将軍は可愛いものがお好き・後篇





 ――子犬に名前をつけろと言われても。
 うーん、と私は子犬とにらみ合いっこをしながら唸った。子犬がきょとんとして首を傾げている。だからその仕草、卑怯だってば。

 先の日以来、夏侯覇殿から不本意にも与えられてしまった課題をこなすべく、こうしてほぼ毎日子犬のもとへ通う日々が続いていた。
 云っておくが私は暇人ではない。このところ暇さえあれば中庭に入り浸っているように見えるが、断じて暇人などではない。
「名前かー」
 しかし名前と言われて、すぐにいい名が思いつくわけでもない。
「阿黄、小胖、毛毛、ポチ、タマ、ミケ。んー、……仲権?」
 いっそのこと夏侯覇殿の字にでもしてやろうかと思って、いざ口にするとなんだか気恥ずかしくなって頭を振った。
「なんちゃって」
 それに仮にも自分より官職が上の人の名前を付けようなんて、考えてみれば大変失敬なことだ。いくら瞳が似ているからといってそれはないか。
「うーん、どうしましょう」


 結局、つけた名前は無難なものだった。『丁丁』――小さい、可愛いという意味だ。
 また中庭で再会した夏侯覇殿に、さっそく子犬の名前が決まったことを告げた。あまりにも一般的な名前過ぎて文句でも言われるかと思えば、そうではなかった。
「あははっ、オスに”丁丁”って! ナマエらしいなー」
 夏侯覇殿はそう云って破顔した。
「もう、そんなに笑うなら夏侯覇殿が考えればいいじゃないですか」
 私は頬を膨らませながら、腹を抱える夏侯覇殿に抗議する。まあ確かに仮にも子犬とはいえ、雄犬に『可愛い』などという意味の名前をつけるのはかわいそうかもしれない。でも現在進行形で丁丁は可愛いし、別にいいじゃないか。
 ちなみに夏侯覇殿と私の呼び方だが、それぞれ許可を取って若干変えてみた。呼び方を変えただけなのに、前と比べてなんとなく少しだけ親しくなれたような気分だから、不思議だ。
「いやいやいや、別に俺はナマエがそれで良ければいいんだぜ」
 夏侯覇殿が涙を拭って云うが、いまいち説得力がない。
 私はむう、と眉間に皺を寄せながら、おやつにがっつく丁丁を眺めていた。
「でもナマエって、ほんとに意外とそういうところ女の子っぽいよな」
「”ほんとに”も”意外”も余計です」
 夏侯覇殿の言葉に抗議すると、「ごめんごめん」と軽くあしらわれる。まったく誠意が足りない。
 それに妙齢の女性に『女の子』とはどういうことだ。仮にも年上に向かって『女の子』はないわ。いや、官位は私のほうが確かに下ですけど。

 と、思えど、しかし面と向かって云えずにいじいじしていると、背後からぼそりと呟きが。
「ほんっと可愛いよなぁ」
「えっ」
 一瞬私のことを云われたのかと思ってすごい勢いで振り向いてしまってから、『って、丁丁のことか』と脳内でセルフツッコミを入れた。
 けれど。
 振り返った先に見たものが、夏侯覇殿が咄嗟に口を押さえて赤面しているところなものだから。
(な、なんだってー!?)
 私の脳内が一瞬ざわ・・・ざわ・・・した。
「あ、いやいやいやいや! なんでもない! なんでもないですっ!」
 私が間抜け面で瞠目していると、夏侯覇殿は全力で頭を振る。
 それでも私が何も云えずに彼の顔をまじまじ眺めていると、次第にいたたまれなくなったのか急に立ち上がる。
「ご、ごめんじゃあナマエ俺もう行くわ! 丁丁またな!」
 と、挨拶もそこそこに去っていった。

 残された私は。
「~~~くぅうっ!」
(やだもうやだもう、かわいいのは貴方ですうううっ!)
 かつてないほどの悶えが口から漏れそうになって、思わずその場で突っ伏してバンバンと欄干を叩いた。
 と、ハッと顔を上げると、たまたま通りかかった衛兵が不審そうな目でこちらを見ていた。




***




 それから夏侯覇殿とは(残念なことに)何事もなく、中庭で何度かお会いした。たまには違うところで、と何度かお誘いを受けて城下を一緒に散策する仲にもなった。とはいえ『デートなう』なんて可愛らしいものではなく、主な目的は事務的な買い物と市場での買い食いだ。
 丁丁をつれて市場を歩く夏侯覇殿のお姿は本当に心癒される景色だった。調練での疲れなんて吹っ飛んでいく。
 それに夏侯覇殿と一緒に市場を歩くと、面白いものがみられるのだ。それは買い物をする時、必ずと言っていいほど店主からおまけがもらえるのだ。別に夏侯覇殿が子供扱いされているという訳ではないんだろうが、やっぱり傍からみていると可笑しくて仕方がない。その度に私がニヤついて見ているものだから、仕舞いにはふて腐れてしまうのだ。

「そういえば夏侯覇殿は恋人はいらっしゃらないんですか?」
 市場を逍遥しながら前々から気になっていたことを尋ねると、じとりとした視線が返ってきた。
「……あのさぁ、いたらこうしてナマエと遊んでないだろ」
「あらそういえばそうですね。失礼しました」
 どうやら触れてほしくない話題だったようだ。しかし夏侯覇殿の反応が可愛らしく、私は謝りながらも、うふふ、と微笑んだ。
 夏侯覇殿の眉間に皺が寄り、胡乱げな視線が私に突き刺さる。
「なにそれ、わざと? 俺に今特定の女性が居ないの知ってて聞いただろ」
「いいえとんでもない。そうだ、今度よろしければ、良い人ご紹介しましょうか?」
 と、前々から考えていた提案をしてみる。
 とはいえ私の知り合いと言えば真っ先に思い浮かぶのが元親衛隊の同僚だが、夏侯覇殿の貞操的な意味でそれだとまずい。年齢的に云ったら、王元姫様の親衛隊あたりがまあ妥当な線だろう。先立っての演習で王元姫様と親交を深めておいた私に抜かりはなかった、が。
「余計なお世話!」
 と、提案は素気無く却下されてしまった。
ナマエはどうなのよ。恋人とか作んねーの?」
 ガン、と頭に衝撃が落ちた。それは私的禁止ワード第一位か二位を争う単語だ。
 思わずその場で立ち止まる。眉間を押さえた。
ナマエ?」
 呼びかけられ、私はにっこりと笑顔を浮かべた。
「作るもなにも、お相手が、い ま せ ん か ら」
 正直スマンかった、と夏侯覇殿が頭を下げた。


