしに自分を生きる標にしろと。あの中庭で嘆く私を慰めて、励ましてくださったのは間違いなくあなたよ、ホメロス様」
 戸惑うホメロスにナマエは儚く微笑んだ。その笑みに、ふと懐かしい映像が脳裏に蘇る。中庭の樹の根元に座り込み、こちらに背を向けて嘆く彼女の頼りない後ろ姿。彼女を追いかけて中庭に向かったホメロスの目に飛び込んできたその光景の中で、陽の光に照らされて輝くナマエの髪が場違いながらもとても美しいと思ったことを鮮明に覚えている。あれはたしか、ナマエがデルカダールに保護されて間もないころ起きた孤児院襲撃事件の時だ。彼女の縁故であった孤児院の子供たちも例外なくその犠牲となり、すっかり打ちひしがれ生きる気力を失ったナマエに向かってホメロスは確かにこう告げた。生きることを諦めるな。生きる目標を失ってしまったのなら、せめて自分のために生きてくれと。あなたの幸せを願っている、と。
 思い出した? 掘り起こされた己の懐かしい記憶に浸るホメロスに、ナマエは囁くように尋ねた。
「私が幸せになるために、あなたが必要なの」
 涙を湛えながら、それでもナマエは微笑みを絶やさない。赤く染まる薄いまぶたが痛々しい。他でもない、自分の頑なな態度こそが彼女を悲しませているのだ。恋い慕う男に拒絶され、それでも掴んだ手を離すまいと健気に想いをぶつけてくる。
 必死な様子の彼女を見ていると、ふと小さな疑問が湧いた。今、自分が守ろうとしているものは一体なんなのだろう。彼女の体裁? それとも己のちっぽけなプライド? だが、ホメロスの名声は地に堕ちた。今の自分に守るべきものはなにもない。いずれにしてもナマエはホメロスの事情を理解していて、彼女に対する非道な行為も知っている。その上でこれほど熱心に求められているのならば、頑なになる理由はどこにもないはずだ。
 彼女の命を狙う悪者の偽王ももういない。脅威は去った。グレイグが言った通り、悪夢は終わったのだ。誰にはばかることもなく、彼女を慈しむことができる。想いをひた隠しにせずに済む。
 ――ならばやるべきことはただひとつ。償いだ。
 繋がれた柔らかな手をぎゅっと握りしめる。ホメロスはおもむろに彼女の前へと跪き、ナマエを真摯に見上げた。
「……こんな業深い私でも望んでくださるのであれば、喜んであなたにこの身を捧げます。あなたを傷つけてきた代償として、我が一生をかけて償い続けると誓いましょう」
 神の御前で告解するがごとく、粛々と告げる。誓いの証に、ホメロスはナマエの手の甲に唇を落とした。
 許しなど、はなから望んでいない。自らが幸せになることなど許される筈がないのだ。けれど自分が側にいることで、ナマエが幸せになれるというのならば喜んで彼女に奉仕しよう。
 だがその誓いは、必ずしも目の前の人の望むものではなかったようだ。
「ホメロス様! 私は償いなど望んでおりません!」
 見る間にナマエの表情が悲しげに歪み、ホメロスの言葉を認めたくないとでも言いたげにふるふると力なく首をふる。はらはらとこぼれ落ちる涙が星のように煌めいた。
「……すまない。だが、私が幸せになることなど許されるはずがない」
「だれが言ったの。そんな、馬鹿げたこと……」
 ナマエの力ない問いかけに、ホメロスは答えることができなかった。
 しばし、沈黙が落ちた。ナマエは俯きながらじっと唇を噛み締めている。なにかを思案しているようだ。
 ふと、彼女が決意するように顔をあげた。涙に濡れた頬を拭って、きゅっと口を真一文字に結び、無言で踵を返して独房を出て行く。あっけなく去って行く後ろ姿にホメロスは虚を突かれた。
ナマエ様?」
 まさか説得を諦めて、このまま引き下がってしまうつもりなのだろうか。未練がましくも思わず立ち上がって彼女のピンと伸びた背筋を追う。少し低めの格子扉を潜り出ると、回廊の先で巡回兵に声をかけるナマエの後ろ姿が視界に入った。
「剣を貸していだたけますか」
「ええっ? でも、怪我をされては困りますし」
「大丈夫です、絶対に汚したりしませんから」
 一体何をするつもりなのか。詰め寄るナマエに兵は大いに慌てふためき、こちらを窺うホメロスに気付いて助けを求めるような視線を寄越す。ホメロスは顔をしかめて首を横に振ってみせたが、結局兵は乞われるがまま腰にぶら下げていた片手剣を鞘ごと彼女に渡してしまったようだった。
 振り返ったナマエは剣を大事そうに胸に抱えたまま、再びこちらへと戻ってきた。緊張の浮かぶ表情には、何かを決意したような色が浮かんでいる。独房の入り口に立つホメロスを押しのけるようにして無言で格子扉をくぐるナマエを、彼は気圧されたように数歩後ずさりながら迎え入れた。
 しゅる、と鞘走る音。
「……ナマエ様?」
 恐る恐る呼びかけると、奥の石壁の方を向いていたナマエが静かにこちらを向いた。覚悟を決めたような表情で、抜身の剣を捧げるようにして両手で支えている。直接刃に触れる彼女の指先が見ていて肝が冷えた。いったい何を考えているのか。まさか彼女に限って、その手に持った剣をこちらに振りまわす気ではあるまい。
「――騎士ホメロス、跪きなさい」
 どこからともなく、厳かな声が天から降ってきた。いや、ナマエの声だ。そう気付いた時には、ホメロスはその抗いがたい不思議な声に従い地面に膝をつき頭だれていた。