 と、そんな会話を交えながら、帰路についた時のことだった。
「あっ、丁丁!?」
 宮廷への戻り道の途中、丁度数歩階段を登った時だ。丁丁が知り合いを見つけたのか急に走り出した。それが運の悪いことに丁丁が駆け出した方向は丁度私の斜め後ろで、彼の手綱を持っていた私はとっさのことに対応しきれなく、見事に後ろにひっくり返った。
「きゃあぁっ!」
ナマエっ!」
 夏侯覇殿が手を差し伸べてくれたらしいが、あいにく間に合わず。
 数段の階段の上から背中を強打しつつ転げ落ちたので、ほぼでんぐり返しの状態で地上に墜落した。これは中々お目にかかれない間抜けな体勢だ。
 天地逆になった視界から、丁丁がだーっと遠のいていく姿が見えた。あんにゃろう。
「あ、いたた、たたぁ」
 でんぐり返し状態からなんとか起き上がられる体勢には戻ったが、強打した腰が痛く中々起き上がれない。
「だ、大丈夫か!? ……っ!」
 夏侯覇殿が駆け寄って、しかしなぜか手を差し伸べてくれない。意外と薄情なのかと思いながらチラと夏侯覇殿を見上げれば、彼はひどく深刻な表情で一点を凝視していた。
 その視線を辿ってみると。
(あ、パンツ見えてる……って)
「はっ、あわわわ! お、お見苦しいものを……すみません」
 正直悲鳴を上げなかっただけマシだった。私は慌ててめくれ上がった裾をバッと元に戻した。その動きときたら、きっと今まで生きてきた中で、最も俊敏に動けた気がするくらいだ。
 ハッと僅かに遅れて凝固してた夏侯覇殿が動き出す。
「ご、ごめ」
 と、赤面した顔を覆う。
 あらやだいいもの見れた。とは思えど、腰の痛みに今は顔に出す余裕はない。
 私が顔をしかめて起き上がろうとしていたところを見て、夏侯覇殿は我に返ったように「手伝うよ」と手を差し伸べてくれた。
「あ、すいませ……」
 が、その手は私の手をスルーし、
「え、あ、ちょ、夏侯覇殿っ!?」
 背中と膝裏に手が添えられ、ぐい、と一気に持ち上げられ宙に浮いた。つまり、お姫様抱っこという姿勢だ。え、やだ夏侯覇殿ったら逞しい。じゃなくて、なにこれ恥ずかしい。
 夏侯覇殿はなにも疑問をもたず、急ぎ足で宮廷へと向かい始める。
「きゃーっ! えっ、まっ、待って待って」
「おーい、少しおとなしくしてろよ」
 混乱して手足をバタバタさせると、窘められてしまった。
「いやいやいや、おろしてください自分で歩けますからーっ!」
 思わず夏侯覇殿の口癖がついて出た。それほど焦っていたのだ。だってこのままでは宮廷内部関係者複数人に目撃されてしまう。だが、夏侯覇殿は意に介さずどんどん進んでいく。
「何云ってんだよ。腰痛めてたら大変だろ。部屋まで運ぶから大人しくしてろって」
 何を云っても無駄なようだ。
 もう好きにしてください。半ば諦め境地の境地だったが、しかしやはり保身はしておきたい。無駄とは思いながらも、私は両手で顔を覆った。



「すみません、重かったでしょう」
 結局夏侯覇殿には、私室の寝台まで運んでもらう羽目になった。寝台の上にそっと降ろしてもらい恐縮しながらも、お約束の言葉を口にした。人一人の体重なんて重いに決まっているのに、この言葉を口にせずにはいられないのはなぜだろう。
「ん? 全然。俺の剣の方が重いくらいだ」
「……それって比較対象としてどうなんでしょう」
 けろっとした様子で答えられると、若干微妙な心境になる。そりゃ夏侯覇殿のあの大剣は、見るからに重たいでしょうよ。そんなものと比べられても。

 夏侯覇殿が一旦寝室を出て室付きの女官に典医を呼ぶよう命令し、また寝台まで戻ってきた。
 ……なんだか大げさになってきたなぁ、と人事のように思っていると、彼がこちらを覗きこんできた。
 目が合い、すぐに逸らされる。一瞬の出来事だったが、あれ? と内心首を傾げる。
「背中、痛むか?」
「いえ、大丈夫そうです」
「……ごめんな、俺がもっと気をつけてれば良かった」
「あら、謝らないでください。夏侯覇殿は何も悪くないんですから」
 答えながら、夏侯覇殿の視線の先をたどってみる。私の足先をじっと見ているようだ。
 何を考えているんだろう、と思いながら、今度は私の方から声をかけた。
「あのう、夏侯覇殿? それで、さっきの失態は忘れてくださると嬉しいんですが」
「なに?」
 心ここにあらず、といった返答が返ってくる。
「ですから、あの、さっき見たもの……というか、見せちゃったもの?」
 夏侯覇殿がふいにこちらを見た。今度はなぜか真顔で凝視してくる。本当にどうしたんだろうか。若干気圧されながらも、続けた。
「ごめんなさい、変なものを見せてしまって」
「いや、むしろラッキーっつーか」
「ええっ!?」
 思わず声が裏返った。夏侯覇殿がビクッと体を揺らす。ハッと息を呑んで、一拍遅れて自分の台詞を理解したようだ。かあっと音が聞こえそうなほど顔が瞬時に赤くなり、慌てふためいてさらにそれが混乱を招いた。
「や、べ、別に深い意味はなくっ! い、いいんじゃないか! 可愛かったし!」
「何が!?」
 もう訳が分からない。


 と、そこへ丁度典医がやって来て、一旦夏侯覇殿は別室に移動された。
 診断はやはり打撲らしく、強烈な匂いの湿布薬を塗られてしまった。
 処置が終わって夏侯覇殿が戻ってきたので、お礼もかねて女官にお茶を用意させようとした。が、相変わらず夏侯覇殿はそわそわしている。
 がたり、とそのうち急に立ち上がられて。
「夏侯覇殿?」
「……やっぱ俺、今日はもう帰るわ! ナマエも今日は念のため大人しくしとけよ。あ、丁丁は俺が見つけて連れ戻しておくから」
「え、ちょ」
「じゃあ、またな!」
「あ……」
 引き止める暇もない。あわただしく出て行かれた夏侯覇殿の背中を見送り、私は内心で頭をかしげた。
 彼はどうしてしまったんだろう。
 まさか、あんな醜態をさらしてドン引きでもされたんだろうか。



***



 翌日、昨日の夏侯覇殿の挙動不審な様子に悶々としながら出廷した。
 背中は多少痣が出来ていたものの、ほとんど良くなっている。湿布薬のおかげだが、半分は手早く典医を手配してくれた夏侯覇殿のおかげだろう。会ったら改めてお礼をしなければ。
 そんな気持ちが通じたのか、執務室へと向かう途中でばったりとその意中の人に出くわした。
 出くわしたと言っても、なんだか夏侯覇殿はぼんやりしていてこちらに気づいていない様子だ。

 私は驚かせないよう、三歩の距離で立ち止まって声をかけた、
「夏侯覇殿、おはようございます。あの、先日は――」
「うわっ!」
 つもりだったが、驚かれた。しかも半端ない驚きようだ。
 夏侯覇殿は私の顔を見て、顔を引きつらせて後ずさった。なにその反応流石に傷つくわ。
「あ、の……えと」
 驚かせてすみません、と私が謝るより先に、夏侯覇殿はパンと両手を合わせて思い切り頭をさげた。
「なんつーか、ごめん!」
「へっ!? ……え、私何かしました?」
 彼のいきなりの行動にぎょっとした。だが、何のことやらさっぱりだ。謝られる理由がまったく分からなく、私は首をかしげた。
 夏侯覇殿は顔をあげ、へへ、と頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「いや、したっていうか、されたっていうか、むしろ俺がやっちゃった? みたいな」
 なにそれどういうこと? やっぱり訳が分からない。私の頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かぶ。
 ええと、ひとまず昨日の出来事を整理しよう。昨日は市場に遊びに行って、帰り道に私が転んで夏侯覇殿に運んでもらった。どう考えても謝るのは私の方で、夏侯覇殿ではない。
 あれ? あ、もしかして……。
 と、私が一瞬何かを思い出しかけた瞬間、夏侯覇殿が慌てて一気にまくし立てた。
「と、とにかく謝りたい気分だったんだ! だから素直に謝られてくれよな」
「わ……、わかりました」
 夏侯覇殿の妙な迫力に押され、私はひとまず頷いた。せっかく思い出しかけていた”何か”も、また記憶の彼方へと遠ざかっていく。
 彼は私が頷いたのを見てひとまず満足したのか、へへ、と若干照れ笑いを浮かべた。と、ふと思い出したように。
「あ、丁丁はばっちり見つけといたからな」
「そうでしたか。本当にお手数おかけしました」
 いやなんのなんの、と夏侯覇殿は手を振った。

「あ、いけねっ、俺これから会議だ。じゃあまた後でな!」
 ハッとした様子で時刻を確認した彼は、挨拶もそこそこに慌しく去っていく。
 私は彼の背中を見送りながら、その背に向かって声をかけた。
「あ、昨日はありがとうございましたー!」
 応えるように、彼が腕を上げた。





 そんなことがあった日の昼餉時。休憩時に部屋を抜け出し、私は昼餉で余った饅頭を持って丁丁のもとへと向かった。夏侯覇殿が連れ戻してくれたとはおっしゃっていたが、顔を見るまではなんとなく不安だったからだ。
 しかし心配は杞憂だった。中庭へと行くと、丁丁が既に門番さんに餌付けされていたところだった。門番さんは私が来ると丁丁を私に預けて慌てて持ち場に戻ろうとしたが、せっかくなので引き止めて少し話をした。けど、なんだかガチガチに緊張していたようだから、かわいそうになってすぐに釈放してあげた。
 門番さんにご飯は十分貰ったはずなのに、丁丁は私の懐に隠してある饅頭の存在を嗅ぎ付け、きゃんきゃんとおねだりした。あまりご飯をやりすぎると良くない、と思って最初は心を鬼にして無視を決め込んだが、やはりというか例のうるうるとした無邪気な瞳で見つめられるともうやばい。
「もー、しかたないわねぇ。今回だけよ」
 長くもない葛藤の末、根負けした私が饅頭を丁丁に差し出したのは当然の結末だった。
 饅頭を腹に収めて満足げな丁丁を持ち上げてみると、出会った当初より重たくなっている。このまま行けば豚犬になるんじゃないかしら。
 と、地面におろした丁丁とじーっとにらめっこをしていると、突然彼が飛び掛ってきた。
 全力で尻尾を振りながら、私の顔を舐め始める。
「ちょっ。あん、丁丁やめ……きゃっ!」
 しゃがんでいた私はバランスを崩して後ろにしりもちをつく。丁丁はお構いなしに私の上に上がってきて、小鼻を押し付けた。私は笑いながら、丁丁の鼻から逃れようと体を捻った。
「ちょっとぉ、丁丁やめてー」
 と、ふいに体の上の体重が軽くなる。あれ? と瞬くと、頭上になにやら人影が。
「あら、夏侯覇殿?」
 丁丁を抱き上げた夏侯覇殿その人だった。
 はっと我に返る。……はしゃいでいたところ見られてしまった。思わず顔を覆いたくなる。