 天啓は続いた。
「わたくしナマエは、この身が朽ちるまで、あなたに愛と貞操を捧げることを誓います」
 告げられた言葉を理解するより前に、肩に鋼鉄の重みを感じた。忠誠を誓う騎士に主君が行うように、剣の平がホメロスの肩にあてられている。彼女の細腕では剣の重さが若干勝るのか、剣先が微かに震えているのを見て背筋がひやりとした。不用意に動けば誤って首を刎ね落とされそうだ。
「ホメロス。汝は健やかなる時も病める時も、常に私、ナマエのそばに寄り添い、その命が続く限り献身を捧げると誓いますか?」
 息を飲んで、そして悟る。これは神前の誓いだ。嘘をつくことは許されない。ホメロスは深く息を吸い、静かに告げた。
「はい」
 肩に置かれた剣がふわりと離れて、反対側の肩を打つ。
「父と母、精霊の御名において、私を生涯愛すると誓えますか?」
「――我が命に懸けて」
「……許します。立ちなさい、ホメロス」
 静かに命じる声に、ホメロスはゆっくりと立ち上がった。目の前には剣を手に、目を真っ赤に腫らして今にも泣きだしそうな顔をしたひとが立ち尽くしている。女々しく逃げ回るホメロスにあれほど大胆に迫り決死の覚悟を突き付けておきながら、最後の一歩が踏み出せないのかそわそわと落ち着かない様子でこちらを窺っている。
 ……まったく、彼女にはかなわない。ふと、頬に浮かんだのは微苦笑。そして海よりもなお深い愛を自覚する。胸に抱えた罪悪感はきれいさっぱり消えていた。おもむろに両腕を広げてみせると、ナマエの顔がぱっと晴れやかに輝いた。そしてタッ、と軽やかに地を蹴る音。
 カラン、と彼女の手を離れた剣が倒れて地面を転がった。

 飛び込んできたナマエをしっかりと抱きしめる。近くに感じる彼女の息遣い。肩口にかかる頭の重み。抱きしめた華奢な腰。全身で彼女の存在を感じとると、からっぽだった胸が満たされていくのが分かった。背に回された彼女の手が、もう離さないと言わんばかりにホメロスの服を握りしめている。胸元に愛しげに頬をすり寄せてきたナマエに堪らず、ホメロスは彼女のおとがいを掴んでその唇を封じた。
 情熱的に己の唇を奪った男を見つめ、ナマエはひどく幸せそうに微笑んだ。
「あなたの言葉が聞きたいわ」
「……必ずナマエ様を幸せにすると誓う」
 ナマエは眩しそうに目を細め、ゆるく首を振る。
「私だけじゃないわ。――あなたも。あなたも一緒に幸せになるの。これからは自分が幸せになるために努力して」
 柔らかな、しかし真剣な色を帯びた声色が、もう自分自身をないがしろにすることを許さないと告げている。ああ、とそれに掠れた声で囁いて、瞼を伏せ小さく頷く。細く繊細な指先が、知らぬうちに頬を伝った涙を拭い去っていった。
 ナマエもまた涙を堪えきれなかったようで、赤くなった互いの目元を見つめながら笑いあう。星のように輝く瞳からほろりと零れる宝石のような涙を感慨深げに眺めていると、ナマエが少し拗ねたような口調で尋ねてきた。
「もう、私の涙は拭ってくださらないの?」
「……ああ、私としたことがとんだご無礼を」
 指摘に我に返ったホメロスはポケットにしまってあったハンカチを取り出し、それをナマエの頬に押し当てようとした。が、その直前でハッとあることに気付いて手に持っていたハンカチを素早く松明に向かって放り投げてしまった。火に触れた布は燃え上がりながらぼとりと地面へと落ち、間もなく消し炭と化した。長らく彼女を想うよすがとしていたお守りがわりのちっぽけな布きれが、暗い記憶と血の痕跡と共にすべて燃え尽きていく。
「どうして燃やしたの?」
「……あれはオレの、情けない過去のよすがだからだ」
 不思議そうな顔で尋ねるナマエに、ホメロスはそう苦々しげに告げることしかできなかった。まさか、あれはあなたの破瓜の血を拭ったハンカチですと馬鹿正直に白状するわけにもいくまい。
 何も持たない、からっぽになったその手でホメロスは彼女の涙をそっと拭う。指先で触れた彼女の涙は暖かい。涙一つ拭うのにもスマートにこなせない不器用な男を見上げ、ナマエはうっとりと幸せそうに微笑んでいる。
 ふと気付く。ああ、彼女が望んだものは、たったこれだけなのだ。
 なにもかも失ったと思っていた。
 だが、自分にはまだ彼女の涙を拭えるこの両手がある。大切な人を守り、慈しむことのできる両腕がある。帰るべき故郷がある。頼もしい友がいる。親のように成長を見守ってくれた王が、慕ってくれた兵士たちがいる。
 そして、隣には愛する人がいる。
「……戻りましょうか、地上へ」
「ええ、みんなあなたの事を待っているわ」
「ふっ、それはどうだろうな」


 牢獄を出ると、ホメロスはおよそ一日ぶりに新鮮な空気を吸った。
 ナマエの手をしっかりと繋ぎながら地上へ出ると、待ち構えていた人々の顔ぶれにぎくりとしてホメロスの足が止まる。
「お父様、イレブン
 愛する娘に呼ばれ、かつて大国の王だった老人は東方の福神のようなふくふくとした笑みを浮かべたが、反対に立つ少年はじっと疑り深いまなざしをこちらに向けている。
 そう、さしあたっての懸念すべき二人の存在のことをすっかり失念していたのだ。だがそんなホメロスの葛藤にまるで気付かず、ナマエは晴れやかに笑った。
「さあ、帰りましょう。私たちの国へ」