「大丈夫か?」
 差し伸べられた手を有難く取りながら、自分の姿の情けなさに思わずぼやいた。
「ありがとうございます。……なんだか夏侯覇殿には私の失態ばかり見られてばかりですね」
「別にいいんじゃないか?」
「よくないです。いい大人がみっともない」
 夏侯覇殿が微妙な顔をした。と、彼が片手で抱いていた丁丁が暴れだす。夏侯覇殿はすこしむっとした顔で、丁丁を少し乱雑な仕草で地面に放り出した。
「夏侯覇殿?」
 横顔にいつもの明るさがない。機嫌が悪いのだろうか。
 差し伸べられた手はまだ繋がれたままだった。大剣を扱うその手はごつごつとして、大きい。
「夏侯覇殿の手、大きいですね」
「え、あっ」
 夏侯覇殿がぎょっとした様子で振り返り、ばっと手を離された。
「あ、」
 どうして――。
 拒絶でもされたかのような仕草に、思わず余計な思考が頭をよぎる。
 が、しかし。
「て、手は洗ったからな。……なーんて」
 あはは、と夏侯覇殿がぎこちなく笑った。若干顔が引きつっている。その様子から私に対する嫌悪は感じられない、けれど。
「私も洗ってますよ」
 当たり障りのない答えを返すと、夏侯覇殿がはっと我に返り、いきなりその場で突っ伏した。
「え、夏侯覇殿……?」
「無邪気かよ!」
 突っ伏した姿勢でモゴモゴ云っている。私は何へのツッコミか分からず内心首をかしげた。
 あの、と声をかけると、構わないでくれ、と彼はふるふる首を振った。
「ごめん、俺、最悪だわ……」
「えっ?」
 なんでか知らないが傷ついているようだ。そっとしておこう。

 所在なげにその場でぼんやり突っ立っていると、夏侯覇殿が急に思い出したようにぱっと顔を上げた。
「あ、そういえばナマエは今日の宴出るのか?」
 云われたハッと気がついた。そういえば今日は。





 数時間後、大広間は人人ひとで大騒ぎだった。
 普段はお目にかかれない丞相から見たことのない将軍までと広間に集まって一堂に会する様子は圧巻だ。
 宴が始まった直後、私は徐晃様のお隣でおとなしくお酌をしていたが、次第に張遼様と語りだし、しまいにゃお二人ともども手酌でやり始めるものだから、早々にお酌の役目御免となった。

 残念なことに私はお酒に非常に弱い体質だった。一度前に一口飲んで暴走して以来、甄姫様に禁酒令を出されている。なので、こういう宴の場はあまり得手ではなかった。宴の場の独特のテンションについていけないのだ。
 会場の反対側に夏侯覇殿がいた。飲んではいるようだが、楽しげに司馬昭様と語らっている。あの空間に呑めない人間がお邪魔するのはさすがに無粋だろう。
 行き場をなくした私は会場の端っこの席を見つけて、腰を下ろした。が、そこには先客が。
「あら、鍾会様」
「またあんたか」
 ふん、とその人は傲慢そうに鼻を鳴らした。”また”という言葉通り、大体こういう宴では、鍾会様とご一緒することが多かった。というのも、鍾会様も下戸でいらっしゃるからだ。ご本人は認めたがらないが、酔うと泣き上戸になるという噂もあるくらいだ。
「”また”私で申し訳ありませんが、ご一緒もしていいですか?」
「ふん、煩くしないのならばな」
「あら、私はこう見えてもとってもお淑やかなんですよ?」
「どこが」
 この人がデレることってあるんだろうか。
 鍾会様は顔はいいのに性格で損をしているタイプそのものだ。たまに可愛いところがあるが、勿論そんな顔は滅多に拝めない。

 という訳で、お許しを貰い仲良く?呑めない組二人で会場を眺める。
 宴もたけなわ、そこここで楽しそうな盛り上がりを見せている。いいなぁ楽しそうだなぁ、私も飲めたらなぁ。
 しかし鍾会様は別の感想を抱いたようで、口元を侮蔑の笑みに歪めていた。
「あそこを見てみろよ、まるで猿のように顔を赤くしてぎゃーぎゃー喚いているぞ。あのように酒で酔う様は全くみっともないものだな。ねえ、あんたもそう思わないか?」
「え、そうですね。楽しそうで何よりだと思います」
「……あんた人の話きけよ。ああ、そういえばこの前――」
 あ、パターン入った。私は内心舌打ちした。今までの経験上、鍾会様の『そういえば』が始まると、その後はずーっと延々と自慢話を聞かされつづける羽目になるのだ。
 私はため息をついて、適当に相槌をうちながら聞いている振りを続けるしかない。


 と、そこへ救世主が現れた。
「よーおナマエ、鍾会!」
 底抜けに明るい声に振り返ると、杯を片手に持つ夏侯覇殿が居た。少し頬が赤らんでいる。
「夏侯覇殿、御機嫌よう」
「なんでこんな端っこにいるんだ? 全然飲んでないんじゃないか?」
 云いながら、ほら、と手に持っていた杯を突き出された。慌ててそれを辞退する。
「ごめんなさい、私呑めないんです」
「え、一口も?」
 夏侯覇殿がきょとんとして首を傾げる。隣の鍾会様が苛立たしげに云った。
「呑めないって云ってるだろ、あんたも分かれよ」
「しょ、鍾会様。そんな言い方は……」
 ああもう、この人の口をふさいでやりたい。そう思っていると、夏侯覇殿が思いついたように手を叩いた。
「そっか、じゃあ待ってろよ。果実水持ってきてやるから」
 言うが早いか、夏侯覇殿は飲み物を用意している女官のもとまで飛んで行き、二人分の杯を手に持ち戻ってきた。
「ほら、これなら大丈夫だろ」
「わざわざありがとうございます」
 礼を云い手渡された杯に鼻を近づける。果物の甘いいい香りがした。
「用が済んだらさっさとあっちいけ、酒臭い」
 鍾会様も一応杯を受け取ったが、相変わらずな口調だ。
「おい鍾会、それはねぇよ」
 私の隣に腰を下ろした夏侯覇殿は、鍾会様に向かって文句を言った。
 二人の賑やかな応酬を聞きながら、くすりと笑い、杯を傾けた。
「ん?」
 ……? あれ、なんだか喉が熱い。
 視界が廻る。お酒、飲んでないのに……。おさけ……。
「ふふっ」
 あ、なんだか楽しくなって き  た  。



 視界がふわふわしていた。
 隣には夏侯覇殿がすわっている。ほっぺを赤くしたまま、鍾会様とまだ言いあらそっている。
 おもしくない、むうとなって、私は夏侯覇殿のかおに手をのばした。
「夏侯覇どの」
 ぐいと彼の顔をこちらにむかせ、ずいとのぞきこむ。
「えっ、うわ、ちょ、わああっ」
 夏侯覇殿がまっ赤になる。あらほんとにカワイイ。私はくすくす笑って、その頭をだきよせた。
「おいちょっ」
「え、ちょ、ナマエ!? ナマエさん!?」
 がしゃんと後ろでなにか割れたおとがしたが、気にせずぎゅーっとだきしめた。鼻先に夏侯覇どののふわふわした髪があたっている。お日さまのにおいがした。
「あーんもうどうして夏侯覇どのはこんなにもかわいいのでしょう」
 気分がふわふわする。幸せなきもちになって、彼のあたまに顔をぐりぐりした。「やばい、マジやばい」と夏侯覇どのがぶつぶつぶやいていた。なにがヤバイのかしら。
「……おい、これ酒だぞ!? こいつに酒を飲ませたのか! ああくそっ、なんてことだ」
「え、うそ、マジ?」
「こいつがこうなったのはあんたのせいだぞ!? 公衆の面前でこいつに恥をかかせる気か! はやく離れろ!」
 うしろで鍾会さまがわめいている。んもう、うるさいなあ。いいじゃない恥なんてかきすてるものよ。
「そんなこと言われたって……! ナマエっ、は、はなし……っ、あーくそ鍾会助けろよ!」
 やあね、どうして鍾会さまをみるのかしら。だきしめているのは、わたしなのに。
 それとも、きらわれているのかしら。手だって、ふりはらわれたし。――ふりはらわれたし。
 ……あ、やだ泣きそう。
「夏侯覇どの、よそ見しないで私をみてください!」
 ぐい、と彼の赤くなったみみたぶをひっぱる。
「いや見てる、見てるから! ってか耳痛いです!」
「ねえ、どうして、きょう手をふりはらったんですか。わたし傷つきました。きらわれたかとおもいました。それともわたしのこと、き、きらいなんですか?」
 いやないないない、と夏侯覇どのは首をふる。ならどうして手をふりはらったの。
「いやあれはだって、う、うらやましくて」
「うらやましい?」
 うらやましいってなにが。くびをかしげる。廻らないあたまで、すこしかんがえてみたら、ひっく、としゃっくりがでた。
「ああ、そっかぁ、夏侯覇どのも丁丁にぺろぺろされたかったんですね。だったら私がしてあげます」
「え、ちょっ」
 へらっと笑って、まっ赤になったほっぺたに唇をおとす。
 鍾会さまがなんてはしたない、と後ろでさわいでいる。まったくうるさいなぁ。でもムシムシ。
 わたしはまっ赤になって固まっている夏侯覇どのに、にへらと笑った。
「うふふ、夏侯覇どのはちいらくてかわいくて、丁丁みたい」
「……っ!」
「ぶっ、くっ、小さくてかわいいだと! これは傑作だ!」
「し、鍾会~~、うっうっ、ひでえ、人が気にしていることを……」
 と、夏侯覇どのが、かわいらしいお顔をおおってしまった。あらあら、泣いていらっしゃる。
「あらあら、鍾会さまにいじめられたんですか?」
「いっ、いやいやいや、主な原因はあなたなんですけどね!」
 目になみだをためていらっしゃる夏侯覇どのをみていると、なんだかとてもたのしい気分になってくる。
「うふふ、わたし? あらぁ、そうでしたか? それにしても夏侯覇どのって泣き顔もかわいいんれすね、ふふ」
「え゛」
 と、そのとき。
「おんや~息子よ! ずいぶんとうらやまけしからんことになってるな!」
「父さん!」
 ゆっくりとうしろを振りかえると、夏侯覇どのにそっくりなすてきな方が立っていらっしゃった。
「あらぁ、夏侯淵さま、ごきげんよう、うふふ」
「よお徐晃んとこの副将さん。さっそくなんだけどあんたの元主人がすごい形相で今こっちに……」
「と、父さん後ろ……」
 夏侯覇どのの、おびえた声。あらその声、そそるわ。
「何をしているのかしらナマエ?」
 と、うるわしいお声が。ふりかえると、そこには。
「あ、甄姫さま。ごきげんよう」
「あなた、お酒を飲んではいけないとあれほど……」
 甄姫さまが頭をかかえた。うふふ、甄姫さまったら呆れたお顔もすてき。
 ふと手をのばそうとすると、からだがぐらりとゆれた。
「――ナマエっ!」
 あ、もうだめかも――。

 意識を手放す瞬間、夏侯覇どののお声が耳にとどいた。




***



 
 朝起きたら、隣に夏侯覇殿がげっそりとした様子で寝台に横たわっていた。
 その顔を見てすぐに、私は昨日の出来事を思い出して悲鳴を上げた。悲惨なことに、私は酔った時の記憶はばっちり覚えてる性質なのだ。
 ――やってしまったやってしまった、やってしまった!
 布団を頭から被って、私は自分の犯した失態に嘆いた。
 ていうかここ誰の部屋。私の部屋? それとも夏侯覇殿の部屋? 今となっちゃ、どっちでもいいけど。
「暴走した記憶残るってのも厄介だなぁ」
 夏侯覇殿が疲れたようにぼやいた。どうやら一睡も出来てないらしい。私が記憶を失った後、彼は私の私室まで運んできてくれたらしい。が、私が彼の服をがっちりつかんで離さなかったため、仕方なく、仕方なく! 一緒に一晩過ごさざるを得なかったらしい(と、夏侯覇殿はいやに強く主張した)
 あああ、どうしよう、夏侯覇殿にはものすごく多大な迷惑をかけてしまった……。
「あうう、穴があったら今すぐ墓穴にしたい……。何もかも忘れて安らかに眠りたい……」
「いやいやいやいや! せめて入るだけにしようか!」
 私の嘆きに、夏侯覇殿は慌ててツッコミを入れる。

「っていうか、ごめんな。俺が間違って酒なんか呑ませちまったばかりに」
「いいんです、いいんです……過ぎてしまったものは」
 仕方ないのだ、というか今更取り返しがつかない。夏侯覇殿はきっかけになっただけで、大半の原因は私にあるのだ。
 というか、酔った時の記憶はあっても気を失った後はどうなってるんだろう。気になって布団から顔だけ出し、恐る恐る夏侯覇殿に尋ねた。
「あの、私、その他になにか夏侯覇殿に粗相をしなかったでしょうか」
「粗相って?」
「夏侯覇殿を蹴ったとか、殴ったとか、……襲ったとか」
 がくり、と彼が肩を落とした。
「あ、あのさナマエ……」
「もしそうだとしたら責任取りますから! 正直に言ってください! 覚悟はできてますから!」
 何を云われてもいいように深呼吸をし、意気込んだ。
 けれど夏侯覇殿は、その場で座りなおして、どっと疲れたように息をついた。一旦落ち着けよ、と手を上げられ、私も彼に倣って寝台の上に正座した。
「あのさぁナマエ、まず普通、考えること逆じゃないか?」
「えっ」
 首を傾げる。夏侯覇殿が目を細め、苦い顔をした。
「……健全な男女が一晩一緒に過ごしたんだぜ? 自分が何かされたとか思わないの?」
「えっ!」
 ないないない、私がぶんぶん首を振って夏侯覇殿の言葉を否定する。私が普通の可愛い女の子ならともかく、今までの経緯を考えると明らかに夏侯覇殿が被害者の立場だ。
 はあ、と彼がため息をついた。片手で顔を覆い、しばし迷うように目線をさ迷わせた。
ナマエ、俺も男なんだけどな」
「はい」
 いやはいじゃなくて、とツッコミが入る。
 夏侯覇殿はそこで深く息を吸い、私の目を見据えて言い放った。
「普通好きな女性が隣にいて、何も手出ししない男とか男じゃないだろ」
「――す、」
 頭の中がフリーズした。今、なんて云った?
「すっ、すっ、す」
 あまりの衝撃に、口を動かすがそれ以上言葉にならない。
 と、そこへ、とどめの一言が。
「そう、好きな女性、俺の。あなたが」
 ご丁寧にジェスチャーつきで、夏侯覇殿が私を指差した。

「――きゃあああっ、いやっ、うそっ!」
「えっ!? えっ、ちょ、ナマエさん落ち着いて! 外に聞こえるから!」
 頭の中がパニックになりすぎて、悲鳴にしかならない。慌てて夏侯覇殿が私の口を覆う。
 ああ、もう、信じられない。こんな状況でそんなこと云われるのは、正直卑怯だ。

「やっぱり迷惑、だったか?」
 茫然自失の私の様子に、夏侯覇殿はそっと口を覆っていた手を外して聞き辛そうに尋ねた。
「そ、そんなことない! です!」
 慌てて首を振る。
「あの、でも、わ、わた、わたし、こ、こんなのですけど、本当にいいんですか?」
「あのさ、なんで”こんなの”なんて云うんだ」
「だって、全然釣り合わない気がして」
 夏侯覇殿は明るくて素敵で魅力的で前途有望な若者なのだ。それに比べて私は。
「そりゃ、俺とナマエとじゃ美女と野獣……ってツラじゃないけど」
「確かに夏侯覇殿はどちらかと言えば子犬……そ、そうじゃなくて!」
 しまったつい口が滑った。夏侯覇殿が若干傷ついた顔をしていたが、それはひとまず置いておいて彼の言葉を訂正した。
「私が夏侯覇殿に釣り合わないんです。だって私酒乱だし、武器持つと性格変わるし……」
 あなたより年上だし。それは流石に口に出せなくて、私は顔を覆った。が、その手は、ぐい、とすぐに取り除かれる。
「そんなわけないだろ。ナマエはすごく、その、素敵だと思う」
「夏侯覇殿……」
 目の前に微苦笑を浮かべた夏侯覇殿の顔。大人じみた表情に、どきりとした。
ナマエ
「は、はい!」
 静かに呼ばれ、胸の高鳴りが一層ひどくなった。
 かわいくない、かわいくない……こんな夏侯覇殿は、とても。これじゃまるで。
「俺は男としてあなたが好きだ。あなたはどうなんだ? 俺のこと、男に見えてる?」
 はっ、と呼吸が乱れた。息を吸う。なぜか涙腺が緩んで、夏侯覇殿の顔をまともに見れない。
「も、もちろ……っ」
 勢い込んで、思わず咳き込んだ。
 勿論、と答えたかったが、実のところとても混乱している。男として見ているかと言われたって、困る。だって本当は。
「……あの、実は私、男性とお付き合いしたことがなくて……こんな時どうしたらいいのか」
 正直に打ち明けて、あまりの恥ずかしさに俯いた。手で覆いたかったけど、まだ夏侯覇殿に掴まれたままだ。
「え、それほんとか?」
 私の告白に彼は予想通り目を丸くした。ああもうやだ。年下の子に、自分の未熟な部分を告白することほど恥ずかしいことはない。
 夏侯覇殿はけれど、すぐには私の言葉を信じられない様子だった。
「ほ、ほんとにないの? 俺をからかっているんじゃないよな? 嘘じゃないよな? ほんとにほんとか?」
 なによもう、しつこい! ないったらないってば!
 内心でそう喚きながら、夏侯覇殿の執拗な問いかけに、こくこくと黙って頷いた。「マジかよ……ますますたち悪りぃ」と彼はぼやく。
 私は顔を見られるのが嫌になって、夏侯覇殿の肩口に顔を伏せた。彼の体が、びくりと震えた。
「あの……ナマエさん?」
「すみません、なんかもう、自分が情けなくて」
「……なんで謝るんだよ」
 訳が分からなくなって謝ると、憮然とした声が返ってきた。
「……夏侯覇殿のことはとても好きです」
 ピク、と彼の体が微震した。
「たぶん、男の方、としても」
 ぎゅ、と握られていた手に力が入る。
 夏侯覇殿の想いはとても嬉しい。でも正直、私がそれを受ける権利があるのだろうか。舞い上がって浮かれて、きっと最後に莫迦を見るのは私じゃないか。
 未来を知るのが怖い。ためらいは私の背中を引き止める。決して後押しなどしてくれない。
 後ろ向きな思いが私を支配して、きゅっと口を結んだ。深く息を吸い、顔を上げた。
「でも、それって多分きっと、おこがまし――」
「あーもういいから黙る!」
 と、ぐい、と顔が引っ張られ。
 ――夏侯覇どのの唇が。
「あっ」
 頬に、まぶたに、おでこに。
「か、かこうはどの――」
「しっ」
 くちびるに。
 そっと触れていく。羽のように柔らかに。生まれたての子犬のようにあたたかく。そして火に触れたように熱く。
 ――ああ、しんじられない。世の中にこんなに素敵なことがあるなんて!

「……どうだった? 嫌、だったか?」
 うっとりとして身を任せていると、耳元で囁かれる。私は高揚したまま、そっと夏侯覇殿を見上げた。
「あの、とても、……死にそうで幸せな気分です」
「それ、どっち」
 くすり、と彼が笑う。
 どっちもです、と私がへにゃりと笑うと、また唇を合わせた。


 そのまま二人で寝台に寝転がってごろごろし、暫くたった頃、不意に私が気になっていたことを尋ねた。
「あの、それで、私一体何されたんですか?」
「え、それ聞くの?」
 夏侯覇殿がぎくりとした様子で、肩を揺らす。横を見ると、視線をそらすように顔を背けられた。
「気になるじゃないですか」
「いいだろ別に」
 私は体を起こして夏侯覇殿の顔を覗き込んだ。
「良くないです。教えてください」
「……」
「ねえ、夏侯覇殿」
「……何も」
 ぼそり、と声が聞こえた。
「え?」
 と、バッと彼がこちらを振り向いた。真っ赤な顔で。
「何も出来るわけないだろ! 本人の了承もなしに!」
 ぽかん、と呆気にとられる。私が目を丸くしていると、夏侯覇殿は恥ずかしくなったのかまたそっぽを向いてしまった。だが、耳は赤いまま。
「……やだ、ほんと可愛い」
 くすり、と思わず笑ってしまうと、視界が反転した。いつの間に押し倒されたのやら、夏侯覇殿が上から覗き込んで悪戯っぽく笑っている。
「こら、そんなこと云う口は塞いじまうぞ」
「――お手柔らかにお願いします」
 私は微笑んで、可愛い人の頬に手をのばした。




***




 結局あの後、夏侯覇殿から改めて交際の申し込みをされた。断る理由がない私はそれをお受けし、彼はなぜかガッツポーズを取った。この期に及んでまさか断られるとでも思ったのかしら。
 とりあえず朝イチで、昨日心配をかけてしまった甄姫様の元へ挨拶に行くと、「昨晩はお楽しみでしたわねぇ」と甄姫様らしからぬ愉しげな様子で笑っていらした。

 その帰り道、待ち伏せをしていた元同僚にとっ捕まり、昨日の騒ぎから夏侯覇殿とお付き合いする仲になったまでのことを報告する羽目になった。
「ということで、夏侯覇殿とお付き合いすることになりました」
「やったじゃない!」
 と、手放しで喜んでくれる元同僚もいれば、
「うらやましい~! 夏侯覇様ったら将来有望な超エリートじゃない! どうやって釣ったのよナマエー?」
 と、ニヤニヤ笑いながら小突いてくる元同僚もいる。
「はぁ~、いいなー。私も早く素敵な旦那様がほしいわぁ」
「いえいえ旦那様はまだ流石に気が早いですって」
 私は苦笑いで、気の早い発言を否定した。
 ……しかし、どうやら噂は恐ろしいスピードで広がっているようだ。しかしあながち噂の内容が間違っていないから、否定のしどころが難しい。

 うーんと頭を抱えていると、元同僚が好奇心に満ちた目で尋ねてきた。
「ねえ、夏侯覇将軍ってどんなお人なの?」
「え? 夏侯覇殿ですか? とてもかわいい方です」
「ちょ、ナマエそれはw」
 私の発言に皆が一斉に草を生やし笑いをこらえたような表情になったが、私は気づかずうっとりと目を細めた。笑った顔、照れた顔、恥らった顔、すぐに思い起こせるのは全部可愛い顔ばかりだ。
「もう毎回毎回かわいくって、ほんとうにどうしたらいいのか私」
「やだこの人、のろけちゃって。誰かどうにかして~」
「ああ、あついあつい」
 元同僚の一人が、わざとらしく手をぱたぱたさせる。私は気にせず続けた。
「ああでも可愛いだけじゃなくて、とても頼りになる方でもあるんです。若い方の割に意外としっかりしていらっしゃるところとか、ほんと年下とは思えないくらい――」
 と、ふと思い出したように元同僚が。
「あら、あの方、あなたより確か年上だったはずよ?」
「――え」
「年上よ?」
 大事なことなので二回言われた。いやいや聞こえてますけど。
 完全に固まっている私の様子を見て、彼女は首をかしげた。
「……あら、知らなかったの?」
「――えええぇぇええええ!?」





「ど、どうしたんだよいきなり」
「申し訳ありませんでした」
 出会い早々、土下座を決めた私に夏侯覇殿は流石にたじろいでいた様だった。だが、私の心情的にここは引くわけにもいかないので、さらに額を床につけるように頭を下げた。申し訳ありませんでした、ともう一度繰り返す。
 夏侯覇殿は混乱した様子でしゃがみ込み、私の顔を覗き込んでくる。
「え、ちょ、えーと、ナマエさん? な、なんで謝ってのかなぁ?」
「……」
「ねえ、おーい、ナマエってば」
 私はぐっと口を引き結んだ。理由を云うべきなのはわかっているが、しかし口に出しにくい。
「……理由、いえねーの?」
「その……」
 ためらう私に、夏侯覇殿ははあとため息をついて、そっぽを向いた。
「じゃあ、許さない」
 予想外の冷たい声色に、私は慌てて顔を上げた。
「そんなっ! あの、云いますから云いますから!」
 と言ってから、夏侯覇殿のしたり顔にはっとなった。やられた。
「どうした? ほら、云うんだろ?」
 私はまた俯いたが、もちろんこのまま黙っているわけにはいくまい。恐る恐る口を開き、白状した。
「あの、ええと、私、今まで夏侯覇殿のこと……」
「うん」
「ずーっと、……年下の方だと思っていました」
 夏侯覇殿がぽかんとした。
「な……っ」
(怒られる――!)
 一瞬身構える、が。
「んだよそんなことかよ! ……別に気にすんなよ」
 ――え?
 ぽんぽんと頭をなでられる。気にしてないんですか、と呆気に取られて夏侯覇殿に尋ねると、いや気にしてないってこともないけど、と言葉を濁された。
 とりあえず土下座はやめたが、緊張の糸が切れたのかまだ立つことが出来ない。
「……あの、本当にすみませんでした」
「いやだからいいってば」
 何度目かの謝罪をすると、夏侯覇殿が苦笑いを浮かべた。彼の度量の深さに、じわじわと視界がにじむ。
「でも、私、夏侯覇殿を何度も年下扱いしてしまって、すごく失礼なことをしてしまいました」
「や、あの、別にいつも云われ慣れてることだしさぁ。……うん、いや、誤解してることは薄々気づいてたんだけど、なんか言い出しにくくて」
 夏侯覇殿が頬を掻きながら、照れ笑いを浮かべる。私はその言葉に衝撃を受けた。
 ――気を使われていた! 本当は自分が年上なのに、我慢して私のペースに合わせてくれたに違いない。改めて夏侯覇殿が不憫になって、がばっと頭を下げた。
「本当にご不快な思いをおかけして申し訳ありませんでしたー!」
「いや! いやいやいや、だから大げさだって!」
 と若干青くなった夏侯覇殿に慌てて顔を上げさせられる。それでもまだ私が落ち込んでいると、彼は仕方ないといった態で頭をがりがり掻いた。
 ため息をつき、手を差し出される。
「あーもう、ほら、立ってよ」
 おずおずとそれに手を出すと、ぐいと引っ張り上げられ、抱きしめられた。
「きゃっ」
 ぎゅう、としばし無言で抱きしめられる。彼は私の首元で深く息を吸っているようだった。
「あの、夏侯覇殿……?」
 恐る恐る声をかけると、いつもより低い声が耳元をくすぐる。
「……びっくりさせないでくれよな。付き合って早々別れ話でもされんのかと思ったよ」
「そんなこと!」
 びっくりして彼の顔を覗き込む。そこには困ったような笑みを浮かべる夏侯覇殿の表情が。……かわいい、なんて云ったら怒られるかしら。
「あの、驚かせてすみませんでした。……呆れました?」
「んーちょっとは……あ、いやいや全然!」
 反射的に眉根を寄せると、夏侯覇殿は慌ててご自分の言葉を訂正した。

「改めて、こんな私でもいいですか?」
「それは俺の台詞だよ。こんなちっさいおっさんだけどいいのか?」
 からかうように夏侯覇殿が笑う。私は頬を膨らませ、彼の胸元を叩いた。
「もう! そんなお年じゃないでしょう。からかわないでください!」
 ごめんごめん、と彼が微笑む。と、夏侯覇殿があまりに幸せそうに微笑むものだから、怒りを持続させることのなんと難しいことか。
 数拍後、つられて私も微笑んだ。
「夏侯覇殿」
「うん?」
「――不束者ですが、これからもよろしくお願いします」
「……ナマエそれ意味分かってる?」
 私の宣言に、夏侯覇殿が若干照れたような顔をする。
 なにかおかしかったかしら? と首を傾げると、彼が「こりゃ俺苦労するかなー」とぼやいた。
「夏侯覇殿?」
「まーいいや! こっちこそ末永くよろしくな!」
 パッと咲く、お日様のような笑顔。
 私は思わず、心の中で呟いた。

 ――ああほんと、とてもかわいいひと。







・オマケにならない会話(蜀時代編)
「――なーんてことがあって本当うちの奥さんかわいいよなぁそう思わない姜維!?」
「ああ、うん、そうですね」
「すっげ美人だしその上可愛いし、いやーマジ最高だろ!」
「……リア充爆発しろ」
「え」
「いやなんでも」